大竹 嘉重郎(おおたけ かじゅうろう)は、日本の海軍軍人。最… 大竹 嘉重郎(おおたけ かじゅうろう)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 1917年(大正6年)3月31日、旧制栃木県立栃木中学校卒業。1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校(48期)卒業。1940年(昭和15年)11月15日、香取副長就任。1943年(昭和18年)10月、大村海軍航空隊司令就任、博多海軍航空隊司令を兼務。その後、死去。
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大竹 嘉重郎(おおたけ かじゅうろう)は、日本の海軍軍人。最… 大竹 嘉重郎(おおたけ かじゅうろう)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 1917年(大正6年)3月31日、旧制栃木県立栃木中学校卒業。1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校(48期)卒業。1940年(昭和15年)11月15日、香取副長就任。1943年(昭和18年)10月、大村海軍航空隊司令就任、博多海軍航空隊司令を兼務。その後、死去。
江連 裕子(えづれ ゆうこ)は株式会社セント・フォース所属の… 江連 裕子(えづれ ゆうこ)は株式会社セント・フォース所属の経済キャスター。9年間日経CNBCメインキャスター。国際ビジネス情報番組「世界は今 JETRO Global Eye」キャスター。ラジオNIKKEI経済キャスター。TBS・フジテレビ・テレビ東京・BS朝日。専修大学アナウンス講座 講師、大学講師。東洋経済ONLINE、内田和成チャンネル。社外取締役、監査等委員、理事、顧問、アドバイザー。 •InterFM インベスターズサンデー 日本経済新聞 Nikkei Asian ウォールストリートジャーナル WSJ TBS 「Biz Street」 2015年6月27日「企業が変わる ガバナンス新時代へ」株主総会の密着取材 テレビ大阪 2015年6月25日 ニュースリアルで株主総会総会特集 日本経済新聞 社外取締役、女性に熱視線 ダイバーシティーを体現
小渕 岩太郎(おぶち いわたろう)は、日本の軍人・実業家・政… 小渕 岩太郎(おぶち いわたろう)は、日本の軍人・実業家・政治運動家。元光山社代表取締役会長、日本工業大学後援会会長。群馬県吾妻郡中之条町出身。 群馬県立渋川中学(現在の群馬県立渋川高等学校)から東京外国語学校西語(スペイン語)部貿易科に進学する。1942年9月の卒業後応召し、豊橋予備士官学校を経て1944年1月、陸軍中野学校に6期丙学生として入校する。9月の卒業後ただちに台湾に出征する。第10方面軍隷下山中部隊(のち第1高砂遊撃隊と改称)編成に携わり、本部附を経て司令部情報班に転じ、出先の高雄で民間人を装って後方遊撃戦展開の準備を進める中で終戦を迎えた。終戦時中尉。 1946年に台湾から復員後、実兄の小渕光平が創業した光山社グループに入社した。
鈴木 ともみ(すずき ともみ)は、経済キャスター、ファイナン… 鈴木 ともみ(すずき ともみ)は、経済キャスター、ファイナンシャル・プランナー・DC(確定拠出年金)プランナー。 埼玉県出身。浦和市立高校(現・さいたま市立浦和高校)、中央大学経済学部国際経済学科卒業後、日本短波放送(現・ラジオNIKKEI)に入社。経済番組ディレクター、マーケット記者を経て独立。生島企画室との提携キャスターとなったのち、プロダクション会社の代表取締役社長兼経済キャスターとなる。 現在、国士館大学政経学部兼任講師、早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員、多様性キャリア研究所副所長、日本記者クラブ会員記者。埼玉大学大学院人文社会科学研究科経済経営専攻博士前期課程を修了し、経済学修士を取得。
金 點坤(キム・ジョムゴン、김점곤)は大韓民国の軍人、教授。… 金 點坤(キム・ジョムゴン、김점곤)は大韓民国の軍人、教授。軍人時代は白善燁の下で活躍した。太極武功勲章授与者。 1923年、全羅南道光州楊林里に生まれる。本貫は金海金氏。光州師範学校付属国民学校卒業。光州師範学校尋常科入学。1年修了後、高卒資格試験に合格し、第一早稲田高等学院に留学。卒業後、早稲田大学文学部に進学。幹部候補生として中国に行き、北支那特別警備隊(中国語版)に配属。北京の同教育隊で1年半ほど特殊教育を受けた後、少尉任官となり、唐山市付近で小隊長を務めた。 終戦後に帰国。1946年2月、京城大学に入学するが、修学途中で警備士官学校第1期に入校。卒業後、任少尉(軍番10115番)。任官と同時に統衛部(国防部の前身)部長補佐官に登用され、軍内部の思想問題と軍と警察間の問題解決に努力した。
大石 正幸(おおいし まさゆき)は、日本陸軍の軍人(陸軍士官… 大石 正幸(おおいし まさゆき)は、日本陸軍の軍人(陸軍士官学校第30期)。最終階級は憲兵大佐。1941年(昭和16年)に第2野戦憲兵隊長としてマレー作戦に参加、1942年(昭和17年)2月、シンガポール占領後のシンガポール華僑粛清事件で市内の粛清を指揮したことで知られる。1947年(昭和22年)4月、同事件のBC級戦犯裁判で死刑判決を受け、同年6月にチャンギ刑務所で刑死。 1947年(昭和22年)4月2日、シンガポール華僑粛清事件で死刑判決を受け、同年6月26日、チャンギ刑務所で刑死。 辞世の句「心には かげやどすべき ものゝなし おのずからなる さだめと思へぱ」 事件当時、第2野戦憲兵隊の分隊長だった大西覚の回顧録によると、河村参郎中将(陸士29期首席)・大石憲兵大佐はむしろ粛清に反対したが、命令の当事者であった辻政信参謀(陸士36期首席)が逃亡中だったために、責任をとらされて処刑されたとしている。
牟田口 廉也 は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最… 牟田口 廉也 は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
田中 三雄(たなか みつお)は大日本帝国海軍軍人、航空自衛隊… 田中 三雄(たなか みつお)は大日本帝国海軍軍人、航空自衛隊員。戦前の海軍時代の姓は田中だが、戦後の航空自衛隊時代の姓は大谷だった。 熊本県立旧制玉名中学校を経て海軍機関学校(第36期)に進む。海軍機関学校を卒業後、霞ヶ浦海軍航空隊教官などを経て、海軍機関大尉に昇進する。その後、海軍大学校機関学科を卒業した。 卒業後は軍令部部員(第3部第5課)兼大本営海軍参謀、南東方面艦隊参謀などを歴任した。 1945年2月には海軍省人事局局員となり、海軍中佐で終戦を迎え、退役した。 その後、1952年に航空自衛隊に入隊し、整備学校(現・航空自衛隊第1術科学校)初代校長や北部航空方面隊司令や補給本部長などを歴任した。
両角 昂(もろずみ のぼる)は、海軍軍人。最終階級は海軍主計… 両角 昂(もろずみ のぼる)は、海軍軍人。最終階級は海軍主計大佐。 熊本県に生まれる。大正6年に熊本県立玉名中学校(同期生に坂口主税や弘好文)を卒業した。 その後、海軍経理学校に進学し、11期生として1922年6月に海軍経理学校を卒業した。 海軍主計少尉候補生に任官後は、1927年に海軍主計大尉となり、第29駆逐隊主計長や、第12駆逐隊主計長などを歴任した。 1935年11月には海軍主計少佐となり、佐世保防備隊の主計長や横須賀海軍経理部部員などを歴任した。 1941年に海軍主計中佐、1944年に海軍主計大佐となり、大湊警備府の札幌支部長で終戦を迎えた。 終戦直後に大湊警備府主計長に任命され、戦後処理に尽力した。
丸山 政男(まるやま まさお、1889年9月13日 - 19… 丸山 政男(まるやま まさお、1889年9月13日 - 1957年11月11日は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
久保 哲 は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍技術中将… 久保 哲 は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍技術中将。北海道札幌市(当時は札幌区)出身。
篠山 半太(しのやま はんた)は、日本の小説家、自衛隊員。
有地 藤三郎 は、大正から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。… 有地 藤三郎 は、大正から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍造兵大佐。貴族院男爵議員。
古谷 清 は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
呉 徳俊(吳德俊、オ・ドクチュン、오덕준)は大韓民国の軍人。… 呉 徳俊(吳德俊、オ・ドクチュン、오덕준)は大韓民国の軍人。 1921年、慶尚南道金海に生まれる。1943年、関西大学法科卒業。学徒出陣して福知山陸軍予備士官学校(福知山中部軍教育隊)卒業。広島県の中国軍管区歩兵第5補充隊(第48部隊)に勤務し、ここで原爆にあって顔半分を被曝し皮膚の色が違っていた。終戦時、日本軍少尉。韓国に帰国後は朝鮮建国準備委員会慶南支部軍事顧問。 1946年2月28日付で、軍事英語学校卒業の扱いで任少尉(軍番10059番)、第5連隊(釜山)付。同年3月、第5連隊B中隊(中隊長:李致業少尉)副官。1947年、第5連隊作戦主任(大尉)。1947年12月1日、第3旅団人事参謀(少領)。
馬淵 良逸(まぶち よしいつ)は、日本の軍人であり、最終階級… 馬淵 良逸(まぶち よしいつ)は、日本の軍人であり、最終階級は陸軍中佐。 昭和4年、京都帝国大学工学部電気工学科入学。 1964年9月、日本ロケット協会代表幹事就任。
金 鐘五(キム・ジョンオ、きん しょうご、김종오)は大韓民国… 金 鐘五(キム・ジョンオ、きん しょうご、김종오)は大韓民国の軍人。 朝鮮戦争開戦時は第6師団を指揮していた。指揮した著名な戦いに春川の戦い、白馬高地の戦い 。休戦後は合同参謀議長、陸軍参謀総長を歴任して大将に昇進した。太極武功勲章受章者。 金鍾五とも表記される。 1921年5月22日、忠清北道清州郡(現在の清州市)で生まれる。 日本の中央大学法学部在学中に学徒出陣し、日本陸軍少尉任官。 清州に帰郷後、同じく学徒兵出身の閔耭植と共に日本軍から引き渡された武器で「武装自衛隊」を組織した。 1946年1月、大韓民国陸軍の前身である南朝鮮国防警備隊に入隊。1月22日付にて軍事英語学校卒業、任少尉。軍番31番。
韓 信(ハン・シン、한신)は、大韓民国の軍人、企業家。朝鮮戦… 韓 信(ハン・シン、한신)は、大韓民国の軍人、企業家。朝鮮戦争では第1連隊を指揮。太極武功勲章授与者。 1922年12月、咸鏡南道永興郡に生まれる。本貫は清州韓氏。咸興高等普通学校を卒業後、弁護士を志して日本に渡り中央大学で法律を専攻した。1943年、中央大学卒業。同年に学徒出陣が始まると、徴兵逃れで朝鮮へと戻ったが、翌44年より朝鮮でも徴兵の適用拡大が始まったため入営を余儀なくされる。甲種幹部候補生となるも、見習士官で終戦を迎え、同時に少尉に昇進 。終戦後は故郷に戻ったが、共産政権を避けてソウルに行く。 1946年12月、警備士官学校第2期卒業、任少尉(軍番10183番)。第8連隊の創設に参加し、小隊長や中隊長を歴任。
凌 霄(りょう しょう)は、中華民国の海軍軍人。南京国民政府… 凌 霄(りょう しょう)は、中華民国の海軍軍人。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。別号は壮華。 日本に留学し、東京商船学校、海軍大学校を卒業した。帰国後は、北京政府参謀本部科長、奉天省航警学校校長、東北第2艦隊司令、渤海艦隊副司令を歴任する。1929年(民国18年)、沈鴻烈配下の東北第1艦隊司令として青島に入った。しかし沈と対立して、東北海軍駐青弁公処処長に転じている。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、凌霄は軍事委員会委員兼海軍部政務次長となった。同年5月、政務次長を離れ、委員専任となる。1944年(民国33年)11月、海軍部長任援道に代理して部長となり、翌1945年(民国34年)1月、正式に海軍部長に昇進した。
鄭 謙(てい けん)は中華民国の政治家、軍人。北京政府、奉天… 鄭 謙(てい けん)は中華民国の政治家、軍人。北京政府、奉天派で事務方をつとめた人物である。字は鳴之。 日本に留学し、法政大学を卒業した。その後、雲貴総督署参事、憲政籌備処参事、安徽国税庁籌備処坐弁、皖北税務局局長を歴任した。 1917年(民国6年)6月、黒竜江督署秘書長に就任する。同年11月、同省政務庁庁長に異動した。1920年(民国9年)、北京政府陸軍部参事に任命される。1922年(民国11年)、奉天派の張作霖の下で東三省保安司令部秘書長となった。 1925年(民国14年)2月、江蘇省省長に任命され、8月に一時的に江蘇督弁を兼任した。まもなく、楊宇霆が江蘇督弁となり、鄭謙は省長専任となっている。
呂 宜文(りょ ぎぶん/ろ ぎぶん)は、満州国の外交官・官僚… 呂 宜文(りょ ぎぶん/ろ ぎぶん)は、満州国の外交官・官僚・政治家、中華民国のジャーナリスト・軍人。 金州南金書院、大連工業学校を経て日本に留学し、明治大学専門部政治経済科を卒業した。帰国後は亜細亜製粉会社に入社し、続いて吉林省で山城鎮電燈公司経理となる。その後、旅順を拠点とする月刊紙『順律報』の創刊に関わり、編集長を務めた。1920年代末に大連へ移り、『泰東日報』編集長の傅立魚から勧誘されて同紙編集者となる。しかし、執筆した記事が原因で日本当局に弾圧され、呂は奉天へ逃れた。 まもなく呂宜文は張学良配下となり、東北軍航空司令部教官として起用された。1931年(民国20年)に満洲事変が勃発すると、張学良とは不仲の従弟・張学成に呂は随従し、満洲国樹立工作に関わるようになった。
青山 好昌(あおやま よしまさ/こうしょう)は、明治時代から… 青山 好昌(あおやま よしまさ/こうしょう)は、明治時代から大正時代にかけての日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 嘉永4年4月10日(1851年)、岡山藩士・難波湛の次男として岡山市内七軒町に生まれる。のちに岡山藩士・青山市衛の養子となり、青山姓を称した。 幼少より武技を好み、軍人として身を立てることを志す。明治4年(1871年)に陸軍へ入隊し、明治10年(1877年)の西南戦争では出征軍に参加して各地に転戦し、武功を挙げた。これにより陸軍歩兵大尉に昇進した。 明治18年5月、願い出て退職し、以後は閑地に居住して悠々自適の生活を送っていたが、明治37年(1904年)の日露戦争に際し動員令を受けて再び軍務に復帰し、清国に渡航して征露軍に参加、奮戦して軍功を挙げた。
池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) -… 池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) - 明治10年(1877年)9月24日)は、幕末の薩摩藩士、明治時代初期の軍人である。名は貞固、通称は四郎左衛門というが、明治になってからは四郎と称した。 鹿児島城下の樋之口通町(現鹿児島市加治屋町16番街区、旧地番175番地)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として生まれる。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが、医術を好まず、西郷隆盛(吉之助)・伊地知正治の教導を受け、勤王の志を抱いた。 安政の大獄(1858年)の前頃、藩主・島津斉彬の命によって江戸に遊学し、時々天下の情勢を藩主に報告した。薩英戦争(1863年)のときはスイカ売り決死隊に志願して英艦に切り込もうとしたが失敗、大門口砲台で英艦を撃退した。
原 直行(はら なおゆき)は、明治時代初期の海軍・陸軍軍人・… 原 直行(はら なおゆき)は、明治時代初期の海軍・陸軍軍人・警視隊幹部。海軍少佐・陸軍中尉を歴任し、のち三等大警部として西南戦争に従軍した人物。勲六等受章者。 原直行は元・新潟士族で、柏崎の人。維新後は新政府の軍制整備の中で海軍士官として登用され、明治5年(1872年)には海軍大尉に任じられ、正七位を授けられた。 明治6年(1873年)6月には海軍少佐へ進み、砲兵隊長を命じられている。翌・明治7年には業務上の不都合により3日間の謹慎処分を受けた記録が残る。 その後、原は陸軍および警察機構へ転じ、明治10年(1877年)3月2日には陸軍中尉兼三等大警部となった。 同年、西南戦争が勃発すると、自身が三等大警部として率いる警視隊400名とともに戦地へ向かい、3月26日に八代へ入港した。
ハインリヒ・ヴィルヘルム・ヘルベルト・ヴォールファールト(H… ハインリヒ・ヴィルヘルム・ヘルベルト・ヴォールファールト(Heinrich Wilhelm Herbert Wohlfarth)は、ドイツ海軍の軍人。第二次世界大戦で活躍したUボートの指揮官のひとり。 1915年6月、日本の石川県金沢市に生まれる。父は金沢の第四高等学校(現・金沢大学)でドイツ語を教授していたエルンスト・ヴォールファールト(Ernst Wohlfarth, 1873年 - 1956年)。父のエルンストは1902年から1921年まで約20年間にわたって四高に勤務し、小田切良太郎とともに和独辞典『新訳註解和独辞典』(1912年刊)を編纂している。この辞書は日本初の本格的な和独辞典と評され、好評とともに広く普及した辞典であった。
久木村 治休(くきむら じきゅう、天保14年〈1843年〉1… 久木村 治休(くきむら じきゅう、天保14年〈1843年〉10月 – 昭和12年〈1937年〉10月20日)は、薩摩藩出身の武士、のち警察官・軍人(陸軍少佐)。生麦事件でイギリス人チャールス・リチャードソンを殺傷した。 大隅国国分郷浜之市(現霧島市)の人。山本勇右衛門の三男として生まれた。山元定蔵の弟で、のち久木村家へ入った。 文久2年(1862年)、島津久光の東上に従い江戸へ向かい、その帰途、生麦村で奈良原繁らとともに外国人を殺傷した(生麦事件)。鉄砲隊に属していた治休は、一太刀を浴びせたと伝えられる。 昭和11年に雑誌『話』へ寄せた本人の回想によれば、当時外国人4名は行列を避けながら徐行しており「踏み込み」の事実はなく、後方で既に斬られて負傷した者が自分の前を通過しようとしたため、とっさに横一文字に斬りつけたという。
石光 真臣(眞臣)(いしみつ まおみ、1870年6月7日〈明… 石光 真臣(眞臣)(いしみつ まおみ、1870年6月7日〈明治3年5月9日〉- 1937年〈昭和12年〉12月8日)は、日本陸軍の軍人。陸軍中将従三位勲一等功四級。日露戦争時の諜報活動で知られる石光真清は兄。
石光 真清(眞清)(いしみつ まきよ、1868年10月15日… 石光 真清(眞清)(いしみつ まきよ、1868年10月15日(慶応4年8月30日) - 1942年(昭和17年)5月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少佐。従六位勲四等功四級。諜報活動家。明治から大正にかけてシベリア、満洲での諜報活動に従事した。石光真臣(陸軍中将)は弟。 明治元年(1868年)、熊本藩士・石光真民(100石)の長男として、熊本市(現)に生れる。少年時代を神風連の乱や西南戦争などの動乱の中に過ごし、陸軍幼年学校に入る。陸軍中尉で日清戦争に参加して台湾に遠征、ロシア研究の必要を痛感して帰国、明治32年(1899年)に特別任務を帯びてシベリアに渡る。 日露戦争後は東京世田谷の三等郵便局長を務めたりしたが、大正6年(1917年)に起きたロシア革命の後、再びシベリアに渡り諜報活動に従事する。
朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) -… 朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士、明治初期の軍人。通称は弾蔵。 天保13年(1842年)、佐賀城下に佐賀藩士の家に生まれる。幼少より藩校弘道館に学び特に兵学に優れた。戊辰戦争では佐賀藩隊の軍監付属や、小隊長として奥羽戦線で活躍している。また戦後は東京遊学を命じられ、昌平黌に入った。 明治4年(1871年)に帰郷すると同年編成された佐賀藩兵一番大隊長に任命され、さらに上京して陸軍少佐を拝命し兵部省に勤めたがほどなく辞職した。その後上京していたが征韓論に伴う明治六年政変により江藤新平、副島種臣などが野に下ると、再度郷里の佐賀に戻った。
古木 秀太郎(ふるき ひでたろう、慶応3年12月13日(18… 古木 秀太郎(ふるき ひでたろう、慶応3年12月13日(1868年1月7日)– 1948年(昭和23年)2月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。群馬県高崎市長。 越後国中頸城郡三郷村出身。1887年(明治20年)、陸軍教導団砲兵科課程を卒業。1893年(明治26年)に陸軍士官学校を卒業し、翌年に歩兵少尉に任官した。第2師団副官、高崎連隊区司令官を経て、1913年(大正2年)に歩兵大佐・歩兵第15連隊長に任じられた。1918年(大正7年)に陸軍少将に昇進し、待命となった。 1919年(大正8年)、予備役に編入され、高崎市長に選出された。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
悪 奨(わる すすむ、生没年不詳)は、明治初期の陸軍軍人。長… 悪 奨(わる すすむ、生没年不詳)は、明治初期の陸軍軍人。長門国大津郡田屋原村の士族の出身で、西南戦争に従軍したが、のちに軍紀違反により免官処分を受けた。 長門国大津郡田屋原村(現山口県長門市東深川下郷)の士族・悪政雄の長男として生まれる。明治期に陸軍へ入り、歩兵少尉試補として任官した。 明治10年(1877年)の西南戦争では、遊撃歩兵第七大隊のうち第四中隊に配属され、石丸雄介中尉の指揮下で士官心得として従軍した。 戦後も軍務に服していたが、明治12年(1879年)12月、歩兵第5連隊付を命じられたにもかかわらず任地に赴かず、数か月にわたり無断で東京に滞在した。この行為が問題視され、陸軍裁判所に拘引される。
武内 徹(たけうち とおる、慶応3年5月4日(1867年6月… 武内 徹(たけうち とおる、慶応3年5月4日(1867年6月6日) - 昭和4年(1929年)11月25日) は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。福井市長。 越前国足羽郡木田村(現在の福井県福井市)出身。陸軍士官学校を卒業後、1887年(明治20年)に工兵少尉に任官し、日清戦争には工兵大尉として出征した。1896年(明治29年)、陸軍大学校を卒業し、参謀本部に勤務するとともに陸軍大学校教官を兼務した。1899年(明治32年)に工兵少佐に昇進し、翌年には軍事研究のためオーストリア=ハンガリー帝国に派遣された。帰国後は参謀本部員となり、工兵中佐に昇進した。 1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争では線区司令官、大本営幕僚、野戦鉄道提理を歴任し、遼東半島で敵が破壊した線路の補修や物資輸送など鉄道の運営を行い、工兵大佐に昇進。
松岡 方祗(まつおか ほうし/かたまさ、天保14年(1843… 松岡 方祗(まつおか ほうし/かたまさ、天保14年(1843年) – 明治42年(1909年)11月8日)は山口県(周防国)出身の大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍大佐、叙位は正五位、勲六等。子に海軍少将・松岡修蔵。 周防国吉敷郡、のちの山口県吉敷郡大道村(現防府市)の出身で、元長州藩士。明治5年には成松明賢とともに少佐に任じられ正七位に叙された。翌6年には万年千秋らとともに従六位に叙し、肇敏員外乗組などの任にあたった。 明治17年5月8日、練習艦龍驤副長に補され、同年9月4日には第二丁卯艦長へ転じた。明治18年4月3日、三重県志摩国安乗崎灯台内湾で暗礁に乗り上げ第二丁卯は破損沈没したが、松岡ら八十余名は全員救助された。
島津 久家(しまづ ひさいえ)は、明治時代から大正時代の陸軍… 島津 久家(しまづ ひさいえ)は、明治時代から大正時代の陸軍軍人。都城島津家27代当主。宮崎県都城出身。正四位勲四等、男爵。 25代当主久静の弟で分家北郷家に養子に入った北郷久政の長子。 明治17年(1884年)、26代当主久寛が急死し子どもがいなかったことから、本家の家督を相続。明治24年(1891年)12月18日付けで、都城島津家の由緒と久寛の維新の功により男爵を授爵。 明治34年(1901年)に陸軍歩兵少尉に任官。軍事学研究のためフランスに留学。 明治37年(1904年)日露戦争開戦にあたって従軍のため帰国し、近衛歩兵第2連隊に入り中尉に進級、さらに大尉に進み、軍功により受勲される。 大正7年(1918年)1月31日、陸軍少佐進級。
龍岡 資峻(たつおか すけたか)は、幕末から明治時代にかけて… 龍岡 資峻(たつおか すけたか)は、幕末から明治時代にかけての薩摩藩士・日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。上原勇作の実兄である。 天保11年10月(1840年)、龍岡資弦の長男として生まれる。通称は小十郎、三作。嘉永元年(1848年)、9歳にして都城領主島津氏の児小姓となり、大島流槍術師範・白尾国宝から四面の奥義を授けられた。 安政2年(1855年)5月、番頭座詰となり、翌3年には番頭役兼道橋奉行に進み、町奉行をも兼ねた。文久2年(1862年)5月、島津久静が兵を率いて上洛した際にはこれに従って謀議に参与し、献策を行った。 慶応2年(1866年)、長崎派遣を命じられて鉄砲を購入し、洋式訓練を学んで帰藩した。