木下 航二(きのした こうじ、1925年12月16日 - 1… 木下 航二(きのした こうじ、1925年12月16日 - 1999年11月19日)は、教育者、作曲家。 東京府出身。東京府立一中、旧制一高を経て、東京大学文学部東洋哲学専攻卒業。すぐに都立日比谷高等学校教諭となる。1954年、ビキニ環礁上にて水爆実験が行われ、第五福竜丸が被爆、原水爆反対の署名運動に参加し、「原爆を許すまじ」を独学で作曲した。曲は当時の「うたごえ運動」にのって全国に広まり、翌年に第1回原水爆禁止世界大会で参加者に歌われた。また1955年には、作曲した「しあわせの歌」(作詞:石原健治)が労働運動の広がりとともに広く歌われるようになった。 1960年代後半まで校歌・組合歌など80曲あまりを作曲したが、以後作曲から手を引き、昇進も断り母校にて独自の教材を基に倫理・社会教諭として1991年まで教壇にたった。
寺岡 真三(てらおか しんぞう、1925年(大正14年)12… 寺岡 真三(てらおか しんぞう、1925年(大正14年)12月4日 ‐ 2007年(平成19年)8月26日)は昭和期の作曲家、編曲家。本名寺田 常三郎。 京都府京都市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。 1952年以後に、ビクターレコード専属作曲家となる。 1953年10月から59年4月まで文化放送で放送された『素人ジャズのど自慢』ではピアノを担当。 第2回日本レコード大賞大賞の「君恋し」(フランク永井)や、第6回日本レコード大賞編曲賞の「お座敷小唄」(松尾和子、和田弘とマヒナスターズ)、第11回日本レコード大賞編曲賞の「悲しみは駈け足でやってくる」(アン真理子)、ほか青江三奈の「恍惚のブルース」「長崎ブルース」「池袋の夜」など大ヒットの編曲を数々手掛けた。
渡辺 宙明(わたなべ ちゅうめい、1925年〈大正14年〉8… 渡辺 宙明(わたなべ ちゅうめい、1925年〈大正14年〉8月19日 - 2022年〈令和4年〉6月23日)は、日本の作曲家、編曲家。「ちゅうめい」は本名を音読みしたペンネームであり、本来の読みは「わたなべ みちあき」。 父は渡邊工業社長・名古屋螺子製作所(現:メイラ株式会社)創業者の渡辺俊雄。息子は作曲家・編曲家の渡辺俊幸。孫(俊幸の息子と娘)はナレーター・声優の渡辺眞伍、芸術家アイドルとして活動するマコ・プリンシパル(渡辺真子)。 また、作詞家の田野倉健之がアシスタントを務めた。 愛知県名古屋市出身。愛知県立明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)、第八高等学校理科、東京大学文学部心理学科卒。
井上 太郎(いのうえ たろう、1925年7月14日 − 20… 井上 太郎(いのうえ たろう、1925年7月14日 − 2022年3月18日[要出典])は、日本の作曲家、クラシック音楽評論家、作家である。湘南モーツァルト愛好会名誉会長。日本音楽療法学会元理事。 江戸時代から日本橋本石町に続く薬種問屋の江戸っ子7代目。生まれたのは1925年7月、東京都渋谷区桜丘。女中がいつも4人はいる環境で育つ。姉に妹2人の真ん中の男で、特別大事にされた。祖父と父は薬よりも化粧品の製造に力を入れ、その結果生まれたオシドリ銘柄のポマード、香水、椿香油は、大正、昭和前半の花形となった。 近所の大和田小学校に入学した頃、近くに住む高という英語の通訳に英会話の基礎を習った。この通訳の息子はチェリストの高勇吉で、娘はヴァイオリニストの高珠枝である。
芥川 也寸志(あくたがわ やすし、英: Yasushi Ak… 芥川 也寸志(あくたがわ やすし、英: Yasushi Akutagawa、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。JASRAC元理事長。 作風は大きく分けて3つに分かれる。東京音楽学校を卒業後、快活な旋律とリズムで彩られた作風が魅力の第1期。それらの要素を削ぎ落とし、減衰、静的な要素を取り入れた前衛的作風に転換した第2期。そして第1期の快活明朗なるリズムを用いつつも、第2期以来の作風とクロスオーバーさせ、新たな世界への転換を図った第3期。この区分においても共通するものに、彼自身の生涯のテーマとなるオスティナートの使用がある。リズムを失った音楽は死ぬ、と述べているように、リズムこそ彼の音楽そのものであった。
萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年… 萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年(大正14年)5月26日 - 1984年(昭和59年)1月13日)は、日本の作曲家。 北海道岩見沢市で病院長の家庭に生まれる。弟の萩原秀樹はジャズピアニスト。旧制北海中学を経て、1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科に入学(クラリネット専攻)。同級に岩井直溥や早川博二がいた。戦時中は團伊玖磨、芥川也寸志、斎藤高順、梶原完たちと陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。素人の養成機関の軍楽隊に音楽学校の生徒が入る背景には、乗杉嘉壽から山口常光(戸山軍楽隊)、山口から阿南惟幾へ話の持ち込みがあり、全く便宜を計る必要がない音楽学校の生徒である彼等は特例中の特例で、いわゆる徴兵から逃げた。
山本 丈晴(やまもと たけはる、1925年5月22日 - 2… 山本 丈晴(やまもと たけはる、1925年5月22日 - 2011年9月7日)は、日本の作曲家、ギタリスト。 山梨県南都留郡河口村(後の河口湖町、現在の富士河口湖町)出身。出生名は古屋 武治(1925年 - 1945年)。作曲家の古賀政男に師事し、ギター演奏により古賀メロディの普及に貢献。作曲作品は、美空ひばりに代表される流行歌・歌謡曲・演歌から映画・テレビ・舞台音楽、社歌・校歌と数多く幅広い。第48回日本レコード大賞功労賞受賞。 音楽活動を始めた当初は古屋 雅章(1946年 - 1948年)の筆名を名乗っていたが、その後に古賀の正式な養子となった際、本名の「武治」を「丈晴」にして古賀 丈晴(1948年 - 1958年)に改名。
小川 寛興(おがわ ひろおき、1925年3月5日 - 201… 小川 寛興(おがわ ひろおき、1925年3月5日 - 2017年7月19日)は、日本の作曲家。 東京府東京市芝区新橋(現在の東京都港区)出身。日本作曲家協会監事。 大倉高等商業学校中等科卒業(1943年)。 声楽を立松房子、薗田誠一、作曲および管弦楽法を服部良一、指揮法を森正に師事。藤原歌劇団合唱部でオペラを勉強するが、挫折し作曲に転向する。 1947年、服部良一の内弟子となり、1950年独立。服部門下の兄弟子に原六朗、佐野雅美らがいる。 帝国劇場のミュージカルの作曲および専任指揮者を経て、1960年から1961年までは日本コロムビアの専属作曲家となり、1962年から1973年まではキングレコードの専属作曲家となった。
菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2… 菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2010年)は、日本の仏教学者、著述家、翻訳家、作曲家、作詞家、音楽プロデューサー、東京シャンソン協会初代会長。 「菊村紀彦」は書籍を執筆したり、音楽を作曲したりするときの筆名であるが、弟子たちからも「菊村先生」としか呼ばれておらず、事実上の名前にも等しい。戸籍名は、椎名重胤。 東京出身。東洋大学大学院仏教学研究科修士課程修了。浄土教学空性論専攻。日本仏教思想研究所長、日本仏教学院長、寂光山檀林寺管主、日本仏教書道研究会長を務めた。 先祖は高松藩の椎名氏。明治時代に財を成した椎名秀胤の子孫筋に当たり、父の長兄・椎名芳胤は、大正時代の日本鉱業株式会社の営業部長から幹部にのぼりつめた実業家で、のちに久原房之助、鮎川義介らと共に日本鉱業の実権を握っていた人物の一人であった。
斎藤 高順(さいとう たかのぶ、英: Takanobu Sa… 斎藤 高順(さいとう たかのぶ、英: Takanobu Saito、1924年12月8日 - 2004年4月11日)は、東京府(現・東京都)生まれの作曲家、指揮者、幹部自衛官。自由作曲家協会会員であり日本吹奏楽指導者協会理事・日本国民音楽振興財団理事も務めた。長男はチェロ奏者の斎藤章一、長女はバイオリニストの内藤景子、長女の夫はホルン奏者の内藤貴司、孫は俳優の内藤光佑。 1924年、東京・深川の酒屋の次男として生まれる。1942年に日本大学第一中学校(旧制、現・日本大学第一高等学校)を卒業。1943年に東京音楽学校(旧制、現・東京芸術大学)に入学し、1947年に卒業。1949年に同校の研究科を修了。
眞鍋 理一郎(まなべ りいちろう、1924年〈大正13年〉1… 眞鍋 理一郎(まなべ りいちろう、1924年〈大正13年〉11月9日 - 2015年〈平成27年〉1月29日)は、日本の作曲家。東京都神田出身。 父はニコライ学校で学び、神田ニコライ堂で奉職した真鍋理従。幼少期より教会音楽に親しみ、中学校の音楽教師や教会の聖歌隊長などを志す。東京工業大学卒業後、東京藝術大学声楽科(畑中良輔に師事)にて学び、1951年に作曲科へ転科。作曲を池内友次郎に師事した後、池野成の仲介により伊福部昭に師事。イタリアにて映画音楽作曲家のアンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノ(イタリア語版)と親交を持った。 藝大卒業後、親戚の伝手により映画音楽家の吉澤博に師事し、その後吉澤の紹介により仁木他喜雄の助手を務める。
大中 恩(おおなか めぐみ、1924年7月24日 - 201… 大中 恩(おおなか めぐみ、1924年7月24日 - 2018年12月3日)は、日本の作曲家。男性。土田藍(つちだ あい)という筆名で、自身の歌の作詞も手がけている。 父は『椰子の実』の作曲者である大中寅二。詩人、作家の阪田寛夫は従弟に当たる。 父親が霊南坂教会のオルガニスト兼合唱指揮者であったことから、歌を愛好するようになった(聖歌隊の女の子に惹かれたからだとも語っている)。1942年に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)本科作曲部に入学し、信時潔に作曲を、橋本國彦に管弦楽法を、細川碧に対位法を師事した。1943年の混声合唱曲『わたりどり』(詩:北原白秋)は戦地で果てる覚悟で書いたという。
上原 賢六(うえはら けんろく、1924年(大正13年)6月… 上原 賢六(うえはら けんろく、1924年(大正13年)6月3日 - 1980年(昭和55年)9月14日)は昭和期の作曲家。兄は同じく作曲家の上原げんと。 青森県つがる市出身。東洋音楽学校卒業。1945年(昭和20年)、召集され満州へ出征。シベリア抑留を経験し、帰国後、兄上原げんとのもとで作曲を学ぶ。後に作曲家になる船村徹と知り合い、共にバンドの仕事をするなどして、1953年(昭和28年)テイチクレコードの専属作曲家になる。主に石原裕次郎とコンビを組み、「俺は待ってるぜ」、「錆びたナイフ」、「赤いハンカチ」などを作曲した。1980年(昭和55年)9月14日心臓疾患にて死去。56歳没。墓所は東京都の小平霊園。
團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 - 2001年… 團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 - 2001年5月17日)は、日本の作曲家、エッセイスト。日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人である。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルを手がけた。「團伊玖麿」は誤表記。
宇賀神 光利(うがじん みつとし、1923年12月18日 -… 宇賀神 光利(うがじん みつとし、1923年12月18日 - 1967年2月)は、日本の作曲家。本名は宇賀神 敏道(うがじん としみち)。戦後の日本における童謡運動「新しいこどもの歌」を推進した作曲家グループ「ろばの会」の結成メンバーの一人。父は作曲家・指揮者の宇賀神味津男。デブパレードのギタリストugazinは孫にあたる。 東京府出身。音楽家の家系に育ち、国立音楽学校(現:国立音楽大学)本科を卒業。作曲を尾高尚忠、諸井三郎に師事した。 1950年(昭和25年)、第19回 日本音楽コンクールの作曲部門(第2部・室内楽曲)において、第3位に入賞。この時の1位は一柳慧、2位は中田喜直であった。 1955年(昭和30年)、中田喜直、大中恩、磯部俶、中田一次と共に、子供の生活感覚に即した芸術性の高い童謡を創造することを目指し、作曲家グループ「ろばの会」を結成。
只野 通泰(ただの みちやす、1923年〈大正12年〉12月… 只野 通泰(ただの みちやす、1923年〈大正12年〉12月18日 - 2015年〈平成27年〉7月18日)は、宮城県白石市出身の作曲家、編曲家。 1944年、日本大学芸術学部音楽科作曲専攻卒業。終戦を清津で迎え、ソ連軍との交戦の後、捕虜としてシベリアに抑留される。抑留中に竹山逸郎が後に大ヒットさせることになる「異国の丘」(吉田正作曲)をアコーディオンで伴奏し、同胞に歌わせ元気づけていた。その様子は日本国内でも報道され、「異国の丘」の作曲者でもある吉田正も知っていたと言われる。 1949年10月に復員し、東京都文京区立第六中学校で音楽科教諭として教鞭をとる中、「異国の丘」の縁で吉田正と運命的に出会う。
唯是 震一(ゆいぜ しんいち、1923年10月30日 - 2… 唯是 震一(ゆいぜ しんいち、1923年10月30日 - 2015年1月5日)は、日本の邦楽作曲家、筝曲家(生田流)。妻は筝曲家の中島靖子。 北海道深川市生まれ。父親は尺八奏者、母親は筝曲家。農業経済学者の唯是康彦は従弟。3歳から生田流筝曲を学ぶ。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業後、一度就職するが、間もなく退職し、東京音楽学校邦楽科に入学。宮城道雄に師事する。その後、後身の東京藝術大学に楽理科が設置されると転科し、在学中の1952年、邦楽コンクール(東京新聞社主催)で第1位・文部大臣賞を受賞。 卒業後の1953年から2年間、コロンビア大学でヘンリー・カウエルに師事。この間クックレーベルからレコード『日本の琴』をリリース。
吉田矢 健治(よしだや けんじ、1923年(大正12年)10… 吉田矢 健治(よしだや けんじ、1923年(大正12年)10月25日 - 1998年(平成10年)11月6日)は、昭和期の作曲家。山口県岩国市出身。明治大学卒業。通称:ダヤ先生。 明治大学マンドリン倶楽部を経て、作曲家の利根一郎に師事。1950年(昭和25年) 12月よりテイチクレコード専属となり、村澤良夫歌唱の「見果てぬ夢」で作曲家としてデビュー。翌年に菅原都々子の『広東エレジー』で初ヒットを飛ばす。(尚、此の作品は後にシンガポールの演歌歌手黄清元によってカヴァーされ、現地でも広く知られる様になった。)1953年(昭和28年)からキングレコードに専属し、「あなたと共に」、「夕焼けとんび」、「山の吊橋」など昭和期に多くの曲を作曲した。
岩井 直溥(いわい なおひろ、1923年10月2日 - 20… 岩井 直溥(いわい なおひろ、1923年10月2日 - 2014年5月10日)は、日本の作曲家、編曲家および指揮者。 陸軍中将で男爵の野崎貞澄の孫として東京牛込に生まれる。父の岩井貞麿(旧姓野崎)は音楽教室経営者で、柴田南雄のピアノの師。母は帝国劇場のリハーサルピアノプレーヤー。 1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現東京藝術大学)器楽科(ホルン専攻)入学。作曲を橋本國彦に師事。1943年(昭和18年)に学徒出陣により旧大日本帝国陸軍に入隊。朝鮮半島へ出征。その後千葉県習志野市の東部軍教育隊へ異動。館山市の守備隊で見習士官(准尉)で終戦を迎える。ホルン専攻ではあるが、終戦後ジャズの世界にとびこみ、トランペットも演奏。
岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 20… 岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 2013年9月16日)は、日本の作曲家。 富山県富山市生まれ。1947年、東京音楽学校(現:東京藝術大学)声楽科卒業。後に作曲家となり平井康三郎、池内友次郎に師事。日本童謡協会理事、山口大学教授を歴任。日本作曲家協議会会員。 合唱作品の作曲家として知られている一方、NHKでも放送・レコード関係の作曲・編曲などを手がけた。吹奏楽作品も全日本吹奏楽コンクール用に多く作曲し、作曲家グループ「ニュー・エイトの会」の一員で、意欲的に吹奏楽曲の作曲を行った。また、作曲のみならず作詞も数作手がけている。 次女は岩河智子(いわかわともこ、作曲家、札幌室内歌劇場音楽監督)墓は富山市の長岡墓地。
長澤 勝俊(ながさわ かつとし、1923年8月2日 - 20… 長澤 勝俊(ながさわ かつとし、1923年8月2日 - 2008年1月10日)は、日本の作曲家。 東京出身、日本大学芸術学部を卒業。作曲を清瀬保二に師事した。1964年、現代邦楽の演奏団体である日本音楽集団が設立された際、創設メンバーの一人となった。1990年、紫綬褒章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
中田 喜直(なかだ よしなお、1923年〈大正12年〉8月1… 中田 喜直(なかだ よしなお、1923年〈大正12年〉8月1日 - 2000年〈平成12年〉5月3日)は、日本の作曲家。本名は「喜直(よしただ)」。 『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』、『夏の思い出』などを作曲した日本の職業作曲家の一人である。 父は『早春賦』で知られる作曲家の中田章。喜直は三男であり、兄は作曲家・ファゴット奏者の中田一次である。妻の中田幸子は、音楽出版ハピーエコーの代表であり、喜直の作品を多数出版している。甥は細野晴臣や大滝詠一と交流を持ち、大滝詠一のアルバム『大瀧詠一』の収録曲「おもい」のアレンジを手がけたことでも知られ、後にキングレコードのディレクターとなった中田佳彦 はいだしょうこは弟子で、中田の最後の愛弟子である。
菅野 浩和(すがの ひろかず、1923年6月12日 - 20… 菅野 浩和(すがの ひろかず、1923年6月12日 - 2011年1月15日)は、日本の作曲家、音楽評論家。
今井 光也(いまい みつや、1922年11月1日 - 201… 今井 光也(いまい みつや、1922年11月1日 - 2014年5月6日)は、日本の作曲家、指揮者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。諏訪交響楽団員の父・今井久雄から音楽の薫陶を受けて育つ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)卒業。三協精機製作所(現ニデックインスツルメンツ)に勤務する傍ら、1961年に諏訪交響楽団に入団し、フルート、ホルン奏者のほか指揮者を務めた。1962年11月に、オリンピック組織委員会とNHKが行ったオリンピック東京大会ファンファーレの公募に応募し、当選した。 他には数曲の校歌、社歌などの作曲を行っている。1990年に諏訪交響楽団会長に就任し、晩年は名誉会長を務めていた。
松下 眞一(まつした しんいち、Shin-ichi Mats… 松下 眞一(まつした しんいち、Shin-ichi Matsushita、1922年10月1日 - 1990年12月25日)は、日本の現代音楽の作曲家・数学者・物理学者・宗教学者・哲学者。 大阪府茨木市生まれ。大阪府立旧制茨木中学校を経て、旧制第三高等学校(現・京都大学)に入学する。この間に、父・松下久一より作曲を、中村良治にピアノと和声、永井巴に作曲と和声、朝比奈隆に指揮を師事した。 幼少の頃より、音楽、文学、科学や天文学に関心を抱く。中学時代より、ミヨー、ドビュッシー、オネゲル、ストラヴィンスキー、バッハ等の楽曲に親しむとともに、十二音技法の始祖ヨーゼフ・マティアス・ハウアーの思想に傾倒し、13歳で最初の交響曲を作曲していた。
鬼頭 恭一(きとう きょういち、1922年(大正11年) 6… 鬼頭 恭一(きとう きょういち、1922年(大正11年) 6月10日 - 1945年(昭和20年) 7月29日)は日本の作曲家。東京音楽学校本科在学中に学徒出陣、終戦17日前に霞ヶ浦航空隊で飛行訓練中に事故死した。戦後70年にあたる2015年、戦死した遺骨が故郷の愛する人の元に帰る情景を描いた歌曲「雨」が初演された。 大正11年(1922年)6月10日、名古屋中心地で酒問屋を営む父・儀一、母・成子の四人兄妹の長男として生まれる。実家近くにあったキリスト教系の幼稚園で賛美歌を耳にした事が、恭一の音楽の原点であった。幼少期の恭一について2歳年下の弟・哲夫は次のように証言している。 兄は幼い頃から「珍しいもの、新しいもの」を好み、やりたいことや欲しいものはとことん追求しなければ気が済まない「やんちゃくちゃ」(当時の名古屋弁) な腕白小僧で、しょっちゅう両親を困らせていました。
別宮 貞雄(べっく さだお、1922年〈大正11年〉5月24… 別宮 貞雄(べっく さだお、1922年〈大正11年〉5月24日 - 2012年〈平成24年〉1月12日)は、日本の作曲家。 1922年に別宮貞俊(東京工業大学教授を務めたのち実業界に転じ、住友電気工業株式会社初代社長などを歴任)と病理学者で東京帝大医学部教授の山極勝三郎の長女梅子の息子として東京に生まれた。翻訳家の別宮貞徳は弟。 兵庫県立第一神戸中学校から成城高等学校、第一高等学校を経て東京大学理学部物理学科を1946年(昭和21年)に卒業。同年に「管弦楽のための二章」を発表して作曲家としてデビューした。翌1947年(昭和22年)、同大学文学部美学科に入学し1950年(昭和25年)卒業。この間、柴田南雄らの新声会に参加し作品を発表している。
石丸 寛(いしまる ひろし、1922年2月19日 - 199… 石丸 寛(いしまる ひろし、1922年2月19日 - 1998年3月23日)は、日本の指揮者、作曲家である。 中華民国山東省青島に生まれる。六朝文化を愛した父の傍で、幼児期より音楽(ピアノ、ヴァイオリンなど)、美術(油絵)と親しむ。青島旧制中学時代には、ブラスバンド部のほか、中村八大らとバンドも結成する。1938年に帰国、東京・玉川学園中学部に転入する。コーラス部長、彫刻も学ぶ。1944年、文化学院大学部芸術科を卒業する。美術を今泉篤男、脇田和、岡鹿之助に師事した。一方で、管弦楽法と指揮法を山田一雄に師事した。第二次世界大戦のため出征、1945年に終戦で帰国(福岡市に復員)、画家としての活動を再開する。
畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2… 畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2月12日 - 2012年(平成24年)5月24日)は、日本の声楽家(バリトン)、音楽教育者、合唱指揮者、音楽評論家、作曲家、詩人、翻訳家(訳詞家)、エッセイスト。日本芸術院会員。日本の洋楽の発展に多大な功績を残した。 福岡県門司市(現:北九州市門司区)に浅野セメントに勤める父・勝次郎と、琴および三絃の師匠をしていた母・筆の長男として生まれる。四人家族で、二つ上の姉がいる。旧制門司中学校に入学、ラッパ鼓隊に所属し小太鼓を担当する。進学先として受験科目に苦手の数学が無い東京音楽学校を選び、人前で歌ったことはなかったが消去法で「声楽科」と書いたという。
四代目 寶 山左衛門(たから さんざえもん、六代目福原百之助… 四代目 寶 山左衛門(たから さんざえもん、六代目福原百之助、本名: 若林 英次、1922年1月5日 - 2010年8月7日)は、東京市芝区宇田川町出身の長唄囃子方、篠笛演奏家・作曲家。福原流鳴物六代目宗家、福原流百之助派四代目家元。東京芸術大学客員教授、国立劇場養成所講師。 長唄囃子方五代目福原百之助の跡取りとして生まれ、母親も長唄の師匠。幼い頃より芸の薫陶を受けた。 1939年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業。 第二次世界大戦中は駆逐艦の建造等に動員されたが、戦後邦楽界の再建に携わり、1940年に福原英次を名乗る。1964年に六代目百之助を襲名。1981年に長唄協会理事。
町田 旭(まちだ あきら、1922年 - 1995年10月1… 町田 旭(まちだ あきら、1922年 - 1995年10月15日)は、昭和時代後期に活動した日本の作曲家。茨城県出身。 茨城県西茨城郡岩間町(現在の笠間市)出身。旧制水戸中学校では野球部に所属していた。卒業後は水戸保線事務所(現在のJR東日本水戸支社)に入り、主として線路の保守点検業務に従事する。 国鉄平保線区工事助役を務めていた時期に茨城県が一般公募した県民歌の作曲部門で応募作が入選し、平井康三郎の編曲で「茨城県民の歌」として制定される。当時のインタビューではクラシックのレコード収集が趣味だが作曲を専門的に習ったことは無く、20年余り独学を重ねて試しに作った曲を応募したら入選したと述べている。
郭 芝苑(かく しえん、Kuo Chih-Yuen, 192… 郭 芝苑(かく しえん、Kuo Chih-Yuen, 1921年12月5日 - 2013年4月12日)は、台湾の作曲家。 苗栗県苑裡鎮出身。1935年、東京の錦成中学に入学した。音楽教師からハーモニカを学び、卒業の年には東京の中学生ハーモニカコンクールで一等賞を獲得した。1941年、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学。ヴァイオリン専攻を希望したが、生まれつき左手の小指が内側に湾曲していたために断念し、ピアノの心得もなかったので、作曲と音楽理論を学んだ。1943年、卒業。 1946年、台湾に戻った。1950年、台湾省音楽コンクールで作曲部門第一位を獲得。1966年、作曲を学びなおすために東京芸術大学に入学。
入野 義朗(いりの よしろう、1921年11月13日 - 1… 入野 義朗(いりの よしろう、1921年11月13日 - 1980年6月23日)は、日本の現代音楽の作曲家。 若い頃の名前は「義郎」であり、1958年以降、現在の名前に改名。十二音技法を始めとする20世紀音楽の創造と啓蒙に尽力すると共に、桐朋学園を中心に後進の育成に力を注いだ。作品は劇音楽、管弦楽、室内楽、声楽など多岐にわたる。1980年の没後、従五位勲四等旭日小綬章を授与された。また同年に「入野賞」、1981年に「アジア作曲家連盟入野義朗記念賞」が設けられ、ともに若い作曲家のための登竜門として今日まで存続し続けている。 入野は1921(大正10)年、貿易会社勤めの父の赴任地、旧ソビエト連邦のウラジオストックに生まれた。
宇井 あきら(うい あきら、本名:宇井昶〈読み同じ〉、192… 宇井 あきら(うい あきら、本名:宇井昶〈読み同じ〉、1921年〈大正10年〉7月26日 - 2009年〈平成21年〉9月1日)は、日本の元作曲家、シャンソン歌手。武蔵野音楽学校声楽科卒業。 1955年にシャンソン歌手としてデビュー。『ひるのいこい』(NHKラジオ第一放送)にレギュラー出演するなどの活動をした後に作曲家へ転身し、シャンソンを中心に歌謡曲やテレビドラマの主題歌、或いは東京都内の小学校校歌に至るまで幅広いジャンルの作品を手掛けた。特に菅原洋一が1970年にヒットさせた『今日でお別れ』は其の年の日本レコード大賞を受賞するなどして宇井あきらの代表作となった。 また、宇野ゆう子を始め、後進のシャンソン歌手育成にも熱意を傾けたことでも知られる。
石井 歓(いしい かん、1921年〈大正10年〉3月30日 … 石井 歓(いしい かん、1921年〈大正10年〉3月30日 - 2009年〈平成21年〉11月24日)は、日本の作曲家。東京市下谷区(現:東京都台東区)出身。 同じく作曲家である石井眞木は弟、石井五郎は叔父に当たる。父は舞踊家の石井漠。 成城学園小学部から旧制の成城高等学校尋常科に進むが、成城事件で父の友人の小原國芳が排斥されたため、玉川学園中等部に転じる。作曲を呉泰次郎について約3年間学んだ。武蔵野音楽大学本科ピアノ科を卒業後、池内友次郎に師事。太平洋戦争中は海軍予備学生として海軍入隊後、約2年間勤務。1947年(昭和22年)から尾高尚忠に指揮法を師事。1952年(昭和27年)、西ドイツに留学し、ミュンヘン国立音楽大学作曲科・指揮科を修了。
伊藤 亘行(いとう のぶゆき、1921年(大正10年)2月6… 伊藤 亘行(いとう のぶゆき、1921年(大正10年)2月6日 - 2002年(平成14年)11月10日)は日本の声楽家(バリトン)、オペラ歌手、音楽教育者、作曲家。 三重県四日市市京町生まれ。伊藤家はタイル業、万古焼業を営み父が仕事中にヴァイオリンを弾くのを聞いて、叔母の家でオルガンを弾いたりして幼少年時代を過ごす。旧制富田中学校(現在の三重県立四日市高等学校)卒業。父や親戚を説得して東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学)へ進学し、木下保や中山悌一に師事して1941年(昭和16年)に卒業。大東亜戦争中で音楽関係の仕事がないことから、郷里の東海地方に帰り現在の愛知県立旭丘高等学校や愛知県立明和高等学校の音楽担当の教師となり音楽を教えた。
中田 一次(なかだ かずつぐ、1921年1月5日 - 200… 中田 一次(なかだ かずつぐ、1921年1月5日 - 2001年4月9日)は、日本の作曲家、指揮者、ファゴット奏者。童謡や宗教曲(キリスト教)などの作曲で知られる。筆名は楫山つとむ。 東京府豊多摩郡(後の東京市、現在の東京都渋谷区)出身東京音楽学校卒業。山形大学音楽科教授を経て、昭和音楽大学短期大学部名誉教授も務めた。日本フィルハーモニー交響楽団、東京管楽器協会などでファゴットとコントラファゴットを演奏、晩年は日本ファゴット(バスーン)協会会長を務めた。バッハ等古典作品のダブルリード合奏のための編曲も多く、またNHKラジオ「音楽の泉」テーマ曲として昭和30年代から40年代に流れたシューベルト「楽興の時」の編曲者でもある(番組テーマは後にピアノ独奏のものに変更。
鈴木 道明(すずき どうめい、1920年11月12日 - 2… 鈴木 道明(すずき どうめい、1920年11月12日 - 2015年12月23日)は、日本の作詞家・作曲家。東京府(現東京都)出身。 旧制早稲田中学校、早稲田大学卒業。学生時代は競泳選手であり、1940年に開催される予定であった東京オリンピック日本代表候補選手であった。大学卒業後に帝国陸軍飛行戦隊に入営し、戦闘機の搭乗員として南方戦線に出征した経験を持つ。 復員後、発足したばかりのラジオ東京(後のTBS〔東京放送〕)に入社し、テレビ・ラジオの音楽番組のプロデューサーやディレクターとして数々の番組を担当し、TBSでは編成局次長や第二演出部長の要職に就いていた。 その一方ではソングライターとして西田佐知子、日野てる子などに自作の楽曲を提供・発表し、数々のヒット曲を世に送り出した。
小林 福子(こばやし ふくこ、1920年3月6日 - 201… 小林 福子(こばやし ふくこ、1920年3月6日 - 2012年8月9日)は日本の作曲家、音楽教師。桐朋学園大学附属子供のための音楽教室で長年教師としてソルフェージュを指導した。 1920年、東京に生まれる。成城小学校6年生のときに成城学園教師の岡本敏明から作曲の手ほどきを受けた。1938年に東京音楽学校予科に入学。橋本國彦、ヘルムート・フェルマー、井口基成に師事し、作曲とピアノを学んだ。1942年9月に同校本科作曲部を卒業。同年の『著作権者名簿』に、小林は「作曲」家として掲載され、1948年と1949年の紳士録にも「作曲家」として掲載されている。 小林はピアニストとしても活動し、1949年11月22日には声楽家柴田睦陸の伴奏者としてフォーレ、ショーソンなどの作品を演奏した。
高田 信一(たかた しんいち 1920年1月24日または19… 高田 信一(たかた しんいち 1920年1月24日または1921年11月5日 - 1960年1月16日)は、日本の作曲家、指揮者である。元広島大学教授。日本交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)、東京フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務めた。 実業家の息子(4人兄弟の長男)として、1920年(大正9年)に東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)で生まれた。1926年(大正15年)に成城小学校(現在の成城学園初等学校)に入学、8歳から上野耐之に音楽の初歩を学び、1932年(昭和7年)に成城高等学校(現在の成城学園中学校高等学校)尋常科に入学後は、12歳から藤田喜与子にピアノを、16歳から作曲を長谷川良夫に師事した。
入江 薫(いりえ かおる、1920年1月1日 - 2015年… 入江 薫(いりえ かおる、1920年1月1日 - 2015年11月15日)は、日本の作曲家である。宝塚歌劇団の座付き作曲家として多くの作品を手掛ける。 1950年(昭和25年)宝塚歌劇団に入社する。2014年に『宝塚歌劇の殿堂』の100人に選ばれた。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役) 秩父晴世 - 打吹美砂 - 楓茂美 - 玉野ひかり - 日下輝子 - 櫻野美也子 - 玉野ひか留 - 美山しぐれ - 桃山千歳 - 桂木ゆたか - 睦千賀&桂木ゆたか - 御幸沙智子&歌川波瑠美 - 歌川波瑠美 - 藤園さとみ - 銀あけみ - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 磯野千尋 - 一原けい - 梨花ますみ - 高翔みず希 - 悠真倫 - 紫峰七海 - 花野じゅりあ - 芽吹幸奈 - 冴月瑠那 - 美風舞良 - 航琉ひびき - 紫門ゆりや(現役) 紅羽真希(現役)
大木 英子(おおき ひでこ、1919年5月10日 - 200… 大木 英子(おおき ひでこ、1919年5月10日 - 2008年8月3日)は、日本の作曲家である。北海道小樽市出身。日本現代音楽協会会員。夫は大木正夫。旧姓:谷藤。 小樽高等女学校を経て、帝国高等音楽院ピアノ科を卒業。マリオ・パッチにピアノを、夫の大木正夫に作曲を師事する。 1956年に『ピアノ協奏曲第1番』が日本放送協会の芸術祭管弦楽部門に入選する。1957年には、上田仁指揮による東京交響楽団の日本人作曲家の作品初演シリーズで『雪のふるさと』が演奏された。1958年にピアノ作品発表会を開いている。この時期には、1958年の『ピアノと電子音響による協奏的四章』(ラジオ東京で放送された)や「ピアノソナタ」などの作品がある。
塚谷 晃弘(つかたに あきひろ、1919年〈大正8年〉3月1… 塚谷 晃弘(つかたに あきひろ、1919年〈大正8年〉3月16日 - 1995年〈平成7年〉10月13日)は、日本の経済学者・作曲家。経済学博士。國學院大學名誉教授。戸籍名、塚谷博通。 東京府本郷区湯島にて、鉄道照明機工場経営者の長男として生まれる。豊島師範附属小学校(現在の東京学芸大学附属小金井小学校)から武蔵高等学校 (旧制)尋常科・同高等科文科甲類を1937年に卒業。この間、14歳のとき母からピアノの手ほどきを受け、16歳で塚谷留太(国立音楽大学講師)からヴァイオリンを習い、旧制高校在学中から鯨井孝に師事、声楽を約2年間習う。 1938年、東京帝国大学経済学部入学。東大時代は同校の管弦楽団で1年間コントラバスを演奏。
近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 199… 近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 1992年7月5日)は、東京都出身の歌手、作曲家、映画監督である。本名大蔵 敏彦(おおくら としひこ)。兄は新東宝、大蔵映画社長を務めた大蔵貢、姉はコロムビア専属歌手となった香取みほ子。孫にアイドルグループ「エレクトリックリボン」の元メンバー、ericaがいる。 正則中学校卒業。武蔵野音楽学校在学中に教授と進級試験の方法を巡って対立し、1936年(昭和11年)に退学した。タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷(すべ)ろよスキー」でレコードデビュー。ポリドール・レコード専属になるまで、マイナーレコードを転々とし、その間に大友博(リーガル)、大久良俊(アサヒ)など改名を重ねるが、ヒットに結びつく作品はなかった。
利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日… 利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉12月16日)は昭和期の作曲家。本名:恩田 良武。 朝鮮で生まれた。本籍は群馬県邑楽郡明和町で、同地に本家と先祖の墓がある。 早稲田大学政経学部中退。 1942年(昭和17年)ポリドール・レコードに入社。その後キングレコードを経てビクターに所属。1947年(昭和22年)、「星の流れに」が大ヒット。作曲家人生49年で1200余曲を作曲する。1966年(昭和41年)、「霧氷」にて第8回日本レコード大賞を獲得。 日本作曲家協会理事を務めた。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章受章。 1991年(平成3年)12月16日死去。
磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 … 磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 - 1998年〈平成10年〉11月25日)は、日本の合唱指揮者、作曲家である。東京都大田区大森生まれ。NHK交響楽団で長く首席クラリネット奏者を務めた磯部周平は子息。元学習院長の磯部忠正は兄。 早稲田大学文学部芸術学科を卒業。在学中から平尾貴四男に作曲を学び、15年間早稲田大学グリークラブの専任指揮者を務め、共立女子大学合唱団・いそべとし男声合唱団・フレーベル少年合唱団など、多くの合唱団の指導に当たった。1955年、新しい子供の歌の創作活動「ろばの会」を大中恩、中田喜直らと結成し、数々の賞を受賞した。 後半生は神奈川県藤沢市鵠沼に住み、「湘南コールグリューン」を指導し、福永陽一郎に協力して藤沢市民オペラを発足させるなど、地域文化の向上に努めた。
山口 健作(やまぐち けんさく、1917年4月28日 - 2… 山口 健作(やまぐち けんさく、1917年4月28日 - 2012年7月25日)は、昭和時代中期から平成時代日本の作曲家。長崎大学名誉教授。 長崎市出身。1938年(昭和13年)4月に東京音楽学校甲種師範科に入学。下総皖一、城多又兵衛、伊藤武雄、今井治郎らの師事を仰ぐ。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業後、台湾に渡り台中師範学校に赴任。終戦後に帰郷し、長崎師範学校教諭に就く。 戦後は学制改革により長崎大学学芸学部助教授となり、1961年(昭和36年)制定の県民歌「南の風」を始め県内各地の校歌を作曲、教育学部名誉教授に至る。 2012年(平成24年)7月25日死去。享年96(満95歳没)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
海老原 直(えびはら すなお、1917年(大正6年)2月28… 海老原 直(えびはら すなお、1917年(大正6年)2月28日 - 1981年(昭和56年)5月29日)は、昭和時代の日本の作曲家。 宮崎県の生まれ。東京音楽学校卒業後、豊島師範(後の東京第二師範学校、現在の東京学芸大学学芸学部)を経て宮崎師範(現在の宮崎大学学芸学部)に移動後、学校で生徒に音楽を教える。小中学校の校歌を200曲以上作曲し、独唱曲を20曲以上作曲し、音楽の指導者として生涯を捧げた。また合唱の指導にも携わり、1950年(昭和25年)には故郷の宮崎県合唱連盟の理事長に就任した。 代表的な作品として『日向民謡による合唱曲集』などがある。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19… 貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 1998年〈平成10年〉7月14日)は日本の作曲家。 東京小石川茗荷谷で生まれる。父親は薩摩琵琶、姉は生田流の箏をよくした家庭であった。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)在学中、16歳の時に作曲したいという熱望から草川信に和声を学び始め、1934年、日本大学芸術科に入り、理論、作曲を小松耕輔、池内友次郎に、ピアノをジェームス・ダンに学び、1938年卒業。1938年11月、《交響曲の第1楽章》が第7回日本音楽コンクールに第2位入賞。翌年大学より芸術賞を受賞した。卒業後はしばらく療養生活を送り、創作を断ち、この間読書、音楽鑑賞などをしながら音楽観や作曲態度について思考する時間を持った。
富永三郎(とみながさぶろう、1916年11月30日 - 19… 富永三郎(とみながさぶろう、1916年11月30日 - 1987年6月20日)は日本の作曲家・教育家。 長兄は富永太郎、次兄は富永次郎。国立音楽大学卒。作曲を大中寅二、菅原明朗に師事。童謡や邦楽作品などを主に発表する。「赤穂浪士」などの時代劇を中心とした映画音楽を多く手がけた。戦後は明星学園、晩年に尚美学園で教鞭を取り、邦楽や編曲の実演などを強力に推薦し、ヨーロッパへの留学生の後押しを積極的に推し進める。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。