卓 庚鉉(たく・こうげん、タク・キョンヒョン、朝鮮語: 탁경… 卓 庚鉉(たく・こうげん、タク・キョンヒョン、朝鮮語: 탁경현、1920年6月5日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人、朝鮮人特攻隊員。日本名は光山文博。 1920年に慶尚南道で生まれ、京都府の立命館中学校、京都薬学専門学校を卒業する。1943年10月、特別操縦見習士官一期生に合格し、鹿児島県知覧にあった大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に赴任する。1944年10月には陸軍少尉に任官する。 1945年5月11日、戦闘機の隼にて出撃、沖縄飛行場西海面で戦死した。没後、二階級特進で大尉となった。 出撃の前日、富屋食堂の鳥濱トメに自身が朝鮮人ということを明かした上で、アリランを歌ったというエピソードが有名である。
住 栄作(住 榮作、すみ えいさく、1920年5月20日 -… 住 栄作(住 榮作、すみ えいさく、1920年5月20日 - 1986年12月20日)は、日本の内務官僚、海軍軍人(海軍主計大尉)、政治家(衆議院議員)。 法務大臣・建設政務次官・労働省職業安定局長などの要職を歴任し、富山職業訓練短期大学校・富山医科薬科大学の開設を推進した。自由民主党所属。住博司は実子。富山県魚津市出身。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章。 富山県の農家に生まれた。9人兄弟であったという。旧制魚津中学校から旧制富山高校に進学。魚津中在学中は陸上競技部に所属し5000mで活躍し、富山高校在学中は剣道部で活躍した。1940年、東京帝国大学法学部に入学。在学中に高等文官試験合格。1943年卒業。
南雲 克郎(なぐも かつろう、1920年〈大正9年〉5月20… 南雲 克郎(なぐも かつろう、1920年〈大正9年〉5月20日 - 2009年〈平成21年〉11月20日)は日本の陸軍軍人および陸上自衛官。陸士54期卒(歩兵)。最終階級は陸軍大尉、陸将補。 山形県米沢市出身。父は陸軍少将・満洲国軍中将の南雲親一郎。真珠湾攻撃などを指揮した海軍の南雲忠一大将は父の従弟とされ、本人も南雲大将の甥として紹介されている。 原隊は歩兵第7連隊。少尉任官後、62代連隊旗手を拝命する。 大戦末期に予科士官学校区隊長に発令され、1945年春より群馬県新鹿沢に疎開。食糧不足からニラやノビル、カエルやマムシを食するような状況で、営内に漂う悪臭に閉口していたという。 7月末より各中隊より選抜された60期~61期生徒50名を引率し、山形県飽海郡本楯村の海岸にて製塩作業中に終戦を迎える。
粟田 彰常(あわた あきつね、1920年〈大正9年〉5月13… 粟田 彰常(あわた あきつね、1920年〈大正9年〉5月13日 - 2006年〈平成18年〉8月30日)は、日本の皇族、華族、陸軍軍人。陸軍大将東久邇宮稔彦王の第3王子。母は、明治天皇第9皇女・聡子内親王。兄に盛厚王、師正王、弟に俊彦王がいる。階級は陸軍大尉、勲等は勲一等旭日桐花大綬章、爵位は侯爵。皇族時代は、彰常王(あきつねおう)と称された。 1920年(大正9年)5月13日、 東久邇宮稔彦王と同妃聡子内親王の第3男男子として生まれる。1940年(昭和15年)5月13日に皇族議員として貴族院議員となり、同年9月陸軍士官学校(54期)を卒業する。翌月の10月25日願による臣籍降下が認められ、昭和天皇から粟田の氏を賜り、侯爵の爵位を授けられ華族に列せられ貴族院議員の資格が消滅。
高村 武人(たかむら たけと、1920年(大正9年)4月12… 高村 武人(たかむら たけと、1920年(大正9年)4月12日 - 1998年(平成10年)10月18日)は、日本の陸軍軍人、実業家。山口県柳井市生まれ。 小林よしのりの「新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論」(1998年初版)でその生い立ち、戦歴が紹介された。 1935年(昭和10年)4月1日、 東京陸軍幼年学校 第39期生として入学。第3学年在学中の1937年(昭和12年)、日中戦争(支那事変)が勃発し、繰上げで11月19日に卒業。同年12月1日に陸軍予科士官学校へ入学した。1940年(昭和40年)9月、陸軍士官学校 第54期卒業。 陸士卒業と同時に久留米第56師団(竜兵団)に所属し南方パラオに動員後、各地を転戦。
景山 克三(かげやま かつみ、1920年4月1日 - 200… 景山 克三(かげやま かつみ、1920年4月1日 - 2008年9月16日)は、日本の機械工学者、海軍軍人(技術大尉)、日本大学理工学部名誉教授。学位は工学博士。専攻は機械工学。勲三等瑞宝章受章者。 1920年、福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。日本大学旧工学部(現・日本大学理工学部)卒業後、大日本帝国海軍技術士官として、航空発動機の製造に従事。戦後、日本大学の機械工学科に戻り、二輪車の研究で工学博士を取得(「二輪自動車の動力性能に関する研究」日本大学工学博士1961-3-31)。その後自動車の操縦性•安定性の研究に従事、(社)自動車技術会車両運動性能部門委員会委員長。後に同学会理事。1990年日本大学理工学部定年退職、名誉教授。
豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日… 豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日 - 1944年〈昭和19年〉8月5日)は、日本の海軍軍人、戦闘機搭乗員。最終階級は三等飛行兵曹。第57期普通科信号術練習生、丙飛7期卒業。 第二次世界大戦でのオーストラリアにおける日本兵捕虜第一号であり 、カウラ事件(日本兵脱走事件)の中心的人物でもある。 香川県三豊郡勝間村(三豊市高瀬町)出身。農家、豊島元兵衛とコマツの三男として生まれる。勝間尋常小学校(現三豊市立勝間小学校)、高等科、青年訓練所を経て戦闘機搭乗員を志し1938年(昭和13年)、佐世保海兵団に入団。普通科信号術練習生、長良乗組、陸戦隊、千歳・加賀乗組を経て、第五十六期操縦練習生に合格。
奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3… 奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3月19日 - 1995年(平成7年)3月17日)は、日本の会社経営者(三宅坂経営よろず相談所主宰、梁山泊・三宅坂倶楽部会長)、著述業、元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士53期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少佐、二等陸佐。旧名:奥田重武。 福島県会津若松市出身。奥田重栄少将の四男。ペンネームの「鑛一郎」は祖父の名で、家憲により1978年ごろ襲名した。 父の予備役編入に伴い京都市で育ち、京都府立第六中学より東京幼年学校を経て陸士53期卒。原隊は歩兵第9連隊。当時の第16師団長は石原莞爾であった。連隊旗手を拝命後、下志津陸軍飛行学校にて特別偵察学生としての訓練を受け、1941年6月、参謀本部課員として南方での空中偵察に従事。
宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日… 宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日 - 2008年〈平成20年〉10月24日)は、日本の華族、皇族、海軍軍人(皇族軍人)。階級は海軍技術大尉。多嘉王第2王子。皇族時代の名と身位は家彦王。1942年(昭和17年)に臣籍降下し、宇治伯爵家当主となる。 1920年(大正9年)3月17日午後5時35分、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 … 豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 - 1994年〈平成6年〉1月30日)は、日本の小説家、作家、海軍軍人。海兵68期。最終階級は海軍中尉。本名は豊田 稔(とよだ みのる)。 満州の四平街に生まれる。その後、郷里の岐阜県本巣郡穂積町(現・瑞穂市)へ戻り、1937年(昭和12年)3月、岐阜県立本巣中学校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)を卒業。 1937年(昭和12年)4月、海軍兵学校に入校。1940年(昭和15年)8月、卒業(68期)。同期に鴛淵孝、伴勝久、広尾彰、松永市郎、酒巻和男がいる。 1941年(昭和16年)4月、第36期飛行学生になる。12月8日、真珠湾攻撃が行われ、特潜で出撃した10名のうち、酒巻和男が捕虜となる。
栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27… 栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27日 - 2004年〈平成16年〉7月19日)は、日本の内務官僚、海軍軍人及び陸上自衛官。第13代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 呉第一中学校、第一高等学校を経て1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験(高文)行政科に首席で合格し内務省に入省するが、短期現役海軍法務科士官を志願し帝国海軍へ。南方戦線へ従軍し、海軍法務大尉として1945年(昭和20年)8月の終戦を迎える。終戦後も、現地で戦犯の特別弁護人を務め、復員が1948年(昭和23年)まで遅れた。 復員後は官僚に戻らず、弁護士となったが、1950年(昭和25年)に総理府事務官となり、1951年(昭和26年)9月、警察予備隊(保安隊を経て陸上自衛隊)に入隊し、警察士長(陸軍少佐・三等陸佐に相当)に任じられる。
井上 正治(いのうえ まさはる、1920年2月11日 - 1… 井上 正治(いのうえ まさはる、1920年2月11日 - 1997年12月18日)は、日本の海軍軍人、法学者。専門は刑事法学。過失犯理論等を研究。法学博士(九州大学・1950年)。九州大学名誉教授。福岡県出身。 福岡県宗像市生まれ、山口県下関市育ち。旧制山口県立下関中学校、旧制福岡高等学校を経て、九州帝国大学進学。1942年、九州帝国大学法文学部卒業、高等文官試験司法科合格。1950年、法学博士(九州大学)。 海軍入営。最終階級は海軍法務大尉。1946年、九州帝国大学法文学部講師。1948年、九州大学法文学部助教授、1951年、同法教授。1953年、広島大学政経学部教授兼務、1967年第30代九州大学法学部長。
近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 20… 近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 2010年6月30日)は、日本の海軍軍人・大蔵官僚、実業家。国税庁長官を経て博報堂代表取締役社長を務めた。1982年聖シルベストロ騎士勲章、1992年勲一等瑞宝章、1993年日本宣伝賞大賞を受賞。 神奈川県小田原市出身。旧制小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、旧制武蔵高校を経て、1942年7月に高等試験行政科に合格、同年9月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入省して理財局に配置される。高等試験は100番前後で入省成績も相澤英之が最下位で近藤がブービーだといわれていた。入省直後に海軍経理学校補修学生、海軍主計見習尉官(短期現役組(短現組)9期)となる。
鄭 煕燮(チョン・ヒソプ、朝鮮語: 정희섭、1920年2月1… 鄭 煕燮(チョン・ヒソプ、朝鮮語: 정희섭、1920年2月1日 - 1987年10月26日)は、大韓民国の官僚、医師、政治家、陸軍軍人。初代労働庁(現・雇用労働部)長、第9・12代保健社会部(現・保健福祉部)長官、第9・10代韓国国会議員などを歴任した。キリスト教徒。 日本統治時代の平安南道平原郡(現・朝鮮民主主義人民共和国領)出身。崇実中学校、平壌医学専門学校(現・平壌医科大学)卒業。1943年に卒業後は医師となり、中国の河南省、浙江省の病院に勤務した。開封の河南医院勤務中に韓国光復軍徴募第3分処と内通し、徴募などの地下活動に協力していた。光復後に帰国し、ソウルで開業医として活動した。 1954年、長崎医科大学(現・長崎大学)で医学博士学位を取得した。
広尾 彰(ひろお あきら、1920年(大正9年)1月14日 … 広尾 彰(ひろお あきら、1920年(大正9年)1月14日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」艇長として真珠湾攻撃に参加し、戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍大尉。 佐賀県三養基郡旭村(現在の鳥栖市)出身。父は小学校の校長を勤める教育者であった。佐賀県立三養基中学校(現在の佐賀県立三養基高等学校)を経て、 海軍兵学校入校。広尾は海兵68期で豊田穣、酒巻和男、鴛淵孝らが同期生で、松永市郎は中学同窓であった。 1940年(昭和15年)8月卒業。特殊潜航艇(以下「特潜」 )搭乗員に選抜され訓練を受ける中、真珠湾攻撃に「特潜」の参加が決定し、広尾は5人の艇長の一人として選抜された。
志位 正二(しい まさじ、1920年1月1日 - 1973年… 志位 正二(しい まさじ、1920年1月1日 - 1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。 終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。
緩詰 修二(ゆるづめ しゅうじ、1920年 – 没年不明)は… 緩詰 修二(ゆるづめ しゅうじ、1920年 – 没年不明)は、日本の大日本帝国陸軍軍人。実業家。日本繊維新聞代表取締役社長を務めた。 福井県遠敷郡口名田村(現・小浜市)に生まれる。明治大学専門部を経て、1941年3月、歩兵第119連隊に入営して兵科甲種幹部候補生に採用され、豊橋予備士官学校を経て見習士官となる。1942年12月に陸軍歩兵少尉に任官した。[要出典] 1943年12月に歩兵第119連隊の第3歩兵砲小隊長に任命される。1944年1月にシンガポールに上陸した後、2月にマレーへ移駐。同月28日、事故の責任を取って自殺した前任者に代わり機動砲小隊長に任じられた。[要出典]5月にビルマに入る。
檜 與平(ひのき よへい、1920年 - 1991年、桧 与… 檜 與平(ひのき よへい、1920年 - 1991年、桧 与平)は、日本の陸軍軍人。戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少佐。徳島県出身。
高井 太郎(たかい たろう、1920年(大正9年) - 20… 高井 太郎(たかい たろう、1920年(大正9年) - 2010年(平成22年)1月23日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵70期。岐阜県出身。 海軍兵学校卒業後すぐに実戦配備となり測的士として「古鷹」に乗組となり第一次ソロモン海戦を経験する。サボ島沖海戦で「古鷹」が撃沈されるも「初雪」に救助される。その後「雪風」乗組となりケ号作戦に参加、ガダルカナル島撤退作戦において陸兵輸送を行う。撤退作戦が終わると一度は内地に戻され横須賀鎮守府付となるが、本人の希望もあり見張分隊長として「瑞鶴」乗組を命ぜられマリアナ沖海戦などを歴戦する。レイテ沖海戦にて「瑞鶴」が撃沈されると、4時間にわたる漂流ののちまたも僚艦に救助される。
武田 光雄(たけだ みつお、1920年 - 2006年2月1… 武田 光雄(たけだ みつお、1920年 - 2006年2月14日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。最終階級は海軍大尉。 1920年(大正9年)、東京市にて、豊田貞次郎の次男として生まれる。のち、跡取りのいなかった母方の祖父・武田秀雄(海軍機関中将)の養子となる。黄海海戦に参加した祖父は、幼少期の光雄に多大な影響を与えた。 東京高等師範学校付属中学卒業後の1938年(昭和13年)、海軍兵学校に70期として入校。海兵68期の酒巻和男とは分隊が同じだった。1941年(昭和16年)11月15日、海兵70期は繰上げ卒業することとなり、練習航海や天皇への拝謁もなく、直ちに実戦部隊に配属された。武田が配属されたのは、祖父が手がけた巡洋艦「青葉」の水雷士だった。
石井 卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 195… 石井 卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 1950年5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにベトナム独立戦争に参加して戦没。グエン・ソン将軍の軍政顧問。クァンガイ軍政学校教官。トゥイホア陸軍中学教官。ベトナム独立戦争時には、「花谷」「チャン・チ・ズン(陳志勇)」「トン」を名乗った。
横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月… 横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月8日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍少佐。岩田豊雄(獅子文六)の小説「海軍」及びこれを原作とした映画「海軍」の主人公・谷真人のモデル。
松平 乗武(まつだいら のりたけ、1919年(大正8年)10… 松平 乗武(まつだいら のりたけ、1919年(大正8年)10月26日 - 1945年(昭和20年)5月29日)は、日本の海軍軍人(海軍大尉)。岩村松平家9代当主・子爵松平乗長の次男。10代当主・松平乗文の弟。鷹司家28代当主・鷹司尚武の父。妻は鷹司信輔の次女・章子(ふみこ)。 学習院高等科、京都帝国大学経済学部卒業。1942年(昭和17年)9月、海軍予備学生となり、東港海軍航空隊に入隊。1943年(昭和18年)4月、海軍機雷学校に入校。1945年(昭和20年)2月20日、海軍対潜学校特修科学生となり、5月29日、総合実習のため附属艇第一敷設艇(曳船公称第七七六号)に乗船し、千葉県安房郡富崎村(現・館山市)布良沖を航行中、アメリカ軍のB-24機と交戦し、左舷に至近弾を受けて沈没、戦死。
鴛淵 孝(おしぶち たかし、1919年(大正8年)10月22… 鴛淵 孝(おしぶち たかし、1919年(大正8年)10月22日 - 1945年(昭和20年)7月25日戦死認定)は日本の海軍軍人。海兵68期。戦闘機搭乗員である。戦死による一階級進級で最終階級は海軍少佐。 1919年(大正8年)10月22日、長崎県長崎市で医者の家に生まれる。妹思いの兄であり、妹の光子にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のレコードをプレゼントしたり、妹思いな手紙も送っている。 旧制長崎中学校を経て、1937年(昭和12年)4月、海軍兵学校68期に入校。同期の豊田穣は鴛淵の戦記『蒼空の器―撃墜王鴛淵孝大尉』を執筆している。1940年(昭和15年)8月7日卒業、鴛淵は香取乗組となり、練習航海を行う。
宮崎 勇(みやざき いさむ、宮﨑 勇、1919年(大正8年)… 宮崎 勇(みやざき いさむ、宮﨑 勇、1919年(大正8年)10月5日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。太平洋戦争における撃墜王。
佛坂 泰治(ぶっさか やすはる、1919年10月 - 201… 佛坂 泰治(ぶっさか やすはる、1919年10月 - 2019年9月1日)は、日本海軍の軍人(軍医)、医師。坊ノ岬沖海戦時の駆逐艦雪風軍医長として知られる。 1919年、佐賀県に生まれる。父が医師であった影響で医の道に進み、1936年(昭和11年)に九州医学専門学校(現久留米医大)に入学。卒業後、海軍に親戚がいたことから海軍軍医少尉として任官した。海軍砲術学校、海軍軍医学校普通科で学んだ後、海軍工廠に配属された。 その後、重巡洋艦鳥海、駆逐艦朝潮などでの勤務を経て、1944年に一旦内地に配属(佐世保海軍病院)になったが、1945年に第十七駆逐隊の軍医長として駆逐艦「雪風」 に乗組、戦艦「大和」に随伴し沖縄に向かったが、大和が沈没するなど艦隊は壊滅したため、大和及び沈没した随伴艦の生存者などの救助、治療を行った。
中村 悌次(なかむら ていじ 、1919年(大正8年)9月2… 中村 悌次(なかむら ていじ 、1919年(大正8年)9月24日 - 2010年(平成22年)7月23日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵67期首席。第11代海上幕僚長。最終階級は、帝国海軍では海軍大尉、海自では海上幕僚長たる海将(海軍大将に相当)。京都府出身。 1980年代以降の海上自衛隊とアメリカ海軍の緊密な関係を作り上げた海上自衛隊中興の祖の一人。三重県立津中学校四年修了時に海軍兵学校を受験し合格した。海軍兵学校第67期を首席で卒業し、遠洋航海に出る。なお、67期が遠洋航海をした最後の期となる。重巡洋艦「高雄」乗組みを経て駆逐艦「夕立」に水雷長として乗組む。スラバヤ沖海戦では水雷長として魚雷発射の指揮をとり敵艦に向け魚雷を8本発射するが、発射した魚雷のうち半分が目の前で自爆し、敵艦には1発も当たらず悔しい思いをしている。
飯村 繁(いいむら しげる、1919年〈大正8年〉9月 - … 飯村 繁(いいむら しげる、1919年〈大正8年〉9月 - 1993年〈平成5年〉1月6日)は、日本の元軍人、外交官。陸士53期卒(山砲)。最終階級は陸軍少佐。戦後は在ポーランド・在フィンランド大使館附書記官、内閣調査室調査官、官房会計課予算経理官を歴任した。父は陸軍中将で総力戦研究所所長の飯村穣、岳父は同じく陸軍中将で参謀次長の沢田茂。子は元駐仏大使の飯村豊。 東京府出身。飯村穣・光子の長男。幼少期は大戦の軍需景気に伴うインフレで電気代やガス代も払えないほど生活は困窮しており、休日の食事は白米のみという有様で、姉妹三人は茨城県の父の実家に預けられていた。 麻布中学より東京陸軍幼年学校に転じ、陸軍士官学校を53期生として卒業。
尾崎 中和(おざき なかかず、1919年8月9日 - 194… 尾崎 中和(おざき なかかず、1919年8月9日 - 1943年12月27日)は、日本陸軍の軍人。戦死後、二階級特進し陸軍中佐。 水戸藩家老に連なる海軍中佐・尾崎貴信の二男として長崎県佐世保市で生まれる。出身地は東京市四谷区若葉町。東京府立一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1940年6月、陸軍航空士官学校(53期)を卒業。航空兵少尉任官。明野陸軍飛行学校学生。 1940年10月、飛行第33戦隊付になり、1941年3月、太刀洗飛行学校教官、8月に中尉任官。1942年10月から1943年4月にかけて明野飛行(甲)学生、同じく同年4月から飛行第25戦隊第二中隊長に着任。同年12月に大尉。
中林 仁良(なかばやし ひとよし、1919年(大正8年)6月… 中林 仁良(なかばやし ひとよし、1919年(大正8年)6月25日 - 2007年(平成19年)7月15日)は、日本の実業家、軍人。百貨店「丸物」社長、京都近鉄百貨店会長・取締役 相談役、旧 近鉄百貨店取締役 相談役などを歴任した。父は丸物(京都物産館)創業者の中林仁一郎。 1919年(大正8年)6月25日、中林仁一郎の長男として生まれる。父・仁一郎は弟(仁良の叔父)・谷政二郎と東本願寺から現在の京都ヨドバシ東南隅に当たる場所を借り、仁良が生まれた翌年に京都物産館を創業したが、中林一家はその隣の家に住んでいた。仁良は京都物産館の北側にあった空き地を突っ切って幼稚園へ通った。慶應義塾大学経済学部に入学して大学時代は東京で過ごしたが、この頃麴町に丸物の東京出張所があったという。
安 東濬(アン・ドンジュン、朝鮮語: 안동준、1919年5月… 安 東濬(アン・ドンジュン、朝鮮語: 안동준、1919年5月15日 - 2010年11月16日)は、大韓民国の陸軍軍人、政治家、教育者。陸軍大領、第3・5・6・7代韓国国会議員、国際観光公社(現・韓国観光公社)総裁などを歴任した。 本貫は順興安氏(朝鮮語版)、号は中山(チュンサン、중산)。儒教の信者。 日本統治時代の忠清北道槐山郡出身。牧渡公立普通学校(現・牧渡初等学校(朝鮮語版))、清州公立農業学校(現・清州教育大学校)を経て、1942年中央大学法科卒。1944年中央大学大学院研究科修了。1948年陸軍士官学校第7期卒。1949年陸軍参謀学校、1952年陸軍大学、1953年アメリカ合衆国陸軍歩兵学校卒。
奥山 道郎(おくやま みちろう、大正8年(1919年)4月1… 奥山 道郎(おくやま みちろう、大正8年(1919年)4月10日 - 昭和20年(1945年)5月24日) は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士53期。義烈空挺隊長。三重県出身。 陸軍砲兵中佐・奥山春次郎(陸士18期)の長男として神奈川県で出生。 千葉中学(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)、津中学(現:三重県立津高等学校)を経て、東京陸軍幼年学校に入校。
肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年… 肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年)3月21日 - 2012年(平成24年)9月12日)は、元大日本帝国海軍軍人、海上自衛官。海兵第67期卒業。第9代航空集団司令官(海将)。 鹿児島県鹿児島市生まれ、日置郡串木野村(後の串木野町、串木野市、合併によりいちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)から、1936年(昭和11年)に海軍兵学校入学。1939年(昭和14年)7月25日、海軍兵学校(第67期)卒業。任海軍少尉候補生、「八雲」乗組。兵学校同期には中村悌次(元海上幕僚長)がいた。
太田 敏夫(おおた としお、1919年(大正8年)3月20日… 太田 敏夫(おおた としお、1919年(大正8年)3月20日 - 1942年(昭和17年)10月21日)は日本の海軍軍人。太平洋戦争における撃墜王。最終階級は海軍飛行兵曹長。 1919年(大正8年)、長崎県の農家に生まれる。軍に入ってから弟の中学学費の仕送りを続ける、家族思い、親孝行の好青年であった。1935年(昭和10年)、佐世保海兵団に入団。戦艦金剛勤務を経て、1939年(昭和14年)1月、第46期操縦練習生課程修了。1941年(昭和16年)6月、十二空に配属。漢口に進出するが、戦闘の機会はなかった。 1941年(昭和16年)10月、台湾の台南基地に新設された台南海軍航空隊(以下、台南空)に配属。
松永 市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月1… 松永 市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月18日 - 2005年(平成17年)3月31日)は、日本の軍人。元海軍大尉。作家。 父は海軍中将松永貞市、子にiモード開発者の松永真理がいる。
朴 忠勲(パク・チュンフン、朝鮮語: 박충훈 / 朴忠勳、P… 朴 忠勲(パク・チュンフン、朝鮮語: 박충훈 / 朴忠勳、Park Choong-hoon、1919年1月19日 - 2001年3月16日)は、大韓民国の商工官僚、軍人、政治家を務めた人物である。本貫は密陽朴氏。 全羅南道済州郡(現在の済州特別自治道)出身。京城第一公立高等普通学校、日本の同志社高等商業学校をそれぞれ卒業後、韓国へ帰って大韓民国陸軍歩兵学校(朝鮮語版)を卒業した。 大韓民国空軍軍人として国防部経理局長などを務め、1961年に空軍少将を最後に予備役へ編入となり軍を離れた。予備役編入後に商工部に転じ、貿易局長、次官を歴任。 1963年に朴正煕大統領による第三共和制政権が発足すると商工部長官に就任し、張基栄(朝鮮語版)国務副総理とコンビを組み、大韓民国経済の市場自由化や輸出政策振興に取り組んだ。
来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年… 来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年2月17日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍技術少佐。 外交官である父・来栖三郎と、アメリカ人である母・アリスの三兄弟の長男としてアメリカのシカゴに生まれる。アメリカ滞在時は、「ベア」の愛称で呼ばれていた。1927年(昭和2年)に日本に帰国し、暁星中学校を経て、1937年(昭和12年)に横浜高等工業学校(現:横浜国立大学工学部)に入学。高工時代はラグビー部のキャプテンを務めていた。1940年(昭和15年)3月に同校機械科を繰上げ卒業し、翌4月に川西航空機に入社した。 その白人の血が色濃く出た混血ゆえに、普段から強い偏見やいじめに遭っていたが、高工時代や陸軍将校時代はその人柄の良さも相まり、周りから容貌について揶揄されることは無く、本人も弱音を漏らす事は少なかった。
帆足 正音(ほあし まさと、1919年(大正8年)1月8日 … 帆足 正音(ほあし まさと、1919年(大正8年)1月8日 - 1942年(昭和17年)3月15日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍予備中尉。マレー沖海戦においてイギリス艦隊を発見した偵察機の機長である。 大分県玖珠郡森町(現・大分県玖珠郡玖珠町)出身。父は浄土真宗本願寺派・鷹巣山光林寺の住職である。龍谷大学専門部に入学し、1938年(昭和13年)1月から、1940年(昭和15年)3月まで海軍予備航空団で飛行訓練を受ける。大学を卒業し僧侶の資格を得た後、海軍航空予備学生となり霞ヶ浦海軍航空隊へ入隊。1941年(昭和16年)4月、訓練終了と共に予備少尉に任官した。同日充員召集を受け、木更津海軍航空隊附となる。
宮辺 英夫(みやべ ひでお、1919年1月 - 1978年1… 宮辺 英夫(みやべ ひでお、1919年1月 - 1978年10月)は、日本の陸軍軍人、パイロット。 最終階級は陸軍少佐。加藤隼戦闘隊の最後の戦隊長として知られる。 熊本県に生まれる。1936年(昭和11年)に旧制玉名中(熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、1939年(昭和14年)に陸軍士官学校を52期で卒業。 陸軍士官学校卒業後、明野陸軍飛行学校へ進み、卒業後は飛行第5戦隊へ配属。その後、明野陸軍飛行学校教官となる。1943年(昭和18年)2月に飛行第六十四戦隊(いわゆる加藤隼戦闘隊)第2中隊長関二郎大尉が戦死したことに伴い、第2中隊長になる。 1945年(昭和20年)4月26日には飛行第六十四戦隊戦隊長となり、クラコール飛行場にて終戦を迎えた。
酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8… 酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人、後にビジネスマン。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となる。最終階級は海軍少尉。 徳島県阿波郡林村(現:阿波市)で、8人きょうだいの次男に生まれた。徳島県脇町中学校を経て1940年(昭和15年)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)した。同期生に豊田穣、広尾彰がいる。その後、日本海軍に入隊した。 太平洋戦争(大東亜戦争)における第一撃として、日本海軍は日本時間の1941年(昭和16年)12月8日、米領ハワイのオアフ島真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊や周辺の軍事基地に対する奇襲(真珠湾攻撃)を実施。
小野 義一郎(おの ぎいちろう、1918年〈大正7年〉11月… 小野 義一郎(おの ぎいちろう、1918年〈大正7年〉11月2日 - 2007年〈平成19年〉11月4日)は、日本の実業家、工学者、陸軍軍人。工学博士(京都大学・1970年)。小野測器創業者。 1918年、日本統治下の朝鮮半島平安北道新義州(現在の朝鮮民主主義人民共和国新義州市)に生まれる。旅順工科大学予科、旅順工科大学電気工学科卒業。1942年4月、陸軍兵技中尉任官。最終階級陸軍技術大尉で終戦を迎える。 戦後、1954年、小野測器製作所を設立。1957年、会社を株式会社に改組し社長に就任。1970年11月24日、京都大学工学博士(論文博士、機械工学科)。1983年、「微小角変位のディジタル変換とそのトルク計への応用」で、計測自動制御学会技術賞を受賞。
鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月… 鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月26日 - 2000年〈平成12年〉8月14日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第66期)。第10代海上幕僚長、第9代統合幕僚会議議長。 鹿児島県川辺郡東加世田村(のち万世町、加世田市、現南さつま市)出身。旧制第一鹿児島中学四年修了後、海軍兵学校に入校。海軍時代は艦攻のパイロットであり、飛行学生を首席で卒業。開戦から約7ヶ月は空母「龍驤」に乗組み、ダッチハーバー空襲等の作戦に参加。しかし、その後は陸上勤務で、海軍航空技術廠ではテストパイロットとして水平爆撃用の照準器や反跳爆弾の研究を続け、最後は陸上攻撃機「連山」の開発にも加わった。
角田 和男(つのだ かずお、1918年(大正7年)10月11… 角田 和男(つのだ かずお、1918年(大正7年)10月11日 - 2013年(平成25年)2月14日)は、日本の海軍軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。太平洋戦争(大東亜戦争)における撃墜王。乙飛5期。最終階級は海軍中尉。 1918年(大正7年)10月11日、千葉県安房郡豊田村(現南房総市)で農家の次男として生まれた。 1924年(大正13年)、父が死亡。不況もあって家は貧しかった。1933年、高等小学校2年時に海軍予科練習生を受験して不合格となるが、国語の点数が足りないだけなので徴募官の大佐から来年の再受験を勧められ、卒業後、実家の農業を手伝いながら浪人生活を送り、翌年合格。 1934年(昭和9年)6月、晴れて予科練5期生(乙種飛行予科練習生)に入隊して横須賀空予科練習部にて訓練を受ける。
小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 … 小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 - 1976年(昭和51年)8月1日)は、日本の医師、医学博士、教育者、大日本帝国陸軍軍医。
伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 -… 伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇「甲標的」艇長としてシドニー湾攻撃に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 伴は愛知県で材木店を営む家の三男として生まれた。父は日露戦争で個人感状、功六級を授けられた陸軍軍曹である。海辺に近く、家業のため馬が身近にいる環境で成長した伴は、活発な幼少期を過ごし、水泳、乗馬を得意としていた。進学した刈谷中学では、サッカー選手であった。中学5年での海兵受験には失敗したが、1年の浪人生活のすえ、海兵と陸士に合格し、海兵進学を選択した。伴は16年ぶりの300人クラスであった海兵68期生であったが、最上級生の海兵65期は鉄拳で68期を鍛え上げ、豊田穣によれば68期は「土方クラス」と呼ばれるようになった。
中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日… 中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日 - 1942年(昭和17年)2月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。最終階級は一等飛行兵曹、2階級特進により、飛行特務少尉。いわゆるエース・パイロットと呼ばれる撃墜王(撃墜数18)。 1918年(大正7年)、徳島県徳島市生まれ。1934年(昭和9年)6月1日、「第5期飛行予科練習生」(乙飛)を志願し横須賀海軍航空隊に入隊。 1938年(昭和13年)3月、飛行練習生課程を修了し三空曹昇進、大村海軍航空隊に配属された。同年末、第14航空隊に配属。日中戦争(支那事変、日華事変)に出動するが空戦の機会はなかった。その後横須賀航空隊に移る。
田中 徹雄(たなか てつお、1918年2月22日 - 昭和5… 田中 徹雄(たなか てつお、1918年2月22日 - 昭和54年(1979年)12月21日)は、日本の陸軍軍人(大尉)、地方公務員。山梨県副知事。 山梨県出身。上海の東亜同文書院を出て、南満州鉄道本社に勤めているうちに応召となり、日中戦争に参加した。 戦後、上海連絡班として中国に残った。総連絡班長は南京にいた今井武夫少将である。昭和21年(1946年)12月に上海発の最後の引揚船に今井少将たちと乗船し、翌月日本に帰国した。その直前に上海に拘束されていた嵯峨浩(満州国皇弟・溥傑夫人)・愛新覚羅嫮生母娘を救出した。 引揚後、郷里の山梨県庁に勤務し、のちに副知事まで務めた。1967年の第31回衆議院議員総選挙で山梨県から自民党公認で立候補したが落選した。
カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918… カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918年2月21日 - 2005年11月24日)は、アメリカ合衆国の軍人。連合国軍占領下の日本において、ダグラス・マッカーサーの個人通訳を務め、昭和天皇と一人で謁見した唯一の日系2世として知られる。 また、樫葉章(英語版)付きの青銅星章をはじめとして、アメリカ従軍記章、アジア・太平洋従軍章(英語版)、進駐軍記章(英語版)、第二次世界大戦戦勝記念章、戦闘歩兵バッジ(英語版)、朝鮮従軍記章(英語版)、国土防衛従軍章、国連朝鮮戦争従軍章(英語版)、予備軍年功記章(英語版)、キャリア・インテリジェンス・メダル(英語版)など、全部で11の勲章を授与された。
黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17… 黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17日 - 1965年(昭和40年)12月5日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。日本陸軍航空隊で戦闘機操縦者として日中戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争で多数の空戦に参加して、エースパイロットの一人となった。航士50期。最終階級は、日本陸軍では陸軍少佐、戦後に奉職した航空自衛隊では1等空佐。 鹿児島県日置郡中伊集院村(現:日置市)にて、陸軍砲兵大尉・黒江敬吉の四男として生まれる。伊集院中学を経て陸軍士官学校予科(後の陸軍予科士官学校)に進んだ。日本統治時代の朝鮮の平壌における飛行連隊での隊附勤務を経て、1938年(昭和13年)6月に陸軍航空士官学校(航士)卒業・航空兵少尉任官(航士50期)。
笹井 醇一(ささい じゅんいち、1918年(大正7年)2月1… 笹井 醇一(ささい じゅんいち、1918年(大正7年)2月13日 - 1942年(昭和17年)8月26日)は、日本の海軍軍人。海兵67期。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少佐。太平洋戦争におけるエース・パイロット。