島津 貴子(しまづ たかこ、1939年〈昭和14年〉3月2日… 島津 貴子(しまづ たかこ、1939年〈昭和14年〉3月2日 - )は、日本の元皇族。島津久永の妻。勲等は勲一等。皇籍離脱前の身位は内親王で、皇室典範における敬称は殿下。旧名は、貴子内親王(たかこないしんのう)、諱は貴子、御称号は清宮、お印は橘であった。昭和天皇と香淳皇后の第5皇女子(第7子、末子)。第126代天皇・徳仁(今上天皇)と秋篠宮文仁親王の叔母。第125代天皇・明仁(上皇)と常陸宮正仁親王の妹。 1939年(昭和14年)3月2日午後3時55分、産気づいた香淳皇后は産殿に入り、午後4時35分に第5皇女(第7子、末子)を出産する。誕生時の身長は51.2cm(1尺6寸9分弱)、体重は3503g(935匁弱)であった。
金子 昌資(かねこ まさし、1939年3月2日 - )は、日… 金子 昌資(かねこ まさし、1939年3月2日 - )は、日本の経営者。日興證券社長、会長を務めた。岡山県出身。 1962年に東京大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日興證券に入社。 1988年12月に取締役に就任し、1991年3月に常務、1994年2月に専務、1997年2月に副社長を経て、同年10月に社長に就任。2001年3月には会長も兼任し、同年6月には日興コーディアルグループ会長兼社長と日興コーディアル証券会長に就任。2003年6月には日興コーディアル証券取締役と日興コーディアルグループ会長に就任。2006年6月から2016年6月までに信越化学工業取締役を務めた。 著書に「この時代を生き抜くための幼児教育」がある。
山崎 柄根(やまさき つかね、1939年3月2日 - 201… 山崎 柄根(やまさき つかね、1939年3月2日 - 2017年8月17日)は、日本の昆虫学者、東京都立大学名誉教授。 1939年、作家・澁川驍の次男として東京都で生まれる。東京教育大学理学部動物学科卒、1968年同大学院博士課程修了、「本州産高山性ヒナバッタ属昆虫の分類学的解析」で理学博士。東京都立大学理学部助教授、教授。2004年定年退官、名誉教授となる。1992年『鹿野忠雄』で日本エッセイストクラブ賞受賞。2017年受勲。
俣木 盾夫(またき たてお、1939年3月2日 - ) は、… 俣木 盾夫(またき たてお、1939年3月2日 - ) は、日本の実業家。大手広告代理店・電通グループの代表取締役会長。鹿児島県出身。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
池田 隆之(いけだ たかゆき、1938年3月2日 - )は、… 池田 隆之(いけだ たかゆき、1938年3月2日 - )は、日本の企業家。太平洋興発元社長。 1965年、青山学院大学経済学部卒業後、太平洋炭礦に入社する。同社釧路鉱業所事務長、同社釧路鉱業所副所長、同社取締役釧路鉱業所副所長、太平洋興発取締役釧路支店担当を経て1999年4月に代表取締役社長、太平洋炭礦代表取締役社長に就任した。2007年6月に退任。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
樋口 修吉(ひぐち しゅうきち、1938年3月2日 - 20… 樋口 修吉(ひぐち しゅうきち、1938年3月2日 - 2001年10月4日)は、日本の小説家。本名、黄田 康嗣(おうだ やすつぐ)。福岡県福岡市生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科及び法学部法律学科卒。 大学卒業後、三井物産に入社。無機化学品の輸出を担当。11年勤務した後退職。ヨーロッパ、南米などを放浪後、作家活動に入る。商社マン時代、銀座界隈でギャンブルに明け暮れた経験から、銀座を舞台とした作品が多い。またギャンブル小説の名手としても知られ、「真正都会無頼派」(安部譲二)と称される。 1981年、『ジェームス山の李蘭』で第36回小説現代新人賞を受賞。同作は第90回直木賞候補にも選ばれ、野沢尚脚本で映画化もされた。
狩野 忠正(かのう ただまさ、1938年3月2日 - 201… 狩野 忠正(かのう ただまさ、1938年3月2日 - 2018年5月30日)は、日本の建築家、狩野忠正建築研究所代表、竹中工務店プリンシパルアーキテクト、神戸大学、大阪芸術大学教授。 1938年に、当時日本統治下にあった朝鮮の全羅南道麗水(現・大韓民国内)で生まれる。終戦後、佐賀県の唐津港に引き揚げ、両親の実家のあった長崎県島原市に移り住む。小学5年生までを島原で過ごした後、兵庫県明石市に再度転居した。建築家を目指したのは幼少期に岡山県の閑谷学校を訪問してその建物を見たことが原点であると回想している。 1962年に神戸大学工学部建築学科(堯天義久研究室)を卒業して竹中工務店に入社し、設計部に配属された。
石原 正(いしはら ただし、1937年3月2日 - 2005… 石原 正(いしはら ただし、1937年3月2日 - 2005年3月8日)は、日本の鳥瞰図絵師。北海道函館市出身。北海道函館西高等学校を経て、金沢美術工芸大学を卒業。 広告会社に勤務していた時にヘルマン・ボルマンのニューヨーク鳥瞰図に出会い衝撃を受け、1969年に独立。以降、鳥瞰図制作の第一人者として活躍し続けた。 死去にともない制作者本人のサイトが閉鎖され、作品の多くは入手が困難。印刷は天満の「株式会社宝文社」。現在、数点のみ同社から入手可能。
山上 敏子(やまがみ としこ、1937年3月2日 - )は、… 山上 敏子(やまがみ としこ、1937年3月2日 - )は、日本の医学者、精神科医。専門は行動療法。福岡県生まれ。
森川 八洲男(もりかわ やすお、1937年3月2日 - 20… 森川 八洲男(もりかわ やすお、1937年3月2日 - 2022年3月2日)は、日本の会計学者。明治大学名誉教授。元日本簿記学会会長。 三重県津市出身。1959年明治大学商学部卒、1964年同大学院商学専攻博士課程単位修得退学、77年「フランス会計発達史論」で商学博士の学位を取得。明治大学商学部助教授、教授。商学部長在任時は、91年に発覚した替え玉受験事件に対し、徹底した情報開示の姿勢で、事態収拾。2005年日本簿記学会会長。2007年定年となり、名誉教授。2016年瑞宝中綬章を受勲した。
荒川 正昭(あらかわ まさあき、1936年3月2日 - 20… 荒川 正昭(あらかわ まさあき、1936年3月2日 - 2022年10月30日)は、日本の内科医。新潟大学名誉教授、大学入試センター名誉教授・顧問。新潟大学学長や、大学入試センター理事長を務めた。魚沼市名誉市民。 旧満州(中国東北部)生まれ。新潟県北魚沼郡(現・魚沼市)出身。新潟県立小千谷高等学校を経て、1960年新潟大学医学部卒業。 1972年川崎医科大学内科学腎臓アレルギー部門助教授。1976年川崎医科大学内科学(腎)教授。1980年新潟大学医学部内科学第二講座教授。1994年新潟大学医学部長。1998年新潟大学長。2002年新潟県福祉保健部参与。2003年広神村名誉村民。2004年大学入試センター理事長。
近藤 和彦(こんどう かずひこ、 1936年3月2日 - 2… 近藤 和彦(こんどう かずひこ、 1936年3月2日 - 2002年6月10日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手)。
小田 茂(おだ しげる、1936年3月2日 - 2017年6… 小田 茂(おだ しげる、1936年3月2日 - 2017年6月15日)は、日本の実業家。神戸製鋼所の代表取締役副社長を務めた後、ナブコ(現 ナブテスコ)の代表取締役社長、相談役を務めた。日本伸銅協会元会長。 1958年、滋賀大学経済学部卒業後、神戸製鋼所入社。入社後、約5年間は経理部門に従事し、その後は主として企画部門でキャリアを積んだ。社内では、会社の節目となる案件に関与しており、尼崎製鉄との合併、加古川製鉄所建設、油谷重工の吸収(グループ化)などを手がけた。 また、神戸製鋼所ではアルミ・銅事業本部長を務め、アルコア社との包括的な提携関係の構築に大きな役割を果たした。さらに、同事業の海外展開に際して、米国・東南アジアを中心とする複数拠点の設立にも尽力した。
月原 茂皓(つきはら しげあき、1935年〈昭和10年〉3月… 月原 茂皓(つきはら しげあき、1935年〈昭和10年〉3月2日 - 2019年〈平成31年〉1月19日)は、日本の政治家、防衛官僚。本名:月原 重明。 衆議院議員(通算3期)、参議院議員(1期)、郵政政務次官(宇野内閣・第1次海部内閣)、国土交通副大臣(第1次小泉内閣)などを歴任した。 香川県観音寺市出身。幼少期を中国の奉天で過ごす。香川県立観音寺第一高等学校、東北大学法学部卒業。学生生活は民法学者である中川善之の私塾冲和寮で送る。 1960年(昭和35年)東北大学卒業後、防衛庁に入庁。1963年(昭和38年)大蔵省主計局、1971年(昭和46年)和歌山県警警務部長、1973年(昭和48年)防衛庁長官秘書、1976年(昭和51年)国連事務総長スタッフ、1978年(昭和53年)防衛庁広報課長を歴任。
井村 健輔(いむら けんすけ、1935年3月2日 - )は、… 井村 健輔(いむら けんすけ、1935年3月2日 - )は、日本の実業家。元不二越会長・社長。長崎県出身。 1935年(昭和10年)生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1957年に長崎大学経済学部を卒業し、同年不二越入社。取締役、常務取締役、代表取締役専務などを経て、1998年2月社長に就任した。事業部門の再編や同業他社との業務提携を進めたほか、不二越の創業70年を記念してコーポレートマークの改定を行なった。また、第二次世界大戦中に強制労働を強いられたとして元女子勤労挺身隊員の3名が雇用企業である不二越に損害賠償と謝罪を求めていた「不二越訴訟」について、第一審・第二審ともに不二越側の全面勝訴であったにもかかわらず、2000年7月に最高裁での和解に踏み切った。
吉田 剛(よしだ たけし、1935年3月2日 - 2018年… 吉田 剛(よしだ たけし、1935年3月2日 - 2018年11月17日)は、日本の脚本家・映画監督である。本名同じ。大阪府堺市生まれ。 1958年、関西大学文学部卒業後、松竹大船撮影所に入社。助監督として小林正樹、篠田正浩、斎藤耕一らの作品につく。それと並行して、野村芳太郎の『おはなはん・第二部』(1966年)、小林『化石』(1975年)、瀬川昌治『哀しい気分でジョーク』(1985年)、佐藤純彌『敦煌』(1988年)や、『必殺シリーズ』(ABC)などのテレビドラマのシナリオを執筆。 1992年、野村芳太郎が急病のため、映画『復活の朝』で監督も兼任する。 1990年代の「月刊ドラマ」誌上における近況報告や随筆では、幕末におけるアメリカ人の傲慢さなども例に挙げて反米主義者を自称していたこともあった。
数土 直方(すど なおかた、1935年3月2日 - )は、日… 数土 直方(すど なおかた、1935年3月2日 - )は、日本の経営者、薬学博士。数土文夫の兄。旧姓は泰道で2000年12月に数土に改姓。エスエス製薬社長、会長を務めた。 富山県出身。1958年に東京大学工学部を卒業し、1962年にエスエス製薬に入社し、取締役に就任。1968年に常務、1974年に専務を経て、1976年に社長に就任した。2001年に会長を経て、2004年に名誉会長に就任。 2005年に旭日中綬章を受章。
土屋 統督(つちや のりおさ、1935年3月2日 - )は、… 土屋 統督(つちや のりおさ、1935年3月2日 - )は、日本のアナウンサー、ニュースキャスターである。 東京都出身。北海道大学理学部数学科卒業。 1959年4月、TBSにアナウンサー6期生として入社(同期には池田孝一郎・石井智・川野昌宏・里見恭夫・新堀俊明・藤田和弘・料治直矢・相場君子・今井登茂子・加藤かな子・加藤珪子・土井誉子・蛭田玲子)。主にニュース、報道番組を担当。報道局ニュース部(1963年11月1日)、ニュース取材部(1965年12月)、ラジオニュース部(1967年10月)に在籍。1967年11月15日にアナウンサー研修室を設置に伴い報道局ラジオニュース部兼アナウンサー研修室付となる。
山本 耕一(やまもと こういち、1935年3月2日 - )は… 山本 耕一(やまもと こういち、1935年3月2日 - )は、日本の俳優である。 東京都目黒区出身。早稲田大学第一文学部卒業後、劇団俳優座に第8期生として入団する。同期に山﨑努、加地健太郎、嵐圭史、水野久美など。俳優座卒業後は劇団新人会に所属し、1960年に舞台『ドン・カルロス』でデビュー。その後も舞台を中心に、映画やテレビドラマなどで活躍。 ワイドショー番組『アフタヌーンショー』(テレビ朝日)ではリポーターを務め、川崎敬三との「そうなんですよ、川崎さん」の名文句が有名となった。 夫人は女優・タレントの小林千登勢。長年「おしどり夫婦」としても有名だったが、2003年に小林が多発性骨髄腫により66歳で死去した。
石川 迪夫 (いしかわ みちお、1934年3月2日 - )は… 石川 迪夫 (いしかわ みちお、1934年3月2日 - )は、日本の原子力工学者。原子力発電とその溶融、廃炉、安全性を専門とする。現在は日本原子力技術協会最高顧問である。 兵庫県に生まれる。東京大学工学部卒業後、1957年(昭和32年)日本原子力研究所へ入所。安全解析部長、動力試験炉部長、東海研究所副所長などを経て、1991年(平成3年)より北海道大学工学部教授となる。退官後、2005年(平成17年)4月13日から2008年(平成20年)3月15日まで日本原子力技術協会の初代理事長を歴任、理事長退任と同時に同協会の最高顧問へ就任した。 1972年 東京大学より工学博士号を得る。論文の題は「暴走出力により誘起される即発性減速材加熱効果の解析」。
水戸 巌(みと いわお、1933年3月2日 - 1986年1… 水戸 巌(みと いわお、1933年3月2日 - 1986年12月30日?)は、日本の物理学者・反原発活動家・市民活動家。専門は放射線物理学。理学博士。最終職歴は芝浦工業大学電気工学科教授。神奈川県横浜市出身。 1933年(昭和8年)3月2日、神奈川県横浜市鶴見に生まれる。 第二次世界大戦中、福島県に疎開し、同地の中学校を終戦後に卒業。栃木県立宇都宮高等学校卒業後、東京大学理学部Ⅰ類に進学、在学中に理学部自治会委員長を務める。1960年(昭和35年)3月、同大学大学院博士課程を修了、博士号を取得。 その後甲南大学教員となり6年間勤務する。 1967年(昭和42年)、東京大学原子核研究所助教授となる。
杉山 弘(すぎやま ひろし、1933年〈昭和8年〉3月2日 … 杉山 弘(すぎやま ひろし、1933年〈昭和8年〉3月2日 - )は、日本の通商産業官僚。通商産業事務次官や、電源開発代表取締役社長、日本原子力発電取締役等を務めた。 東京都江戸川区に生まれる。群馬県立渋川高等学校を経て、1956年(昭和31年)東京大学法学部卒業。同年通商産業省入省。同期に尾身幸次(第6代財務大臣)、野々内隆(資源エネルギー庁長官)、川崎弘(経済企画審議官、東京電力副社長)、守屋一彦(日本化学繊維協会理事長)など。通商産業省貿易局長、通商産業省機械情報産業局長、通商産業省産業政策局長を経て、1988年から89年まで通商産業事務次官を務めた。退官後、電源開発代表取締役社長企業革新推進本部本部長・大間原子力推進本部本部長委嘱兼日本原子力発電取締役を務め、民営化に向け経営改革にあたった。
小坂 哲瑯(こさか てつろう、1932年3月2日 - 201… 小坂 哲瑯(こさか てつろう、1932年3月2日 - 2018年5月23日)は、日本の実業家。日比谷松本楼元代表取締役会長・社長、関東外食産業協議会初代会長、日本フードサービス協会元東京支部長。 本名、小坂 明(こさか あきら)。 日比谷松本楼創業者、小坂梅吉の孫。小坂光雄の息子として日比谷松本楼の家に生まれる。日比谷公園生まれの日比谷公園育ち。銀在の泰明小学校に通う。 埼玉県立熊谷高等学校をへて、1954年、立教大学経済学部経営学科(現・経営学部)卒業。 家業である日比谷松本楼に入社。日比谷松本楼代表取締役社長(3代目)、会長を歴任した。 経営者として、松本楼の歴史を信用を第一に考え、流行は追わず「とにかく良質なものをサービスで満足してもらう」ことを日々繰り返し、歴史を延長していくことを使命として事業運営を進めた。
高橋 たか子(たかはし たかこ、1932年(昭和7年)3月2… 高橋 たか子(たかはし たかこ、1932年(昭和7年)3月2日 - 2013年(平成25年)7月12日)は、日本の小説家。旧姓岡本、本名和子(たかこ)。夫の高橋和巳の死後本格的に作家活動に入り、『空の果てまで』『誘惑者』などを発表。愛憎を超えた不可解な心理の深層を描き続けた。カトリックに入信、渡仏して観想修道生活を送った(のち還俗して帰国)。 京都府京都市下京区醒ヶ井通仏光寺下ル荒神町で、父・岡本正次郎、母・達子の長女として生まれる。父親は旧制名古屋高等工業学校建築科を卒業し、京都府警察部建築課に勤めていた。尋常小学校時代に等持院北町に転居し、京都府立嵯峨野高等女学校から京都府立山城高等学校を経て、1954年(昭和29年)、京都大学文学部フランス文学科卒。
岩崎 俊男(いわさき としお、1932年〈昭和7年〉3月2日… 岩崎 俊男(いわさき としお、1932年〈昭和7年〉3月2日 - 1990年〈平成2年〉12月18日)は、昭和から平成時代初期の政治家。兵庫県赤穂市長。 赤穂市出身。兵庫県立赤穂高等学校卒業。 赤穂市職員となり、市職労書記長、固定資産税係長、社会教育課長、市教育次長などを歴任。地方新聞社社長に転じたのち、1989年(平成元年)5月、赤穂市長選挙に初当選した。 ほか、財団法人赤穂市文化振興財団理事長を務めた。
渡部 恵一郎(わたなべ けいいちろう、1932年3月2日 -… 渡部 恵一郎(わたなべ けいいちろう、1932年3月2日 - 2001年12月11日)は日本の音楽学者。鳥取県出身。特にヘンデルを研究。 母校・鳥取県立米子東高等学校の校歌作曲者の一人。東京藝術大学音楽学部楽理科にて、音楽学を服部幸三に学んだ。1967年から1969年まで、および1987年にはアレクサンダー・フォン・フンボルト財団の招聘によりドイツおよびイギリスでヘンデル研究に携わる。1972年から桐朋学園大学助教授、教授。 1994年以来様々な団体とともにヘンデルの劇作品の企画構成演出に携わり、1998年に日本ヘンデル協会(The Handel Institute Japan)を創設、同協会代表を務めた。
中地 宏(なかち ひろし、1932年3月2日 - 2022年… 中地 宏(なかち ひろし、1932年3月2日 - 2022年10月25日)は、日本の公認会計士。 日本人の公認会計士として初の米国公認会計士となる。等松・青木監査法人ニューヨーク事務所設立に参画。日本公認会計士協会会長、金融再生委員会委員、東京都参与などを歴任した。 沖縄県生まれ。1954年東京大学経済学部卒業。1957年ペンシルバニア大学ウォートン校卒業(MBA)。1969年より1995年まで等松・青木監査法人(現 監査法人トーマツ)に勤務。等松・青木監査法人ニューヨーク事務所設立に参画。その間、日本公認会計士協会の国際委員会担当常務理事、世界会計士会議・東京大会の組織委員会副委員長、国際会計士連盟理事会の日本代表などを歴任。
永井 隆(ながい たかし、1932年3月2日 - 2022年… 永井 隆(ながい たかし、1932年3月2日 - 2022年6月17日)は、日本の実業家。元富士電機冷機社長、元富士電機代表取締役副社長・特別顧問、元富士電機総設代表取締役会長。 愛知県出身。1955年に横浜国立大学経済学部を卒業、翌年に横浜国立大学経済学部専攻科を修了後、富士電機製造(現富士電機)に入社。 1982年に富士電機冷機社長、1986年に富士電機の取締役と自販機・特機事業本部長を兼務するなど富士電機の自動販売機事業進出当初から、長年自動販売機部門で仕事をした。 1989年、富士電機専務取締役。そして1992年に富士電機代表取締役副社長に就任した。1995年、富士電機特別顧問、富士電機総設代表取締役会長に就任。
青木 望 (あおき のぞみ、1931年3月2日 - 2026… 青木 望 (あおき のぞみ、1931年3月2日 - 2026年2月20日)は、日本の作曲家、編曲家。JASRAC会員。 クリスチャンの家系であり、幼少期から母親のオルガン演奏に合わせ賛美歌を毎週歌っていた。これが好きだったといい、後に青木は「私の音楽の原点だった」と回想している。 少年時代から音楽に親しみ、ヴァイオリンが得意であったという。 旧制東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)在学中、知人に誘われてバンド活動を始める。そこでステージ演奏の魅力に摂りつかれたことで学校を中退し、15歳でプロのミュージシャンとしてデビュー。様々なバンドを転々としながら活動する。 当初は、自分が所属するバンドのために作曲・編曲をはじめたが、外部からも頼まれるようになり、放送やレコーディングが多くなると演奏家より稼げるようになったため、作・編曲家に転向。
小松原 庸子(こまつばら ようこ、1931年3月2日 - )… 小松原 庸子(こまつばら ようこ、1931年3月2日 - )は、日本の舞踊家。日本人フラメンコダンサーの第一人者。 常磐津勝蔵の長女として東京府東京市浅草区柳橋で生まれ、邦楽一家の中で育つ。幼い頃から、三味線、日本舞踊、クラシック・バレエなどを習い、15歳のとき、小牧バレエ団に入団。俳優座で演劇活動も始める。女子美術大学付属高等学校出身。 1958年(昭和33年)に単身スペインにわたり、エンリケ=エル=コホらにフラメンコを学びステージに立つようになる。帰国後の1969年(昭和44年)スペイン舞踊団を結成。 俳優の菅原謙次は実兄。
内藤 功(ないとう いさお、1931年3月2日 - )は、日… 内藤 功(ないとう いさお、1931年3月2日 - )は、日本の弁護士、政治家。日本共産党所属の元参議院議員(2期)。日本共産党名誉幹部会顧問。日本平和委員会代表理事。自由法曹団本部常任幹事。 東京都中央区出身。1952年明治大学法学部卒業後、同大学講師にて教鞭を執りながら弁護士として活動。恵庭事件や砂川事件、長沼ナイキ基地訴訟など憲法裁判で弁護団に関わったほか、恵庭裁判の過程で統幕会議事務局長を法廷で証人喚問、自衛隊による有事研究(三矢研究)を明らかにしたことでも知られる。 1974年の参院選に全国区から立候補し初当選。2期12年参議院議員を務めたが、1989年の参院選で落選するとそのまま政界を引退する。
藤木 悠(ふじき ゆう、1931年3月2日 - 2005年1… 藤木 悠(ふじき ゆう、1931年3月2日 - 2005年12月19日)は、日本の俳優。東京府荏原郡荏原町(現・東京都品川区)出身の大阪府大阪市西成区育ち。身長180cm。血液型A型。趣味・特技はフェンシング。本名は鈴木 悠蔵(すずき ゆうぞう)。
百瀬 和夫(ももせ かずお、1930年3月2日 - 1992… 百瀬 和夫(ももせ かずお、1930年3月2日 - 1992年12月20日)は、日本の医学者。東邦大学医学部教授。医学博士。 1930年(昭和5年)長野県生まれ。1946年(昭和21年)旧制松本第二中学19回(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。旧制松本高等学校を経て、1954年(昭和29年)東京大学医学部医学研究科を卒業。1960年(昭和35年)博士論文「卵管分泌現象に関する研究」で東京大学より医学博士授与。東京大学医学部助手、助教授を務めたのち、1982年(昭和57年)より東邦大学医学部教授(第1産科婦人科学教室)を務めた。 医学者の竹内一夫氏は「脳死出産、産婦人科の世界」の中で、脳死出産の実態について分析しているが、その中で百瀬和夫、前田光士両教授の「妊婦の脳死をめぐる諸問題、医学の歩み」(東邦大学医学部産婦人科教室)を取り上げ、「ここで我々は、死後(心停止後)の出産例の報告が散見されることにも注目しなければならない。
中村 克巳(なかむら かつみ、1930年(昭和5年)3月2日… 中村 克巳(なかむら かつみ、1930年(昭和5年)3月2日 - 2000年(平成12年)2月5日)は、日本の政治家。愛知県常滑市長。業務上横領と受託収賄で逮捕され、2期で辞職した。 愛知県出身。愛知県商業学校(現・愛知県立愛知商業高等学校)卒業。1947年(昭和22年)、常滑町役場に奉職。同町は大野町、西浦町、鬼崎町、三和村と合併し1954年(昭和29年)4月に常滑市が誕生。常滑市役所にて市民病院事務局長、総務部長などを歴任。1979年(昭和54年)、助役に就任。 1987年(昭和62年)4月、常滑市長選挙に立候補し、現職の庭瀬健太郎を大差で破り初当選した。 1988年(昭和63年)3月、市の外郭団体「伊勢湾産業文化振興会」を設立。
神谷 敏郎(かみや としろう、1930年3月2日 - 200… 神谷 敏郎(かみや としろう、1930年3月2日 - 2004年7月13日)は、日本の哺乳類学者。筑波大学名誉教授。 東京生まれ。青山学院大学文学部教育学科卒業、教育学士。東京大学医学部卒、同大学院、1964年医学博士。論文の題は「鯨類の十二指腸壁内嚢腺intramural cystic glandについて」。 1956年東京大学医学部助手、1971年、東京大学医学部解剖学講師。1980年筑波大学医療技術短期大学部教授(解剖学)、1993年筑波大学名誉教授。 2004年7月13日逝去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
大久保 進(おおくぼ すすむ、1930年3月2日 - 201… 大久保 進(おおくぼ すすむ、1930年3月2日 - 2015年7月17日)は、日本生まれのアメリカ合衆国の理論物理学者である。 1949年に東京大学に入学し、1952年に学士号を取得した。1954年にロチェスター大学大学院に入学し、1958年にロバート・マーシャックの指導の下でPh.D.を取得した。その後、1959年から60年にかけてナポリ大学、1960年から61年にかけてCERNに籍を置き、1962年にロチェスター大学に戻って1964年に教授となった。1996年に退職し、名誉教授となった。 主として素粒子物理学を研究し、ゲルマン・大久保の質量公式(英語版)でよく知られている。この公式は、超電荷と同位体スピンの観点から、SU(3)多重項の質量の関係を正確に予測する。
保富 康午(ほとみ こうご、1930年〈昭和5年〉3月2日 … 保富 康午(ほとみ こうご、1930年〈昭和5年〉3月2日 - 1984年〈昭和59年〉9月19日)は、日本の作詞家。和歌山県西牟婁郡すさみ町出身。名前の別表記は苗字が「保冨」、名前に「庚午」がある(庚午が本名)。現在日本で広く知られている「大きな古時計」の日本語訳の詞を作詞したことで著名。 幼少期は千里山に在住し千里第二小学校を卒業した。のちに同志社大学卒業後、詩人である村野四郎に弟子入りしていたが、知人からミュージカルの台本依頼をされたことを機にテレビの仕事に携わるようになる。 構成作家として『サンデーサン』、フジテレビ『ミュージックフェア』などの歌番組を始め、演歌歌手達のショーの舞台も数多く担当。
有馬 正高(ありま まさたか、1929年3月2日 - 202… 有馬 正高(ありま まさたか、1929年3月2日 - 2022年12月12日)は、日本の医師、医学者。小児科学と神経科学が専門で、小児神経学、障害児医学(障害者医学)のパイオニア。国立精神・神経医療研究センター病院(旧:国立精神・神経センター武蔵病院)名誉院長、東京都立東部療育センター名誉院長、日本重症心身障害学会名誉理事長、日本発達障害学会第4代会長。学位は、医学博士。 1971年に乳幼児に発症する常染色体劣性遺伝性疾患「有馬症候群」を報告したことで知られる。 1929年に鹿児島県鹿児島市で生まれる。父方の故郷は同県日置郡伊集院町(現:日置市)。幼少期より鹿児島、伊集院、佐世保、呉、杉並、木更津、逗子と、転居・転校を繰り返し、1942年に旧制神奈川県立湘南中学校(現:神奈川県立湘南高等学校)へ入学。
伊藤 茂(いとう しげる、1928年3月2日 - 2016年… 伊藤 茂(いとう しげる、1928年3月2日 - 2016年9月11日)は、日本の政治家。 運輸大臣(第67代)、衆議院議員(8期)、日本社会党政策審議会長(第12代)、社会民主党副党首、同幹事長、同政策審議会長を歴任した。 山形県最上郡舟形町出身。舟形小学校、新荘中(現:山形県立新庄北高等学校)を経て、陸軍予科士官学校在籍(久保亘、高沢寅男、奥田敬和らと同期)。復員し旧制山形高等学校を経て、1952年東京大学経済学部経済学科を卒業。大学在学中に日本社会党に入党し、恩師大内力東大教授の勧めにより党本部に勤務する。社会党本部職員時代は安保改定阻止国民会議事務局次長、党中央執行委員、国民運動局長を歴任。
新井 隆一(あらい りゅういち、1928年3月2日 - 20… 新井 隆一(あらい りゅういち、1928年3月2日 - 2017年6月17日)は、日本の公法学者。早稲田大学名誉教授。 1928年群馬県高崎市生まれ。旧制群馬県立高崎中学校を経て、1956年に早稲田大学第一法学部を卒業。1961年同大学院博士課程単位取得退学、1976年「行政法における私人の行為の理論」で法学博士。早稲田大学法学部助教授、教授、1998年定年、名誉教授。 2014年瑞宝中綬章受章。 2017年6月17日、肝腫瘍にて死去。89歳没。没後、正五位に叙された。
堂本 尚郎(どうもと ひさお、1928年〈昭和3年〉3月2日… 堂本 尚郎(どうもと ひさお、1928年〈昭和3年〉3月2日 - 2013年〈平成25年〉10月4日)は、京都市出身の洋画家、文化功労者。東京都在住。 日本画家・堂本印象の甥。父は堂本四郎。妻は洋画家の洋画家の毛利眞美。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
山内 昭道(やまのうち しょうどう/あきみち、1928年(昭… 山内 昭道(やまのうち しょうどう/あきみち、1928年(昭和3年)3月2日 - 2005年(平成15年))は、日本の児童教育者。東京生まれ。亀戸幼稚園を創設した山内勇仙の子。1948年東京農林専門学校(現・東京農工大学農学部)卒業、農林省農業技術研究所園芸部助手農林技官。1951年同北陸農業試験場農林技官。1957年駒澤大学仏教学部卒業。1960年亀戸幼稚園長(学校法人山内学園)となる。1965年駒沢女子短期大学専任講師、助教授となる。1976年東京家政大学保育科教授。98年定年退任、名誉教授。
大橋 弘(おおはし ひろむ、1928年3月2日 - 1997… 大橋 弘(おおはし ひろむ、1928年3月2日 - 1997年1月8日)は、日本の経営者。積水ハウス副社長、会長を務めた。 静岡県出身。1948年に静岡高校文科を卒業し、1961年に積水ハウスに入社。1972年に取締役に就任し、、1969年には常務、1980年には専務をそれぞれ歴任し、1984年に副社長に就任。1992年4月に副会長に就任し、1993年10月には会長に昇格。 経済団体連合会常任理事、住宅生産振興財団理事長なども歴任。 1997年1月8日、心不全のために死去。68歳没。
渡辺 晋(わたなべ しん、正式な表記は渡邊 晋、1927年〈… 渡辺 晋(わたなべ しん、正式な表記は渡邊 晋、1927年〈昭和2年〉3月2日 - 1987年〈昭和62年〉1月31日)は、日本の実業家・芸能プロモーター・ベーシスト。日本の芸能事務所の草分け的存在にあたる渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。 妻は渡辺プロダクショングループ代表兼渡辺プロダクション名誉会長の渡邊美佐。ワタナベエンターテインメント代表取締役社長、渡辺プロダクション代表取締役会長の渡辺ミキは長女。トップコート代表取締役の渡邊万由美は次女。フジテレビプロデューサーだった吉田正樹ワタナベエンタ会長はミキの夫にあたる。 東京市滝野川区(現在の東京都北区)に生まれたが、媒体によっては福岡県生まれとされることもある。
神坂 次郎(こうさか じろう、1927年3月2日 - 202… 神坂 次郎(こうさか じろう、1927年3月2日 - 2022年9月6日)は、日本の小説家。本名、中西久夫。三田文学会員。社団法人日本ペンクラブ理事。 1927年3月2日、和歌山県和歌山市出身。1943年4月、陸軍航空学校に入校し、鹿児島県知覧飛行場を経て、航空通信隊員として愛知県小牧飛行場で任務時に終戦を迎える。終戦に際し、日本陸軍の暗号書等の重要書類を処分する役目を荷った[要出典]。書類を燃やしながら涙が止めどなく流れたと後に回想している[要出典]。 戦後、故郷に帰り、株式会社淺川組の土木技師として24年間従事。 後に演劇関係の仕事に就き、長谷川伸と知り合い、時代小説を書き始める。1982年、『黒潮の岸辺』にて第2回日本文芸大賞受賞。
宮城野 由美子(みやぎの ゆみこ、1926年3月2日 -)と… 宮城野 由美子(みやぎの ゆみこ、1926年3月2日 -)とは元宝塚歌劇団花組・星組主演娘役クラスで宝塚歌劇団卒業生の元女優である。本名は關キヨ子(せき・きよこ)。夫は映画監督の蔵原惟繕。東京都小石川区(現・文京区)出身。山形県立鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校)中退。
中島 達二(なかじま たつじ、1926年3月2日 - 200… 中島 達二(なかじま たつじ、1926年3月2日 - 2001年3月18日)は、日本の経営者、工学博士。日本板硝子社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1947年に京都大学工学部電気工学科を卒業し、同年に逓信省に入社。1982年7月に日本板硝子に転じ、1984年6月に取締役に就任し、1986年6月に常務を経て、1988年6月に社長に就任。1992年6月に副会長に就任し、1994年6月には相談役に就任。 1996年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2001年3月18日心不全のために死去。75歳没。
末松 謙一(すえまつ けんいち、1926年(大正15年)3月… 末松 謙一(すえまつ けんいち、1926年(大正15年)3月2日 - 2023年(令和5年)9月14日)は、日本の経営者。 三井銀行(現:三井住友銀行)社長、さくら銀行(現:三井住友銀行)頭取・会長を歴任し、三井住友銀行名誉顧問(2003年 ー死去まで)。その他、公益財団法人三井文庫代表理事・理事長を務めた。 明治から大正にかけて活躍し、逓信大臣、内務大臣などを歴任した政治家・末松謙澄の大甥(謙澄の弟・凱平の孫)。 東京大学卒業後、1948年帝国銀行(のちの三井銀行)に入社し、1976年に取締役となる。1988年には代表取締役社長に就任した。三井銀行の社長として太陽神戸銀行頭取の松下康雄と共に両行の合併を進め、1990年太陽神戸三井銀行(後のさくら銀行)の初代頭取に就任し、1991年から1992年まで全国銀行協会連合会会長を務めた。
吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日… 吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日本の競馬騎手、調教師。 1943年に日本競馬会(のち国営競馬、日本中央競馬会)で騎手デビュー。兵役を経て1947年より復帰し、1965年までに重賞3勝を含む通算276勝を挙げた。騎手引退後は調教師に転身し、1992年の阪神3歳牝馬ステークスを制したスエヒロジョウオーらを手がけた。1999年に定年引退。調教師通算成績は7493戦670勝、うちGI競走1勝を含む重賞13勝。 同じく中央競馬騎手・調教師であった吉永忍は従弟。自身の門下生であった川村禎彦は娘婿。 宮崎県北諸県郡高城町出身。近郊の三股町には競馬場があり、農家であった父と叔父は飼養する馬をそこで走らせていた。
田中 嫺玉(たなか かんぎょく、1925年3月2日 - 20… 田中 嫺玉(たなか かんぎょく、1925年3月2日 - 2011年7月20日)は、日本のベンガル語翻訳家、著作家。女性。「田中かん玉」とも表記。 1925年(大正14年)、北海道旭川市生まれ。北海道庁立旭川高等女学校(現・北海道旭川西高等学校)、日本女子大学家政科に進学。1945年(昭和20年)に戦争が終わると、中退して帰郷し、結婚して男の子2人を育てる。1954年(昭和29年)に東京都新宿区に引っ越した。1959年(昭和34年)、目白ロゴス英語学校を卒業。1969年(昭和44年)に仏教学者の渡辺照宏、東京外国語大学教授の奈良毅もとでベンガル語のラーマクリシュナの言行録『不滅の言葉』の翻訳を始め、5年後の1974年(昭和49年)に抄訳本を奈良毅と共訳で自費出版。