鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治… 鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治32年〉8月30日 - 1978年〈昭和53年〉5月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。 衆議院議員(3期)、労働大臣。 山梨県北巨摩郡出身。1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済学部を卒業。 朝日新聞社に入社し海外特派員となる。京城支局長を経て、1940年(昭和15年)、論説委員に就任し1941年(昭和16年)に退社。その後、日本印刷文化協会理事、山梨日日新聞論説委員を務める。 戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から山梨県全県区(当時)で立候補するが落選した。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山梨県全県区で立候補し当選。
水野 敏行(みずの としゆき、1898年 <明治31年> 8… 水野 敏行(みずの としゆき、1898年 <明治31年> 8月30日 - 1987年 <昭和62年> 1月5日)は、日本の経営者。電気化学工業(現・デンカ)社長を務めた。位階は正四位。 東京都出身。1923年に早稲田大学応用科学科を卒業し、同年に電気化学工業に入社。1948年12月に取締役に就任し、1949年12月に常務、1956年12月に専務、1960年5月に副社長を経て、1968年5月から1970年11月までに社長を務めた。 1964年5月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年1月5日、老衰のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30… 小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30日 - 1924年(大正13年)5月16日)は、日本の科学者、歌人。第三高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同大学航空研究所入所。大学在学中に電信電話に関する発明をし、日本を始め諸外国に特許申請をし、許可を得ている。 科学者以外の彼を有名にしたのは、「琵琶湖周航の歌」の作詞者としてである。1917年、三高ボート部員として琵琶湖周航中、故郷諏訪湖に思いを馳せながら詩情豊かに作詞した「琵琶湖周航の歌」は、吉田千秋(新潟県出身、歴史地理学者吉田東伍の次男)の「ひつじぐさ」の原曲により現在まで広く歌われ続けている。この二人はお互いを知らず、それぞれ26歳と24歳で死去している。
廉 想渉(れん そうしょう、ヨム・サンソプ、1897年8月3… 廉 想渉(れん そうしょう、ヨム・サンソプ、1897年8月30日 - 1963年3月14日)は、朝鮮の小説家、言論人。本貫は坡州廉氏。本名は尚燮、号は横歩。8人兄弟の3番目に生まれた。朝鮮文学に初めて自然主義という語を植え付け、朝鮮の自然主義文学の祖となった。
松原 后(まつばら こう、1896年8月30日 - )は、静… 松原 后(まつばら こう、1896年8月30日 - )は、静岡県浜松市中央区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。ポジションはディフェンダー。 浜松開誠館高校を卒業後、2015年に清水エスパルスに入団。同期に 水谷拓磨、宮本航汰、北川航也らがいる。入団時「DF歴」がわずか1年半だったが守備陣にけが人が続出したこともあり、ナビスコカップ予選リーグ第1節でフル出場するとJ1リーグ1st第10節で3バックの一角としてJ1初出場を果たした。同年6月11日、プロA契約を締結。 2016年9月18日、J2第32節・水戸ホーリーホック戦の後半40分、1点ビハインドの状況で大前元紀が中央に入れたボールが、相手選手と競り、ゴールに背を向けていた松原の右足かかと付近にあたり、Jリーグ初得点となる同点弾を挙げた。
湊 慶譲(みなと けいじょう、1896年(明治29年)8月3… 湊 慶譲(みなと けいじょう、1896年(明治29年)8月30日 - 1982年(昭和57年)10月19日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 鹿児島県立加治木中学校を卒業 し、海軍兵学校第44期へ入校した。席次は入校時100名中8番、卒業時95名中4番。新設された海軍省兵備局の第二課長として出師準備にあたり、軍需工業動員および生産力拡充の統制、物資の需給調整などを担った。
長崎 次郎(ながさき じろう、1895年8月30日 - 19… 長崎 次郎(ながさき じろう、1895年8月30日 - 1954年10月2日)は長崎書店の店主、新教出版社の初代社長である。号は雑草生。兄は教育家の長崎太郎。 1895年(明治28年)に高知県安芸町に生まれる。安芸中学を卒業し、百島操牧師の助言により、1913年(大正2年)に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)に入学する。植物学を専攻する。 1916年(大正5年)に日本基督札幌教会(現・日本基督教団札幌北一条教会)で高倉徳太郎から洗礼を受ける。林竹治郎、新島善直らと共に教会を支える。 1921年に北大を卒業して、横浜共立女学校(現・横浜共立学園)、関東学院中学の教師になるが、1925年教師を辞任し、早稲田で古本屋長崎書店を開業する。
永井 郁子(ながい いくこ、1893年(明治26年)8月30… 永井 郁子(ながい いくこ、1893年(明治26年)8月30日 - 1983年(昭和58年)1月28日)は日本のソプラノ歌手。大正から昭和にかけて活躍した。 1910年(明治43年)に東京音楽学校声楽科を卒業。柳兼子と同級。兼子と同じくハンカ・ペッツォルトに師事。同研究科修了。美しい容姿、清楚な趣のあるソプラノの高音が美しいといわれていたリリック・ソプラノで、柳兼子とともに若くして人気が高く、ことにビゼー『カルメン』のミカエラや、プッチーニ『ラ・ボエーム』のミミのアリアを得意とした。1915年(大正4年)「永井郁子独唱会」を開催しリヒャルト・シュトラウスを歌う。 岩崎小弥太の紹介により同年秋に山田耕筰と結婚したが、山田の女性問題などのため翌年に離婚した。
花村 四郎(はなむら しろう、1891年(明治24年)8月3… 花村 四郎(はなむら しろう、1891年(明治24年)8月30日 - 1963年(昭和38年)7月1日)は日本の弁護士、政治家。位階は正三位。 衆議院議員(8期)。法務大臣(第6代・第7代)を歴任。 長野県東筑摩郡上川手村(現在の安曇野市豊科光)に生まれる。村長を務めた父が早世し、苦学する。旧制松本商業学校(現在の松商学園高等学校)を経て、1917年(大正6年)日本大学法律科を卒業する。卒業後2年間大学に残り、法律を学び、1919年(大正8年)弁護士試験に合格し、弁護士を開業した。 1927年(昭和2年)東京弁護士会副会長に就任する。1932年(昭和7年)鳩山の勧めもあり東京市会議員選挙に立候補し当選する。
井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)… 井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)8月30日 - 1969年(昭和44年)11月13日)は、日本の外交官。駐ハンガリー公使。海軍司政長官。 井上喜代松の二男。神奈川県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外交官補、領事官補、イギリス大使館三等書記官、外務事務官・亜細亜局第三課勤務、廈門領事・台湾総督府事務官、ポーランド領事、シドニー総領事、外務書記官・商工書記官・通商局第一課長、ドイツ大使館参事官、外務省欧亜局長を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ハンガリー公使に就任した。その後、外務省職員訓練所長を経て、1942年(昭和17年)から1944年10月まで海軍司政長官・ボルネオ民政部長官を務めた。
寺尾 進(てらお すすむ、1890年(明治23年)8月30日… 寺尾 進(てらお すすむ、1890年(明治23年)8月30日 - 1958年(昭和33年)11月21日)は、日本の商工官僚。実業家。
岩槻 信治(いわつき のぶじ、1889年8月30日 - 19… 岩槻 信治(いわつき のぶじ、1889年8月30日 - 1948年5月9日)は、日本の農業技師。20余種に及ぶ稲の品種改良を行い、西三河一帯の農業振興に大きく寄与した。岡崎市名誉市民。 愛知県碧海郡中園村(現・岡崎市中園町)に生まれる。なお岩槻が出生した直後の1889年(明治22年)10月1日、中園村は合併により長瀬村大字中園となるが、父善吉は同村の村長に就任している。長瀬村立長瀬尋常小学校(現・岡崎市立矢作北小学校)と江西高等小学校(現・岡崎市立矢作中学校)に学ぶ。1906年(明治39年)3月、愛知県農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)を卒業。8か月ほど母校の江西高等小学校に勤務。同年12月、愛知県農林学校の山崎延吉校長に招かれて碧海郡安城町の愛知県農事試験場(現・愛知県農業総合試験場)に入った。
渕田 長一郎(淵田、ふちた ちょういちろう、1888年(明治… 渕田 長一郎(淵田、ふちた ちょういちろう、1888年(明治21年)8月30日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、人吉市会議長、熊本県人吉市長。 熊本県で渕田常一の長男として生まれる。1907年(明治40年)熊本商業学校(現熊本県立熊本商業高等学校)を卒業し、同年父が死去して家督を相続し、家業の「銀の露」焼酎醸造業を継承した。通信教育で資格を取得し、1917年(大正6年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。その後、人吉酒造組合長、熊本県酒造組合連合会副会長、日本茶業取締役などを務めた。 早稲田大学在学中に友人たちが人吉町会議員選挙に立候補届をして本人不在のまま当選。
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30… 明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日 - 1956年(昭和31年)5月6日)は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。 日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。 東京生まれ。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け、大学院特選給費学生として母校に残った。 学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという。
秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年〈明治21年〉8月… 秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年〈明治21年〉8月30日 - 1974年〈昭和49年〉7月14日)は、日本の料理人。大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた。位階・勲等は正四位勲三等。フランス料理アカデミー名誉会員。 その生涯を描いた小説やドラマ化作品のタイトルから「天皇の料理番」として知られる。皇室の食卓を預かり、宮中で行われる公式行事の料理を掌るのみならず、日本における西洋料理の普及にも大きな足跡を残した。 1888年(明治21年)、福井県今立郡村国村(国高村村国、現・越前市村国三丁目)において、裕福な料理屋の次男として生まれる。旧姓は高森。高森家は大地主で庄屋だった。
布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日… 布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日 ‐ 1975年(昭和50年)6月15日) は、大正から昭和期の海外特派員、著述家、政治家。衆議院議員。 愛媛県北宇和郡吉野村(吉野生村を経て現松野町)で、布岩太郎の二男として生まれた。1911年(明治44年)早稲田大学政治経済科を卒業。さらに同大文科で地理学を学んだ。のちワシントン大学文科、ロンドン大学文科でも学ぶ。 コーストタイムス旬刊雑誌社主幹、外務省特務通信員、中央新聞海外派遣員を務め、18年間で世界60数か国を旅行し、1933年(昭和8年)中央アジアで消息不明となるなど「世界漫遊家」と称された。また著述業にも従事した。 戦後、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛媛県全県区から出馬して当選。
宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月3… 宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月30日 - 1918年〈大正7年〉12月4日)は、日本の政治家。東京府北豊島郡板橋町長。 東京府・宮本頼三の長男。高等師範学校附属小学、中学を経て明治大学商科に学ぶ。水車業、精米業を営む。 1911年、推されて板橋町収入役に挙げられる。1911年10月に板橋町長に就任し、1916年4月に退職する。1917年8月に板橋町長に就任し、1918年12月に退職する。 信仰は仏教。趣味は音楽。愛読書は政治経済書。住所は東京府北豊島郡板橋町大字下板橋。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉… 岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉8月30日 - 1938年〈昭和13年〉6月24日)は、日本の裁判官、弁護士、大学教授。 1880年愛媛県生まれ。東京帝国大学卒業後、裁判官となり、東京控訴院部長判事などを歴任後、大審院判事に就任。また、弁護士としては、東京第二弁護士会会長などを務めた。 また、明治大学法学部教授を務めたほか、慶應義塾大学講師、早稲田大学講師、中央大学講師、東京大学野球連盟理事長などを務めた。
遠藤 吉三郎(えんどう きちさぶろう、1874年8月30日 … 遠藤 吉三郎(えんどう きちさぶろう、1874年8月30日 - 1921年3月14日)は、日本の生物海洋学者。日本の海藻研究の大家。 遠藤が1911年から1914年にイギリス、ドイツ、ノルウェーへ留学した際の写真により、1928年に水産講習所(現在の東京海洋大学)によって『海藻寫眞帖』が作成された。 2014年、和歌山県白浜町の京都大学瀬戸臨海実験所(京大白浜水族館)で『海藻寫眞帖』の原版となる遠藤が撮影した藻類の写真のガラス乾板約170枚が発見された。 欧州留学時に、2本杖を使うノルウェー式スキー術を習得。1916年に帰国した際に、生徒にスキー術を伝えたことから、札幌では2本杖のノルウェー式が一般的となった。
大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7… 大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7月27日〉 - 没年不詳)は、日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋()。山口県長府(現・下関市)出身。 白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが、明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った。 1896年にウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶… 飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶応3年8月2日) - 1944年2月3日)は、美濃国(現岐阜県)の岩村藩士族出身の宗教家。皇室や政界・軍人に取り入り、後に「日本のラスプーチン」と呼ばれた。 岩村藩士・飯野益衛の三男として生まれる。益衛は100石取りの家臣で、御側御用人などの要職を務めた家系であった。しかし、廃藩置県により家職を失い、父も病没し、二人の兄は故郷の岩村に留まって教育者となった。一方、吉三郎は1885年に上京して夜学で学んだ。1886年、築地明石町の私立鈴木小学校の教員となり、算術と英語を教えた。しかし、1年余りで教師を辞めると、飛騨山中での行者修行や易学習得を経て、麹町平河町に居住する。
熊谷 直太(くまがい なおた、1866年8月30日(慶応2年… 熊谷 直太(くまがい なおた、1866年8月30日(慶応2年7月21日) - 1945年(昭和20年)2月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。弁理士。 熊谷直能の長子として出羽国田川郡番田村(山形県西田川郡稲生村を経て現鶴岡市)で生まれ、酒田で育った。西田川郡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し小学校の代用教員となるが、1883年(明治16年)ごろ、庄内地方を訪れた馬場辰猪の自由民権を訴える演説を聞き、上京を志した。当時、郡の費用で5人を東京で学ばせることが決まり、その一人に選ばれた。第一高等中学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業。
上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈… 上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈文久2年8月6日〉 - 1943年〈昭和18年〉9月7日)は、日本の実業家、篤農家、名望家。蚊取線香の発明者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。向島亀森八幡神社「除虫菊神社」の祭神。ユーゴスラビア王国名誉領事。前名・秀之助。 1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年、家督を相続し前名秀之助を改めた。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。 16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校(現・立教大学)に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた。
千年川 政吉(ちとせがわ まさきち、文久元年7月25日(18… 千年川 政吉(ちとせがわ まさきち、文久元年7月25日(1861年8月30日) - 明治45年(1912年)7月4日)は、青森県つがる市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は奈良 安吉(なら やすきち)。身長170cm、体重94kg。最高位は小結。 一ノ矢藤太郎を頼って津軽から上京。小結を5場所務めた。腸を患っていたため思うような活躍ができなかったが、技量も土俵態度も優れ、三役の風格を持っていた。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延… 和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延元年7月14日〉 - 1919年〈大正8年〉7月18日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。号は吐雲。 但馬国(現兵庫県)出身。豊岡藩士・和田垣譲の次男。1881年東京帝国大学卒業後、ヨーロッパに留学し、ケンブリッジ大学・ベルリン大学で学び、1883年に帰国。文部省御用掛を経て、1886年帝国大学法科大学教授となり、金井延とともに学部を主導、シュタインやワグナーの社会政策学派財政学を導入、自由主義経済学からの転換を促した。1891年法学博士。1898年の農科大学教授に転じる。また日本女子商業学校校長、東京商業学校校長として民間実業教育に尽力。
松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年… 松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年7月22日) - 1913年(大正2年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、寿都町長。旧姓・若林、初名・忠太郎。 佐渡国雑太郡吉岡村(現新潟県佐渡市吉岡)で農業・若林源右衛門の二男として生まれ、同村・先代松井源内の養子となる。その後、養父の死去に伴い源内を襲名した。 1873年、義兄・高野吾吉に伴われ江差に移り、同地の呉服商・本郷家に奉公し、各地に行商した。1884年、寿都に移り同地で義兄・高野吾吉が経営していた呉服店を帰郷する高野から譲り受け、さらに海産仲買業、醸造業、回漕業、漁業などにも経営を広げた。また、寿都外三郡酒造組合長、後志興農銀行 (株) 取締役、寿都銀行 (株) 取締役、寿都倉庫 (株) 社長、寿都汽船 (株) 社長などを務めた。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8… 塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。 塚本さとは、天保14年(1843年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門の五女として誕生した。数え21歳の時に店の奉公人であった源三を婿に迎え塚本源三郎家を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた。さとは、「読み、書き、算盤」を寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた。『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった。
青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保… 青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保3年8月5日) - 1905年(明治38年)4月10日)は明治時代の浪花節語り。生まれははっきりしないが、一説には武蔵国(現・神奈川県)生まれ。ヒラキから寄席に最初に進出した功労者。後に美弘舎東一(びこうしゃ とういち)と改名。玉川勝太郎から、今の玉川奈々福、玉川太福等に連なる玉川一派の開祖でもある。 本名は青柳勝三。色が黒いのであだ名が「くろ勝」。幕末から明治頭にかけて、横浜・本牧の盛り場に仮設したヒラキで評判を取るほど大入りを続けていた祭文語りの勝之助。その頃の得意演目は「野狐三次」「鬼神於松」「俊徳丸」などで、品格の良さから常に上流の客が集まった。
瑞羽 奏都(みずは かなと、8月30日生)は、元宝塚歌劇団月… 瑞羽 奏都(みずは かなと、8月30日生)は、元宝塚歌劇団月組の男役。愛知県小牧市、椙山女学園高等学校出身。身長172cm。愛称は「みー」、「みづき」。特技は、新体操。本名は水谷 美月(みずたに みづき)。
藤 真知子(ふじ まちこ、8月30日 - )は日本の児童文学… 藤 真知子(ふじ まちこ、8月30日 - )は日本の児童文学作家、環境活動家。東京都出身。 東京女子大学英文科卒業。1985年、『まじょ子どんな子ふしぎな子』で第1回ポプラ社こどもの文学に入選しデビュー。以後、数多くの児童文学を執筆し、『まじょ子』シリーズと『わたしのママは魔女』シリーズはそれぞれ50作を越える長寿作品となっている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。