竹本 孫一(たけもと まごいち、1906年12月21日 - … 竹本 孫一(たけもと まごいち、1906年12月21日 - 2002年5月30日)は、日本の政治家。元民社党衆議院議員。 山口県に生まれる。第五高等学校を経て1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。国際労働機関嘱託として浅利順四郎の下で働いた後、1935年に内閣調査局に入局。奥村喜和男らと経済統制政策の立案に関わり、4年後に企画院調査官となる。企画院調査官として「新政治体制確立要綱(試案)」等を作成し近衛文麿らの新体制運動の政策策定に関与した。その後大政翼賛会制度部副部長・情報局出版課長を経て、1943年12月に満州国国務院総務庁参事官に就任。 戦後、逓信省嘱託から片山内閣での首相秘書官になるが、1947年に公職追放。
原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 20… 原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 2000年11月13日)は、日本の光源研究者。 浜磯太郎の二男として、福岡市に生まれ、原田あやめ(金次郎未亡人)の養子となる。東京大学医学部名誉教授で、日本学士院会員に選ばれた医学者浜清は実弟。1924年福岡県立中学修猷館を経て、1929年東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1929年芝浦製作所(現・東芝)に入社。光源及び放電管の研究に従事し、1942年綜合電灯研究所副所長兼電灯第一課長、光学工業研究所所長、1949年マツダ研究所所長、1961年中央研究所次長、1962年5月取締役、1964年5月常務取締役を経て、1966年5月専務取締役に就任。
林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 198… 林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 1985年4月1日)は、日本の教育哲学者。東北大学名誉教授。宮城教育大学学長。専攻はギリシア哲学。プラトンについての論文がある。 栃木県矢板市の生まれ。東北学院に学び、のち1934年旧制の東北帝国大学法文学部哲学科を卒業。 東北学院では山川丙三郎に師事した。東北帝国大学では阿部次郎に親炙し全集の編集に携わった。またA.E.テイラーの『ソクラテス』の注釈つき翻訳を出版したために、バーネット・テイラー説の信奉者として知られた。 第二次世界大戦の敗戦後、東北大学教育学部で教育史を担当。森有礼について研究した。またソクラテスの問答法を下敷きにした人間形成論を構想した。
西岡 ハル(にしおか ハル、1905年〈明治38年〉12月2… 西岡 ハル(にしおか ハル、1905年〈明治38年〉12月21日 - 1983年〈昭和58年〉11月30日)は、日本の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。旧姓は大串、永野。長崎県知事西岡竹次郎の妻。 長崎県長崎市桜馬場で、大串金三郎、イチ夫妻の五女(10人兄弟)として生まれ、2歳で叔母の養女となり永野に改姓した。1923年、市内の玉木女学校(現長崎玉成高等学校)を卒業後、社会経験のため資産家宅で女中として1年間働いた。1924年4月、第15回衆議院議員総選挙に出馬する西岡竹次郎の選挙事務所の手伝いの依頼を受けて働き、それがきっかけとなり同年10月に西岡と結婚した。夫の政治活動を支える日々を過ごした。
竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12… 竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12月21日 - 2001年(平成13年)2月4日)は、北海道出身の詩人、小説家、霊能者。本名、竹内照代。 銀行員と芸者との間に札幌市で生まれるが、生後すぐに釧路の父方の祖父母に引き取られる。日本高等女学校を肺結核療養のため中退。婦人記者となった後に20歳で結婚し、一子をもうけるが、脊椎カリエスに罹患して1928年に離婚。以後、詩作を続け、1930年に第一詩集『叛く』を刊行した。2001年2月4日、老衰のため死去。 2002年9月29日、スイスのバーゼルで開催された 「国際児童図書評議会」 (IBBY) 創立50周年記念大会で、日本の美智子皇后がスピーチの中で代表作「頬」を引用したことから、改めて注目されるようになった。
馬場 元治(ばば もとはる、明治35年(1902年)12月2… 馬場 元治(ばば もとはる、明治35年(1902年)12月21日 - 昭和43年(1968年)6月23日)は、昭和時代の政治家、弁護士。自由民主党の衆議院議員で建設大臣を務めた。正三位勲一等瑞宝章。長崎県南高来郡南串山村出身(現雲仙市)。旧制長崎中学、第五高等学校、東京帝国大学法学部卒。三男は英国在住の俳優、トーゴ イガワ。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12… 寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12月21日 - 1951年(昭和26年)8月21日)は、日本の外交官、元・宮内省御用掛。 1900年、貿易商・寺崎三郎(福岡藩出身)の二男として神奈川県に生まれた。兄は、外交官・寺崎太郎。暁星中学より旧制一高を経て東京帝大法学部を中退し、1927年に外務省入省。ブラウン大学に公務留学。1931年、ワシントンD.C.の日本大使館在勤中に米国人グエンドレン・ハロルド(Gwen Harold, 1908-1990)と出会い結婚。 その後、上海(勤務時に娘マリコが出生)、ハバナ、北京など在外勤務を経て、1941年に再びワシントンの日本大使館に赴任。
池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月2… 池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月18日)は、日本の陸軍軍人。陸士34期。 太平洋戦争終戦3日後の1945年(昭和20年)8月18日 午前1時30分頃、千島列島(日本領)と南樺太(日本領)の占領を図る赤軍が、占守島(千島列島の北端)に侵攻してきた(占守島の戦い)。 池田は戦車第11連隊を陣頭指揮して赤軍を迎え撃ち、8月18日午前に戦死した(満44歳没)。戦死時の階級は陸軍大佐、戦死により同日付で陸軍少将に進級。 愛知県豊橋市向山町(現)で出生。陸軍憲兵少佐・池田筆吉の五男。兄の池田廉二(陸士23期)は陸軍中将。 愛知県豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)、陸軍中央幼年学校予科(東京陸軍幼年学校に相当)、陸軍中央幼年学校本科(後の陸軍士官学校予科、陸軍予科士官学校)を経て、陸軍士官学校に入校。
許 永鎬(ホ・ヨンホ、朝鮮語: 허영호、1900年12月21… 許 永鎬(ホ・ヨンホ、朝鮮語: 허영호、1900年12月21日 - 1952年1月30日?)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、社会運動家、仏教の僧侶・宗教家、大韓民国の教育者、政治家。制憲国会議員。 別名に許 允(ホ・ユン、허윤)などがある。号は玄州(ヒョンジュ、현주)。法名は鏡湖(キョンホ、경호)。日本名は徳光 允、徳光 翼。 慶尚南道釜山府(現・釜山広域市)出身。東萊高等普通学校(現・東萊高等学校)、東洋大学、大正大学仏教学科卒。 梵魚寺が運営する中等学校の3年在学中に三・一運動に関連する東莱市場の独立万歳デモを主導したため、逮捕され1年間投獄された。出獄後は日本留学を経て、朝鮮に帰り講演活動を行った。
灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月… 灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の内務・厚生官僚、政治家。位階は従二位。 衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(36代)、自由民主党総務会長(18代)等を歴任した。 1899年12月21日広島県佐伯郡大柿村(のち大柿町、現・江田島市)に生まれる。灘尾家は農業の傍ら、木綿の製造と醤油の醸造を営んでいた。父の灘尾夫子俟(なだお ふじまつ)は、早稲田大学の講義録で独学した後、政治に興味を持ち、地元で村会議員、町会議員、村長を務めた。なお、遠縁に5代目三遊亭圓楽がいる(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)。
茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日… 茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 - 1963年)。位階は従二位。 神奈川県生まれ。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科を経て、東北帝国大学理学部卒業。伊登子夫人は天文学者・木村栄の長女。長男は工学者の茅陽一、次男は化学者の茅幸二(理化学研究所所長)。戦後間もない頃から吉田茂首相の私的なブレーンとしての「昼めし会」のメンバーであり、傾斜生産方式の構想の場に居たことが政治学者五百旗頭真(戦後政治を専門とする)によって記述されるなど社会的活動も多大である。
宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1… 宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1963年6月24日)は日本の実業家、生物学者。 長野県埴科郡五加村(現千曲市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て1921年千葉医学専門学校卒業。1933年、改組後の千葉医科大学衛生学教室に入り、腸内菌の研究に携わる。1935年、「水素イオン濃度の腸内菌に及ぼす影響」で医学博士。1940年研究中に、腐敗菌に対して強力な拮抗現象を示す芽胞菌を発見し、これを「宮入菌」と命名し、整腸剤ミヤリサンの製薬特許を受ける。1947年ミヤリサン製薬を設立し、初代社長に就任する。1959年「整腸剤の製造法」について社団法人発明協会から発明賞を受賞。
寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月… 寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月21日 - 1976年(昭和51年)1月24日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員。寺田甚与茂の長男。妻は元女優の筑波雪子。正四位勲二等、研究会所属。職業野球チーム・南海軍(現在の福岡ソフトバンクホークス)創設者・初代オーナー。 大阪府出身。慶應義塾大学卒業。甚与茂の死去後は、寺田合名会社社長をはじめ、和泉銀行頭取、南海鉄道、岸和田紡績(後の大日本紡績、現在のユニチカ)、日本純生食品工業各社長を歴任した。南海鉄道社長時代には阪急電鉄の小林一三と阪神電鉄取締役の細野躋に誘われる形で現在の福岡ソフトバンクホークスの源流に連なる職業野球チームの南海軍を創設し、初代オーナーを務めた。
松本 泰輔(まつもと たいすけ、1895年12月21日 - … 松本 泰輔(まつもと たいすけ、1895年12月21日 - 1940年代)は、日本の元俳優である。本名同じ。新派の川上貞奴一座からキャリアを開始、伊庭孝らの歌舞劇協会など、新派のみならず新劇・歌劇の諸劇団を組織して実演年数を重ね、映画界に転向後は帝国キネマ芦屋撮影所、日活太秦撮影所などで活躍した大スターとして知られる。 1895年(明治28年)12月21日、鳥取県鳥取市立川町に生まれる。『映画新研究十講と俳優名鑑』(朝日新聞社)など、一部の資料によれば、生年月日は「明治二十八年一月三十一日」(1895年1月31日)である旨が記されている。また、『新映画年鑑』(豊國社)によれば、生年月日は「明治二十八年十月」(1895年10月)、出生地は「鳥羽市」(三重県鳥羽市)である旨が記されているが、誤植と思われる。
秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12… 秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12月21日 - 1949年(昭和24年)4月23日)は、日本の陸軍軍人。内閣綜合計画局長官。最終階級は陸軍中将。 大分県で、村長・秋永澄蔵の三男として生まれる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第23連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、同年12月、野砲兵第23連隊中隊長に就任。野戦重砲兵第3連隊中隊長、陸軍省整備局付勤務、整備局課員を経て、1927年(昭和2年)4月から1930年(昭和5年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1973年11月10日)は、日本の彫刻家。 北海道函館市出身。1918年(大正7年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1926年(大正15年)の第7回帝展に「母」が初入選した。1927年(昭和2年)に斎藤素巌らの構造社に参加した。1932年にロサンゼルスオリンピックの芸術競技の造形種目に参加した。 1944年(昭和19年)から神奈川県湘南中学、1950年(昭和25年)から茅ケ崎高校で教鞭をとった。 1964年(昭和39年)に「楽人」で日展の菊華賞を受賞し、1966年(昭和41年)に日展会員となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
神津 港人(こうづ こうじん、1889年(明治22年)12月… 神津 港人(こうづ こうじん、1889年(明治22年)12月21日 - 1978年(昭和53年)4月7日)は、日本の洋画家。 長野県北佐久郡志賀村(現佐久市志賀)出身。神津豊助の次男。1912年、東京美術学校卒業。1915年、第9回文展で「電車」が初入選、官展に出品を続ける。 1920年、農商務省の海外実業生として渡欧、ロンドンのロイヤル・アカデミー・スクール、パリのアカデミー・ジュリアンで商業美術を学ぶ。 1928年、構造社に参加、絵画部主任となる。1932年、オリンピックの日本選手団オリンピック芸術競技派遣役員として渡米する。1939年、緑巷会を組織、1950年、創芸協会と改称、代表者となる。
青木 繁吉(あおき しげきち、1886年12月21日 - 1… 青木 繁吉(あおき しげきち、1886年12月21日 - 1971年4月21日)は日本の実業家。太陽石油の創業者。 明治19年12月21日高知県高岡郡高岡村(現土佐市)で生まれる。姉の嫁ぎ先に丁稚奉公をしたことがきっかけで商売の道に入り、明治41年に自身の名字を入れた「青木石油店」を高岡に開業。天秤棒を担ぎながら灯油を売り歩く日々を送る。しかし大正4年に経済の発展から将来性が見込めるとして、経営の拠点を愛媛県八幡浜に移し、石油製品の小売業へ転換。さらに独自の精製方法やオリジナルブランドを開発し、販路拡大を始める。大正9年に原油輸送の要であるタンカーを木製ながら自前で建造し、石油元売りに打って出る。
林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月2… 林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月21日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の精神医学者、教育者。新制岡山大学の初代学長を務めた。名前は「どうりん」と音読みされることもある。 宮城県仙台市出身。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1910年12月東京帝国大学医学部卒業。帝大在学中は日本の精神病研究の先駆者である呉秀三の薫陶を受け、歌人の斎藤茂吉は同級生であった。1921年からドイツに3年間留学する。 帰国から間も無い1924年7月、岡山医科大学(現岡山大学医学部)精神科教授に就き、生涯にわたり岡山を活動拠点とする。しかし、就任早々林を待ち受けていたのが、日本脳炎の流行であった。
青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月… 青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月21日 - 1958年(昭和33年)7月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山形県酒田市長。 地主青塚岩治の二男として山形県飽海郡酒田本町に生まれる。生家は代々金物屋を営んだ。荘内中学校を経て第一高等学校に進み、俳句や漢詩を嗜んだ。1917年(大正6年)酒田町会議員に当選し、1920年(大正9年)消防組頭を経て、1926年(大正15年)酒田町助役に就任した。1931年(昭和6年)山形県会議員に当選し、酒田市会議員、同議長を経て、1945年(昭和20年)10月、酒田市長に就任したが、間もなく公職追放となった。 のち初代監査委員に就任した。
黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月2… 黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月21日 - 昭和19年(1944年)9月30日)は、日本の華族。貴族院議員・帝都復興院参与・司法省委員を務める。位階・勲等・爵位は正三位・勲三等・伯爵。 第1軍司令官を務めた黒木為楨陸軍大将伯爵と、妻ヒヤク(黒田清隆の養女)の長男として東京に生まれる。一高で内村鑑三の元で学び、明治45年(1912年)東京帝国大学法科大学を卒業。大正7年(1918年)から欧米に留学し、帰国後は母校の東京帝国大学法科大学で副手を務める。大正12年(1923年)2月3日の父の薨去を受けて襲爵し、伯爵となる。三次は同年9月1日に発生した関東大震災の復興を目的とした帝都復興院参与に就任し、大正15年(1926年)5月1日には補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出された。
小林 三郎(こばやし さぶろう、1883年(明治16年)12… 小林 三郎(こばやし さぶろう、1883年(明治16年)12月21日 - 1968年(昭和43年)7月31日)は、大正から昭和期の警察官、実業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県大島郡、のちの天城村(現天城町)で、小林義志孝の二男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学専門部を卒業し、警視庁に入庁した。 警視庁警部補、二日市警察署(現筑紫野警察署)長、鴻巣警察署長、越谷警察署長、松山警察署(現東松山警察署)長、本庄警察署長、大宮警察署長、熊谷警察署長、府中警察署長、警視庁刑事部捜査課強力犯係長、同特高課労働係長、小石川警察署(現富坂警察署)長、大塚警察署長などを歴任。1929年(昭和4年)鹿児島県庁に転じて大島支庁長に就任し1936年(昭和11年)まで在任した。
斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - … 斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - 1966年11月6日)は、日本の映画美術の美術デザイナー、背景画家、出版における挿絵画家である。日本映画の黎明期に、吉沢商店、日活向島撮影所、国際活映角筈撮影所で、クレジットされることもなくセットの背景を描いた人物であり、後に『少年倶楽部』の表紙画で人気を博した。岡田三郎助門下。 1881年(明治14年)12月21日、千葉県長柄郡一宮本郷村(現在の長生郡一宮町)に、旧一宮藩(加納氏)家老堀内家の三男、俊郎の第七子として産まれる。のち、父の俊郎が旧大和田原本藩(平野氏)家老斎藤家の養子となったため、斎藤姓となる。 一宮尋常高等小学校(現在の一宮町立一宮小学校)、私立京華中学校を卒業。
橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月… 橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月21日 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。 かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。鹿児島県尋常中学校の在籍を経て、鹿児島県中学造士館を卒業。
青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)1… 青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)12月21日 - 1954年(昭和29年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・龍間。 茨城県西葛飾郡、のちの猿島郡五霞村(現五霞町)で、先代・青木才次郎の長男として生まれる。私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)を経て、明治法律学校を修了した。1919年(大正8年)家督を相続し才次郎を襲名した。 青木組を組織して土木建築請負業を営み、茨城土木工業社長、水戸商工会議所議員などを務めた。 また、水戸市会議員、同参事会員、茨城県小作調停委員、同治水委員会委員、同耕地整理組合長などを歴任した。 1924年(大正13年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月3日に就任し1925年(大正14年)9月28日まで在任。
野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治… 野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治9年)12月21日 - 1947年(昭和22年)6月11日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、陸軍軍人。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県丹羽郡大口村長、陸軍歩兵少尉。 愛知県丹羽郡大屋敷村(太田村、大口村を経て現大口町)で、代々庄屋を務めた野田家当主・野田庄右衛門の長男として生まれる。1886年(明治19年)家督を相続した。陸軍教導団に入団し日露戦争に従軍。陸軍歩兵少尉に進み陸軍幼年学校教官として務め予備役編入となった。1907年(明治40年)早稲田大学専門部法律科を卒業して帰郷し、農業を営む。 丹羽郡養蚕組合長、同桑苗組合長、同農会長、愛知県養蚕業組合連合会長、同耕地協会副会長などを務めた。
松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12… 松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12月21日 - 1914年〈大正3年〉12月18日)は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・龍若。 旧杵築藩主松平親貴の長男として生まれる。父の死去に伴い1882年(明治15年)10月12日に家督を継承し親信と改名。1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに同大学院を修了した。浅草区教育会長を務めた。 1906年(明治39年)2月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。会派は研究会に所属した。 1914年12月18日、東京市浅草区(現・台東区)浅草北三筋町の自宅で病のため死去した。
太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21… 太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21日- 1950年(昭和25年)12月23日)は、日本の教育者。 茨城県出身。太田茂兵衛の四男。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。新潟県新潟師範学校教諭、山梨県師範学校校長、新潟県高田師範学校校長、長野県師範学校校長を歴任。1912年(明治45年)、朝鮮総督府視学官に転じ、さらに京城女子高等普通学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、佐賀県師範学校校長となり、1919年(大正6年)には台湾総督府視学官に転じ、翌年には台湾総督府台北師範学校も兼ねた。 1923年(大正12年)からは多摩少年院院長を務めた。
吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871… 吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871年12月21日) - 昭和4年(1929年)4月11日)は、日本の実業家。 山口県吉敷郡山口町生まれ。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1911年に三井物産を退社し、北海電化工業社長、東京金物商会社長、日魯漁業取締役、長州鉄道監査役、相模鉄道監査役などを務めた。 妻は吉敷郡会議員を務めた山内唯五郎の妹。浅野順一青山学院大学名誉教授は甥。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年… 永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年11月10日) - 1930年(昭和5年)6月5日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、鹿児島座社長、九州電力(旧鹿児島電気)社長。従七位。 1871年(明治4年)11月に鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。 1894年(明治27年)、和仏法律学校(現・法政大学)邦語法律科を卒業する。 鹿児島地方裁判所検事・鹿児島区裁判所検事をつとめ、退官後弁護士となる。 鹿児島座(1912年(大正1年)完成、1913年(大正2年)1月1日開場)の社長に就任する。九州で初めて専属の少女歌舞伎団「若葉会」を擁し、少女歌舞伎を常打ちした他、東京から一流の芸人を招いて、歌舞伎・新派・浪曲・義太夫・講談・落語・奇術などの興行を行った。
都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明… 都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明治2年11月19日) - 1933年(昭和8年)3月12日)は、明治から昭和前期にかけての軍医、脚気が栄養欠乏でおこり、米糠により予防・治療ができることを動物実験で確認した。愛知県出身。 1869年12月21日((旧暦)明治2年11月19日)、三河碧海郡刈谷藩領(現愛知県刈谷市)の農家、都築甚六・つう夫妻の長男として都築甚之助は誕生した。1883年(明治16年)元刈谷小学校を卒業し郡立高等学校に入学、同校卒業後1885年(明治18年)愛知医学校(現名古屋大学医学部)に入学し、1887年(明治20年)千葉第一高等中学校医学部(現千葉大学医学部)に転じ、1890年(明治23年)4月卒業した。
和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈186… 和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈1868年12月21日〉 - 1921年〈大正10年〉3月15日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。逓信技師を経て実業界に入り名古屋電灯常務などを務めた。子に気象・地震学者の和達清夫がいる。 明治元年11月8日(新暦:1868年12月21日)、和達孚嘉の長男として東京の浅草に生まれる。父・孚嘉は江戸幕府の旗本であったが、明治維新後に移住先の静岡県を振り出しに宮城県や山形県で役員生活を送り、晩年には第5代仙台市長(1907 - 1910年)を務めた人物である。 1889年(明治22年)7月東京の第一高等中学校工学部を卒業したのち、1892年(明治25年)7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省へ入る。
服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(186… 服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(1867年12月21日) - 昭和39年(1964年)5月27日)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢詩人・書家。「最後の漢詩人」とも言われる。 1867年(慶応3年)、尾張国海西郡鯏浦(現在の愛知県弥富市鯏浦)に生まれる。戦国時代の土豪服部友貞の子孫で、大地主の家の次男であった。幼名は粂之丞(くめのじょう)。1882年(明治15年)、尾張藩の儒者森村大朴に漢籍を学ぶ。大朴は粂之丞の熱心さに感心し、漢詩を作るように勧めた。1884年(明治17年)村田梅村の水月吟社に入る。ここで漢詩人の森春涛らの影響を受ける。粂之丞は、名を擔風と改め、詩の研究とともに詩作に励んだ。
安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応… 安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応2年11月15日) - 1953年(昭和28年)7月24日)は、愛媛県議会議員、歴史学者、画家、俳人である。 伊予国(現在の愛媛県)宇摩郡小富士村出身。幼名岸蔵、通称鬼子太郎。寺小屋にて本田某に学び、1872年(明治5年)に小学校(方正校)に入る。小学校卒業後、尾崎星山、合田福太郎に学ぶ。1886年(明治19年)正楽と改名。1888年(明治21年)福沢諭吉の「学問のすすめ」に感動。1889年(明治22年)10月上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、イタリア人パテルノストロ博士や岩谷孫蔵らから国際法を学ぶ。卒業後、1892年(明治25年)京都帝大教授になった岩谷に従い京都にてローマ法の翻訳に従う。
亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年… 亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年12月21日〉- 1922年〈大正11年〉11月26日)は、日本近代の建築家。従五位。作品は独特の意匠で知られ「亀岡式」と呼ばれる。 慶応元年(1865年)に前橋藩士の子として生まれる。明治維新後は画家を志し、東京美術学校絵画科に入学して日本画の技術を習得。1894年(明治27年)に同校を卒業。1901年(明治34年)からは内務省の古社寺調査に携わり、寺社の修理に従事。1907年(明治40年)には京都府技師となり、平等院鳳凰堂の修理を行った。京都では東福寺の方丈や東本願寺、仁和寺の門など幕末の動乱の中で焼失した建物を再建。1913年(大正2年)には京都府左京区神楽岡(吉田山 (京都市))に自邸を建築。
国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、18… 国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、1864年12月21日(元治元年11月23日) - 1953年(昭和28年)11月26日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士(1915年(大正4年))。南満洲鉄道理事長、衆議院議員、日本通運初代社長。兄は洋画家の国沢新九郎。 土佐藩士・国沢四郎右衛門好古の子として江戸に生まれる。青木槐三の聞き取りでは、1879年(明治12年)に高知県から船で上京したという。美會神学校(後の青山学院)を経て、帝国大学工科大学土木学科に進む。在学中より日本鉄道(東北本線)の黒磯駅 - 白河駅建設に関与した。1889年(明治22年)帝国大学卒業後は鉄道技師として九州鉄道に入社し、長崎本線の佐賀駅付近の建設に従事した。
平野 勇造(ひらの ゆうぞう、1864年12月21日〈元治元… 平野 勇造(ひらの ゆうぞう、1864年12月21日〈元治元年11月23日〉 - 1951年〈昭和26年〉2月9日)は、日本の建築家。旧姓は堺、その後佐藤。幼名は七五郎。 石川島造船所創業者の平野富二、および東京海上保険支配人の益田克徳の娘婿で、長男は平野義太郎(最初の妻との間の子)。 ※以下の文章では当人を指す名称を1890年以前は「七五郎」、以後は「勇造」とする。 陸奥国北郡大畑(現在の青森県むつ市で、旧大畑町)に生まれる。堺喜藤治の四男だった。家系は堺で海運業を営んでいた「納屋衆」の系譜で、その一族から越前国の三国に嫁いだ女性の子孫が大畑に移り住み、海運が盛んな大畑で廻船問屋となった。「三国屋」の屋号を持ち、一族の故地にちなんで「堺」姓を名乗った。
稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(… 稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(文久2年10月30日) - 1949年(昭和24年)3月30日)は、大正・昭和前期の日本の実業家、貴族院勅選議員。稲畑産業株式会社(創業時の名称は稲畑染料店)の創業者であり、染料、染色業界の発展に尽力した。また日仏文化交流に貢献しており、日本で初めてシネマトグラフを輸入して映画興行を行った人物としても知られる。正五位勲三等。
村上 格一(むらかみ かくいち、文久2年11月1日(1862… 村上 格一(むらかみ かくいち、文久2年11月1日(1862年12月21日) - 昭和2年(1927年)11月15日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。清浦内閣の海軍大臣。佐賀県出身。幼名は袈裟之助(けさのすけ)。養子に海軍少将・村上暢之助。また実娘は海軍少将・横井忠雄と結婚している。
秋山 金也(あきやま きんや、文久2年11月1日〈1862年… 秋山 金也(あきやま きんや、文久2年11月1日〈1862年12月21日〉 - 昭和14年〈1939年〉2月2日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。医師。 下野国安蘇郡佐野町(現在の栃木県佐野市)出身。1884年(明治17年)、東京帝国大学医科大学別科を卒業。1886年(明治19年)より鹿児島医学校助教諭・附属病院診察医を務めた。1891年(明治24年)、佐野町に戻り安蘇病院院長となった。日清戦争の際には日本赤十字社救護医員として従軍した。1902年(明治35年)、安蘇郡医師会長に選出。1904年(明治37年)、佐野町伝染病院院長に就任した。1908年(明治41年)には栃木県医師会副会長に、1910年(明治43年)には同会長に選出された。
高倉 虎(たかくら とら、1862年12月21日(文久2年1… 高倉 虎(たかくら とら、1862年12月21日(文久2年11月1日) - 1924年(大正13年)1月27日)は、明治から大正時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国多賀郡(現茨城県高萩市)出身。所得税調査委員などを歴任した。 1921年(大正10年)茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され同年8月30日に就任したが、在任中に水戸市赤十字病院で胃癌のため死去した。
日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11… 日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11月20日〉- 1926年〈大正15年〉10月22日)は、日本の外交官。位階および勲等は正三位・勲一等。伊勢国(現在の三重県)出身。 伊勢国で日置伊右衛門の五男として生まれる。1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省に入る。 1905年(明治38年)、代理公使としてサンフランシスコに渡航したのち、仏僧釈宗演とともにワシントンでルーズベルト大統領と会見。 1914年(大正3年)に中国公使に就任。同年12月3日、加藤高明外相は日置に対華要求を訓令する。翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣は袁世凱に対華21カ条要求を行い、日置はその交渉担当となった。
時重 初熊(ときしげ はつくま、安政6年11月28日(185… 時重 初熊(ときしげ はつくま、安政6年11月28日(1859年12月21日) - 大正2年(1913年)4月19日)は、日本の獣医学者。 東北地方の産馬地に蔓延した馬の仮性皮疽の原因究明および治療法の確立と予防、羊の腸結節の原因である寄生虫の発見や血清の創設、牛疫の国内流入を防ぐため朝鮮における牛疫調査に功績がある。その他ヒムシ病、結核、ダニ熱を研究し各種予防液血清、診断薬の製造、原因不明の伝染病の研究指導を行い日本獣医学の祖とされる。 周防国都濃郡戸田村(現在の山口県周南市)出身。1859年(安政6年)時重音二郎の長男として生まれる。1871年(明治4年)17才の時に小学校員養成所を卒業後、宮市小学(現在の防府市立松崎小学校)、末武北村立花岡小学校(現在の下松市立花岡小学校)の教員となるが、辞職し上京。
佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政… 佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政3年11月24日) - 1939年(昭和14年)6月5日)は、日本の教育者。北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。 現在の岩手県花巻市出身。父は南部藩士の佐藤昌蔵。1870年(明治3年)1月には藩校の作人館に入り漢学を学ぶ(同窓生に原敬らがいる)。1871年に上京。私塾や大学南校などで英学を修業。また、この頃に横浜でキリスト教に接した。1872年(明治5年)5月に一時帰郷。その後、1874年3月に東京外国語学校に入学(英語科は同年12月27日に東京英語学校に改組、東京開成学校の「予科」と統合されて東京大学予備門となり、現東京大学)。
野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(18… 野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(1853年12月21日) - 昭和2年(1927年)2月23日)は日本の政治家、実業家。号は大塊。衆議院議員、逓信大臣、商工大臣などを務めた。福岡県平民。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である。
告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげも… 告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげもり りょう、1853年12月21日(嘉永6年11月21日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、明治から大正期の内務官僚。官選県知事。 伊予国宇和島城下御殿町(現愛媛県宇和島市)出身。宇和島藩士・告森桑圃の長男として生まれる。1873年、神山県に出仕。以後、兵庫県、広島県、長崎県、愛媛県、京都府で勤務。 1887年5月、愛媛県東宇和郡長に就任。以後、兼西宇和郡長、京都府参事官、岐阜県参事官、埼玉県書記官、岡山県書記官、徳島県書記官などを歴任。 1908年3月、鳥取県知事に就任。倉吉中学校・県立商業学校の新設、農事試験場拡張、耕地整理事業、因伯牛の改良などを推進。
谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年… 谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年11月14日)- 1921年(大正10年)8月3日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、富山県会議長、富山県下新川郡道下村長。幼名・義之助。 越中国新川郡仏田村(石川県新川郡仏田村、富山県下新川郡道下村を経て現魚津市)で、豪農・谷平兵衛の長男として生まれた。加賀藩士・沢田六左衛門、馬場春鴎に師事し漢学を修めた。1856年(安政3年)家督を相続し新川郡縄張役、仏田の肝煎役に就任。1872年(明治5年2月)金沢県新川郡第8区租税調役、1873年(明治6年)9月、第3大区副区長となる。その後、戸長、下新川郡書記を務めた。
山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年… 山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年11月18日) - 1912年(明治45年)2月25日)は、幕末から明治時代の実業家。 天保2年(1831年)11月18日、武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。幼名は文次郎。生家は志義町(現在の仲町)で菓子商を営む山崎家で、初代の山崎嘉七が信州中野(現在の長野県中野市)から川越に出て、天明3年(1783年)に和菓子店・亀屋を創業した。以来、武蔵国川越藩の御用達となった。 山崎家は代々「嘉七」を襲名し、文次郎はその4代目であった。15歳で江戸西久保の壺屋に修業し、亀屋を江戸風の洗練された和菓子商店に変革した。文久2年(1862年)7月に父である先代嘉七が死去すると、文次郎は家督を相続し4代目嘉七を襲名した。
萬 あきら(ばん あきら、12月21日 - )は、元宝塚歌劇… 萬 あきら(ばん あきら、12月21日 - )は、元宝塚歌劇団専科の男役。
メイリ(Meiri、美梨、12月21日 - )は、日本のグラ… メイリ(Meiri、美梨、12月21日 - )は、日本のグラビアアイドル、女優。北海道岩見沢市出身。旧名義にメイリ・マロンフィール、水沢めいがある。 アイドルユニット「アフィリア・サーガ・イースト」や「clip clip」の元メンバーでもあり、セルワールドエンタテイメントやゼロイチファミリアを経て、2023年現在はフリーランスで活動中。 小学校高学年の頃、モーニング娘。への憧れをきっかけとして芸能界を目指す。高校時代から演技、ナレーション、ダンス、歌などを習っており、旅行雑誌のモデルを務めたり地元のCMやラジオ番組にも出演したりしていたが、グラビアもやってみたいと思っていたところ、高校からアクターズスタジオ北海道を経てセルワールドエンタテイメントにスカウトされて上京し、所属していた。