吉野 實(よしの みのる、1924年3月5日 - 2016年… 吉野 實(よしの みのる、1924年3月5日 - 2016年1月9日)は、日本の大蔵官僚。内閣官房公共企業体等関係閣僚協議会事務局次長、関東財務局長、造幣局長、防衛庁経理局長、防衛施設庁長官、防衛事務次官、航空貨物通関情報センター理事長、国際メディア研究財団理事長などを歴任。東京都新宿区市谷砂土原町在住。長男は吉野維一郎。 神奈川県藤沢市出身。旧制横浜第一中学校、旧制第一高等学校から東京帝国大学に入学。陸軍伍長、陸軍少尉を務め、1945年9月に退役。1949年2月 国家公務員六級職試験を合格。1950年1月 国家公務員一般職・専門職試験を合格。東京大学法学部政治学科卒業。1950年 大蔵省入省。
比留間 一成(ひるま かずなり、1924年(大正13年)3月… 比留間 一成(ひるま かずなり、1924年(大正13年)3月5日 -2018年3月4日)は、日本の詩人、教育研究者。 東京生まれ。東京物理専門学校(現・東京理科大学)卒。日本現代詩人会会員。1955年『青衣』同人。東京都中野区立第五中学校長、東京都教育研究所幼児教育研究部長などを務め、児童教育に関する著作もあり、大学講師などを務めた。2009-2011年日本詩人クラブ会長。2013年日本現代詩人会より先達詩人とされる。
永井 弥太郎(ながい やたろう、1923年3月5日 - 20… 永井 弥太郎(ながい やたろう、1923年3月5日 - 2007年3月21日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。 兵庫県出身。1944年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1946年11月に三菱化成工業に入社。1965年5月に三菱レイヨンに移り、1973年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1987年6月に副社長に就任し、1988年6月に社長に昇格。1993年6月に会長に就任し、1998年4月に相談役を退く。 2007年3月21日に心不全のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
島田 一男(しまだ かずお、1923年3月5日 - 1995… 島田 一男(しまだ かずお、1923年3月5日 - 1995年10月5日)は、日本の社会心理学者・評論家。 岩手県生まれ。東京文理科大学心理学科卒、研究科修了。1962年「社会的態度に関する組織的研究」で文学博士の学位を取得。聖心女子大学文学部助教授を経て、教授。1993年定年退任、名誉教授、川村学園女子大学教授、文学部長を務める。日本心理学会理事・日本社会心理学会会長を歴任し、マスコミでも幅広く活躍した。日本社会心理学会名誉会員。
深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 202… 深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 2021年9月15日)は、福島県出身の俳人。本名は謙二。 高玉鉱山(現・郡山市)に生まれる。父の転勤で東京に移り、府立第五中学校を経て東京帝国大学工学部冶金科を卒業。卒業後は東大冶金科研究室勤務を経て日本鉱業入社。日興エンジニアリング勤務。 高校時代の1941年より高浜虚子に師事、20歳の頃に深川正一郎の指導を受ける。大学卒業後「ホトトギス新人会」を結成。1952年より山口青邨にも師事し、1953年に青邨の「夏草」同人。1959年に「ホトトギス」同人。1989年、「珊」創刊同人。1991年、「Fの会」を土台として「花鳥来」を創刊、主宰。 1992年、句集『花鳥来』で第31回俳人協会賞を受賞。
松濤 明(まつなみ あきら、1922年〈大正11年〉3月5日… 松濤 明(まつなみ あきら、1922年〈大正11年〉3月5日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は日本の登山家。
上柳 克郎(うえやなぎ かつろう、1922年3月5日 - 2… 上柳 克郎(うえやなぎ かつろう、1922年3月5日 - 2007年12月7日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1989年)。京都大学名誉教授。1998年日本学士院会員。勲等は勲二等。京都帝国大学法学部助教授、京都大学法学部教授、京都大学法学部学部長、大阪学院大学法学部教授、大阪学院大学法学部学部長などを歴任。大隅健一郎門下。 1922年(大正11年)生まれの法学者である。専門は商法であり、学位論文「商法の基礎的研究」にて1989年に法学博士の学位を取得した。1980年に『会社法・手形法論集』を有斐閣より上梓したことで知られている。また、1999年には『商事法論集』を有斐閣より上梓した。
永野 賢(ながの まさる、1922年3月5日 - 2000年… 永野 賢(ながの まさる、1922年3月5日 - 2000年10月3日)は、日本の国語学者。山本有三研究家、東京学芸大学名誉教授。 千葉県生まれ。1944年に東京帝国大学国文科を卒業。同国語研究室副手、同大学院特別研究生、1949年に国立国語研究所所員、1966年頃に東京学芸大学助教授、のち教授。1985年に定年退官、名誉教授。山本有三は妻の父である。 国語教育、文法、国語学史などの研究をおこない、1980年から「山本有三評伝」を『解釈と鑑賞』に連載し、1983年に完結。1987年『山本有三正伝 上』を刊行したが、「下」は未完に終わった。 1953年に論文「表現文法の問題:複合辞の認定について」を『金田一博士古稀記念言語民族論』に寄稿、「複合辞」という概念を提起し、学界の関心を寄せた。
藤井清(ふじい きよし、1922年3月5日 - 2012年1… 藤井清(ふじい きよし、1922年3月5日 - 2012年1月15日)は、日本の物理学者。和光大学学長を務めた。 東京生まれ。1942年東京高等師範学校理科第二部卒、1945年東京文理科大学理学部物理学科卒、1950年同研究生後期修了、東京教育大学附属高等学校教諭・教頭をへて、1968年和光大学経済学部助教授、72年教授。81-93年学長となる。92年名誉教授、97年理事長。
山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980… 山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980年6月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)3月5日、兵庫県神戸市に生まれる。立教大学卒業。 京都の映画界に入り、伊藤大輔監督の門下となり助監督を務める。1947年(昭和22年)、新東宝で助監督となる。1950年(昭和25年)、中川信夫監督の『アマカラ珍騒動』等でチーフ助監督を務めた。 1956年(昭和31年)、監督に昇進し、嵐寛寿郎主演の『剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動』で監督としてデビューした。1961年(昭和36年)の同社の倒産までに22本を監督した。1960年12月公開の『東海道非常警戒』について、映画評論家の水野和夫は、「脱出という主題を具体的な速度感で映像化して行くクライマックスのカット・バックは山田達雄監督自身が堕落した現代映画の枠から脱出するかのごとく見事」であり、「日本映画界の底辺にあると思われている人たちが、実は最も力をこめて日本映画の土台をかためていることを再認識して、僕は激しい感動を禁じえなかった。
北原 鉱治(きたはら こうじ、1922年〈大正11年〉3月5… 北原 鉱治(きたはら こうじ、1922年〈大正11年〉3月5日 - 2017年〈平成29年〉8月9日)は、日本の市民運動家、社会運動家、元政治家、活動家。三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)事務局長であった。 1922年に、千葉県佐倉市田町で、呉服商の次男として誕生する。 保善中学校を中退後、日本光学(現・ニコン)に就職した後、1942年に大日本帝国海軍へ志願制度で入隊する。横須賀海兵団・工機学校を経て駆逐艦「松風」や第四号海防艦に乗務。なお「松風」では、後に反対同盟副委員長となる小川明治が乗務しており、上官であったが同郷人であったため知遇を得る。空襲によって第四号海防艦が三重県鳥羽港沖で沈没した後は、横須賀海兵団第四分隊配属の指令を受け、艦載機の攻撃を受けながらも汽車で神奈川県横須賀市へ移動した。
小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5… 小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5日 - 1981年(昭和56年)11月8日)は、日本の実業家である。丸大食品の創業者として知られた。 香川県高松市に小森保とその妻のかずえの間に長男として生まれる。今宮第五尋常高等小学校卒業後、証券会社であった不破商店に勤務した。後に水産物加工業務に携わり、1954年(昭和29年)には大阪市内で魚肉ハム及びソーセージの工場の創設、経営に携わった。小森はその工場名を「丸大食品」と称し、1958年(昭和33年)に株式会社化された。 1961年(昭和36年)には、同社で製造されたハムやソーセージにおける独自の小売店への販売システムを導入し、パートタイム労働者への育成に貢献した。
澤田 清(さわだ きよし、1920年3月5日 - 2019年… 澤田 清(さわだ きよし、1920年3月5日 - 2019年3月22日[要出典])は、日本の地理学者、日本大学名誉教授。 福井県武生市生まれ。東京文理科大学理学部地理学科卒、1961年「わが国における都市圏の変容に関する地理学的研究」で、理学博士(東京都立大学)。福井県立福井高等女学校教諭、金沢大学教育学部助教授、東京教育大学理学部助教授、日本大学文理学部教授。1991年定年退任、名誉教授。2019年3月22日死去。99歳没。[要出典]
伊丹 三樹彦(いたみ みきひこ、1920年3月5日 - 20… 伊丹 三樹彦(いたみ みきひこ、1920年3月5日 - 2019年9月21日)は、日本の俳人、写真家。本名は岩田 秀雄(いわた ひでお)。別号・写俳亭。 兵庫県伊丹町(現伊丹市)に生まれ、同三木町(現三木市)で育つ。三木市立三樹小学校、兵庫工業高等学校卒業。13歳から長谷川かな女の俳誌「水明」にて俳句を始める。高校卒業後は神戸大学工学部を受験するも失敗、神戸市役所に採用される。1937年、日野草城の「旗艦」に投句、のち「旗艦」が統合された「琥珀」同人。戦後、同門の桂信子や楠本憲吉らと「まるめろ」を創刊。また「太陽系」に参加。1949年、日野草城主宰の「青玄」創刊に参加し、編集・発行を行う。1956年の草城没後は「青玄」を継承し主幹となる。
4代 木村 誠道(よんだい きむら せいどう、1920年3月… 4代 木村 誠道(よんだい きむら せいどう、1920年3月5日 - ?)は、元三役格行司である。本名は金森庄一。高砂部屋所属。 1920年に生まれる。青森県弘前市出身。 1947年に十両格、1954年秋場所に幕内格に昇進。 行司名は木村庄次→木村朝之助→木村誠道→木村朝之助→木村誠道 1963年1月に三役格に昇進。 ところが同年秋場所、43歳の若さで突然廃業。 一説には金銭的トラブルがあったからと言われている。 その後の消息は不明。 廃業時の序列としては、3代木村正直→24代式守伊之助と2代式守伊三郎の間であり、彼の廃業に伴って伊三郎が三役格に昇格した。 弟子に33代木村庄之助がいる。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
森下 節(もりした せつ、1920年(大正9年)3月5日 -… 森下 節(もりした せつ、1920年(大正9年)3月5日 - 1984年(昭和59年)8月11日)は、日本の作家。北海道夕張市紅葉山生まれ。本名・裕(ゆたか)。新聞・雑誌記者をへて作家生活に入る。1962年(昭和37年)から文芸同人誌『藝文』主宰。全国同人雑誌協会副会長。中河与一に師事し、戦時中、中河が左翼作家のリストを情報局に流したというデマを平野謙が流したと指摘した(『ひとりぼっちの戦い』)。
川口 大助(かわぐち だいすけ、1918年3月5日 - 19… 川口 大助(かわぐち だいすけ、1918年3月5日 - 1981年2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、秋田市長(3期)を務めた。 秋田県河辺郡新屋町(現在の秋田市新屋)出身。秋田県立秋田中学校(旧制、現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業後、国鉄に入り、国労秋田地方本部委員長を務める。その後秋田県議になり、日本社会党秋田県本部書記長、同顧問となり、1959年の秋田市長選では社会党公認で立候補して初当選した。以来3期。1971年の秋田市長選では保守系候補の荻原麟次郎に敗れて落選した。1976年の第34回衆議院議員総選挙で秋田1区から日本社会党公認で立候補して当選。1979年の秋田県知事選に立候補したが落選した。
梅村 魁(うめむら はじめ、1918年3月5日 - 1995… 梅村 魁(うめむら はじめ、1918年3月5日 - 1995年1月31日)は、日本の建築構造工学者。建築構造の研究および東京大学、芝浦工業大学で後進の育成にあたる。日本コンクリート工学会第8代会長(1978年-1980年5月)をつとめ、1983年5月名誉会員となる。工学博士。東京大学名誉教授。1988年日本建築学会大賞受賞。 1970年から1972年、日本建築学会関東支部 第12代歴代支部長、1979年から1981年日本建築学会 会長、1993年から1995年一般社団法人 日本免震構造協会 初代会長を歴任する。 東京出身。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て[要出典]、1941年、東京帝国大学工学部建築学科卒業、そのまま武藤清研究室の大学院学生になった。
林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 … 林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 - 1990年〈平成2年〉12月18日)は、日本の写真家である。 山口県生まれ。木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人である。太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の風俗や文士、風景など多岐にわたる写真を撮影した。 特に文士を撮影したものは有名で、銀座のバー「ルパン」で知り合った織田作之助・太宰治・坂口安吾の酒場での姿や、坂口安吾の紙屑に囲まれた仕事場の風景は、林忠彦の名を世に知らしめた。 太宰治の写真を撮った時のことについて、林は以下のように回顧している。ルパンは銀座の文春画廊の裏横丁にあって、仕事の連絡場所として林が使っていたバーだった。
中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)… 中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)3月5日 - 1997年(平成9年)12月25日)は、日本の小説家・文芸評論家・詩人。なお旧字体の「眞一郎」名義での出版もある。
渡部 徹(わたなべ とおる、1918年3月5日 - 1995… 渡部 徹(わたなべ とおる、1918年3月5日 - 1995年3月16日)は、日本の社会運動史学者、京都大学名誉教授。専門分野は戦前の労働・社会運動史。 大阪府出身。京都帝国大学を卒業。大阪経済大学助教授から京都大学人文科学研究所に移り、1969年に教授に昇格する。1982年に定年退官となり、愛知女子短期大学教授に転じた。
会田 雄次(あいだ ゆうじ、1916年〈大正5年〉3月5日 … 会田 雄次(あいだ ゆうじ、1916年〈大正5年〉3月5日 - 1997年〈平成9年〉9月17日)は、日本の西洋史学者。京都大学名誉教授。専門はイタリア・ルネサンス。保守派の論客として知られた。 1916年、動物学者・会田龍雄の次男として京都市で生まれた。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を卒業して、京都帝国大学文学部史学科に進んだ。1940年に大学を卒業し、同大学大学院に進学。 1942年、京都帝国大学文学部副手に採用された(1948年まで)。1942年からは龍谷大学予科講師を兼任。しかし、戦局の悪化に伴い1943年に応召し、ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍。
晝間 弘(ひるま ひろし、1916年3月5日 - 1984年… 晝間 弘(ひるま ひろし、1916年3月5日 - 1984年10月6日)は、彫刻家、日本芸術院会員。
古屋 茂(ふるや しげる、1916年3月5日 - 1996年… 古屋 茂(ふるや しげる、1916年3月5日 - 1996年1月3日)は、日本の数学者。専門は解析学。東京大学名誉教授。 立憲民政党所属の政治家・古屋慶隆の次男として岐阜県恵那市に生まれた。兄は元自治大臣の古屋亨、甥は自由民主党所属の衆議院議員・古屋圭司。圭司は茂の末妹の次男として生まれ、茂の兄、すなわち圭司の伯父に当たる亨の養嗣子となった。 1938年東京帝国大学理学部数学科卒業。立教大学、東京大学、青山学院大学の教授を歴任した。東大退官後は、東京大学名誉教授となった。1996年1月3日、心不全のため79歳で死去。
勝野 ふじ子(かつの ふじこ、本名:勝野フジノ、1915年 … 勝野 ふじ子(かつの ふじこ、本名:勝野フジノ、1915年 (大正4年) 3月5日 - 1944年 (昭和19年) 3月21日)は、日本の小説家。『九州文学』同人。鹿児島県立第二高等女学校卒業。 鹿児島県薩摩郡入来村(現・薩摩川内市)生まれ。実父と実母の結婚が認められず、母方の祖父母の戸籍に入り彼らの娘として育てられる。入来尋常小学校卒業後、鹿児島県立川内高等女学校(現鹿児島県立川内高等学校)に進学。その1年後に鹿児島市の戸籍上の兄の元へ移り、鹿児島県立第二高等女学校(現鹿児島県立甲南高等学校)へ転校。第二高等女学校では、文学好きな友人に恵まれ充実した学校生活を過ごす。1932年(昭和7年)に第二高等女学校を卒業。
山田 春(やまだ はじめ、1915年(大正4年)3月5日 -… 山田 春(やまだ はじめ、1915年(大正4年)3月5日 - 2004年(平成16年)8月16日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取を務めた。愛知県出身。 1936年に高文司法科に合格。1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。 仙台支店長、本店営業部次長、考査室長兼調査部副部長、調査部長兼考査室長、人事部長兼研修所長を歴任。 1966年11月に取締役に選任。1970年5月に常務、1974年1月に専務、同年12月に副頭取、1978年1月に頭取に就任した。1986年6月に会長に退き、相談役を経て、1998年4月には特別顧問に就任した。また全国銀行協会連合会会長も歴任した。 2004年8月16日、心不全のため、東京都中央区内の病院で死去。
座波 仁吉(ざは じんきち、1914年3月5日 - 2009… 座波 仁吉(ざは じんきち、1914年3月5日 - 2009年[要出典])は、空手家。沖縄県那覇市出身。「心道流空手道心道会」最高師範。 「心道流空手道心道会」は、1951年(昭和26年)の宮崎大学空手道部創立とともに、座波を会長として迎え設立された(以後、座波は「心道流空手道心道会」の最高師範を務める)。 2002年に座波は初代宗家となる。 弟子に、佐伯幸一(宮崎大学空手部歴代OB会長)、松山公大(「心道流空手道心道会」第2代会長)、田中静雄、宇城憲治がいる。
榊 米一郎(さかき よねいちろう、1913年(大正2年)3月… 榊 米一郎(さかき よねいちろう、1913年(大正2年)3月5日 - 2014年(平成26年)2月20日)は、日本の電子工学者。名古屋大学名誉教授、豊橋技術科学大学名誉教授。位階は従三位。 京都府京都市出身。父はサンスクリット学者で京都帝国大学名誉教授の榊亮三郎。1932年旧制第一高等学校理科甲類卒業、1935年東京帝国大学工学部電気科卒業、沖電気勤務、1939年名古屋帝国大学嘱託となり、助教授、1951年「磁気測定法に関する研究」で名古屋大学工学博士。1952年名古屋大学工学部教授。1967年 - 1969年工学部長。1974年定年退官、名誉教授、豊田工業高等専門学校校長、1976年退官、名誉教授、豊橋技術科学大学初代学長となる。
渋谷 昇次(澁谷、しぶや しょうじ、1913年(大正2年)3… 渋谷 昇次(澁谷、しぶや しょうじ、1913年(大正2年)3月5日 - 2001年(平成13年)9月17日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、静岡県志太郡大井川町長。 静岡県出身。1938年(昭和13年)早稲田大学大学専門部商科を卒業した。 桜組商事、南興水産(パラオ本社)、焼津水産などで勤務。大東亜省の委嘱によりマニラ日本人会書記に就任した。 帰国後、網代冷凍代表取締役、日本漁民組合副組合長、日本社会党静岡県支部連合会青年部長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で静岡県全県区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、社会党漁民部長、全国漁民協議会事務局長などを務めた。
谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日… 谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日 - 1943年(昭和18年)10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。昭和初期の日本陸上短距離界においては、吉岡隆徳とともに「双璧」と見なされた選手で、200m直走路で日本記録を更新、100mで日本学生記録タイをマークした。第二次世界大戦で戦死。 熊本県八代郡鏡町(現在の八代市)生まれ。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)在学中より競技で頭角を現し、九州選手権(100・200メートル)の保持者であった。同窓の戸上研之(三段跳、山鹿出身)とともに、関西大学に入学。 「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳と並び、昭和初期日本陸上短距離界の双璧と見なされた選手で、1933年(昭和8年)には日比対抗東京大会で200メートル優勝。
植草 圭之助(うえくさ けいのすけ、1910年3月5日 - … 植草 圭之助(うえくさ けいのすけ、1910年3月5日 - 1993年12月19日)は、日本の脚本家、小説家。本名は植草銈之助。
太田 静一(おおた せいいち、1910年3月5日 - 200… 太田 静一(おおた せいいち、1910年3月5日 - 2003年12月5日)は、日本近代文学研究者。 奈良市生まれ。1933年東京帝国大学文学部支那哲学文学科卒。在学中から創作活動を始め、第11次、12次『新思潮』に参加。平凡社勤務、松山中学校教諭、1946年山口県立女子専門学校教員、50年山口女子短期大学教授、75年定年退任、宇部短期大学教授。『文芸山口』同人。
布引 國太郎(ぬのびき くにたろう、1910年3月5日 - … 布引 國太郎(ぬのびき くにたろう、1910年3月5日 - 没年不明 )は、千葉県富津市出身で粂川部屋、双葉山道場に所属した元大相撲力士。本名は伊藤 國太郎(いとう くにたろう)。最高位は東十両3枚目。得意技は突っ張り、押し、左四つ、投げ。 粂川部屋に入門し、1929年3月場所に初土俵を踏む。入門当初は「富錦」の四股名であった。「錦岩」の四股名で1934年5月場所に十両に昇進。十両は連続で3場所務めたが、1936年1月場所に幕下に陥落。翌5月場所に十両に復帰したが1勝10敗と大きく負け越し、またしても幕下に陥落した。1939年5月場所に再度十両に復帰、四股名を「布引」に改めた。十両は連続して6場所務めたが、1942年1月場所は3勝12敗と大きく負け越し、この場所限りで廃業した。
岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5… 岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。岡田商店の元代表取締役会長。元境港商工会議所会頭。元境港魚市場顧問、境港海陸運送相談役。元鳥取県会議員、境町会議員。 父親の岡田庄作は境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした。叔父岡田信吉朗も海運業者である。 鳥取県西伯郡境町栄町(現在の境港市)出身。父は岡田庄作。 米子中学(現米子東高校)を経て、昭和9年(1934年)旅順工科大学機械科卒業。新潟県立長岡工業学校、米子高等女学校(現米子西高校)に勤務。昭和14年(1939年)岡田回漕店勤務。昭和19年(1944年)境港海陸運送を日本通運と創業、常務を経て社長に就任。
高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日… 高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日 - 1963年(昭和38年)12月10日)は、日本の砲丸投選手、写真家。 広島県広島市出身。旧制広陵中学校中退。日本陸上競技選手権大会では、1927年から1935年までの間に砲丸投げで6回優勝。1934年(昭和9年)に大連で開催された日米対抗陸上競技大会において14m13の日本記録を樹立した。この記録は1953年まで保持された。通称「砲丸王」と呼ばれた。 1936年ベルリンオリンピックに砲丸投げで出場したが予選で失格。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から約680メートルの中国配電(現中国電力)本店で被爆。
伊地知 鉄男(いぢち てつお、1908年3月5日 - 199… 伊地知 鉄男(いぢち てつお、1908年3月5日 - 1998年3月23日)は、日本の国文学者、書誌学者。 鹿児島県鹿児島市で生まれる。早稲田大学文学部国文学科で学び、1932年に卒業。 卒業後は、光塩高等女学校に教員として勤務。1936年に宮内省図書寮に入省し、1966年に宮内庁書陵部を定年退職。その後は早稲田大学教授となり、1978年に定年退職。 1998年、肺炎のため死去。 専攻は国文学で、特に中世連歌を専門とした。また、書誌学に関連した研究も行っている。 連歌関係の資料1,122点が、1988年に早稲田大学図書館に寄贈され、「伊地知鉄男文庫」となっている。1992年には『伊地知鉄男文庫目録』が刊行されている。
渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5… 渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5日 - 2020年〈令和2年〉2月23日)は、日本のスーパーセンテナリアン、政治家、地方公務員。新潟県上越市浦川原区に在住していた長寿の男性。日本国内並びに世界最高齢男性であった野中正造が2019年1月20日に死去した時点では、日本国内及び世界最高齢男性となっていた(詳細は後述)。ただし、トーマス・ピナレス・フィゲレオ(1906年3月31日 - 2020年9月24日)が世界最高齢男性に認定された為、世界最高齢の男性では無くなっている。 1907年(明治40年)、新潟県東頸城郡浦川原村(現・上越市浦川原区)の農家に生まれる。新潟県立高田農学校(現・新潟県立高田農業高等学校)卒業後、大日本製糖(現・DM三井製糖ホールディングス)に入社し、終戦まで台湾で働いた。
宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 199… 宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 1991年3月12日)は、日本の歴史学者。専攻は、日本経済史・近世商業史。経済学博士(九州大学)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 大阪府大阪市生まれ。旧制大阪府立市岡中学校、大阪外国語学校仏語部を経て、1931年(昭和6年)京都帝国大学経済学部卒業、同大学院修了。同大学助手、日本経済史研究所を経て、1939年(昭和14年)彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)教授。 1942年(昭和17年)九州帝国大学助教授、1945年(昭和20年)同教授。1950年(昭和25年)九州大学より経済学博士の学位を取得、学位論文は「江戸時代問屋の研究」。
田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5… 田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5日 - 1993年〈平成5年〉12月10日)は、日本の実業家、政治活動家、CIA協力者。フィクサーともいわれる。 戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した。 資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。
中山 素平(なかやま そへい、1906年(明治39年)3月5… 中山 素平(なかやま そへい、1906年(明治39年)3月5日 - 2005年(平成17年)11月19日 )は、日本の銀行家。日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取、同会長、経済同友会代表幹事、海外技術協力事業団(現:国際協力機構)会長等を歴任。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ一方、部下からは「そっぺいさん」と呼ばれ慕われた。
水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日… 水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日 - 2001年(平成13年)3月20日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。編集者でもあり、雑誌『新青年』編集長を累計18年務めた。本名は納谷 三千男。 北海道函館区(現在の函館市)船見町の生まれ。当時の函館は幕末に開かれて以来の国際的な港町であった。父はパン屋や外国人の執事をしており、外国人が三千男を「ジョン」と呼んでいたことから、のちに自らのペンネームを「準」とした。弥生小学校に在学中、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿して入選した。 旧制函館中学(現:北海道函館中部高等学校)中退後、上京して早稲田高等学院に入学。在学中の1922年に博文館の雑誌『新青年』の懸賞に応募した「好敵手」が一等に入選。
宮脇 倫(みやわき りん / ひとし、1904年(明治37年… 宮脇 倫(みやわき りん / ひとし、1904年(明治37年)3月5日 - 1963年(昭和38年)3月28日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選埼玉県知事。長男は元皇宮警察本部長・元内閣広報官の宮脇磊介。孫は日本フェンシング協会元専務理事の宮脇信介。曽孫はフェンシング(フルーレ)選手の宮脇花綸。 長野県下伊那郡上郷村(現飯田市)に宮脇金一郎の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、警視庁に配属された。 以後、神田万世橋警察署長、三田警察署長、久松警察署長、警視庁特別警備隊長、新潟県商工水産課長、兵庫県警察部経済保安課長、石川県学務部長、秋田県内務部長、兼秋田県警察部長、茨城県内務部長、厚生省国民保険課長、同錬成体練課長などを歴任。
奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5… 奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5日 - 1972年(昭和47年)11月7日)は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖といわれる。 1903年(明治36年)3月5日、滋賀県甲賀郡信楽町(現:甲賀市)に生まれる。生家は代々信楽焼の窯元をやっていたが、父は綱雄が6歳の時に大阪堺に移住し菓子の製造販売業を始めた。 1923年(大正12年)大阪高等商業学校(現:大阪市立大学)卒業。1926年(大正15年)に京都帝国大学経済学部卒業後、野村證券へ入社。1936年に満州視察団に参加し、1945年に取締役に就任した。1946年(昭和21年)公職追放による経営陣退陣の中、綱雄は1947年(昭和22年)に専務、1948年(昭和23年)には第3代社長に就任した。
吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年… 吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年)3月5日 - 1978年(昭和53年)4月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。初代自衛艦隊司令。最終階級は海軍大佐、海将。 農業を営む吉田蔵之介の三男として生まれる。旧制福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、海軍兵学校第50期入校。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業。海軍大学校(甲種32期)卒業。海軍での最終階級は海軍大佐(軍務局第三課長)。 終戦に伴い旧海軍省は解体されたが、復員に必要な人事情報に精通していたため、第二復員局に引き続き勤務。この頃から、職務上接していた情報と人脈を用い、勤務時間外に「新海軍」再建計画を画策する。
飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996… 飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996年1月5日)は、日本の映画評論家・詩人。旧姓:吉田。 東京府生まれ。父の吉田平太郎は豊後国出身で日露戦争で活躍した陸軍中将だったが、退役後に毛皮商として一旗揚げるべくモンゴルに渡り、そこで部下に騙されて零落し日本に帰国、持ち家を手放し、都内を転々とした。のち茨城県の愛人の元に移り、釣りに明け暮れ、肝臓病で亡くなった。母方の祖父の池上正路は銀座の大手広告代理店「正路喜社」(しょうじきしゃ)の創立者。平太郎には離婚した先妻との間に子がいたため、正の実母ヤス(安子)は先妻の子に気を遣い、正を自分の兄(正の母方の伯父)の養子に入れ、飯島姓とした。
安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 19… 安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 1970年9月12日)は、昭和時代の彫刻家。福岡県美術協会理事長。
増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月… 増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月5日 - 1981年(昭和56年)12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学名誉教授。仏教学専攻。 福井県福井市出身。駒澤大学仏教学部卒。同研究科卒。文学博士。駒澤大学仏教学部教授、駒澤大学短期大学部長を歴任。
橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 … 橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 - 1990年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、運輸大臣(第40代)、建設大臣(第19代、第26代)、内閣官房長官(第27代、第28代)、自由民主党幹事長(田中内閣)、自由民主党総務会長(佐藤内閣)などを歴任した。 茨城県行方郡潮来町(現:潮来市)の回送問屋の家に生まれた。当初父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)から、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、「闘将」と称された。 1927年(昭和2年)に大学卒業後、朝日新聞社に入社する。
伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955… 伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の海軍軍人、工学者、無線技術者。ドレスデン工科大学Doctor、東京帝国大学工学博士。最終階級は海軍技術大佐。 1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった。旧制第一高等学校を卒業後、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた。
渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈… 渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈明治34年〉3月5日 - 1947年〈昭和22年〉4月29日)は、日本の実業家。渋沢栄一 の孫にあたるが、 父・渋沢篤二が1913年に廃嫡されたため、本家とは別に分家筋として育った。兄に渋沢敬三(栄一の後継者)、次兄に渋沢信雄がいる。 1901年、3月5日に子爵・渋沢栄一の嫡男・篤二と妻・敦子の三男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉に生まれる。 敦子の父(智雄の母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。子爵・渋沢敬三と渋沢信雄の弟にあたる。。 幼少期から身体が弱く、しばしば療養を要したと伝えられている。