具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5… 具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5月9日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。第2代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 忠清南道唐津郡あるいはソウル出身。20歳までに漢文を学び、普成専門学校法科卒、専修大学法学部修了(3年時に中退したという情報もある)。図們東興銀行監査役、大韓物産株式会社共同管理人、大韓独立促成国民会唐津支部副委員長、大韓国政会中央分科委員を経て、1950年の第2代総選挙で唐津郡選挙区から無所属で当選し、国会において外務委員、捕虜実情調査委員などを歴任した。
武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年5月9日 - 1… 武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年5月9日 - 1946年3月31日)は、日本の小説家。代表作に、「日本三文オペラ」「井原西鶴」「銀座八丁」「一の酉」などがある。長男は詩人の武田文章(1933-1998)、次男は河出書房の編集者の武田穎介(1935-2001)。
浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月… 浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月9日 - 1984年〈昭和59年〉4月27日)は、日本の宗教家。妙信講(現:冨士大石寺顕正会)の創立者。 1904年(明治37年)、愛知県西尾市に生まれ、1923年(大正12年)、19歳で上京する。1926年(昭和元年)12月、22歳の時に白須郁三に折伏されて日蓮正宗に入信し、妙光寺(東京都品川区)所属の信徒となった。 1936年(昭和11年)、白須郁三と共に妙光寺から妙光院(現在の妙国寺。東京都板橋区高島平)へと所属寺院を移り、信徒総代となった。その後再び妙光寺に移る。1942年には、妙光寺所属の法華講の一講中として「東京妙信講」を結成し、講頭に就任した。
荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)… 荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)5月9日 - 1983年11月2日)は、日本の英文学者、関西学院大学教授、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)教諭。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー研究の第一人者。 滋賀県彦根市生まれ。1928年、関西学院大学文学部英文学科卒業。青森県弘前市・東奥義塾を経て1930年、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)の英語教諭となる。1946年、関西学院専門部教授、1969年、同商学部教授を退職し神戸海星女子学院大学英文学科教授となる。1981年同大を退職。 1928年に太田晃子と結婚後、1男5女をもうける。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などの研究で知られる。
足利 惇氏(あしかが あつうじ、1901年〈明治34年〉5月… 足利 惇氏(あしかが あつうじ、1901年〈明治34年〉5月9日 - 1983年〈昭和58年〉11月2日)は、日本のインド・ペルシア学者。第5代東海大学学長。京都大学・東海大学名誉教授。文学博士(京都大学、1949年)。日本オリエント学会会長。 東京市本郷区駒込千駄木林町(現:東京都文京区千駄木)生まれ。インド学において業績を残すとともに日本に本格的なイラン学を導入した。東海大学付属図書館には『足利惇氏文庫』と冠して資料が所蔵されている。 関東公方系足利氏で旧喜連川藩家の足利子爵家当主。先代当主足利於菟丸と後妻ヒロの長男。前名・惇麿。妻は有馬頼寧の次女・澄。父の隠居に伴い、1935年(昭和10年)12月2日に子爵を襲爵した。
木下 半治(きのした はんじ、1900年5月9日 - 198… 木下 半治(きのした はんじ、1900年5月9日 - 1989年8月14日)は、日本の政治学者。右翼思想や日本の国家主義運動を研究。 兵庫県出身。東京帝国大学法学部卒。在学中新人会に入る。卒業後『無産者新聞』などに関わり、1942年読売新聞入社。戦後1954年「フランス国家主義運動史」で東大法学博士。愛知大学教授、東京教育大学教授、明治大学教授、理事。
上山 輝一(かみやま てるいち、1900年〈明治33年〉5月… 上山 輝一(かみやま てるいち、1900年〈明治33年〉5月9日 - 1982年〈昭和57年〉5月26日)は、日本の政治家。東京都中野区長、東京都議会議員(2期)を務めた。計理士、税理士。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 1900年現在の和歌山県有田市に生まれる。高千穂高等商業学校(現高千穂大学)第6回卒業。1955年4月以来、東京都議会議員に連続2回当選(日本民主党→自由民主党)。1963年3月21日に中野区長に就任。1967年3月に再選。区長を1963年3月22日から1971年3月27日まで務めた。その後1972年4月から1982年5月26日まで高千穂商科大学の理事を務めた。
柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日… 柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日 - 1991年(平成3年)12月29日)は、日本の鉄道・内務官僚、弁護士。官選鹿児島県知事。 愛知県出身。柴山重幸の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。鉄道省に入り鉄道局副参事となる。1924年、内務省に転じ復興局勤務となる。 以後、宮崎県事務官、埼玉県事務官、新潟県書記官・学務部長、茨城県書記官・経済部長、徳島県書記官・警察部長、山梨県書記官・総務部長、神奈川県書記官・総務部長、内務省勅任監査官などを歴任。 1943年4月、鹿児島県知事に就任。
2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治2… 2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治27年〉5月9日 - 1967年〈昭和42年〉9月28日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。群馬県前橋市長。初名・亮次。 のちに前橋市長を務める先代・江原桂三郎の次男として前橋市新町(現在の朝日町2丁目)に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、三菱合資会社銀行部(三菱銀行)に勤務する。東京電燈前橋支店勤務、群馬中央銀行調査部長、同行常務取締役、群馬県農工銀行取締役などを歴任。さらに群馬大同銀行(現・群馬銀行)常務取締役となった。1929年(昭和4年)に桂三郎の名を襲名。 1933年(昭和8年)12月24日、前橋市長に就任。
谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年… 谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年7月24日、旧姓:真殿)は、日本の陸上競技選手(短距離)・指導者。日本人では初めて100m走で10秒台の記録を出した人物である。1924年のパリオリンピックに出場。 岡山県和気郡伊里村(現在の備前市伊里)出身。 伊里尋常高等小学校(現在の備前市立伊里小学校)を卒業、後に明治大学に進学し、大学卒業後は鉄道省に入省した。 1917年の第5回日本陸上競技選手権大会男子100mで真殿三三五名義で出場し、12秒0で初優勝。その後、日本選手権では第10回大会から第12回大会まで男子100m三連覇を果たしている。 1924年にはパリオリンピックの日本代表に選ばれ、岡山県出身者で初の五輪代表となる。
鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月… 鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月9日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の詩人。東京都江東区白河出身。本名は佐太郎。 俳人であった内藤鳴雪の門人で鳴秋と号していた。小学校卒業後に商家で奉公し、その後、貿易会社に勤務し、20歳の頃に童話募集に応募し、入選した。清水かつらと共に雑誌(少年号・少女号)を刊行した。その中で『お山のお猿』『浜千鳥』などを発表した。のちに「日本の歌百選」に選定された『浜千鳥』は、1920年(大正8年)6月、鳴秋が友人であった桑山太市朗を訪問し、新潟の柏崎海岸から番神岬を散策した折に制作した。その後、出版社を起業したものの失敗に終わり、満州へ渡り彼の地で新聞社学芸部長となったが、敗戦後日本に引き揚げた。
梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 19… 梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 1976年5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍軍医中将。医学博士。 宮城県大崎市出身。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1914年、東京帝国大学医学部卒業。その後陸軍軍医学校を卒業し、東京帝国大学伝染病研究所で細菌学・血清学を学ぶ。1924年3月29日、論文「スパスカヤに於けるパラチフスB型菌性食中毒検索例 : 竝原因食(オムレツ)の菌毒汚染動機に関する実験的研究」で医学博士号取得。1939年、満州関東軍軍医部長。1940年、陸軍軍医総監。 731部隊を統括・監督する立場にあったことから戦後ソビエト連邦軍の捕虜となる。
駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7… 駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7月9日)は、動物学者。日本学士院会員。動物遺伝学、動物系統学、進化論を研究。 三毛猫にオスが少ないことを発見したことで知られる。 1886年、兵庫県姫路市に生まれる。旧姓・福田。東京高等師範学校卒業後、大阪府立富田林中学校で教諭を務めた。その後、東京帝国大学で動物学を学び、1917年(大正6年)に選科修了。コロンビア大学留学ののち、1925年(大正14年)京都帝国大学、東京帝大兼任教授、1947年(昭和22年)東大定年退官、1948年(昭和23年)学士院会員、1949年(昭和24年)国立遺伝学研究所部長。 1924年(大正13年)2月 東京大学 理学博士「Studies on two aberrant ctenophores, Coeloplana and Gastrodes(二種の異状なる櫛水母シロープラナ及びガストロデスの研究)」。
北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - … 北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - 1968年11月15日)は日本の政治家、銀行家。 1886年5月9日、京都で生まれる。子供の頃から身体が弱く、ほとんど病床で過ごしたため、幼年時代の遊びは全く知らず、友だちと外で駆け回ったこともなかった。青年期も健康にはならなかった上に、二人の兄が早く死んだ。また一人の兄は16歳で亡くなったので、自分がその年頃になると、ますます死の恐れを感じ、この不安を何とか解決したいと思い悩んだ。生家は浄土真宗だったので、ただ阿弥陀如来に頼れば極楽浄土に往生すると教えられたが、信じることができなかったという。 読書するうちにトルストイの作品に出会い、感動し、聖書を読み始めるようになった。
関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9… 関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9日 - 1958年〈昭和33年〉12月21日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲民政党)、前橋市長、群馬県会議員。俳人としても知られ、号は雨亭。 群馬県新田郡木崎町大字赤堀(現在の太田市新田赤堀町)に、父貞作、母いすの長男として生まれる。1900年(明治33年)群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)を卒業、1903年(明治36年)に旧制第二高等学校を卒業、1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学英法科を卒業した。文部省に入省するが、1年で退官。1909年(明治42年)、司法官試補となり、前橋地方裁判所に勤務した。やがて判事に昇進し、1911年(明治44年)には甲府地方裁判所に異動するが、1913年(大正2年)に退官した。
高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月2… 高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月24日)は日本の教育者。高木学園(現・英理女子学院高等学校)を創設し初代校長を務めた。 1881年(明治14年)5月9日、横浜区住吉町(現在の横浜市中区)に生まれる。実家は横浜桜木町の染物屋であった。七男六女の長女として幼い弟妹の世話をした。1896年、15歳のときに横浜市本町一丁目の町会所(のちの横浜市開港記念会館)で福沢諭吉の講演を聞いて「独立自尊」の言葉に感銘を受け、裁縫の技術で独立し、世に役立つ女性を育てたいという目標を持った。 父に頼みこんで東京裁縫女学校への入学を果たし、寄宿生活を送りながら本科二年、師範科一年の課程を修了し1904年7月に卒業した。
齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876… 齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876年5月9日) - 昭和37年(1962年)3月13日)は、日本の教育者、文化人。渥美半島における文化交流に寄与した。 愛知県渥美郡畠村(現・田原市福江町)に間瀬伴蔵、里うの次男として生まれる。1883年(明治16年)、7歳のときに母の実家、畠村の齋藤重左衛門の養子となる。 1899年(明治32年)に清田尋常小学校(現・田原市立清田小学校)の教員となり、1920年(大正9年)には亀山尋常小学校(現・田原市立亀山小学校)校長として1927年(昭和2年)の退職まで務めた。その後は、福江町助役や愛知県民生委員、亀山保育園長を務めた。 専吉は、文化人としても活躍し、俳句、短歌、郷土史、考古学にも興味を持ち、地域の歴史や民族に関する研究を行った。
横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(18… 横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(1871年5月9日) - 昭和13年(1938年)5月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、冶金学者。 上総国長柄郡茂原町(現在の千葉県茂原市)出身。共立学校、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。三菱合資会社高島炭鉱技師となったが、1896年(明治29年)に東京帝国大学工科大学助教授に就任した。翌年よりドイツに留学し、1899年(明治32年)に帰国した後は京都帝国大学理工科大学教授に迎えられた。1901年(明治34年)、工学博士号を受ける。 1913年(大正2年)に澤柳事件により京都帝国大学を辞したが、1917年(大正6年)に秋田鉱山専門学校校長に就き、1925年(大正14年)まで在職した。
中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年… 中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年3月20日) - 1932年(昭和7年)7月21日)は、日本の実業家、醸造家、政治家。衆議院議員。 筑前国宗像郡上西郷村(現:福岡県福津市)で、酒造家・中村清作の長男として生まれる。1889年(明治22年)県立中学校を卒業。日清戦争、日露戦争に従軍した。 上西郷村長、津屋崎町長、宗像郡会議員、同参事会員、福岡県会議員、同参事会員などを歴任。その他、福岡県地方森林会議員、全国酒造組合連合会評議員、宗像郡酒造組合長などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第9区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4… 衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4月9日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家。大分県農工銀行頭取等を歴任した。 1870年(明治3年)、大分県速見郡北由布村(現・由布市)に溝口家の四男として誕生。1891年(明治24年)に衞藤家に養子に入る。1913年(大正2年)、大分県農工銀行に入り、1922年(大正11年)に常務取締役、1926年(大正15年)には頭取を歴任した。また、佐伯土地、大分証券、豊後土地、大分電気工業の取締役も兼任している。さらに、公職としては、大分県農事講習所長、大分市会議員、大分県会議員を務めた。 この間、1925年(大正14年)に大湯線(現在の久大本線)の湯平駅 - 北由布駅(現在の由布院駅)間が開通したが、その際に由布院盆地内を大きくカーブして北由布駅を通る現ルートの実現に力を尽くし、後の由布院発展の礎となった。
森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)… 森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)- 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和前期の実業家、銀行家、政治家。衆議院議員。 大和国式上郡、のちの奈良県式上郡三輪村(式上郡三輪町、磯城郡三輪町、大三輪町を経て現桜井市)で、森五郎の長男として生れた。1886年(明治19年)上京して政治経済学を学んだ。1892年(明治25年)4月、アメリカ合衆国に留学し商業学を学び、さらにイギリスに留学して1899年(明治32年)に帰国した。 帰国後、実業界に入り、中央商業銀行頭取、工商貯蓄銀行取締役、日本製糸取締役、大和電気取締役、三輪素麺同業組合長などを務めた。また、郷土の将来有望な青年の育成に尽力し援助を行った。
丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月2… 丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月25日(1866年5月9日) - 昭和2年(1927年)7月9日)は、日本の詩人、小説家、実業家。 江戸青山生まれ。共立学校(現開成高等学校)、東京大学予備門を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中、尾崎紅葉らと硯友社創設に参画し、新体詩などを発表し、卒業後は文学を離れ、矢野二郎校長の勧めで教員となり、1892年からは県立神戸商業学校校長事務取扱を務めた。 のち、実業家に転じ、高田商会横浜支店長等を経て、独立し、イギリスのサン保険会社(英語版)の東京支店開設にあたり同支店支配人となり、同社の契約高や保険料収入を日本国内3位以内にまで育てた。
樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月… 樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月15日) - 1934年(昭和9年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。予備役編入後、光学関係の研究に従事し、特許権や実用新案権を取得した。 幕末の若松城郭内に生まれる。戊辰戦争後に再建された日新館の助教となり、陸軍教導団を経て陸軍士官学校入校。1889年(明治22年)に卒業した(旧11期)。同期生に奈良武次、石光真清がいる。陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第16連隊付となる。 日清戦争に出征後、歩兵第30連隊付大尉。1899年(明治32年)陸軍大学校に入校。樋口は陸士5期から7期を主体とした後輩たちと共に学び、1902年(明治35年)に卒業(16期)。
渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(18… 渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(1865年5月9日) - 昭和13年(1938年)2月9日)は、日本の文部官僚、教育者。 現在の岐阜県出身。1889年(明治22年)、帝国大学文科大学哲学科を卒業。文部省試補、視学官、参事官・書記官、参事官・図書審査官、図書監査官・図書課長心得などを歴任した後、第七高等学校造士館 (旧制)長に就任した。 その他、維新史料編纂会委員を務めた。
岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年… 岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1965年(昭和40年)6月6日)は、日本の銀行家。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身。静岡県多額納税者。スルガ銀行創設者。沼津市名誉市民。静岡県屈指の実業家であった。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)に名主の長男として生まれた。岡野弥平太の長男。1879年(明治12年)に集成舎(後の静岡県立沼津中学校、現在の静岡県立沼津東高等学校)に入学。1885年(明治18年)には静岡県立豆陽中学校(現・静岡県立下田高等学校)に入学したが、故郷は1884年(明治17年)9月の暴風による飢饉にあえいでおり、結局師範科を中退して故郷で農業に専念した。
石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治… 石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1933年(昭和8年)12月30日)は、大正から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員。大連市長。台湾から関東州へアヘン専売制を持ち込み巨万の富を築き大連のアヘン王と呼ばれた。 土佐国長岡郡八幡村(高知県長岡郡岡豊村八幡を経て、現在の南国市)に生まれる。東京大学予備門に学ぶ。渡清し、上海でフランス語、中国語を学ぶ。北京にも留学した。西郷隆盛大使附通訳官を経て、日清、日露両戦役に陸軍通訳として従軍する。ついで台湾総督府専売局翻訳官、関東州民政署満州利源調査委員、関東都督府事務嘱託を経て、大連市長に就任する。ほか、大連高等女学校や奉天日々新聞を経営する傍ら、アヘン製造販売業に従事し巨万の富を得た。
永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863… 永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863年5月9日(文久3年3月22日)- 1927年(昭和2年)3月10日)は、明治・大正期の実業家、政治家。浪速銀行頭取、貴族院勅選議員。 摂津国西成郡(後の大阪市南区高津町四番丁。現在の大阪市中央区高津)で、米穀商・永田仁左衛門の長男として生まれる。藤沢南岳の泊園書院(現在の関西大学)で漢籍を学んだ。その後、家業を廃し、1889年(明治22年)第1回大阪市会議員選挙で当選。その後、大阪府会議員にも選出された。 その後、大阪の経済発展の必要性を考え、1894年(明治27年)8月、大阪明治銀行の設立に際して取締役に就任。その後、大阪市中銀行の合同の計画を推進し、1898年(明治31年)に浪速銀行が設立されると常務取締役となり、1908年(明治41年)第3代頭取に就任し、1913年(大正2年)まで在任した。
舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久… 舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久元年3月30日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月1日)は、日本の医師、医学者(生理学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は医学博士(1908年)。 第三高等学校医学部教授、岡山医学専門学校教授、岡山医学専門学校校長事務取扱、岡山医科大学医学部教授などを歴任した。 1861年5月9日(旧暦文久元年3月30日)、武蔵国にて舟岡周介の長男として生まれた。周介は武士であったが、明治維新後は士族となった。英之助は医学の道を志し、帝国大学に進学し医科大学にて学んだ。当時の帝国大学は分科大学制を採用しており、学内に文科大学、法科大学、理科大学といった分科大学が設置されており、医科大学もその一つであった。
安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1… 安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 昭和9年(1934年)11月30日)は日本の武士(福岡藩士)、戦前の政治家、実業家。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年)1月13日、男爵授爵。勲三等瑞宝章。地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。号は撫松。
中西 新作(なかにし しんさく、1841年5月9日(天保11… 中西 新作(なかにし しんさく、1841年5月9日(天保11年4月8日) - 1911年(明治44年)11月17日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国天草郡宮地岳村(熊本県天草郡宮地岳村、本渡市を経て現天草市宮地岳町)出身。漢学を学ぶ。庄屋の家に生まれ、跡を継いだ。大阪府に出仕し、司法省に転じる。のち帰郷し、熊本裁判所判事補、宮地岳村長、同村会議員、天草郡連合町村会議員、熊本県会議員、所得税調査委員、天草郡会議員となる。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において熊本6区から憲政党公認で立候補して落選。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1903年の第8回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から無所属で立候補して初当選。
横山 意一郎(よこやま いいちろう、天保11年4月8日〈18… 横山 意一郎(よこやま いいちろう、天保11年4月8日〈1840年5月9日〉 - 1903年〈明治36年〉4月30日)は、日本の政治家、群馬県の大地主。群馬県会議員。族籍は群馬県平民。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)に、横山佐右衛門の長男として生まれる。嘉永3年(1850年)家督を相続する。大地主で、農業を経営する。素封家の主人で、宝生流謡曲を趣味とする。 明治初年太田町肝煎名主戸長、1884年(明治17年)4月から同年8月まで県会議員をつとめる。 1898年(明治31年)に隠居。菩提寺は太田市の受楽寺。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
松田 源五郎(まつだ げんごろう、1840年5月9日(天保1… 松田 源五郎(まつだ げんごろう、1840年5月9日(天保11年4月8日)- 1901年(明治34年)3月1日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、長崎市会議長。 肥前国彼杵郡、のちの長崎県長崎区(現長崎市)酒屋町の鶴野家で生まれ、貿易業の叔父・松田勝五郎の養子となる。私塾で学び、家業を継承した。 1872年(明治5年)永見伝三郎と共同で金融業・永見松田商会(立誠会社に改称)を設立し、のちに十八銀行に発展させ頭取に就任。その他、小野組長崎支店支配人、東京築地活版製造所取締役、長崎商法会議所会頭、九州鉄道取締役、長崎電灯(のち長崎電気瓦斯)取締役、長崎製氷取締役、九州倉庫取締役、香港ローラ麦粉取締役、長崎貯蓄銀行頭取、石川島造船所(現IHI)監査役、東洋浚渫社長などを務めた。
梅田 五月(うめだ さつき、1835年5月9日(天保6年4月… 梅田 五月(うめだ さつき、1835年5月9日(天保6年4月12日)- 1912年(明治45年)5月23日)は、幕末の武士(大聖寺藩士)、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、石川県会議長、石川県江沼郡大聖寺町長。幼名・又吉、八百吉。諱・巍。号・抜山、烟渚、煙渚。1869年(明治2年)以降、五月を名乗る。 加賀国江沼郡大聖寺鷹匠町(石川県江沼郡大聖寺町を経て現加賀市大聖寺鷹匠町)で、大聖寺藩士・梅田専次の息子として生まれた。藩学者・東方芝山から儒学を学ぶ。選抜され越前大野藩に遊学し 藩校洋学館に入り、剣術を内山介輔に、西洋砲術を小形元輔に、洋学を伊藤慎蔵から学び、蘭学七級となった。1860年(万延元年)に帰藩。
島 惟精(しま いせい、天保5年4月1日〈1834年5月9日… 島 惟精(しま いせい、天保5年4月1日〈1834年5月9日〉 - 1886年〈明治19年〉5月11日)は、幕末の府内藩士、明治期の内務官僚、政治家。初代岩手県令、元老院議官。通称は唯蔵。 豊後国大分郡千歳(現大分市)において延岡藩代官・阿南胖助の二男として生まれ、府内藩医・安東芳庵の養子となり、のち島姓を名乗った。佐藤龍之進に漢学を学び、広瀬淡窓、塩谷宕陰の塾に入る。さらに昌平黌で学ぶ。京都で志士と交わるなどして帰郷し、藩校遊焉館(大分市立荷揚町小学校の前身)の儒官となる。勤王論者として活動したため、幕府に捕えられ入獄した。その後、脱獄して藩政顧問となり、府内藩の藩論を勤皇に統一することに貢献した。
田辺 良顕(たなべ よしあき、1834年5月9日(天保5年4… 田辺 良顕(たなべ よしあき、1834年5月9日(天保5年4月1日)- 1897年(明治30年)2月8日)は、幕末の福井藩士、明治期の内務官僚。高知県知事、元老院議官、錦鶏間祗候。通称・平学、字・士順。 越前国足羽郡福井竹ヶ鼻町(現:福井市)で、福井藩士・田辺周吉の長男として生まれる。 明治4年4月(1871年5-6月)、由利公正の勧めに応え、福井藩兵を常備一番隊長として引率し上京、第一大区取締(警察)に就任。以後、東京府権典事・第四大区総長、羅卒総長、司法省警保寮大警視、権大警視、少警視などを歴任。 西南戦争勃発に伴い、1877年3月、警部巡査を引率し京都に向かい警備に従事。同年同月、巡査250名を引率し博多に向かい、同年4月、陸軍歩兵中佐兼少警視に任じられ、別働第三旅団参謀となり各地を転戦。
古東 領左衛門(ことう りょうざえもん、文政2年4月16日(… 古東 領左衛門(ことう りょうざえもん、文政2年4月16日(1819年5月9日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))は、幕末の淡路国三原郡津井村(現兵庫県南あわじ市津井)の庄屋・豪農で天誅組のパトロン、勤皇の志士。 古東家は琵琶湖の東岸に住む近江源氏の佐々木氏の流れを引く家系で、湖東が転訛して古東になったといわれている。領左衛門はその十一代目に当たり、父・萬次郎、母はとなりの湊里村の組頭庄屋菊川大兵衛の女。兄弟は男五人、女三人の八人。領左衛門は長子。幼名震太郎、諱は儒、字は高麻呂、衝山と号し、別に琴屋とも号した。琴屋とは古東家をもじったのである。 当時、古東家は田畑四十余町、山林七十町を有し、海運業も営む島内有数の富豪で、代々庄屋職に就いていた。