川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月2… 川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月20日 - 1969年〈昭和44年〉4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。静岡県袋井市生まれ。 父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。 昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934… 林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934年12月2日)は、日本のドイツ文学者。 長野県出身。号は鴎南(おうなん)。1908年東京帝国大学文学部独文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)、第二高等学校、第三高等学校教授を務める。ゲーテ研究のほか,演劇評論でも知られた。三高では文芸部長を務め、織田作之助,青山光二らの指導にあたった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1… 宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1944年4月22日)は、日本の刑法学者・裁判官。茨城県出身。 学説においては近代学派の立場に立つが、牧野英一の主観主義犯罪論が罪刑法定主義の解消の可能性さえ含んでいたのと異なり、可罰類型阻却原因という概念を立てて刑法の謙抑主義を強調した。弟子に前期旧派の立場に立つ佐伯千仭がいる。また、滝川事件のさいの「復帰組」教官の一人として知られる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 19… 白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 1985年6月2日)は、日本の牧師。日本基督教団第5代議長。クリスチャン政治家加藤勝弥の従兄。加藤俊子の甥にあたる。 廻船問屋白井勝太郎の3男として新潟に生まれる。1892年(明治5年)に両親が長老派の日本基督新潟教会(現・日本基督教団東中通教会)でキリスト教に入信すると、日本基督教会巡回牧師石原保太郎から長老派の幼児洗礼を受ける。 1899年(明治32年)に北越商興会付属新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)を卒業する。1899年の夏に信仰告白をし堅信礼を受け、日本基督新潟教会の日曜学校の教師になり、日曜学校で教える。1906年(明治39年)に上京し、東京神学社本科に入学し、植村正久の薫陶を受ける。
羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日… 羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日)は東洋史学者。京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。
八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15… 八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15年)5月15日 - 1966年(昭和41年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。 実母のはつが早くに家を出て他家に嫁いだため母親を知らずに育つ。父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、息子がうまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったという。1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。芸修業のため小学校3年生までで退学する。1896年(明治29年)市川茂々太郎を襲名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。
磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没… 磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名磯貝 子之助(いそがい ねのすけ)、旧芸名磯川 元春(いそがわ もとはる)。 1882年(明治15年)5月15日、東京府東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。父は「沢村源之助」で、磯川が数え年2歳(1883年)で父と死別している、とされるが、初代から三代目までの「沢村源之助」は江戸時代にすでに死去しており、四代目沢村源之助が亡くなったのは1936年(昭和11年)であり、そのとき磯川はすでに数え年55歳である。 数え年17歳のときには、父の遺志によって実業に就く。しかし磯川は演劇を志して「川上音二郎一座」に参加、翌1899年(明治32年)秋には、満17歳にして『当り的』で東京・新富座の舞台に立った。
三善 信房(みよし のぶふさ、1882年5月14日 - 19… 三善 信房(みよし のぶふさ、1882年5月14日 - 1965年4月4日)は、日本の政治家・農業指導者。衆議院議員(4期)。藍綬褒章、正四位勲二等瑞宝章受章。 三善信三郎の三男として現・熊本県上益城郡嘉島町に生まれた。1903年旧制熊本県立熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を卒業し、高等小学校に勤務した。 1919年、熊本県会議員選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選、以後連続3期県会議員に当選した。県会議員時代は県参事会員も兼務した。1932年の第18回衆議院議員総選挙に県会選挙同様政友会公認で立候補し初当選、以降連続4回衆議院議員総選挙に当選した。中央政界に入ってからは馬政局参与等を務め、1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月1… 斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。
芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月… 芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月12日 - 1956年(昭和31年)9月29日、旧姓・曾禰 )は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した実業家。伯爵。「千葉心中」と呼ばれる身分違いの心中事件で世を騒がせた芳川鎌子の夫。 曾禰荒助子爵の次男として生まれる。1905年(明治38年)東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。同級生には、政治家の内田信也や京城電気(現・韓国電力公社)社長の武者錬三がいた。のち芳川顕正伯爵の四女・鎌子(1891-1921)と結婚して芳川家の婿養子となる。男子に恵まれなかったため、資産等は娘・明子の婿である芳川三光(三室戸敬光三男)が相続している。 高等商業の先輩である犬塚信太郎や、その友人でもあった秋山真之と親しく、犬塚や秋山とともに、孫文の革命派を支援した。
草間 秀雄(くさま ひでお、1882年(明治15年)5月10… 草間 秀雄(くさま ひでお、1882年(明治15年)5月10日 - 1960年(昭和35年)8月30日)は、日本の大蔵官僚、弁護士。長崎市長。 福井県出身。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、大蔵属となり、高等文官試験に合格した。税務監督官補、税務監督局事務官、税務監督官、ロシア駐箚財務官、大蔵書記官、主税局国税課長、造幣局長、朝鮮総督府財務局長・朝鮮銀行監理官・東洋拓殖監理官を歴任した。 退官後の1931年(昭和6年)に長崎市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。 市長退任後は、満洲採金株式会社副理事長、同理事長に就任したほか、1938年(昭和13年)からは日本産金振興株式会社副社長を務めた。
関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9… 関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9日 - 1958年〈昭和33年〉12月21日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲民政党)、前橋市長、群馬県会議員。俳人としても知られ、号は雨亭。 群馬県新田郡木崎町大字赤堀(現在の太田市新田赤堀町)に、父貞作、母いすの長男として生まれる。1900年(明治33年)群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)を卒業、1903年(明治36年)に旧制第二高等学校を卒業、1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学英法科を卒業した。文部省に入省するが、1年で退官。1909年(明治42年)、司法官試補となり、前橋地方裁判所に勤務した。やがて判事に昇進し、1911年(明治44年)には甲府地方裁判所に異動するが、1913年(大正2年)に退官した。
桂山 勘五郎(かつらやま かんごろう、1882年5月8日 -… 桂山 勘五郎(かつらやま かんごろう、1882年5月8日 - 1926年8月5日)は、新潟県西頚城郡能生町(現在の糸魚川市)出身で尾車部屋、朝日山部屋、再度尾車部屋に所属した力士。本名は笠原 嘉三(舟三とも)。165cm、79kg。最高位は西前頭6枚目。 入門前は金融業に就いていたが、元大関大戸平廣吉の尾車門人となり、陣立の四股名で1900年5月初土俵。1909年6月十両昇進、1910年1月新入幕。その後1911年10月に大坂相撲に加入したが、復帰して桂山に改名、6枚目まで躍進する。再び陣立に改名したのち、1915年6月を以て廃業した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
中村 隆治(なかむら りゅうじ、1882年〈明治15年〉5月… 中村 隆治(なかむら りゅうじ、1882年〈明治15年〉5月7日 - 1943年〈昭和18年〉4月9日)は、日本の精神医学者、精神科医。医学博士。新潟医学専門学校精神病学教室初代教授。新潟医科大学名誉教授。位階は正三位。 新潟県北蒲原郡水原町上町(現 阿賀野市中央町)の老舗・中村新吉菓子店の次男として出生。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1907年(明治40年)10月に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)を卒業。 妹の病気を治療するために東京帝国大学医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)12月に同大学を卒業、妹の病気を治療した。
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年… 金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て、立教大学教授、東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。学位は、文学博士(東京帝国大学)。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章・文化勲章。盛岡市名誉市民。歌人・石川啄木の親友であったことでも有名。 長男の春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者。 1882年(明治15年)5月5日、盛岡の四ツ家町に金田一久米之助・ヤス夫妻の長男として誕生。姉1人、弟6人、妹3人の11人兄弟だった。
猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 196… 猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 1963年7月3日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本の歴史学者、国文学者。 雅号は恩頼堂学人(おんらいどうがくじん)、電影子(でんえいし)、樟園(しょうえん)。 1882年(明治15年)5月5日、蜂須賀喜心(よしざね、蜂須賀重喜次男・喜翰の末裔)の三男として誕生する。 1895年(明治28年)、13歳で猪熊家の戸主・猪熊全昌の養子となる。旧制高松中学校を卒業する。 1905年(明治38年)、鹿児島県の第七高等学校を卒業し、京都帝国大学工科大学に進学して電気工学を学んだ。 1916年(大正5年)、自身が志した宸筆研究の集大成として『宸筆集』を刊行し、宸筆博士(しんぴつはかせ)の異名を得る。
堀切 善兵衛(ほりきり ぜんべえ、1882年〈明治15年〉5… 堀切 善兵衛(ほりきり ぜんべえ、1882年〈明治15年〉5月4日 - 1946年〈昭和21年〉11月25日)は、日本の政党政治家・経済学者。立憲政友会所属。位階および勲等は従三位・勲一等。 1912年(明治45年)の第11回総選挙から1937年(昭和12年)の食い逃げ解散選挙まで連続10回の当選を果たし、その間1929年(昭和4年)には第27代衆議院議長に選出された。経済学者でもあり、経済学者としての専門は経済原論・財政学・商業政策・殖民政策である。内務官僚で東京市長・法制局長官・内閣書記官長・内務大臣などを歴任した堀切善次郎と衆議院議員を務めた内池久五郎は弟にあたる。 堀切良平の長男として福島県信夫郡上飯坂村(現:福島県福島市)に生まれる。
野上 俊夫(のがみ としお、1882年5月2日-1963年5… 野上 俊夫(のがみ としお、1882年5月2日-1963年5月24日)は、日本の心理学者、京都帝国大学名誉教授。新潟県佐渡出身。会津八一は新潟中学校の同級生。第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文学部心理学科卒。1911年京都帝大助教授、1915年米国へ留学、1917年教授、1942年定年退官、名誉教授、浪速大学(現在の大阪府立大学)教授、京都女子大学教授。米国の青年心理学者スタンリー・ホールの影響を受け、実際的な心理学を目指した。
石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日… 石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日 - 1946年(昭和21年)9月15日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。弁護士。 茨城県行方郡要村(現:行方市小幡)出身。茨城県立水戸中学校、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。卒業後は貴族院事務局に勤務し、立教大学講師を務めた。1912年(明治45年)、水戸市に弁護士事務所を開業。その後、水戸市議会議員を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)、台北市に事務所を移し、台北弁護士会副会長、同会会長を歴任した。
池田 隆徳(いけだ りゅうとく、1882年5月 - 1966… 池田 隆徳(いけだ りゅうとく、1882年5月 - 1966年)は、日本の精神医学者。巣鴨保養院院長、東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)教授。学位は、医学博士。 1882年5月、福岡県に生まれる。1900年、福岡県中学修猷館、1903年、第五高等学校医科を経て、1908年、東京帝国大学医科大学を卒業し大学院に進み、呉秀三のもとで精神病学を研究する。その傍ら、同大学で助手、東京府巣鴨病院(東京都立松沢病院の前身)で医員を務める。1910年6月、巣鴨保養院院長に就任し、精神病者救治会事業で呉秀三を支えた。東京女子医学専門学校教授も務めている。 巣鴨保養院では、1924年7月31日に統合失調症と診断された作家島田清次郎が入院しており、池田が診療を行ったが、1930年4月29日にここで死去している。
元田 敏夫(もとだ としお、1882年(明治15年)5月 -… 元田 敏夫(もとだ としお、1882年(明治15年)5月 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、日本の内務官僚。官選県知事。
川口 南海雄(かわぐち なみお、1882年(明治15年)5月… 川口 南海雄(かわぐち なみお、1882年(明治15年)5月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。弁護士。 高知県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業して専売局嘱託となり、東京府属、奈良県警視、同添上郡長、宮崎県理事官、事務官、佐賀県書記官を歴任し、1929年(昭和4年)に沖縄県書記官・内務部長に就任した。 退官後、弁護士を開業し、1934年(昭和9年)から姫路市助役を務めた。
山崎 一保(やまざき かずやす、1882年(明治15年)5月… 山崎 一保(やまざき かずやす、1882年(明治15年)5月 - 1944年(昭和19年)3月21日)は、日本の実業家。東洋綿花代表取締役会長や、輸出綿糸布同業会会長を務めた。 京都府出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井物産入社。1914年同社大阪支店綿花部副部長。1920年に綿花部が東洋綿花として独立すると、同社常務取締役に就任。児玉一造を補佐し、1930年には児玉の後任として専務取締役に就任。同年に児玉が死去すると1934年からは後任として代表取締役会長を務め、輸出綿糸布同業会会長も兼務し、日蘭会商への対応にあたるなどした。 妻幸は、在ベルギー一等書記官や外務大臣官房翻訳課長等を務めた竹村本五郎の二女。
岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月… 岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月29日 - 1946年(昭和21年)10月9日)は、日本の華族。貴族院男爵議員。 1881年岩倉具視の四男として生まれる。1896年分家して、同年12月3日、父の勲功により男爵を叙爵。学習院を経て、東京帝国大学文科大学修了。1909年欧米視察。1911年7月10日、貴族院議員となる。福徳生命保険、大成漁業各取締役、十五銀行監査役。1932年以降米穀対策調査会、石油業委員会、液体燃料委員会、帝国石油、台湾拓殖、樺太開発その他各設立委員、川崎造船所、千代田火災保険各取締役を務め、翼賛政治会常任総務を歴任した。 戦後の1946年5月8日に貴族院男爵議員を辞職し、その後公職追放となり、間もなく死去した。
山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月… 山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月29日 - 1950年(昭和25年)1月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・平沢。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)で平沢家に生まれる。1903年6月、東京高等商業学校を卒業。外交官を目指したが、同年8月、北海道松前郡福山町の富豪、3代山本久右衛門の養子となる。1906年、一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計まで昇進して除隊。その後、養父が小樽区に移りその事業を補佐。小樽区会議員、小樽市会議員、小樽商工会議所顧問、小樽倉庫社長、小樽商船社長、北日本汽船取締役、北海道製綿取締役、大正製麻取締役、小樽新聞取締役、北海道練乳監査役、定山渓鉄道監査役、松前造林 (資) 社長などを歴任。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 19… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 1964年10月5日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県南置賜郡三沢村赤芝(現・米沢市)出身。佐藤丑松の三男として生れる。米沢尋常中学興譲館を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。陸軍戸山学校付などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸士教官、参謀本部員、支那公使館付武官補佐官、参謀本部員、兼陸大教官、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部課長、欧州出張、歩兵第46連隊長、第3師団司令部付(済南駐在)などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日… 宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日 - 1946年(昭和21年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。大蔵官僚。 千葉県印旛郡、のちの白井村(白井町を経て現白井市)出身。宇賀平兵衛の四男として生まれた。1904年(明治37年)第一高等学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省専売局で主事、副参事、参事、事業部塩脳課長を歴任した。1924年(大正13年)、台湾総督府専売局長に転じ、1928年(昭和3年)に退官した。1931年(昭和6年)には台北州知事に起用された。その後、台湾電力株式会社理事に就任した。
石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20… 石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20日 - 1942年(昭和17年)5月17日)は、日本の牧師、大正デモクラシーを代表する言論雑誌『第三帝国』の編集者。宗教家としても活躍した。望天と号す。 秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。秋田中学中退後、聖学院神学校に入り、横手で牧師となったが、1年足らずでやめ、秋田魁新報社の記者となる。1912年(明治45年)に上京して『新公論』の編集にたずさわった。同年12月に第3次桂内閣が成立すると犬養毅や尾崎行雄を中心に第一次護憲運動が起こり、翌1913年(大正2年)1月25日には秋田県の県公園(いまの千秋公園)で秋田市青年会主催の憲政擁護の県民大会が開かれた時、この大会に参加している。
北田 正平(きただ まさひら、1881年(明治14年)5月2… 北田 正平(きただ まさひら、1881年(明治14年)5月20日 - 1939年(昭和14年)2月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(千葉県第三区選出、当選1回)。 東京府の弁護士北田正董の三男として生まれる。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学英法科を卒業し、南満州鉄道株式会社に入社した。長春駅長などを務めた後、山東鉄道に聘せられ、運輸部長をつとめたが、1917年(大正6年)に辞した。 その後、満州で東亜貿易公司主となり、北満及び南満地方貿易業を創めた。また鉱山業に従事した。1927年(昭和2年)に弁護士登録をした。1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に千葉3区から出馬し、当選した。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(立憲政友会)、佐賀県砥川村長。 佐賀県小城郡砥川村柳鶴(現在の江北町)出身。大地主・石川源蔵の三男として生まれる。砥川小学校、佐賀県立佐賀中学校を卒業。1900年(明治33年)、陸軍士官学校に入学し、1901年(明治34年)11月22日に卒業(13期)し、1902年(明治35年)6日23日に砲兵少尉に任じられた。日露戦争に従軍し、砲兵中尉に昇進。1906年(明治39年)陸軍砲工学校に入学し、1908年(明治41年)に同校高等科を卒業して砲兵大尉に任ぜられた。
南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 194… 南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 1943年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府出身。1907年、関西商工学校(現・関西大倉中学校・高等学校)土木科卒。大阪府土木工手、大阪府、東京市、京都市の各土木技手となる。のちに南工務所を開き、土木請負業に従事する。大阪府会議員、同参事会員、借地借家、金銭債務臨時各調停委員を務める。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において大阪10区(小選挙区制)から立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙大阪6区(当時)から立候補して落選。1937年の第20回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して再選した。
乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月17日 - 1934年9月19日)は、日本の作詞家・音楽教育者。 1881年、旧幕臣、英学者で沼津兵学校教授の父太郎乙と母つきの間に東京府牛込区牛込横寺町(現・東京都新宿区横寺町)で生まれた。太郎乙には5男5女(うち長男と四男は幼い頃に亡くなっている)がおり、三郎はその三男であった。 開成中学卒業後、1898年、第一高等学校一部文科に入学、ピアノやオルガンに親しんだ。卒業後の1901年には東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、カール・フローレンツ、ラファエル・フォン・ケーベルらの薫陶を受ける一方、日本の音楽レベルを向上させるべく、歌劇研究を行う「ワグネル会」を結成。
松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15… 松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月7日)は、日本の政治家、実業家。徳島県阿波市出身。明治大学法学部卒業。 松島素敬の息子として板野郡土成村土成(現在の阿波市土成町土成)で生まれる。京都の中学校を卒業後、1901年(明治34年)に上京して明治大学法科に入学し、卒業後は同大学の学生部長を務めた。 1906年(明治39年)に共同火災保険会社(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、1910年(明治43年)には早稲田大学校友会に推薦された。 昌栄貯蓄銀行、日本資金信託、第一倉庫、安全印刷、摂津煉瓦、大阪計器製作所、中央インキ、東海市場、東亜フェルト各株式会社の社長、美馬郡是製糸、カルチウム鉱泉、東亜織布、常盤商工、黒崎電機製作所、市岡電気工業、東京絹綿紡績、大阪造船所(現ダイゾー)各株式会社の取締役、東京リベット製造、日東炭鉱、日本鋼管シャフト、城南土地各株式会社の監査役などに就いた。
城戸 元亮(きど もとすけ、1881年5月12日 - 196… 城戸 元亮(きど もとすけ、1881年5月12日 - 1966年10月28日)は、日本の経営者、ジャーナリスト。熊本県出身。 1906年に京都帝国大学法学部法科を卒業。大阪毎日新聞社に入社し、東京日日新聞社編集主幹などを経て、1933年から1年間大阪毎日新聞社会長を務めた。 1966年10月28日老衰のために死去。85歳没。
川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - … 川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - 1946年3月11日)は日本の菌類分類学者。実弟は生物学者の川村多実二と生理学者の福田邦三。義兄は出隆。孫は建築家の川村純一。 岡山県津山市出身。旧制津山中学校卒業。日本における菌類分類学研究の草分けで、東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、帝室林野局を経て千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。松戸市辺りに分布する菌類相の調査・研究を行った。代表著作に「原色日本菌類図鑑」がある。「牧野日本植物図鑑」中の菌類各種を執筆したことでも知られる。 著作の一部はデジタル化され、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月… 塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月26日)は日本の弁護士、また大審院判事、最高裁判所判事。日本弁護士連合会会長。 1881年、大分県に生まれる。1903年旧制山口高等学校を卒業し、1908年(明治41年)4月、法学士として京都帝国大学法科大学を卒業。北浜銀行が設立した日本醤油醸造に秘書として入社し、副支配人に昇進して尼崎支店に勤務した。 日本醤油醸造は品質不正の発覚により株価が暴落するが、時期を同じくして1909年に弁護士となり、1910年2月、中央弁護士会で開業、同年8月には東京弁護士として登録した。日本弁護士協会にも所属した。
高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月2… 高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月24日)は日本の教育者。高木学園(現・英理女子学院高等学校)を創設し初代校長を務めた。 1881年(明治14年)5月9日、横浜区住吉町(現在の横浜市中区)に生まれる。実家は横浜桜木町の染物屋であった。七男六女の長女として幼い弟妹の世話をした。1896年、15歳のときに横浜市本町一丁目の町会所(のちの横浜市開港記念会館)で福沢諭吉の講演を聞いて「独立自尊」の言葉に感銘を受け、裁縫の技術で独立し、世に役立つ女性を育てたいという目標を持った。 父に頼みこんで東京裁縫女学校への入学を果たし、寄宿生活を送りながら本科二年、師範科一年の課程を修了し1904年7月に卒業した。
沢藤 幸治(澤藤 幸治、さわふじ こうじ、1881年(明治1… 沢藤 幸治(澤藤 幸治、さわふじ こうじ、1881年(明治14年)5月6日 - 1960年(昭和35年)6月9日)は、日本の政治家。岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)長。岩手県会議員。北上市の観光名所展勝地の生みの親として知られる。 岩手県和賀郡黒沢尻町に生まれる。東京法学院(現・中央大学)修了。修了後は金原明善に植林業を学ぶ。大阪毎日新聞に入り、風見章を知る。政友会院外団鉄心会に入り、中野正剛・緒方竹虎や大陸浪人達と交わる。 一旦帰郷し、1920年(大正9年)和賀展勝会を結成し、北上川沿いに桜の木を植え始める。上京し、出版業を始めるが、関東大震災で帰郷する。1926年(大正15年)に雑誌「共存共栄」を創刊する。
西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月… 西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月6日 - 1951年<昭和26年>9月16日)は、明治時代から昭和時代の科学者。火薬学の権威として知られ、「火薬博士」と呼ばれた。位階は従三位、勲等は勲二等旭日重光章。 1881年5月6日、愛媛県下浮穴郡麻生村(原町村を経て現在は砥部町麻生)で西松和十郎とカツ(愛媛県白形熊治の二女)の長男として生まれる。 1892年、麻生小学校を卒業。1900年、松山中学校を卒業。岡山県の第六高等学校を経て、1907年に東京帝国大学工科大学火薬科を卒業する。 卒業後は東京砲兵工廠火薬試験所に入所したが、間もなく東京帝大に移り、1908年から1942年の35年間、東京帝大火薬学教室に在籍した。
橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934… 橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934年1月9日)は、日本の医師、病理学者。橋本病、Hashimoto's thyroiditisを初めて記載した。 三重県阿拝郡西柘植村(現伊賀市)御代の医家に生まれる。旧制津中学校、旧制第三高等学校をへて、京都帝国大福岡医科大学(現九州大学医学部)1907年第1回卒業生として卒業。第一外科に入局。1911年4月“甲状腺ノリンパ腫様変化ニ関スル組織的並ビニ臨床的知見ニ就キテ”を福岡医科大学第17回集談会にて発表、1年後の1912年にまとめてArchiv für klinische Chirurgieに掲載した。今日では橋本病という疾患名が与えられている。
柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5… 柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。教育者。 兵庫県加西郡西在田村(現在の加西市)出身。兵庫県御影師範学校を卒業後、小学校訓導、美嚢郡視学、兵庫県視学を歴任した。その後、加西郡教育会長、西在田村長、兵庫県会議員、同副議長に選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山本 唯次(やまもと ただじ、1881年(明治14年)5月4… 山本 唯次(やまもと ただじ、1881年(明治14年)5月4日 - 1934年(昭和9年)1月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 兵庫県印南郡大塩村(現在の姫路市)出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、一年志願兵として三等主計に任じられた。台湾銀行に入社し、台北支店、上海支店に勤務した。1918年(大正7年)より弁護士を開業した。また東洋拓殖の傍系事業として、日中合弁事業設立に従事した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3… 金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3日 - 1976年〈昭和51年〉10月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。 1881年、新潟県高田の真宗大谷派最賢寺に生まれる。1899年、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。1901年、京都より東京に移転開校した真宗大学(現・大谷大学)予科に入学、初代学長であった清沢満之の影響を受ける。1904年、同卒業。以後、新潟に帰郷し、寺務に従事しつつ処女作『真宗の教義と其の歴史』を執筆。
林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年… 林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年)5月2日 - 1963年(昭和38年)12月21日)は、実業家、官僚、南洋庁長官、第4代埼玉県川越市長。 岡山県出身。林源一の弟。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格して、愛媛県属となり、同県警視、宮崎県理事官、鹿児島県・山口県・北海道各警察部長、埼玉県書記官・同内務部長、北海道庁内務部長を歴任し、1930年(昭和5年)に退官した。 1931年(昭和6年)、川越市長に就任するが、翌年1月に関東庁警務局長に転じた。 1933年(昭和8年)8月に南洋庁長官に任ぜられ、1936年(昭和11年)9月までその職にあった。
土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 … 土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 - 昭和22年(1947年)4月20日)は、山梨県出身の郷土史家。号は節堂。 山梨県東山梨郡七里村(現・甲州市塩山)に、父「作甫」、母「ただ」の長男として生まれる。土屋昌次の子孫。明治28年(1895年)4月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、明治33年に卒業とともに早稲田大学に進学し坪内逍遥に師事。明治37年(1904年)3月に卒業した。 卒業後、山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)に勤務、明治38年12月には一年志願兵として近衛歩兵第2連隊に入隊。除隊後の明治40年5月に甲府市立商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)、大正13年5月に山梨県女子師範学校、大正15年10月に山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に勤務し、昭和15年(1940年)3月の退職後も山梨県立農林学校、山梨県立日川中学校において嘱託講師として勤務するなど、40年にわたり歴史の教員を務めている。
和田 一郎(わだ いちろう、1881年(明治14年)5月1日… 和田 一郎(わだ いちろう、1881年(明治14年)5月1日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 新潟県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵書記官、税務監督局長、朝鮮総督府事務官、土地調査局総務課長、理財課長、鉄道部長、同参事官、同監察官、財務局長を歴任した。また1923年(大正12年)には法学博士号を受けた。 退官後は朝鮮商業銀行頭取に就任し、1931年(昭和6年)まで在任した。
大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉… 大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉5月 - 没年不明)は、日本の実業家、福井県多額納税者。大和田家3代目。大和田銀行専務取締役。族籍は福井県平民。 福井県敦賀郡敦賀町(現敦賀市)出身。大和田荘七の長男。大阪高等商業学校卒業。大和田銀行に入り専務取締役として業務に専念する。また大和田貯蓄銀行、大和田炭鉱、東洋硫化工業各取締役、敦賀築港倉庫監査役をつとめる。 大和田勇の養弟。大和田金之助の養甥である。 銀行会社の重役で、県下の金融界に重きをなした。 割合に世情に明るく、何かにつけて知見豊富であった。 住所は福井県敦賀市蓬莱、同市松島、敦賀郡松原村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 … 上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で戦死した「榊」の艦長である。最終階級は海軍中佐。 山口県出身。鴻城義塾を経て1900年(明治33年)海軍兵学校に進み、1903年(明治36年)卒業(31期)。同期に加藤隆義、長谷川清、及川古志郎らがいる。 兵学校卒業後、遠洋航海の前段である内地航海に出発したが、日露戦争の開戦により急遽「八島」乗組みとなり実戦に参加。しかし「八島」は旅順港外において触雷し沈没。上原は「富士」に転乗となる。海軍少尉に任官し、「赤城」を経て、「厳島」乗組みとして日本海海戦に参戦した。
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月… 安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月28日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 岐阜県士族安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では「常磐」分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、「筑波」分隊長、「卯月」艦長、「日進」砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を首席で卒業した。 イギリス駐在、「香取」砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。
桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈… 桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈明治13年〉5月28日 - 1951年〈昭和26年〉9月30日)は、日本の商人(生糸繭屑物商)、愛媛県多額納税者、実業家、政治家。愛媛県会議員、大洲町会議員。桝田製糸社長。愛媛県製糸業組合長。大洲銀行取締役、同監査役。旧姓・井上。 愛媛県西宇和郡三机村大字大江(後瀬戸町、現伊方町)出身。父・井上安次郎、母・シカの三男。大江小学校卒業後大洲に来て、呉服雑貨商・河野真太郎方に入り、商いについて学んだ。1899年、桝田家に養子入籍。1901年、生糸・繭屑物売買業を開始し、後桝田商店として蚕糸業に足を踏みこんだ。 1915年、若宮に製糸工場を開設、「伊予生糸」と称する生糸を生産した。