谷山治雄(たにやま はるお、1925年2月16日-2009年… 谷山治雄(たにやま はるお、1925年2月16日-2009年4月30日)は、税制学者。 東京生まれ。本名・三浦誠。中央大学卒業、大蔵省に入る。静岡大学講師などをへて、1962年に株式会社税制経営研究所を創立、所長。金沢大学講師。
2月16日生まれ:368人
谷山治雄(たにやま はるお、1925年2月16日-2009年… 谷山治雄(たにやま はるお、1925年2月16日-2009年4月30日)は、税制学者。 東京生まれ。本名・三浦誠。中央大学卒業、大蔵省に入る。静岡大学講師などをへて、1962年に株式会社税制経営研究所を創立、所長。金沢大学講師。
榎本 肇(えのもと はじめ、1925年(大正14年)2月16… 榎本 肇(えのもと はじめ、1925年(大正14年)2月16日 - 2010年(平成22年)5月13日)は、日本の逓信官僚、工学者。東京工業大学名誉教授。電子通信学会副会長。 神戸工業専門学校機械科を経て、1944年(昭和19年)東京工業大学航空機工学科へ入学する。のち電気工学科へ転科。1948年(昭和23年)卒業後、逓信省電波局に入省する。その後、1954年(昭和29年)国際電信電話研究所、1967年(昭和42年)東京工業大学教授、1985年(昭和60年)富士通常任顧問。同年電子通信学会副会長。芝浦工業大学教授を歴任した。 逓信省電波局では、主に雑音電波の統計的測定理論、フェージングの情報理論的研究、散乱伝搬の多重散乱機構に関する研究を行った。
福田 一郎(ふくだ いちろう、 1925年2月16日 - 2… 福田 一郎(ふくだ いちろう、 1925年2月16日 - 2003年9月4日)は日本の音楽評論家。 日本大学を1947年に卒業後、1954年から『スイングジャーナル』誌で海外のジャズ・アルバムの紹介記事等を担当する。大橋巨泉らとの親交の影響でジャズ・クラブにも出入りし、大橋の代理で司会を担当した事から、DJなど自ら発信する役割も担っていく。ジャズの市場に限界を感じていた所にプレスリーらの台頭を見てロック市場の可能性に着目し、ロック主体の取材・評論活動に切り替えていく。1960年代末からビートルズなどの洋楽をラジオパーソナリティとして紹介するなど、洋楽評論の草分けとして活躍。若い頃から月に1度のペースでニューヨークを訪れ、現地のアーティストを取材したりライブを見ていた。
佐藤 庄市郎(さとう しょういちろう、1924年2月16日 … 佐藤 庄市郎(さとう しょういちろう、1924年2月16日 - 2024年5月20日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。 福島中学校(現福島県立福島高等学校)、第一高等学校、東京大学法学部卒業。戦時中に海軍に取られ、戦後に復学して1950年に弁護士になる。翌1951年に外国人弁護士とともに事務所を開いた渉外弁護士の草分け。石油会社、商社の顧問弁護士などをし、日弁連事務総長、第一東京弁護士会長を務めた。1988年の日弁連会長選挙に立候補したが、敗れた。 1990年2月に最高裁判事に就任。 1994年2月に定年退官。TBSビデオ問題では当時の郵政省から特別調査員として招かれた。 1996年、勲一等瑞宝章受章。
平泉 洸(ひらいずみ あきら、1924年2月16日 - 19… 平泉 洸(ひらいずみ あきら、1924年2月16日 - 1995年10月7日)は、日本の歴史学者である。平泉寺白山神社宮司・玄成院第二十五世。金沢工業大学名誉教授。 東京に、平泉澄の長男として生れる。京華中学校・大阪高等学校を経て、1948年東京大学文学部国史学科卒業。福井県立勝山高等学校教諭、福井県立勝山精華高等学校(のちの福井県立勝山南高等学校)教諭などを歴任し、1972年から、金沢工業大学教授。1980年、平泉寺白山神社宮司。1994年、金沢工業大学を退官して、名誉教授となった。 金沢工業大学教授平泉隆房の父。
犬塚堯(犬塚尭、いぬづか ぎょう、1924年2月16日 - … 犬塚堯(犬塚尭、いぬづか ぎょう、1924年2月16日 - 1999年1月11日)は日本の詩人。「地球」「歴程」同人。 中国長春生まれ。佐賀県伊万里市で育つ。第一高等学校 (旧制)を経て東京大学法学部卒業後、1950年に朝日新聞社に入社。1959年、特派員として第4次南極観測隊に同行取材する。のち、印刷局長や九州朝日放送専務を歴任。 1969年、詩集『南極』により第19回H氏賞受賞。1984年、詩集『河畔の書』により第2回現代詩人賞受賞。
橋本 郁雄(はしもと いくお、1923年2月16日-2009… 橋本 郁雄(はしもと いくお、1923年2月16日-2009年1月22日)は、日本のドイツ語・ドイツ文学者。学習院大学名誉教授、一橋大学元教授。ドイツ語学およびドイツ語史が専門で、特に日本の中世ドイツ語研究においては中枢を占める学者だった。また、小学館の『独和大辞典』など、独和辞典の編纂に注力した。 鹿児島県鹿児島市皷川町出身。父は第七高等学校造士館 (旧制)漢文学教授の橋本精次。祖父の自聽(よりさと)は明治初期に東京から招かれ谷山小学校校長などを務めた人物。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1942年3月に第七高等学校造士館文科乙類を卒業。1944年に東京帝国大学文学部独文科を卒業したが、学年短縮や学徒出陣在隊中の卒業のため実際に大学で学ぶことができたのはわずか1年半だった。
佐野 泰彦(さの やすひこ、1923年2月16日 - 199… 佐野 泰彦(さの やすひこ、1923年2月16日 - 1996年12月5日)は、日本の歴史学者、ポルトガル語学者。 福岡県北九州市生まれ。父の死で叔父を頼って上京し東京・赤坂で育つ。東京帝国大学卒。ブラジルへ留学し、東京外国語大学ポルトガル語助教授、上智大学外国語学部助教授、教授、1992年定年、名誉教授。
美空 ひばり(みそら ひばり、1923年2月16日 - )は… 美空 ひばり(みそら ひばり、1923年2月16日 - )は、日本の昭和の戦前期の女優である。 東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区日暮里地域)生まれ。本名:高城富久子(結婚後、山本富久子)。松竹少女歌劇学校第5回卒業生として1938年に松竹歌劇団に入団。美空ひばりという芸名はこの入団のときからのもの。先輩に類似した名前の「御空ひばり」がいるが別人。同歌劇団では、小月冴子や並木路子、加藤治子(御舟京子)の一期後輩。幾野道子の一期先輩。初舞台は浅草・国際劇場。 1940年に大都映画に入社し、複数の映画に主演または準主演で出演した。代表的な出演映画は、『大陸は微笑む』(弥刀研二監督、1940年)、『時代の狼火』(大伴龍三監督、1941年)、『太閤への使者』(益田晴夫監督、1941年)。
大庭 健三(おおば けんぞう、1922年(大正11年)2月1… 大庭 健三(おおば けんぞう、1922年(大正11年)2月16日 - 2000年(平成12年)11月23日)は、日本の政治家。静岡県御殿場市長(3期)。位階は従五位。 静岡県出身。1942年、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)、1944年、東京商科大学(現・一橋大学)卒。卒業後は地元で有限会社いずみや(呉服商と家具商)を経営する。御殿場市商工会理事、御殿場市議会議員などを経て、1981年、御殿場市長に当選する。市長を2期務め、1989年に退任した。2000年に死去。死没日付をもって従七位から従五位に進階した。
天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年… 天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年7月24日)は、日本の俳優。本名は天都 敏(あまつ とし、旧姓:佐藤)。身長182cmの体格、ドスの利いた声、鋭い眼光などを活かし、映画・テレビドラマで悪役・敵役スターとして活躍した。宮城県桃生郡河南町(現・石巻市)出身。 両親および兄弟はすべて教員という一家に育つ。歌と水泳が得意な少年だったという。宮城県師範学校を卒業後、教職に就く。戦時中は海兵団で少年兵の教官の職にあった。1944年に結婚、婿養子となり姓を天都(あまつ)とした。戦後は教職から離れ、鎌倉の夫人の実家の工場を手伝い、水道工事などの仕事をしていた。戦後、教職を離れたのは、戦前と正反対の教育をすることはできないという理由であった。
三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年… 三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年6月22日)は、日本の実業家。八幡製鐵の初代社長を務めた三鬼隆の長男で、後身会社である新日本製鐵の会長や、日本経済団体連合会副会長を務めた。また、タレントの出川哲朗の外従父に当たる。 岩手県釜石市出身。官立新潟高等学校、京都帝国大学法学部を経て、戦時中の1943年に日本製鐵へ入社。過度経済力集中排除法による日本製鐵解体後は富士製鐵で秘書室長、総務部長など主に管理畑を経験した。 新日本製鐵発足後は、父・隆が八幡製鐵社長だった人脈を通じて社内融和に尽力。専務、副社長就任以降はプラザ合意による円高不況対策などに努め、高炉休止など合理化を推進した。
奥谷 禎一(おくたに ていいち、1920年(大正9年)2月1… 奥谷 禎一(おくたに ていいち、1920年(大正9年)2月16日 - 2011年(平成23年)10月3日)は日本の昆虫学者。神戸大学名誉教授。農学博士。 1920年2月16日、東京府に生まれる。 1943年9月に東京帝国大学農学部を卒業し、第9陸軍技術研究所に就職した。 1947年4月、教育研修所(1949年6月より組織改組で国立教育研究所、2001年1月より国立教育政策研究所)文部教官となる。 1951年11月に兵庫県立農科大学講師に就任。1953年2月に同大学の助教授、1969年4月の同大学の国立移管に伴い神戸大学農学部助教授、1971年4月に神戸大学農学部教授となる。この間、1961年5月に「日本産広腰亜目幼虫の分類学的研究」で北海道大学から農学博士号を取得する。
今井 源衛(いまい げんえ、1919年2月16日 - 200… 今井 源衛(いまい げんえ、1919年2月16日 - 2004年8月12日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(九州大学・論文博士・1971年)(学位論文「王朝文学の研究」)。九州大学名誉教授、梅光女学院大学名誉教授。1989年勲二等瑞宝章受章。 三重県四日市市に生まれる。1943年第一高等学校卒業、1947年東京大学国文科卒業、大学院進学、高校教師を経て、1953年清泉女子大学助教授、1956年九州大学助教授、1971年「王朝文学の研究」で、九州大学より文学博士の学位を取得、教授昇任。1978年文学部学部長、1982年定年退官、梅光女学院大学教授。1989年勲二等瑞宝章受章。 『源氏物語』をはじめ、王朝物語研究における一方の雄だが、日本古典のレズビアン物語とされる『我身にたどる姫君』の訳註を行ったり、論文「女の書く物語はレイプからはじまる」(『王朝の物語と漢詩文』収録)で、『源氏』などのセックスの多くは強姦であると論じて、三田村雅子らの反論を呼んだ、大胆さをもった研究者であった。
石田 治夫(いしだ はるお、1919年2月16日 - 202… 石田 治夫(いしだ はるお、1919年2月16日 - 2021年6月3日)は、日本の銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。 東京都出身。1940年に明治学院高等部を卒業。満鉄での勤務を経て、1953年に武蔵野銀行に転じ、1970年11月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1979年6月に専務を経て、1983年6月に頭取に就任。1987年6月に会長、1992年6月に取締役相談役を経て、1997年6月には相談役に就任。 1989年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2021年6月3日老衰のために死去。102歳没。
森村 國夫(もりむら くにお、1919年〈大正8年〉2月16… 森村 國夫(もりむら くにお、1919年〈大正8年〉2月16日 - 2010年〈平成22年〉11月15日)は、日本の経営者。エバラ食品工業の創業者。 群馬県佐波郡剛志村上武士(現・伊勢崎市境上武士)出身。織物業に従事する森村和一郎・志づの第5子(末子)として生まれる。幼少期に父の事業が倒産したことから、境町の借家に引っ越して境町尋常小学校に学んだ。のちに清水建設社長を務める吉野照蔵は小学校の同級であった。 1933年に上京し、兄の経営するソース製造販売事業に従事しながら町田報徳学舎の夜学で学ぶ。1940年に第14師団に入営し、独立歩兵第1連隊に配属され満洲に派遣された。1943年に除隊。 終戦直後には代用醤油の製造を手がけたこともあった。
堀内 俊夫(ほりうち としお、1918年2月16日 - 20… 堀内 俊夫(ほりうち としお、1918年2月16日 - 2009年10月26日)は、日本の政治家。環境庁長官(第19代)、参議院議員(3期)、奈良県天理市長(第3代)。 奈良県天理市生まれ。1938年、奈良師範学校(現奈良教育大学)専攻科卒業。 1966年、奈良県天理市長に初当選。天理市長在任中は近畿市長会会長も務める。1975年秋の褒章で県議会議員や市長として公共の福祉に奉仕し地方自治の発展に貢献したとして藍綬褒章受章。1976年、参議院奈良県選挙区補欠選挙に自由民主党公認で立候補し、当選。以後参議院議員を3期務める。1982年、参議院文教委員長に就任。1987年、竹下内閣で環境庁長官に任命される。
千代 賢治(ちしろ けんぢ、1918年2月16日 - 201… 千代 賢治(ちしろ けんぢ、1918年2月16日 - 2017年3月14日)は、日本の経営者。住友生命保険社長、会長を務めた。 鳥取県西伯郡西伯町(現南部町)出身。旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高等学校文科乙類を経て、1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年住友生命保険に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業し摩耶に配属された。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進み、海軍艦政本部付で終戦を迎えた。 1946年1月に終戦により復職。1963年1月に経理部長に就任し、人事部長、取締役、常務、専務を経て、1978年7月に副社長に就任し、翌年7月に社長に昇格した。
玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月1… 玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月16日 - 1997年7月26日)は、大韓民国の教授、実業家、政治家。第6代韓国国会議員。 平安南道順川生まれ、ソウルまたは慶尚南道統営出身。平壌公立中学校、山口高等学校文科、東京帝国大学法律学科卒。株式会社朝鮮ポンプ製作所重役、新興大学校・慶熙大学校法科大学教授、漢陽大学校政経大学講師、国家再建最高会議交逓委員会諮問委員、高等考試委員、民主共和党京畿第13区党委員長・国会対策委員、民主共和党所属の第6代国会議員を務めた。 1997年7月26日、持病によりソウル大病院で死去。享年79。
本間 啓(ほんま あきら、1916年2月16日 - 1984… 本間 啓(ほんま あきら、1916年2月16日 - 1984年2月28日)は、日本の造園学者。農学博士。技術士。 東京大学農学部旧農業生物学科園芸第二講座緑地学研究室で、都市緑化並びに緑化用植物の研究を進め、特に日本住宅公団住宅における一連の造園緑化手法や東京ベイエリアの調査に基づくエコロジカルコリドーのあり方についても臨海部の森づくりにおいて基礎的調査を実施、臨海埋立地における緑地植物の植栽に関する研究などに取り組んでいる。 東京生まれ。東京帝国大学農学部卒業後、内務省国土局に入る。東京都立園芸学校教諭を経て、建設省発足時に移籍。建設技官、総理府技官を経て、1959年東京大学農学部助教授。1951年、日本都市計画学会「容積地域に関する研究会」補助員。
三上 隆彦(みかみ たかひこ、1916年2月16日 - 19… 三上 隆彦(みかみ たかひこ、1916年2月16日 - 1988年9月27日)は、日本の洋画家。 東京都出身。明治大学卒業。1934年第10回白日会展に中学生で初入選する。独立美術協会展に14年間出品(恩師:中村節也画伯)。 明大時代はフェンシングや馬術の選手として活躍。(戦後は日本フェンシング協会理事長をつとめた。) その後、渡米しニューヨーク・ナショナル・アカデミー美術学校に学ぶ。欧米で日本の美術文化の紹介に努め、美術教育に当たる。馬の三上と言われる程、馬を描いて有名である。棟方志功は渡米した時に三上隆彦にお世話になったと自伝小説に記している。 1967年、日本へ帰国後1976年日輝会美術協会を創設、会長に就任して第1回日輝展を公募、総合美術展として上野の森美術館で旗揚げした。
小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月… 小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 9月15日)は、日本の実業家、政治家。日東製網社長、参議院議員(1期)、福山商工会議所会頭などを歴任した。位階は従四位。孫に衆議院議員の小林史明がいる。 広島県福山町(現・福山市西町)に生まれる。1931年(昭和6年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、三井不動産社長の坪井東、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成。
奥島 啓弐 (おくしま けいじ、1914年2月16日 - 2… 奥島 啓弐 (おくしま けいじ、1914年2月16日 - 2002年4月11日 )は、日本の工学者。京都大学名誉教授。摂南大学名誉教授。専門は生産工学、切削工学。工学博士(京都大学)(1949年)。京都府生まれ。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
北御門 二郎(きたみかど じろう、1913年2月16日 - … 北御門 二郎(きたみかど じろう、1913年2月16日 - 2004年7月17日)は日本のレフ・トルストイ専門の翻訳家・文学研究者、農場経営者、平和主義者。トルストイの平和思想に共鳴し、農業を営みながら彼の作品を翻訳した。良心的兵役拒否をしたことでも知られる。
中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年〈大正2年〉2月… 中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年〈大正2年〉2月16日 - 1983年〈昭和58年〉4月19日)は、日本の画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーター、人形作家。 妻は宝塚歌劇団元男役トップスターの葦原邦子。長女芙蓉、長男洲一、次男蒼二、次女すみれの二男二女があり、長男は画家。姪はシャンソン歌手の中原美紗緒。俳優・声優の加古臨王は孫。 先祖は物部姓中原氏といわれる。 幼少の時より絵や造形に才能を示し、18歳の時、趣味で作ったフランス人形が認められて東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友』の挿絵、口絵、表紙絵、付録等を手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。
渋谷 邦蔵(澁谷 邦蔵、しぶや くにぞう、1912年(明治4… 渋谷 邦蔵(澁谷 邦蔵、しぶや くにぞう、1912年(明治45年)2月16日 - 2002年(平成14年)2月14日)は、日本の地方政治家。旧清瀬町長から清瀬市への市制施行に伴って初代市長となり、36年間首長を務めた。位階は正五位。 東京府出身。埼玉県所沢市の所沢実業学校(現・埼玉県立所沢高等学校)を卒業。 1950年清瀬村議会議員(のち町制施行により同町議会議員)となり、同議長、町教育委員を務めた。 1959年5月、46歳で清瀬町長に就任。1970年に市制執行に伴い、初代市長となる。市制施行直前の『町報きよせ』5月15日号には以下の所信を記している。 1995年4月、82歳で政治家を引退し、星野繁に市長を譲った。
石丸 静雄(いしまる しずお、1912年2月16日 - 19… 石丸 静雄(いしまる しずお、1912年2月16日 - 1988年5月14日)は、日本のドイツ文学者、宇都宮大学名誉教授。 佐賀県神埼郡神埼町生まれ。1937年東京帝国大学独文科卒。1952年宇都宮大学教授、1975年定年退官、名誉教授。1988年、胃癌のため死去。 ドイツ・ロマン派を専門とした。
伊藤 眞次(いとう しんじ、1912年2月16日 - 200… 伊藤 眞次(いとう しんじ、1912年2月16日 - 2003年12月10日)は、三重県宇治山田市(現伊勢市)出身の北海道大学名誉教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐山 亮(さやま りょう、1911年2月16日 - 1945… 佐山 亮(さやま りょう、1911年2月16日 - 1945年)は、日本の俳優である。本名は板倉 與志雄(いたくら よしお)。戦前・戦中にかけて東宝映画東京撮影所、東宝映画の名脇役として活躍していたが、満34歳で戦病死している。 1911年(明治44年)2月16日、千葉県山武郡に生まれる。 千葉県立長生中学校(現在の千葉県立長生高等学校)を卒業後、東京美術学校(1952年廃止)を経て、太平洋美術学校(現在の太平洋美術会)に進学。1928年(昭和3年)4月、三ヶ年修了後は太平洋洋画会などの洋画研究所を転々とする傍ら、学生同士で新劇の劇団を組織して各座に出演していた。 1934年(昭和9年)11月、映画俳優を志し、松竹大船撮影所の開所に伴う俳優募集に応募したところ、佐山は第一候補者に挙げられ、1936年(昭和11年)に開校されて間もない松竹大船俳優学校に入学し、修業に励む。
熊谷 寛夫(くまがい ひろお、1911年2月16日 - 19… 熊谷 寛夫(くまがい ひろお、1911年2月16日 - 1977年11月5日)は、日本の物理学者。学位は、理学博士(1939年)。日本物理学会会長・日本学術会議委員を歴任。世界初の「可変エネルギーサイクロトロン」を完成させ、「高エネルギー物理学の父」と言われる。長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)生まれ。旧姓青木。1978年勲二等追叙。
千葉 早智子(ちば さちこ、1911年2月16日 - 199… 千葉 早智子(ちば さちこ、1911年2月16日 - 1993年10月22日)は、日本の元女優。PCL(後の東宝)の主演女優第1号。映画監督の成瀬巳喜男は元夫。広島県芦品郡新市町(現在の同県福山市)出身。本名:千葉 鶴子。 広島市立高等女学校(現・広島市立舟入高等学校)卒業。明眸、豊麗なマル顔全体が大輪咲きの花となって微笑みかけて来るような絢爛たる美貌と、育ちのいいお嬢さん然として品位に加え、幼児から邦楽、洋楽どちらにも親しんだ音楽的素養も深く、殊に箏は宮城道雄について本格的に学び、尺八の吉田晴風と組んでアメリカに演奏旅行(1931年~1932年)をしたこともあるという多彩な経歴の持ち主。 1933年、新映画社の『叫ぶアジア』で純情可憐な中国娘役で映画デビュー。
野瀬 正儀(のせ まさのり、1911年(明治44年)2月16… 野瀬 正儀(のせ まさのり、1911年(明治44年)2月16日 - 2002年(平成14年)7月17日)は、昭和から平成時代の土木工学者。実業家。電源開発副総裁。 兵庫県出身。1936年(昭和11年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、富士電力、日本発送電を経て、関西電力に入社する。 水力計画課長、建設部次長を経て、1954年(昭和29年)電源開発土木部次長に出向し、佐久間、御母衣ダムなどの建設にあたる。 1959年(昭和34年)関西電力へ移り黒四建設事務所長として黒四ダムを完成させる。のち同社支配人、常務、1971年(昭和46年)専務取締役を経て、1975年(昭和50年)電源開発副総裁、1983年(昭和58年)退任。
中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - … 中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - 1941年10月20日)は、日本の彫刻家。本名は、中村永男。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。宮大工の家系に生まれ、幼少のころから、宮大工・彫刻家の父七十郎(董斎)の下で木彫を学んだ。高等科卒業後、彫刻の道を志して上京し、木彫家の清水三重三に師事。のちに構造社を主宰した斎藤素巌に師事。1929年東京美術学校彫刻科塑像部選科(現・東京藝術大学美術学部彫刻科)入学。専ら木彫が多かったが次第に塑造作品へと移り、1933年在学中に「女の首」が帝展(現・日展)に初入選。当時は在学中の帝展出品はタブー視されており、父「七十郎」の名前の二文字を借りて出品した。
水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 198… 水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 1987年3月22日)は、日本の経営者。安田生命保険社長を務めた。 東京都出身。1922年に東京商科大学を卒業し、同年に安田銀行に入行。1959年5月に安田生命保険に転じ、常務、専務、副社長を経て、1969年に社長に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1987年3月22日、肺炎のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - … 細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - 1993年12月29日)は、日本のアメリカ文学者、アメリカ史学者。元立教大学教授。 横浜市生まれ。実業家の細入富重の長男として生まれる。1936年、立教大学英文科卒、1937年、カールトン大学文学部英文学科卒、ハーバード大学大学院文学研究科G.Chaucer博士課程修了。戦中は、清水幾太郎、宮城音弥とともに、海軍技術研究所の実験心理研究部の顧問を務めた。1940年に立教大学予科講師となり、1945年に同大学予科教授に昇格、1946年に立教大学アメリカ研究所理事に就任したほか、清水幾太郎、大河内一男らとともに、財団法人二十世紀研究所を設立、のち理事長となる。
石野 久男(いしの ひさお、1911年2月16日 - 200… 石野 久男(いしの ひさお、1911年2月16日 - 2007年3月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(10期)。 三重県志摩郡大王町(現志摩市)出身。1936年早稲田大学政治経済学部を卒業後、高速機関工業(株)を経て、日立製作所に入社。戦後、同社水戸工場長秘書を務めていた時に労組結成に参加し、日立製作所水戸工場社員組合執行委員長、日立製作所労働組合総連合中央執行委員長を歴任した後、1947年第23回衆議院議員総選挙に旧茨城2区から日本社会党公認で立候補し当選する。以後、当選10回。 初当選から間もなく芦田内閣の予算案に反対して除名となり黒田寿男、岡田春夫、松谷天光光らとともに労働者農民党を結成。
長澤 實導(ながさわ じつどう、1910年(明治43年)2月… 長澤 實導(ながさわ じつどう、1910年(明治43年)2月16日 - 1968年(昭和43年)12月20日)は、日本の仏教学者。大正大学教授。真言宗智山派満福寺第29世。権大僧正。 1910年、愛知県名古屋市中区の商家・藤田家に生まれる。幼名、清比古。1923年(大正12年)、故あって同市同区の福生院(袋町お聖天)松平實亮の室に入る。1924年(大正13年)、師に随い受戒得度、僧名實導となる。1925年(大正14年)、旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学。仏門の徒弟の身ながら、師の許しのもと高校野球に専念、甲子園を目指すも愛知県予選の決勝で敗れる。 1928年(昭和3年)、熱田中学を卒業し宗立大学智山専門学校本科(現・大正大学)に進学。
九重 京司(ここのえ きょうじ、1910年2月16日 - 1… 九重 京司(ここのえ きょうじ、1910年2月16日 - 1985年7月2日)は、日本の俳優、著述家(性神研究家)である。元助監督、元脚本家であり、小津安二郎の『東京の女』および『非常線の女』(1933年)に見習助監督としての記録がある。本名平塚 廣雄(ひらつか ひろお)。東京府知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員を歴任した平塚廣義は実父である。 1910年(明治43年)2月16日、長崎県長崎市に生まれる。父・平塚広義(1875年 - 1948年)は、当時は内務省の官僚であり、長男の廣雄(九重京司)は父が各地の知事を務めるたびに各地を転々とし、廣雄が15歳のころ、1925年(大正14年)9月16日には東京府知事に就任している。
三澤 功博(みさわ こうはく、1910年〈明治43年〉2月1… 三澤 功博(みさわ こうはく、1910年〈明治43年〉2月16日 - 1998年〈平成10年〉6月22日)は、昭和から平成初期の政治家。長野県上伊那郡西春近村長、伊那市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県上伊那郡西箕輪村(現・伊那市)で、三澤舜平、はく の長男として生まれた。1927年(昭和2年)上伊那農業学校(現・長野県上伊那農業高等学校)卒業。西春近村議会議員となり2期在任し、1954年(昭和29年)同議長となる。1960年(昭和35年)2月に西春近村長に就任し、1965年(昭和40年)3月まで2期在任した。西春近村の伊那市編入後に、伊那市議会議員を1期務めた。 1970年(昭和45年)4月、伊那市長選挙に自民党公認で現職の田畑五郎司を破って当選した。
富士川 英郎(ふじかわ ひでお、1909年2月16日 - 2… 富士川 英郎(ふじかわ ひでお、1909年2月16日 - 2003年2月10日)は、日本のドイツ文学者・比較文学者、東京大学名誉教授。 1909年、東京で生まれた。父・富士川游は医師で医学史家。神奈川県立湘南中学校、旧制広島高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1932年に卒業。戦前、戦中は雑誌『四季』、『批評』などに寄稿。 1936年、第六高等学校講師となり岡山に住んだ。1938年、長男富士川義之が誕生。1943年、佐賀高等学校教授を命じられた。 1946年、九州帝国大学講師に就いた。1949年に新制発足した東京大学教養学部助教授となり、1956年に教授昇格。大学ではドイツ文学、比較文学を講じ、1961年からは比較文学比較文化研究室主任教授を務めた。
梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 199… 梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 1991年2月19日)は、日本の外科医。消化器外科の権威として知られた。岡山県出身。 1909年、岡山県総社市生まれ。岡山市にある第六高等学校を卒業、1932年、東京帝国大学医学部を卒業、塩田広重教授の第二外科に入局。1939年に癌研究会康楽病院(戦後、付属病院に改称)外科に異動。当時の外科部長の久留勝医師(のちに金沢大教授、大阪大学教授、国立がんセンター病院長)の指導を受け、2年後に久留のあとをついで、外科部長に昇格。胃がんを中心に乳がん、大腸がん手術に取り組んだ。1949年に日本で初めて膵頭十二指腸切除を行い、成功させた。また1965年には、門脈合併切除を伴う肝葉切除術を世界で初めて成功させた。
桂 珖淳(ケ・グァンスン、朝鮮語: 계광순、1909年2月1… 桂 珖淳(ケ・グァンスン、朝鮮語: 계광순、1909年2月16日 - 1990年3月19日)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、警視、韓国の政治家、実業家。第4・5・6代韓国国会議員。本貫は遂安桂氏。 平安北道宣川郡に生まれた。1931年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、翌年に高等文官試験行政科に合格した。 1931年に春川郡庶務課・江原道内務部地方課勤務、1932年に淮陽郡庶務係勤務、1933年に江原道警務課勤務、1934年に平康郡守・坡州郡守、1936年に咸鏡南道警察部保安課長警視、1937年に拓務省殖産局事務官、1940年に朝鮮総督府学務局社会教育課長、同年に国民総力朝鮮連盟参事、1943年に江原道内務部長、1944年に平安北道内務部長、同年に朝鮮勤労動員援護会平安北道支部理事を歴任した。
菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 198… 菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 1988年7月13日)は日本の工学者。工学博士。 国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。 鳥取県米子市米原出身。 福米小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て推薦で大阪高等工業学校に入学するが、同校が1929年に大学に昇格したのにともない、彼もまた大学に進学して 1932年に卒業、鉄道省への入省が決まっていたがあまりに成績が優秀ということで、そのまま講師として残った。 1933年大阪帝国大学工学部専任講師に迎えられると、電子顕微鏡の研究一筋に打ち込み、1940年、国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。倍率一万倍、今から見れば幼稚であるが当時としては、驚くべき性能であった。
宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日… 宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日 - 1985年〈昭和60年〉4月22日)は、日本の英語学者、詩人、華族。爵位は伯爵。旧姓は黒田(くろだ)。麗澤大学名誉教授。李王家徳恵翁主の夫。宗氏第37代当主。 貴族院議員、麗澤大学学監、学校法人廣池学園常務理事などを歴任した。 東京府東京市四谷区伝馬町新一丁目(現在の東京都新宿区四谷二丁目)にて、父・黒田和志(よりゆき、対馬府中藩藩主宗義和六男)、母・鏻子(れいこ、黒田直和の娘)の末子(四男)として生まれる。母の実家である黒田家は上総久留里藩の旧藩主の家柄。父和志は対馬藩の旧藩主宗重正の実弟で貴族院議員を務めていた。1934年にエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世の甥アラヤ・アベベ皇太子が日本人妻(貴族)を公募した際、妃候補として手を挙げた黒田雅子は武志の姪にあたる。
岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - … 岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - 1976年3月4日)は、日本の英文学・西洋古典学研究者、慶應義塾大学名誉教授。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。慶大教授、1974年定年、名誉教授。戸板女子短期大学教授。妻・さくら子は太田秀穂の次女。
小川 善吉(おがわ ぜんきち、明治40年(1907年)2月1… 小川 善吉(おがわ ぜんきち、明治40年(1907年)2月16日 - 平成9年(1997年)1月28日 )は、日本の裁判官。横浜地裁所長。早稲田大学講師、司法試験委員(商法)を務めた。位階は正三位。勲二等旭日重光章。 横浜銀行取締役会長小川是、東京ガス専務小川明良の実父。 三重県員弁郡梅戸井村出身。順吉の次男。 昭和7年(1932年)11月高等試験司法科合格。昭和8年(1933年)3月東京帝国大学法学部卒業。昭和9年(1934年)12月判事に任官。司法事務局同書記官、最高裁事務総局総務局第一課長を経て昭和24年(1949年)6月東京地裁判事。1977年春の叙勲で勲二等旭日重光章を受章。1997年死去。
横山 フク(よこやま ふく、1907年〈明治40年〉2月16… 横山 フク(よこやま ふく、1907年〈明治40年〉2月16日 - 1991年〈平成3年〉11月4日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 東京府東京市神田区須田町(現千代田区)生まれ。東京府第一高等女学校卒業、日本大学法学部(夜間)卒業。 職業婦人になるため三省堂に勤務しながら夜は速記塾で学んだ。1927年、東京府産婆会書記になり、その縁で1932年に産婆の資格をとり、板橋で開業。 1947年板橋区議会議員に当選、1950年の第2回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補したが、落選。1953年の第3回参議院議員通常選挙全国区に自由党公認で初当選。以後連続3期当選。 1955年、日本看護協会助産婦部会長として、国際看護師協会加盟に絡み、日本助産婦会を設立、初代会長に就任。
山本 時男(やまもと ときお、1906年2月16日 - 19… 山本 時男(やまもと ときお、1906年2月16日 - 1977年8月5日)は、日本の生物学者。名古屋大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学、1936年)(学位論文「目高早期胚の律動性運動に関する研究」)。秋田県出身。祖父は秋田における自由民権運動の中心人物であった山本庄司、叔父(父時宜の弟)は砂防・植林技師の山本徳三郎。 メダカを主要な研究材料として選び、受精生理学、発生学を中心に多くの業績をあげ、受精波説を提唱した。1945年5月14日、第二次世界大戦の名古屋大空襲によって教室は全焼し、ほとんどすべての研究資料を失った。しかし、敗戦後、屈することなくメダカを用いて性分化の研究に新たに取り組んだ。
西川 昌夫(にしかわ まさお、1906年(明治39年)2月1… 西川 昌夫(にしかわ まさお、1906年(明治39年)2月16日 - 1992年(平成4年)4月21日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県出身。1929年(昭和4年)東京商科大学を卒業した。 西川製糸常務取締役、西川工業専務取締役、東京紡績専務取締役、高木製糸専務取締役、花輪製糸専務取締役、昭和町議会議員(2期)、東京府製糸業組合副組合長、全国製糸業組合連合会評議員、昭和町農業会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で東京都地方区から日本自由党公認で出馬して当選し(補欠、任期3年)、参議院議員に1期在任した。 その他、西川工業代表取締役、西川総業会長、東亜産業専務取締役、多摩川製作所社長、東京復興産業代表取締役、南州肥料監査役、東京商工会議所議員、三多摩工業連合会長、立川専門学校(のち東京都立立川短期大学)理事、日本獣医畜産専門学校(現日本獣医生命科学大学)理事、昭島農業協同組合長、東京都全国共済農業協同組合連合会副会長、東京都経済農業協同組合連合会理事などを務めた。
崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、190… 崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、1906年2月16日または1907年 - 1973年9月)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の実業家、政治家。烏山面(現・烏山市)面長、第3代韓国国会議員を歴任した。本貫は全州崔氏(朝鮮語版)。 京畿道華城郡出身。早稲田大学政治科卒。大成学校教員を経て、解放後は大同青年団烏山面団長、大韓青年団(朝鮮語版)烏山面団長・華城郡団長・中央総本部中央執行委員、烏山商事常務理事・監事、烏山中学財団理事長、烏山面長、自由党華城乙区党委員長、第3代民議員を務めた。 1957年、贓物を横領した疑いで徐寅洪議員の随行員2名は警察の取り調べを受けたが、当初は崔の随行員という虚偽な陳述をした。