広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治… 広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治24年)1月3日 - 1966年(昭和41年)6月5日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。旧姓は長谷川、旧名は勉。 神奈川県で長谷川豊吉の六男として生まれ、東京府の薪炭商、先代・広瀬与兵衛の養子となる。中央大学を修了。1926年(大正15年)に家督を継承し与兵衛を襲名して家業の薪炭商を経営した。 東京都燃料卸商業組合理事長、同燃料配給統制組合理事長、全国燃料団体連合会長、日本薪炭社長、ほまれ鋳物社長、中野木材工業社長、東京燃料林産取締役会長、千代田製鉄取締役会長、中央倉庫取締役、神田錦町町会長、東京商工会議所議員、商工組合中央会理事、同中央金庫評議員などを務めた。
阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日… 阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日 - 1960年〈昭和35年〉4月22日)は、日本の動物学者。広島大学名誉教授。 哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也は兄。歴史学者の竹岡勝也は弟。動物生態学者の阿部襄は甥。 1891年(明治24年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺で、教師をしていた父・阿部富太郎と医師の娘であった母・ゆきの四男として生まれる。 旧制・山形県立山形中学校、旧制・第二高等学校を経て、東京帝国大学理科大学で渡瀬庄三郎教授のもとで学び、1916年(大正5年)同動物学科を卒業し、同理学部嘱託、ヨーロッパ留学をへて、第二高等学校および広島高等師範学校教授を歴任し、1929年(昭和4年)広島文理科大学(現・広島大学)教授となる。
川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - … 川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - 1968年12月26日)は、日本の川柳作家。「川柳六大家」の一人。東京の日本橋出身。本名は幾次郎、別号は蒼蒼亭(そうそうてい)、S・S・T。 東京市日本橋区蠣殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。1911年に大倉高等商業学校(のちの東京経済大学)を卒業し、大倉洋行に入社。退社後、1920年に東京毎夕新聞社に入り、学芸部長などを務め、1927年退社。 13歳から川柳を作り、井上剣花坊に師事した。1929年に『國民新聞』の選者になり、1930年に国民川柳会を結成し、機関紙「国民川柳」を発刊。1934年には国民川柳会を川柳研究社に、「国民川柳」を「川柳研究」に名前を改める。
岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1… 岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1950年3月15日)は、日本の右翼活動家。兵庫県姫路市出身。 右翼団体・愛国社(1928年)、国体擁護連合会(1932年)等の創設者。 陸軍幼年学校を中退後、神戸の乾行義塾で中国語を学ぶ。1910年、中国に渡り、大陸浪人として武漢革命に参加する。しかし後になって川島浪速・佐々木安五郎と知り合い、清朝復辟運動に転じた。 1913年に帰国し、頭山満・内田良平・田中弘之(舎身)らに接近し、対支外交問題を論じる。同年9月に発生した外務省政務局長・阿部守太郎暗殺事件で自首し、1914年5月、殺人教唆の罪で無期懲役の判決を受ける。 1925年、恩赦を受け釈放され再び中国に渡ったが、1927年に帰国。
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年… 河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年〉1月3日 - 1965年〈昭和40年〉12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。 東京都港区出身。古材木商河上新太郎の息子として生まれた。丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。丈太郎は5歳の時から、父に連れられて霊南坂の祈禱会に通った。 ちょうど教会不振の折で、牧師の留岡幸助と本間俊平、河上父子の4人だったが、熱烈な会で2~3時間もかかり、幼い丈太郎は退屈した。しかし熱い祈りの印象が強く残った。
寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月… 寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月3日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 和歌山県伊都郡平野村(隅田村大字平野を経て現橋本市)で、八幡社神官・寺本政吉の三男として生まれる。五条中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。翌月、歩兵第10連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀を歴任。
石原 寅次郎(いしはら とらじろう、1889年(明治22年)… 石原 寅次郎(いしはら とらじろう、1889年(明治22年)1月3日 - 1977年(昭和52年)3月9日)は、日本の金属工学者(冶金学者)である。東北大学名誉教授。第2代富山大学学長を務めた。 岡山県岡山市の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、東北帝国大学(現在の東北大学)附属理科大学臨時理化学研究所に勤務する。1919年(大正8年)には同大学の講師となり、冶金学の教鞭を執った。その後は助教授を経て1923年(大正12年)には教授に昇格した。1924年(大正13年)から翌1925年(大正14年)まで冶金学の研究により、イギリスやフランス、ドイツ等ヨーロッパの津々浦々に留学した。留学中は蒸留マンガンの製造法や、鉄-マンガン及び鉄-ニッケル-マンガン合金の規則格子の研究に携わり、理学博士を取得する。
内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日… 内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日 - 1967年(昭和42年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、華族。貴族院男爵議員、従三位。孫の貴子は朝香誠彦の妻。 男爵・内海忠勝の二男として東京都に生まれる。1912年(明治45年)に慶應義塾大学部政治科卒業後に渡米した。1905年(明治38年)2月22日、父の死去に伴い男爵を襲爵。 1919年(大正8年)内海化学研究所を設立して所長に就任。その他、発明協会評議員、国民工業学院評議員、慶應義塾評議員等を歴任し、東京民事地方裁判所調停委員となる。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員に補欠選挙で当選し、公正会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日… 鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。
佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉… 佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉1月3日 - 1957年〈昭和32年〉11月23日)は、日本の商人(米穀商、味噌商)、政治家。大阪府貝塚市長(初代)。 大阪府泉南郡麻生郷村津田(現・貝塚市)出身。仙右衛門の長男。米穀商人となり、岸和田市本町に玄米問屋を開いて江州米などを売り、堂島北浜に乗出す。玄米問屋を見切ると津田に帰り、精米所、精麦所を起す。 味噌製造販売業を営む。貝塚町助役となる。1937年3月に岡本市治郎貝塚町長が急逝、後任に町長代理助役佐々木が指名され、同年5月に貝塚町長に就任する。1941年、貝塚町長に留任する。 1943年5月に貝塚町市制を施行、市長臨時代理者に佐々木が任命され、同年7月に初代貝塚市長に就任する。
関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年… 関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年5月2日)は、昭和期の実業家。東洋紡績元会長。大阪商工会議所会頭、関西経済連合会会長を歴任。 奈良県山辺郡出身。旧姓森田。旧制奈良県郡山中学校、第四高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後、東洋紡の前身である大阪紡績入社。常務、専務、副社長をそれぞれ歴任し、1943年に退職。1950年に東洋紡へ復帰し、会長を務め、1957年より相談役を務めた。この間、経済団体の役員にも推され1943年から1946年まで大阪商工会議所会頭を務めた。同時に繊維統制会会長にも就く。1946年から1947年まで関西経済連合会初代会長を務め、1951年には再度第4代会長を務めるほか 、日本商工会議所会頭代理、大蔵省・商工省両顧問、朝日放送取締役、東京大学講師などをそれぞれ務めた。
神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1… 神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1月3日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は日本の理科教師、科学教育研究者。栃木県生まれ。大正期のもっとも指導的な理科教育研究者の一人である。 大正から昭和にかけて、主に奈良女子高等師範学校の教師を務め、第二次世界大戦前の国定教科書時代の、もっとも指導的な教育研究者の一人である。児童・生徒用の科学読みものや教科書を多数執筆。1922年(大正11年)に『学習本位理科の新指導法』を出版し、千葉命吉の影響を受けた児童中心の創造教育の立場に立ち、当時主流だった、「事実から法則を引き出し実験で確認する」ヘバルト派の帰納法ではなく、デューイ・及川平治の仮説実験的認識論の教育法を採り入れ、「実験前の予想の必要性」を重視した「新学習過程」を提唱した。
江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日… 江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日 - 1976年(昭和51年)2月16日)は、大正から昭和期の政治家。衆議院議員、栃木県下都賀郡小山町長。旧姓・高堂。 秋田県南秋田郡、のちの秋田市で高堂兵右衛門の五男として生まれ、江部惣四郎の養子となる。1906年(明治39年)東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業した。 一時大蔵省に入省したが退職し、下野酒造(のち一徳酒造)専務、栃木県酒類販売社長、下野醤油社長、同県商工経済会小山出張所長、小山商工会長、那須商業銀行監査役などを務めた。 政界では、小山町会議員、所得税調査委員、栃木県都賀地方事務所参与などを務め、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)まで小山町長に在任した。
山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年… 山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年)1月3日 - 1955年(昭和30年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。幼名・治作。 静岡県志太郡西益津村(藤枝町を経て現藤枝市大手)出身。先代忠五郎の息子として生まれ、忠五郎を襲名した。西益津高等小学校、永井東陵の私塾育英学校で学んだ。 農業に従事し、西益津村長、同村会議員、志太郡会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、全国町村会会長を歴任し、1928年の第16回衆議院議員総選挙で静岡1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙から4回連続当選した。
小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13… 小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13年)1月3日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の陸軍砲兵大佐、実業家、右翼の黒幕、右翼団体三六倶楽部主宰者、大政翼賛会総務。戦後A級戦犯として逮捕された。新潟県長岡市出身。 旧長岡藩士・小林保四郎の長男として生まれる。長岡中学・陸軍中央幼年学校を経て、1901年、陸軍士官学校卒業(13期)。同期には志賀直方(志賀直哉の叔父、近衛篤麿の親友)・井田磐楠・林茂清・中岡弥高・建川美次らがいる。 1902年、砲兵少尉となる。1904年、日露戦争に出征し砲兵中尉となる。1908年、陸軍砲工学校高等科卒(14期)、砲兵大尉となる。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 19… 大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 1954年7月19日)は、現在の福井県福井市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は帰山 仁吉。8代大山。179cm、94kg。最高位は東前頭3枚目。 1901年1月初土俵、1907年1月十両昇進。1908年1月、6勝2分2休で、現在なら十両優勝にあたる成績をあげ、翌5月場所で新入幕。3場所連続の好成績で3枚目まで躍進するが、以後は下降線を辿り、十両に陥落。1912年5月に引退して大山を襲名した。1938年5月に廃業し、瀬戸物業を営んだ。 エコノミーホテルほていやブログ~ 両店のルーツと山谷の宿の変遷 ~ - 帰山仁吉とその一族の足跡について書かれた記事 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3… 中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3日 – 1968年(昭和43年)2月18日)は、農商務官僚、商工官僚、実業家。 熊本県出身。第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。翌年より農商務試補、山林局事務官、水産局書記官、広島大林区署長、高知大林区署長、東京大林区署長、大臣官房文書課長、会計課長、特許局長、山林局長を歴任した。1924年(大正13年)、農商務次官に就任し同年末に製鉄所長官に転じた。1934年(昭和9年)、製鉄所が日本製鉄株式会社に改組されると初代社長に就任し、1939年(昭和14年)まで在任した。
門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3… 門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3日 - 1939年〈昭和14年〉7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県温泉郡、のちの素鵞村(現松山市)で生まれ、伊予郡郡中町(現伊予市)で成人した。東京高等商業学校(現一橋大学)で学ぶ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)の教員となる。日本棉花(株)社員、日本棉花同業会理事長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において愛媛2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1939年に死去した。
大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1… 大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1937年1月9日)は、現在の和歌山県御坊市出身で小野川部屋(大坂相撲)、出羽海部屋に所属した元力士。本名は芝松次朗(旧姓阪本)。170cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 大坂相撲に属したが常陸山谷右エ門に憧れ東上し、1905年1月幕内格付出で初土俵入幕。1907年5月場所2日目には横綱・大砲万右エ門と引き分けた。1911年6月に廃業後は、電気器具の貸し出し業を営んだ。
木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日… 木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日 - 1968年(昭和43年))は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍中将。栄典は正二位勲二等。 1875年、元東与賀村助役木下善次の長男として生まれる。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校に8期生として入校。成績優秀で所謂「恩賜の銀時計」組であった。日露戦争に従軍し、遼陽会戦にて負傷し前線を離れた。戦後は陸軍大学校に学び(陸大18期)ここでも銀時計組となった。 その後は歩兵第56連隊長、第2師団参謀長、歩兵第29旅団長を経て1925年(大正14年)旅順要塞司令官に着任。軍事に加え遼東半島の軍政を司った。
竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月… 竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月3日 - 1966年(昭和41年)12月6日)は、日本の裁判官、検事。 富山県下新川郡入善町出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。浦和地方裁判所判事、東京区裁判所判事、長野区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、和歌山地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任。その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1935年(昭和10年)、広島控訴院検事長となった。1937年(昭和12年)に退官した後は弁護士を開業した。
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3… 小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。 鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店・スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で阪急沿線での六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年… 町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年1月3日) - 昭和6年(1931年)7月13日)は、日本の農学者・水産学者。東京帝国大学名誉教授(元農学部長)。農学博士。専門は、農芸化学、水産物利用学・水産製造学・水産化学。 鹿児島県出身。鹿児島市皷川町生まれ。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業し、助手を務めた。1893年(明治26年)より農事試験場技師を務め、1906年(明治39年)に統監府勧業模範場技師に転じた。また、農事試験場では、農芸化学部主任も務めた。 1908年(明治41年)より水産製造学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学した。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学農科大学(のち農学部)教授に任じられ、水産学第三講座を担当する。
松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年1… 松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年11月28日) - 1953年(昭和28年)5月2日)は、日本の政治家、地主。衆議院議員(当選5回、立憲政友会所属)、新十津川村長。参議院議員橋本聖子の大叔父にあたる。 大和国吉野郡南十津川村(現在の奈良県吉野郡十津川村)出身。奈良県士族・松実漏器の長男。 1884年(明治17年)に上京し、成城学校、慶應義塾で学ぶ。東京時代には三田の下宿で血脇守之助、矢野文雄、藤田茂吉らと政談を闘わせた。1890年(明治23年)に横浜商業学校を卒業した。その前年に十津川大水害があったのをきっかけに、十津川村民とともに北海道樺戸郡に移住し、新十津川村を開いた。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855… 稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1912年(明治45年)6月4日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、栃木県那須郡上江川村長。 下野国那須郡鹿子畑村(栃木県那須郡上江川村大字鹿子畑、喜連川町を経て現さくら市鹿子畑)で、豪農の家に生まれる。漢学、行政学、経済学、財政学を修めた。 戸長を務め、1888年(明治21年)立憲改進党に入党。那須郡会議員、同議長、栃木県会議員、所得税調査委員などを務め、1897年(明治30年)2代上江川村長に就任した。 1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(栃木県郡部、憲政本党)に立候補して当選し、衆議院議員に1期在任。
室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元… 室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治期の日本の教員、翻訳家、政治家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡中村(福島県相馬郡中村町を経て現相馬市)で生まれる。尺振八の塾(共立学舎)に入り英書を学び、同塾教師となる。同人社に転じ英学教員に就任。27歳で外務省翻訳局御用掛に転じ、条約改正事務を担った。1887年(明治20年)長崎県尋常中学校長に転出した。 1890年(明治23年)9月、立憲自由党に入党し、1897年(明治30年)河野広中の福島県下自由党の分党活動に反対し、目黒重真県会議長らと県下自由党組織の維持に貢献した。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で初当選し、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11… 曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11月24日) - 1937年(昭和12年)12月6日)は日本の建築家。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉… 6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉永4年12月12日) - 1927年(昭和2年)5月27日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 加賀国、のちの石川県能美郡安宅町(現小松市)出身。先代米谷半平の三男として生まれ、亡兄半平の跡を継ぎ襲名した。 米谷銀行を経営したほか、石川県農工銀行、北陸興業各取締役などを歴任した。また、公共事業に尽くし第五回関西府県連合共進会特別委員や日本赤十字社特別委員に挙げられ有功章を送られたほか、帝国義勇艦隊建設費を寄附し、愛国婦人会に尽力し賞状を授かった。このほか、日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章した。 1899年(明治32年)石川県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月11日から1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(18… 本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(1851年1月3日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、明治初期からの洋画家。画家としては寡作であったが、多くの著書を書き、画塾で後進を育てた。趣味で始めた造園もプロ級だった。号は契山。
依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24… 依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24日(1834年1月3日) - 明治42年(1909年)12月27日)は、日本の漢学者、文芸評論家、小説家、劇作家。幼名は幸造、信造。通称は七郎、右衛門次郎。諱は朝宗(ともむね)。初め字を百川(ひゃくせん)といったが後にこれを本名とした。学海は雅号で、柳蔭とも号した。
吉田 麻子(よしだ あさこ、1月3日 - )は、日本の女性声… 吉田 麻子(よしだ あさこ、1月3日 - )は、日本の女性声優。ブリングアップ/劇団アルターエゴ所属。鳥取県出身。血液型はAB型。高校時代演劇部に所属していて、男役を演じたときに見ていた女性に惚れられた経験がある。
三浦 ちあき(みうら ちあき、1月3日 - )は、近畿地方を… 三浦 ちあき(みうら ちあき、1月3日 - )は、近畿地方を拠点に活動している日本のフリーアナウンサー。ビー・グラッド所属。 富山県婦負郡八尾町(現・富山市)出身。 2003年に北日本放送 (KNB) に入社し、同局のアナウンサーになる。在籍中、一貫して夕方のローカルワイド番組内で放送されるスポーツコーナーを担当していた。 2013年3月に北日本放送を退社し、以後は2021年12月まで日本国内でフリーアナウンサーとして活動。フリー転向直後にはエフエム石川 (HELLO FIVE) のパーソナリティを務めていたが、和歌山放送 (WBS) のパーソナリティになってからは近畿地方を拠点に活動している。
灯 奈美(あかり なみ、1月3日 - )は、元宝塚歌劇団雪組… 灯 奈美(あかり なみ、1月3日 - )は、元宝塚歌劇団雪組の女役。元雪組副組長。 埼玉県さいたま市、浦和明の星女子高等学校出身。身長160cm。愛称は「よっこ」。 1982年、宝塚音楽学校入学。 1984年、宝塚歌劇団に70期生として入団。入団時の成績は26番。雪組公演「風と共に去りぬ」で初舞台。その後、雪組に配属。 1998年10月1日付で雪組副組長に就任。 2008年3月30日、「君を愛してる/ミロワール」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。
星原 美沙緒(ほしはら みさお、1月3日 - )は、元宝塚歌… 星原 美沙緒(ほしはら みさお、1月3日 - )は、元宝塚歌劇団専科の男役。元花組組長。 京都府京都市左京区、西山高等学校出身。身長166cm。愛称は「ホシ」。 1970年、宝塚音楽学校入学。 1972年、宝塚歌劇団に58期生として入団。入団時の成績は10番。雪組公演「かぐら/ザ・フラワー」で園 みはる(その みはる)として初舞台。 1973年、月組に配属。 1979年に現在の芸名へと変更。 1988年7月1日付で専科へと異動。 1996年に花組へ異動となり、花組組長に就任。 1997年12月30日付で再び専科へ異動となる。 悪役から将軍や大臣、父親役まで幅広くこなす重厚なイメージの男役として活躍したが、2011年1月30日、宙組「誰がために鐘は鳴る」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。
黒田 忠良(くろだ ただよし、1月3日 - )は、元エフエム… 黒田 忠良(くろだ ただよし、1月3日 - )は、元エフエム徳島のアナウンサー。 徳島県徳島市出身。血液型はB型。高校在学中から四国放送劇団に所属しラジオ番組に出演。大学卒業後、フリーアナウンサーとしてNHK徳島放送局や四国放送で活動後エフエム徳島に入社した。1995年の阪神淡路大震災では、淡路島からのレポートや番組取材などを続けた経験から、いち早く「防災士」の資格を取得し、番組内でのアドバイスや講演など啓蒙活動を行う。 NHK徳島放送局との災害時協力協定など防災について業務をすすめ、同局との防災番組共同制作に至った。 社会貢献活動に関心が高く、2005年からアナウンサー朗読会「おななし宝ばこ」を主宰し四国放送、NHK徳島局、エフエム徳島のアナウンサー有志が童話やエッセイなどを朗読する会を毎年開き、10回の開催に至った。