伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月2… 伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。 伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。 大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。 大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。 昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年〈明治34年〉11月… 手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年〈明治34年〉11月3日 - 1987年〈昭和62年〉3月27日)は、日本の書家、文化功労者。高知県安芸町(現安芸市)出身。本名・南海巍(なみき)。ニックネームは「ライオンの右卿」[要出典]。 妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。 1915年(大正4年)、川谷尚亭の門をたたき、師逝去の後は1935年(昭和10年)に上京、比田井天来の門下となる。その後、大日本書道院第1回展では天来の単独審査を手伝うなど、次第に頭角を現し、以後日展の参事や審査員、文部省指導書編集委員などを歴任。 常々、「書は人間の霊知の所産である」として、東洋的な精神性と現代感覚を融合した「象書」を創始。
日比野 五鳳(ひびの ごほう、1901年〈明治34年〉2月2… 日比野 五鳳(ひびの ごほう、1901年〈明治34年〉2月20日 - 1985年〈昭和60年〉1月27日)は、日本の書家。息子の日比野光鳳も書家。 岐阜県神戸町に日比野五鳳記念美術館がある。また神戸町役場の入口ロビーには、氏による山上憶良の子等を思う歌一首とその反歌を書にしたものが壁書として彫り込まれている。神戸町中沢の実家跡には碑が建っている。
松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2… 松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2日 - 1989年〈平成元年〉6月27日)は、日本の書家。日本のかな文字の第一人者、北海道を代表する仮名作家の1人とされる。毎日書道展名誉会員、創玄書道会名誉会員、藤女子大学教授。旧姓は小川 春子(おがわ はるこ)。 北海道帯広で誕生した。「女性に学問は不要」との考えが根強い時代にあって、進歩的な考えを持つ父のもと、幼少時より読み書きやそろばんを学んだ。特に父は書道に力を入れ、自身が道議会議員を務めたほどの名士だったこともあり、書道用具はすべて本場の中国製の物が揃えられた。これにより春子は小学生の頃、すでに大人顔負けの美しい文字を身につけていた。
松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月… 松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月31日 - 1988年〈昭和63年〉1月16日)は、歌人、書家。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)出身。旧姓は猿田。本名は郁次郎。橋田東聲に師事し、歌誌『覇王樹』に入り、1954年から同誌主宰。吉田苞竹に書を学び、隷書「杜少陵詩」で64年日本藝術院賞受賞。日展理事、大東文化大学教授。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 198… 木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 1989年11月6日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、画家、書家。南山大学名誉教授。 父・粂市は実業家、母・いつ(銉次)は永井家の出身で、永井荷風は従兄弟にあたる。叔父の大島久満次は台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員を歴任。 東京市中央区賽町(京橋)生まれ。1924年東京帝国大学文学部仏文科卒業。日本大学、法政大学、日仏学院などで教えた後、1947年南山外国語専門学校に赴任、南山大学創設に寄与。1971年まで南山大学仏文科教授、文学部長。 1950年、名古屋日仏文化協会を創設。敬虔なカトリック信者で、ジョルジュ・ベルナノス、ポール・ブールジェ(fr:Paul Bourget)などを多数翻訳した。
大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月… 大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月14日 - 1977年〈昭和52年〉9月29日)は、日本の書家。愛知県丹羽郡古知野村(現・江南市)生まれ。号は晴嵐、別号に一魯、田翁、魯翁。本名は一良(かずよし)。正六位勲五等双光旭日章受章。 大正時代から昭和初期に活躍した中部地方(尾張地方)の漢字書家。行草書を得意とした。父に伴い名古屋で書を、親戚に画を習った。書を志し上京、豊道春海に師事する。泰東書道院で活躍するも、戦災により帰郷する。帰郷後は中部書壇の高揚に努め会派の違いを結集した中部日本書道会の育成に貢献した。自会派平心社(後の東海書道芸術院)を創立した。日展・中部日本書道会脱退後はかえって中部日本書道会の方が全国展出品者が増え、主流となっていった。
川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11… 川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉3月4日)は、昭和に活躍した千葉県出身の書家。書道普及会創設者。社団法人日本書道院理事。書道研究温知会名誉理事。本名は川嶋 泰祐(かわしま たいすけ)。 1920年(大正9年)小野鵞堂主宰の書道研究斯華会に入会、1925年(大正14年)小野成鵞および神郡晩秋に師事し直接指導をうけ1952年(昭和27年)から1970年(昭和45年)には豊道春海に書道の薀奥を学んだ。また、世界各地に日本美術を紹介する手助けや、芸術家文化人のチャリティ展などに協力して書道の普及に尽力した。 桂山は1936年(昭和11年)「現代に適応した書道の普及と兼ねて精神の修養に資せんが為」に書道普及会を設立し、会誌「書道普及」を創刊する。
相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2… 相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1963年〈昭和38年〉11月23日)は、神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市)生まれの書家。 1916年に早稲田実業学校を卒業し、早稲田大学商科に入学したが、中途で退学している。1913年より中村春堂に師事し、また小野鵞堂にも益を受け、さらに田中親美について上代様古筆および大和絵について教えを受けた。東洋家政女学校、慶応義塾商業学校、府立滝野川商工学校、女子高等学園に勤務した。大日本書道奨励協会審査員、美術協会協議員、日本書道会協議員、泰東書道院理事審査員をつとめ、戦後は日本書道美術院の創立に参画し、理事審査員として同院の発展に寄与した。
田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月1… 田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月10日 - 1976年〈昭和51年〉2月1日)は、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)出身の日本の書家。本名は英市。 それまで細字に限られていた仮名(かな)の表現範囲を広め現代仮名書壇の基礎を築いた。 1896年(明治29年)2月10日、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)に生まれる。1922年(大正11年)、大阪貿易語学校を卒業。1924年(大正13年)、28歳で川谷尚亭に師事して漢字の書を学び、かなは独学で古筆を習得した。この時期、相沢春洋、田中親美らと親交を持った。 1931年(昭和6年)、第2回泰東書道院書道展にて特選を受賞、この後3回連続の特選となる。
石橋 犀水(いしばし さいすい、1896年〈明治29年〉1月… 石橋 犀水(いしばし さいすい、1896年〈明治29年〉1月9日 - 1993年〈平成5年〉2月15日)は日本の書家、書道教育家。本名は啓十郎。新吉富村名誉村民。正五位。文学博士。公益財団法人日本書道教育学会会長で書家の石橋鯉城は息子、書家の松本子游は娘、書家の松本筑峯は女婿(子游の夫)。 日下部鳴鶴・西川萱南・比田井天来に師事し、戦後は財団法人日本書道教育学会を設立するなど、書道教育の確立に尽力した。楊守敬が日下部鳴鶴を介して日本に伝えた廻腕法(廻腕執筆法)を受け継いだ。東京美術学校講師。新潟大学書道科初代教授。昭和を代表する書家であり、書道教育の第一人者である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1… 清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉12月8日)は、日本の外交官、書家、教育者。書画家として号を東翠。兄は画家の清水登之。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)出身。1915年東亜同文書院政治科卒。1919年東亜同文書院教授(中国語担当)。1929年外務省嘱託、1933年外務省翻訳官、1943年中華民国大使館一等書記官。1946年同大使館参事官、1955年中華民国台北大使館公使、1956年外務審議官。1959年外務省退官、その後は外務省、日本クラブなどで書画を教えた。
藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1… 藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1990年1月15日)は、岡山県生まれの書家。「和漢書道史」「書源(新書道字典)」の編纂者。青龍寺の「空海記念碑」を揮毫。本名は茂(しげる)、鶴来は号。 岡山県玉野市に生まれる。岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)で大原桂南に学び、丹羽海鶴、鈴木翠軒、加藤飯山に師事。比田井天来、松田南溟に益を受ける。 岡山第一中学校の教員を経て、香川師範学校教諭となる。戦後香川大学教育学部教授となり後進の育成につとめる。書道の歴史解説書「和漢書道史」、名跡筆法の字典「書源(新書道字典)」を編纂。中国陝西省西安市青龍寺の「空海記念碑」を揮毫する。 1986年文部大臣より「地域文化功労者」として表彰される。
松本 芳翠(まつもと ほうすい、1893年〈明治26年〉1月… 松本 芳翠(まつもと ほうすい、1893年〈明治26年〉1月29日 - 1971年〈昭和46年〉12月16日)は、愛媛県伯方島生まれの日本の書家。 日本芸術院会員。本名・英一。字・子華。別号・樗盦・二葉・栖霞山人・來吉齋。法号・書海院徳藝芳翠大居士。 1907年(明治40年)今治中学校を中退、加藤芳雲に師事。1910年(明治43年)明治薬学校(現明治薬科大学)卒。1911年(明治44年)近藤雪竹に師事。1914年(大正3年)日下部鳴鶴に師事。 1916年(大正5年)日本郵船に入社。1921年(大正10年)「書海社」を設立し、競書誌「書海」を発行。1922年(大正11年)平和記念東京博覧会で、一等賞金牌受賞。
丸山 敏雄(まるやま としお、1892年5月5日 - 195… 丸山 敏雄(まるやま としお、1892年5月5日 - 1951年12月14日)は、日本の教育者、社会教育家、書家。倫理研究所、秋津書道院、しきなみ短歌会の創立者。戦後の日本において、倫理運動と呼ばれる生活改善運動を創始した。 1892年(明治25年)5月5日、福岡県上毛郡合河村字天和(現在の福岡県豊前市天和)に、半三郎・ギン夫妻の四男として生まれる。 父親は浄土真宗の熱心な信徒で、神仏礼拝を重んじた。家の跡継ぎではない敏雄を僧侶にしたいとの願いから、父親は「信を取れ!」と言い続け、敏雄に厳格な信仰教育を施した。 10歳の時、敏雄は従兄と家の近所の池で遊んでいた際に溺れてしまったが、近くに住む青年に助けられた。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12… 大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12月17日 - 1953年〈昭和28年〉9月12日)は、昭和時代の日本の書家・歌人。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。本名・雅休(まさやす)。 群馬県群馬郡大類村(現・高崎市柴崎町)の農家の長男として生まれる。高陽義塾を経て高山社に学ぶ。 1908年(明治41年)群馬郡金島村金島小学校代用教員となり、翌1909年同郡倉賀野町へ転勤。1911年高崎歩兵第15連隊に入営、除隊後大類小学校に勤務。村上鬼城や村上成之(蛃魚)に俳句の指導を受ける。 1916年(大正5年)栃木県那須開墾地に入植。このころ『ホトトギス』に小説や俳句を発表、また『アララギ』会員となり島木赤彦の指導を受ける。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年… 新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年〈明治22年〉9月29日 - 1984年〈昭和59年〉2月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶、書家。雲洞庵四十五世住職。号は無著。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)出身。1911年(明治44年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)7月に第四高等学校を卒業、1917年(大正6年)7月に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。 1918年(大正7年)に雲洞庵四十五世住職に就任、1921年(大正10年)6月に養父で曹洞宗管長の新井石禅に随行してアメリカに渡り、6カ月間、各地を視察、ウォレン・ハーディング大統領に謁見。 1939年(昭和14年)に新潟県仏教各宗代表中支派遣皇軍慰問団団長として中支戦線を巡錫、1942年(昭和17年)に南満州鉄道に招聘されて満州に渡り、各地を行脚、南満州鉄道職員に講演。
伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 19… 伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 1948年11月23日)は日本の書家。本名は宮本 正雄門(みやもと まさおと)。 和歌山県和歌山市に生まれる。 1891年(明治24年)、2歳で漢学者南海鐵山に入門し、1892年(明治25年)、3歳で元堺県知事に揮毫を披露する。早くから神童・天才書家と呼ばれ、幼くして古典を暗記するなど博覧強記な人物であったという。 1894年(明治27年)、5歳で王羲之の書法を体得し、免許皆伝書を授与される。 1895年(明治28年)2月13日、5歳の時明治天皇の御前で腕前を披露し、「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜る。後に伊藤博文の書生となり、「伊藤明瑞」を名乗るようになった。
鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5… 鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月26日)は、愛知県生まれの書家、文化功労者。旧姓は長尾、本名は春視(はるみ)、翠軒は号。 愛知県渥美郡堀切村(現在の田原市堀切町)に生まれる。1903年愛知県立第四中学校(現在の愛知県立時習館高校)を卒業後、1910年愛知県立第一師範学校へ進学。翌年卒業して地元の小学校の訓導となる。1916年文部省習字科検定試験に合格すると、1919年に上京して丹羽海鶴に師事した。この時、比田井天来にも教えを乞う。1932年、『国定甲種小学書方手本』の揮毫者となり、1938年に完成させる。この国定教科書の書風は、その明快な用筆と結体により絶賛され「翠軒流」として世の中に広まった。
酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月2… 酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月22日 - 1962年〈昭和37年〉2月12日)は、日本の華族、詩人、歌人、書家。位階爵位は正三位伯爵。財団法人致道博物館の創設者。 庄内藩11代藩主だった華族の酒井忠篤伯爵の次男で、最後の藩主酒井忠宝(忠篤の弟)の養子にあたる。幼名は小五郎。1915年(大正4年)の忠篤の死去に伴い、酒井佐衛門尉家20代当主となるとともに、2代伯爵位を襲爵した。富裕な華族で、山形県の多額納税者だった。1947年(昭和22年)8月15日、昭和天皇が戦後巡幸した際には、鶴岡市内の邸宅が御泊所となった。 1950年(昭和25年)、地域振興のため所有する庄内藩主御隠殿及び藩校致道館資料を財団法人以文会(現:致道博物館)を設立の上で寄付。
松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)1… 松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)10月22日 - 1962年(昭和37年)10月15日)は、日本の書家。以文会(現・致道博物館)理事、松平武右衛門家10代当主。黒崎研堂門下では吉田苞竹と双璧をなした。 1884年(明治17年)10月22日、塚原権平の子として、山形県東田川郡松ヶ岡(現・鶴岡市羽黒町)に生まれる。松平武右衛門家9代当主・松平久彰の養子となる。その後、黒崎研堂の門下生となり、書と詩を学ぶ。 1907年(明治40年)山形師範学校を卒業し、最上郡鮭川村小学校に勤務。1908年(明治41年)教員試験に合格し中等教員習字科の免許を取得する。1912年(明治45年)酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)教諭。
田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 19… 田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 1946年12月13日)は、日本の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して塩尻小学校に奉職した後、1903年に東京音楽学校師範科を卒業、東京市誠之小学校に勤務した。 書家としては1904年に丹羽海鶴に入門し、その後巖谷一六、日下部鳴鶴、比田井天来らの影響を受けて六朝書や顔真卿の書法を研究し、その書風は「古厚蒼勁にして閑雅」と評された。1907年に二松學舍(現二松學舍大学)に入学。その後東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験(文検)検定委員、興亜書道連盟理事・総務を務めた。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月… 半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月15日 - 1956年〈昭和31年〉)は日本の書家。本名は半田時之進。 半田丑松とチイの長男として[独自研究?]、栃木県河内郡野澤村(現・宇都宮市野沢)に生まれる。旧制宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。 旧制宇都宮商業、佐野中学校、花巻高等女学校に在職。1926年(大正15年)群馬師範学校に転任し1932年(昭和7年)まで勤務。退職後は桐生に在住し、晩年に郷里宇都宮に戻った。叙従七位。 書は岩田鶴皐、近藤雪竹、比田井天来に学ぶ。天来の書学院教授も務めた。天来の死去の際は、葬儀委員長を仰せつかっている。月刊誌『大成』を刊行して後進を指導した。
川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月2… 川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月20日 - 1969年〈昭和44年〉4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。静岡県袋井市生まれ。 父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。 昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23… 式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23日 - 1933年〈昭和8年〉4月1日)は、日本の歌人、書家、国文学者。元大阪府女子師範学校専攻科教授。本名は式場 益平(しきば ますへい)。 新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉字指柳(現 五泉市本町)の式場幸八の長男として生まれた。 1897年(明治30年)4月に新潟中学校に入学すると、俳句の会・舟江会に入り、2年先輩の会津八一と知り合った。1901年(明治34年)7月に同級生の青木得三、安倍邦太郎、山崎良平たちと同人雑誌『若菜舟』を発行した。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業すると、上京して二松學舍で三島中洲に漢文学を、落合直文に国文学を学んだ。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
西脇 呉石(にしわき ごせき、1879年(明治12年)3月8… 西脇 呉石(にしわき ごせき、1879年(明治12年)3月8日 - 1970年(昭和45年)11月7日)は、日本の書家。名は静、字は如練・子遠。 福井県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。戦前は福井高等女学校教諭、東京府師範学校教諭、東京府立第三高等女学校講師などを務めた。 書を大阪の村田海石に学んだが、その存命中から東京で日下部鳴鶴にも学んだ。この他漢学を富田鴎波、漢詩を国分青崖、岡崎春石に学び、南画を長田雲堂、三谷耕雲、原田尾山に学んだ。日本において詩書画に通じた最後の人物の一人である。 1917年(大正6年)には文部省より委嘱をうけて国定書キ方手本を揮毫したことで著名であるが、日展会員・毎日書道展名誉会員として戦後の展覧会にも多数の作品を出品した。
豊道 春海(ぶんどう しゅんかい、1878年〈明治11年〉9… 豊道 春海(ぶんどう しゅんかい、1878年〈明治11年〉9月1日 - 1970年〈昭和45年〉9月26日)は、大正から昭和に活躍した天台宗の僧、書家。幼名は川上 寅吉(かわかみ とらきち)、得度後の僧名は慶中(けいちゅう)。別号に龍渓(りゅうこく)、谷門道人(こくもんどうじん)、天門海翁(てんもんかいおう)がある。栃木県佐久山町(現:大田原市)の出身。子に天台僧で書道家の印南溪龍、孫に天台僧で書道家の印南溪峻がいる。 6歳で僧籍に入り、13歳のときに叔父・篠原守慶から得度を受け、慶中と称した。1891年(明治24年)より書を西川春洞に学んで、六朝風の楷書に独自の書風を作り出した。1900年(明治33年)から東京浅草の天台宗華徳院の住職を務め、戦後に行元寺へ移った。
丁 仏言(てい ふつげん、1878年 〈光緒4年〉 - 19… 丁 仏言(てい ふつげん、1878年 〈光緒4年〉 - 1930年〈民国19年〉12月1日)は中華民国の政治家・書家・詩人・ジャーナリスト。仏言は字で、名は世嶧。号は邁純。 清の廩貢生。日本に留学し、1907年(光緒33年/明治40年)6月、法政大学法政速成科第四班を卒業した。帰国後はドイツの山東鉱山区占領に反対するため、保鉱会という組織を結成している。後に山東法政学堂教習(教官)となった。1910年(宣統2年)、山東咨議局議員に当選したが、翌年辞職する。武昌起義が勃発すると、革命派に与して山東省の独立を図った。 1912年(民国元年)、北京で臨時参議院議員に当選し、さらに『亜細亜日報』主筆もつとめた。
岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - … 岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - 1951年〈昭和26年〉9月7日)は、歌人、書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名・三郎。書号・三谷(さんこく)、俳号・傘谷(さんこく)。 徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく、17歳のとき香取秀真に一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのはこれまで自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月2… 尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学、一高を経て、東京帝国大学文科大学に進み1901年に卒業。哲学館(現・東洋大学)講師、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年–1907年度)。
石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日… 石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月29日)は、昭和期の日本の篆刻家・書家である。 幼名は石松、長じて碩と改名。雙石を号とした。千葉県山辺郡四天木村(現・大網白里市四天木)の生まれ。 四天木村の石井太郎兵衛の三男として誕生。石井家は九十九里浜の大網元・斉藤巻石(四郎右衛門)とは縁戚にあたり、石松少年は度々斎藤家を訪れ、収蔵された書画・美術品に触れることができた。この頃から細かいことが大好きで小刀を持ち歩いては様々な物に彫りつけたという。四天木学校に四年間通うと儒家島田順堂に素読を習い漢学の基礎を身につけた。14歳には父の務めている役場で書記見習いとして帳簿や土地台帳の整理を行っている。
大西 行礼(おおにし ゆきのり、1870年9月25日(明治3… 大西 行礼(おおにし ゆきのり、1870年9月25日(明治3年9月1日)– 没年不詳)は、日本の実業家、蔵書家。 1870年、香川県の士族、素封家である大西家当主・大西唯一の長男として出生。1874年(明治7年)12月に家督を継ぎ、1893年(明治26年)に明治法律学校(現・明治大学)を卒業した。百十四銀行重役などを務める一方で農業も営み、香川県の高額納税者であった。四国財界の代表者と言われ、四国第1位の資産家であった。また、重要文化財などを含む、多くの和漢の書籍を所有し、日本では稀に見る蔵書家と称された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868… 中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868年8月20日〉 - 1960年〈昭和35年〉3月14日)は、日本の能書家。漢学者中村芳平の子。豊前国仲津郡祓郷村大字田中(現在の福岡県京都郡みやこ町田中)出身。名は尚友、字は玄郷、通称を楳太郎(梅太郎)、雅号を春堂または耕心斉と称した。 旧制豊津中学校(豊津高校→現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、大分県中津町の河野私塾に学んだ後、郷里で初等教育に従事していたが、1896年(明治29年)に上京。法制局長官・末松謙澄(現行橋市出身)の推薦により内閣法典調査会に奉職した。勤務のかたわら専修学校(現専修大学)に入学して、法律学・経済学を学んだ。
大島 雅太郎(おおしま まさたろう、1868年1月25日(慶… 大島 雅太郎(おおしま まさたろう、1868年1月25日(慶応4年/明治元年1月1日) - 1948年(昭和23年)6月9日)は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。 大島の父で塚本長民の弟でもある大島景保は旧日向国延岡藩藩士で、北条流兵学指南役であり、西南戦争では西郷隆盛率いる西郷軍に呼応する党薩諸隊の一つの延岡隊の小隊長となる。
服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(186… 服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(1867年12月21日) - 昭和39年(1964年)5月27日)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢詩人・書家。「最後の漢詩人」とも言われる。 1867年(慶応3年)、尾張国海西郡鯏浦(現在の愛知県弥富市鯏浦)に生まれる。戦国時代の土豪服部友貞の子孫で、大地主の家の次男であった。幼名は粂之丞(くめのじょう)。1882年(明治15年)、尾張藩の儒者森村大朴に漢籍を学ぶ。大朴は粂之丞の熱心さに感心し、漢詩を作るように勧めた。1884年(明治17年)村田梅村の水月吟社に入る。ここで漢詩人の森春涛らの影響を受ける。粂之丞は、名を擔風と改め、詩の研究とともに詩作に励んだ。
宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867… 宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867年11月15日) - 昭和18年(1943年)7月9日)は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)。山形県米沢の出身。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。 詠士は明治37年(1904年)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾・善隣書院を創設して生涯その経営にあたるなど、戦前の中国語教育に大きな足跡を残した。また書家としても著名で、代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる。 国立国会図書館 憲政資料室所蔵『宮島誠一郎関係文書』、早稲田大学図書館所蔵『宮島誠一郎文書』、神戸大学附属図書館所蔵『宮島家文書』には一部大八関係の資料が収められている。
岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年… 岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年7月26日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月11日)は、日本の書家。日下部鳴鶴の弟子である。本名は要輔。号は群鵞居士、刀寧漁夫。 下総国相馬郡高野村(現・茨城県守谷市高野)出身。茨城師範学校を卒業後、茨城県・神奈川県の小学校、神奈川師範学校、埼玉師範学校で教師を務める。1921年に書道雑誌『郡鵞』を発刊。日本美術協会評議員、泰東書道院総務審査員、大日本書道院総務審査員を務めたほか、1936年には日本書道学校を創設するなど書道界の発展に尽力した。 1927年当時の住所は東京市牛込区矢来町2番地26号。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年… 黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年3月11日) - 1923年(大正12年)8月31日)は、明治・大正時代の書家・漢学者。名は安雄。字は武卿。別号に欣堂、蓍園。讃岐国(香川県)出身。金石文の権威であり、楚辞や文選等を得意とした。 慶応2年(1866年)讃岐国那珂郡良野村(現・まんのう町吉野)大宮神社祠官黒木茂矩(しげのり)の子として生まれる。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、父・茂矩は秋山厳山、日柳燕石らに学び、高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)等を務めた。 欽堂は父・茂矩と片山冲堂に学んだ後、漢学塾・二松學舍を経て、1885年(明治17年)東京大学文学部附属古典講習科漢書課後期入学、1888年(明治21年)7月卒業。
飯塚 雲擧(いいづか うんきょ、1865年3月31日 - 没… 飯塚 雲擧(いいづか うんきょ、1865年3月31日 - 没年不明)は、日本の書家。通称は勘藏。字は偆子。雲擧は号。別号は夕立庵晋湖。明治時代に東京で活躍した。 元治元年4月4日(1865年3月31日)、飯塚長次郎の長男として、下野国都賀郡のうち現在の栃木県栃木市三鴨地区にあたる地域に生まれる。小学校卒業後、漢学を修め、小学校で教鞭もとる。その後上京して教導団に入り、卒業後近衛軍曹となる。明治22年(1889年)除隊となると漢学の私塾を東京に開き、そのかたわら書法を尾形雲海に、詩文を石川文莊に学び、大師流の書法を究めた。 また俳諧を好み、老鼠堂永機に就いて研究し、奥義を極めた。夕立庵晋湖と号して撰者の資格も得て、有聲吟社を創設して書道、俳諧の教授に従事した。
菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10… 菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日)は、明治-昭和前期の日本のドイツ語学者・書家。号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授としても知られた。芥川龍之介から尊敬され、芥川の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をした挿話も有名である。 筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた。1880年(明治13年)、17歳の時上京し、1891年(明治24年)日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を卒業する。卒業後、教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任。
千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6… 千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6月11日) - 1953年(昭和28年)6月25日)は、東京府士族、歌人、書家、日本芸術院会員。親族:秋山虎六、天本浩義。 肥前佐賀出身。1881年佐賀中学校卒。1884年佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。1885年高崎正風に師事、和歌を学ぶ。書を長三州に学ぶ。1888年農商務省博覧会勤務。1890年内国勧業博覧会、パリ万国博覧会事務。1892年宮内省御歌所勤務。1908年御歌所寄人。1916-1919年明治天皇御製編纂に従事。1936-1944年歌会始点者。1937年帝国芸術院会員。1946年従三位に叙せられた。墓所は青山霊園。 近衛公爵、徳川公爵、大山公爵、前田侯爵、蜂須賀侯爵、鍋島侯爵等へ伺う。
秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日〈1864… 秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日〈1864年3月27日〉 - 1954年〈昭和29年〉2月23日)は、日本の書家。諱は純、通称は隆道、白巌は号で、別号を碧城・探淵という。晩年、白巌と号し、碧城でも名が通っている。 田安徳川家の家臣秋山義隆の次男として江戸青山に生まれる。書は初め巻鴎洲に学び、後、巻菱湖の内弟子となった。明治19年(1886年)に渡清して徐三庚の門に学び、明治24年(1891年)に一旦帰国し、中村蘭台や西川春洞に大きな影響を与えた。帰国後、東京市京橋区に「弘書学院」を創立し書道の通信教育をはじめ、日本各地や台湾で書塾を開き、書道の普及に努めた。 明治初期の日本の書道界は、明治13年(1880年)の楊守敬の来日を機に、日下部鳴鶴・巖谷一六・松田雪柯などの活動によって六朝書道が盛行し、江戸時代とは全く異なる様相を呈してきた。
山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈186… 山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈1863年11月9日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月24日)は、近代日本の書家。名は由定。竟山、聾鳳と号した。美濃国厚見郡岐阜町(現在の岐阜県岐阜市)の出身。 書は日下部鳴鶴に師事した。明治35年(1902年)楊守敬を慕って清国(現在の中国)に渡り書法を学んだ。以後中国に遊学すること7回に及んだ。そこで楊守敬のほか呉昌碩、顧麟士らと交流して書学を研鑽し、多数の法帖碑版を日本へもたらした。明治時代の末には京都へ転居し多くの子弟を教育して関西の書壇に新風を吹き込んだ。学書の基本をいつも古典の臨書においていた人であり、個性を尊び、創造性と自主性のある書を書くことを心がけたという。
小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月… 小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月11日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、駿河国生まれの書家。名は鐧之助、字は間金、鵞堂は号。別号を斯華翁、斯華書屋主人という。斯華廼舎、二柳居の堂号もある。 明治、大正のかな書道界を代表する大家で、現代のかな書道の基礎を築いた一人である。平安期の草仮名を基底として独自の流麗なスタイルを案出し、その書風は鵞堂流と称され多くの門弟を得た。また「斯華会」を創設し、この組織をもって普及に努めたため、婦人たちで習字をするものはほとんど鵞堂流を習うという盛況を現出した。 文久2年(1862年)駿河国(静岡県)藤枝宿に、田中藩士の武道師範、小野清右衛門成命の長男として生まれる。
織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6… 織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6月13日〉- 昭和11年〈1936年〉10月6日)は、金沢出身の官僚、蔵書家。初名は小太郎。字は斌叔。号は確斎、古仏、帯秋草盧。司法省、内務省勤務を経て、前田侯爵家学事顧問を務めた。無窮会調査主任。 1872年(明治5年)、小橋小学校(金沢市立馬場小学校)に入学し、習字算盤、『国史略』、『十八史略』、四書五経の素読を学んだ。1873年(明治6年)、変則中学に進み、入学者100名の成績上位10人程が属する甲類に入り、従来の学問に加え、洋算、英語を学んだ。成績優秀者は年俸25円で小学校教師に採用されたため、小覚も寄宿舎から小学校へ通った。 1874年(明治7年)、変則中学校が英語専門と法律産業専門に分かれたため、法律産業専門学校に入学し、箕作麟祥のフランス法翻訳書を学んだ。
細田 謙蔵(ほそだ けんぞう、1858年〈安政5年〉 - 1… 細田 謙蔵(ほそだ けんぞう、1858年〈安政5年〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の漢学者、書家、大学教授。号は剣堂。 鳥取県倉吉市出身。巻菱湖書を学び、東京の二松學舍で漢学を学んだ。その後、中国に渡り、漢学と書道を研鑽した。 二松學舍大学、中央大学、大東文化学院、東京高等師範学校、東京女子高等師範学校などの諸学校で教授を務めた。 根岸信五郎の道場・有信館に入門し、神道無念流剣道も学んだ。富山県の旅館を定宿としており、当時そこで丁稚をしていた中山博道に有信館を紹介した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。