池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 20… 池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 2000年4月22日 )は、日本の経営者。大和銀行頭取を務めた。 大阪府大阪市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に大和銀行に入行。1968年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年5月に副頭取に就任し、1977年4月に頭取に就任。1984年6月に取締役相談役に就任し、1986年6月に相談役を経て、1998年4月から顧問を務めた。 大阪銀行協会会長、朝日放送監査役、西日本旅客鉄道非常勤取締役を歴任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2000年4月22日肺炎により、大阪市の病院で死去。
浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19… 浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19日 - 1997年〈平成9年〉7月31日)は、日本の官僚、実業家。郵政事務次官、フジテレビジョン社長、日本民間放送連盟第5代会長を務めた。岐阜県出身。 京都帝国大学法学部卒業後、逓信省入省。経理局に配属される。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、1940年(昭和15年)9月に海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月に経理学校を卒業。工作艦明石に配属され、以後、海南警備府司令部付副官事務、舞鶴海軍航空隊主計長兼副官、第31航空廠会計科長、第三南遣艦隊司令部付、第33警備隊主計長兼副官を歴任。ミンダナオ島の戦いで辛酸をなめた。
高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 19… 高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 1990年9月25日)は、日本の昭和期の労働官僚、評論家。旧姓は富田。建築家の富田玲子は娘。 旧満洲長春に生まれる。1929年3月、長春西広場尋常小学校を卒業。長春高等女学校から、大連神明高等女学校に転校した。1933年(昭和8年)、東京女子大学英語専攻部に入学。当初、別の大学に入学したが、どうにも合わず2日で退学し、合格していた東京女子大学に1週間遅れで入学した。卒業後、直ぐに結婚し、医師の夫(道也)との間に1女2男をもうけた。娘は、建築家の富田玲子。 1943年の春に夫が召集され、旧満洲の陸軍病院へ。同年冬に5歳の長男を連れ満洲にわたるも、夫は南方へ転進。
原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日… 原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日 - 2000年〈平成12年〉12月12日)は、昭和から平成初期の政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)で、原田浜三郎、なか の二男として生まれた。早稲田大学商学部聴講生(講義録)修了。1932年(昭和7年)伊勢丹に入社し、その後、2年間兵役に就いた。1940年(昭和15年)日立航空機に移り、1945年(昭和20年)玉川村役場に入り、1852年(昭和27年)収入役に就任。1955年(昭和30年)合併で茅野町収入役となる。茅野市発足後、1958年(昭和33年)収入役、1963年(昭和38年)助役となる。1967年(昭和42年)に退職し、東洋精機興業に入社し事業部副部長に就任。
齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月… 齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月17日 - 1996年(平成8年)3月30日)は、日本の実業家。大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長。「東海の暴れん坊」の異名をとった。大昭和製紙創立者斉藤知一郎の長男。 齊藤知一郎の長男として静岡県に生まれた。 静岡県立沼津中学校を経て、1938年(昭和13年)に早稲田大学専門部商科、1941年(昭和16年)に日本大学専門部法科をそれぞれ卒業(旧制大学専門部は、旧制専門学校に相当)。父・知一郎が創業した大昭和製紙(現・日本製紙)に入社。取締役・専務・副社長を歴任。1961年(昭和36年)父の死後、2代目社長に就任。 1980年(昭和55年)から1981年(昭和56年)にかけて大昭和は過剰投資、過剰在庫、過剰借り入れにより経営危機に陥った。
相京 昌信(あいきょう まさのぶ、1916年4月17日 - … 相京 昌信(あいきょう まさのぶ、1916年4月17日 - 1991年12月28日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。愛知県出身。位階は従四位。 1941年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1966年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務を経て、1974年11月に専務に就任し、1976年6月に社長に昇格。1981年6月に会長を経て、1987年6月取締役相談役を経て、1989年6月には相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1991年12月28日呼吸不全のために死去。75歳没。死没日付をもって従七位から従四位に進階した。
勝守 すみ(かつもり すみ、1916年4月16日 - 198… 勝守 すみ(かつもり すみ、1916年4月16日 - 1982年3月17日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 富山県富山市生まれ。富山県立富山高等女学校を経て、1937年に奈良女子高等師範学校文科を卒業し、金蘭会高等女学校教諭。1938年に富山市立富山高等女学校教諭となる。1940年東京文理科大学入学。国史学を専攻し、同期に津田秀夫らがいる。1942年に卒業。1943年、群馬師範学校助教授を経て、1946年同校教授。1951年に群馬大学学芸学部講師となり、1953年助教授、1972年に同大学教育学部教授。 勤務地である群馬県の地域史研究に務め、関東長尾氏や太田道灌の研究を進めた。
鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 19… 鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 1976年9月16日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務めた。 京都府京都市出身。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、神戸製鋼所に入社した。総務部長、取締役、常務、専務を経て、1974年5月から副社長を務め、同年11月社長に就任した。 しかし、1976年9月16日在任中に急性心不全により死去。60歳没。
田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1… 田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1997年8月22日)は日本の政治家。参議院議員(3期)。熊本県天草郡河浦町(現天草市)出身。東亜同文書院大学卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉… 上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉4月15日 - 1973年〈昭和48年〉5月11日)は、日本の戦史研究家、軍人。防衛大学校教授を歴任。戦中に軍事史と出会って以来研究し、近世を中心とした体系的な軍事思想書を執筆した。 高知県吾川郡春野村(現・高知市)出身。1936年(昭和11年)、高知高等学校文科乙類卒業後、東京大学文学部西洋史科に入学し、林健太郎が研究室の副手をしていたため、上田と親交をそれ以来持つ。1939年(昭和14年)、東京大学大学院に進学し、参謀本部の委嘱により大場弥平少将(但し当時は予備役になっていた)の指導を受ける。この頃から軍事史を研究し始め、軍務に服して陸軍少尉になる。
品川 不二郎(しながわ ふじろう、1916年4月15日 - … 品川 不二郎(しながわ ふじろう、1916年4月15日 - 2012年3月28日)は、日本の教育心理学者。東京学芸大学名誉教授。 東京文理科大学卒、1962年「知能とpersonality traitsとの構造的関連に関する研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。東京学芸大学助教授、教授、1980年定年退官、名誉教授、洗足学園短期大学教授。1989年勲三等旭日中綬章叙勲。妻の品川孝子も教育学者で、共著も多い。 2012年3月28日に死去した事が親族からの死亡届により判明した。
二瀬川 政一(ふたせがわ まさいち、1916年4月15日 -… 二瀬川 政一(ふたせがわ まさいち、1916年4月15日 - 1959年8月22日)は、奈良県北葛城郡新庄町(現葛城市)出身で朝日山部屋に所属した大相撲力士。本名は井口 政一(旧姓安川)。最高位は東関脇。身長171cm、体重128kg。得意手は突っ張り、押し、右四つ、寄り。 1931年5月場所初土俵、その後ゆっくりではあったが着実に昇進し、1940年5月場所新入幕を果たした。二の腕から先の柔軟性を生かした突き押し、右四つからの腰の重い寄りを得意とした。ところがこの場所、横綱双葉山をはじめ上位陣に休場者が多く、相手方の横綱男女ノ川の対戦相手を番付の上から数えていくと、二瀬川にあたってしまったので、13日目、前日まで5勝7敗であったのに対戦が組まれ、敗れて負け越してしまった。
楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 200… 楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 2008年9月13日)は、日本の撮影技師である。名の読み「ひろゆき」は誤りである。 1916年(大正5年)4月14日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 旧制・京華中学校(現在の京華高等学校)を卒業する。1934年(昭和9年)、松竹蒲田撮影所に入社、撮影部に配属されて撮影助手となる。小原譲治、厚田雄春らに師事する。1936年(昭和11年)、撮影所が蒲田から新設の松竹大船撮影所に引越し、楠田も異動になる。 1943年(昭和18年)、技師に昇進し、木下恵介監督の第1作『花咲く港』で、木下とともに一本立ちする。また、翌1944年(昭和19年)に木下の妹の芳子(のちに脚本家として活動する)と結婚する。
小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014… 小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014年5月28日)は、日本の教育者、ファッションデザイナー育成者。文化服装学院名誉学院長、文化服装学院10代目学院長、文化女子大学教授、勲四等瑞宝章。 長野県須坂市出身。旧姓は花園。文化裁縫女学校(現:文化服装学院)卒業。 1916年4月14日に長野県須坂市で米穀商を営む父:花園亀(ヒサシ)、母:咲(さく)の第二子長女として生まれる。1933年、須坂高等女学校(現:須坂東高等学校)を卒業後、文化裁縫女学校(現:文化服装学院)本科に入学。1934年に研究科に進み、1935年に研究科卒業と同時に学院に残り教員の道を選び、助手として最年少19歳の「先生」となる。
南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年… 南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は松角 知己男(まつかど ちきお)。1936年(昭和11年)に大都映画に入社して助監督となり、その後、大毎東日映画部、日本映画社、満洲映画協会を経て、第二次世界大戦後に独立した。1964年(昭和39年)から成人映画を手がけ、黎明期の作家とされる。第八芸術映画プロダクション代表、「亜細亜文化振興会」情報部長を歴任した。 1916年(大正5年)4月13日、長崎県北高来郡湯江村(現在の同県諫早市高来町湯江)に生まれる。叔父に新国劇理事を経て、戦後、東宝取締役、東宝舞台代表取締役社長を歴任した俵藤丈夫(1893年 - 1964年)がいる。
笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 197… 笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 1970年9月16日)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手)。
菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)… 菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(一塁手、三塁手、外野手)。
高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2… 高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2000年2月5日)は、福島県福島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表監督を務め、2009年に日本サッカー殿堂入りした。 刈谷町立亀城小学校(現・刈谷市立亀城小学校)4年の時にサッカーをはじめ、愛知県刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)から早稲田高等学院を経て、早稲田大学に入学。在学中はア式蹴球部に所属した。 1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックの日本代表は、当時日本最強だった早稲田のメンバーを中心に構成されたが、在学中の1940年に開催予定の東京オリンピックは幻となった。大学卒業後の1941年(昭和16年)に日立製作所サッカー部に入り、同年の明治神宮競技大会において実業団の部で準優勝を飾った。
深水 藤子(ふかみず ふじこ、1916年4月10日 - 20… 深水 藤子(ふかみず ふじこ、1916年4月10日 - 2011年12月18日)は、日本の映画女優である。画家の伊東深水が同芸名の名づけ親で、本名は安田 富士子(やすだ ふじこ、旧姓)。戦前の日活京都の時代劇スター女優であり、戦後は沈黙したが、林海象監督の手によりふたたびスクリーンに登場した。
木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 20… 木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 2018年4月30日)は、日本の作曲家。兄は映画監督の木下恵介。兄が監督した映画の音楽を数多く手掛けた。 妻は元音楽プロデューサーでiLabシリーズを販売するパントロン・ワンの創業者である木下美智子(関根光致子)。 静岡県浜松市生まれ。映画監督として有名な木下恵介の弟で、妹に脚本家の楠田芳子がいた。 静岡県立浜松第一中学校(現:浜松北高等学校)を卒業後、1934年に上京し諸井三郎に音楽理論を学び、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)で声楽を学ぶ。1940年卒業、新交響楽団(現NHK交響楽団)の機関誌『フィルハーモニー』の編集に携わるが、応召して敗戦まで内地および支那で軍隊勤務する。
山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 20… 山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 2003年1月14日)は、挿絵画家、アートディレクター。 東京生まれ。東京美術学校工芸科図案部卒業後、東京シネマ漫画映画研究所員、チューデザイングループ主宰。児童文学に関する挿し絵、絵本多数。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 198… 浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 1987年2月1日)は、愛知県出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 愛知一中時代は陸上選手として活躍。卒業後はアマチュア野球の大連実業団でプレーし、愛知県警を経て1936年に名古屋軍へ入団。秋季リーグ途中に大東京軍へ移籍し、翌年は4番打者として活躍した。途中、満州化学工業へ移籍するが、のち朝日軍(大東京から名称変更)でプロに復帰。1943年途中で応召された。戦後の1946年7月に外地から引き上げ社会人野球の強豪チーム熊谷組で選手兼任監督に就任し、2年連続で都市対抗野球にも出場した。1952年に35歳という年齢で東急フライヤーズでプロに復帰し、5番打者として活躍。
大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - … 大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は、元早稲田大学教授。大西鉄之祐とも。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。 早大選手時代のポジションはフランカー。卒業後は東芝に就職するも兵役に就き終戦を迎える。戦後、早大職員から教授へ。後に早大ラグビー部監督に就任する。兄の栄造も早大の選手・監督だった。 1950年度シーズンより早大監督に就任。以後5シーズン監督を務め、1950年、1952年、1953年の各年度において東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦に勝利し、『全国制覇』をもたらした。また、この第1期監督時代に優勝時に「荒ぶる」を歌唱する伝統が始まった。
大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 19… 大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は元早稲田大学教授。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。
中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969… 中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969年12月9日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1916年(大正5年)4月7日、東京府北多摩郡巣鴨村大字池袋(現在の東京都豊島区池袋)に、成蹊学園の創設者である中村春二の五男として生まれる。 1929年(昭和4年)、東京高師附属小学校(現在の筑波大附属小)、1934年(昭和9年)に東京高師附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同級生には澄田智(第25代日本銀行総裁)がいた。旧制第一高等学校(1950年廃止)を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学科へ進学し、父・春二とほぼ同じ学校歴をたどる。 東京帝国大学在学中から、後に映画監督となる家城巳代治や堀川弘通、同じく後に映画評論家として活躍する登川直樹や清水晶と交流し、1940年(昭和15年)、大学を卒業と同時に東宝に入社した。
岩井 一成(いわい いっせい、1916年4月6日 - 199… 岩井 一成(いわい いっせい、1916年4月6日 - 1996年1月22日)は、日本の薬学者、薬化学者。父は医学者の岩井誠四郎。 東京出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学医学部薬学科を卒業後、同年4月東京帝国大学医学部に奉職、その後4年間にわたる海軍短期現役勤務を経た後、1946年(昭和21年)1月同大学医学部薬化学教室副手に復職、落合英二教授のもとで戦後の薬化学教室の再興に当り、同教室の中心テーマであったヘテロ環化学の発展に貢献した。 1951年(昭和26年)から5年間助教授として九州大学薬学科の建設に参画、津田恭介教授を助けて薬化学教室の基礎を築いた。 1956年(昭和31年)に退職して、三共に入社。
丸山 儀四郎(まるやま ぎしろう、1916年4月4日 - 1… 丸山 儀四郎(まるやま ぎしろう、1916年4月4日 - 1986年7月5日)は、確率過程論研究の指導者として知られる日本の数学者である。オイラー・丸山法(Euler–Maruyama method)でも知られる。日本学術会議会員、日本数学会理事長。 長野県東筑摩郡上川手村(現安曇野市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学卒業。昭和16年(1941年)九州帝国大学助手、同25年(1950年)お茶の水女子大学教授、同31年(1956年)九州大学教授、同40年(1965年)東京教育大学教授、同48年(1973年)東京大学教授、同60年(1985年)東京電機大学教授、理学部数理学科長などを歴任した。
森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - … 森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - 2011年(平成23年)7月14日)は、日本の実業家。東洋水産創業者。静岡県賀茂郡田子村(現在の西伊豆町)出身。静岡県立豆陽中学校(旧制)(後の静岡県立下田高等学校)、水産講習所(現在の東京海洋大学)卒業。 実家は元々漁業を営んでいたが、父の代で冷蔵製氷業に転じ、1919年(大正8年)に田子製氷株式会社(2007年(平成19年)に東洋水産に吸収合併される)を設立し、田子村で冷蔵庫を運営していた。 和夫は水産講習所卒業後水産会社に就職するが、間もなく徴兵され、旅順の陸軍予備士官学校を経て1939年(昭和14年)のノモンハン事件に従軍。所属していた部隊がほとんど全滅に近い被害を受ける中、かろうじて生き残り帰国する。
中尾 辰義(なかお たつよし、1916年(大正5年)4月1日… 中尾 辰義(なかお たつよし、1916年(大正5年)4月1日 - 2012年(平成24年)12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)。 鹿児島県日置郡串木野村(串木野町、串木野市を経ていちき串木野市)下名の後の串木野市元町に生まれる。1930年3月串木野高等小学校卒業。その後大阪市で学び、1936年3月旧制上宮中学校(現上宮高等学校)卒業、1940年3月大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)卒業。1940年12月歩兵入隊、1946年6月内地へ復員。1953年4月大阪市東区で歯科医院を開設し、創価学会に入会。 創価学会船場支部長から1957年(昭和32年)4月の参議院大阪府選挙区補欠選挙に創価学会系無所属として出馬したが落選。
水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 199… 水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 1991年)は、日本の児童文学者、児童文学研究者。 岡山県生まれ。1939年早稲田大学文学部卒業、中央公論社に入社、児童出版研究課員。48年退社。早大在学中から早大童話会に属し、岡本良雄、町本広、鈴木隆らとともに児童文学の創作、研究を行う。坪田譲治に師事し、「びわの実学校」同人。赤い鳥文学賞選考委員。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
那須 聖(なす きよし、1916年4月 - 2017年6月)… 那須 聖(なす きよし、1916年4月 - 2017年6月)は、ニューヨーク在住の外交評論家。 大正5年4月、米国カリフォルニア州に生まれる。 6歳の時、東京に移住。翌年、関東大震災を体験。 神戸に移り、関西学院大学で心理学を専攻。 当時から心理学界で異端視されていた霊を研究対象にする超心理学の研究を始める。 卒業後、昭和15年、東京帝国大学航空研究所嘱託として航空心理学の研究に従事。真珠湾奇襲攻撃直後に陸軍に応招。 戦後、毎日新聞社に入社。 昭和27年、コロンビア大学で国際関係論・国際機構論を専攻。 毎日新聞社外信部副部長、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、論説委員を歴任。 退社後、ニューヨークで外交評論家として新聞、雑誌などに寄稿する傍ら、各地で講演を行い、この間、吉田茂首相をはじめ、9名の日本の首相と対談。
橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月… 橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月30日 - 没年不明)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 熊本県出身。1936年に熊本高等工業学校土木科を卒業し、同年に西松組(のちの西松建設)に入社。1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年11月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1983年6月に会長、1987年6月に取締役相談役を経て、1991年6月から顧問を務めた。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 19… 近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 1997年1月21日)は、日本の環境共生学者・研究者・指導者。探検家。専門は植物遺伝育種学などで、種無しスイカの生みの親でもある。三重県松阪市生まれ。 1915年、小津茂右衛門の次男として生まれる。は旧制津中学(現・三重県立津高等学校)を経て1939年、東京農業大学農学部農学科卒業。京都帝国大学農学部遺伝子研究室副手。1941年、財団法人木原生物学研究所所員。1944年同研究所主任。1948年、同研究所主任・京都大学副手を辞任、東京農業大学助教授就任。1950年、東京農業大学育種学研究所創設。1954年に農学博士。1957年、東京農業大学教授就任。
前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日… 前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日 - 2008年(平成20年)12月23日)は、日本の日本画家。京都の町屋造りの老舗を描いた「京の老舗」シリーズで知られる。
宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月2… 宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月27日 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人(軍医将校)、医師。最終階級は陸軍軍医少佐。かつて731部隊に所属していた。宮崎神経科嵯峨病院創立者。子に豊田潤多郎、孫に豊田剛一郎。紺綬褒章受章者。 兵庫県出身。宮崎伝治の長男として生まれる。旧制姫路高等学校理科乙類を経て、1939年(昭和14年)に京都帝国大学医学部を卒業後、近衛歩兵第1連隊付軍医中尉に任官。1943年(昭和18年)軍医少佐に累進後、陸軍軍医学校教官兼陸軍軍医学校中山出張所長を務める。1946年(昭和21年)千葉県血清製造初代所長となり、1948年(昭和23年)公職追放され医院を開業。
菅 泰男(すが やすお、1915年4月26日 - 2007年… 菅 泰男(すが やすお、1915年4月26日 - 2007年6月5日)は、日本の英米文学者。シェイクスピア文学等が専門。 京都市出身。1939年京都帝国大学文学部英文科を卒業し、同大学院に進学。京都女子大学講師、1949年8月京都大学吉田分校助教授を経て、1953年5月京都大学文学部助教授、1961年7月教授に昇任、1962年「シェイクスピアの劇場と舞台」で京都大学文学博士。1979年定年退官、名誉教授、甲南女子大学文学部教授、明星大学人文学部教授、大阪府立国際児童文学館館長・理事長を務めた。また、アメリカ学会会長、日本演劇学会副会長、日本英文学会理事等を歴任。それらの功績により、1991年勲三等旭日中綬章、1994年大阪文化賞を受賞、1998年には京都市文化功労者に選ばれた。
小山 進次郎(こやま しんじろう、1915年(大正4年)4月… 小山 進次郎(こやま しんじろう、1915年(大正4年)4月26日 - 1972年(昭和47年)9月5日)は、日本の官僚。厚生省で年金局長、保険局長などを歴任し、退官後は社会保障制度審議会委員などを務めた。戦後、現在の生活保護法の成立に力を尽くし、「生活保護法の解釈と運用」の著者として知られる。 新潟県柏崎市中浜で、呉服商の家に生まれる。父は藤吉、母は芳。1928年(昭和3年)、宇都宮中央尋常小学校から栃木県立宇都宮中学校に進学。1930年に宮城県立仙台第一中学校へ転向し、1932年に4年修了、第二高等学校文化乙類に入学。1935年、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1937年秋に高等試験行政科に合格すると、翌1938年の卒業後、内務省から分離して新たに設立されたばかりの厚生省に採用となり、社会局に勤務した。
山邊 武郎(やまべ たけお、1915年4月26日 - 199… 山邊 武郎(やまべ たけお、1915年4月26日 - 1992年7月21日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。神奈川大学元学長。専門はクロマトグラフィー科学、無機化学。イオン交換樹脂膜を用いて海水淡水化する研究で知られる。日本海水学会会長、電気透析研究会会長などを歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉岡 たすく(よしおか たすく、1915年4月24日 - 2… 吉岡 たすく(よしおか たすく、1915年4月24日 - 2000年5月22日)は、大阪府出身の児童文化研究家。テレビの教育相談番組で活動した。本名は吉岡 佐(読みは同じ)。 大阪府立生野中学を経て大阪府天王寺師範学校を卒業し、後に泉大津市に移住。1935年から大阪府高石市の小学校の教員や校長を務める傍ら、幼児教育・文化、童話などの研究を進めた。元日本サッカー協会会長である川淵三郎は、高石小学校教諭時代の教え子である。 1975年3月に退職後、研究活動を続けながら、全国各地で講演を行い、著作を発表。毎日放送『八木治郎ショー』レギュラー出演のほか、NHK教育テレビ『おかあさんの勉強室』にたびたび出演した。
酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24… 酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24日 - 1967年〈昭和42年〉10月23日)は、日本の華族。正五位・子爵、旧松嶺藩主酒井家10代当主。
荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23… 荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23日 - 2004年〈平成14年〉6月14日)は、日本の小説家、編集者、警察官。 群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)に生まれる。内務省警察講習所(警察大学校)卒。警視庁に十年間勤務し、山岡荘八に師事、戦後犯罪小説や推理小説を書いた。1951年日本出版タイムス社に迎えられ、『週刊タイムス』編集局長を勤める。妻は詩人の荻原欣子(1925-2018)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 199… 北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 1995年2月3日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 北海道出身。旧制北海中学校を経て、1938年(昭和13年)北海道帝国大学農学部卒。大学卒業後、北海道庁に入庁。林野庁旭川営林局本庁を経て、1951年(昭和26年)全農林労働組合中央執行委員長に就任。1956年(昭和31年)、第4回参議院議員通常選挙全国区に日本社会党から出馬し当選、以後3期務めた。社会党内では左派に属した。1963年(昭和38年)参議院建設委員会委員長、1970年(昭和45年)参議院災害対策特別委員長を歴任した。引退後は、全国高齢者退職者連絡協議会会長などを務める。 1985年(昭和60年)勲二等瑞宝章受章(勲六等からの昇叙)。
尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22… 尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22日 - 1945年〈昭和20年〉5月15日)は、日本の作曲家。 静岡県で生まれ、1937年から東洋音楽学校 (現:東京音楽大学)でピアノを学ぶ。在学中からドイツより帰国した諸井三郎の門を叩き、作曲を師事した。 1936年、日本現代作曲家連盟に入会し、自作を発表、また1938年には深井史郎、安部幸明、小倉朗らと楽団プロメテを結成し活動した。1939年8月、応召を受け、北中国および南方戦線に派遣され、1942年に一旦帰還し、映画会社に勤務するも、翌1943年には再び満州および中国戦線に派遣され、1945年、江西省全県にて虫垂炎のため戦病死した。
牛田 寛(うしだ ひろし、1915年〈大正4年〉4月22日 … 牛田 寛(うしだ ひろし、1915年〈大正4年〉4月22日 - 1965年〈昭和40年〉1月10日)は、日本の政治家、宗教家。参議院議員(1期)。 東京市(現・東京都)に生まれる。横浜高等工業学校(現在の横浜国立大学)機械工学科を卒業後、東京計器製作所(現・東京計器)に勤める。 戦後、都立機械工業専門学校教授、東京都立大学工学部講師を務める。創価学会男子部長(初代)、同会青年部長(第2代)、同会理事、学術部長(初代:1962年9月~)、南米総支部長(初代:1962年11月)等を歴任する。 1959年6月2日、第5回参議院議員通常選挙に、創価学会系無所属として全国区から立候補し、創価学会現役幹部の原島宏治、小平芳平らと共に、当選(当選1期)する。
平尾 収(ひらお おさむ、1915年4月21日 - 1995… 平尾 収(ひらお おさむ、1915年4月21日 - 1995年7月4日)は、日本の自動車工学者。東京大学生産技術研究所の教授を務めた。東京大学名誉教授。人-自動車系という考えを早くから打ち出し、「人動車(Anthro-mobile)」という概念を作り出した。また、人動車の研究の過程で「微分ハンドル」を発明した。 牛生扇という筆名も持つ。 2001年、日本自動車殿堂入り。
文村 潤(ふみむら じゅん)、1915年4月21日 - 19… 文村 潤(ふみむら じゅん)、1915年4月21日 - 1983年7月6日)は、日本の翻訳家。 本名は加能 越郎 (かのう えつろう)。東京府(現・東京都新宿区)出身。 1939年東京帝国大学法学部卒業。旺文社で編集に携わり、常務理事を務める傍ら、英米の推理小説を訳した。 1983年、肺癌で死去。
秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 … 秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 - 1994年7月9日)は、日本のジャーナリスト。滋賀県出身。朝日新聞社専務取締役、日本ジャーナリスト会議代表委員を務めた。 浄土真宗本派本願寺派至心山円徳寺住職の父諦観と母いくの次男として生まれる。1936年3月、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)露語部を卒業する。 同1936年8月、大阪朝日新聞社に準試用社員として入社し、奈良通信部に配属される。1937年1月、兵役に召集され、金沢の騎兵第9連隊に入営のため朝日新聞社を休職。満州ハルビンに配属されて初年兵の教育を受け、幹部候補生に採用されて6月に一等兵として帰国。翌1938年1月千葉県習志野の陸軍騎兵学校に入校、7月少尉任官、騎兵第9連隊が駐屯中の中国・蘇州で原隊復帰。
藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 199… 藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 1996年1月25日)は、日本の政治家。叙正三位勲一等旭日大綬章。 井原市名誉市民。労働大臣、大蔵政務次官などを務めた。 岡山県井原市出身。興譲館中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部卒業。東大法学部では、矢部貞治に師事。帝国石油に就職したが短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。第101燃料廠に配属されバリックパダンに赴任。同廠スラバヤ出張所主任を経て、1943年11月、海軍主計大尉に昇進し同廠会計部員に就任。1944年9月、海軍省軍務局御用掛兼軍需省軍需官となり終戦を迎えた。
坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4… 坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4月13日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、日本の武道家。段位は空手道範士九段、剣道範士七段、居合道範士八段、杖道教士七段。空手家の摩文仁賢和の高弟で、糸洲派正統第三世を継承した。本名、坂上博一(ひろかず)。 1915年兵庫県川西市生まれ、8歳より剣道を伊丹市の修武館道場で学び、後に富山円、志賀矩両範士に師事する。14歳の時に、地元在住、沖縄県出身の玉城より、松茂浪派(泊手)の空手を学ぶ。1933年より居合道無双直伝英信流を穂岐山波雄、福井春政両範士に学ぶ。 1935年4月、国士舘剣道科(現・国士舘大学)に入学。在学中に、沖縄県出身で同期の石川春善と共に、当時笹塚に住んでいた屋比久孟伝より空手道並びに琉球古武道を学ぶ。
河本 将(こうもと まさ、1915年(大正4年)4月12日 … 河本 将(こうもと まさ、1915年(大正4年)4月12日 - 没年不詳)は、日本の女性ファッションデザイナーである。本姓は山崎。 京都にて河本大作の長女として生まれる。後に上京し桜蔭高等学校卒業後、伊東茂平に師事し洋裁を学んだ。1941年(昭和26年)に鐘淵紡績(後のカネボウ、現在のクラシエホールディングス)に入社し、同社が製造・販売するディオールの商品開発を担当し、使用普及に貢献した。 1967年(昭和42年)に退社後はフリーランスとしての活動を開始し、後に自身が主催するファッションショーの開催を始める。1975年(昭和50年)には当時イギリス国王であったエリザベス2世の専属デザイナー・ハーディー・エイミス(英語版)日本銀座店の店長を務めた。