小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月2… 小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月22日 - 1956年(昭和31年)2月2日)は、日本の野球選手(投手)、新聞記者。都市対抗野球大会の「小野賞」にその名を残している。谷口五郎、湯浅禎夫とともに「大正三大投手」の一人に挙げられる。 神奈川県出身。神奈川師範学校(のちの横浜国立大学)から慶應義塾大学に進み、その後慶大OBを中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属。「至妙なコントロールを持つ剛球と、懸河の如きドロップ」と評された投球でエースとなる。 1919年(大正8年)秋の四大学リーグの慶法1回戦(10月15日)と慶明2回戦(10月18日)で2試合連続ノーヒットノーランの偉業を達成した。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月… 東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月15日 - 1986年(昭和61年)1月11日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員。 石川県出身。東栄松の三男として生まれる。1923年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 萬朝報記者、読売新聞記者、國民新聞記者、拓務省嘱託、日満醸造社長、逓信大臣秘書官、東京市会議員などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて石川県第一区で民主党から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。この間、民主自由党総務に就任。 炭鉱国管疑獄により逮捕され、1950年4月21日、東京地方裁判所で、懲役4ヶ月の判決を受けた。その後、控訴して争い、1951年5月22日、東京高等裁判所で無罪となり判決が確定した。
鈴木 龍二(すずき りゅうじ、1896年3月15日 - 19… 鈴木 龍二(すずき りゅうじ、1896年3月15日 - 1986年3月30日)は、日本の新聞記者、プロ野球球団経営者・プロ野球機構運営者。日本野球連盟会長、セントラル・リーグ第3代会長。「鈴木 竜二」とも表記。
黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月2… 黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月26日)は、日本の新聞記者、文筆家。黒木晩石(くろぎばんせき)の筆名で知られる。 宮崎県美々津(現日向市)に生まれる。1916年宮崎中学校卒業。1922年早稲田大学専門部政治経済科卒業。報知新聞に入社、統一部長、論説委員。「日向社」を創立、月刊郷友誌『日向』を発行、誌名は『新みやざき』『広場』と改めたが50年間主宰。1939年軍事報道のため大陸に渡る。1942年報知・読売両新聞社合併により読売新聞記者、論説委員。1951年読売新聞を退社、帰郷し名前を晩石と号して著述に専念した。
菅家 喜六(かんけ きろく、1894年〈明治27年〉7月23… 菅家 喜六(かんけ きろく、1894年〈明治27年〉7月23日 - 1967年〈昭和42年〉7月24日)は、日本の政治家、新聞記者。衆議院議員(4期)。福島民友新聞社長。 福島県大沼郡野尻村(現昭和村)出身。1912年福島県教員養成所(後の福島大学教育学部、現:人間発達文化学類)卒。 福島民報記者、郡山町議、(のち郡山市議)、郡山市会副議長、福島県議、福島民友新聞社長、郡山商工会議所副会頭となり、1949年の第24回衆議院議員総選挙において福島2区から民主自由党公認で立候補し初当選し、4期務める。第4次吉田内閣の厚生政務次官、衆議院議院運営委員長、決算委員長を歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選、政界を引退した。
山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年)… 山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年) - 1992年)は、日本の新聞記者。文筆家。 山口県山口市生まれ。学歴不詳。1919年大阪朝日新聞社入社、名古屋支局長、大阪社会部長、日本海新聞社役員兼編集局長、都新聞事業部長、大阪府嘱託(青少年問題協議会)、朝日新聞客員。
山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月… 山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月20日 - 1967年(昭和42年)9月26日)は新聞記者、政治評論家。 長野県小県郡川辺村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)から早稲田大学政治経済学部卒業。1919年時事新報記者となり、1924年東京日日新聞に転じ、1927年新愛知東京支社、ついで国民新聞、読売新聞各論説委員を務め、1948年読売新聞を定年退社。1946年には憲法普及会理事を務めた。 その後、東京新聞編集顧問、NHK中央番組審議委員、中央選挙管理委員会委員などを務めた。晩年は東京新聞のコラム「放射線」に池上五六のペンネームで反共評論を書いた。森恪、鳩山一郎らと親交があった。
粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)… 粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)6月15日 - 不明 )は、日本の新聞記者であり、政治家である。岡山新聞(現:山陽新聞)の常務取締役、岡山交通取締役、岡山県議会議長を務めた。岡山県岡山市出身。 1892年(明治25年)岡山県御津郡大野村野田(現:岡山市)に粕山治三郎の次男として出生。その後、1905年(明治18年)に旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には、映画監督となる中川紫郎がいた。1910年(明治43年)に同校を卒業し、17歳で山陽新報(現:山陽新聞)へ入社する。 山陽新報へ入社してから2年後の1912年(明治45年)、大日本帝国海軍に志願し入隊。
太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10… 太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10月8日 - 1986年〈昭和61年〉9月2日)は、大正から昭和にかけての新聞記者、評論家。 女性初のNHK解説委員である縫田曄子の父。 1891年(明治24年)10月8日に、兵庫県揖保郡網干町で生まれた。早稲田大学在学中の学生時代には国木田収二邸に同居していた。 王統との知遇を得て、1916年(大正5年)4月に王統からの要請で第三革命に孫文一派として参加した。後年、太田は当時の心境を「『中国の革命のため、死んでもよいではないか』と心に叫んだ」と振り返っている。この際に上海に渡った太田は、王統の秘書として活動し、同年5月に帰国して1917年(大正6年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。
鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - … 鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - 1951年2月23日)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、政治家。 千葉県海上郡豊浦(現銚子市)出身。本名は文四郎。旧制銚子中学校(現千葉県立銚子商業高等学校)、東京外国語学校英語学科卒業。三菱合資会社地所部を経て1917年東京朝日新聞に入社。シベリア出兵の従軍記者や、パリ講和会議などの特派員として活躍する。社会部長、編集局総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、1942年常務取締役となるが、朝日新聞社内の人事で冷遇されたことから反緒方竹虎の急先鋒となった。 敗戦直後退社し、1946年『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長となる。
石田 武太郎(いしだ たけたろう、1890年 - 1934年… 石田 武太郎(いしだ たけたろう、1890年 - 1934年)は、日本の新聞記者、政治家。 中外商業新報政治部長、編集局長、参事、東京府荏原郡碑衾町会議員・同議長などをつとめた。子にNHKアナウンサーの石田武、孫に音楽家の石田桃子や俳優の石田純一、曽孫に俳優のいしだ壱成がいる。 大阪府南河内郡富田林町(現在の富田林市)出身。石田家の分家に生まれた。1915年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業し、中外商業新報(現・日本経済新聞)に入社した。政治部の記者として働き、まもなく電話交換手の女性と結婚した。 31歳の時、ワシントン会議の特派員に抜擢され、会議の後もアメリカ合衆国に残り2年間の特派員生活を送った。
林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 19… 林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 1935年12月20日)は日本の実業家・新聞記者。本名:林 茂(はやし しげる、旧姓:板井)。十勝毎日新聞の創業者として知られる。 大分県臼杵にて板井増次・コトの次男として生まれる。海外への憧れを抱いて海軍・陸軍士官学校を受験するも慢性結膜炎の既往症があり不合格、軍人以外での海外渡航の道を模索して東京の英語学校へ入学し英語学習に打ち込む。 1908年に板井家と同じく臼杵の名家である林家の長女・林波津女と養子縁組をし、林家の援助で中央大学法科へ進学。当初北海道帯広へ移住した林家の家業を継ぐことに戸惑いを感じるも「十勝の開発に身を投じる事が海外移住に勝る使命」と考えを変え、1910年に大学を中退し波津女と義父が住む帯広へ移住。
大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 197… 大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 1977年4月9日)は、日本の新聞記者、演劇評論家。劇作家。 1914年に京都帝国大学文科大学国文科を卒業後、大阪朝日新聞社に入社。1918年8月26日夕刊の「寺内正毅内閣弾劾関西記者大会」の記事を執筆する中で「白虹日を貫く」との中国古語を使ったが、これは兵乱の前兆を示唆する不穏当な表現であり、白虹事件と呼ばれる日本の新聞の歴史でも類をみない筆禍事件を招いた。大阪朝日新聞および大西は新聞紙法違反で告訴され、大阪朝日新聞は新聞の発売禁止こそ免れたものの、大西は禁錮2月の有罪判決を受けた。 新聞社を退社後は、関西演劇界へ身を投じ、文楽による『ハムレット』、『蝶々夫人』、『椿姫』など外国劇の脚本を多数作り上げた。
田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 196… 田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 1964年6月6日)は、和歌山県出身の俳人・新聞記者。本名省三。笠田町(現かつらぎ町)生。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校) 卒、三高文科を中退。1910年より大阪朝日新聞社で記者として勤め、のち大阪毎日新聞社に移った。 中学時代より句作を始め、大正初期に行友李風らと洗堰吟社を起こす。1917年、高浜虚子に師事。河東碧梧桐にも師事した。1922年、野村泊月、皆吉爽雨らとともに「山茶花」創刊。1934年、「ホトトギス」同人。1946年、休刊していた「山茶花」を復刊し主宰。「狩くらは大月夜なり寝るとせん」など、句に「大」の字を好んで用い、大らかな写生句を詠んだ。
岡 成志(おか しげゆき、1889年 - 1945年5月22… 岡 成志(おか しげゆき、1889年 - 1945年5月22日)は、作家、新聞記者。号は咄眼。 岡山県真庭郡月田村(現真庭市)生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、大阪朝日新聞記者に。 1926年1月、郷里の岡山県真庭郡から衆議院議員補欠選挙に立候補するが落選。 神戸又新日報、関西中央新聞などを経て、1930年2月、第17回衆議院議員総選挙で大阪府第1区から立候補するも落選。 1934年2月、北國新聞主筆。1935年8月退社、ユーモア小説などを書いた。 谷崎潤一郎など作家との交友が多く、谷崎はその『三つの場合』(1961年)で、岡の死について書いている。
難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28… 難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の政治家、新聞記者。 岡山県上道郡平井村(現・岡山市)出身。中学時代は柔道で鍛えていて喧嘩っ早く、岡山中学校、関西中学校、金川中学校を喧嘩で退校処分となり、最終的には京都の中学校に進んだ。1913年、明治大学法律科卒業。中外商業新報(現日本経済新聞)経済市場部長、金川中学校理事長などを経て、1926年の土居通憲辞職に伴う補欠選挙で犬養毅の支援を受けて衆院議員に当選。昭和会や立憲政友会に所属。 1927年(昭和2年)、清瀬一郎を殴打するなど議会乱闘事件に関与したとして公務執行妨害、傷害の容疑で起訴。
宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966… 宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966年6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、俳優、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。 「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。 愛媛県松山市唐人町(現三番町)にて、伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎(寿太郎の説もあり)の一女として生まれる。
佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月1… 佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月18日 - 1956年〈昭和31年〉7月4日)は、日本の新聞記者、エッセイスト、釣り師。本名は佐藤 亀吉(さとう かめきち)。号の「垢石」は、アユが好むとされる水垢のついた石に由来する。 1888年(明治21年)、群馬県群馬郡東村大字上新田村(現・前橋市上新田町)に生まれる。佐藤栄三郎・ハツの三男として出生するが、同村の佐藤孝次郎・ケイの養嗣子となる。 桃井尋常高等小学校卒業後、前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)に進学。4年生の時に校長排斥のストライキ(同盟休校)を行い退学処分となり、上京して郁文館中学で学んだ。その後早稲田大学英文科に進学するも中退。
竹内 京治(たけうち きょうじ、1887年(明治20年)12… 竹内 京治(たけうち きょうじ、1887年(明治20年)12月17日 - 1966年(昭和41年)12月11日)は、日本の政治家、新聞記者。第10-12代岡崎市長(3期)、愛知県会議員(1期)、岡崎市会議員(2期)、東海市長会長、愛知県市長会長などを歴任した。 愛知県宝飯郡赤根村(現・豊川市御津町赤根)生まれ。トヨタ自動車工業会長を務めた花井正八は甥。幼少時代を男川村大字大平(現・岡崎市大平町)の薮田家で過ごした。1905年(明治38年)3月、東京中学校(現・東京高等学校)卒業。一年志願兵として騎兵第25連隊に入隊。除隊後、日刊新聞『岡崎朝報』初代社長の竹内竹五郎の娘と結婚、それとともに竹内家の養子となる。
藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本… 藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本の新聞記者、実業家、阿片ブローカー、フィクサー。『東京毎日新聞』や『報知新聞』の記者を経て1919年に東京毎日新聞社社長となり、「厳正非中立」を掲げて組合運動や社会主義者、アナキストを支援。1923年にはヨッフェ訪日を実現させた。他方で貴族院の「研究会」の黒幕となり、日中戦争期には上海への麻薬の密輸に携わった。 1887(明治20)年、福岡県行橋市の生まれ。 中学卒業後、大陸へ密航し、馬賊になろうとした。 日本に帰国後、新聞『日本』の記者となり、東京毎日新聞や報知新聞の記者を経る。 1919(大正8)年から東京毎日新聞社社長。就任当時、「いさぎよく、正義と弱者と善に味方する」という意味の「厳正非中立」という標語を新聞の一面に掲げ、また銀座の社屋の屋上から垂れ幕を下げていた[要検証 – ノート]。
飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12… 飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12月1日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、茨城県出身の野球選手(内野手)、学生野球指導者、野球評論家、編集者、新聞記者。本名は飛田 忠順(とびた ただより、とびた ちゅうじゅん)。 日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、学生野球の父と呼ばれる。 茨城県東茨城郡大場村(現在の水戸市)出身。父親は、大場村初代村長でもある豪農であった。水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父親の反対を押し切って早稲田大学専門部法学科に進学、野球部に入部する。この時、保証人になったのが小説家の押川春浪であり、下宿で同室であったのが針重敬喜であった。
小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23… 小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23日 - 1963年(昭和38年)1月12日)は、日本の政治家、新聞記者。衆議院議員。 青森県中津軽郡、のちの弘前市出身。明治大学卒業後、新聞記者となり、北辰日報を経て、1907年(明治40年)やまと新聞に入り、政治部長となる。更に、太平洋通信社に転じ、主幹を務めた。1937年(昭和12年)に衆議院議員に当選。東方会、時局同志会、翼賛議員同盟に所属。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。1963年(昭和38年)1月12日死去。
篠原 秀吉(しのはら ひできち、1886年〈明治19年〉1月… 篠原 秀吉(しのはら ひできち、1886年〈明治19年〉1月5日 - 1971年〈昭和46年〉7月8日)は、日本の新聞記者、実業家。上毛新聞社社長。また、学生時代から柔道で鳴らし、講道館8段という経歴から日本体育協会評議員を務めるなど、スポーツ環境の整備に尽力した。桜郷と号して書をよくした。正四位勲三等。 群馬県前橋町(現・前橋市)に、上毛新聞社初代社長・篠原叶の子として生まれる。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、1911年(明治44年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年上毛新聞社に入社。 1926年(大正15年)父の死により上毛新聞社を継ぐ。1939年(昭和14年)に上毛新聞が株式会社となると取締役社長に就任した。
鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4… 鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4日 – 1948年〈昭和23年〉1月15日)は、日本の新聞記者、編集者。菊池寛の秘書を務めたのち、1923年に創刊された月刊誌『文藝春秋』の編集に加わり、のちに文藝春秋社の専務取締役を務めた。 1885年(明治18年)10月4日、宮城県仙台市に生まれる。早稲田大学を卒業後、文芸誌『新小説』の記者として編集・執筆の道に入った。 1923年(大正12年)、菊池寛が創刊した『文藝春秋』に編集同人として参加。創刊号には「時代は移る」を寄稿している。以後、編集・経営の両面で同誌の発行体制を支え、専務取締役に就任した。 1948年(昭和23年)1月15日、長野県軽井沢の自宅にて死去。
吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治1… 吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治18年〉9月1日 - 1940年〈昭和15年〉12月7日)は、日本の応援団員、新聞記者。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典、葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。 なお、名前の正式な読みは「のぶよし」であるが、一般的には「しんけい」と呼ばれており、また本人もそう称していた。 吉岡信敬は1885年(明治18年)9月1日、父・吉岡湖一郎、母・サヨの三男として生まれた。 出生は山口県萩城下河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説があり、正確なところは分かっていない。ただ、吉岡家はもともと萩に住んでいたが信敬が小学校に上がる頃には小石川に住んでいた、ということは確かである。
平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月1… 平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月13日 - 1919年(大正8年)9月2日)は、明治・大正時代の日本の詩人・小説家・新聞記者。民謡詩人として多くの作品を残した。群馬県前橋市出身。本名は駒次郎。 1884年(明治17年)5月13日/15日/17日、群馬県前橋本町(現在の前橋市本町2丁目)に生まれる。実家は酒造業を営んでいた。祖父・與吉は近江国蒲生郡(現在の滋賀県東近江市)の出身で、武蔵国の造り酒屋「中村屋」に奉公した後前橋にのれん分けをした。與吉は現在の新潟県柏崎市出身のゆきを妻としたが夫婦には子がなかったため、晩村の父となる仙太郎を養子に迎え、とを(ゆきの妹)と結婚させた。
河合 裸石(かわい らせき、1883年〈明治16年〉12月1… 河合 裸石(かわい らせき、1883年〈明治16年〉12月17日 - 1941年〈昭和16年〉3月6日)は日本の新聞記者。文筆力のみならず企画力にも優れ、趣味のスキーの振興に力を尽くした。 1883年(明治16年)12月17日、新潟県三島郡寺泊町にて、河合勝十郎の4男として生まれる。兄3人、姉3人に次ぐ第7子だったので、本名は七郎とつけられた。生まれつき体が弱い子だったため、母親は村はずれにある「裸石地蔵」に通って願掛けし、その加護で丈夫に育つことができたと七郎に聞かせた。 七郎が3歳のとき、経済的に困窮した河合家は、呉服商を開いていた親戚筋を頼って、北海道の岩見沢に移住した。やがて長兄の俊太郎が小樽で味噌や醤油の問屋を手掛けて成功したため、七郎は兄に引き取られて、少年時代を小樽で過ごすことになった。
弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月… 弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月28日 - 1958年(昭和33年)8月1日)は日本の新聞記者、随筆家。毎日新聞で記者として活動した他、『西遊記』などの翻訳でも活動した。本名は芳夫(よしお)。本名での活動も多い。 ペンネームは、中学生時代に背が低かったことから「小学生」と呼ばれていたことによる。小鰐生、小鰐狂生、小鰐坊という名義も稀に使用した。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。1896年(明治29年)、岩手尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学。同学年には言語学者の金田一京助、作家の野村胡堂、政治家の田子一民がおり、2年下の後輩に歌人の石川啄木がいた。 1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)の高等予科に入学。
平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1… 平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1953年4月18日)は日本の新聞記者、作家。
釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 19… 釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 1945年8月6日)は、日本の作家・新聞記者である。本名永井栄蔵。別号として永井瓢斎がある。 1882年(明治14年)9月26日、島根県安来町西灘に生まれる。父親は永井彦衛門。永井家は雲伯で産出する砂鉄鋼を集出荷する鉄問屋であり、酒造業も営む地域の素封家であった。しかし、瓢斎が生まれた頃には、家運は下向き気味となっていた。松江中学校に入学したのち、万寿寺の勝平宗潤の会下に参じる。中学時代より、瓢斎の号を用いるようになる。卒業後は早稲田大学に進学するが、同郷の開業医である足立健三郎の援助を受け、第三高等学校に転学する。同校で「賄征伐の歌」を作曲。
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 194… 嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。 三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。 1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。
岡本 鶴松(おかもと つるまつ、1882年2月7日 - 19… 岡本 鶴松(おかもと つるまつ、1882年2月7日 - 1945年7月10日)は、明治後期から昭和前期のジャーナリスト、新聞記者、評論家、小説家、翻訳家。大阪朝日新聞社(現・朝日新聞社)外報部長。号は九皐。『トム・ブラウンの学校生活』の訳書を著し、明治時代の日本の高校生に最も人気の英語圏の作品となった。 1882年2月7日、東京生まれ。大阪・英和学舎(現・立教大学)卒業。その後、東京へ戻り、東京英語専修学校(現・立教大学)で学ぶ。 1903年(明治36年)には、ハリー・ポッターシリーズに影響を与えたトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』の訳書を『英国学校生活』として出版。発行は鶴松の号から名付けた九皐社で、印刷は築地・明石町にあった立教学院活版部で行われ、本訳書の序文を立教学院総理であったヘンリー・セントジョージ・タッカーが寄稿した。
相沢 熙(旧字体: 相澤 凞、あいざわ ひろし、1880年〈… 相沢 熙(旧字体: 相澤 凞、あいざわ ひろし、1880年〈明治13年〉 - 1956年〈昭和31年〉)は、大正から昭和にかけて活動した日本のジャーナリスト、新聞記者、教育記者、小説家。国民新聞社(後の東京新聞社、現・東京新聞/中日新聞)のほか、平民新聞社、読売新聞社、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社などでも活動した。徳富蘇峰の側近として秘書も務め、蘇峰会の本部常任幹事を務めた。ほかに国民教育奨励会専務理事も務めている。号は、如楓、蓬莱子、景楠、景楠外史、蓬村など。 埼玉県鷲宮町葛梅(現・久喜市)にて生まれる。 東京に出て、築地の立教学校(現・立教大学)に学んで卒業。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)にも修学した。
永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日… 永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日 - 1955年4月4日)は、大正から昭和前期の新聞記者、教育者、翻訳家。朝日新聞社外報部長。号は朴公。 1879年(明治12年)生まれ。島根県出身。弟の永井瓢斎(本名、栄蔵)も新聞記者、俳人である。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 若い頃に、松江の中学校で英語教師を務めるが、この時の生徒に文部省の国定教科書「サクラ読本」の生みの親である井上赳がいる。 1912年(明治45年)、外務大臣官房報告課嘱託となり、翻訳に務めた。 1914年(大正3年)、東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)に入社し、外報部に所属する。論説班員も兼務し、1924年(大正13年)朝日新聞社外報部長に就任した。
橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、… 橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、1879年(明治12年)3月10日 - 1936年(昭和11年)3月23日)は、日本のアマチュア野球選手(遊撃手、投手)、新聞記者。ペンネームは「橋戸 頑鉄」(はしど がんてつ)。
米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12… 米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12月7日 - 1948年1月9日)は、大正から昭和前期の日本の新聞記者、ジャーナリスト、外交評論家、国際法学者、外交史学者。東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)論説委員長、同社編集顧問、同社初代外報部長。明治大学、立教大学で教授を務め、東京商科大学(現・一橋大学)、法政大学等でも講じた。専門は外交史。法学博士。別名(筆名)米田切水。20世紀前半の日本を代表する国際問題評論家である。 1878年(明治11年)12月7日、福岡県久留米に生まれる。 1893年(明治26年)、中学明善校を中退して上京する。立教学校(現・立教大学)、国民英学会で学ぶ。
栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 19… 栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 1946年9月11日)は日本の郷土史家、新聞記者。号は酔古など。 長野県水内郡寿村(現・飯山市)の医者の家に生まれる。医業を志して明治27年(1894年)に上京し、旧制独逸協会中学に入学するが中退、同34年(1901年)に再び上京し、長谷川泰の済生学舎に学んだ。同35年(1902年)政教社の同人となり、「日本及び日本人」に寄稿し、美術雑誌「芸苑」などを発刊。満州や朝鮮に渡り、樺太で事業を起こしたが帰国し、「木更津新聞」主幹などを経て郷里に戻り、同43年(1910年)には「長野新聞」編集長となった。 その後は長野県の歴史研究に没頭、昭和4年(1929年)に「長野県史」編纂委員となって「信濃史料刊行会」の発足の中心人物となり、県内外を歩き回って史料を渉猟した。
国木田 収二(くにきだ しゅうじ、1878年〈明治11年〉9… 国木田 収二(くにきだ しゅうじ、1878年〈明治11年〉9月1日 - 1931年〈昭和6年〉3月4日)は、明治から大正にかけての新聞記者、ジャーナリスト。号は北斗(ほくと)。 小説家である国木田独歩の弟。 1878年9月1日、広島県に生まれた。東京専門学校を卒業した後に國民新聞社に入り、兄の独歩とともに徳富蘇峰門下の逸材と称された。蘇峰は、独歩よりも収二の方が大成すると期待していたといわれる。 日清戦争で独歩が従軍記者として現地に派遣された際に、収二宛の手紙を模して戦況報告を送った『愛弟通信』は、兄弟愛の美談として喧伝された。 1899年(明治32年)に南洋諸島へ視察旅行をした。その後、神戸新聞社に主筆兼編集部長として入社した。
松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1… 松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1934年7月22日)は、日本の作家、新聞記者。 都市風俗、特にアンダーグランドの探訪を得意とし、『淪落の女』『銀座』などを著した。神戸事件の滝善三郎は祖母の弟。 岡山県真庭市(真庭郡落合町)生まれ。名は市郎。15歳で母親を亡くす。 学歴は小学校4年修業であるが、生来、文才があり、1900年、大阪新報をふりだしに、大阪朝日新聞、上京して国民新聞、東京朝日新聞、毎夕新聞、都新聞、二六新聞、中央新聞などで27年間の新聞記者生活をすごした。一方、35歳(1912年)のとき、浅草区千束町の私娼窟(いわゆる十二階下)をテーマにした『淪落の女』を著し、その叙情的名文で読者を酔わせた。
磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 191… 磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 1918年1月31日)は、明治・大正期の新聞記者。NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』(1986年前期作品)の主人公のモデルともなった。長男は、国際東アジア研究センター名誉所長や東洋大学学長などを務めた磯村英一(1903- 1997)。 1877年(明治10年)、小泉伊助とカツの長女として、福島県相馬郡中村町(現・相馬市)に生まれる。 宮城女学校(現・学校法人宮城学院)に入学。母校は1886年(明治19年)に創立されたばかりのキリスト教系の学校で、日本のキリスト教者の押川方義牧師等がアメリカ合衆国の改革派教会宣教師ウィリアム・E・ホーイと開いた。
栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 19… 栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 1945年11月6日)は、日本の俳優、新聞記者、劇作家、脚本家である。本名は栗島 山之助(くりしま さんのすけ)、出生名は川村 山之助(かわむら さんのすけ)である。 1876年(明治9年)4月5日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(後の東京都中央区日本橋蛎殻町)に力士の綾瀬川山左衛門(本名 川村藤次郎)の長男「川村山之助」として生まれる。当時の綾瀬川は割烹旅館を営んでいたが、出身地の大阪に帰り、長男の誕生から1年に満たない1877年(明治10年)3月8日に死去した。 1898年(明治31年)、旧制・國學院(後の國學院大學)国文科を卒業、東京朝日新聞社に入社する。
草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26… 草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26日 - 1946年(昭和21年)1月28日)は、明治から昭和前期の公吏、新聞記者、作家。東京市幼年少年保護所長を歴任。 筑摩県筑摩郡(現・長野県松本市)に生まれる。松方デフレで家業の米穀商が傾き一家で上京。1898年に和仏法律学校を卒業。翌年から警視庁勤務、1903年に退職し、中央新聞・東京日日新聞・日本新聞・大正通信等の記者、内務省嘱託を経て、1922年(大正11年)に東京市社会局嘱託、1928年(昭和3年)に東京市主事、東京市社会局保護課、1933年(昭和8年)に東京市幼少年保護所長に就任する。終戦直後の1946年(昭和21年)に世田谷区の被災者用バラックで死去した。
相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日… 相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日 - 1970年(昭和45年)6月28日)は、日本の美術史家、新聞記者。本名は相見繁一(はんいち)。 96歳で没するまで約60年に亘り在野で実証的研究を続け、美術史界における「在野の大立者」(田中一松)と評された。生涯に書き継いだ自筆の調査記録は42帙240冊(九州大学文学部所蔵)にのぼる。87歳で紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章した。 1874年、相見家(商家・野波屋)の長男として島根県松江魚町(現松江市魚町)に生まれた。白潟小学校(現松江市立中央小学校)、進取学館(のちの私立中学修道館)を経て、島根県尋常中学校(前身は松江中学)に進学。
生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22… 生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22日 - 1944年7月11日)は、明治後期から昭和前期の新聞記者、ジャーナリスト、評論家、翻訳家。報知新聞社調査部長や芸備日日新聞主筆兼編集長を務め、相撲記者の長老として、角界の批評、随筆等に活躍した。将棋界の発展にも貢献し、東京将棋連盟(現・日本将棋連盟)名誉顧問・評議委員を務めた。別名、翺翔(こうしょう、ごうしょう)。聖公会信徒。 1874年(明治7年)7月22日生まれ。1896年(明治29年)、東京・築地の立教大学卒業。 1899年(明治32年)、東京毎日新聞社に入社。明治35年、藝備(芸備)日日新聞主筆兼編集長を経て、報知新聞社に入社。
若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈18… 若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈1872年10月25日〉 - 昭和13年〈1938年〉4月30日)は、日本の社会学者、新聞記者。国粋主義者、反ユダヤ主義思想家として知られた。慶應義塾大学社会学教授。原理日本社同人、国際政経学会常務理事、新聞「日本」社長兼主筆、中央新聞主筆等を歴任。号は泰山(たいざん)。 富山県西礪波郡埴生村(現・小矢部市)生まれ。 郷里の小学校を約2年で中退して曹洞宗に落飾し、のち上京して蕎麦屋の出前等の職を転々としながら1898年(明治31年)にアメリカ大陸に渡り、約10年間の放浪生活を経たのちに帰国して日本新聞社に入社したという異端の経歴を持つ人物である。
大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7… 大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7月27日〉 - 没年不詳)は、日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋()。山口県長府(現・下関市)出身。 白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが、明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った。 1896年にウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する。
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈18… 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。 明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。父は和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
武田 徳三郎(たけだ とくさぶろう、明治5年2月10日(18… 武田 徳三郎(たけだ とくさぶろう、明治5年2月10日(1872年3月18日) - 昭和25年(1950年)5月23日)は日本の政治家、新聞記者。衆議院議員(6期、立憲政友会) 1872年(明治5年)2月、新潟県東頸城郡大島村(現在の上越市)に生まれる。和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業し、福岡日日新聞記者となる、その後、日露戦争に従軍し、日本新聞記者を経て、高岡日報社を創立し、その主幹となる。また、関川電力・高岡ステンレス各取締役、頸城鉄道・中央電気各監査役などを歴任する。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選(以後6期当選)。山本悌二郎農林大臣の秘書官を務めた。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。