北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 198… 北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 1982年1月3日)は、日本の脚本家、児童文学作家。 東京麹町区下六番町出身。本名・寿雄。早稲田大学中退。小山内薫に師事し、『劇と評論』同人となる。 1936年(昭和11年)NHK文芸部主事。 1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を八住利雄、伊馬春部、北条誠とともに交代で執筆。終戦直後の民主的で明るい人間関係を描くホームドラマは人気番組となった。 1952年(昭和27年)から「白鳥の騎士」に始まる「新諸国物語」を五年連続してラジオ放送し、「笛吹童子」「紅孔雀」などがヒットして映画化もされた。墓所は雑司ヶ谷霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日… 鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、日本の教員。日本で最初の女性校長とも言及されるが、鳥原より先に校長となった女性が複数確認されている(後述)。 宮崎市出身。宮崎県最初の訓導の一人である鳥原定静を父として生まれる。 1915年(大正4年)、宮崎県立宮崎県師範学校女子部(のちの県立宮崎女子師範学校→官立宮崎師範学校、現在の宮崎大学教育文化学部の前身)を卒業し、教員となる。25歳であった1920年(大正9年)7月3日に、宮崎県師範学校附属小学校(現・宮崎大学教育文化学部附属小学校)訓導から大淀町立古城尋常小学校(現・宮崎市立古城小学校)の校長に着任した。
清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日… 清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日 - 1982年(昭和57年)10月13日)は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・針谷。 埼玉県出身。農業・針谷重太郎の長男として生まれ、清水家の養子となる。埼玉県立粕壁中学校卒、第五高等学校中退を経て、1918年7月、明治大学専門部法科を卒業。三井銀行に入社し1920年6月まで在職。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年5月、内務省に入省し北海道庁属となり拓殖部に配属。 1923年4月、京都府属兼警視・警察部巡査教習所長に就任。以後、同警察部保安課長、同警務課長、欧米出張(1928年12月)、地方事務官・京都府勤務、同府建築監督官県工場監督官、警察講習所教授兼内務事務官・警保局勤務、朝鮮総督府警務局図書課長、内務書記官・警保局防犯課長、同局外事課長、同局保安課長、兼同局経済保安課長を歴任。
松村 光磨(まつむら みつま、1894年(明治27年)1月8… 松村 光磨(まつむら みつま、1894年(明治27年)1月8日 - 1970年(昭和45年)4月10日)は、戦災復興院次長などを務めた内務官僚で弁護士。名前は、光麿とも表記される。義父は明治・大正・昭和の外交官の本多熊太郎。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
原尻 束(はらじり つかね、1894年(明治27年)1月8日… 原尻 束(はらじり つかね、1894年(明治27年)1月8日 - 1978年(昭和53年)7月13日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡緒方村長。 大分県大野郡牧口村雨堤(清川村雨堤を経て現豊後大野市)で生まれる。成人後、同郡緒方村大字井上(緒方町を経て現:豊後大野市)の原尻家の養子となる。大分師範学校専攻科を卒業し郡内で代用教員となる。その後、上京して東京物理学校(現東京理科大学)高等師範科で学んだが、1925年(大正14年)中退して近衛騎兵連隊に入隊。除隊後に帰郷し、農業を営む。 1931年(昭和6年)緒方村収入役に就任。1929年(昭和14年)緒方村長となる。
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892… 堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年〈明治25年〉1月8日 - 1981年〈昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 欧米生活を経て、フランス近代詩の訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴派の詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学在学中であった堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。
小沢 国治(小澤 國治、おざわ くにじ、1890年1月8日 … 小沢 国治(小澤 國治、おざわ くにじ、1890年1月8日 - 1959年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1916年東京帝国大学政治科、1921年同大学独法科卒。新潟商工会議所議員、新潟市議、新潟県商工経済会副会長、第一銀行、大阪商船各(株)社員、新潟県硫酸(株)専務取締役となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において大選挙区制の新潟1区から日本自由党公認で立候補して当選する。党内では幹事となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1959年死去。
菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月… 菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月8日 - 1944年〈昭和19年〉9月23日)は、日本の華族。貴族院侯爵議員、侯爵。 華族・菊亭脩季の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)11月6日、侯爵を襲爵。1914年(大正3年)1月7日、満25歳となり貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属し死去するまで在任した。 1915年(大正4年)、殿掌に就任したが、同年4月15日に依願免となった。 東山天皇の男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。 兼季 - 実尹 - 公直 - 実直 - 公行 - 実富 - 公富 - 教季 - 公興 - 季孝 - 公彦 - 晴季 - 季持 - 経季 - 公規 - 伊季 - 公香 - 公詮 - 実興 - 誠季 - 公言 - 実種 - 尚季 - 公久 - 実順 - 脩季 - 公長 - 実賢 - 直子 -
野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964… 野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964年6月20日)は、日本のジャーナリスト、放送経営者。朝日新聞社代表取締役、熊本日日新聞社社長、第8代日本放送協会(NHK)会長を歴任。広島県双三郡原村(現・三次市十日市町)出身。 旧制三次中学校(現・広島県立三次高等学校)を経て1911年、早稲田大学専門部法律学校卒業。立憲政友会の機関誌中央新聞に就職、続いて徳富蘇峰社長の國民新聞に移った。ここで原敬の信頼を得て政治記者として大成の道を歩む。1920年朝日新聞社入社。38歳で政治部部長となり取材体制の近代化、政治記事の刷新を行い、記憶力のよさと行動的取材力で「夜討ち朝駆け」の記者像をつくったと言われる。
瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946… 瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946年10月5日)は、日本の外科医、外科医学者。食道外科の大家。 新潟県中頸城郡板倉町(現・上越市板倉区)出身。旧姓は島田。東京帝国大学医科大学を1911年(明治44年)に卒業、外科入局。 1920年(大正9年)千葉県立千葉病院副部長、同年千葉医学専門学校教授、1922年(大正11年)同校付属医院外科医長、1923年(大正12年)千葉医科大学教授兼同大専門部教授。1924年(大正13年)医学博士を取得、1944年(昭和19年)「動脈注射療法の研究」で朝日賞を受賞。 教え子に中山恒明らがいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8… 坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8日 - 1970年(昭和45年)5月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。 愛知県出身。坪井政兵衛の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し神奈川県属となる。 以後、神奈川県警視、同理事官、秋田県警察部長、岡山県警察部長、香川県書記官・内務部長、山口県書記官・内務部長、山形県書記官・内務部長などを歴任。 1929年7月、香川県知事に就任。塩江温泉鉄道の開通に尽力。1931年6月、高知県知事に転任。同年12月18日に知事を依願免本官となり退官。
浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1… 浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1月8日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県下関市長、防府市長。 浮田芳平の長男として香川県に生まれ、1913年(大正2年)家督を相続する。1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、東京鉄道会社に入社する。1911年(明治44年)8月、東京市事務員となり、1919年(大正8年)6月、同市主事となる。1923年(大正12年)2月、下関市助役となり、1927年(昭和2年)1月、同市長に就任し、1931年(昭和6年)1月、満期退職した。ついで京都市主事、同市理事、香川県育英会学監兼監事を経て、1938年(昭和13年)3月5日、防府市長に就任した。
松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8… 松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の俳人。本名は磐。 神奈川県横浜市生まれ。横浜商業学校を卒業後、横浜正金銀行に勤務。 「ホトゝギス」創刊のころより、高浜虚子、内藤鳴雪に師事。横浜に、ホトトギス派の句会・連友会を組織した。 1928年(昭和3年)5月、俳句雑誌「俳人」を創刊主宰。“深刻なる句、平明なる句、気迫の籠りたる句”を標榜、首唱し、杉本禾人、浜井武之助らが参加した。1936年(昭和11年)、通巻100号をもって終刊。 編著に『太祇百句評釈』、『鳴雪俳句集』がある。 画家で正岡子規門下の俳人でもあった下村為山に絵画を学び、長唄も嗜んだ。
長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8… 長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡戸上村長。 大分県大野郡、のちの戸上村(犬飼町、野津町戸上を経て現臼杵市)で、長野音五郎の長男として生まれる。野津高等小学校、臼杵の久保塾で学んだ。農業を営む。 戸上村会議員、同村長を務める。1915年(大正4年)大分県会議員に選出され、政治活動を本格的に開始。憲政会大分県支部常任理事、同幹事長を務め、同党の解散後、立憲民政党に加わり同党大分県支部幹事長となる。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で初当選。
服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 -… 服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 - 1955年2月16日)は、日本の経済学者。学位はPh.D.(プリンストン大学)、経済学博士。早稲田大学教授、早稲田大学専門部政経科長、専修大学学監、千葉商科大学初代学長、明治学院大学初代経済学部長等を歴任。 1878年滋賀県生まれ。1902年東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。1906年プリンストン大学大学院修了し、Ph.D.学位取得。アメリカ留学後、早稲田大学(旧制)の留学生としてイギリス、フランス、ドイツへ渡り、1908年に帰国。1909年早稲田大学講師を経て同大教授に就任し、貨幣論、金融論、経済原論を担当。1927年より早稲田大学専門部政経科長就任。
鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日… 鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日 - 1933年(昭和8年)11月3日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事。旧姓・河野。 大分県速見郡、後の山香町(現杵築市)出身。河野伝次郎の三男として生まれ、1906年、鯉沼かねの養子となる。 高等小学校を卒業後、苦学して日本大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1906年5月、内務省に入省し福島県属となる。 以後、島根県事務官、島根県警察部長、長野県警察部長、三重県警察部長、青森県内務部長、三重県内務部長などを経て、1927年5月、神奈川県書記官・警察部長に就任。 1928年2月、秋田県知事に就任。
田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963… 田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963年12月22日)は、日本の元裁判官。東京控訴院長や大審院判事などを歴任し、八幡大学(現・九州国際大学)初代学長を務めた。従四位勲三等。族籍は鹿児島県士族。
五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 19… 五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 1922年4月28日)は、日本の俳優である。 1875年(明治8年)1月8日、栃木県に生まれる。 東京に移り、1900年(明治33年)、満25歳のとき、新派の高田実が主宰する「高田実一座」に入座、東京・本郷座で多く出演した。 1908年(明治41年)に吉沢商店が目黒に開設したグラスステージをもつ映画スタジオ・吉沢商店目黒撮影所に、1910年(明治43年)ころから出演を始める。女形の木下吉之助と多くの作品で共演した。1912年(大正元年)、同社は他の3社と合併してトラスト日活を形成、翌1913年(大正2年)10月には日活向島撮影所を建設・開所し、目黒撮影所を閉鎖した。
長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 193… 長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 1931年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1894年(明治27年)宮崎県尋常中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)を第1回生として卒業。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科を中退し、アメリカのテキサスに留学し農業を学ぶ。その後、中国に渡り、天津に在留し、肥料製造及び販売業に従事し、その傍ら倉庫業を経営し、天津商工銀行取締役となる。また、天津居留民団行政委員会議員、同議長、天津日本人商業会議所評議員を歴任する。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において宮崎県区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。
芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 19… 芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身。 16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートを切る。その後1898年、上京して、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)の助教諭となり、ここで国語教育の実践を展開していく。 彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時代、ドイツのハンブルクを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1… 柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1871年1月8日) - 1945年(昭和20年)4月11日)は、日本の内務官僚、文部官僚。錦鶏間祗候。 奈良県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、内務属となった。同年、高等文官試験に合格し、群馬県参事官、枢密院書記官、行政裁判所評定官、土木局書記官・内務省参事官、文部省宗教局長を歴任した。その後、維新史料編纂事務局長、維新史料編纂会委員を務め、1942年(昭和17年)に退官した。 1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治… 西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治元年11月26日) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、長門厚狭郡厚南村(現・山口県宇部市)出身の建築家。1897年(明治30年)から1917年(大正6年)までは福岡県営繕係や愛知県営繕係に奉職し、1918年(大正7年)に名古屋市初の個人建築事務所を開設して活動した。 父は西原英治郎、母はノエ。1869年1月8日(明治元年11月26日)、長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)に西原家の長男として生まれた。厚狭郡須恵小学校(現・宇部市立厚南小学校)を卒業し、吉敷郡山口町の山口黒城塾で学んだ後、大阪商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)に入学した。
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869… 寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の造船学者。 東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業。同大学院で商船構造学を研究。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。三菱造船所で建造した、主機に輸入タービンを搭載した義勇艦隊さくら丸、日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えた客船天洋丸・地洋丸の船体設計・建造に関与した.斯波忠三郎,大森房吉らと行った船体振動(機関回転数と振動数の関係に関わる)実験は世界的にも開拓的な業績と評価されている.1914年には日本鉄鋼協会の創立に発起人として参画し,1915年の創立後は理事/評議員として貢献した.造船共會(現在の日本船舶海洋工学会)理事を務め,1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった。
千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)… 千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)1月8日 - 昭和15年(1940年)5月22日 。)は出雲大社東京分祠の神職・宗教家。幼名は房麿 。 明治元年1月8日、島根県簸川郡大社町(現出雲市)に生まれる。島根の武士の家の長男で、幼少期から聡明で学問を好み、平田町の漢学者・雨森精翁のもとで数年間学ぶ。その後上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し卒業。卒業後すぐに大社教東京分院長に任じられた 。 宗教者として数多くの国葬・葬儀を司り、伊藤博文・大山巌・松方正義などの国葬では斎主を務めた。また、乃木希典、大隈重信などの葬儀の斎主も務めている。さらに、明治天皇や各宮家、貴族の葬儀にも祭主または副祭主として参加し、幅広い信望を集めた 。
小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(… 小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(1868年1月8日) - 大正6年(1917年)5月17日)は、加賀国能美郡(現在の石川県小松市)出身で八角部屋に所属した大相撲力士。本名は本田 与三松(ほんだ よさまつ、旧姓:太田)。身長175cm、体重90kg。最高位は西前頭2枚目。養女の夫は元小結鶴ヶ濱(13代玉垣)。 1889年1月幕下附出しで初土俵。1893年1月十両昇進、1893年5月入幕。粘り強い足腰を生かして吊るか打っ棄る取り口。1897年5月横綱小錦を破り、1898年5月にも小錦と預かりの相撲をとる。朝汐に強く、1896年1月、1902年1月に引分、1901年1月、1903年1月に勝利している。
松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、18… 松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、1867年1月8日〈慶応2年12月3日〉- 1937年〈昭和12年〉1月16日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県西松浦郡伊万里町長。 肥前国松浦郡伊万里町(現佐賀県伊万里市伊万里町)で、素封家・松尾貞吉の長男として生まれる。漢学を修める。 1904年(明治37年)、陸海軍の諸機械器具製造を行う松尾鉄工所を設立。家業をたばこ専売のほかに郡内の「煙草元売捌所」を開業して拡大。その他、伊万里銀行監査役、伊万里鉄道監査役、魚市 (名) 社長、東洋油脂工業取締役などを務めた。 政界では、伊万里町会議員、西松浦郡会議員などを務め、1911年(明治44年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、一期務めて1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年… 愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年11月19日) - 1928年(昭和3年)10月17日)は、明治から大正の実業家。 薩摩藩士津曲伝助の長男として鹿児島加治屋町に生まれ、のち愛甲家の養子となる。鹿児島銀行の前身である勤倹貯蓄銀行や鹿児島電気軌道、日本水電などの取締役のほかに十五銀行の頭取を歴任した。
田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月… 田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月8日 - 昭和19年(1944年))は、日本の教育者、漢学者。逗子開成中学校、鎌倉女学校を創設した。東京開成中学校の校長も務めた。東京府士族。子に田辺元、孫に野沢協がいる。
早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈… 早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈文久元年12月9日〉 - 1935年〈昭和10年〉10月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。埼玉県川越市長。 忍町(現行田市)に生まれる。1876年(明治9年)埼玉県師範学校小学師範科を卒業し、小学校教員となる。ついで入間、南埼玉郡役所に奉職し、1915年(大正4年)から川越町助役を3期、1923年(大正12年)から市助役を3期務め、1932年(昭和7年)3月から川越市長を1期務めた。市長在任中の1933年(昭和8年)には県内初の都市計画法が適用され、大規模な耕地整理、住宅建設や工場誘致、道路の新設などを行った。
下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860… 下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860年1月8日〉 - 明治44年〈1911年〉9月6日)は、日本の海軍技師(海軍高等文官、高等官二等〈少将相当〉)。従四位勲二等工学博士。下瀬火薬の発明による日露戦争への貢献で知られる。帝国学士院会員。帝国学士院賞受賞。広島県出身。 1859年(安政6年)12月16日、広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として広島市鉄砲町(現中区鉄砲町)に生まれる。 1884年(明治17年)、広島英語学校(広島一中の前身、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、帝国大学工科大学(現・東大工学部)応用化学科卒業。内閣印刷局に就職。鎬青(こうせい、光の青染料)及び版面洗浄液の改良、紙幣の真贋識別に有効な黒色インキ他を発明。
尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年1… 尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年12月26日)- 1927年(昭和2年)6月21日)は、明治期の検察官。錦鶏間祗候。 豊前国宇佐郡津房村(現在の大分県宇佐市)出身。中津の白石照山塾で学んだ。広島師範学校、二松學舍を経て、1883年(明治16年)に司法省法学校を卒業。東京地方裁判所判事補、大阪地方裁判所検事、東京地方裁判所検事、宮崎地方裁判所検事正、宇都宮地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正を歴任。1899年(明治32年)に台湾総督府法院覆審法院検察官長に転じた。1910年(明治43年)に退官し、1912年(大正元年)11月18日に錦鶏間祗候となった。 退官後は二松學舍理事を務めた。
三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860… 三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860年1月8日) - 昭和17年(1942年)11月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、土木技術者、陸軍軍人(工兵中尉)。 香川県丸亀市出身。1878年(明治11年)、大阪府師範学校を卒業し、小学校訓導となった。その後、陸軍士官学校(旧5期)に入学し、1884年(明治17年)に卒業。工兵中尉として熊本鎮台工兵大隊副官を務めた。免官後、藤田伝三郎・大倉喜八郎が共同出資する日本土木会社(のち大倉組)社員となり、東京湾砲台建設、紀淡海峡砲台建設、東京湾の浚渫と月島埋め立てなどを手掛けた。1897年(明治30年)、内務省官吏となり、岡山県技師に任じられた。
西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年… 西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年12月13日〉 - 1925年〈大正14年〉4月22日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡境町長(2代)。境町会議員。 伯耆国会見郡境村(現・鳥取県境港市)出身。1889年(明治22年)に境町会議員に当選した。1890年(明治23年)1月に同町助役となった。1892年(明治25年)、同町会議員に再選した。1893年(明治26年)12月に同町助役を退任した。同月12日から1898年(明治31年)12月12日まで、同町長をつとめる。町長を辞めたあとは台湾に渡り、木村久太郎の下で金山監督をつとめる。同年、同町会議員に返り咲いた。1900年(明治33年)、同町会議員にまた返り咲いた。
湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年… 湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年12月1日) - 1925年(大正14年)9月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。
猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年… 猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年11月20日) - 1909年(明治42年)10月9日)は越中国射水郡横田村(現・富山県高岡市横田)出身の大相撲力士。本名は江川三吉(のち八島姓)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。珍名で知られる。 9代小野川に入門。初名を小猫 三吉と名乗り1873年(明治6年)7月中相撲四段目が初見。1876年(明治9年)の紛擾で脱走、高越山谷五郎一派に参加し猫又 三吉と改めた。 1878年(明治11年)9月の和解本場所には姿を見せず翌1879年(明治12年)9月いきなり前頭筆頭に出た。1883年(明治16年)8月小結、1884年(明治17年)9月関脇、1886年(明治19年)11月31歳で大関となった。
安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安… 安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安政元年11月20日)- 1926年(大正15年)7月22日)は、明治から大正期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、千葉県長生郡茂原町長。旧姓・横堀、幼名・篤造、号・雲山。 上総国長柄郡茂原村(千葉県長柄郡茂原町茂原、長生郡茂原町茂原を経て現茂原市)で、横堀確三郎の三男として生まれる。漢学を修めた。その後、代々里正を務め、醤油・酢製造業の酢屋当主、茶園も経営していた先代安川寛三郎の養子となる。1879年(明治12年)養父の死去に伴い家督を相続し寛三郎を襲名した。 家業を受け継ぎ、紅茶をイギリスに輸出するなど茶業経営に励んだ。1884年(明治17年)茂原町用掛となり、千葉県勧業諮問会員、長柄上埴生茶業組合委員長などを務め、地域の茶業振興に尽力した。
十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉… 十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉永5年11月29日) - 1908年(明治41年)8月12日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。号に海山猟夫、尊農子。 涌谷伊達家家臣・十文字秀雄の長男として陸奥仙台藩領遠田郡涌谷(現涌谷町)に生まれる。家は代々亘理氏に仕え砲術を能くした。8歳にして小姓となり、のち砲術を習った。その後、1871年(明治4年)上京し箕作麟祥の塾に入り英学を修め、ついで海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に学んだ。津田仙の学農社編集長、広島県、宮城県各勧業課長、宮城郡長を歴任したのち、雑誌『農事新報』を発刊した。ほか仙台区長を務め、鉄砲販売業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮城県第3区から大成会所属で出馬し当選。
高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4… 高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。 1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。
五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永… 五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永2年11月25日)- 1905年(明治38年)7月8日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の官僚・政治家。衆議院議員。旧姓・佐々木、名・達之助。 肥前国杵島郡武雄(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣・佐々木家に生まれ、五十村平左エ門の養子となる。漢学を修めた。 明治5年1月(1872年2-3月)石鉄県十三等出仕となり、以後、司法省十二等出仕、司法少解部、判事・高知裁判所徳島支庁在勤、脇町区裁判所長、熊本県警部兼属、熊本警察署長兼監獄署長、山梨県収税長、愛媛県収税長、大分県参事官などを歴任。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙おいて佐賀県第三区から出馬して二位景暢と選挙戦を戦い当選し、衆議院議員を一期務めた。
2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月… 2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月8日(弘化3年11月22日) - 1916年(大正5年)5月20日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は吉次郎。 北前船主馬場九兵衛の二男として越中国新川郡東岩瀬村(富山県上新川郡東岩瀬村、東岩瀬町を経て現富山市)に生まれる。長男大次郎の病死により7代九兵衛(初代道久)の跡を継いだ。1881年(明治14年)北陸通船会社創設に資金援助し、北陸における小蒸気船、貨物蒸気船の導入を進めた。1885年(明治18年)上野から直江津間の鉄道が開通すると翌年、伏木の二上兵吉とともに直江津までの小蒸気船業の経営に当たる。
上野 景範(うえの かげのり、1845年1月8日(天保15年… 上野 景範(うえの かげのり、1845年1月8日(天保15年12月1日) - 1888年(明治21年)4月11日)は明治時代の日本の外交官。通称、敬助、敬介。13歳で長崎に赴き、まず蘭学、ついで英学を修めた。 薩摩国鹿児島郡出身。英学に明るく、明治維新後にハワイの元年者移民問題などに当たり、駐米・英・墺などの全権公使を歴任。後に元老院議官となった。趣味は油絵。明治6年(1873年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との修好条約締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。 天保15年(1844年)12月1日、薩摩国鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて唐通事・泰助と雪夫妻の長男として出生。
奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1… 奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1月8日 – 大正15年(1926年)10月13日)は、幕末から明治期にかけて活動した医師・海軍軍医。幕府の歩兵屯所附医師を経て、維新後に海軍医官として要職を歴任し、のち開業医として活動した。幼名は瓊太郎、のち省吾。幕末期には玄省(げんせい)を名乗り、明治初年に虎炳と改めた。 天保11年(1840年)1月8日、出羽国上山藩医・奥山玄仲(1809-1905)の長男として長崎に生まれる。父玄仲に従って江戸に出て、林復斎・安積艮斎・安井息軒らについて儒学を学び、語学面では当初父から、のち堀達之助から蘭語を学んだ。文久3年(1863年)9月、歩兵屯所附医師となり西丸下屯所に詰め、慶応元年(1865年)5月には歩兵屯所附御抱医師・富士見御宝蔵番格、慶応3年(1867年)5月には歩兵屯所附医師取締介に進んだ。
大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保… 和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保8年12月13日) - 1903年(明治36年)3月28日)は、会津兼定のうち11代目に相当する、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した刀工。加茂打ちと呼ばれる1869年(明治2年)から1874年(明治7年)までに越後加茂にて鍛刀した作品で知られ、1892年(明治25年)には皇太子に刀を献納する。銘は「陸奥国会津住兼元」「奥州会陽臣和泉守兼㝎」「会津刀匠和泉守兼㝎」「岩代国若松住和泉守兼㝎」「於新発田和泉守藤原兼㝎謹鍛」「大日本岩城国会津住兼㝎」「奥州會津住兼本」「和泉守兼定」「岩代國會津住兼定」。 1838年1月8日(天保8年12月13日)に会津若松浄光寺町に生まれる。
眞ノ宮 るい(まのみや るい、1月8日 - )は、宝塚歌劇団… 眞ノ宮 るい(まのみや るい、1月8日 - )は、宝塚歌劇団雪組に所属する男役。 神奈川県横浜市、日本女子大学附属高等学校出身。身長170cm。愛称は「るい」、「はいちゃん」、「うえんつ」。 2012年、宝塚音楽学校入学。 2014年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に100期生として入団。入団時の成績は21番。月組公演「宝塚をどり/明日への指針/TAKARAZUKA 花詩集100!!」で初舞台。 2015年、組まわりを経て雪組に配属。 2021年7月より2年間、TAKARAZUKA SKY STAGEの第6期スカイ・ナビゲーターズを務めた。
優雅(ゆうが、1月8日生)は、ハウステンボス歌劇団ブルーロー… 優雅(ゆうが、1月8日生)は、ハウステンボス歌劇団ブルーローズに所属している男役トップスター。元宝塚歌劇団月組男役。宝塚歌劇団時代の芸名及び別名は研 ルイス(けん ルイス)。
凛城 きら(りんじょう きら、1月8日生)は、宝塚歌劇団宙組… 凛城 きら(りんじょう きら、1月8日生)は、宝塚歌劇団宙組に所属する男役。
渡邉 唯(わたなべ ゆい、1月8日 - )は、日本の女性フリ… 渡邉 唯(わたなべ ゆい、1月8日 - )は、日本の女性フリーアナウンサーである。ボイスワークス所属。 北海道岩見沢市出身。藤女子大学文学部英語文化学科卒業。 元NHK札幌放送局のスポーツキャスターで、2015年から2019年まで『ほっとニュース北海道』のスポーツコーナーを担当していた。 2014年度ミス日本酒 北海道大会準優勝。 ニュース時事能力検定2級保持。 スポーツ観戦、プロレス観戦、音楽鑑賞、料理、ドラム、歌舞伎鑑賞が趣味。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。