安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月… 安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月10日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の美術史家。日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。 東京出身。本名は正輝。早稲田中学を経て東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業。早稲田大学仏文学科へ進むも中退(1924年)。 会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年に研究誌『東洋美術』を創刊。1938年、中華民国に渡り、新民印書館に勤務。安藤が編集した『北京案内記』は、北京に関する案内書としては、名著と言われ、評価が高い。1966年、多摩美術大学で教授を務めた。戦後は早稲田大学教授を務めた。
内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982… 内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982年1月17日)は、日本の医師。歌人としてのペンネームは内田 守人(もりと)と称する。九州療養所国立療養所菊池恵楓園、国立療養所長島愛生園、国立療養所松丘保養園で医師として働いた。ハンセン病研究家。ハンセン病療養所入所者に短歌の指導を行った。戦後は医院開業後、熊本短大で社会福祉を研究、講義した。ハンセン病資料を多数集め、熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した。 熊本県菊池郡泗水村(現・菊池市)にて1900年(明治33年)6月10日父常平、母波津の3男として出生。県立中学済々黌(せいせいこう)を経て、旅順工科学堂を中途退学、1920年(大正9年)県立熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)に入学。
尾形 亀吉(おがた かめきち、1900年6月8日- 1971… 尾形 亀吉(おがた かめきち、1900年6月8日- 1971年10月1日)は日本文化史学者。尾形裕康(早稲田大学教授・日本教育史)は兄。 福島県出身、東京文理科大学国史科卒。日本大学経済学部教授、1948年「近世奢侈の社会経済史的研究」で日大経済学博士、1956年「日本中世芸能史研究」で日大文学博士。日本大学芸術学部長、同理事などを経て、本州大学・本州女子短期大学初代学長に就任。1968年病気療養のため辞任。 1965年、長野県塩田町(現在の上田市)の要請を受け、同地での大学設置に尽力し、1967年に文部省からの認可を得た。この当時、地方の町村が大学を招致したのは画期的として全国の注目を集めた。
水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日… 水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日 - 1976年(昭和51年)7月7日)は、日本の内務官僚、実業家。内務省警保局長、海軍司政長官。 兵庫県出身。農業・水池亀松の三男として生まれる。小野中学校を経て、第一高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月、内務省に入省し警保局保安課に配属。 1926年11月から1927年10月まで北京に駐在。以後、地方事務官・鹿児島県勤務、地方警視・奈良県警察部特別高等警察課長、北海道庁警察部特別高等警察課長、警察講習所教授、内務事務官・警保局保安課勤務、宮内書記官・大臣官房総務課勤務、警視庁官房主事、内務書記官・警保局警務課長、警視庁特別高等警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長などを歴任。
西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979… 西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979年8月15日)は、日本の牧師、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。アムネスティ・インターナショナル日本支部理事長。川北対合衆国事件の時には、減刑嘆願運動の中心的な人物として活動した。 新東京国際空港(現・成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった。
北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年〈明治33年〉6月… 北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年〈明治33年〉6月3日 - 1990年〈平成2年〉4月12日)は、日本の詩人、映画評論家。『悪夢』(1947年)などの小説作品もある。本名は田畔 忠彦(たぐろ ただひこ)。 第1詩集『三半規管喪失』(1925年)を自費出版、詩誌「詩と詩論」を創刊し、新散文詩運動を展開した。戦後は新現実主義を提唱し、現代詩の可能性を追究した。作品に詩集『戦争』(1929年)など。 滋賀県大津に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育ち、軍国主義の旅順中学で5年間寄宿舎生活を送った。 1919年(大正8年)に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科丙類(フランス語必修)に入学。
岩生 成一(いわお せいいち、1900年(明治33年)6月2… 岩生 成一(いわお せいいち、1900年(明治33年)6月2日 - 1988年3月21日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。東京大学文学部教授、日本大学文理学部教授、法政大学文学部教授を歴任。日本学士院会員。 1900年(明治33年)、東京で生まれた。東京帝国大学文学部国史学科で学び、1925年(大正14年)に卒業。 卒業後は東京帝国大学史料編纂掛に勤務。のち台北帝国大学教授となり、南洋史講座を担当した。 戦後の1948年(昭和23年)、東京大学文学部教授となった。1951年(昭和26年)、学位論文『南洋日本町の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1961年(昭和36年)に東京大学を定年退官し。
小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 … 小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 - 1933年(昭和8年)1月6日)は、日本の小説家、劇作家。 1900年6月1日、宮城県仙台市に生まれる。長野県旧制松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)を経て、1924年に早稲田大学文学部哲学科卒業。在学中に横光利一や中山義秀と同人誌『塔』を発行した。卒業後はプロレタリア文学に傾倒し、1925年、『早稲田文学』に「地平に現れるもの」を発表したが発禁処分となる。翌年には『新小説』に「遥かなる眺望」、創作集『ケルンの鐘』などの戯曲を発表して、社会主義とモダニスムを併せ持つ作風で注目を集めた。当初は労農芸術家連盟に所属していたが、その後第二文戦打倒同盟をへて日本プロレタリア作家同盟に参加した。
春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月… 春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月1日 - 1974年 <昭和49年> 7月10日)は、日本の経営者。大分県大分市出身。位階は従四位。 1925年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、帝国生命保険に入社。 1947年3月に取締役、同年7月に朝日生命保険常務を経て、1961年5月には社長に就任。1965年5月から1971年5月までに会長を務めた。 1965年6月から1967年6月までに生命保険協会会長を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章し、1940年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年7月10日急性心不全により死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996… 加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996年1月1日)は、日本の政治家、教育者。宮城県角田市長(初代・2代・3代)。元宮城県議会議員(1期)。元角田町長。角田市名誉市民。位階は正六位。 1900年(明治33年)に現在の角田市内で生まれ、1918年(大正7年)3月、角田中学校を卒業し、1919年(大正8年)宮城師範学校本科第2部を卒業。角田小学校などの校長を務めた。 戦後1947年(昭和22年)の宮城県議会議員選挙に当選し、県議会議員となった。 1954年(昭和29年)10月の新設合併により拡大した角田町の町長選挙が11月に行われ出馬し、当選。初代町長に町長に就任した。1958年(昭和33年)10月1日、市制施行により角田市が誕生。
大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900… 大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900年6月1日 - 1961年7月28日)は、東京都浅草出身の日本の男性アニメ監督である。 戦前期には江戸千代紙を用いた切り絵アニメーション、戦後は影絵と色セロファンを用いたアニメーションを個人で作り続け、とりわけ後者は日本のアニメーションとして初めて国際的な評価を受ける。特に1953年にカンヌ国際映画祭短篇部門に出品した『くじら』(1952年完成)は上映会場で画家パブロ・ピカソにも絶賛された。手塚治虫は「わが国のアニメーションの最初の功労者」としている。没後、大藤の生涯の業績を記念して毎日映画コンクールの中に大藤信郎賞が設けられた。 東京浅草の蓄音機録音スタジオを経営する家で、8人兄弟の7番目の子として生を享ける。
チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不… チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不詳)は、イギリス統治下のビルマ(現ミャンマー)出身のエンジニア、陸上競技選手、日本のサッカー指導者。日本に留学中の1920年代に、日本サッカーの技術、戦術の伝統の基礎を作ったとして知られる。名をモン・チョー・ディンとする資料もある。 チョウ・ディンの経歴は断片的に調査・紹介されているものの、1920年代前半の日本への留学時代以外については不明な点が多い。第一次世界大戦では宗主国であったイギリスの兵士として従軍し、負傷したという。 チョウ・ディンは走高跳の選手だったが、ミャンマーは他の東南アジア同様、古くからサッカーが盛んであり、チョウ・ディンもショートパス戦法を編み出したスコットランド人にサッカーを学んだという。
今岡 賀雄(いまおか よしお、1900年(明治33年)6月 … 今岡 賀雄(いまおか よしお、1900年(明治33年)6月 - 1944年(昭和19年)3月14日)は、昭和時代前期の電気工学者、通信技術者、実業家。 東京府士族・今岡純一郎の長男として生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学物理学科を卒業後、東京電気株式会社(のちの東京芝浦電気株式会社→東芝)に入社、1935年(昭和10年)製造部長、取締役、技師長を歴任する。1944年(昭和19年)3月14日、激務による過労により川崎駅にて事故に遭い殉職した。 東京電気にて無線通信機および真空管の研究に従事し、1935年(昭和10年)に150kWの大電力放送機を完成させた。ほか、「マツダランプ」の開発および製造で培った知見をもとに、無線用真空管「サイモトロン」などを開発した。
山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 199… 山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 1992年7月28日)は、日本のアイヌ語地名研究家、官僚、実業家。
山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 -… 山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 - 1984年3月1日)は、漆芸家。富山県出身。 1924年(大正13年)東京美術学校漆工科卒。1925年(大正15年)パリ万国博覧会で金賞。1928年(昭和3年)より東京美術学校助教授、のち東京芸術大学教授を務める。 1939年(昭和14年)文展審査員、1946年(昭和21年)日展審査員、1950年(昭和25年)日展運営会参事、1954年(昭和29年)日本芸術院賞受賞。帝展特選受賞。 1957年(昭和32年)日本芸術院会員、1958年(昭和33年)日展常務理事。同年、第一回日本美術展覧会が東京都美術館で開催され、昭和天皇、香淳皇后が行幸啓。
浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日… 浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日 - 1973年〈昭和48年〉3月28日)は、日本の小説家、文芸評論家。 兵庫県神戸市に生まれる。1926年早稲田大学文学部国文科卒業。在学中に「朝」の同人に加わり、初めて書いた小説「山」が下村千秋に推賞される[要出典]。1933年尾崎一雄や丹羽文雄らとともに「小説」を創刊。1934年尾崎と丹羽、田畑修一郎と「世紀」を創刊。1935年尾崎と小田嶽夫らと「木靴」を創刊。同年、砂子屋書房の創業に参加。戦中は満洲国で文学活動を行った。1949年早稲田大学高等学院講師、翌年同学院専任教員。1960年早稲田大学商学部に出講、1970年定年退職。 戦後は井伏鱒二や上林暁らの「阿佐ヶ谷会」の主要メンバーで、尾崎一雄と親しく、随筆『単線の駅』や、回想記『あの日この日』によく出ている[要出典]。
武藤 幾満太(むとう いくまた、1899年6月22日 - 1… 武藤 幾満太(むとう いくまた、1899年6月22日 - 1992年8月)は、秋田県の高等教育(特に女子の教育)に尽力した教育者。その教え子には後の秋田の主だった教育関係者が多数いる。
姜 世馨(カン・セヒョン、朝鮮語: 강세형、1899年6月2… 姜 世馨(カン・セヒョン、朝鮮語: 강세형、1899年6月21日 - 1960年8月5日)は、大韓民国の政治家。第3代韓国国会議員。 妻は菌類学者の金三純で、2人の間に子供がいない。元国会議員の金洪鏞、金汶鏞、金星鏞(朝鮮語版)は妻の兄弟、李会昌は妻の甥である。 全羅北道益山郡(現・全北特別自治道益山市)出身。釜山公立商業高等学校、早稲田大学政経科、上智大学哲学科卒。ベルリン大学(現・フンボルト大学ベルリン)哲学科修了(哲学博士)。ドイツ通信社副社長、東国大学(現・東国大学校)哲学科教授、国防部政訓局長、第3代国会外務委員会委員長(1957年9月6日~1958年5月30日)、大韓学術院委員長を務めた。
三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 19… 三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 1979年9月3日)は、日本の税理士、政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1923年日本大学商学部卒。計理士、税理士、司法書士の業務に就く。全日本計理士協会理事、日大学士会理事長、東京都立第五実業学校高等科講師、日大講師、日本監査協会理事長、東京税理士会副会長、日本税理士会常務理事、全国計理士会議長を務める。 1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが、落選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知2区(大選挙区)から日本自由党公認で立候補するが次点で落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において愛知4区から日本自由党公認で立候補するも落選。
皇 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)6月19… 皇 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)6月19日 - 1988年(昭和63年)9月27日)は、日本の教育学者。専門は教育行財政学。長年にわたり、多くの教育者、教育学者を育成した。1973年(昭和48年)に勲二等瑞宝章を受章。 元テレビ朝日プロデューサー・皇達也は長男。弟に、東北大学名誉教授、のち玉川大学文学部長を務めた皇晃之(名は、きらゆき。1908年 - 2004年)がいる。こちらも専門は教育行財政学。 滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)出身。広島高等師範学校、広島文理科大学卒業。広島高等師範学校講師、広島文理科大学教授、広島大学教育学部教授、同教育学部長(連続5期)を経て、1963年(昭和38年)、森戸辰男の後を継ぎ、第2代学長に就任した。
三浦 寅之助(みうら とらのすけ、1899年(明治32年)6… 三浦 寅之助(みうら とらのすけ、1899年(明治32年)6月18日 - 1973年(昭和48年)7月5日)は、大正・昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 宮城県加美郡宮崎村(宮崎町を経て現加美町)の農業・三浦寅治、やす夫妻の二男として生まれる。1914年(大正3年)村立実業補習学校を卒業。1918年(大正7年)9月に上京し、小川平吉の支援で日本大学専門部法律科に入学し、1921年(大正10年)に卒業した。 1921年、横浜区検事局に入り、1923年(大正12年)弁護士試験に合格し、同年4月、横浜市浦島ヶ丘に弁護士事務所を開業した。 横浜市会議員、同副議長を務め、1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで神奈川県会議員に在任した。
浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月1… 浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月16日 - 詳細不明)は、日本の土木技師であり、実業家である。大阪市技師となり土木局長となった後、大阪地下街社長となる。土木学会名誉会員。岡山県岡山市出身。 1899年(明治32年)岡山県御津郡一宮村(現:岡山市)に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1918年(大正7年)に旧制第六高等学校医科(3部)へ進学する。その後、1922年(大正11年)3月同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1925年(大正14年)3月、工学部土木工学科を卒業する。 京大を卒業後、すぐに大阪市役所に入り、土木技師として働く。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)計画部長となり、翌年、土木部長となる。
沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年… 沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年6月6日)は、日本の経営者。兼松社長を務めた。 石川県金沢市出身。1921年に神戸商科大学を卒業し、同年に神戸兼松商店に入社した。1944年に兼松取締役に就任し、1948年に専務を経て、1952年から1965年11月までに社長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1981年6月6日、急性心不全のために死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)… 安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)6月16日 - 1967年(昭和42年)11月27日)は、昭和期の僧侶、政治家。衆議院議員(5期)。僧名は覚堂。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現厚木市)に生まれる。1925年、日本大学専門部宗教科卒業。神奈川県愛甲郡依知村(後厚木市に編入)の曹洞宗安竜寺、同広徳寺の住職を務める。 萬朝報や読売新聞の記者を務め、後に読売新聞社政治部長・編集局次長、日本大学新聞研究室講師、神奈川民声新聞社社長、神奈川中央交通、小田急運送各取締役、神奈川県仏教連盟、同青年連盟各理事となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会推薦で神奈川県3区から立候補して初当選するが、戦後公職追放処分となる。
望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - … 望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - 1990年5月28日)は、日本の美術史学者。 1899年、京都府京都市で生まれた。東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、大学院は京都帝国大学大学院に進んだ。1929年に京都帝国大学大学院を修了。 卒業後の1929年9月に、恩賜京都国立博物館鑑査員となった。1931年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を勤め、1936年に大阪市美術館主事に転じた。 1949年9月に大阪市立美術館館長に任命され、1950年には大阪市立大学教授にも任命された。大阪府史跡名勝天然記念物調査協力委員など多数の役職を兼ね、大阪の文化の発展に尽くした。1965年に大阪市立美術館を定年退職した後は、帝塚山学院大学教授として教鞭をとった。
佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13… 佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、広島県出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 佐藤儀一は、1899年(明治32年)6月13日、広島県福山市に生まれ、16歳でハワイに渡り、イオラニハイスクール卒業後、カリフォルニア大学美術科で学んだ。1930年(昭和5年)、大学生の時、プロのジミー・ダンカンに誘われてゴルフを始めた。 1931年(昭和6年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で2位になった。1932年(昭和7年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で優勝、多くの競技大会に参加し、全米パブリックリンク選手権に優勝した。また、全米ゴールドメダル選手権4連覇など活躍し、100以上のアマチュアタイトルを獲得した。
今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 … 今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 - 1994年1月14日)は、日本の法学者、政治学者、哲学者。奈良教育大学名誉教授。学位は法学博士(京都大学)、文学博士(京都大学)。 奈良県出身。九州帝国大学文学部哲学科卒。京都帝国大学大学院文学研究科博士課程修了。 1964年「主権の憲法学的研究」で、法学博士(京都大学)の学位を取得。1968年「プラトンの国家論の研究」で、京都大学文学博士(京都大学)の学位を取得。 奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1962年定年退官、名誉教授、大阪経済法科大学教授。1984年退職。
橋爪 清人(はしづめ きよと、1899年(明治32年)6月1… 橋爪 清人(はしづめ きよと、1899年(明治32年)6月10日 - 1966年(昭和41年)4月11日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選鹿児島県知事。 福岡県出身。第三高等学校を卒業。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、1926年、栃木県属となる。 1928年、群馬県警察部保安課長に就任。以後、静岡県警察部警務課長、長野県警察部工場課長、静岡県警察部特別高等課長、福岡県警察部特別高等課長、台湾総督府警務局保安課長、奈良県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、新潟県書記官・学務部長、高知県内政部長、熊本県内政部長、長野県内政部長などを歴任。
丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日… 丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉10月21日)は、日本の詩人。男性。海軍軍人の松田千秋は義弟(妹こまの夫)にあたる。 官吏をしていた父の任地大分県大分市で生まれる。1歳で長崎市へ移り、以後東京、京城、松江などを転々としたが、父が亡くなったあと、小学6年の秋に母方の祖父を頼って家族4人で愛知県豊橋市に移り住んだ。身内はそこで旅館業をしていたという。豊橋市立八町小学校を卒業し、愛知県立第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。海洋への憧れから、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を志し、2度目の受験にして合格するが、まもなく脚気のため退学する。
松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8… 松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8日 - 昭和59年(1984年)1月1日)は、日本の歌舞伎役者・実業家・芸能プロモーター。旅役者から立身出世して興行界やレジャー産業で幅広く活躍、「昭和の興行師」や「芸能界の黒い太陽」の異名をもつ。佐賀県伊万里市出身。 松尾の没後、松尾一族が日本ドリーム観光から手を引くことになった事情については日本ドリーム観光の項を参照。現在は松尾の娘・昌出子(ひでこ)と孫・國之(くにゆき)が株式会社富士プロジェクト(富士興業の後身)・松尾育英会・松尾芸能振興財団の3事業を継承。富士プロジェクトは現在、賃貸不動産業をメインにサッカースクールの経営を行うクーバー・コーチング・ジャパンを子会社で行っており、松尾芸能振興財団は松尾芸能賞の主催および松尾の原点である子供歌舞伎・松尾塾の運営、松尾育英会は共同生活による大学修学支援事業を行っている。
小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6… 小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6月7日 - 1971年 <昭和46年> 8月17日)は、日本の経営者。安藤建設社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1932年に安藤組(のちの安藤建設)に入社し、監査役にも就任。 1938年に取締役、1943年に専務を経て、1962年6月に社長に就任。1969年10月には会長に就任。 1970年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1971年8月17日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 197… 高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 1971年11月15日)は、日本の社会科学者。同志社大学法学部卒業、高知短期大学名誉教授。専門は政治史・政治思想史・比較憲法。 岐阜県大垣市出身。同志社大学法学部で、高木庄太郎に政治史を学ぶ。1924年(大正13年)、法学部を卒業。同志社大学法学部で政治史の講師を務める。 1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけ、同志社で法学部教授会と理事会(津下紋太郎、西村金三郎ら)との対立が生じた際に、高橋貞三講師とともに学生新聞で理事会を激しい言葉で批判した。理事会から「自発的辞表」提出を要求され、能勢克雄教授とともに解任させられた。これに対して法学部教授会は連名で理事会を批判した。
柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年… 柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年)6月4日 - 1976年(昭和51年)3月30日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、岩手県岩手郡沼宮内町長。岩手町名誉町民。正四位勲二等。 岩手県岩手郡沼宮内町(現岩手町)で、柴田兵右衛門の孫として生まれた。1924年(大正13年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年(大正14年)に第一銀行に入り、東北銀行初代頭取、盛岡電燈取締役、沼宮内信用組合長、同農会長等のほか、沼宮内町長(1931年5月から3期在任)、盛岡地方裁判所人事調停委員などを務めた。 1939年(昭和14年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、同和会に所属して1946年(昭和21年)4月16日まで在任。
田中 萬一(たなか まんいち/まんいつ、1899年6月4日 … 田中 萬一(たなか まんいち/まんいつ、1899年6月4日 - 1973年6月18日)は、長崎県大村市出身の日本の検察官、弁護士。 1919年、徴兵により久留米師団入営。そのためもあって修学が同年齢より5年ばかり遅れて中央大学専門部法科に入学。1928年、中大専門部法科を卒業してすぐに高等文官試験司法科に合格し、司法省入省。検事任官。一期上の検事に「三羽ガラス」と称されていた、井本臺吉、柳川真文、馬場義続らがいたこともあって、傍流の会社関係の詐欺や横領事犯担当の「経済検事」として目立つことも無かった。 戦後の草創期、東京地検の初代隠退蔵事件捜査部長心得兼任渉外部長(当時 のち初代東京地検特捜部長 1947年11月10日-1948年1月5日)に就任。
岡村ふく(おかむら ふく、1899年(明治33年)6月3日 … 岡村ふく(おかむら ふく、1899年(明治33年)6月3日 - 1982年(昭和57年)4月26日)は日本のカトリック教会修道女、福音史家聖ヨハネ布教修道会創立者。 岡村ふくは父・岡村政四郎と母・政子の五番目の子供として東京・京橋に生まれ、1週間後に正教会の洗礼を受けた。ふくは神田のニコライ堂に熱心に通い、1911年、小学校卒業後、香蘭女学校に入学。聖心女子学院に入学しカトリック教会を知る。聖心会修道女から教えを受け、1919年、卒業と共にカトリックに改宗し引き続き学校に残り修道女の助手を務めた。 その後、ふくは病に臥し長い療養を送っていたがある日、ルーマニア人司祭・ウラジミール・ギカが持参したキリストの茨の冠で奇跡的に癒され、彼女は後年まで話さなかった。
渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 198… 渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 1981年11月5日)は、大正・昭和期の俳優、映画監督。 静岡県田方郡三島町(現:三島市)出身。 旧制静岡県立沼津中学(現:静岡県立沼津東高等学校)卒業後、早稲田大学商学部に入学し、浅沼稲次郎らと建設者同盟を結成し、左翼運動家として活躍。卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るが、部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。劇団に加わり地方巡業に出るが、解散の憂き目を見る。 仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩久に紹介される機会を持ち、面接で監督志望を伝えるが「3年間は俳優をしろ」と命じられ、初任給30円で雇われる。 1924年、『青春の歌』(村田実監督)で、運動会の応援団の旗手役で映画デビュー。
左藤 義詮(さとう ぎせん、1899年〈明治32年〉6月3日… 左藤 義詮(さとう ぎせん、1899年〈明治32年〉6月3日 - 1985年〈昭和60年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)、防衛庁長官(第9代)、大阪府知事(公選第4代 - 6代)。学校法人大谷学園理事長(第2代)。郵政大臣、法務大臣、国土庁長官を歴任した左藤恵は息子。 三重県出身。1924年、京都帝国大学文学部卒業。 欧米留学の後、真言宗京都大学、臨済宗大学、神戸高等商船学校の教授を経て1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区に日本自由党から出馬し当選し、衆議院議員を1期務める。 1958年、第2次岸内閣で防衛庁長官として初入閣。9月2日から9月16日にかけて衆議院決算委員会において航空機購入問題で現役閣僚として証人喚問を受ける。
木野崎 吉郎(きのさき よしお、1899年6月2日 - 19… 木野崎 吉郎(きのさき よしお、1899年6月2日 - 1981年10月1日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)生まれ。 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、第八高等学校(現・名古屋大学)を経て、東京帝国大学理学部地質学科に入学。加藤武夫教授の指導を受け、朝鮮安岳鉄山で卒業研究を行う。1924年卒業し、理学部助手に就任。1925~26年陸軍の軍務につく。 1926年から朝鮮総督府地質調査所勤務となり、1944年京城帝国大学(現在のソウル大学)理工学部教授となるも終戦を迎える。1946~48年北海道帝国大学理学部講師嘱託。1948年朝鮮摩天嶺地方の鉱床の研究により理学博士(東京大学)(論文表題は「摩天嶺系中の主要鉱床における共生鉱物の研究」)。
久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月… 久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月2日 - 1947年〈昭和22年〉12月26日)は昭和期の作詞家。別名・ペンネームとして、水久保弘・砂原鹿郎が確認されている。 岡山県川上郡富家村大字布瀬出身。 幼名(本名)は嘉雄。寺の長男として生まれた。岡山県師範学校卒業。幾つかの教員養成課程で研鑽し、若くして主席訓導(教頭職相当)まで進んだ。小学校教諭をしながら地元の青年たちの詩作の指導に当たり、「岡山青年」の詩部門の選者を務めた。 大正の終わり頃、中央詩壇の野口雨情などの勧めもあり、上京。その後、1931年(昭和6年)にコロムビアレコード入社する。始めは童謡を作詞し、新民謡運動にも力を注いでいたが、流行歌作家に転身。
石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治3… 石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治32年)6月1日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の思想家、活動家。戦前・戦後にかけ、一貫して国家社会主義者として活動した[要出典]。 岩手県盛岡近郊に生まれた石川は、日清戦争の戦災者の関係者として成長し、兄・石川金次郎の援助の下、早稲田大学政経学部に入学。在学中に高畠素之の知遇を得、以後、高畠門下として国家社会主義運動に没頭した。高畠の死後も国家社会主義理論を発展させ、1931年に赤松克麿、津久井龍雄らとともに日本社会主義研究所を創設、『日本社会主義』『国家社会主義』を刊行。次いで日本主義に傾倒した赤松らと袂を分かち、1934年(昭和9年)3月10日、大日本国家社会党を設立、総理(党首)となる。
中根 不覊雄(なかね ふきお、1899年6月 - 1983年… 中根 不覊雄(なかね ふきお、1899年6月 - 1983年9月)は、日本の法学者、教育者、翻訳家。立教大学経済学部教授、亜細亜大学初代法学部長、満州国司法部司法学校教授、英文法令社創業者。 1899年(明治32年)6月、中根斎と妻・武免の長男として生まれる。 1923年(大正12年)、東京帝国大学経済学部卒業、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治科卒業。 安田保善社(安田財閥本社)に入り、安田信託会社(後の安田信託銀行、現・みずほ信託銀行)の創立時より事務方を務め、1930年(昭和5年)まで同社に在職 1931年(昭和6年)、立教大学経済学部教授に就任し、信託法、手形法、破産法を講じた。
浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月2… 浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月28日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。 浅見竹三郎の三男として埼玉県深谷市に生まれる。1931年(昭和6年)分家する。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所研究員となる。1925年(大正14年)北海道帝国大学教授となり、12余年に渡り欧米各地に駐在し、帰国後の1936年(昭和11年)10月、工学博士となる。同年9月、北海道に行幸した昭和天皇に帯広市にて「高周波電気現象と其の応用」と題する進講を行った。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)9月、同大学応用電気研究所長、のち1960年(昭和35年)同大工学部長を経て、1962年(昭和37年)退官し、成蹊大学主任教授、1969年(昭和44年)同大工学部長となる。
勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6… 勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6月26日 - 1989年(平成元年)9月3日)は、日本の医師。内科医。国立療養所中部病院長。医学博士。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校を経て、1927年(昭和2年)、長崎医科大学卒業、助手。台湾総督府技師、愛知・西尾病院長。1933年(昭和8年)、名古屋帝国大学講師、1934年(昭和9年)、欧米出張。1938年(昭和13年)、勝沼病院長。1947年(昭和22年)4月、国立療養所大府荘長。1966年(昭和41年)4月、国立療養所中部病院長(初代)。1969年(昭和44年)、定年退官。
落合 英二(おちあい えいじ、1898年6月26日 - 19… 落合 英二(おちあい えいじ、1898年6月26日 - 1974年11月4日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県浦和市生まれ。千葉師範学校附属小学校、千葉県立千葉中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に入学する。東京帝国大学医学部薬学科卒業。東京帝国大学医学部薬学科薬化学教室第三代教授。アルカロイド、塩素化含窒素複素芳香環化合物について研究、その結果として、多数の新化合物を登場させた。1969年(昭和44年)文化勲章受章。 1928年(昭和3年) 東京大学 薬学博士 学位論文の題は「シノメニンの構造論」。 1898年(明治31年)6月26日 教育家落合初太郎の三男として埼玉県浦和で生誕、母はノブ。
南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1… 南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1981年11月16日)は、日本の俳優である。本名は鴛海 正次(おしうみ まさじ)。旧芸名は南部 章三(読み同じ)、南部 彰(なんぶ あきら)。 1898年(明治31年)6月26日、大分県速見郡日出町に生まれる。 1916年(大正5年)、大分県立杵築中学校(現在の大分県立杵築高等学校)卒業後、県下で代用教員を務め、1919年(大正8年)、歩兵47聯隊に入隊。同年4月、シベリア出兵に従軍し、同年8月に帰還。1921年(大正10年)に除隊後、再び代理教員を務めていたが、1922年(大正11年)4月に上京。陸軍省東京経理部に就職すると共に日本大学商学部予科に入学する。
酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25… 酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25日 - 1982年(昭和57年)8月5日)は、愛知県津島市出身の弁護士。衆議院議員を2期務めた。 愛知県名古屋市東区生まれ。1918年(大正7年)、岡崎師範学校(現・愛知教育大学)を卒業。1929年(昭和4年)中央大学専門部法律科卒業、小学校訓導となる。その後、高等試験司法科試験に合格して、1934年(昭和9年)弁護士となり、税務代理士(現税理士)も務めた。 愛知県臨時社会調査員、同方面委員を務めた。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛知県第2区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に愛知県第4区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23… 伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉3月22日)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(1期)、画家。従五位勲四等。 1898年(明治31年)6月、福島県安達郡本宮町(現:本宮市)に生まれた。福島縣立安積中學校を経て、早稲田大学を卒業。本宮町長や全国町村会長を務めて、馬匹・畜産を盛んにすることに貢献した。1949年(昭和24年)、全国町村長大会に出席した首長が皇居を訪問した際には、町村会会長として昭和天皇に御礼言上する役を担った。 1930年(昭和5年)、福島県美術協会を創設。石井柏亭と親交が深く、美術協会の審査委員長招いて十数年にわたり公募展を開いた。
菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 197… 菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 1975年7月13日)は、日本の法学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1898年、岩手県遠野で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。卒業後は同大学の副手となった。 1924年、ILO東京支局職員として勤務。1926年より欧米に留学を命じられた。1928年、九州帝国大学助教授に就いた。1929年に教授昇格。1943年から1945年には法文学部長を務めた。 1949年、第9代九州大学総長に就いた。1953年、日本学士院会員に選出された。学界では日本労働法学会の初代代表理事をつとめた。1962年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。
秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1… 秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1982年12月4日)は、日本の高分子化学者。 福岡県出身。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 商工省大阪工業試験所に入り、技手を経て技師となり、1935年学位を受け、同所の第四部長、第二部長を歴任。第二次世界大戦時には、陸軍兵器行政本部からの委嘱により、「重合「エチレン」蝋状物ノ合成ノ研究」を行っている。 1945年九州帝国大学工学部教授に就任。1951年大阪工業試験所および熊本大学教授も兼務。1956年3月九州大学評議員に選ばれ、1959年7月九州大学工学部長も併任する。 1961年帝人の常務取締役に転じ、開発本部長兼中央研究所所長を務め、1965年1月研究管理室長を委嘱され、1966年11月退任する。
渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年… 渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年〈明治31年〉6月21日 - 1967年〈昭和42年〉2月12日)は、日本の実業家。渋沢栄一の次男で後に廃嫡となる篤二の次男として生まれる。渋沢家の傍系に属しつつ、秩父鉄道、東京製綱、秩父セメント、玉村式索道など祖父・栄一関係の企業に関わり、出版・輸入事業「福本書院」でも活動した。兄に渋沢敬三、弟に智雄。 1898年6月21日、子爵・渋沢栄一の次男篤二と妻・敦子の次男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉にて生まれる。 敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。 1913年、父・篤二が廃嫡となる。