権 東哲(クォン・ドンチョル、朝鮮語: 권동철/權東哲、19… 権 東哲(クォン・ドンチョル、朝鮮語: 권동철/權東哲、1916年1月1日または1月21日 - 2006年11月24日)は、日本統治時代の朝鮮の教育者、大韓民国の公務員、政治家。青松郡守、第8代義城郡守、第4代達城郡守、参議員などを歴任した。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)、号は汾谷(プンゴク、분곡)。キリスト教徒。 日本統治時代の慶尚北道義城郡出身。同志社大学文学部神学科卒。私立白牙島(朝鮮語版)学院院長、義城学院院長、米軍政庁人事行政処職員、慶尚北道人事処補任課長、青松郡守、第8代義城郡守(1950年9月24日 - 1951年9月19日)、第4代達城郡守(1951年9月19日 - 1955年8月23日)、慶尚北道農道院長、サムソン中学校長、学校法人サムソン学院理事長、大韓民国憲政会(朝鮮語版)運営委員などを務めた。
高木 啓太郎(たかぎ けいたろう、1916年1月1日 - 1… 高木 啓太郎(たかぎ けいたろう、1916年1月1日 - 1997年10月11日)は、日本の写真作家、美術家。 写真、陶芸、書画を中心に、日本のみならず、欧米でも数多くの個展を開催するなど幅広く活躍した。 1916年(大正5年)倉吉で生まれ、戦前に大陸に渡る。敗戦後、シベリア抑留を経験する。1948年(昭和23年)に帰国すると、倉吉でカメラ店を開き、民俗写真、民俗風景の撮影に熱中した。独学で写真を始め、塩谷定好や植田正治との親交を通じて技術を磨いた。同好の仲間と「光画クラブ」というアマチュア写真集団を作る。「光画クラブ」には、戦後の「砂丘社」復興にかかわった画家・徳吉英雄も参加した。さらにカメラ店の他に、民藝品店、画廊、喫茶店(久良)、蕎麦屋(土蔵蕎麦)など商売の幅を広げ、そこが芸術家たちの集うサロン的な場所となった。
芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1… 芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1日 - 1993年(平成5年)5月9日)は、日本の教育者、詩人、歌人。 山形県白鷹町横田尻に生まれる。 1935年山形師範学校(現:山形大学地域教育文化学部)卒業後、山大教育学部附属小学校、山形南高、上山高での勤務を経て、長井高校長を務める。退職後、日大山形高校に移り教鞭を執った。旧制山形二中・山南には23年にわたり在籍し、児童文学作家である鈴木実は文芸部で指導を受けた。 アララギ派の歌人として出発し、1943年に情報局・朝日新聞主催の懸賞作詞「大日本の歌」が一位入賞。戦後は、戦中の反省から短歌を捨て詩作におもむく。1952年に洋酒壽屋(現:サントリー)主催で公募された新国民歌では応募した「われら愛す」が一位で入選する。
北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 20… 北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 2001年8月21日)は、日本の彫刻家、日本芸術院会員。長崎県出身。父は北村西望、妻路子(大正12年生まれ)は柿原万蔵(秩父鉄道社長)の二女。 父西望は曠原社を率いると、1922年(大正11年)、西ケ原に彫刻研究所を開いた。1953年(昭和28年)に父が当時の滝野川区から東京都武蔵野市にアトリエと住まいを移すと、北村治禧がひとりで創作を続け、1983年(昭和58年)に建て替えた。東京都北区は治禧の没後、2002年にアトリエを受贈し、寄託された作品とともに「(仮称)彫刻アトリエ館」として定期的に公開している。 主な執筆者、編者の順。
福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没… 福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の元大相撲力士。若藤部屋所属。本名は水上 勝美。最高位は十両9枚目。 福岡県宗像郡福間町(現福津市)出身。若藤部屋に入門し、1932年2月「西郷」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「福知海」に改めた。十両で5勝6敗と負け越し、幕下に落ちた。1937年5月に廃業した。
小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年(大正3年)1月1… 小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年(大正3年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月26日)は、日本の洋画家。世相を皮肉的に風刺するシュールな油彩画や水彩画を多く描き、特に油彩ではペインティングナイフでキャンバスを傷つけるほど大胆な手法で描くことで知られる。曽祖父に黒羽藩士の小山田廣徳(辨助)、遠縁に日本画家の小堀鞆音がいる。 1914年(大正3年)、小山田廣志と妻まつの子として父の出張先である中華民国の満洲地域にある奉天省 安東県(現在の中華人民共和国遼寧省丹東市の東港市)で生まれる。翌年に両親から離れて祖父母の住む日本に引き取られ東京で暮らし始めるが、2歳の時スタージ・ウェーバー症候群を発症。
植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006… 植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006年1月21日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。 兵庫県出身。旧制姫路中学、旧制姫路高等学校文科乙類を経て、1936年京都帝国大学法学部を卒業。住友合資入社、住友商事に転じ、1961年5月に取締役に就任。常務、専務を経て、1971年11月に副社長に就任し、1977年6月に社長に昇格し、1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1984年6月には貿易功労者に選ばれ、1989年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 2006年1月21日、肺炎のために死去。92歳没。
畑中 武夫(はたなか たけお、1914年(大正3年)1月1日… 畑中 武夫(はたなか たけお、1914年(大正3年)1月1日 - 1963年(昭和38年)11月10日)は、日本の天文学者。日本の電波天文学の開拓者として知られている。 和歌山県田辺市に生まれたが、少年時代に新宮市に引っ越したので、同市を出身地とした。旧制新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)時代から科学雑誌を読み、天文学を志す。旧制第一高等学校を経て、1937年東京帝国大学理学部天文学科卒業。はじめは理論天体物理学を専攻し、東京大学助手を経て、1945年講師となる。萩原雄祐の下で惑星状星雲の放射機構を研究し、同年9月、学位論文「惑星状星雲に於ける電離ヘリウム、二重電離酸素及び二重電離窒素原子間の光学的交互作用理論(英文)」により、理学博士の学位を取得。
河野 正(かわの ただし、1914年(大正3年)1月1日 -… 河野 正(かわの ただし、1914年(大正3年)1月1日 - 2007年(平成19年)9月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 福岡県出身。1931年(昭和6年)旧制福岡県立福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。九州医専(現久留米大学医学部)卒業。 九州大学解剖学助教授を経て1946年(昭和21年)福岡県篠栗町で診療所開業。1951年(昭和26年)医療法人済世会設立。 福岡県議会議員となった後、1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年) まで左派社会党、同年第27回衆議院議員総選挙に旧福岡1区で初当選。1990年(平成2年)に政界を引退、計8期(22年間)。同年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲五等からの昇叙)。
小針 暦二(こばり れきじ、1914年1月1日 - 1993… 小針 暦二(こばり れきじ、1914年1月1日 - 1993年11月7日)は、日本の実業家。
平川 正輝(ひらかわ まさてる、1914年1月1日 - 没年… 平川 正輝(ひらかわ まさてる、1914年1月1日 - 没年不詳)は日本の歯学者。九州歯科大学名誉教授。専門は口腔外科学。 平川和太郎とトマの長男として福岡市に生まれる。母のトマは明治維新期に興志塾を開いた高場乱の孫。1932年福岡県中学修猷館を経て、1936年九州歯科医学専門学校を卒業。その後、同校が福岡県に移管され改称された、福岡県立医学歯学専門学校(現・九州歯科大学)医学科を1945年に卒業。 1946年福岡県立医学歯学専門学校の口腔外科教授となり、同部長を兼ね、兎唇口蓋裂の手術および顎欠損に対する骨移植の研究に従事。1954年学位を受ける。1972年3月、同校が改称した九州歯科大学の学長に就任する。
岡村 誠三(おかむら せいぞう、1914年1月1日 - 20… 岡村 誠三(おかむら せいぞう、1914年1月1日 - 2001年5月2日)は、日本の化学者。専門は、高分子化学。工学博士。京都大学名誉教授。元京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)長。元日本学士院会員。勲二等旭日重光章受章。 放射線重合の研究を推進し、放射線高分子化学という新しい分野を開拓した。1970年に「放射線重合に関する研究」により恩賜賞・日本学士院賞を受賞。
市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004… 市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004年7月22日 )は、日本の経営者。三越社長、会長を務めた。 東京都出身。1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三越に入社。1965年4月に取締役に就任し、常務を経て、1982年9月に社長に就任。社長在任時には、三越事件で混乱していた三越の経営を立て直し、経営理念に「商いと始末」を掲げ、「仕入れの神様」とも呼ばれていた。1986年5月に会長に就任し、1995年5月から相談役を務めた。 1986年5月から1990年5月までに日本百貨店協会会長を務めた。 1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年7月22日肺炎により、死去。90歳没。
内野 吾郎(うちの ごろう、1914年1月1日 - 1985… 内野 吾郎(うちの ごろう、1914年1月1日 - 1985年12月15日)は、日本の国文学者、國學院大學名誉教授。 神奈川県高座郡御所見村(現・藤沢市)に生まれる。 昭和7年(1932年)に芝中学校を卒業、昭和12年(1937年)に國學院大學国文学科を卒業。 昭和22年(1947年)に北海道第二師範学校教授、昭和25年(1950年)に北海道学芸大学(現・北海道教育大学)教授。昭和36年(1961年)に「日本文芸史の方法序説:その学史的展望と諸学派の批判」で國學院大學より文学博士の学位を取得。昭和38年(1963年)に國學院大學教授。 昭和43年(1968年)に西ドイツのボン大学客員教授として招聘される。
門田 正三(かどだ まさみ、1914年(大正3年)1月1日 … 門田 正三(かどだ まさみ、1914年(大正3年)1月1日 - 2000年(平成12年)5月25日)は、昭和から平成時代の実業家。電源開発総裁。原子力委員会、海外電力調査会会長、日本電力調査委員会委員長。 熊本県出身。1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部法律学科卒業。1951年(昭和26年)東京電力に入社し、江戸川支社長、営業部次長、同部長代理、群馬支店長を経て、1968年(昭和43年)5月に取締役営業部長となる。ついで常務、副社長を経て、1983年(昭和58年)6月には電源開発総裁に就任した。1986年(昭和61年)10月、同社顧問に転じた。 ほか、原子力委員会、海外電力調査会会長、日本電力調査委員会委員長、日本原子力産業会議顧問、同常任理事などを歴任した。
佐治 賢使(さじ ただし、1914年〈大正3年〉1月1日 -… 佐治 賢使(さじ ただし、1914年〈大正3年〉1月1日 - 1999年〈平成11年〉6月14日)は、漆芸家。岐阜県多治見市出身。本名は正。市川市名誉市民。位階は従三位。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
久保村 隆祐(くぼむら りゅうすけ、1914年1月1日 - … 久保村 隆祐(くぼむら りゅうすけ、1914年1月1日 - 2006年2月26日)は、日本の経営学者。専門はマーケティング論等。第7代横浜国立大学学長、横浜国立大学名誉教授。元日本商業学会会長。 長野県生まれ。1946年東京産業大学(現一橋大学)卒業。1951年横浜国立大学講師。1954年横浜国立大学助教授。1965年中小企業診断員。横浜国立大学教授を経て、1967年横浜国立大学経営学部学部長。1970年横浜国立大学経営学部長。1976年から1979年まで第7代横浜国立大学学長を務め、横浜国立大学より名誉教授の称号を受けた。1980年から1985年まで日本商業学会会長。1985年勲二等瑞宝章受章。
安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999… 安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999年9月13日)は、1930年代に活躍した日本の元スキージャンプ選手。 1913年、北海道余市郡赤井川村出身で牧場を営んでいた安達正平(のちに第17代赤井川村村長)の5男として生まれる。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)- 鉄道省札幌鉄道局(札鉄、現・JR北海道鉄道事業本部)、伊黒正次は旧制小樽中学の同期生である。 オリンピックに2大会連続で出場、19歳で出場した1932年のレークプラシッドでは8位に入賞するも、1936年ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでは45位と振るわなかった。1936年のホルメンコーレン大会では3位に入賞している。
山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日… 山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日 - 2010年(平成22年)3月13日)は、日本の歌人・文筆家。別名「童馬堂人」。 愛媛県出身。愛媛県立三島中学校(旧制中学)を卒業後、農業従事のかたわら短歌を学んだ。1941年太平洋戦争に従軍しビルマにて負傷、1942年に帰還した。従軍時の歌集「弾雨に禊ぐ」が第一歌集となる。敗戦後、農民組合を結成し農民運動に参加した。1951年には愛媛県議会議員に当選し、以後12年間県政に参与した。その間、斎藤茂吉に関する著書を出版するとともに歌集を上梓するなど旺盛な文筆活動を続けた。1967年以降は文学・著述に専念し、正岡子規や斎藤茂吉の研究に没頭した。
荒 正人(あら まさひと、1913年(大正2年)1月1日 -… 荒 正人(あら まさひと、1913年(大正2年)1月1日 - 1979年(昭和54年)6月9日)は、日本の文芸評論家。
大国 彰(おおくに あきら、1913年1月1日 - 1997… 大国 彰(おおくに あきら、1913年1月1日 - 1997年3月)は、日本の行政管理官僚。行政管理庁行政管理局長、行政管理事務次官、行政管理研究センター会長などを務めた。 三重県出身。第三高等学校から東京帝国大学法学部法律学科に入学。1934年 高等試験行政科を合格。1935年3月 東京帝大法学部法律学科卒業。同年 拓務省入省。殖産局属。 東京管区経済調査庁調査部経済調査官などを経て、1948年8月1日 東京管区経済調査庁監査部監察第一課長。1952年8月1日 東京管区監察局総務課長。同年8月12日 行政管理庁監察部監察官。1955年2月1日 行政管理庁監察部庶務課長。 1956年5月19日 行政管理庁長官官房秘書課長。
原島 保(はらじま たもつ、1913年 <大正2年> 1月1… 原島 保(はらじま たもつ、1913年 <大正2年> 1月1日 - 1989年 <平成元年> 3月31日)は、日本の経営者。日本セメント社長、会長を務めた。東京都出身。位階は正四位。 1936年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1964年12月に取締役に就任し、1969年12月に常務、1972年12月に専務を経て、1974年12月には社長に就任。1982年7月には会長に就任。 1986年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年3月31日脳出血のために死去。76歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
加藤 正明(かとう まさあき、1913年1月1日 - 200… 加藤 正明(かとう まさあき、1913年1月1日 - 2003年3月11日)は、日本の医学者・精神科医。 東京出身。東京医学専門学校(現東京医科大学)卒。国立国府台病院医長、国立精神衛生研究所部長、1974年東京医科大学教授、1977年国立精神衛生研究所長。のち富士心身リハビリテーション研究所理事長。専門は薬物乱用やアルコール関連障害、自殺などの社会精神医学的研究。1956年の『異性ノイローゼ』はベストセラーになった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 19… 川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 1996年5月15日)は、日本の工学者。専門は電子回路学。第10代東京工業大学学長・初代長岡技術科学大学学長・第46代電子通信学会会長などを務めた。文化功労者。 栃木県大田原市生まれ。栃木県立大田原中学校(現在の栃木県立大田原高等学校)を経て、1935年に東京工業大学電気工学科を卒業して東京電気株式会社(現在の東芝)に入社し、無線機器の開発などを行なった。1948年、東京工業大学助教授に就任した。1949年に工学博士の学位(学位論文「振幅変調波の伝送に関する研究」)を取得した。1953年に教授、1969年に電子通信学会会長、1971年に工学部長。
来栖 三郎(くるす さぶろう、1912年1月1日 ‐ 199… 来栖 三郎(くるす さぶろう、1912年1月1日 ‐ 1998年10月1日)は、日本の民法学者。東京大学名誉教授。1983年から日本学士院会員。穂積重遠門下。弟子に安達三季生、山田卓生、石田穣、中山信弘など。 台湾新竹州新竹市生まれ。研究に専念するため学会の理事職等は引き受けなかった。生涯独身であったため、研究を義姉が支えた。大変謙虚な性格で、日本学士院会員に推薦された際も躊躇するほどだったという。 同僚であった川島武宜を尊敬するといって憚らず、川島をして天才と言わしめた。そのため、両教授の門下が重複することしばしばであった。 川島、加藤一郎とともにセツルメント法相部の指導教授として活動し、稲本洋之助が社会学へ進む道筋をつけた。
太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 … 太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 - 1998年〈平成10年〉9月14日)は、昭和期の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)議長、元宇部窒素(現・宇部興産→UBE)企画課長。春闘方式を定着させた人物。 岡山県林田村(現・津山市)生まれ。旧制津山中学、旧制第六高校を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒業。1935年に大日本特許肥料(現・三菱レイヨン)に入社するも入社4年目に重役と喧嘩をし、宇部窒素(現・宇部興産)に移る。宇部窒素入社後は窒素工場硫酸課長を経て、同工場企画課長と順調に昇進を果たすが、経営陣より八幡製鐵所の親和会をモデルに従業員組合を組成するよう命じられ、1946年に同社の初代労働組合長に推されると、それまでのポストを捨て、企業エリートから労働エリートへと転身を果たした。
川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日… 川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月14日 )は日本の実業家である。三井生命保険、華興商業銀行勤務を経て神戸銀行取締役となり、その後、阪神相互銀行・第2代代表取締役社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)岡山県川上郡川上町領家(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、画家になる皆見鵬三がいた。1929年(昭和4年)に同校を卒業後、旧制第六高等学校へ入学する。1932年(昭和7年)に同校を卒業後、同年、東京帝国大学法学部へ入学する。1935年(昭和10年)3月に東大法学部政治学科を卒業し、三井生命保険へ就職する。
松尾 金蔵(まつお きんぞう、1912年1月1日 - 200… 松尾 金蔵(まつお きんぞう、1912年1月1日 - 2002年3月19日)は、日本の官僚。通商産業事務次官。日本鋼管会長。
住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 200… 住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 2005年7月28日)は、日本の実業家。学位は、工学博士(東京大学)。第16代当主住友吉左衛門友成男爵の弟。父は住友友純。長男芳夫は住友家第17代当主。住友金属工業専務、住友精密工業会長などを歴任した。 1912年1月1日生まれ。1936年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、1946年に住友金属工業に入社する。1962年11月取締役中央技術研究所所長となり、常務を経て、1970年11月専務に就任、1972年11月に相談役、住友精密工業会長となる。後に両社の監査役を務めた。この間、1953年(昭和28年)3月27日には「復元現象の研究」により東京大学から工学博士の学位を受け、さらに「ガスタービン並びにジェットエンジン用翼材の生産技術の確立」によって大河内記念賞を受賞している。
上林 与市郎(かんばやし よいちろう、1912年1月1日 -… 上林 与市郎(かんばやし よいちろう、1912年1月1日 - 1993年6月8日)は、日本の政治家。 日本社会党衆議院議員(6期)。社会民主連合顧問。 1982年勲二等瑞宝章、1983年羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)、1993年正五位。 山形県東田川郡泉村(現・鶴岡市羽黒町泉)に生まれる。 中央大学法学部卒業後、郷里に戻り、社会の民主化と新しい労農漁民運動の構築に専心。1947年、新憲法下における初の衆院総選挙旧山形2区から日本社会党公認で出馬。連続6期務め、阿部昭吾が秘書として仕える。 議員在任中は、衆院決算常任委員長などを務めたほか、社会党中央執行委員を歴任。加えて全日本農民組合連合会書記長に就き、農民組合組織の統一運動に尽力。
岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 … 岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の台湾総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 台湾出身。出生時より岸田氏に養子に出される。岸田氏は、京都府舞鶴市野村出身。岸田氏方の親戚には岸田久吉、岸田正吉などがいる。実父方の森氏は奄美大島で銃火薬を扱っていた家系である。実母方は大森氏で宮崎県出身。 台北第一師範学校附属小学校、台北高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学法学部卒業。台湾総督府に勤務。同総督府では、法制事務を所管する官房審議室、書記官、台南州北門郡郡守などを歴任。 終戦後は台湾総督府残務整理事務所で勤務後に日本に引揚げ、国会職員として勤務。
小関 藤一郎(こせき とういちろう、1912年1月1日 - … 小関 藤一郎(こせき とういちろう、1912年1月1日 - 2002年11月10日)は、日本の社会学者。 1912年、東京で生まれた。第一高等学校文科に入学し、1931年に卒業。東京帝国大学文学部社会学科で学び、1934年に卒業。同大学大学院に進学したが、1935年に退学。戦中は外地で過ごした。 1947年、三重県社会教育課長。1950年、三重県立大学専任講師となり、社会学を担当。1952年、南山大学経済学部助教授となった。1954年に同教授昇格。1960年、関西学院大学社会学部教授に転じた。1970年から1972年には、同社会学部長を務めた。1977年、学位論文『デュルケームと近代社会』を関西学院大学に提出して社会学博士号を取得。
木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 198… 木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 1987年4月7日 )は、日本の経済学者。専門は財政学。一橋大学名誉教授。井藤半彌門下。ドイツ流の財政社会学を日本の財政学に導入。 宮城県志田郡志田村(現・大崎市古川、旧・古川市)生まれ。 1928年和歌山高等商業学校(現・和歌山大学経済学部)に無試験入学。1934年東京商科大学(現・一橋大学)卒業(井藤半彌ゼミナール)、同大学大学院研究科に進学するとともに、高輪商業学校(現・高輪中学校・高等学校)等で教鞭をとる。 1945年に召集により第2師団入隊。同年終戦により復員。 1973年に胃癌が発見され東京女子医科大学消化器病センターで胃3分の1の切除手術を受ける。
法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)… 法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)1月1日 - 1995年(平成7年)3月12日)は望遠鏡製作者。静岡県焼津市生まれ。 鉄工所を経営するかたわら、日本初のパラボラ式電波望遠鏡の製作をはじめとし、約400台の望遠鏡を作った。その多くが天文台、研究所、大学で使用され、日本の天文学を支えた。「日本には、秘密の精密工場があるに違いない」と、世界中の技術者に言わしめた、天体望遠鏡製作の世界的権威であったが、本人は生涯を職人気質で通した。大胆かつ緻密な手法に、世界中の天文学者、技術者からの信頼を得ていた。 製作した主な望遠鏡には、美星天文台101cm赤道儀式天体望遠鏡、早稲田大学2.4m電波望遠鏡、栃木県子ども総合科学館75cm赤道儀式天体望遠鏡などがある。
野村 三郎(のむら さぶろう、1911年1月1日 - 198… 野村 三郎(のむら さぶろう、1911年1月1日 - 1985年)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校在籍時に五・一五事件に連座して服役し、釈放後は満州での軍務を経て、ルーマニアなど東ヨーロッパにおける諜報活動に従事したとされる。音楽プロデューサーとして知られるジョニー野村の父、プロデューサー兼俳優の野村祐人の祖父。 士族であった父・野村興市(ないし、興一)と、母みねの三男として、青森県弘前市に生まれた。 弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)二年修了後、東京陸軍幼年学校卒業。歩兵第31連隊に入隊し、陸軍士官学校へ派遣された(第44期)。1932年5月15日の五・一五事件において首相官邸襲撃隊に加わり、1933年に陸軍軍法会議において懲役4年の判決が下り、豊多摩刑務所で服役した。
小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 19… 小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 1944年7月11日)は、広島県出身のプロ野球選手。 大阪タイガース創立時の3番打者、正捕手。戦死したプロ野球選手の一人。結婚後の姓名は吉田 年安(没年および姓については後述)。 1927年、前年春選抜を制した広陵中学(現・広陵高校)の捕手として、春選抜は田部武雄と、夏の選手権は八十川胖とバッテリーを組み、更に打線も山城健三、三浦芳郎、中尾長らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われたが、連覇を狙った春は小川正太郎の和歌山中学に、夏も水原茂らのいた高松商業に決勝で敗れた。 翌1928年も春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退。続いて翌1929年春は、中尾、佐々木美利、野村実に、のち慶大・阪神と同僚となる平桝敏男らがいた強力打線だったが、決勝で第一神港商業にまたしても敗れ準優勝(第一神港商業は翌年も優勝し史上初の春連覇)。
福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1… 福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1日 - 2001年(平成13年)12月23日)は、日本の政治活動家。日本共産党(左派)中央委員会議長、長周新聞社主幹。
長濱 政壽(ながはま まさとし、1911年1月1日 - 19… 長濱 政壽(ながはま まさとし、1911年1月1日 - 1971年5月21日)は、日本の行政学者、政治学者。京都大学名誉教授。辻清明と並ぶ行政学第2世代の一人。新潟県新潟市生まれ。「長浜 政寿」とも表記される。 1931年、新潟高等学校文科甲類卒業。1934年、京都帝国大学法学部政治科卒業。同年、京都帝国大学法学部助手。1936年、京都帝国大学法学部専任講師。1938年、京都帝国大学法学部助教授に就任。1945年、京都帝国大学法学部教授に就任。1956年、京都大学評議員。1960年、京都大学より法学博士を取得。1961年、国家公務員採用上級甲乙種試験専門試験委員。1967年、京都大学法学部長。1971年、京都大学評議員。
寿原 正一(壽原、すはら しょういち、1911年(明治44年… 寿原 正一(壽原、すはら しょういち、1911年(明治44年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月13日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 北海道古平郡古平町で寿原要太郎の息子として生まれる。1958年(昭和33年)専修大学会計学本科を卒業した。 1928年(昭和3年)頃、札幌市に移り海産物商のトラック助手となる。1932年(昭和7年)頃、日の出ハイヤーに運転手として就職。その後上京し、病人輸送専門の東京寝台自動車に務め、戦後に労働組合を結成して委員長に就任し、1948年(昭和23年)常務として経営陣に加わり、1953年(昭和28年)社長となった。同年、札幌つばめ自動車会長、1955年(昭和30年)新宿交通社長に就任。
柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 198… 柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 1988年4月11日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に住友合資会社に入社した。1946年に住友商事に転じ、1951年に総務部長に就任し、常務、専務などを歴任し、1969年に副社長に就任し、1973年には社長に昇格した。1977年に会長に就任し、1983年から会長を務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等旭日重光章を受章した。 1988年4月11日腎不全のために死去。77歳没。
別枝 達夫(べっし たつお、1911年1月1日 - 1978… 別枝 達夫(べっし たつお、1911年1月1日 - 1978年6月28日)は、日本の歴史学者。英国の海事史を専門とした。 鹿児島県出身。1934年、東京帝国大学西洋史学科卒。成蹊大学助教授、のち1962年に教授。
水越 達雄(みずこし たつお、1911年(明治44年)1月1… 水越 達雄(みずこし たつお、1911年(明治44年)1月1日 - 1994年(平成6年)6月12日)は、昭和時代の土木工学者、実業家。 東京市に生まれる。1936年(昭和11年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、大日本電力に入社。秋田県鳥海山麓の子吉川の水力開発でアーチ型コンクリート水路橋の設計施工に携わる。1939年(昭和14年)日本発送電に入社し、只見川水系宮下発電所などの調査設計および南方派遣団員としてセレベス島方面の電源調査に従事する。 ついで大日本帝国海軍嘱託の特殊建設部隊「刀水隊長」、日本発送電関東支店土木部水路課長を経て終戦を迎え、1951年(昭和26年) 電力再編成により成立した東京電力に入社。
古屋 徳兵衛(ふるや とくべえ、1911年 <明治44年> … 古屋 徳兵衛(ふるや とくべえ、1911年 <明治44年> 1月1日 - 1992年 <平成4年> 11月8日)は、日本の経営者。松屋社長、会長を務めた。位階は従四位。出生名は古屋祐次郎。 神奈川県出身。1935年に東北帝国大学法文学部法科を卒業し、同年に司法省に入省。1937年8月に名古屋地方裁判所判事に就任し、同年9月に松屋に転じ、1938年3月には社長に就任。1974年4月から1976年5月までに会長を務め、1972年から1974年までに日本百貨店協会会長も務めた。 1972年に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1992年11月7日慢性呼吸不全のために死去。81歳没。
林 修三(はやし しゅうぞう、1910年1月1日 - 198… 林 修三(はやし しゅうぞう、1910年1月1日 - 1989年6月21日)は、日本の官僚。大蔵・法務官僚を経て法制局に移り、鳩山・石橋・岸・池田の4内閣(10年弱)にわたって法制局長官(内閣法制局長官)を務めた。位階勲等は正三位勲一等旭日大綬章。『時の法令』誌連載の判例解説でははやし しうぞうの別名を用いた。 著作の一部はデジタル化されており、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日 - 没… 田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日 - 没年不詳)は、昭和戦前期に活動した日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場し、バスケットボール日本代表チームの主将を務めた。 旧制成蹊高等学校(現在の成蹊中学校・高等学校)に学び、籠球部に所属。当時の成蹊高校籠球部は好調な成績を残しており、1929年(昭和4年)、1930年(昭和5年)と全国高校選手権を連覇した。1931年(昭和6年)には、第10回全日本選手権において、決勝で早稲田大学を破り、高校チームが全国制覇をするという快挙を成し遂げた。この際のメンバーに田中秀次郎が含まれる。当時のあだ名は「デンチュー」であったという。
山下 秀明(やました ひであき、1910年(明治43年)1月… 山下 秀明(やました ひであき、1910年(明治43年)1月1日 - 1995年(平成7年)5月7日)は、日本の実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長、旭硝子財団理事長等を務めた。 長野県上伊那郡箕輪町生まれ。1932年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業、旭硝子入社。経理部長等を経て、1959年取締役に昇格。1967年常務取締役。1971年専務取締役。1973年社長。1981年会長。1987年取締役相談役。1989年旭硝子工業技術奨励会理事長。1990年から旭硝子財団理事長を務め、1992年にはブループラネット賞を創設した。ファインセラミックス技術研究組合理事長等も務めた。1995年5月7日、腎不全のため死去。
稲垣 早苗(いながき さなえ、1910年1月1日 - 199… 稲垣 早苗(いながき さなえ、1910年1月1日 - 1999年3月31日)は、日本の経営者。 静岡県富士市出身。1930年に明治学院高等商業部を卒業。1943年10月、稲垣の知人の紹介で日本統計機に入社。同社は日本ワットソン統計会計機(後の日本IBM)の財産が敵産管理法によって凍結された際にその顧客が出資して1943年6月に設立された会社で、IBM製品の保守サービスを提供していた。1950年、営業活動を再開した日本IBMに営業課長として入社。 1956年に営業担当取締役に就任。1960年に生産担当常務、副社長を経て、1962年に社長に就任した。1975年に会長に就任し、1980年3月から相談役を務めた。
加瀬 完(かせ かん、1910年〈明治43年〉1月1日 - … 加瀬 完(かせ かん、1910年〈明治43年〉1月1日 - 1995年〈平成7年〉2月28日)は、日本の政治家。参議院議員・参議院副議長。我孫子市名誉市民。 1910年、現在の千葉県匝瑳市に生まれる。 1920年千葉師範学校(現・千葉大学教育学部)卒業。 小学校・中学校の教員となり、県視学であった鈴木迪彦による抜擢で1938年我孫子第二小学校長に28歳にて就任、以後、我孫子第一小学校長や我孫子第一中学校長を歴任した。千葉県教育委員会委員長も務める。 教育の民主化を目指して政界へ進出し、1947年から千葉県議会議員を務める。 1953年4月の参院選に無所属で出馬し初当選。当選後は左派社会党を経て日本社会党に所属。
星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 199… 星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 1998年12月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 新潟県長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。旧制成城高等学校教授、埼玉大学文学部教授、東京教育大学教授。1961年「ライナー・マリア・リルケの伝記的研究」により東京大学文学博士。1971年頃教育大を定年後、南山大学教授を務め、1991年長岡市史編集委員長。1998年、89歳で没。1999年、星野の蔵書が長岡市立中央図書館に寄贈され、星野慎一文庫と名付けられた。 リルケなどドイツの詩を翻訳研究するほか、短歌、俳句にも関心が深かった。
伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 … 伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 - 1994年(平成6年)12月25日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。法政大学名誉教授。砂川事件一審において、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留は日本国憲法違反とする判断を示したことで知られる。長男の伊達寛は東京メトロポリタンテレビジョン社長[要出典]。 大分県出身。旧制静岡県立掛川中学校を経て旧制静岡高等学校に進んだ。高校時代、軍事教練に反対して安倍川渡河演習を拒否したり、銃掃除の命令に従わなかったことがあったという。 京都帝国大学卒業。1933年(昭和8年)判事となる。1942年(昭和17年)、満州国司法部刑事司参事官となったが、この時期、不当に拘束され強制労働をさせられた中国人らを次々と釈放していた、との逸話がある。