浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1… 浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1981年5月6日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を2014年9月5日に山本昌(中日)に破られるまで、64年間にわたり保持していた。また、身長は150cmから160cmまでいくつかの説があり、日本プロ野球史上最も背の低い選手とされることがある。 実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇したときの選手(投手・内野手)で、その後審判として平和台事件の球審を務め、歴史的判断を下したことでも知られる。 呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。
安永一(やすなが はじめ、1901年(明治34年)12月3日… 安永一(やすなが はじめ、1901年(明治34年)12月3日 - 1994年(平成6年)2月2日)は、アマチュアの囲碁棋士、囲碁評論家、ライター。兵庫県氷上郡出身。木谷実、呉清源と共著の『囲碁革命 新布石法』は特に有名。アマチュア棋士としても実力は一流で、中国流布石を創始したとも言われる。プロ棋士の育成もし、門下に小松英樹、谷口敏則、吉岡薫らがいる。
大浜 英子(おおはま ひでこ、1901年11月11日 - 1… 大浜 英子(おおはま ひでこ、1901年11月11日 - 1982年3月25日)は、日本の婦人問題・家族制度問題評論家。 京都出身。1922年日本女子大学校師範家政科卒。大浜信泉と結婚。1930年婦人同志会を結成。1939年人事調停法に基づく最初の調停委員となる。 1950年婦人人権擁護同盟を結成。家族制度・婦人問題の評論家として活動、中央選挙管理委員会委員長、国民生活センター会長などを務めた。 1964年には杉並通り魔事件の犯人少年より、犯行(男児の陰部切断)を描いた絵と、(テレビ番組で)「ヨケイナ批判ヲスルナ」と書かれた脅迫状が届いた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
新島 繁(にいじま しげる、1901年11月3日 - 195… 新島 繁(にいじま しげる、1901年11月3日 - 1957年12月19日)は、日本のドイツ文学者、思想評論家、翻訳家。 専門はドイツ文学で、多数の翻訳を手掛けた。文学作品の翻訳時には本名の野上 巖(のがみ いわお)を用いた。 山口県生まれ。東京帝国大学独文科を卒業した。日本大学予科教授となり、1929年プロレタリア科学研究所に参加する。しかし、1931年に日本大学を辞職させられる。 1932年に唯物論研究会に参加し、その後治安維持法違反などの嫌疑で投獄される。獄中の1940年に転向して保釈されたが、太平洋戦争後、日本民主主義文化連盟、民主主義科学者協会などの創立にかかわる。 1955年、神戸大学教授に就いた。
大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 -… 大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 - 1974年4月14日)は、日本の演劇評論家、演出家。 秋田県出身。慶応義塾大学在学中に劇作家や演出活動を行っていた小山内薫の指導を受けて演劇研究会を結成。1926年(大正15年)に卒業した後は松坂屋宣伝部に勤めながら演劇評論を発表。新派、新劇、文学座などの演出を行っていた久保田万太郎に師事し、1932年(昭和7年)には築地座結成に参加して文芸部に入った。 1939年(昭和14年)、築地小劇場が株式組織化した際には、新協劇団、新築地劇団関係者らとともに発起人となった。一方、同年からは新派との関りを深め、戦後の一時期には新国劇の文芸部に籍をおいたものの、長きにわたり新派を中心に演出活動を行った。
渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治3… 渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治34年)9月25日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本のフランス文学者・評論家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。ルネサンス期フランスのフランソワ・ラブレーやエラスムスなどの研究、及び『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳で知られる。 1901年、銀行家の長男として東京府で生まれた。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巖谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、東京帝国大学文学部仏文学科に進学。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。
淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1… 淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1977年5月20日)は、日本の社会評論家。
青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1… 青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1日 - 昭和54年(1979年)3月27日)は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名であった。
宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 19… 宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 1982年12月17日)は、日本の教育評論家、児童文学作家。男性。 長野県下伊那郡市田村(現高森町)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、慶應義塾大学文学部心理学科卒。同幼稚舎教師を経て、戦後は小原國芳の湘南学園設立に参加し初代園長、杉野女子大学短期大学部教授。 自ら児童読物を多く書いたほか、教育指南書を著し、旧文部省の「幼稚園指導要綱」作成委員なども歴任した。 子に演劇評論家・「朝日ジャーナル」編集長の宮下展夫、ドイツ文学者・慶應義塾大学名誉教授の宮下啓三。
尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29… 尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本のジャーナリスト・評論家。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。共産主義者であり、ソ連のスパイ・扇動者としても活動した。 近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。 共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加。最終的にゾルゲ事件(「ゾルゲ゠尾崎事件」とも呼ばれる)として1941年(昭和16年)に検挙され、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。
遠地 輝武(おんち てるたけ、1901年4月21日 - 19… 遠地 輝武(おんち てるたけ、1901年4月21日 - 1967年6月14日)は、日本の詩人・美術評論家。 本名: 木村 重夫。兵庫県飾磨郡八幡村(現・姫路市)生まれ。日本美術学校卒。1925年に第1詩集「夢と白骨との接吻」を刊行するが発禁となる。1930年プロレタリア詩人会の創設に参加。戦争中は美術活動をし、戦後は1946年に日本共産党に入党し、新日本文学会に参加。本名で美術評論を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 19… 松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 1976年4月15日)は、日本の評論家、英文学者である。 東京生まれ。青山学院英語師範科卒業。1927年、平凡社に入社し、『新興文学全集』の編集を通じてプロレタリア文学運動に接近。日本プロレタリア作家同盟やプロレタリア科学研究所に参加してアメリカ文学の紹介をすると共に、『プロレタリア英語入門』(鉄塔書院、1932年)などを著した。 のち日本評論社に移るが、1944年横浜事件で逮捕され、敗戦後釈放される。戦後は、日本民主主義文化連盟の創設に参加、日本ジャーナリスト会議副議長をつとめた。回想記『過去と記憶』(光和堂)で、多喜二・百合子賞を受賞した。
尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 19… 尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 1967年3月14日)は、日本の外交官、外交評論家。 熊本県生まれ。京都府立京都第一中学校卒。1924年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。
木村 禧八郎(きむら きはちろう、1901年2月2日 - 1… 木村 禧八郎(きむら きはちろう、1901年2月2日 - 1975年5月13日)は、日本の政治家、経済評論家。日本社会党参議院議員。野党随一の財政政策通として知られて、特にインフレーション抑止政策を一貫して主張した。 東京の呉服商の家に生まれた。少年時代から勉強好きで知られ、1924年、慶應義塾大学経済学部を卒業する。同年時事新報に入社し、経済記者として活躍する。その後、毎日新聞、エコノミストを経て、戦後は北海道新聞に移り論説委員長を務める。記者時代からインフレーションに強い関心を持ち、1939年、岩波書店から『インフレーション』を出す。 1947年、第1回参議院議員通常選挙に社会党公認で全国区から立候補し当選する。
嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6… 嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6日 - 1950年(昭和25年)6月20日)は、大正末から昭和前期のジャーナリスト、評論家、政治家。衆議院議員。旧姓・近江谷。 秋田県南秋田郡土崎港町小鴨町(現秋田市土崎港)で、実業家・近江谷栄次の三男として生まれる。暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)、第三高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 1925年(大正14年)中外商業新報に入社し経済部記者となり、のちの能代市・嶋田家の養子となる。以後、名古屋新聞嘱託、報知新聞論説委員、中部日本新聞(現中日新聞)論説委員、東京新聞論説委員を歴任。
野村 重臣(のむら しげおみ、1901年 - 1954年)は… 野村 重臣(のむら しげおみ、1901年 - 1954年)は、民法学者・政治評論家。大日本言論報国会理事。 石川県出身。同志社大学法学部政治科を卒業し同大助教授となるが、右翼的・国粋主義的な言論について学内で反発を呼び、1936年『同志社論叢』に寄稿した論文「日本国民社会科学の建設と国体の真実」が不掲載となったことをきっかけとして林要・田畑忍・松山斌を左翼偏向と糾弾し、同僚の古谷美貞と計らって林らの解雇を要求。これに対し湯浅八郎総長は林を馘首するものの、その一方で古谷ともども野村も大学を解雇される。 その後も野村は学外で右翼団体や配属将校を巻き込みながら湯浅や同志社内のリベラル・左派系の教員への攻撃を続け、翌1937年には瀬川次郎・村井藤十郎両教授らが野村に同調する形で湯浅総長に上申書を提出。
京極 高鋭(きょうごく たかとし、明治33年(1900年)1… 京極 高鋭(きょうごく たかとし、明治33年(1900年)12月15日 - 昭和49年(1974年)12月7日)は、昭和時代の華族、音楽評論家。男爵加藤照麿(旧出石藩士)の五男。兄に加藤成之、浜尾四郎。弟に古川緑波、増田七郎がいる。京極子爵家(旧峰山藩主家)当主京極高頼の婿養子となる。 東京出身。初名は加藤鋭五。幼少の頃は迪宮(昭和天皇)のお相手を務めた。学習院に入学し、部活動では吹奏楽、また声楽の勉強に熱中した。東京帝国大学経済学部を卒業する。大正15年(1926年)に東京日日新聞の記者となり、昭和7年(1932年)に読売新聞へ移籍する。また、昭和6年(1931年)頃より音楽ジャーナリストして音楽雑誌に執筆を行う。
高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 19… 高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 1978年2月10日)は、愛媛県出身の音楽評論家、雑誌編集者。 筆名古久 文治、K・T生。父はプロテスタントの牧師高橋鷹藏。16歳頃から信時潔に師事。東京音楽学校においてヴァイオリンを専攻するも2年で中退。また在学中教えを受けた乙骨三郎の知遇を得る。日本プロレタリア音楽家同盟に所属し、1922年(大正11年)日本共産党結党の際、結党式において、翻訳された革命歌インターナショナルの足踏みオルガンを弾き、鉛筆で指揮をしての歌唱指導に参加した。1923年(大正12年)中に信時の斡旋のもとに雑誌『音樂研究』を編集し、5冊を音樂研究社より発行。この頃、大山郁夫の書生となる。
大宅 壮一(おおや そういち、1900年〈明治33年〉9月1… 大宅 壮一(おおや そういち、1900年〈明治33年〉9月13日 - 1970年〈昭和45年〉11月22日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。 大阪府三島郡富田村(現:高槻市富田)の醤油屋に父・八雄、母・トクの三男として生まれた。祖父の八右衛門は、嫁入りの日に差し押さえを受けるような貧しい所から富を作ったり、法廷へ出るのに衣類が無くて薦を被って行ったという者の金まで絞り取る程の残酷な人だったが、妻子には甘かった、と大宅壮一自身が書き残している。 父について大宅は『青春日記』で、「14歳より放蕩を始め、青年時代に法律を志して弁護士試験に失敗し、中年よりは選挙、警察界に足を入れて産を傾け、最後に生涯離さなかった酒の為に死んだ。
望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月… 望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月5日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の評論家。
三好 達治(みよし たつじ、1900年(明治33年)8月23… 三好 達治(みよし たつじ、1900年(明治33年)8月23日 - 1964年(昭和39年)4月5日)は、日本の詩人、翻訳家、文芸評論家。室生犀星や萩原朔太郎など先達詩人からの影響を出立点とし、フランス近代詩と東洋の伝統詩の手法をそれぞれに取り入れ、現代詩における叙情性を知的かつ純粋に表現し独自の世界を開いた。大阪府大阪市出身。日本芸術院会員。 大阪市西区で印刷業を営む家に、10人兄弟の長男として生まれた。幼少期より病弱で、読書に没頭。中学時代、句誌「ホトトギス」を愛読し、句作に没頭した。父の意向で陸軍士官学校に進んだが、脱走して放校となった。旧制三高から東大仏文科へ進んだ。三高時代から詩作を始め、梶井基次郎らと知己を得、のちに同人誌「青空」にも参加した。
服部 龍太郎(はっとり りゅうたろう、1900年7月15日 … 服部 龍太郎(はっとり りゅうたろう、1900年7月15日 - 1977年6月18日)は、日本の音楽評論家、著述家、翻訳家、作詞家、訳詞家。 静岡県生まれ。早稲田大学文学部卒業。新交響楽団(のちNHK交響楽団)編集主幹、ニットーレコード洋楽部長、桐朋学園講師。西洋音楽、民謡、易学などについて多数の著作を著す。 ※JASRACには服部名義で作詞・作曲の登録をされている日本民謡もある。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
会田 軍太夫(あいだ ぐんだゆう、1900年4月11日 - … 会田 軍太夫(あいだ ぐんだゆう、1900年4月11日 - 1981年5月10日)は、日本の物理学者、化学者、評論家である。応用物理学を専門とし、東京理科大学や東海大学で教鞭を執り、日本の科学技術の発展に貢献した。 会田軍太夫は1900年(明治33年)4月11日に宮城県で生まれた。1923年(大正12年)に東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業した。 卒業後、岩城硝子研究所の所長を務め、実業界で活躍した。その後、学術の世界に戻り、東京理科大学および東海大学の教授を歴任し、後進の指導にあたった。また、日本眼鏡専門学校の校長も務めている。 評論家としての顔も持ち、日本ペンクラブの会員でもあった。科学技術に関する幅広い知見を基に、多岐にわたる評論活動を展開した。
橋爪 健(はしづめ けん、1900年2月20日 - 1964… 橋爪 健(はしづめ けん、1900年2月20日 - 1964年8月20日)は、日本の詩人・評論家・小説家。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)出身。静岡県旧制沼津中学(静岡県立沼津東高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科中退。1922年第1詩集「合掌の春」を刊行、ダダイスムの影響を受け1924年『ダムダム』創刊に参加。1927年『文藝公論』を創刊、主宰した。戦後は児童読物などを書いた。兄に橋爪恵、弟に橋爪克巳(1903-83)がいる。
安積 得也(あずみ とくや、1900年(明治33年)2月17… 安積 得也(あずみ とくや、1900年(明治33年)2月17日 - 1994年(平成6年)7月27日)は、日本の内務官僚、社会評論家、詩人。官選県知事。 東京府(現・東京都)出身。安積得時の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 以後、社会局事務官、中央大学講師、地方警視、愛知県経済部長などを経て、東京府経済部長となる。 1943年7月、栃木県知事に就任。1944年11月、内閣綜合計画局部長に転じた。東海北陸地方副総監を経て、1945年9月、岡山県知事に就任。戦後初の県予算を編成したが、1946年1月、公職追放となり知事を辞した。
中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月1… 中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月14日 - 1952年(昭和27年)5月18日)は、日本の美学者・評論家・社会運動家。国立国会図書館副館長をつとめた。相愛女子専門学校(現:相愛女子短期大学・相愛大学)講師。 1900年2月14日 大阪市の緒方病院で帝王切開にて誕生。日本最初期の帝王切開で、執刀医の緒方正清は緒方洪庵の孫娘の婿。正清から一字もらって正一と命名された。本籍は広島県賀茂郡竹原町(現:竹原市)で、尾道市に育った。 広島高師附属中学に入学し、1918年に卒業。第三高等学校文科甲類に進み、1922年に卒業した。 1922年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。大学では、深田康算、九鬼周造らに師事した。
金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月… 金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月4日 - 1968年1月21日)は、朝鮮の詩人、政治評論家、随筆家。 号は超虚(チョホ、초허)。別名は金東嗚(キム・ドンオ、김동오)。教員生活を送りながら民族的悲哀の漂う抒情詩を多く残した。解放後は評論家、政治家としても活動している。 1900年6月4日、江原道溟州郡沙川面蘆洞里に生まれる。父は金済玉、母は申錫愚の一人息子である。幼いころは郷里の書堂に通い、漢文を学んだ。8歳のとき、咸鏡南道の元山に引越し、そこで小学校に入学する。母が苦労して学費を捻出してくれたおかげで、金は1915年に咸鏡南道の永生中学校に進学し、1920年に卒業した。
細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1… 細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1月17日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の政治評論家、衆議院議員。熊本県熊本市出身。 中学濟々黌、旧制第五高等学校大学予科(現熊本大学)を経て1923年、東京帝国大学法学部を卒業、同年朝日新聞社に入社する。記者を務め1936年政治部長、1940年ニューヨーク支局長、1944年編集局長。 1947年朝日新聞社に在籍したまま熊本県知事選に出馬するも落選した。同年、朝日新聞を退社して日本国憲法成立直後の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党から熊本2区から出馬して初当選、衆議院議員を1期務めた。 その後、政治評論家に転身し1957年から始まったTBSの『時事放談』で小汀利得(後に藤原弘達)とホストを務めた。
左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日… 左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日本の新聞記者、演劇・舞踊評論家。「女剣劇」の命名者とされる。 1900年(明治33年)、北海道に生まれる。大正時代に上京し早稲田大学に入学。卒業後、1928年(昭和3年)に都新聞社(1942年より東京新聞)に入社、演劇記者となる。1936年(昭和11年)、浅草で観劇した不二洋子の剣劇芝居を「女剣劇」と記事で紹介したことから、「女剣劇」の名付け親とされる。第二次世界大戦中に空襲で家を焼かれ、東京新聞を退社し妻と娘を連れて北海道へ疎開、北海タイムスで働く。1951年(昭和26年)に再び上京し報知新聞社に入社する。1960年(昭和35年)に定年退職後は、演劇・舞踊の評論家として活躍。
松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)1… 松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)11月15日 - 1975年(昭和50年)4月3日)は、日本の新聞記者、評論家、翻訳家。 反権力・個人主義的志向を持つ人物であった。1940年のナチス・ドイツの占領まで長くパリに住み、日仏の文化交流に貢献した。 松尾嘉平・きみの次男として、静岡県引佐郡引佐町金指(現・浜松市北区引佐町金指)に生まれた。家は裕福な呉服商で、嘉平ときみの間には邦之助を含めて三男三女がいた。金崎の小学校、気賀(現・浜松市北区細江町気賀)の高等小学校を経て静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)を了え、親の希望の旧制高等学校でなく、東京外国語学校フランス語文科に学び、1922年、逓信省の嘱託となり、その秋、嘉平の渋々の承諾を得て渡仏し、パリに住んだ。
阪本 勝(さかもと まさる、1899年(明治32年)10月1… 阪本 勝(さかもと まさる、1899年(明治32年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月22日)は、大正・昭和期日本の政治家、戯曲作家、美術評論家。衆議院議員(1期)、兵庫県知事(2期)を歴任。 1899年(明治32年)、兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で眼科医の家に生まれる。家は尼崎藩の藩医の家柄であった。北野中学校・第二高等学校を経て1922年に東京帝国大学経済学部を卒業、学生時代は新人会(前期新人会)に属した。北野中学時代の同級生には、後に洋画家となった佐伯祐三がいた。 卒業後は福島県立福島中学校の英語教諭や大阪毎日新聞学芸部記者などを務めたが、水平社運動との関わりなどで1926年(大正15年)3月に大阪毎日新聞を辞し、1927年(昭和2年)に関西学院大学の講師となった。
関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 -… 関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の声楽家、音楽教育者、音楽評論家。プロレタリア音楽同盟の委員長に選ばれ、「アカイ歌手」と騒がれた。 第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。 父 関厳(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。弟に関忠亮。関家は代々郡山藩の江戸詰め御典医の家系で、読売新聞の美術担当だった父親は美術評論の草分けであり、鑑子が生まれた時はパリ万国博覧会 (1900年)へ出品する美術品の鑑定官をしていたことから、娘の名に「鑑」の字をつけ、秋生まれであったことから「アキ」と読ませた。
蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉… 蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉9月4日 - 1965年〈昭和40年〉3月16日)は熊本県出身の詩人、作家、評論家。 熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官で阿蘇神社の直系。母いくは医学者北里柴三郎の妹。 7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂や石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎『青猫』に触発されて詩を書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校のロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。
木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月3… 木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月30日 - 1993年〈平成5年〉12月5日)は、日本の経済評論家、日蓮宗徒、国際勝共連合代表世話人。位階は従三位。 木内重四郎・磯路夫妻の次男として東京府(現在の東京都)に生まれる。父・重四郎は内務官僚で、母・磯路は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の次女。従って三菱の3代目総帥・岩崎久弥は母方の伯父にあたり、エリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜は母方の従妹ということになる。また妹・登喜子は渋沢敬三に嫁ぎ、妻の多代は福澤諭吉の孫娘にあたる。兄・良胤と甥・昭胤(良胤の長男)はともに外交官。元衆議院議員の木内孝胤は昭胤の次男なので、信胤は孝胤の大叔父にあたる。
摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日… 摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、日本の小説家、ゴルフ評論家、ゴルフ史家。 雑誌「新青年」などでユーモア小説家として活躍した後、ゴルフ史家として多くのゴルフ関連の書籍を多く著し、ゴルフ関連の施設やゴルフ場の建設にも貢献した。本名は近藤 高男(こんどう たかお)で、「摂津茂和」はフランス語で「これが私」を意味する「C'est moi(セ・モア)」をもじった筆名である。息子は三井物産ニューヨーク本店元社長の近藤久男。 東京府出身。中学時代には薄田泣菫や永井荷風の作品を熟読しており、特に泣菫の風刺的な作品に強い影響を受けた。慶應義塾大学法学部に進学したが、当初は文科を志望したにもかかわらず、父から猛反対されたため、政治科へ進んだ。
料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 19… 料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 1982年2月1日)は、日本の美術評論家・数寄者、骨董収集鑑定家、随筆家。TBSテレビでニュースキャスターを務めた料治直矢は子息である。 1899年岡山県都窪郡山田村(現在の岡山市南区)生れ。号は朝鳴。関西中学校卒業後、1919年(大正8年)上京、国学院大学で折口信夫の講義を受講、翌年雑誌記者として研究社に入社し、関東大震災後は博文館の雑誌「太陽」の編集に携わる。1928年(昭和3年)、博文館退社後著述活動に入り、また、この頃会津八一の門下となり古美術の研究に専念する。八一に心酔した熊太は、1929年(昭和4年)自らの住居を八一の家の近くの西落合に移した。
浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日… 浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日 - 1973年〈昭和48年〉3月28日)は、日本の小説家、文芸評論家。 兵庫県神戸市に生まれる。1926年早稲田大学文学部国文科卒業。在学中に「朝」の同人に加わり、初めて書いた小説「山」が下村千秋に推賞される[要出典]。1933年尾崎一雄や丹羽文雄らとともに「小説」を創刊。1934年尾崎と丹羽、田畑修一郎と「世紀」を創刊。1935年尾崎と小田嶽夫らと「木靴」を創刊。同年、砂子屋書房の創業に参加。戦中は満洲国で文学活動を行った。1949年早稲田大学高等学院講師、翌年同学院専任教員。1960年早稲田大学商学部に出講、1970年定年退職。 戦後は井伏鱒二や上林暁らの「阿佐ヶ谷会」の主要メンバーで、尾崎一雄と親しく、随筆『単線の駅』や、回想記『あの日この日』によく出ている[要出典]。
青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 19… 青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 1971年12月15日、男性)は、日本の仏文学者、詩人、美術評論家、翻訳家。骨董品収集・随筆でも著名であった。 山梨県西八代郡高田村印沢(現・市川三郷町)にて、四男五女の末子として生まれる。生家はかつて質屋を営んだことがある富裕な地主の旧家だった。幼い頃から書画骨董の詰まった質倉で遊び、骨董に対する鑑賞眼を培った。 1917年に山梨県立甲府中学校(旧制)を卒業後、詩作やフランス語独習に熱中。永井荷風と堀口大學に憧れ、1919年に慶應義塾大学仏文予科に入学。このとき蔵原伸二郎と知り合い、無二の親友となる。1920年、出席時間不足のために留年し、新入生と奥野信太郎と終生の親交を結ぶ。
勝本 清一郎(かつもと せいいちろう、1899年5月5日 -… 勝本 清一郎(かつもと せいいちろう、1899年5月5日 - 1967年3月23日)は日本の文芸評論家である。日本ペンクラブ創立に参加。 東京生まれ。1923年慶應義塾大学文学部を卒業し、プロレタリア文学や演劇の運動に関わった。1917年高浜虚子に弟子入りし、翌年から数年間勝本の写生文が「十編近く「ホトトギス」に掲載されている」。「これと並行して、十五歳の頃から」三味線を習った。1921年に永井荷風の元妻で新作舞踊家として活躍していた藤間静枝(藤蔭静樹)について『三田文学』に「藤間静枝女史の芸術-舞踏詩『秋の調べ』に就いて」として発表。これが縁で当時40代だった静枝の年下の恋人となり、静枝の舞踊台本も執筆。
吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)… 吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。
石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日… 石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。本名:淳(きよし)。日本芸術院会員。 祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。東京外国語学校仏語科卒。『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。 寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。
宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月… 宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月13日 - 1951年(昭和26年)1月21日)は、日本の昭和期の小説家・評論家。旧姓は中條(ちゅうじょう)、本名はユリ。日本女子大学英文科中退。 18歳で『貧しき人々の群』を発表し天才少女と注目された。米留学後結婚したが離婚、その経緯をまとめた『伸子』を発表。その後ソ連を訪れ日本共産党に入党。宮本顕治と結婚。再三検挙されながらも執筆活動を続けた。戦後は『歌声よ、おこれ』を書いて民主主義文学運動の出発を宣言、『播州平野』『風知草』『二つの庭』『道標』などを書いた。日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人である。
高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年… 高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年3月20日)は、社会運動家、政治評論家。日本きってのソ連通として知られた。パルタイナーメ(共産党員名)は寺田。 滋賀県大津市生まれ。大阪高等工業学校の醸造科を卒業後、家業の酒屋を継がず、1922年アメリカへ渡り、アメリカ共産党に入党。1923年10月、片山潜の手引きでソ連に入り、東方勤労者共産大学を卒業後、1929年にソ連共産党員に転籍、コミンテルン極東部員、KGBの極東主要メンバーとして活動。その後、極東でオムスを取り仕切っていたゲンリフ・リュシコフの片腕となる。1935年2月帰国。同年5月検挙され転向し、その後陸軍参謀本部第5課(対ソ情報)嘱託として勤務した。
相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年)… 相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年) - 1987年(昭和62年))は、日本の評論家。本名は「茂隆」。 山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市明野町)に生まれる。生家は農業を営む。後年の1963年(昭和38年)10月に『農民文学』第7号に発表した「加藤武雄を偲ぶ」によれば、隆太郎は15歳の時に加藤武雄『土を離れて』を読み感銘を受け、後年の評論活動に影響を与えたという。 隆太郎は菊池寛・加藤武雄らと交流があり、『新潮』『文芸』などの中央の文芸誌に評論を発表している。加藤武雄らが「創作研究会」を開催すると、相田は石原文雄・鑓田研一を誘いこれに参加する。 1922年(大正11年)8月には『早稲田文学』に評論「現文壇の農民小説を論じて『吾が農民』を想ふ」を発表し、注目される。
本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日… 本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日 - 1978年6月30日)は、日本の英文学者、評論家、浄土真宗の僧侶。法政大学名誉教授。 愛知県名古屋市の寺院に生まれ、自らも僧籍を有した。本名・けんしょう。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1923年東京帝国大学文学部英文科卒。九州帝国大学講師、旧制福岡高等学校教授、東京女子高等師範学校教授を経て、1933年から1966年まで法政大学教授を務めた。その後、駒沢大学、実践女子大学、武蔵野女子大学の教授を歴任。シェイクスピア、ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学など広範な評論活動をおこなった。 夏目漱石、親鸞に関する著作のほか、エッセイストとしても長年執筆を行い、学内事情を暴露した『大学教授』や『歎異抄入門』はベストセラーとなった。
吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 19… 吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1973年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。
能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 19… 能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 1978年3月10日)は、日本の演劇評論家、劇作家、翻訳家。 大阪府大阪市北区出身。早稲田大学英文科卒。 在学中の1922年(大正11年)市村座脚本部に入り、かたわら「劇と評論」を創刊。同年に戯曲「秋の心」「波紋」を発表。のち「演劇新潮」編集同人となり、劇評・劇論を担当。また第一書房の『近代劇全集』の編集にも従事した。他に「東京小景」「詩人の靴」などの作品がある。 戦後は、主に推理小説などの翻訳などをおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
伊奈 信男(いな のぶお、1898年〈明治31年〉3月31日… 伊奈 信男(いな のぶお、1898年〈明治31年〉3月31日 - 1978年〈昭和53年〉10月7日)は、日本の写真評論家。 愛媛県松山市出身。東京大学文学部美学美術史学科卒業。戦前に活動を開始し、1932年に創刊した写真雑誌「光画」の同人としても活躍(2号から)。その後、日本工房、中央工房にも参加。「光画」の創刊号に掲載された「写真に帰れ」(寫眞に歸れ)は、新興写真(近代写真)の成立を宣言したものであり、社会性を強く持っている写真作品を高く評価する内容だった。それは、それ以降戦後しばらくまでの間の、報道写真を重視するとともに、それ以外の芸術的な写真を社会性を喪失したという理由付けで排除する、という日本の写真状況と軌を一にする。
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の… 秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の美術評論家・数寄者。骨董収集鑑定家・文筆家・随筆家でも著名である。号は「珍堂」。 明治31年(1898年)福井県三国の浄土真宗・本流院に生まれる。中学卒業後、得度して律師、釈円明と改名。上京して大正11年(1922年)東洋大学倫理科を卒業。福岡県中学修猷館、芝中学などで国語教師を務めるかたわら美術雑誌「茶わん」を発行。昭和5年(1930年)北大路魯山人の知遇を得て高級料亭・星岡茶寮の支配人となる。昭和12年(1937年)独立して東京目黒に驪山荘を経営。昭和18年(1943年)伊東温泉に疎開、昭和19年(1944年)驪山荘を閉じる。「陶和会」「落穂会」主宰。