小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 194… 小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 1945年9月10日)は、ホーリネス弾圧事件で堺刑務所で殉教した、ホーリネス系の日本聖教会参与、牧師である。元日本ホーリネス教会、アライアンスの牧師。 日本基督教団ホーリネスの群の重鎮であった小出忍の実父。 1888年(明治21年)に新潟県三条町に生まれる。小学校卒業後に上京する。昼間は商店員として働き、夜間は正則英語学校に通学する。1904年(明治37年)頃に中央福音伝道館で受洗する。 柏木聖書学院に学び、東洋宣教会(後の、日本ホーリネス教会)の牧師になる。 1907年(明治40年)に長岡市の福音伝道館に赴任する。赴任直後、11月24日より、新潟県を巡回した中田重治に同伴し、小出だけ新潟県にとどまり伝道をする。
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21… 梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日 - 1986年〈昭和61年〉1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。はじめ龍三郎、1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗り、再び龍三郎と名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。 京都府京都市下京区生まれ。生家は染物問屋だった。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入った。
新居 格(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日 -… 新居 格(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日 - 1951年(昭和26年)11月15日)は、日本の文筆家。主に評論や翻訳などで活躍した。
田辺 九万三(たなべ くまぞう、1888年3月9日 - 19… 田辺 九万三(たなべ くまぞう、1888年3月9日 - 1955年6月12日)は、日本ラグビーフットボール協会第2代会長。 神奈川県横須賀市浦賀で生まれる。 1902年(明治35年)、慶應義塾普通部(中学)に入学し端艇部(ボート部)に所属。普通部3年生(中学3年生)からラグビーを始めた。 1906年(明治39年)11月、慶應義塾とYC&ACとの9回目の対戦で、公式戦にフォワード(FW)として初出場。 1910年(明治43年)、慶應義塾大学法学部2年時に慶應義塾體育會蹴球部の主将に就任。同年秋から、慶應義塾独自のFW7人体制(2-3-2 または 3-2-2)を採用した。FW7人体制は、当時のオールブラックス(ニュージーランド代表)が採用しており、慶應義塾はその後17年間FW7人体制を守り、日本国内チームに対して無敗記録を続けた。
清水 長郷(しみず ながさと、1888年(明治21年)3月7… 清水 長郷(しみず ながさと、1888年(明治21年)3月7日 - 1961年(昭和36年)12月9日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)。ジャーナリスト。 岡山県後月郡芳井村(芳井町を経て現井原市)に長花利平の二男として生まれ、清水宗勝の養子となった。1908年(明治41年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。岡山県農会雑誌編集主任、『国民新聞』記者、『読売新聞』経済部長、『東京朝日新聞』経済部長を歴任し、また神田銀行調査部長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他に民政社理事、国政調査会理事長、万寿金鉱、東京貿易会館各社長などを務めた。
石原 雅二郎(いしはら つねじろう、1888年(明治21年)… 石原 雅二郎(いしはら つねじろう、1888年(明治21年)3月6日 - 1946年(昭和21年)11月8日)は、日本の内務・警察官僚、政治家、教育者。官選県知事、津市長、中央大学教授。 福岡県企救郡小倉町紺屋町(現北九州市小倉北区)で石原雅広の二男として生まれる。1906年、福岡県立中学修猷館、1910年7月、第一高等学校独法科を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 1915年9月、東京府属兼内務属となる。以後、栃木県理事官、特殊財産管理局事務官・第二課長、警保局図書課長、同外事課長、兼同保安課長、警察講習所教授兼内務書記官、社会局社会部長、同保険部長などを歴任。
向井 鹿松(むかい しかまつ 1888年〈明治21年〉3月6… 向井 鹿松(むかい しかまつ 1888年〈明治21年〉3月6日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の商業学者・経営学者・経済学者、教育者。 1888年、愛媛県西宇和郡四ツ浜村(現伊方町)に生まれる。向井孫一の長男。1909年、慶應義塾大学部理財科予科に入学。卒業後は同大学部の助手、商工学校と予科で兼任講師を務めた。 1919年から1922年に欧米へ海外留学を行い、経営学を学ぶ。帰国後は、慶應義塾大学教授に就任して商事経営、商業政策、取引所論、経営経済学、貨幣銀行論、金融論特殊問題の講義を担当した。 1937年に慶應義塾大学を退職し、名古屋商工会議所に移る。第二次世界大戦後の一時期は中央官庁に入り、物価庁で部長職を勤めた。
内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 196… 内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 1969年9月28日)は、日本の地理学者。日本における歴史地理学の開拓者と知られ、他に政治地理学・郷土教育などに功績がある。 佐賀県東松浦郡呼子(よぶこ)の士族の家に生まれた。唐津中学在学中、日露の日本海海戦の砲声を聞いた。同校を19歳で卒業し、23歳(1910年)の時東京高等師範学校本科地理歴史科を卒業し、当時唯一の地理学の専門課程があった京都帝国大学文科大学史学科に入学。 1913年(大正2年)、大学を卒業し、大学院に進学。1914-1916年までは同助手を勤める。この間、小川琢治・石橋五郎・中目覚らに学ぶ。また、日本近世史が専門の内田銀蔵や、東洋史の権威である内藤湖南にも学んだ。
森脇 忠(もりわき ただし、1888年(明治21年)3月3日… 森脇 忠(もりわき ただし、1888年(明治21年)3月3日 - 1949年(昭和24年)10月13日)は、日本の洋画家である。 島根県に生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する。1914年(大正3年)に卒業後は同年に自身の作品が文展に初入選され、以後官展にも出品を続けた。1920年(大正9年)には第三高等学校(現在の京都大学)にて教鞭を執り、1941年(昭和16年)までその職にあたった。また勤務中の1920年および1922年(大正11年)には帝展に出品され特選となり、1924年(大正13年)には京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の講師も務めた。 その後は中沢弘光に師事し、彼の作風に影響を受け室内や風景をシチュエーションとした裸婦画をよくし、油彩による日本風俗の表現を試みた作品の制作に携わる。
小林 錡(こばやし かなえ、1888年3月3日 - 1960… 小林 錡(こばやし かなえ、1888年3月3日 - 1960年10月25日)は、日本の政治家、検察官。衆議院議員(通算8期)、裁判官弾劾裁判所裁判長などを歴任した。 愛知県西加茂郡寺部村(現・豊田市)に生まれる。1903年(明治36年)3月、高橋村寺部尋常高等小学校(現・豊田市立寺部小学校)を卒業。1908年(明治41年)3月、東京府青山師範学校卒業。同年4月、東京市麹町尋常小学校(現・千代田区立麹町小学校)の訓導となる。 1912年(明治45年)、日本大学法文学部英法科卒業。1915年(大正4年)12月、判事検事登庸試験に合格。佐賀地方裁判所、甲府地方裁判所、東京地方裁判所などで検事を務める。
北山 清太郎(きたやま せいたろう、1888年3月3日 - … 北山 清太郎(きたやま せいたろう、1888年3月3日 - 1945年2月13日)は、下川凹天、幸内純一と並び称せられる「日本初のアニメーション作家」のひとりである。水彩画家、雑誌編集者、そして同時代の若い画家たちを支援した人物でもあった。日本水彩画会大阪支部代表、日本洋画協会を設立し美術雑誌を発刊、展覧会開催を行った。美術の世界を離れたあと、アニメの世界に転向、北山映画製作所を設立した。 1888年(明治21年)3月3日、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現在の同県和歌山市住吉町)に生まれる。父・清兵衛(1841年 - 1892年)、母・かつ乃(1854年 - 1937年)の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、1903年(明治36年)4月12日、家督を相続する。
熊田 周八(くまだ しゅうはち、1888年3月1日 - 19… 熊田 周八(くまだ しゅうはち、1888年3月1日 - 1948年11月10日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第4代市長、鶴岡市警防団長。
由谷 義治(ゆたに よしはる、明治21年(1888年)3月1… 由谷 義治(ゆたに よしはる、明治21年(1888年)3月1日 - 昭和33年(1958年)10月8日)は、日本の政治家、実業家。鳥取県多額納税者。鳥取市会議員、鳥取県会議員、衆議院議員。鳥取電機製造社長。 鳥取市川端四丁目、鹿野街道の呉服商で地主の由谷喜八郎の長男に生まれる。油谷家は県内屈指の資産家。 旧制鳥取県第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校卒業。在校中に同級生の橋浦時雄らと社会主義グループを結成。早稲田大学中退。父・喜八郎が創業した運送業に従事。1912年家督を相続する。二十代はもっぱら運送屋の若主人として、厚司と前垂れ姿でよく働いた。 1919年(大正8年)5月に市会議員、9月に県会議員となり、1924年に第15回衆議院議員総選挙で衆議院議員に当選して以来、太平洋戦争終結まで政治家として活躍した。
辰野 隆(たつの ゆたか、1888年3月1日 - 1964年… 辰野 隆(たつの ゆたか、1888年3月1日 - 1964年2月28日)は、フランス文学者、随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。
村上 義之助(むらかみ よしのすけ、1888年3月 - 19… 村上 義之助(むらかみ よしのすけ、1888年3月 - 1980年)は、大正から昭和にかけての日本の銀行家。 埼玉縣信用金庫初代理事長および会長、全国信用金庫連合会(現・信金中央金庫)会長を務めた。 埼玉県忍町(現・行田市)初代町長の村上多熊の次男として、忍町で生まれる。 埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)を経て埼玉県師範学校(現・埼玉大学)を卒業した。その後県下の3町村で小学校教員を務めたが、1915年(大正4年)に退職した。1918年に忍町北谷信用組合を設立し、専務理事に就任する。第一次世界大戦の好況期に創業したため、業績は順調で、預金量を増やした(1920年に「忍町信用組合」に改称)。
藤井 啓之助(ふじい けいのすけ、明治21年〈1888年〉3… 藤井 啓之助(ふじい けいのすけ、明治21年〈1888年〉3月 - 昭和34年〈1959年〉3月15日)は、日本の外交官。 群馬県群馬郡国府村(現・高崎市)に、藤井直次郎の次男として生まれる。在ホノルル日本総領事などをつとめた伯父・藤井三郎の跡を継ぐ。貴族院議員をつとめた都筑馨六は叔父にあたる。東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。 1913年(大正2年)10月外交官試験に合格。翌1914年(大正3年)から領事官補として長春、ホノルル、サンフランシスコに勤務。1918年(大正7年)からのワシントン勤務を経て、1920年(大正9年)廈門領事に任命される。1924年(大正13年)に電信・文書・翻訳課長、1926年(大正15年)に人事課長も兼ね、1930年(昭和5年)に在英日本大使館へ勤務することになりイギリスへ移った。
岩手 嘉雄(いわて よしお、1888年〈明治21年〉3月 -… 岩手 嘉雄(いわて よしお、1888年〈明治21年〉3月 - 1947年〈昭和22年〉8月26日)は、日本の外交官。駐コロンビア公使。 東京府において元津和野藩士で、下総御料牧場職員を務めていた岩手厚雄の子として生まれる。早逝した父の前妻は同藩の国学者である石河正養の二女。 1913年(大正2年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、外交官補としてアメリカ合衆国に赴任した。公使館三等書記官、領事、外務事務官、総領事、外務書記官・文書課長・翻訳課長、在カナダ日本国公使館一等書記官、ホノルル総領事、イタリア大使館参事官を歴任。1934年(昭和9年)から駐コロンビア公使を務めた。
卯田 浅治郎(うだ あさじろう、1888年(明治21年)3月… 卯田 浅治郎(うだ あさじろう、1888年(明治21年)3月 - 没年不明)は、日本の実業家。舞子土地専務。日本化学機械製作所監査役。天野合名顧問。族籍は滋賀県士族。 滋賀県・卯田傳吉の長男。立命館大学卒業。1921年、家督を相続する。会社の重役である。趣味は旅行、読書。宗教は真宗。住所は神戸舞子町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31… 三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31日 - 1970年(昭和45年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、内科医。最終階級は陸軍軍医中将。 兵庫県出身。三木駿三の長男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、第三高等学校を経て、1912年(明治45年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第20連隊付となる。1913年(大正2年)8月、東京第二陸軍病院(現国立成育医療研究センター)付となる。1914年(大正3年)8月、東京帝大大学院に入学。1915年(大正4年)8月、一等軍医に昇進し、歩兵第71連隊付、青島病院付、スイス駐在を務め、1921年(大正10年)3月、三等軍医正に進級しドイツ駐在となる。
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日… 沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・沢田栄之助の三男として生まれる。兄弟四人のうち、長男を除く三兄弟が陸軍将校となった。1899年(明治32年)4月に高知県立海南中学校に入校。同期は山下奉文で、永らく交友を結んだ。広島陸軍地方幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月15日、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月26日、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。野戦砲兵第22連隊付などを経て、1910年(明治43年)11月26日、陸軍砲工学校高等科を卒業。
南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月… 南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月29日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の衆議院議員。海軍軍人。弁護士。 兵庫県三原郡賀集村(現在の南あわじ市)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同大学院で学んだ後、海軍経理学校乙種学生を修了した。海軍では中主計から主計少佐に至った。その間、第十二駆逐隊主計長、臨時南洋群島防備隊附、砲艦「伏見」乗員、海軍経理学校教官、同監事を歴任した。1924年(大正13年)に予備役に編入された後は、弁護士を開業した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に兵庫2区(当時)から翼協非推薦で出馬し、当選を果たした。
塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日… 塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日 - 1958年(昭和33年)10月27日)は、日本の教育者である。旧姓は飯田。 千葉県印旛郡木下町(現在の印西市)に生まれ、千葉女子師範学校(現在の千葉大学教育学部・大学院教育学研究科)に入学する。1904年(明治37年)に卒業後は、成田尋常小学校(現在の成田市立成田小学校)で教鞭を執り以後千葉県内の小学校および師範学校の教師として活動した。1909年(明治42年)に水産学校の講師として活動した塩田文隣と結婚したことにより、夫の勤務地であった宮城県宮古市を経て岩手県、北海道内の学校に転勤する。 1919年(大正8年)に夫が死去したことにより、帰郷し布鎌尋常小学校(現在の栄町立布鎌小学校)にて訓導にあたった。
矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年… 矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年2月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月… 工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月26日 - 1932年(昭和7年)1月8日)は、日本の植物学者。現在の秋田県平鹿郡増田町(現横手市)縫殿生まれ。植物分類学の泰斗として知られる。 父祐哲は浄土真宗の寺院通覚寺の19世住職であり、祐舜は長男であったが、のちに弟祐信を養子として寺を継がせている。 1901年(明治34年)秋田県立第三中学校(現秋田県立横手高等学校)に入学、植物好きの教師宮沢運治に傾倒し、宮沢もまた工藤を殊の外かわいがって植物採集に連れまわし、あたかも助手のような扱いであったという。中学時代、すでに海外の植物園や博物館などと標本交換をおこない、学名不明の植物を札幌農学校の宮部金吾に送ったことで2人の文通が始まった。
加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)… 加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)3月26日 – 1973年(昭和48年)12月31日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。板橋区から練馬区の独立に貢献した。 東京府北豊島郡上土支田村(石神井村大字上土支田、大泉村大字上土支田、板橋区東大泉町、練馬区東大泉町を経て現東京都練馬区東大泉)で、農業・加藤信太郎、だい の第2子、長男として生まれる。1901年(明治34年)3月、大泉村立泉小学校(現練馬区立大泉小学校)高等科3学年を修了し東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に進んだが、病のため1902年(明治35年)11月に中退した。家業の肥料商を手伝い、1906年(明治39年)4月から私立正則予備学校、同英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月… 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。 米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
深川 繁治(ふかがわ しげはる、1887年〈明治20年〉3月… 深川 繁治(ふかがわ しげはる、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1976年〈昭和51年〉9月6日)は、日本の逓信官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県出身。1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。逓信管理局書記、逓信局事務官、通信副事務官・税関副事務官、東京中央郵便局長などを歴任。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、逓信局庶務課長・海事課長を経て、交通局参事・逓信部長、台北州内務部長などを務めた。1932年(昭和7年)に交通局理事・逓信部長に就任し、1935年(昭和10年)には文教局長に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、台湾放送協会常務理事を1943年(昭和18年)まで務めた。
赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24… 赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24日 - 1972年(昭和47年)9月24日)は、日本の農学博士・政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文化勲章受章者。 日本において砂防の重要さをいち早く説いた人物で「砂防の父」や「砂防の神様」と称される。 兄は中筋村(現豊岡市)村長の赤木一雄、甥に画家の赤木蘇夫二(そぶじ)、政治学者の赤木須留喜(するき)、子供は1男4女、三女(玲子)の岳父はドイツ語学者の武内大造、四女(淑子)の夫は生物学者の太田次郎。 兵庫県城崎郡中筋村(現豊岡市)引野に生まれる。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たる。
岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24… 岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24日 - 1937年(昭和12年)12月11日)は、日本の政治家。通算3回衆議院議員選挙に当選した。 兵庫県生まれ。1911年(明治44年)関西大学法律科を卒業、北海タイムスに入社し政治部記者となる。美唄町議、北海道議、北海道参事会員を経て、1928年(昭和3年)普通選挙が日本に導入されて初の総選挙に立憲民政党公認で旧北海道4区から立候補したが落選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に前回の総選挙と同じく民政党公認で立候補し初当選。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員選挙では次点だったものの、4年後の第19回衆議院議員選挙では再び当選し政界に返り咲いた。
吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1… 吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1945年9月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月2… 小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 - 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。 明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、東京の神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で、日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。
中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月… 中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を含め中山の作品と判明しているものだけで1770曲存在する。 一部の作品は現在も抒情歌または日本歌曲として歌い継がれている。長調の曲はほとんどがヨナ抜き音階で書かれている。また、童謡には「兎のダンス」や「蛙(かはづ)の夜回り」のようなピョンコ節がかなりある。その作品群は独特の曲調から俗に「晋平節」と呼ばれ親しまれている。 長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられ、長野師範学校講習科を修了後、1903年(明治36年)に尋常高等小学校の代用教員となる。
高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月… 高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月21日 - 1978年(昭和53年)9月19日)は、日本の実業家。日商株式会社(後の日商岩井、現・双日)の元会長。 愛媛県喜多郡内子町出身。父・宗次郎、母・タキセの長男。生家は内子町ではかなり古い家系で、誠一で14代目になる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。いわゆる“よろずや”だったが、誠一が小学校にあがる頃この“よろずや”を廃業し、生糸と木蝋の製造業を始めた。 旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)を経て神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。同期に永井幸太郎、出光佐三、和田恒輔。神戸高商在学中は三井物産への入社を志望していたが、尊敬する同校校長の水島銕也の推薦ということで鈴木商店に入社する。
秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日… 秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日 - 昭和20年(1945年)12月26日)は、明治から昭和にかけて活動した日本画家。本名、輝男。名前の読みについては、広島市内の秦姓はすべて静音で「はた」と読むというが、テルヲ自身は「はだ」と濁音で読ませた。 明治20年3月20日広島市に生まれる。幼少期に一家で京都市に移住するが、まもなく父が死去。貧困の中で明治37年京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業する。千總の輸出用ビロード工場に勤める傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励む。 明治42年、前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目的に千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加。
奥山 貞吉(おくやま ていきち、1887年〈明治20年〉3月… 奥山 貞吉(おくやま ていきち、1887年〈明治20年〉3月20日 - 1956年〈昭和31年〉6月2日)は日本のピアニスト、作曲家、編曲家、トロンボーン奏者。歌手の奥山彩子は実娘。 1887年(明治20年)東京茅場町に生まれる。東洋音楽学校卒業後、大正年間は船内のバンドでの活動を行った。昭和に入ると帝国ホテル主演のハタノ・オーケストラに所属する傍ら東京放送局で楽曲の編曲を担当し、浅草オペラ全盛期には金竜館の音楽部に所属し楽長を務めた。その頃に知り合った佐々紅華のすすめで後年はコロムビア専属となり、多くの作編曲を手掛けた。日本初のスライド・トロンボーンの奏者であったことでも知られる。1956年(昭和31年)に病死した。
青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月… 青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月19日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長。 青木丑松の四男として長野県東筑摩郡、のちの錦部村(四賀村を経て現松本市)に生まれる。小学校を経て、松本中学校に学ぶ。日本大学法律科に入学するが、中途退学する。1909年(明治42年)裁判所書記試験に合格し、東京府属となり、1923年(大正12年)南葛飾郡長を拝命する。ついで北豊島郡南千住町助役、1932年(昭和7年)東京市荒川区主事税務課長、1933年(昭和8年)庶務課長を経て、1938年(昭和13年)5月、江戸川区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。
竹下 しづの女(たけした しづのじょ、1887年3月19日 … 竹下 しづの女(たけした しづのじょ、1887年3月19日 - 1951年8月3日)は、日本の俳人。本名はシズノ。 福岡県京都郡稗田村(現:行橋市)出身。末松謙澄の兄の房泰に漢詩を学び、福岡女子師範学校(後の福岡教育大学)卒業後、6年間の教員生活を経て結婚退職し、2男3女を儲ける。夫の代作をきっかけに俳句に親しみ、育児の傍ら本格的に句作を始め、吉岡禅寺洞・高浜虚子に師事。虚子が主催する『ホトトギス』の巻頭を飾るなど、中央の俳壇でも認められるようになり、杉田久女・長谷川かな女とともに、大正期の女流黄金時代をつくった。1928年『ホトトギス』同人。 理知的な手法で、女性の自我や自立を詠った作品が多い。
斎藤 昌三(さいとう しょうぞう、1887年3月19日 - … 斎藤 昌三(さいとう しょうぞう、1887年3月19日 - 1961年11月26日)は、日本の古書学、蒐集家、発禁本研究などで「書痴(英語版)」と呼ばれた人物。猥褻本の研究、編訳でも知られる。 少雨叟など多くの号をもつ。 神奈川県高座郡座間村(現・座間市)に商人の子として生まれ、政三と名づけられるが、関東大震災後「昌三」と改名。 神奈川県立第三中学校(現・神奈川県立厚木高等学校)を1905年に中退、横浜の生糸商・原合名会社に勤務。銀行訪問が主な業務で、当時銀行に勤めていた小島烏水や礒萍水と知りあうきっかけとなった。1910年頃勤務をやめ職を転々とした。 1915年同人誌『樹海』を創刊、この雑誌は何度かの改題を経て続いた。
安念 精一(あんねん せいいち、1887年3月18日 - 1… 安念 精一(あんねん せいいち、1887年3月18日 - 1972年2月5日)は、日本の経営者、銀行家。安田銀行社長。安田財閥再建期の最高責任者。 富山県東礪波郡太田村(現・砺波市)出身。安念次左衛門の長男。1909年(明治42年)早稲田大学卒業。同年、安田銀行に入る。大正から昭和期にかけての安田系グループ企業の経営者。大垣共立銀行役員、安田信託銀行社長、などを経て、昭和20年(1945年)9月安田銀行(現・みずほ銀行)社長に就任。しかし、翌年、公職追放となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18… 坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18日 - 1978年(昭和53年)1月4日)は日本の美術史家。美術評論家・坂崎乙郎の父。西洋音楽史家・坂崎紀の祖父。 兵庫県生まれ。早稲田大学英文科卒業。1914年 朝日新聞社に入社。1921年から2年間フランス留学。美術記者から学芸・調査両部長、編集局顧問などを歴任。1936年 文学博士号(早稲田大学)を取得。1942年 朝日新聞社を定年退社。早稲田大学教授、女子美術大学教授、同短大学部長、実践女子大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を受章。
秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3… 秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3月17日 - 1946年(昭和21年)4月12日)は、国語教育学者で戦時中文部省で初等教育国語教科書の編纂に携わった。 秋田喜三郎は、1887年(明治20年)3月17日滋賀県栗太郡上田上村桐生(現大津市上田上桐生町)に生まれた。同郷の上田上村には2歳年下で後に京都帝国大学理学部(天文学)教授で多くのアマチュア天文学者を育てた山本一清がいる。一清の祖父は漢学者山本栗斎で、父は滋賀県内尋常小学校等で実際の教育の場に立った山本清美である。喜三郎はその青年期まで、すぐ近くに当時県内でも有数の教育者がいる中で育った。 1910年(明治43年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)を卒業、同附属小学校訓導となり、1920年(大正9年)には奈良女子高等師範学校附属小学校(現奈良女子大学附属小学校)に転じ、この間、国語教育実践の理論確立につとめ1914年(大正3年)『読方教授の新研』を発表し、以降多くの国語教育に関する著書を記した。
石井 保(いしい たもつ、1887年(明治20年)3月15日… 石井 保(いしい たもつ、1887年(明治20年)3月15日 - 1976年(昭和51年)2月1日)は、日本の内務官僚。憲政会系官選鳥取県知事、台湾総督府警務局長。 埼玉県北足立郡浦和町(現さいたま市)出身。高砂小学校長・石井弓一の二男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年(大正2年)1月27日、内務省に入省し東京府試補となる。 以後、警視庁特別高等課長、福井県警察部長、福岡県警察部長、神奈川県警察部長、警視庁書記官・衛生部長、同警務部長などを歴任。 1926年(大正15年)9月、鳥取県知事に就任。
植村 家治(うえむら いえさだ、1887年〈明治20年〉3月… 植村 家治(うえむら いえさだ、1887年〈明治20年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。元高取町長。旧大和高取藩第15代当主。 子爵・植村家壺の三男として生まれる。父の死去に伴い、1920年(大正9年)8月10日、子爵を襲爵した。 1913年(大正2年)東京外国語学校仏語専修科を卒業。1908年(明治41年)宮内省内匠寮京都派出所勤務となる。以後、鉄道院書記、鉄道省嘱託などを務めた。実業界では、日東化学研究所社長、満州パルプ工業監査役、昭和理化学研究所所長、東京大宮電気鉄道取締役などを務めた。 1930年(昭和5年)8月30日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
清 寛(きよし かん / せい ゆたか、1887年〈明治20… 清 寛(きよし かん / せい ゆたか、1887年〈明治20年〉3月13日 - 1966年〈昭和41年〉9月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 静岡県富士郡青木村(富丘村青木を経て現富士宮市)で、清重太郎、ゆう夫妻の息子として生まれた。名古屋市会議員、大蔵省委員、名古屋製紙、中央紙業、紙業新聞、中外商事、太陽製紙、帝国製紙各(株)取締役社長や重役、岐阜新聞、岐阜製紙、平湯温泉土地、濃飛印刷各(株)社長となる。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において岐阜1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。以来連続4回当選する。1942年の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けて当選する。
雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月1… 雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月27日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争時にアルゼンチン大使館附武官兼チリ公使館附武官を務めた海軍少将である。 福島県出身。会津中学四年修了で海軍兵学校に進む。1908年(明治41年)11月21日卒業(36期)。ハンモックナンバー4番。同期に沢本頼雄、南雲忠一、塚原二四三、佐藤市郎らがいる。海大甲種学生(17期)の同期生は豊田貞次郎、沢本頼雄、高橋伊望らである。 雪下は航海科専攻の士官で海軍大学校(以下「海大」)乙種学生を経て海大専修学生(航海術)を首席で卒業した。少佐に昇進後、皇太子裕仁親王の欧州訪問のお召艦となった「香取」航海長として渡欧した。
奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治… 奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治20年)3月10日-1967年(昭和42年)10月1日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会(日弁連)会長、第二東京弁護士会(二弁)会長を歴任。在野法曹界の元老格だった。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民(旧・名瀬市名誉市民)。 鹿児島県にある徳之島の亀津(現・大島郡徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校卒業(現・徳之島町立亀津小学校)。沖縄県にわたって学資をかせぎ、遭難のすえ宮崎県に漂着して鹿児島県本土経由で上京。東京で弁護士事務所の書生をしながら正則英語学校の夜学に通い、後にドイツ語教授の住み込み書生に転じて京華中学校 (旧制)卒業。1906年(明治39年)の旧制高等学校試験に合格。
金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 -… 金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 - 1963年5月22日)は、日本の牧師。 1887年、長野県南安曇郡上野村(現・松本市)に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、第一高等学校に入学、一高時代に、新渡戸稲造校長の感化を受けて、求道して、山室軍平の説教に感動して、松本教会で洗礼を受けた。一高在学中に山で遭難する。それをきっかけに伝道者になる決意をして、東京神学社に入学。 東京神学社卒業後、一時、朝鮮仁川に開拓伝道に赴く、帰国して日本基督教会の伝道師として、高知教会、牧師になってからは山梨教会、市ヶ谷教会(現、日本基督教団池袋西教会)の牧師として活動する。 1917年(大正6年)の2月11日から15日日本基督教会主宰の山梨修養会では、中田重治と一緒に説教した。
吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - … 吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - 1948年4月12日)は、日本の物理学者。愛媛県出身。主な著書に「物理学」、「物理学実験」がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月… 吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月10日 - 1967年(昭和42年)3月1日)は、日本の内務官僚、実業家。政友会系官選県知事、鳥取市長、鳥取銀行頭取。 現在の鳥取市立川町出身。第一高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。日本銀行に入るが三カ月で退職。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、鳥取県八頭郡長、宮城県理事官、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務、同都市計課長兼鉄道書記官、兼土木局河川課長などを歴任し、1924年、大阪府書記官・内務部長に就任。 1927年11月、青森県知事に就任。