植場 鉄三(うえば てつぞう、1894年(明治27年)1月2… 植場 鉄三(うえば てつぞう、1894年(明治27年)1月22日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、日本の拓務官僚。実業家。 大阪府に郡正光の子として生まれ、衆議院議員植場平の養子となった。1921年(大正10年)京都帝国大学経済学部を卒業し、翌年に高等試験に合格した。秋田県平鹿郡長、同農林課長、同庶務課長、同知事官房主事、長崎県事務官・社会課長、兵庫県事務官・社会課長、樺太庁農林部長などを務めた。1933年(昭和8年)より拓務書記官・農林課長、拓務大臣秘書官・官房秘書課長、管理局長、殖産局長を歴任。1941年(昭和16年)8月に退官するが、12月に拓務次官として復帰した。 1943年(昭和18年)より中支那振興株式会社副総裁を務め、翌年には内閣綜合計画局長官に就任した。
一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月2… 一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1938年(昭和13年)10月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。旧姓・西。 東京府出身。西大助の二男として生まれ、1897年に一戸氏を再興。第一高等学校を卒業。1917年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省し農商務属となる。 以後、臨時産業調査局事務官兼農商務大臣秘書官、製鐵所副参事、農商務事務官、同書記官、内務省社会局事務官、同書記官、台湾総督府事務官兼同秘書官、岐阜県書記官・学務部長、内務省社会局書記官・労働部労政課長などを歴任。 1932年6月、愛媛県知事に就任。
清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日… 清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日 - 1982年(昭和57年)10月13日)は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・針谷。 埼玉県出身。農業・針谷重太郎の長男として生まれ、清水家の養子となる。埼玉県立粕壁中学校卒、第五高等学校中退を経て、1918年7月、明治大学専門部法科を卒業。三井銀行に入社し1920年6月まで在職。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年5月、内務省に入省し北海道庁属となり拓殖部に配属。 1923年4月、京都府属兼警視・警察部巡査教習所長に就任。以後、同警察部保安課長、同警務課長、欧米出張(1928年12月)、地方事務官・京都府勤務、同府建築監督官県工場監督官、警察講習所教授兼内務事務官・警保局勤務、朝鮮総督府警務局図書課長、内務書記官・警保局防犯課長、同局外事課長、同局保安課長、兼同局経済保安課長を歴任。
三島 誠也(みしま まさや / せいや、1894年(明治27… 三島 誠也(みしま まさや / せいや、1894年(明治27年)1月 - 1962年(昭和37年)6月1日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。旧姓・大槻。 熊本県出身。大槻頼継の二男として生まれ、三島キジエの養子となる。第五高等学校を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県警部、京都府属・同府警視、同府理事官、警視庁理事官、同警視、長崎県書記官・警察部長、内務理事官、内務書記官、鹿児島県書記官・内務部長、警視庁書記官・警務部長などを歴任。 1935年1月、宮崎県知事に就任。1937年7月、奈良県知事に転任。
竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年… 竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年不明)は、中華民国の実業家・官僚・外交官。字は華雲。初期は主に実業家として活動したが、後に親日政権の中華民国維新政府や南京国民政府(汪兆銘政権)で要職に就いた。 日本に留学し、1920年(民国9年/大正9年)に東京高等師範学校理科第三部甲班を卒業した。1921年(民国10年/大正10年)からは京都帝国大学経済学部に入学し、1924年(民国13年/大正13年)に卒業している。当初は洮江第四中学主任教員兼舎監となったが、まもなく国民政府に入り、外交部江寧交渉員公署秘書兼金陵関監督公署秘書となる。その後は実業界に転じ、中日実業有限公司上海分行経理、中華電気製作廠董事、上海閘北水電公司顧問などをつとめた。
纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26… 纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26年(1893年)12月19日 - 昭和53年(1978年)3月15日)は、日本の内務官僚・政治家。警視庁特別高等警察課長、大分県知事、衆議院議員(4期)、複数の政務次官等を歴任した。
近藤 常尚(こんどう つねたか、1893年(明治26年)12… 近藤 常尚(こんどう つねたか、1893年(明治26年)12月3日 - 1936年(昭和11年)6月29日)は、朝鮮総督府官僚。 茨城県水戸市出身。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。岩手県理事官、朝鮮総督府事務官、咸鏡南道警察部長、警務局図書課長、朝鮮総督秘書官・総督官房秘書課長を歴任した後、1931年(昭和6年)に欧米に出張した。帰国後、警務局保安課長を経て、全羅南道知事を務めた。 1931年(昭和31年)死去。同年7月4日に行われた葬送の際には、勅使として穂積真六郎(朝鮮総督府殖産局長)が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月… 江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月25日 - 1984年(昭和59年)4月17日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 江藤作吉の長男として福岡県遠賀郡遠賀村島津(現:遠賀町大字島津)に生まれる。1914年(大正3年)福岡県小倉師範学校を卒業し、久留米荘島小学校訓導となる。のち広島高等師範学校に入学。1919年(大正8年)3月、同校を卒業し、京都師範学校訓導兼教諭を拝命する。さらに1922年(大正11年)京都帝国大学法学部法律学科に入学し、在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。1925年(大正14年)卒業と同時に渡台し、台湾総督府に出仕する。 台北州内務部地方課勤務を振り出しに、1927年(昭和2年)地方理事官に進み、台中州勧業課長、台北州勧業課長、台湾総督府事務官営林所兼水産課勤務、文教局学務課勤務、学務課長、社会課長兼図書館長、財務局税務課長、高雄州内務部長、米穀局総務課長、興亜院廈門連絡部書記官を経て、大使館一等書記官に就任。
山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年… 山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年)11月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、検察官。台湾総督府食糧局長。 山本芳太郎の二男として大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に生まれる。1919年(大正8年)7月に東京帝国大学法科(英法)を卒業し、山下汽船鉱業(商船三井の前身企業のひとつ)に入社する。のち法曹界に転じ、1922年(大正11年)5月、宇都宮地方司法官試補、大阪区裁判所検事を経て、1928年(昭和3年)7月に渡台し、台北地方法院検察官となる。 ついで台湾総督府官房法務課、法務課長事務取扱、法務課長、府審議室兼務、府総動員関係軍機文書取扱主任、府人事課長を経て、1939年(昭和14年)12月に台湾総督府食糧局長に就任。
山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月1… 山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月17日 - 1945年(昭和20年)4月2日)は、日本の大蔵官僚。逓信次官。 高知県出身。旧制高知県立第一中学校(現・高知県立高知追手前高校)、旧制第六高等学校を経て、1918年(大正7年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。大蔵省では銀行局に配属した後、司税官、税務監督局事務官、同書記官、銀行検査官、預金部書記官・監理課長、大蔵書記官・主計局予算決算課長、主計局予算課長、内閣調査局調査官、大蔵省主税局長・醸造試験所長を歴任した。1937年(昭和12年)、大蔵省造幣局長に就任し、1940年(昭和15年)に逓信次官に転じた。
松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)1… 松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)11月12日 - 1957年(昭和32年)1月4日)は、昭和期の日本の華族、官僚。旧福井藩主家(越前松平家)第19代当主。従二位勲一等侯爵。明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めた。夫人は徳川家達二女の綾子。
星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月… 星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月11日 - 1979年(昭和54年)10月14日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。銀行局検査課長を最後に退官し、朝鮮銀行副総裁を務める。第二次世界大戦終結後は同行の特殊清算人に選ばれ、第二会社として日本債券信用銀行の前身となる日本不動産銀行を設立し、頭取、会長を歴任。日債銀相談役。 福島県出身。父は酒造業を営み、その次男であった。会津中学、一高を経て1918年(大正7年)7月東京帝大を卒業。水野敏雄は中学以来の同級生である。在学中に文官高等試験に合格し、大蔵省に入省した。臨時調査局属。総務部総務課、外国為替管理部総務課、大臣官房秘書課のほか、銀行局の普通銀行課、銀行課、検査課で課長を務め、1938年(昭和13年)7月辞職。
粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月… 粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月7日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。ゴーストップ事件時の大阪府警察部長、広島市への原子爆弾投下時の広島市長として知られる。東京府士族。 鉄道官吏・粟屋頴祐(えいすけ)の二男として生まれる。父の転勤先の仙台で生まれたため「仙吉」と命名される。父は山口県出身だが、鉄道に勤務していたために転勤をくりかえし、その任地の一つとして1902年鳥取の米子に来た。 1906年鳥取県立第二中学校(現在の米子東高校)に入学し、野球と柔道に熱中した。 1911年12月林重浩校長が鳥取中学校へ転任することになった際、仙吉は生徒の先頭に立って留任運動のリーダーになった。
笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26… 笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26年)9月26日 - 1990年(平成2年)9月8日[要出典])は、日本の内務官僚、拓務官僚、朝鮮総督府官僚。 新潟県西蒲原郡四ツ合村(現在の新潟市西蒲区)出身。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学工科大学土木科を卒業。さらに東京帝国大学法学部政治科に学んで、1920年(大正9年)に卒業した。内務省土木局勤務、静岡県安倍郡長、静岡県理事官、内閣拓殖局書記官、拓務書記官、拓務省管理局第二課長、同第一課長、同地方課長、拓務局奨励課長、大臣官房文書課長、朝鮮総督府咸鏡南道知事を歴任した。 1940年(昭和15年)に退官した後は、北鮮合同電気株式会社社長を務めた。
萱場 軍蔵(かやば ぐんぞう、1893年(明治26年)9月1… 萱場 軍蔵(かやば ぐんぞう、1893年(明治26年)9月11日 - 1979年(昭和54年)11月15日)は、日本の内務官僚。いわゆる内務三役(内務次官、内務省警保局長〈現在の警察庁長官に相当〉、警視総監)を全て経験した。 宮城県名取郡東多賀村(現・名取市)出身。私立東北中学校(現:東北高等学校)、第二高等学校、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験行政科に合格して内務省に入省。 1934年(昭和9年)、栃木県知事に就任。1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生して警視庁上層部が更迭されると同年3月に警保局長に任じられた。1937年(昭和12年)、岡山県知事に就任。1939年(昭和14年)、警視総監に就任。
西岡 広吉(廣吉、にしおか こうきち、1893年 <明治26… 西岡 広吉(廣吉、にしおか こうきち、1893年 <明治26年> 9月2日- 1961年 <昭和36年> 3月22日)は、日本の内務官僚、政治家。公選による初代の岡山県知事を務めた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 1893年、山口県柳井市で生まれる。1924年に東京帝國大学(現・東京大学)を卒業し、官選の岡山、福岡県知事を務めた。1947年の第一回岡山県知事選挙に当選。同年12月に岡山県内で行われた昭和天皇の戦後巡幸では、随行役を務めた。その後は、県知事を1期4年務めた。1961年3月22日、胃癌のため67歳で逝去。死没日付をもって正五位から従四位に進階し、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 -… 平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 - 1969年(昭和44年)11月25日)は、大正後期から昭和前期の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県出身。平義光の三男として生まれた。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て第一高等学校を卒業。1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し管船局属となる。その後、内務省に転じた。 1919年(大正8年)警視庁警視となる。以後、警視庁保安部保安課長、谷中警察署長、外神田警察署長、群馬県内務部地方課長、同学務課長、帝都復興院及び復興局経理部倉庫課長兼購買課長、岡山県学務部長、千葉県学務部長などを歴任。
児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3… 児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3日 - 1960年5月23日)は、日本の内務官僚。県知事、厚生次官、中国地方総監。 山口県出身。陸軍大将・児玉源太郎の七男として生まれる。 1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。 以後、静岡県志太郡長、静岡県警視、内務事務官、復興局事務官、内閣総理大臣秘書官、鉄道省事務官、内務書記官、神社局総務課長、兼造神宮使庁主事、大臣官房会計課長などを歴任。
土屋 正三(つちや しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月… 土屋 正三(つちや しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月2日 - 1989年〈平成元年〉2月6日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、警察大学校名誉教授。 静岡県下田市で土屋元平の長男として生まれた。1906年、静岡県立静岡中学校入学。静岡中学を経て、第一高等学校を卒業。1916年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し兵庫県属となる。 以後、兵庫県警視、内務事務官、茨城県書記官・学務部長、内務書記官・警保局図書課長、同警務課長、警察講習所教授、岡山県書記官・内務部長などを歴任。 1935年(昭和10年)1月15日、山梨県知事に就任。
青木 楠男(あおき くすお、1893年(明治26年)7月23… 青木 楠男(あおき くすお、1893年(明治26年)7月23日 - 1987年(昭和62年)3月18日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務官僚。青木定謙の子。青木戒三 、青木得三の弟。 内務官僚青木定謙の七男として高知県に生まれる。1918年(大正7年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省土木局に入る。1926年(大正15年)内務省土木試験所に転じ、1942年(昭和17年)同試験所長となる。この間、欧米出張を経て1930年(昭和5年)東京帝国大学講師を兼任した。 1946年(昭和21年)官職を辞し、創設間もない早稲田大学理工学部土木工学科教授となり、1954年(昭和29年)理工学部長、1956年(昭和31年)大学院工学研究科委員長を歴任し、1964年(昭和39年)退職した。
小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17… 小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17日 - 没年不明)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、文部省普通学務局長を歴任した。 現在の福島県喜多方市出身。会津中学、四高を経て、東京帝国大学在学中に文官高等試験に合格し、1919年(大正8年)卒業。 官歴前半は警視庁警部、同保安部保安課長、愛知県警察部特高課長などの警察関係。その後福岡県内務部社会課長、高知県学務部長、 岩手県経済部長などを歴任。岩手県在任中には、国民健康保険課長の石原幹市郎を説得し、国民健康保険制度では全国でも他に例を見ない、農林水産省所管の産業組合代行による、国保事業の運営を奨励する。[要出典]1937年 、第32代佐賀県知事に就任。
山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月… 山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。陸軍司政長官。旧姓・伊藤。 三重県出身。伊藤茂右衛門の四男として生まれ、山内家(本籍:愛知県)の養子となる。第八高等学校を卒業。1918年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、内務省に入省し警保局嘱託となる。 以後、高知県警部・警務課長、神奈川県警視・監察官、福井県警視・特別高等課長、山口県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、高知県書記官・総務部長、鹿児島県書記官・総務部長、静岡県書記官・総務部長などを歴任。
安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26… 安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長、品川区長。 古本信蔵の長男として福岡県小倉市(現北九州市小倉北区・小倉南区)に生まれ、のち安田よしの養子となる。1915年(大正4年)中央大学を卒業し三井物産に入社。1921年(大正10年)東京市に奉職し、建築局庶務掛長、土木局庶務課庶務掛長、建築課管理掛長、臨時東京市庁舎建築部庶務課長を経て、1936年(昭和11年)10月、江戸川区長に就任。1938年(昭和13年)5月まで務めたのち、市民局防衛課長、総務局市計画課長を歴任した。1942年(昭和17年)9月、品川区長となった。
持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 197… 持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 1979年8月31日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。県知事、北海道庁長官、衆議院議員。旧姓・小牧。子に衆議院議員の持永和見、自治事務次官の持永堯民。 宮崎県北諸県郡庄内村、現在の都城市出身。持永善一の養子となる。宮崎県師範学校から広島高等師範学校を経て、1921年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り衛生局属となる。以後、和歌山県西牟婁郡長、同県海草郡長、広島県理事官、社会局事務官、社会局社会部の福利課長・保護課長・庶務課長、厚生大臣官房会計課長、傷兵保護院業務局長などを歴任。 1939年7月、愛媛県知事に就任。
淵上 房太郎(ふちがみ ふさたろう、1893年(明治26年)… 淵上 房太郎(ふちがみ ふさたろう、1893年(明治26年)6月2日 - 1976年(昭和51年)2月28日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、官選沖縄県知事。 福岡県出身。淵上仁七郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省し専売局書記、同副参事を務める。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。 1923年、内務省に転じ兵庫県明石郡長に就任。以後、同県川辺郡長、長崎県地方課長、石川県商工水産課長、宮崎県地方課長、三重県学務部長、青森県書記官・警察部長、岩手県書記官・総務部長、大分県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長などを歴任。
宮村 才一郎(みやむら さいいちろう、1893年(明治26年… 宮村 才一郎(みやむら さいいちろう、1893年(明治26年)6月 - 1948年〈昭和23年〉2月8日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・大島。 新潟県、のちの高田市出身。大島久作の二男として生まれ、同年、宮村寅吉の養子となる。第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。民間企業に勤めた後、1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、山梨県西山梨郡長、同北巨摩郡長、地方事務官として山梨県・福岡県各勤務、佐賀県書記官・警察部長、鳥取県書記官・内務部長、岐阜県書記官・総務部長、内務書記官・地方局監査課長、東京府書記官・総務部長などを歴任。
池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年… 池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年9月4日)は、日本の司法官僚、検事、裁判官。最高裁判所判事。 静岡県出身。幕臣、郡長・池田忠一の三男として生まれる。三重一中、第一高等学校を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年8月、司法省に入り司法官試補・東京地方裁判所詰となる。 1917年7月、東京地裁予備検事に発令され、同検事、兼司法書記官・行刑局付、刑事局兼行刑局(思想部長)、大臣官房調査課長などを歴任。治安維持法などを立案し、その後、思想犯担当検事(通称・思想検事)となる。 1935年3月、大審院検事に就任。以後、東京刑事地方裁判所検事正、司法省刑事局長、名古屋控訴院(現:名古屋高等裁判所)検事長を歴任し終戦を迎える。
保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年… 保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年10月6日)は、日本の看護師、厚生官僚、幼稚園経営者である。日本の訪問看護、公衆衛生、保育事業の先駆者の1人である。 長野県飯田市出身。東京市の東京慈恵医院看護婦教育所卒業後、1921年に女性伝道師として渡米。アメリカ合衆国コロラド州の看護師資格を得る。コロラド病院看護学校、コロンビア大学などで学び、ニューヨーク市で公衆衛生看護やセツルメントの訪問看護に携わる。 1929年に帰国後は大阪市の「大阪朝日社会事業団」(朝日新聞社)の「公衆衛生訪問婦協会」で主任として働きつつ、1931年から1943年まで看護専門雑誌「看護婦」を発刊し続けた。
中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年… 中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年)5月13日 - 1989年(平成元年)12月31日)は、大正から昭和期の官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・男爵、中御門経隆の三男として生まれた。父の隠居に伴い、1915年(大正4年)10月30日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年、拓殖局嘱託となる。その後、衆議院書記官兼拓務書記官、衆議院秘書課長、同調査部二課長、衆議院事務局議事課長、海軍省事務官、議院制度調査会幹事、議会制度審議会幹事などを務めた。 1939年(昭和14年)6月21日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
稲垣 潤太郎(いながき じゅんたろう、1893年〈明治26年… 稲垣 潤太郎(いながき じゅんたろう、1893年〈明治26年〉4月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 鳥取県出身。1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。長野県警視、同理事官、宮内事務官・参事官、帝室林野管理局事務官、岡山県事務官、北海道庁学務部長、秋田県警察部長、北海道庁警察部長、富山県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1935年(昭和10年)に香川県書記官・総務部長に就任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、1942年(昭和17年)まで福島県若松市(現:会津若松市)助役を務めた。
松島 清(まつしま きよし、1893年(明治26年)4月12… 松島 清(まつしま きよし、1893年(明治26年)4月12日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山形県西田川郡加茂町(現在の鶴岡市)出身出身。山沢浩の二男として生まれ、松島鉉太郎の養子となった。1922年(大正11年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、慶尚南道属となった。翌年に高等試験行政科に合格し、警視・全羅南道警務課長、理事官・同学務課長、慶尚南道産業課長、同学務課長、京畿道警務課長を歴任し、1929年(昭和4年)に仁川府尹となった。 その後、全州専売支局長、忠清北道内務部長、京城府総務部長、総督官房外務部勤務を経て、1939年(昭和14年)に京城地方専売局長に就任した。
安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日… 安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 福岡県出身。1912年(明治45年)、小学校教員となり、訓導に進んだ。1918年(大正7年)に日本大学高等師範部を卒業し、内務属となる。1921年(大正10年)に高等試験行政科に合格。富山県属、同警視・警務課長、青森県事務官、鹿児島県事務官、朝鮮総督府事務官・平安南道警察部長を歴任した。 1932年(昭和7年)より関東庁事務官に転じ、金州民政署長、内務局地方課長、旅順民政署長を歴任。1938年(昭和13年)に関東専売局長に就任した。 退官後、福岡市助役を務めた。
鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日… 鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。 静岡県小笠郡佐束村(現掛川市)出身。1917年東京帝国大学独法科卒業、内務省に入省。長野県北安曇郡長、北佐久郡長、内務部農商課長を務めた後、長崎県理事官、千葉県書記官・学務部長、大阪府内務部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、香川県書記官・内務部長、京都府書記官・経済部長、内務省警保局警察講習所長を歴任後、1939年に青森県知事、1940年に長野県知事に就任。その後は広島県呉市長などを務めた。 長野県知事としては戦時下での食糧の増産、満蒙開拓移民の送出、信濃銀行の再生、治山治水事業の財源基礎の確立などに実績を上げた。
挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987… 挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987年12月3日)は、日本の内務官僚、内務次官。 日本住宅公団総裁。広島県福山市出身。旧姓・三谷。「梜間茂」表記の文献もあり。戸籍上は旧字体の挾間。 海軍大佐挾間光太の養子。福山中学(現福山誠之館高校)~第六高等学校を経て1919年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。内務省に入省、衛生局長、茨城県知事、土木局長、地方局長などを歴任。1937年衛生局長として保健所法制定に尽力、現在の保健所制度の基礎を作った。茨城県知事時代の大洪水に対する災害復旧政策は今日でも評価が高い。1940年第2次近衛内閣の内務次官に就任。大政翼賛会の結成をすすめ、翌1941年大政翼賛会組織局長として国民を戦時体制に動員した。
西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月… 西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県大島郡和田村(東和町を経て現周防大島町)に生まれる。1915年(大正4年)8月、府殖産局林業講習を修了後、同局営林所に奉職し、1919年(大正8年)8月、嘉義庁林務手に転じ、澎湖庁技手となった。ついで高雄州技手を経て、1925年(大正14年)1月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任し、のち台中州豊原郡守に転じた。
小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月1… 小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月16日 - 1977年(昭和52年)10月11日)は、日本の実業家、企画院・内務官僚、弁護士。企画院次長、大日本産業報国会理事長、大政翼賛会事務総長、官選愛知県知事、東海北陸地方総監。 漢学者、小畑万治郎の六男として大阪府で生まれる。茨木中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。住友合資会社に入り総本店経理部に配属された。1923年(大正12年)2月から1925年(大正14年)3月まで欧米に商工業研究のため留学した。 1925年(大正14年)10月、住友総本店経理部第三課長となる。
佐伯 顕(さえき あきら、1893年(明治26年)3月15日… 佐伯 顕(さえき あきら、1893年(明治26年)3月15日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県出身。1916年(大正5年)、中央大学法律科在学中に高等文官試験に合格した。警視庁警部、刑事課鑑識課長、警視を歴任し、1921年(大正10年)、樺太庁地方課長となり、福井県警察部保安課長・工場課長を経て、1923年(大正12年)に総督府警察官講習所教授・警務局事務官として朝鮮に渡った。朝鮮では忠清北道警察部長、忠清南道警察部長、咸鏡南道警察部長を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米を視察した。帰国後、警察官講習所長、平安北道警察部長、同内務部長、平安南道警察部長、京畿道警察部長、同内務部長を経て、1937年(昭和12年)に京城府尹に就任。
松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9… 松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9日 - 1970年(昭和45年)1月25日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚、弁護士。 山形県飽海郡北平田村(現在の酒田市)出身。第四高等学校を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。三井物産に入社するが、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、内務属となる。島根県美濃郡長、同八束郡長、島根県事務官、岡山県事務官、千葉県書記官・学務部長、福井県書記官・警察部長、群馬県書記官・経済部長を歴任。1936年(昭和11年)、朝鮮総督府に転じ、農林局農務課長、総督官房外事部長を経て、1940年(昭和15年)に専売局に就任。
安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年… 安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年〉3月8日 - 1982年〈昭和57年〉2月14日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。 大分県大分郡松岡村出身。地主・安藤勝市の四男として生まれる。大分中学、第五高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年11月、内務省に入り、新潟県属として内務部学務課に配属された。 1919年4月、新潟県警部・警察部警務課長に就任。以後、内務省衛生局保険課勤務、鹿児島県出水郡長、栃木県内務部農商課長、同庶務課長兼地方課長、東京府内務部庶務課長、岩手県書記官・警察部長、内務書記官・警保局高等課長、東京府書記官・学務部長、静岡県書記官・内務部長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
土屋 伝作(つちや でんさく、1893年〈明治26年〉3月7… 土屋 伝作(つちや でんさく、1893年〈明治26年〉3月7日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。税理士。 山梨県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業。朝鮮に渡って逓信書記となり、1921年(大正10年)に高等試験行政科に合格した。黄海道内務部学務課長、咸鏡南道内務部学務課長、同地方課長、平安南道地方課長、全羅北道財務部長、黄海道警察部長、全羅南道警察部長を歴任した。1932年、総督官房外事課勤務となり、新京、奉天に駐在した。咸鏡北道内務部長を経て、1934年に釜山府尹に就任し、さらに大邱税務監督局長に転じた。 退官後、朝鮮金融組合連合会理事・事業部長を務めた。戦後は、税理士を開業し土屋税理会計事務所長を務めた。
棟居 俊一(むねすえ しゅんいち、1893年(明治26年)2… 棟居 俊一(むねすえ しゅんいち、1893年(明治26年)2月28日 – 1954年(昭和29年)1月3日)は、日本の拓務官僚。樺太庁長官。 山口県出身。斎藤吉五郎の三男として生まれ、棟居保の養子となった。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。大蔵属、司税官、亀戸税務署長、永代橋税務署長、税務事務官、横浜税関総務課長、門司税関監視部長・総務課長、神戸税関総務課長を務めた。その後、拓務省に転じ、書記官、殖産局第二課長、同第一課長、朝鮮総督府事務官、警務局保安課長を歴任。1936年(昭和11年)には朝鮮総督府専売局長に、1937年(昭和12年)には拓務省管理局長に、1938年(昭和13年)に樺太庁長官に就任した。
清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1… 清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1989年9月7日)は、日本の内務官僚、実業家。県知事、川崎重工業取締役。 現在の石川県七尾市出身。清水栄蔵の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1916年、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府理事官、栃木県学務部長、内務事務官、内務省土木局道路課長、同港湾課長、静岡県書記官・内務部長などを歴任。 1932年6月、和歌山県知事に就任。1934年11月に退任し、満州国民政部総務司長に転じた。1936年6月、徳島県知事となり、次いで、宮城県知事に異動。1940年4月、宮城県知事を辞任して退官し、川崎重工業取締役に就任し、1946年まで在任。
井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – … 井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – 1947年2月18日)は、日本の大蔵官僚、政治家。太平洋戦争開戦前、日米民間人交渉に携わった人物として知られる。 島根県出身。(旧制)仙台一中、一高、1917年東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、大蔵省に入省。東京税務監督局兼理財局属。近衛文麿と近しく、近衛や後藤隆之助らが設立した「昭和研究会」の初期のメンバーでもあった。1936年、門司税関長を最後に退官し、産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事となった。 1940年、ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のジェームズ・E・ウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。
小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 198… 小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 1987年3月3日)は、日本の商工官僚、経営者。茨城県出身。 1918年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、農商務省に入省。商工省で貿易局長や事務次官などを歴任。1941年に日本製鉄取締役に就任し、1945年には副社長に就任し、1946年に公職追放を受けて、辞任。1952年に八幡製鉄副社長として復帰し、1956年1月に社長に昇格した。社長在任時には、戸畑製鉄所や堺製鉄所の建設に尽力し、君津製鉄所への進出を決定し、業界の近代化を推進した。1962年5月に会長に就任し、1967年5月から相談役を務めた。 1970年から1974年までに日本銀行政策委員会委員を務め、日本鉄鋼連盟会長、経済団体連合会副会長、産業構造審議会会長なども歴任した。
森本 義夫(もりもと よしお、1893年〈明治26年〉1月2… 森本 義夫(もりもと よしお、1893年〈明治26年〉1月27日 - 1954年〈昭和29年〉12月6日)は、大正後期から昭和期の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 福岡県京都郡白川村(現・苅田町)で生まれる。1912年(明治45年)豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 法制局に入り法制局属に任官したが、鉄道省に転じ鉄道属となる。以後、鉄道局副参事、在外研究員、国際観光局書記官、鉄道局参事、鉄道省大臣官房保健課長、新潟鉄道局長を歴任し、鉄道調査部長で退官した。 その後、鉄道省嘱託、陸軍省嘱託、華中鉄道公司嘱託、大日本労務報国会厚生局長、同理事、恩給金庫評議員、鉄道会議議員などを務めた。
東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1… 東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1月16日 - 1983年〈昭和58年〉5月26日)は、日本の政治家、医学者、厚生官僚。東京大学名誉教授。位階は正三位。東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)などを歴任した。 位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長など。 父は医師の東藤九郎。弟は野球選手の東武雄。武雄は東大野球部の投手として活躍し、龍太郎はボート部の選手として活躍した。妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(枢密顧問官、男爵)の三女・照子。 大阪府大阪市中央区久太郎町に、医師の東藤九郎の長男として生まれる。
武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1… 武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1日 - 1958年(昭和33年)1月19日)は、日本の内務官僚。秋田県知事、関東局総長、企画院総裁心得、満洲国総務長官。 本籍・石川県。旧加賀藩士・長崎県師範学校長兼教授、武部直松の四男として長崎で生まれる。東京府立四中、第一高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年7月、内務省に入り東京府属兼内務属として地方局府県課に配属された。 1919年10月、長崎県理事官・内務部農林課長に就任。以後、福岡県学務課長、内務事務官・都市計画局、帝都復興院書記官・同建築局庶務課長兼営繕課長、復興局建築部庶務課長、復興局長官官房計画課長、同長官官房文書課長、復興事務局文書課長、同計画課長、同庶務課長、兼内務書記官・内務大臣秘書官、内務書記官・大臣官房会計課長などを歴任。
鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、189… 鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、1893年または1901年6月27日 - 1965年1月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、初代慶尚北道知事、第4代忠清北道知事を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。号は白下(ペカ、백하)。 慶尚北道安東郡出身。早稲田大学卒。新幹会安東支会長を経て、解放後は朝鮮日報主筆、時代日報主筆を務めた。1948年の初代総選挙で当選したが、同年10月19日に慶尚北道知事に任命されたため議員を辞職した。以後初代慶尚北道知事(1948年10月18日~1950年1月23日)、第4代忠清北道知事(1952年9月~1953年11月)、自由党政務委員長、民友党結党発起人を務めた。
加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 … 加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 - 1975年(昭和50年))は、日本の内務官僚。官選福井県知事。 大分県出身。加藤栗太郎の長男として生まれる。1917年、明治大学法学部を卒業。1918年、内務省に入省し兵庫県属となる。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、大分県直入郡長、同日田郡長、大分県・徳島県・鹿児島県各勤務、宮崎県書記官・学務部長、島根県書記官・学務部長、佐賀県総務部長、山口県総務部長、東京府書記官・学務部長などを歴任し、1941年、新潟県内政部長に就任。 1943年7月、福井県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1945年4月21日、依願免本官となり退官した。
岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月… 岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月25日 - 1989年(平成元年)11月19日)は、日本の内務・厚生官僚。官選県知事、厚生次官、海軍司政長官。旧姓・吉岡。 島根県出身。島根県官房主事・吉岡謙太郎の三男として生まれ、岡田宇之助の養子となる。島根県立松江中学校、第一高等学校を卒業。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 1918年1月、東京府南葛飾郡長に就任。以後、岐阜県理事官・内務部地方課長、東京府理事官・視学官、内務書記官・都市計画局庶務課長、内務事務官・土木局勤務、土木局河川課長などを歴任。