坂根 哲夫(さかね てつお、1911年 <明治44年> 3月… 坂根 哲夫(さかね てつお、1911年 <明治44年> 3月18日 - 2005年 <平成17年> 2月15日)は、日本の公取官僚。元公正取引委員会事務局長。退官後、日鐵海洋工事代表取締役社長、新日本製鐵参与等。 山口県小野田市出身。1931年山口高等商業学校(現山口大学)卒業。1934年に東京商科大学(現一橋大学)学部卒業後、猪谷善一研究室に勤務。1937年に外務省入省(調査部)。1943年大使館調査官、叙高等官六等。大東亜省調査官を経て、1945年に外務省に復帰(総務局総務課)。 1947年の公正取引委員会創立時から同事務局に入り、外務事務官を免ぜられ、総理府事務官、叙二級。1949年公正取引委員会事務局調査部長心得。
内藤 利紀(ないとう としのり、1910年(明治43年)3月… 内藤 利紀(ないとう としのり、1910年(明治43年)3月18日 - 1983年(昭和58年)4月10日)は、日本の政治家。東京都保谷市(現・西東京市)長(2期)。 福島県出身。1934年日本大学法文学部法律科を卒業。卒業後は逓信省に入り、簡易保険局書記となる。1951年保谷町議会議員となり、のち市制施行で保谷市議会議員となる。1969年保谷市長に当選。市長就任後は小学校や保育園、児童館の建設、休日診療所の開設、市街化区域及び市街化調整区域の決定、市の木を「ケヤキ」、市の花を「サザンカ」に決定した。ほか、1977年に市長を退任するまで教育や福祉の各施設、都市計画や環境整備の拡充に力を尽くした。
戸崎 誠喜(とざき せいき、1910年(明治43年)3月18… 戸崎 誠喜(とざき せいき、1910年(明治43年)3月18日 - 2006年(平成18年)7月3日)は、日本の実業家、伊藤忠商事社長・会長を歴任。 1910年(明治43年)熊本市新町に末吉の長男として生まれる。1934年(昭和9年)東京商科大学(現 一橋大学)卒、伊藤忠商事へ入社。繊維製品担当として大阪船場で活動。1939年(昭和14年)オーストラリア駐在。1941年(昭和16年)8月帰国。1945年(昭和20年)ハノイ支店長代理。1947年(昭和22年)福岡支店。1948年(昭和23年)8月東京支店繊維課長、穀物部長代理、東京支店長代理。1952年(昭和27年)米国ポートランド駐在。 1954年(昭和29年)伊藤忠アメリカ社長兼ニューヨーク事務所長。
小野 巡(おの めぐる、1910年(明治43年)3月18日 … 小野 巡(おの めぐる、1910年(明治43年)3月18日 - 2009年(平成21年)6月22日 )は、山梨県甲府市出身の元・歌手。本名は章高。妻は元・歌手の大宮小夜子。 東京・新宿の淀橋署の巡査だったが、大久保の銭湯で藤原義江の「鉾をおさめて」を唄っていたところを作曲家細田義勝にスカウトされる。当時、警察官は5年の奉職という規定があったため神経衰弱という理由で退職した。他にも、巡査から歌手になった人物にキングレコードの筑波高がいる。 1935年(昭和10年)にビクターレコードから「祖国の護り」でデビュー。芸名の小野巡というのは、巡査の巡からとられた。1936年(昭和11年)に「守備兵ぶし」がヒット。
川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年… 川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年)は、日本近代文学者、早稲田大学名誉教授。 長崎県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。78年定年退任。
鈴木 恭二(すずき きょうじ、1909年3月18日 - 19… 鈴木 恭二(すずき きょうじ、1909年3月18日 - 1998年5月3日)は、日本の実業家。味の素創業家三代目鈴木三郎助の娘婿で、同社代表取締役社長を務めた。京都の政財界に君臨した田中源太郎の孫。 田中源太郎の長男・一馬(貴族院議員・京都織物株式会社会長)の子として京都市に生まれる。東京帝国大学法学部政治科卒業後、第一銀行(現みずほ銀行)入行。1938年鈴木商店(現味の素)入社。1948年取締役に昇格。1949年常務取締役。1959年副社長。1965年から第5代社長務め、「大企業病」の打破を訴え、組織改革などにあたった。1968年藍綬褒章を受章。1973年会長に就任。1975年監査役。次女の睦子はヒゲタ醤油代表の浜口勝久(12代浜口吉右衛門)に嫁ぐ。
田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1… 田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1972年10月16日)は、日本の実業家、元サッカー選手、サッカー指導者。大阪府出身。1972年勲三等瑞宝章。 田辺製薬株式会社(現・田辺ファーマ株式会社)代表取締役社長、代表取締役会長を歴任した。
山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こうう… 山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日)は、日本の実業家(日本油脂常務、東京顕微鏡院理事長)、禅指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。 1907年3月18日、山田脩(二本松町長・二本松製糸会社副社長)の次男として福島県二本松市に生まれる。 第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格。1930年に卒業。 千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医の山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。
五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 19… 五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 1978年3月29日)は日本の理学者。 熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、九州帝国大学臨時教員養成所、大阪帝国大学理学部卒業。 宮崎県立延岡高等女学校、熊本県立八代高等女学校教諭などを経て、奈良女子高等師範学校教諭となる。 1949年(昭和24年)、私立暁女子短期大学学長、奈良女子大学教授となり、1953年(昭和28年)に理学部長となる。 1960年(昭和35年)に3度目の理学部長に就任した。1965年(昭和40年)に奈良女子大学長に就任した。 また、大阪帝国大学から理学博士号を授与されている。
森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977… 森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977年6月24日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手・監督・実業家。
本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 200… 本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 2001年2月19日)は、日本の芸能研究者。早稲田大学名誉教授。 福島県本宮町(現・本宮市)生まれ。1929年早稲田大学文学部英文科卒業。宮城県立石巻中学校教諭、1943年『山伏神楽・田楽』『能及狂言考』で藝能学会賞受賞、1949年早稲田大学付属高等学院教諭・同大学文学部講師(-1960年)、1950年文化財保護審議会専門委員(-1986年)、1954年『霜月神楽之研究』で芸術選奨文部大臣賞受賞、東京都文化財専門委員(-1974年)、1960年早稲田大学教育学部教授、「神楽の研究」で早大文学博士、1967年紫綬褒章受章、1971年日本民俗芸能協会会長、1972年河北文化賞受賞、1973年早稲田大学大隈記念学術褒章、1975年『日本の民俗芸能』全5巻で再度芸術選奨文部大臣賞受賞、1976年勲三等瑞宝章受章、早大を定年退職、成城大学講師(-1979年)、1981年日本口承文芸学会会長(-1983年)、1987年民俗芸能協会名誉会長、1990年芸能学会会長(-1992年)、1991年伝統文化ポーラ大賞、1992年『沖縄の祭と芸能』で柳田賞、1995年文化功労者。
沢 宏靱(さわ こうじん、明治38年(1905年)3月18日… 沢 宏靱(さわ こうじん、明治38年(1905年)3月18日 - 昭和57年(1982年)9月24日)は、日本画家、秋野不矩と結婚するが後に離婚。日本画団体「創造美術」設立に関与した。 沢宏靱は、明治38年(1905年)3月18日に滋賀県坂田郡長浜町神戸(現滋賀県長浜市元浜町)で、洋品雑貨商の父喜代吉と母民の次男として生まれ、日露支(ひろし)と名付けられた。大正9年(1920年)に、京都画壇の重鎮西山翠嶂の内弟子となり、東京の美術展での入選を目指し大正13年(1924年)上京し、昭和2年(1927年)に初めて帝展(現日展)に出展するが落選した。京都に戻り、西山翠嶂が主催する画塾『青甲社』に入塾し秋野不矩と出会う。
町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不… 町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ場設計者。造園技術者。 1905年(明治38年)大阪府に生まれる。東京農業大学林学科に入学し造園研究を行う。1924年(大正14年)にゴルフ場設計者であるチャールズ・ヒュー・アリソンに師事する機会に恵まれ、東京ゴルフ倶楽部のコース造成現場の担当者となる。1929年(昭和4年)東京ゴルフ倶楽部の責任者。1934年(昭和9年)宮内省に入庁。内匠寮に所属し、当時、吹上御所に存在したゴルフコースの管理を担ったと見られている。 第二次世界大戦後は再び民間に転じ、1949年(昭和24年)宝塚ゴルフ倶楽部コース造成担当に就任。1951年(昭和31年)加古川ゴルフ倶楽部取締支配人。
泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 195… 泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 1959年4月9日 )は、日本の政治家、詩人、教育者。名瀬市長(1期)。 鹿児島県大島郡伊仙村生まれ。1924年3月、鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒業。卒業後は、小学校の教員として鹿児島と東京の学校を転々とした。1931年、日本大学専門部国文科中退。 1950年8月、奄美大島社会民主党を結成し、書記長、中央執行委員長を歴任した。同年、群島議会議員選挙に同党公認で立候補したが、次点で落選した。1951年2月、奄美大島復帰協議会を結成して、議長となった。同年8月1日から5日まで日本復帰の断食祈願を行った。その後、奄美各地で決起集会が開かれ、参加者が24時間の断食を行うなどの広がりを見せた。
川崎 プッペ(かわさき ぷっぺ、1905年3月18日 – 1… 川崎 プッペ(かわさき ぷっぺ、1905年3月18日 – 1978年3月30日)は、日本の人形作家。本名は、川崎恒夫。文明堂のCMで用いられるマリオネットの制作者で知られる。 福島県白河市生まれ。1920年、東京府立工芸学校に入学し、陽咸二に彫刻を学ぶ。1933年、伊東屋での第1回フランス人形展で特選となる。1937年、同展は「すみれ人形展」と改称され、自らの制作の人形を発表し続けた。1940年、人形劇団「劇団国民人形劇」を主宰し、全国を慰問してまわった。戦後の1946年、人形劇団くるみ座設立に参加した。また、自ら「のすみれ会」を主宰し、人形制作の指導を行った。1976年10月、のすみれ会第11回展において、「創作人形五十五年川崎プッペ人形展」が開かれた。
山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月1… 山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月18日 - 1983年(昭和58年)10月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県吉備郡総社町(現総社市)で、米穀問屋・山崎重の長男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1931年(昭和6年)慶應義塾大学政治学科を卒業した。名古屋市において製陶会社で勤務したり木材関係貿易に従事した。1944年(昭和19年)に帰郷し会社経営を行う。 1948年(昭和23年)初の公選制による岡山県教育委員に選出され、1949年(昭和24年)副委員長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で岡山県第2区から出馬して初当選。
吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 -… 吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者、京都大学名誉教授。
荻野 三七彦 (おぎの みなひこ、1904年3月18日 - … 荻野 三七彦 (おぎの みなひこ、1904年3月18日 - 1992年8月12日)は、日本古文書学者。早稲田大学名誉教授。 1904年、文化財保護行政の荻野仲三郎の次男として東京市本郷区(現・東京都文京区)に生まれる。1929年、早稲田大学文学部史学科卒業。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託、1948年「聖徳太子伝古今目録抄の基礎的研究」で早稲田大学文学博士。1935年早稲田大学文学部講師、1942年助教授、1946年教授、1952年教務部長、1968年早稲田大学理事、1970年図書館長を歴任。1974年定年退職、名誉教授。1992年、死去。大学外では、聖徳太子奉讃会理事、永青文庫理事を務めた。 古文書学を確立し、日本古文書学会の設立に尽力した人物である。
荒尾 興功(あらお おきかつ、1902年(明治35年)3月1… 荒尾 興功(あらお おきかつ、1902年(明治35年)3月18日 - 1974年(昭和49年)8月22日)は、日本の陸軍軍人、官僚。最終階級は陸軍大佐。 高知県出身。荒尾大吉海軍大尉の長男として生まれる。 横須賀中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1923年(大正12年)7月、陸軍士官学校(第35期)を卒業。 同年10月、陸軍少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を優等で卒業した。 1931年(昭和6年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(徴募課)を経て、1934年(昭和9年)11月からソ連駐在。 1936年(昭和11年)3月から1937年(昭和12年)5月までポーランド公使館附武官補佐官に在任。
根井 三郎(ねい さぶろう、1902年〈明治35年〉3月18… 根井 三郎(ねい さぶろう、1902年〈明治35年〉3月18日 - 1992年〈平成4年〉3月31日)は、日本の外交官、法務官僚。杉原千畝が発行した通称「命のビザ」を利用してウラジオストクへ逃れてきたユダヤ難民に対して、在ウラジオストク総領事代理として外務省の訓令に抗議し日本行の船に乗船許可を与えた人物として知られる。2017年以降に、彼自身も命のビザ(根井ビザ)を発行していたことも判明した。 1902年(明治35年)、宮崎県宮崎郡廣瀬村福島(現在の宮崎市佐土原町)出身。1908年(明治41年)、広瀬尋常高等小学校入学、同校尋常科(現在の宮崎市立広瀬小学校)を卒業する。1916年(大正5年)、長崎県立中学玖島学館に入学。
橋井 真(はしい まこと、1902年3月18日 - 1977… 橋井 真(はしい まこと、1902年3月18日 - 1977年11月11日)は、日本の商工官僚。
月形 龍之介(つきがた りゅうのすけ、1902年(明治35年… 月形 龍之介(つきがた りゅうのすけ、1902年(明治35年)3月18日 - 1970年(昭和45年)8月30日)は、日本の俳優。本名は門田 潔人(もんでん きよと)。俳優の月形哲之介は息子。 戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』などの名作に主演した。戦後は渋みと風格のある脇役となり、悪役も演じた。戦後の当たり役は水戸光圀で、14本のシリーズ作品がある。晩年はテレビドラマにも出演。生涯に出演した映画は約500本以上に上る。
岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - … 岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - 1982年10月17日)は日本の教育家。戦後新制中学発足時に活躍した。「火の国旅情」を作詞作曲した岩代浩一は長男、現在活躍中の作曲家岩代太郎は直系の孫(浩一の長男)で、元日本テレビアナウンサーで現フリーアナウンサーの松本志のぶは太郎の妻にあたる。 1901年、熊本県南阿蘇の素封家の二男に生まれた。父一吉は漢学者、郡会議員も務める。1916年熊本第二師範学校入学,阿蘇郡長陽小学校訓導をへて、1924年東京高等師範学校入学。熊本県立人吉中学校教諭、その後旧大阪府立今宮中学教諭を経て、大阪府立汎愛中学校教頭になった。1945年、熊本に帰郷。熊本県立第二高等女学校、女子師範学校教頭をへて、1946年小国高等女学校校長。
恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月1… 恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月18日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の政治家・歴史学者。島根県知事(2期)、大田市名誉市民。政治家・恒松隆慶の孫。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 島根県安濃郡長久村(現大田市長久町)で、恒松嘉吉・ケン夫妻の二男として生まれる。杵築中学校(現島根県立大社高等学校)在学中は剣道に励んだ。祖父隆慶と岡本かの子の父・大貫寅吉が親しかったことから、慶應義塾大学予科に進学後、岡本一平・かの子の家に寄宿していた。岡本夫妻はともに家事家計が苦手であり、見るに見かねて手伝っているうちに家事一切や幼い息子太郎の世話、夫妻の給金や原稿料の貯蓄、かの子の執筆のための資料集めや原稿の清書までやる羽目になったという。
白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月… 白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月18日 - 1991年(平成3年)1月17日)は、日本の実業家。京都新聞社元社長。京都放送元社長。位階は従三位。1946年に社長就任後から始まり、死後は白石一族が京都新聞の経営者に関与・支配している。 奈良県五條市出身。白石村治の三男。1922年に東京帝国大学経済学部卒業。翌年に京都新聞社の前身である京都日日新聞社に入社した。 1946年3月から1981年までに社長を務め、京都新聞を日本を代表する地方紙に育て上げた。京都新聞の「実力社主」として権勢をふるう。 その一方で、共同通信社理事会副会長、京都放送社長、日本国際連合協会京都本部長、京都商工会議所副会頭、京都市観光協会会長、国際新聞編集者協会理事、日本観光協会副会長などを歴任した。
小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年… 小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年)3月18日- 1944年(昭和19年)1月11日)は、日本の囲碁棋士。東京出身、方円社、日本棋院、棋正社などに所属、八段。院社対抗戦などで活躍し、強腕で鬼田強太郎の異名を取った。登山家としても著名。 東京京橋に金融業を営む父を持って生まれ、8歳頃から父が打っているのを見て碁を覚える。9歳の時には当時14歳の加藤信に七子で打ったといい、また本因坊秀栄、吉田菊子などに教えを受け、1907年12歳から方円社塾生となる。その後関星月発起で少年囲碁会が催された際に、坊門で2歳下の小岸壮二と対戦するが4連敗で先相先に打ち込まれ、次いで頭山満の計らいで数度の十番碁を打つが定先に打ち込まれた。
佐々木 味津三(ささき みつぞう、明治29年(1896年)3… 佐々木 味津三(ささき みつぞう、明治29年(1896年)3月18日 - 昭和9年(1934年)2月6日)は、日本の小説家。佐佐木 味津三と表記されることもある。
柏原 兵太郎(かしわばら ひょうたろう、1896年3月18日… 柏原 兵太郎(かしわばら ひょうたろう、1896年3月18日 - 1952年12月8日)は、日本の鉄道官僚。 富山県出身。農業・柏原大次郎の長男として生れる。高等小学校中退、専検合格、第四高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部を卒業した。 1923年12月、高等文官試験行政科試験に合格。翌年3月、鉄道省に入り、成東駅長、名古屋鉄道局運輸課貨物掛長などを経て、1933年9月から1935年7月まで在外研究員として欧米各国に出張した。大阪鉄道局運輸部貨物課長、鉄道省陸運監理官、鉄道調査部書記官、関東軍司令部事務嘱託(奉天在勤)、鉄道省運輸局配車課長、企画院第2部長、鉄道監、運輸通信省自動車局長などを歴任し、1944年9月、依願免官。
奥村 竹三(おくむら たけぞう、1896年(明治29年)3月… 奥村 竹三(おくむら たけぞう、1896年(明治29年)3月18日 – 1981年(昭和56年)1月31日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。 京都府出身。1915年(大正4年)京都府師範学校を卒業した。 船井郡田原小学校訓導、同檜山小学校訓導兼校長、檜山村実業補習学校長、京都府社会教育主事補、京都府属兼視学、園部町実業補習学校長兼教諭、同実業青年学校長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に京都府全府区から日本自由党公認で立候補して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に京都府第2区から日本自由党公認で出馬して当選し、その後、民主自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。
河西 太一郎(かわにし たいちろう、1895年3月18日 -… 河西 太一郎(かわにし たいちろう、1895年3月18日 - 1986年8月26日)は、日本の経済学者。立教大学名誉教授、立教大学元経済学部長、学校法人立教学院元理事長。高崎市立短期大学(現・高崎経済大学)初代学長。 1895年3月、大阪府和泉市松尾寺町で河西仲次郎の四男として生まれる。 1912年3月、大阪府立堺中学校卒業、1917年7月、第一高等学校独法科卒業し、同年9月、東京帝国大学法学部政治学科入学。1920年9月、東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年10月、大原社会問題研究所助手に就任。同年11月、安藤文子と結婚する。 1923年3月、大原社会問題研究所の財政的な問題から規模縮小のために、同僚の林要らとともに同研究所を離れる。
井川 伊平(いかわ いへい、1895年(明治28年)3月18… 井川 伊平(いかわ いへい、1895年(明治28年)3月18日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、日本の政治家、弁護士。参議院議員(2期)。 徳島県出身。1921年、明治大学法学部卒業。1923年、札幌市で弁護士事務所を開業。その後、札幌市議会議員(3期)、北海道議会議員(6期)を務め、1951年に北海道議会副議長に就任(1期、当時は国民民主党に所属)。1955年、市議や道議として公共の福祉に奉仕した地方自治発展の功労により藍綬褒章受章。 1959年の第5回参議院議員通常選挙と1965年の第7回参議院議員通常選挙において北海道選挙区より当選(自由民主党)。参議院議員を2期に亘って務め、北海道開発政務次官などに就いた。
橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉… 橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉3月18日 ‐ 1974年〈昭和49年〉3月30日)は、日本の政治活動家、農本主義思想家。農本ファシストであり、超国家主義者でもあった。 茨城県東茨城郡常磐村(現水戸市)生。茨城県立水戸中学校(現水戸第一高等学校)を経て第一高等学校に進むが中退。大杉栄や石川三四郎の著作を通じてエドワード・カーペンター、クロポトキンなどのアナキズムに影響を受けている。アンリ・ベルグソン、特に「エランビタル」に強い影響を受けた他、トルストイ、白樺派、柳宗悦、康有為などからも影響を受ける。 郷里で農業に従事する傍ら、講演活動を行い、1929年(昭和4年)11月に愛郷会を結成。
田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月1… 田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月18日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、大正・昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍新潟県。村松藩士・農業、田中寅五郎の長男として北海道釧路で生まれる。 仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に武藤章・富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・山崎保代。同年12月、陸軍少尉任官、歩兵第52連隊付となる。 1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)卒業。李王垠、栗林忠道、洪思翊、富永恭次、林義秀、那須弓雄、影佐禎昭、住吉正が同期。 1928年(昭和3年)から3年間に亘りソ連、ポーランドに駐在。
西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月… 西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県大島郡和田村(東和町を経て現周防大島町)に生まれる。1915年(大正4年)8月、府殖産局林業講習を修了後、同局営林所に奉職し、1919年(大正8年)8月、嘉義庁林務手に転じ、澎湖庁技手となった。ついで高雄州技手を経て、1925年(大正14年)1月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任し、のち台中州豊原郡守に転じた。
片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18… 片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18日 - 1944年(昭和19年)4月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第6回)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。 同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、参謀本部に配属された。 1926年(大正15年)9月、朝鮮軍司令部付としてポグラニチナヤ特務機関長に就任。その後、参謀本部員、陸大専攻学生、陸大教官、陸士付、三笠宮附武官、陸軍騎兵学校教官、騎兵第27連隊長などを歴任。 1937年(昭和12年)8月、騎兵大佐に昇進。
林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18… 林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月27日)は、日本の童謡作詞家、詩人、薬剤師。本名は林 照寿(はやし てるひさ、旧字体: 林 照壽)。沼田市名誉市民。兄は陸軍獣医少将の林里二。作詞は1千編を超え、レコードに吹き込まれたものは500余りあるとされる。 1892年(明治25年)、群馬県利根郡沼田町材木町(現・沼田市)の農家・林菊三郎の三男として生まれた。父菊三郎は帰農はしていたものの階級は士族であったという。早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった。1905年(明治38年)沼田小学校高等科を卒業。県立前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)に学ぶが中退し、兄・里二を頼って上京。
両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 … 両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 - 1960年8月10日)は、秋田県仙北郡外小友村(旧:秋田県仙北郡南外村、現:秋田県大仙市)出身の大相撲力士。本名は伊藤 勇治郎(いとう ゆうじろう)(旧姓:西村)。最高位は東関脇。 まだ肌寒い1892年3月18日に秋田県仙北郡で生まれた。出身地である秋田県に入間川清藏一行が巡業に訪れた際に見出されてそのまま入門、両国国技館が開館した1909年6月場所で初土俵を踏んだ。小兵だが色白で均整のとれた筋肉質な体格は人気があり、さらに足腰の強さから稽古場では大錦卯一郎が相手でも勝てないほどだったという。この恵まれた体質と土俵度胸を生かして順調に出世すると、新入幕の1914年5月場所ではいきなり9勝1休の好成績を挙げ、幕内最高優勝を果たした。
瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
安念 精一(あんねん せいいち、1887年3月18日 - 1… 安念 精一(あんねん せいいち、1887年3月18日 - 1972年2月5日)は、日本の経営者、銀行家。安田銀行社長。安田財閥再建期の最高責任者。 富山県東礪波郡太田村(現・砺波市)出身。安念次左衛門の長男。1909年(明治42年)早稲田大学卒業。同年、安田銀行に入る。大正から昭和期にかけての安田系グループ企業の経営者。大垣共立銀行役員、安田信託銀行社長、などを経て、昭和20年(1945年)9月安田銀行(現・みずほ銀行)社長に就任。しかし、翌年、公職追放となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18… 坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18日 - 1978年(昭和53年)1月4日)は日本の美術史家。美術評論家・坂崎乙郎の父。西洋音楽史家・坂崎紀の祖父。 兵庫県生まれ。早稲田大学英文科卒業。1914年 朝日新聞社に入社。1921年から2年間フランス留学。美術記者から学芸・調査両部長、編集局顧問などを歴任。1936年 文学博士号(早稲田大学)を取得。1942年 朝日新聞社を定年退社。早稲田大学教授、女子美術大学教授、同短大学部長、実践女子大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を受章。
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3… 遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 埼玉県葛飾郡千塚村(北葛飾郡行幸村、幸手町を経て現幸手市)生まれ。遠藤幸五郎の二男。第二高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省に入る。朝鮮総督府に入り試補、同書記官、同秘書官を務めた。1920年、東京府産業部長、次いで千葉県内務部長、青森・三重県知事を歴任した。 1928年、埼玉3区から立憲政友会に属して衆議院議員となった。弁護士を開業し、武蔵野鉄道会社社長に就任。
一柳 満喜子(ひとつやなぎ まきこ、1884年(明治17年)… 一柳 満喜子(ひとつやなぎ まきこ、1884年(明治17年)3月18日 - 1969年(昭和44年)9月7日)は、キリスト教教育者。近江兄弟社で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻で、近江兄弟社学園の学園長を務めた。 兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、明治維新後は貴族院議員となった一柳末徳子爵の三女として誕生。神戸女学院音楽部卒。単身で渡米する旅の途中でハワイ・オハウ大学長のグリフィス[要出典]の勧めもあり、日本で最初の女子留学生・津田梅子が卒業し東洋女性のための奨学金制度を持っていたペンシルベニア州の名門校ブリンマー大学に学ぶ。その後アリス・ベーコンの教育実践活動に参加した。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉… 次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉3月18日 - 1960年〈昭和35年〉9月15日)は、貴族院勅選議員ならびに廣田内閣の法制局長官、幣原内閣の内閣書記官長。第六高等学校、東京帝国大学卒業。幼名は七五三五郎。 後妻は三菱総理事や南満州鉄道副総裁を務めた江口定条の長女。日本共産党議長などを務めた野坂参三は義弟。 岡山県邑久郡南幸田村(幸島村、西大寺市水門町を経て現在の岡山市東区)出身。次田大三郎の四男・七五三五郞として生まれる(1914年に襲名)。東京帝国大学法科大学政治科卒業。東京帝大卒業後は官僚となる。1909年(明治42年)11月、高等文官試験行政科を合格。茨城県属。
宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1… 宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1939年6月29日)は、20世紀前半の日本の作曲家、教育者。沖縄県八重山郡石垣町(現・石垣市)出身、石垣市名誉市民。 1883年(明治16年)石垣町新川に生まれる。宮良家は音楽的才能に恵まれ、長包の叔父・長次は、八重山民謡の代表として広く愛唱されている「トバラーマ(とぅばらーま)」の名歌手で、長包の妹・ヌヘマは1935年(昭和10年)にコロムビア・レコードで八重山民謡を録音している。 石垣南尋常小学校、八重山島高等小学校を経て、1903年(明治36年)、首里の沖縄師範学校に入学。卒業後、八重山高等小学校(現:石垣市立登野城小学校)訓導として教育者となる。
福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3… 福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3月18日 - 1979年(昭和54年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(通算3期)。 山口県出身。1904年、関西法律学校(現・関西大学)卒。朝鮮で小学校校長をした後、京都製薬所長、七寿肥料(株)社長などを務め、京都市議、京都府議を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙において京都1区(当時)から中立(無所属)で立候補して初当選した。以来3回連続当選。当選後の会派は第一控室を経て、立憲民政党に入った。民政党解党後は鳩山一郎率いる同交会に入り、1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙と翌1947年の第23回衆議院議員総選挙(京都1区)に日本自由党公認で立候補したがいずれも落選し、政界から引退した。
大橋 廣(おおはし ひろ、1882年(明治15年)3月18日… 大橋 廣(おおはし ひろ、1882年(明治15年)3月18日 - 1973年(昭和48年)2月20日、女性)は、日本の植物学者・教育者である。日本女子大学第5代学長。日本家政学会を設立し、初代会長を務めた。 1882年(明治15年)、岡山県倉敷市に生まれた。同志社女学校に入学した後、親の命により中退して結婚する。一子をもうけるが、後に離婚する。離婚後、日本女子大学校に入学し、英文学部および教育学部第二部博物科を卒業。日本女子大学校で教えた後、1922年から1926年までシカゴ大学に留学し、シカゴ大学で植物学の博士号を取得した。 帰国後は日本女子大学校の師範家政学部で家庭黴菌学などを教えた。1947年日本女子大学校長に就任し、1956年まで務めた。
斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉… 斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉3月18日 - 1936年〈昭和11年〉8月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 愛知県額田郡幸田村(現在の幸田町)出身。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1906年(明治39年)から8年間、関東都督府で警部や属官を務める。1915年(大正4年)に弁護士試験に合格。翌年に大連市に事務所を開業し、1919年(大正8年)より関東州弁護士会長を3回務めた。さらに大連市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
神田 正雄(かんだ まさお、1879年(明治12年)3月18… 神田 正雄(かんだ まさお、1879年(明治12年)3月18日 - 1961年(昭和36年)8月2日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 栃木県那須郡芦野町(現在の那須町)出身。交代寄合旗本芦野家の家老の家に生まれる。父に芦野宿戸長・大田原宿戸長を歴任した神田貞、兄に経済学者の神田孝一がいる。 宮城農学校を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校政治経済科(現在の早稲田大学)を卒業。同年、清国四川省学堂に教育顧問兼教習として招聘され、地理教科書を著した。1905年(明治38年)、アメリカ合衆国のコロンビア大学に留学し、さらにイギリスのオックスフォード大学にも留学した。
稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月1… 稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月18日 - 1950年(昭和25年)2月27日)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者。九州帝国大学医学部第一内科初代教授、恩賜財団母子愛育会愛育研究所(現・日本総合愛育研究所)初代所長を歴任。東京大学名誉教授、医学者。 洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。 1902年(明治35年)から文部省海外留学生としてドイツに公費留学。1905年(明治38年)京都帝国大学福岡医科大学内科学第一講座初代教授に着任(現九州大学医学部第一内科(病態修復内科))。