丸尾 充(まるお みつる、1948年11月15日 - 201… 丸尾 充(まるお みつる、1948年11月15日 - 2016年6月4日)は、日本の元バスケットボール選手。元日本バスケットボールリーグ理事長。元日鉄住金鋼管社長。 1967年、静岡県立静岡高等学校卒業。慶応義塾大学商学部を卒業後の1971年、住友金属工業に入社。 大学1年からレギュラーとして活躍。大学3年の春、関東大学トーナメント大会で優勝。大学4年の1970年には、ユニバーシアードトリノ大会に日本代表選手として出場。1971年から1985年まで東南アジア、オーストラリアなど海外に遠征し、住友金属工業バスケットボール部で日本リーグ、オールジャパンに各4回計8回優勝。 2008年、日鉄住金鋼管社長に就任。
宗田 研二(そうだ けんじ、1948年2月12日 - )は、… 宗田 研二(そうだ けんじ、1948年2月12日 - )は、山形県新庄市出身の元バスケットボール選手である。 中央大学から日本鋼管に入社。日本リーグ4連覇に貢献し、1970年にベスト5選出。 全日本にも選ばれ、1967年世界選手権、1972年ミュンヘンオリンピックなどにも出場。 1970年アジア競技大会では相手選手に顔にツバをかけられて、殴ってやろうと思ったが、手を出さなかった。
阿部 成章(あべ しげあき、 (1947-09-22) 19… 阿部 成章(あべ しげあき、 (1947-09-22) 1947年9月22日(78歳) - )は、山形県鶴岡市出身の元バスケットボール選手である。山形県加茂水産高校、日本体育大学卒業。ポジションはガード。 加茂水産高校から日本体育大学を経て、日本鉱業に入社。 入社一年目の第4回日本リーグでは、MVPこそ日本鋼管の谷口正朋に譲ったが、ベスト5・新人王・得点王とタイトルを総なめした。その時に手が届かなかったMVPも日本鉱業の日本リーグ初優勝時(第4回)に獲得している。日本リーグのベスト5は第4回大会から第8回大会まで5年連続獲得している。 全日本としてミュンヘンとモントリオールの五輪2大会に出場、モントリオールでは主将を務め、準決勝リーグのプエルトリコ戦で34点を叩き出した。
服部 信雄(はっとり のぶお、1947年7月19日 - )は… 服部 信雄(はっとり のぶお、1947年7月19日 - )は、日本の元バスケットボール選手である。 立教大学卒業。日本鋼管では1971年に日本リーグ4連覇達成とともにベスト5に選出。 全日本にも選ばれ、1967年世界選手権、1972年ミュンヘンオリンピックなどにも出場。 娘である服部梨絵も代表歴のあるバスケットボール選手。
奥野 俊一(おくの しゅんいち、1947年2月23日 - )… 奥野 俊一(おくの しゅんいち、1947年2月23日 - )は、宮崎県出身のバスケットボール指導者、解説者。 福岡市立多々良中学校でバスケを始め、長崎西高校、東京教育大学でポイントガードとして活躍。大学では主将も務めた。 卒業後、長崎東高校のコーチや大学院でコーチ学を学び、修了後は東芝男子、第一勧銀女子などで指揮を執る。 1989年にはケンタッキー大学へコーチ留学。一方で、全日本男子のコーチも務め、1990年にはヤングメンアジア選手権優勝に導く。 現在はNHKのNBA解説と普及活動を務めている。 2011年にプロバスケットボールチーム「ライジング福岡」のオーナー代行兼GM、2012年からは社長に就任したがその後退任した。
杉田 勝彦(すぎた かつひこ、1946年5月8日 - )は、… 杉田 勝彦(すぎた かつひこ、1946年5月8日 - )は、日本の元バスケットボール選手である。 大阪商業大学から松下電器に入社。1972年日本リーグではベスト5に選ばれる。 全日本にも選ばれ、1972年ミュンヘンオリンピックなどに出場。
谷口 正朋(たにぐち まさとも、1946年2月6日 - 20… 谷口 正朋(たにぐち まさとも、1946年2月6日 - 2021年5月3日)は、日本の元男子バスケットボール選手である。サウスポーシューター。ミュンヘンオリンピック日本代表。 中央大学杉並高等学校(現:中央大学附属高等学校)でバスケを始め、3年次に全日本に選ばれ、世界選手権に出場した。 その後中大に進み、4年次にはインカレ優勝に貢献する。 卒業後、日本鋼管に入社。チームの日本リーグ4連覇などタイトルに多大に貢献し同年の第4回日本リーグでは初代MVPなど個人タイトルも獲得。1970年のユニバーシアードでは旗手を務めた。 1972年ミュンヘンオリンピックに主将として出場。チームは14位の成績に終わったものの得点王を獲得した。
五十嵐 清次(いがらし せいじ、1946年 - 2003年9… 五十嵐 清次(いがらし せいじ、1946年 - 2003年9月2日)は、日本の元バスケットボール選手である。東京都出身。 全日本の一員として1967年世界選手権に出場した。
千種 信雄(ちぐさ のぶお、1945年10月20日 - )は… 千種 信雄(ちぐさ のぶお、1945年10月20日 - )は、日本の元バスケットボール選手である。 育英高校から大阪商業大学に進学し、卒業後は住友金属に入社しシューターとして活躍。 全日本のメンバーとしてミュンヘン・モントリオール五輪に2大会連続で出場。 日本リーグでは3度の優勝に貢献し、第9回(1975)と第11回大会(1977)でベスト5に選出されている。 国内屈指のシューティング技術を持ち、1975年に行われた全日本のポートランド遠征で、 NBAのポートランド・トレイルブレイザーズから誘われた程の実力である。 引退後は指導者に転じ、籠球団休部時の監督も務めていた。 その後は住友金属の北陸支社長などを務める。
深津 泰彦(ふかつ やすひこ、1945年1月8日 - )は、… 深津 泰彦(ふかつ やすひこ、1945年1月8日 - )は、日本のバスケットボール選手、労働運動家、実業家。トヨタ自動車労働組合書記長や、トヨタアドミニスタ代表取締役社長、東京トヨタ自動車代表取締役会長、日本バスケットボール協会会長等を歴任した。 愛知県出身。安城市立安城西中学校、愛知県立安城高等学校を経て、名古屋大学卒業。トヨタ自動車男子バスケットボール部選手を経て、1979年トヨタ自動車労働組合副委員長。1982年トヨタ自動車労働組合書記長。トヨタ自動車常務取締役を経て、2003年トヨタアドミニスタ代表取締役社長。2007年東京トヨタ自動車代表取締役会長。2008日本バスケットボール協会副会長。
平山 輝武(ひらやま てるたけ、1944年3月27日 - )… 平山 輝武(ひらやま てるたけ、1944年3月27日 - )は、茨城県出身の元バスケットボール選手・指導者。身長175cm。ポジションはガード。「シュートマシン」の異名を持つ。現役当時は3点シュートがなかった。ミスターバスケットの諸山文彦とは日本大学時代および日本鋼管時代コンビを組んでいた。 茨城県立日立第一高等学校入学後はバスケット部に入部 日本大学進学後、大学バスケ界の名監督と謳われた細島繁の指導を受ける。 卒業後は日本鋼管に入社。日本リーグ4連覇に貢献。 全日本でも東京五輪候補、アジア選手権などに出場。 現役引退後は母校・日本大学の助監督等を行う。 また、明星学園女子バスケットボール部の監督、椎名真一を義理の弟に持つ。
小玉 晃(こだま あきら、1944年3月20日 - )は、日… 小玉 晃(こだま あきら、1944年3月20日 - )は、日本の元バスケットボール選手。 東京教育大学在学中、全日本に選ばれ1963年世界選手権と東京オリンピックに出場。 卒業後、日本鉱業に入社。引き続き全日本で活躍し、1967年世界選手権に出場。日本リーグでは1971・72年の2年連続でベスト5を獲得。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
角田 勝次(つのだ かつじ、1943年9月28日 - 201… 角田 勝次(つのだ かつじ、1943年9月28日 - 2011年2月14日)は、昭和時代の日本のバスケットボール選手。現明治大学女子バスケットボール部コーチ。
諸山 文彦(もろやま ふみひこ、1943年8月14日 - )… 諸山 文彦(もろやま ふみひこ、1943年8月14日 - )は、三重県出身の元バスケットボール選手・指導者。身長183cm。ポジションはフォワード。「ミスター・バスケットボール」の異名を持つ。 東橋北小学校でバスケを始め、橋北中学校では県大会の決勝に進んだ。 しかし、桑名高校進学後は陸上部に入部し、走り幅跳びと走り高跳びに取り組んだが、結果は残せず。そんな中、中学時代に指導を受けたことがあるバスケ部の顧問から誘われて1年の途中でバスケ部に転籍。再びバスケの世界に足を踏み入れた。高校3年に東京五輪に向けた強化合宿に招集されたのを機に、全日本で活躍。 日本大学進学後、大学バスケ界の名監督と謳われた細島繁の指導を受ける。
清水 義明(しみず よしあき、1943年 - 2021年10… 清水 義明(しみず よしあき、1943年 - 2021年10月20日)は、日本のバスケットボール指導者である。日本体育大学名誉教授。北海道出身。 北見北斗高校在学中にインターハイ出場。日本体育大学では1年時からレギュラーを務め全日本にも選出される。卒業後も日体大に残り1967年より助手。アメリカのミシガン州立大学にバスケットボール留学し、帰国後コーチに就任。在任中日本体育大学を関東大学選手権優勝20回、同リーグ戦優勝24回、日本学生選手権優勝14回を記録した。また、全日本男子監督も3度務め、1982年アジア大会では銅メダルに導いた。2012年3月を以て退官。2021年、日本バスケットボール殿堂に尾崎正敏、加藤廣志とともに掲額者として、選出された。
江川 嘉孝(えがわ よしたか、1942年12月20日 - 2… 江川 嘉孝(えがわ よしたか、1942年12月20日 - 2024年12月26日)は、福島県河沼郡会津坂下町出身の元バスケットボール選手。 明治大学在学中、全日本に選ばれ、1963年世界選手権と東京オリンピックに出場。 卒業後、八幡製鐵所に入社。引き続き全日本で活躍。1967年世界選手権も経験。 引退後はコーチに転じて、1976年モントリオール五輪に出場。 2024年12月26日、心不全のため千葉県木更津市の病院で死去。82歳没。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
海保 宣生(かいほ のぶお、1941年12月21日- 201… 海保 宣生(かいほ のぶお、1941年12月21日- 2015年4月19日)は、東京都出身の元バスケットボール選手、スポーツ指導者。元バスケットボール男子日本代表。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属するサッカークラブである鹿島アントラーズ及びモンテディオ山形の運営会社幹部を務めていたことでも知られる。 東京都出身。立教大学経済学部経済学科を卒業後、住友金属工業(現・日本製鉄)に入社。籠球団(バスケットボール部)に所属し、1964年東京オリンピックのバスケットボール競技において日本代表チームの一員として活躍した。現役引退後は立教大学体育会バスケットボール部の監督を経て住友金属の監督も歴任した。
榎本 日出夫(えのもと ひでお、1941年7月7日 - )は… 榎本 日出夫(えのもと ひでお、1941年7月7日 - )は、東京都中野区出身のバスケットボール指導者。日本バスケットボール界初のプロコーチである。 武蔵中学校・高等学校・大学出身。 中3でバスケを始め、高校では3年連続でインターハイに出場。優勝も経験する。 大学卒業後、光文社に入社。そこで杉野女子短大の学生と出会い、これを機にバスケットボールのコーチに転じる。 後に日立戸塚女子バスケットボール部に移り、プロコーチ宣言。25年間指揮を執り、1976・77年の2年連続でオールジャパン・日本リーグ2冠に導く。 その間全日本女子のコーチとなり、1982年には監督を務める。 その後、日立本社男子(現・サンロッカーズ渋谷)のヘッドコーチに就任。
吉田 正彦(よしだ まさひこ、1941年4月18日 - 20… 吉田 正彦(よしだ まさひこ、1941年4月18日 - 2023年7月4日)は、日本のバスケットボール指導者、選手。 東京府東京市出身。暁星高等学校から立教大学を経て日本鋼管で選手として活躍。 バスケットボール男子日本代表としても1967年世界選手権に出場。しかし1968年メキシコシティオリンピック出場権は獲得できなかった。 引退後はコーチに転じ、1972年ミュンヘンオリンピックでコーチ、1976年モントリオールオリンピックで監督を務めた。 退社後は東京バスケットボール協会役員、バスケットボール日本リーグ機構専務理事を歴任し、2016年からは日本バスケットボール推進協議会の副幹事長を務めた。 2023年7月4日、死去。
中村 和雄(なかむら かずお、1940年12月4日 - )は… 中村 和雄(なかむら かずお、1940年12月4日 - )は、日本のバスケットボール指導者である。鶴鳴女子高校、共同石油(後のENEOSサンフラワーズ)、浜松・東三河フェニックス(後の三遠ネオフェニックス)などの監督・ヘッドコーチを歴任し、全国優勝に導いた。またバスケットボール女子日本代表、秋田ノーザンハピネッツ、新潟アルビレックスBBのヘッドコーチも務めた。退任後、秋田県体育協会のゼネラル・アドバイザーとして秋田県のスポーツ振興に取り組む。 渋谷センター街バスケットボールストリートの入り口には、中村の座右の銘である「心をこめて」という言葉が刻まれたモニュメントが設置されている。また日本工学院八王子専門学校が主催する高校バスケットボールの大会「KAZU CUP」は、中村の名前を由来としている。
梅 勝夫(ばい かつお、1940年11月29日 - )は、日… 梅 勝夫(ばい かつお、1940年11月29日 - )は、日本の元バスケットボール選手。 立教大学卒業。積水化学で選手として活躍。 全日本にも選ばれ、1964年東京オリンピックに出場。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
木内 貴史(きうち たかし、旧姓:増田、1940年8月25日… 木内 貴史(きうち たかし、旧姓:増田、1940年8月25日 - )は、静岡県出身の元バスケットボール選手。元日本バスケットボール協会専務理事兼強化本部長。現役時代のポジションはガード。 静岡高校3年でインターハイ準優勝を経験。 慶大でも1年でレギュラーを獲得し、インカレ優勝を経験、2年で全日本にも選ばれローマ五輪に出場した。 卒業後、住友金属に入社。1963年世界選手権にも出場し、東京五輪も2大会連続出場を果たした。 引退後、地元に戻り産業建設に入社。後に社長となる。 一方で、静岡県バスケットボール協会理事長、静岡県体育協会副会長などを務める。 2008年、日本協会専務理事兼強化本部長に就任。
中村 邦彦(なかむら くにひこ、1939年9月24日 - 2… 中村 邦彦(なかむら くにひこ、1939年9月24日 - 2021年9月9日)は、日本の元バスケットボール選手。 明治学院大学から日本鉱業に入社し選手として活躍。全日本にも選ばれ1963年・1967年世界選手権と東京オリンピックに出場。 引退後は母校・明治学院大学の監督を務めた。同窓会会長も務めていた。 平成26年度功労表彰受賞。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
志賀 政司(しが まさし、1939年1月28日 - )は、福… 志賀 政司(しが まさし、1939年1月28日 - )は、福島県平市(現・いわき市)出身の元バスケットボール選手。 明治大学在学中、全日本に選ばれローマオリンピックに出場。 卒業後、日本鉱業に入社。引き続き全日本で活躍し、1963年世界選手権と東京オリンピック、1967年世界選手権に出場。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
若林 薫(わかばやし かおる、1938年8月19日 - )は… 若林 薫(わかばやし かおる、1938年8月19日 - )は、東京府東京市(現・東京都)出身の元バスケットボール選手。 東京教育大学在学中、全日本に選ばれローマオリンピックに出場。 卒業後、日本鋼管に入社。全日本で活躍し、1963年世界選手権と東京オリンピック、1967年世界選手権に出場。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
大島 康邦(おおしま やすくに、1938年6月8日 - )は… 大島 康邦(おおしま やすくに、1938年6月8日 - )は元バスケットボール選手。 1938年、新潟県生まれ。新潟市立鳥屋野中学校に入学し、バスケットボールを始める。新潟県立新潟南高等学校3年のとき、県大会決勝まで進む。新潟県立新発田商工高等学校を相手にチームの総得点51点のうち32点を入れたものの、惜敗。 1957年、立教大学に進学。立教大学の黄金時代を担うプレーヤーとなり、主将を務めた4年時には1960年ローマオリンピック大会の代表に選出される。 1961年日本鉱業に入社し、9シーズンプレー。日本鉱業の黄金時代のプレーヤーであり、オールジャパン4連覇のメンバーである。 引退後は、ペルー・フィリピンに駐在。
加藤 廣志(かとう ひろし、1937年 - )は、秋田県山本… 加藤 廣志(かとう ひろし、1937年 - )は、秋田県山本郡藤里町出身の元高校教諭、バスケットボール指導者である。能代工業高校バスケットボール部の礎を築いた名将として知られる。
奈良 節雄(なら せつお、1936年12月16日 - 200… 奈良 節雄(なら せつお、1936年12月16日 - 2000年1月27日)は、日本の元バスケットボール選手。日本バスケットボール史上唯一、オリンピックに3回出場した選手である。 疎開先の秋田県小坂町の中学校でバスケを始め、神奈川県立川崎高等学校ではバスケのみならず、陸上競技でも走り幅跳びや走り高跳びで県の記録を持っていた。立教大学に進学後、1年次にオールジャパン優勝を経験。19歳でメルボルン五輪に出場する。 卒業後、日本鉱業に入社。ローマ、東京五輪にも出場。東京五輪では主将を務めた。世界選手権も1963年に出場した。 日本鉱業でもチームの黄金時代に貢献した。 引退後は日本鉱業金属加工営業部に勤務。
笠原 成元(かさはら しげよし、1936年11月3日 - )… 笠原 成元(かさはら しげよし、1936年11月3日 - )は、東京都出身のバスケットボール指導者である。筑波大学名誉教授、中村学園大学教授。 1959年東京教育大学(現在の筑波大学)卒業。ヤシカで1960年熊本国体に出場し、引退後の1961年より学習院大学専任講師となり指導者に転じる。1964年に東京オリンピックで吉井四郎のアシスタントコーチを務め、1972年ミュンヘンオリンピックで監督として指揮を執った。またユニバーシアード、世界選手権などでもコーチを務めた。 筑波大学の監督や日本バスケットボールコーチコミッティの会長を務めた後、秋田銀行女子バスケット部ヘッドコーチを2010年から2011年まで務めた。
金川 英雄(かねかわ ひでお、1936年10月30日 - )… 金川 英雄(かねかわ ひでお、1936年10月30日 - )は、愛知県出身の日本のバスケットボール選手である。 立教大学卒業。八幡製鐵所在籍中、全日本チームに選ばれ、ローマ五輪に出場した。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
鎌田 正司(かまた しょうじ、1935年4月17日 - )は… 鎌田 正司(かまた しょうじ、1935年4月17日 - )は、東京府東京市(現・東京都)出身の日本のバスケットボール選手である。 早大卒業後、日本鋼管に入社。 全日本チームに選ばれ、ローマ五輪に出場。 1966年引退。母校・早大の監督に就任し、1968年インカレ優勝に導く。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
大平 礼三(おおひら れいぞう、1935年3月7日 - 20… 大平 礼三(おおひら れいぞう、1935年3月7日 - 2024年6月6日)は、日本のバスケットボール選手である。 福島県いわき市に生まれる。福島県立磐城高校卒業。明治大学出身。1956年メルボルンオリンピックに出場した。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
今泉 健一(いまいずみ けんいち、1934年3月13日 - … 今泉 健一(いまいずみ けんいち、1934年3月13日 - 2018年12月23日)は、新潟県出身の元バスケットボール選手である。 明治大学卒業後、日本鉱業に入社。全日本チームに選ばれ、メルボルン・ローマの五輪2大会に出場した。 2005年、bjリーグ・新潟アルビレックスBBホーム開幕戦に来場(元新潟GMでbjリーグコミッショナーの河内敏光は明大の後輩に当たる)。 2006年から2010年まで明治大学校友会我孫子地域支部長を務めていた。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
登坂 哲朗(のぼりさか てつろう、1934年2月12日 - … 登坂 哲朗(のぼりさか てつろう、1934年2月12日 - 1978年8月30日)は、日本のバスケットボール選手。 中学校より姉の影響でバスケットボールを始め、高校時代に国体優勝等頭角を表し、慶應義塾大学に入学。日本鉱業でさらにバスケットボールに没頭し、日本代表に選ばれ1956年のメルボルンオリンピックに出場を果たした。現役引退後は、共同石油(現ENEOSホールディングス)の女子バスケットボール部の創設に参加し、後進の指導にあたった。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
紺野 仁(こんの ひとし、1934年(昭和9年)1月3日 -… 紺野 仁(こんの ひとし、1934年(昭和9年)1月3日 - )は、日本のバスケットボール選手。 立教大学出身。1956年メルボルンオリンピックに出場した。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
東海林 周太郎(しょうじ しゅうたろう、1933年11月12… 東海林 周太郎(しょうじ しゅうたろう、1933年11月12日 - 2017年7月15日)は、山形県山形市出身のバスケットボール選手・指導者である。 山形東高校から立教大学に進み、全日本チームの一員としてメルボルン五輪に出場。 卒業後は日本鉱業に入社し、ローマ五輪に出場した。 引退後はコーチに転じ、1966年には全日本の監督を務めた。 1995年にバスケットボール日本リーグ機構が発足されると、専務理事に就任した。 2017年7月15日、心筋梗塞のため神奈川県藤沢市の病院で死去。83歳没。晩年は同県茅ヶ崎市に在住しており、葬儀も茅ヶ崎市内の葬祭場でしめやかに営まれた。
斎藤 博(さいとう ひろし、1933年9月15日 - 201… 斎藤 博(さいとう ひろし、1933年9月15日 - 2011年11月10日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。 東京府東京市(現・東京都)出身。立教大学卒業後、日本鉱業へ入社、選手として活躍。 全日本チームにも選ばれ、メルボルン・ローマの五輪2大会に出場した。 現役引退後は東京オリンピック(1964年)にて日本代表のコーチを務めた。また、日本鉱業で取締役に就任した。 2011年11月10日、下咽頭がんのため自宅で死去。78歳没。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
荒井 利一(あらい りいち、1933年(昭和8年)8月16日… 荒井 利一(あらい りいち、1933年(昭和8年)8月16日 - )は、日本のバスケットボール選手。 長野県岡谷市出身。立教大学を経て、松下電器産業に所属。1956年メルボルンオリンピックに出場した。のち、大阪府バスケットボール協会の役員を務めた。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
杉山 武雄(すぎやま たけお、1933年5月8日 - )は、… 杉山 武雄(すぎやま たけお、1933年5月8日 - )は、神奈川県出身の日本のバスケットボール選手である。 立教大学卒業。大学卒業後、八幡製鐵で選手として活躍。 全日本チームにも選ばれ、メルボルン・ローマの五輪2大会に出場した。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
糸山 隆司(いとやま たかし、1932年11月14日 - 1… 糸山 隆司(いとやま たかし、1932年11月14日 - 1983年8月17日)は、兵庫県出身の日本のバスケットボール選手である。195cm、85kgという体格を持ち、日本初のビッグマンとして活躍した。 旧制佐賀中学(佐賀西高校)2年でバスケを始め、東京教育大に進み、在学中アジア大会に出場する全日本チームに選ばれる。 卒業後は日本鋼管に入社。メルボルン・ローマの五輪2大会に出場し、ローマ五輪では日本選手団の主将を務めた。 1965年には全日本チームのコーチを務めた。
小浜 元孝(こはま もとたか、1932年10月17日 - 2… 小浜 元孝(こはま もとたか、1932年10月17日 - 2017年1月12日)は、東京都出身のバスケットボール選手・指導者。 墨田工業高校で選手権(現インターハイ)に出場、2年次には準優勝となり最優秀選手に選ばれる。 卒業後、日本鉱業に入社しバスケット部に所属。ガードとして活躍した。 1958年に現役引退し、指導者を目指すためケンタッキー大学に留学。 帰国後、昭和学院高でコーチキャリアをはじめ、安田生命、日立戸塚、法政大学で指導に当たる。 1979年、全日本男子の監督に就任。同年のアジア選手権準優勝に導いた。 1982年、秋田いすゞ自動車のヘッドコーチに就任。第59回オールジャパンで優勝を果たした。
尾崎 正敏(おざき まさとし、1931年 - 2025年3月… 尾崎 正敏(おざき まさとし、1931年 - 2025年3月5日)は、日本のバスケットボール指導者。元全日本女子バスケットボールチーム監督。元日本バスケットボール協会会長。岡山県出身。 岡山県立岡山操山高等学校卒業後、早稲田大学に進学。大学ではバスケットボール部で選手として活躍。卒業後は大日本紡績(現・ユニチカ)に入社。平野工場女子バスケットボール部で指導者となる。 身長の高い相手でも対応できる「忍者ディフェンス」「マッハ攻撃」を編み出し、オールジャパン8連覇や日本リーグ初代女王など多くのタイトルを総なめにしユニチカ黄金時代を築き上げた。 全日本チームの監督も務め、1965年には第1回アジア選手権準優勝、一時退いた後、コーチとして1970年アジア選手権初優勝、翌年の世界選手権で監督に復帰。
野口 昌三(のぐち しょうぞう、1930年5月31日 - 2… 野口 昌三(のぐち しょうぞう、1930年5月31日 - 2017年4月14日)は、佐賀県出身の日本のバスケットボール選手。 旧制佐賀中学(佐賀西高校)在学中に学徒動員される。終戦後米軍に接収された学校の体育館でバスケットボールを楽しむ米軍兵を見て競技を始め、学制改革により佐賀第一高校(翌年佐賀高校に改称)となった母校に3年生として編入すると第3回国民体育大会高校の部で準優勝。進学した東京教育大学(現・筑波大学)では吉井四郎の指導を受け、主将として臨んだ4年次に関東大学選手権、関東大学リーグ戦、インカレの3冠を制し、全日本選手権大会では大学チームを準優勝に導いた。 卒業後の1954年、バスケットボールの縁で田辺製薬に入社。
吉井 四郎(よしい しろう、1919年3月20日 - 199… 吉井 四郎(よしい しろう、1919年3月20日 - 1992年10月20日)は日本のバスケットボール指導者である。埼玉大学教授。日本バスケットボール協会理事。勲三等瑞宝章。
張 利鎮(チャン・イジン、1917年10月28日 - 没年不… 張 利鎮(チャン・イジン、1917年10月28日 - 没年不明)は、朝鮮半島出身のバスケットボール選手・指導者。 1936年ベルリンオリンピックには日本代表として、1948年ロンドンオリンピックには韓国代表として出場している。 平壌生まれ。延禧専門学校(現在の延世大学校)のバスケットボール部で活躍。1936年の全日本選手権では朝鮮代表(延禧専門学校)として出場し、優勝した。1936年ベルリンオリンピックには日本代表選手の一人として出場した。この時の日本代表チームには、張利鎮を含む3人の朝鮮人選手が参加していた。ほかの2人も全日本選手権優勝メンバーで、李性求(延禧専門学校OB)・廉殷鉉(延禧専門学校学生)である。
吉井 精三郎(よしい せいざぶろう、1917年3月9日 - … 吉井 精三郎(よしい せいざぶろう、1917年3月9日 - 1947年9月)は、日本の元バスケットボール選手である。 新潟県立新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)に学び、強豪の籠球部(バスケットボール部)に所属した。 全日本の一員として1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1964年東京オリンピックバスケットボール日本代表監督の吉井四郎は2歳下の弟。
横山 堅七(よこやま けんしち、1916年9月22日 - 生… 横山 堅七(よこやま けんしち、1916年9月22日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 新潟県立新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)に学び、強豪の籠球部(バスケットボール部)に所属した。早稲田大学に進み、バスケットボール部に所属。早稲田大学在学中、1936年ベルリンオリンピックに出場した。1938年には東洋選手権大会日本代表、1939年には来日したカナダのチーム(「ウェスターン軍」)と対戦した日本代表チームの一員となり、宗像卯一とともに年間最優秀選手に選ばれた。1940年には東亜競技大会の日本代表選手となる。 その後、日本鋼管に所属。
宗像 卯一(むなかた ういち、1915年(大正4年)11月2… 宗像 卯一(むなかた ういち、1915年(大正4年)11月26日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手。早稲田大学在学中に、1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1930年、広島県から満洲(関東州)・大連の大連一中に転校。体操の時間にサッカーを行っていたところ、宮畑虎彦教諭に見いだされ、1931年にバスケットボール部に入部した。 早稲田大学に進学し、バスケットボール部に所属。1936年ベルリンオリンピックに出場した。同時期、早稲田大学バスケットボール部には横山堅七がおり、宗像とともにベルリン五輪、東洋選手権大会(1938年)、東亜競技大会(1940年)で日本代表選手に選出されている。
松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日 - 1995… 松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日 - 1995年8月1日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。 1936年のベルリンオリンピック日本代表。福井県福井市出身。176cm。 1915年、福井県福井市に生まれる。府立五中、成城高校を経て、京都帝国大学経済学部に進学する。高校の途中まではサッカーの選手だったが、16歳でバスケを始め、3年の秋には日本代表に選出された。 京大在学中は籠球部に所属し、大学3年時の1936年にはベルリンオリンピックに出場した。 大学卒業後は神戸学士クラブに所属し、高校、大学、社会人のすべてで全国制覇を経験した。 現役引退後は日本バスケットボール協会の理事や副会長を務めたほか、1979年夏季ユニバーシアードの団長や日本オリンピック委員会の委員等を歴任した。
鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性… 鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性、1914年6月17日 - 1992年2月19日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。193cmの長身選手として1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した。 1914年東京生まれ。東京府立五中、武蔵高校を経て、東京帝国大学経済学部に進学。在学中は籠球部レンジャースに所属して主将を務めた。1936年のベルリンオリンピックには、バスケットボール日本代表として出場した。 大学卒業後は日産自動車に勤務したが、戦後退社して陶器の輸出入を手掛ける茜商会を起業した。会社経営の一方で日本バスケットボール協会の理事として後進の育成にあたり、1957年5月には日本スポーツ界代表団の一員として中華人民共和国を訪問した。