小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)… 小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)は、日本の哲学研究者。 仙台第一中学校、第二高等学校、1933年東北帝国大学哲学科卒業、同副手、高橋里美に師事、1938年仙台陸軍幼年学校教授、1942年二高教授、戦後1947年公職追放、1953年明治大学講師、助教授、1959年教授、1974年定年退職、城西大学教授。1982年定年退職。同11月勲四等旭日小綬章叙勲。 ドイツ哲学・文学を専門とし、日本美術、文学も論じた。
塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1… 塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業(少候19期)。本名は、塚本清。最終階級は陸軍少佐。戦前からの日蓮正宗の法華講員で、戦後、政財界の顔役として活躍した。 1907年(明治40年)9月1日、千葉県に生まれる。本籍は佐倉市裏新町。 旧制千葉県立佐倉中学校を卒業後、佐倉歩兵第57連隊に入隊。1935年(昭和10年)4月時点で陸軍軍曹であり、陸軍士官学校予科の生徒隊第1中隊第1区隊(区隊長:近藤伝八中尉)助教として51期生の教育を担当。1939年(昭和14年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。
川合 彰武(かわい あきたけ、1906年(明治39年)9月3… 川合 彰武(かわい あきたけ、1906年(明治39年)9月30日 - 1987年(昭和62年)11月16日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 静岡県浜名郡、現在の浜松市出身。1927年(昭和2年)に中央大学法学部を卒業すると朝鮮銀行に入り、朝鮮機械工業統制協会常務理事や協同産業取締役社長などを歴任。 戦後復員して1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で静岡県第3区から日本社会党公認で出馬して当選。衆議院議員に1期在任し、社会党浜松支部書記長などを務めた。その後、第24回、第25回総選挙に立候補したがいずれも落選した。 その他、静岡地方裁判所調停委員、静岡家庭裁判所調停委員、躍進機械製作所会長などを務めた。
石渡 達夫(いしわた たつお、1906年〈明治39年〉9月2… 石渡 達夫(いしわた たつお、1906年〈明治39年〉9月29日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。財務官僚。 神奈川県三浦郡浦賀町大津(現横須賀市大津)に生まれる。台北第一中学校、水戸高等学校文科甲類を経て、1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年10月、高等試験行政科に合格した。1932年(昭和7年)7月、警務局警務課に奉職し、府巡査懲戒予備委員に任じ、1936年(昭和11年)9月、府地方警視として基隆水上署長となり、3か月後に新竹警察署長に転じた。ついで1938年(昭和13年)1月、台中州豊原郡守となり、1939年(昭和14年)4月、花蓮港庁勧業課長に転じた。
田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 19… 田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 1986年1月28日)は、日本の経営者。テレビ西日本社長を務めた。熊本県熊本市出身。 1930年に早稲田大学高師部英語科を卒業し、1935年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社した。 1958年3月にテレビ西日本専務に就任し、1963年に副社長を経て、1967年から1971年までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1986年1月28日肺炎のために死去。79歳没。
肥田 次郎(ひだ じろう、1906年(明治39年)9月28日… 肥田 次郎(ひだ じろう、1906年(明治39年)9月28日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、大正から昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。岡山県高梁市出身。 1906年(明治39年)岡山県川上郡成羽町(現:高梁市)で貧しい小作農家に生れる。地元の吹屋小学校を卒業後、八百屋、呉服屋、食堂などで働き大阪市へ移住する。 1921年(大正10年)ころ初めてメーデーに参加。1922年(大正11年)南海鉄道(後の南海電気鉄道)に電気工夫として入社。電気労働組合に加入。独学でアナキズムを学んだ。1923年(大正12年)大阪英語学校初等科で学び、徴兵され陸軍伍長で除隊。南海鉄道技師となる。 戦後、南海電鉄労働組合執行委員長、日本私鉄労働組合関西地方連合会執行委員長、大阪地方交通運輸労働組合協議会議長、大阪府地方労働委員、同あっせん委員などを務めた。
崔 瑞日(チェ・ソイル、朝鮮語: 최서일、1906年9月27… 崔 瑞日(チェ・ソイル、朝鮮語: 최서일、1906年9月27日 - 1970年7月24日)は、日本統治時代の朝鮮の教員および大韓民国の実業家、政治家。第5代海務庁長、第6代韓国国会議員。 全羅南道莞島郡出身。日本農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒。水産業界の専門家として麗水水産学校の教諭を6年間務めた。光復後は朝鮮水産開発株式会社社長、商工部水産局長、第5代海務庁長(1960年10月22日〜1961年5月21日)を歴任した。5・16軍事クーデター以降は政界に入り、民主共和党所属の第6代国会議員、民主共和党全羅南道第13地区党委員長、国会農林委員会委員を務めた。 1970年7月24日、持病によりソウル市城東区の自宅で死去。
新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - … 新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - 2005年4月26日)は、日本の医学者。専門は病理学。学位は、医学博士(北海道帝國大學)。元札幌医科大学学長。 北海道瀬棚郡瀬棚町(現在の久遠郡せたな町)生まれ。1926年北海道庁札幌第一中学校卒業。北海道帝国大学予科修了。1933年北海道帝国大学医学部卒業。同医学部副手に就く。1936年同医学部助手。1937年同医学部講師。1938年同医学部病理学第一講座助教授。1944年樺太医学専門学校病理学講座教授。1946年樺太医学専門学校校長事務取扱。1950年札幌医科大学医学部病理学講座教授。1961年同附属癌研究所所長。1965年札幌医科大学学長に就任。
県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9… 県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9月26日 - 1922年(大正11年)7月12日)は日本の詩人。福岡県出身。 福岡県福岡市生まれ。生後間もなく父の赴任先である旧・満州に一家で転居。1912年福岡に戻り、1913年には東京へ転居した。日本橋区箱崎小学校に入学するが、1914年に麹町区麹町小学校へ転入し卒業、1919年明治中学校(現:明治大学付属明治高等学校・中学校)に入学。この頃、独学で詩作活動を始める。明治中学在学中の1921年、学校遠足の帰りに雨に濡れ体調を崩し3週間病床に伏し、一旦は回復するも再び入院。その後、通学出来るまでに回復するが、担当医師の勧めで千葉県安房郡北条町(現:館山市)北条に療養のため転居。
能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日… 能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日 - 1976年(昭和51年)10月18日)は、日本の数学者。理学博士。専門は複素解析。北海道帝国大学講師、旧制第一高等学校教授、名古屋帝国大学教授、ハーバード大学客員教授、名古屋大学名誉教授、東京理科大学教授を務める。1956年(昭和31年)、「函数論における集積値集合の研究」で第9回中日文化賞を受賞。
小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25… 小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月23日)は、日本の実業家である。京都府警を経て、京都市観光局長を務めた後、京都社寺信用組合(現・京都信用金庫)理事長となる。岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1906年(明治39年)岡山県上道郡西大寺町(現:岡山市東区)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、ロサンゼルス高野山別院第4代主監を務める高橋成通がいた。1925年(大正14年)に同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。1928年(昭和3年)同校を卒業し、東京帝国大学法学部に進学する。1931年(昭和6年)3月、東大法学部法律学科を卒業する。
山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月2… 山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月25日 - 1974年(昭和49年)11月25日)は、日本の数学者。一橋大学名誉教授。「一橋の数学」の育成に尽力し、今日の一橋大学における数学教育の基盤を築いた。東京市出身。 東京市日本橋区で生れる。旧・永田町小学校(現・麹町小学校)などを経て、府立四中(現・東京都立戸山高等学校)を卒業。1930年に東京商科大学、1933年には東京文理科大学数学科をそれぞれ卒業し、東京商科大学予科数学講師となる。1936年に予科教授、1949年一橋大学が新制大学として発足するとともに経済学部教授として、数理経済学やゼミナールを担当。大学時代からブール代数に関心をもち、現代数学の社会科学への応用に尽力した。
柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 -… 柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 - 1984年6月24日)は、俳人。本名は初子。 兵庫県出身、東北帝国大学文学部国文科卒。父井上白嶺の指導を受け、1932年より飯田蛇笏に師事。蛇笏の「雲母」同人となり、高橋淡路女と並んで同誌の代表的女性俳人として活躍。1954年、加藤知世子などとともに「女性俳句」創刊。1962年、「俳句女園」を創刊、主宰。1983年、第七句集『月の笛』により第17回蛇笏賞を受賞。他の句集に『冬椿』『遠い橋』など、また評論集に『女流の俳句』がある。代表的な句に「水鳥のしづかに己が身を流す」「春の星ひとつ潤めばみなうるむ」など。 1984年、千葉県市川市の自宅に一人でいた際に強盗に襲われ殺害された。
栂井 義雄(とがい よしお、1906年9月25日 - 198… 栂井 義雄(とがい よしお、1906年9月25日 - 1983年6月27日)は、日本の経営史学者。 台湾台南市生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒。1976年「三井物産会社の経営史的研究」で中央大学商学博士。東洋経済新報社をへて専修大学経営学部教授、学部長、77年定年、名誉教授、松山商科大学教授。日本経営史研究所理事。
臼田 金太郎(うすだ きんたろう、1906年9月25日 - … 臼田 金太郎(うすだ きんたろう、1906年9月25日 - 1980年5月27日)は、日本のアマチュアボクシング選手、プロボクサー。東京都大田区出身。1928年アムステルダムオリンピックウェルター級日本代表。初代および第2代日本ライト級、第8代日本ウェルター級王者(いずれも戦前の王座)。日本拳闘倶楽部、大森拳闘倶楽部、国際拳、臼田ジム所属(所属順)。東京植民貿易語学校、明治大学卒業。邱永漢の姉・素娥と結婚。 植民貿易語学校時代は当初、相撲の選手だった。 以下はプロとして行った試合の判明分。
宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈… 宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈明治39年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉7月1日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。 ミノファーゲン製薬創設者。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。月刊誌『軍縮問題資料』創刊者。 参議院議員(2期)、衆議院議員(10期)、日中友好協会会長・名誉会長、日本北アフリカ協会会長。 東京府に生まれる。父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎。父の意志で旧制府立第一中学を経て、東京陸軍幼年学校(25期)に入学し、1924年に卒業。1925年に旧制水戸高等学校に入学。水戸高校時代はマルクス主義に傾倒し、水田とともに東京帝国大学ではなく、学生連合会の要請で京都帝国大学を志望校に選んだ。
隅田 善雄(すみだ よしお、1906年〈明治39年〉9月24… 隅田 善雄(すみだ よしお、1906年〈明治39年〉9月24日 - 没年不明)は、昭和時代の実業家。 広島県に生まれる。隅田光蔵の二男。1931年(昭和6年)慶應義塾大学経済学部を卒業後、東洋紡に入社。購買部、津出張員兼津工場用度掛主任、伊丹製絨工場用度掛主任を経て、資材課長となり、東京資材課長ののち東洋ゴムに転じ業務部長代理兼倉庫課長、事務部長附製品課長、営業部長、資材部長、1952年(昭和27年)参与課査室長、1954年(昭和29年)総務部長、1962年(昭和37年)5月、監査役を経て、1965年(昭和40年)東洋ゴム不動産取締役に就任した。同年退任し、東洋ゴム工業顧問を経て、昌和不動産取締役となった。
森永種夫(もりなが たねお、1906年9月24日 - 199… 森永種夫(もりなが たねお、1906年9月24日 - 1995年3月25日)は、日本の郷土史家。 長崎県出身。1930年東京帝国大学文学部国文学科卒。長崎で高等学校教諭、長崎市立長崎高等学校教頭をへて長崎純心女子短期大学教授。「長崎犯科帳」を主として研究した。
神原 周(かんばら しゅう、1906年 <明治39年> 9月… 神原 周(かんばら しゅう、1906年 <明治39年> 9月22日 - 1999年 <平成11年> 12月7日)は日本の化学者。ゴムや合成繊維の研究を行なった。教え子には白川英樹らがいる。位階は正四位。 1906年9月22日、東京府東京市本郷区真砂町(現・東京都文京区本郷)で、大蔵省の官僚などを務めた神原伊三郎と夫見子の三男として生まれた。本郷小学校在学中に、第一次世界大戦終結時の株式相場の暴落によって父が破産の危機に直面したが、母のへそくりや父の同級生だった岩垂邦彦の援助もあり、成城中学校に進学することができた。中学時代はロマン・ロランやギ・ド・モーパッサンの作品を愛読する文学少年だったという。
北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 20… 北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 2002年3月21日)は、日本の植物学者。キク科植物研究の第一人者とされる。京都大学名誉教授。 昭和天皇の植物学研究の相談役としても活躍し、北村の葬儀の際には、天皇明仁・皇后から白いキクの花が下賜された。 1906年に生まれる。高等学校時代にはフランス文化に関心を深めた。京都帝国大学理学部の植物学教室に進学し、小泉源一助教授に師事した。卒業論文の題目は「アザミ属の研究」であった。次いでキク科植物の分類について研究した。1945年(昭和20年)に京都大学教授に就任してからも、キク科植物分類の整理を続け、第二次世界大戦による中断を挟みながらも20年がかりでまとめた。
和歌嶌 三郎(わかしま さぶろう、1906年9月22日 - … 和歌嶌 三郎(わかしま さぶろう、1906年9月22日 - 1961年3月4日)は、和歌山県日高郡川辺町(現:和歌山県日高郡日高川町)出身の元大相撲力士。本名は松井 三郎(まつい さぶろう)。 「和歌嶋」と表記する文献が多いが、番付上では「和歌嶌」の表記である。 1906年9月22日に和歌山県日高郡川辺町(現:和歌山県日高郡日高川町)で生まれる。和歌山県立田辺中学校に通っていたが、相撲の強さを同郷の高ノ山三郎に見出されたため、3年生で中途退学して入間川部屋へ入門、間もなく出羽海部屋へ転属した。四股名は郷里・和歌山県に因んで「和歌嶌」とした。 1923年1月場所で初土俵を踏むと、スピード出世で1928年5月場所で新十両昇進、その十両も僅か2場所で通過し、1929年1月場所で新入幕を果たした。
毎田 周一(まいだ しゅういち、1906年〈明治39年〉9月… 毎田 周一(まいだ しゅういち、1906年〈明治39年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉2月27日)は、日本の仏教思想家、詩人。金沢市出身。第四高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1937年長野県師範学校教諭、1942年石川県師範学校教諭。 暁烏敏に師事し、西田幾太郎に学ぶ。雑誌『真』、『大雪山』を主宰。仏教の教えを日常の言葉で語り、多くの解説書や詩を残した。没後「毎田周一全集」が纏められた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
藤田 卯一郎(ふじた ういちろう、1906年9月20日 - … 藤田 卯一郎(ふじた ういちろう、1906年9月20日 - 1968年7月8日)は、日本のヤクザ、右翼活動家。松葉会の設立者で初代会長。茨城県水戸市出身。旧制水戸中学校卒業。 若年期には不退の軍治、晩年は殿さま軍治、よかろう軍治と呼ばれた。 旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった。 昭和7年(1932年)春、関根組組長・関根賢の子分となった。 昭和20年(1945年)の終戦直後、藤田は兄弟分・益戸克己の口利きで、佐藤栄助(後の松葉会二代目、四代目)を舎弟とした。さらに、佐藤栄助は関根賢から盃を貰って関根組の若衆となった。 昭和22年(1947年)7月8日、関根組は恐喝容疑で手入れを受けた。
奥貫 賢一(おくぬき けんいち、1906年9月20日 - 2… 奥貫 賢一(おくぬき けんいち、1906年9月20日 - 2002年2月22日)は、日本の官僚、行田市長。旧姓・清水。 埼玉県出身。1924年、埼玉県立熊谷中学校卒業。1927年、第三高等学校卒業。1930年、東京帝国大学法学部仏法科卒業。朝鮮総督府に入り、平安南道学務、地方各課長、拓務事務官、拓務書記官、殖産局商工課長、興亜院調査官、大東亜省調査会在ハノイ総領事を歴任。 戦後の1946年埼玉県地方労働委員に就任。翌1947年には忍町町長に就任した。1949年に忍町が市制施行により行田市になり、同市の市長に就任した。在職中は市消防本部の設置、下水道工事に着手、中央公民館の開館が挙げられる。 1951年に一度市長を退任するが、1955年に再び行田市長に就任した。
石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 19… 石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 1986年2月8日)は、日本の俳人・小説家・編集者。俳誌「鶴」の二代目主宰。本名は友次。 新潟県北蒲原郡笹岡村(現阿賀野市)生まれ。笹岡尋常高等小学校高等科卒業。農業学校を出て家業の農業に従事したのち、1924年に叔父を頼って上京。 横浜の濾水工場で働いたのち、1932年まで神田の東京堂書店に勤める。この間、那珂公平の紹介で横光利一に師事したほか、多くの文人と交わる。1932年、保高徳蔵の「文学クオタリイ」に参加、同人となり発行事務を手伝う。1933年、書物展望社にて随筆誌『文体』の編集に携わる。1935年、沙羅書店を設立、横光利一の『日輪』『覚書』、水原秋桜子の『葛飾』復刻版、石橋辰之助の『山行』、石田波郷の『石田波郷句集』などを刊行する。
桑原翠邦(くわはら すいほう、1906年〈明治39年〉9月2… 桑原翠邦(くわはら すいほう、1906年〈明治39年〉9月20日 - 1995年〈平成7年〉3月27日)は、北海道帯広市出身の書家である。本名、清美。翠邦は号で魚目とも号した。書家の桑原呂翁は長男。 1906年、北海道河西郡帯広町(現在の帯広市)に生まれた。1921年、札幌鉄道教習所に入学し、大塚鶴洞に師事したことで、書を意識するようになった。また、後に同じく書家となる金子鷗亭、三宅半有とも鉄道教習所時代に出会っている。1924年に鉄道教習所を卒業し、職に就くが、川谷尚亭、比田井天来が相次いで北海道に来遊、彼らから上京を勧められたことで、金子とともに1932年に上京、以降比田井天来に師事した。翌年、上田桑鳩が中心となって結成された書道芸術社に参加した。
小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9… 小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9月19日 - 昭和57年(1982年)10月5日)は日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。秋田県知事を連続6期24年務め、秋田県の発展に尽力した。 雑貨商の父勇吉、母シカの二男として秋田県北秋田郡早口村弥五郎沢(現・大館市)に生まれる。 大正13年(1924年)3月、旧制秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)を卒業。 大正14年(1925年)4月から小学校の代用教員を務め、昭和2年(1927年)10月から養父吉田季吉の世話で故郷の早口村役場の書記に7年間勤務する。この間、松尾好子と結婚する。 昭和14年(1939年)、秋田県庁に入庁。
岡田 謙(おかだ ゆずる、1906年9月19日 - 1969… 岡田 謙(おかだ ゆずる、1906年9月19日 - 1969年9月5日)は、日本の社会学者、社会人類学者。 東京出身。東京帝国大学卒。1930年台北帝国大学講師、台湾の先住民族を研究。のち東京高等師範学校教授、東京教育大学教授。47年「未開社会に於ける家族」で東京帝大文学博士。51年ニューヨーク大学で在外研修。
明石 元長(あかし もとなが、1906年(明治39年)9月1… 明石 元長(あかし もとなが、1906年(明治39年)9月19日 - 1949年(昭和24年)7月2日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府で陸軍将校・明石元二郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)父が台湾総督に就任すると、家族の中でただ一人台湾に渡ったが、1919年(大正8年)10月、父が病のため死去し、同年11月29日、男爵を襲爵、小学校卒業まで台湾に留まった。明石家に資産がなく遺族の今後のため下村宏総督府総務長官ら有志が「明石財団」を設立した。また、当時の台湾総督府専売局長・賀来佐賀太郎が元長の教育を援助し、賀来の子息たちとともに学習院で学んだ。1931年(昭和6年)東北帝国大学法文学部を卒業した。
劉 寒吉(りゅう かんきち、1906年(明治39年)9月18… 劉 寒吉(りゅう かんきち、1906年(明治39年)9月18日 - 1986年(昭和61年)4月20日) は、日本の昭和期の小説家。本名は 濱田 陸一(はまだ りくいち)。 1906年(明治39年)9月18日 福岡県小倉市、魚町33番地(現 北九州市小倉北区、魚町2丁目4番21号)で 父 濱田源治 母 マツの長男として生まれた。名は陸一。生家は、旧小倉藩小笠原公の砂糖御用達商人「濱田屋」。1925年(大正14年)小倉市立小倉商業学校(現 福岡県立小倉商業高等学校)卒業。 在学中より文学の道に進み、同人誌『悟桐』を創刊。1925年(大正14年)9月、同人誌『公孫樹』を創刊。1938年(昭和13年)『九州文学』創刊以来、1983年(昭和58年)12月号の第464号で休刊するまで、48年間『九州文学』の大黒柱として、編集経営に尽力した。
黒田 巌(黑田 巖、くろだ いわお、1906年(明治39年)… 黒田 巌(黑田 巖、くろだ いわお、1906年(明治39年)9月18日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の陸軍軍属、実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県印南郡阿弥陀村(現高砂市)で生まれる。1932年(昭和7年) 京都帝国大学法学部を卒業した。小学校訓導、兵庫県巡査、満州国ハルピン警察庁巡官、浜江省規画科長、北支那方面軍嘱託、済南治安維持会顧問、済南特務機関勤務、山東省会警察局顧問、同省公署顧問補佐官、日本陸軍師団・旅団の政治工作班長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月、 第21回衆議院議員総選挙に兵庫県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。当選後は翼賛政治会に参加し、終戦後は日本進歩党に所属して衆議院議員を1期務めた。
岸 松雄(きし まつお、1906年9月18日 - 1985年… 岸 松雄(きし まつお、1906年9月18日 - 1985年8月17日)は、日本の映画評論家、ジャーナリスト、脚本家、映画監督である。本名は阿字 周一郎(あじ しゅういちろう)、別名は和田山 滋(わだやま しげる)。映画作家・山中貞雄を発見した批評家として知られる。 1906年(明治39年)9月18日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)の商家に「阿字周一郎」として生まれる。 慶應義塾大学に入学、同学在籍中の1925年(大正14年)ころには『キネマ旬報』、『映画往来』、『映画評論』、『映画時代』、『蒲田』(松竹蒲田撮影所の雑誌)等の雑誌の執筆者となる。やがて同学を卒業する。1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)までの時期、社会主義的言説に耽溺する。
鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月1… 鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月17日 - 1979年(昭和54年)2月8日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位勲一等。衆議院議員(7期)、熊谷市長(3期)。熊谷市名誉市民。1953年3月熊谷商工信用組合を設立し、初代理事長に就任。その後、自由民主党より国政へ進出し、商工部会長、中小企業調査会長、政調審議委員、副幹事長、池田内閣建設省政務次官、佐藤内閣経済企画政務次官、衆議院大蔵委員長などを歴任。専門は中小企業問題、経済企画。地元、熊谷駅への新幹線開通を実現した。衆議院議員の鴨田利太郎は息子。
井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 19… 井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 1981年8月22日)は、日本の精神医学者。国立精神衛生研究所心理学部長等を歴任。日本大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1941年)。 千葉県銚子市生まれ。水戸高等学校卒、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1934年東京帝国大学医学部卒業、東京帝国大学医学部附属病院精神科副手。35年同助手、1940年同外来診療所医長。41年「失語症に於ける失行性症状」で東京大学より医学博士の学位を取得。同年軍事保護院傷痍軍人下総療養所医官。44年日本精神学会学会賞(森村賞)受賞。1947年国立国府台病院副院長兼神経科医長。49年国立東京第一病院神経科医長。
皆川 三郎(みながわ さぶろう、1906年9月14日 - 1… 皆川 三郎(みながわ さぶろう、1906年9月14日 - 1998年10月21日)は、日本の英語学・英語史学者。 新潟県出身。東京外国語学校英語科卒。1981年「形成期の東インド会社とWilliam Adams」で立正大学文学博士。高知商業学校教師、1938年仙台陸軍幼年学校教官、1946年長岡工業専門学校教員、1949年新潟大学助教授、のち明治学院大学教授、1977年定年、帝京大学文学部教授を務めた。トマス・ハーディのほか、江戸時代の西洋との交通について研究した。
吉岡 誠(よしおか まこと、1906年〈明治39年〉9月12… 吉岡 誠(よしおか まこと、1906年〈明治39年〉9月12日 - 1991年〈平成3年〉2月11日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長(1期) 。位階は従四位。 盛岡市出身。1929年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)卒。盛岡銀行、盛岡瓦斯に勤務した。1933年に岩手県庁に入り。商工、秘書の各課長、教育、労働、民生、農地、商工水産、総務の各部長を歴任した。1961年に岩手県副知事に就任した。副知事を2年間務めた後、1965年の盛岡市長選挙で当選した。市長を1期務め、1969年に退任した。1991年に死去。死没日付をもって従六位から従四位に進階した。
初島 住彦(はつしま すみひこ、1906年9月11日 - 2… 初島 住彦(はつしま すみひこ、1906年9月11日 - 2008年1月22日)は、日本の植物学者。鹿児島大学名誉教授。農学博士。 1906年、長崎県島原市に生まれた。鹿児島高等農林学校卒業後、九州帝国大学(現:九州大学)に進学。戦前に金平亮三とニューギニアやジャワ島の植物調査を実施した。1931年、農学部林学科卒業。 1942年に九州帝国大学で農学博士の学位を取得。学位論文は「亜細亜産黄楊属の検討」。 戦後は鹿児島大学で教鞭をとり、佐藤正己などを指導した。1972年の定年まで同大に勤務後、琉球大学理工学部(現理学部)へ教授として3年間赴任。その後も南日本の植物研究と教育に尽力した。 2008年1月22日、胆管癌のため鹿児島市の病院で死去。
日野 勝次郎(ひの かつじろう、1906年9月10日 - 1… 日野 勝次郎(ひの かつじろう、1906年9月10日 - 1995年5月7日)は、日本の経営者。河北新報社代表取締役を務めた。宮城県出身。 1930年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、同年10月に河北新報社に入社。1946年1月に監査役に就任し、1947年8月に取締役、1949年7月に常務、1962年4月に専務を経て、1963年10月には代表取締役(現在の社長の地位に相当)に就任。1970年1月に副会長に就任し、1972年8月に取締役相談役を経て、1978年3月には相談役に退いた。河北ビル社長、東北放送取締役も務めた。 1977年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年5月7日肺炎のために死去。
長谷川 三郎(はせがわ さぶろう、1906年(明治39年)9… 長谷川 三郎(はせがわ さぶろう、1906年(明治39年)9月6日 - 1957年(昭和32年)3月11日)は、日本の洋画家。数々の抽象絵画の作品を残した現代抽象絵画の先駆者である。 1906年、山口県豊浦郡長府町(現:下関市)に生まれる。1910年、兵庫県神戸市に転居。1918年、兵庫県芦屋市呉川町に転居。甲南中学校、旧制甲南高等学校を経て、1929年、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。渡米して画家活動を始める。新時代洋画展や自由美術家協会を設立する。1950年、イサム・ノグチを日本に紹介した。 1950年頃から拓本、木版、水墨の制作に専念する。1953年、日本アブストラクト・アート・クラブ設立。
金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1… 金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1996年11月5日)は、日本の経営者。北陸電力社長を務めた。富山県富山市出身。 1930年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業、1932年に日本海電気に入社した。 1946年、北陸配電社長に就任し、1954年、北陸電力副社長を経て、1959年(昭和34年)9月9日、社長に就任。 1967年11月、北陸経済連合会の初代会長に就任した(1979年4月まで)。 1972年に会長に就任し、1979年には相談役に就任。 1964年11月19日、藍綬褒章を受章し、1976年に勲一等瑞宝章を受章。1968年(昭和43年)11月1日、中経産業功労賞(中部経済新聞社)を受賞。
松川 七郎(まつかわ しちろう、1906年9月3日 - 19… 松川 七郎(まつかわ しちろう、1906年9月3日 - 1980年11月7日)は、日本の経済学者、一橋大学名誉教授。経済学史・統計学史専攻。日本学士院賞受賞。 宮城県出身。東京帝国大学経済学部卒。一橋大学教授、1967年ウィリアム・ペティ研究で日本学士院賞受賞。70年定年後、中央大学教授。77年退職。指導学生に竹村孝雄(元中央大学教授)など。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
細谷 源二(ほそや げんじ、1906年(明治39年)9月2日… 細谷 源二(ほそや げんじ、1906年(明治39年)9月2日 - 1970年(昭和45年)10月12日)は、日本の俳人。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)生まれ。本名は源太郎。旧号は碧葉。 工手学校(現・工学院大学)中退後、同じ俳人の松原地蔵尊の『句と評論』に加わった。1939年(昭和14年)、渡辺白泉、藤田初巳らと「句と評論」(後に「広場」に改題)を創刊した。後に内藤辰雄らと共に工場生活を取材し、口語表現にも挑戦した。1940年(昭和15年)、新興俳句弾圧により検挙され、約2年半収監される。 1945年(昭和20年)、戦後開拓として北海道豊頃村(現・豊頃町)の開拓地に家族とともに入植したが失敗に終わった。
大谷 智子(おおたに さとこ、1906年〈明治39年〉9月1… 大谷 智子(おおたに さとこ、1906年〈明治39年〉9月1日 - 1989年〈平成元年〉11月15日)は、日本の元皇族、華族。久邇宮邦彦王と同妃俔子の第3王女子。東本願寺第24世法主・大谷光暢伯爵夫人。東本願寺裏方。旧名は、智子女王(さとこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。香淳皇后の妹であり、第125代天皇・明仁(上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大叔母にあたる。 1906年(明治39年) 9月1日午後7時30分、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第3王女子(第5子)として誕生。御七夜の9月7日に「智子」と命名された。 久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。
坪野哲久(つぼの てっきゅう、1906年9月1日-1988年… 坪野哲久(つぼの てっきゅう、1906年9月1日-1988年11月9日)は、昭和期の日本の歌人。本名、坪野久作。妻の山田あきも歌人。 石川県羽咋郡志賀町出身。東洋大学文学部支那哲学科を卒業後、「アララギ」に入会し島木赤彦に師事。赤彦没後は小泉苳三主宰の「ポトナム」同人となる。後世のプロレタリア歌人としてのイメージが強いが、赤彦を最大の師として尊敬し、「アララギ」への帰属意識は終生持っていた。 1928年、新興歌人連盟に参加するが、五島茂との間に方向性の違いが生じ、1ヶ月で渡辺順三、浅野順一、伊澤信平、大塚金之助、浦野敬らとともに脱退、無産者歌人連盟を結成。1929年、東京ガスの人夫として働くも労働組合運動に参加したことから解雇される。
輿水 実(こしみず みのる、1906年9月 - 1986年3… 輿水 実(こしみず みのる、1906年9月 - 1986年3月5日)は、日本の国語学者・国語教育学者。国立国語研究所名誉所員。山梨県生まれ。1931年東京帝国大学文学部哲学科卒。三重師範学校教授、1941年青年文化協会東南アジア学院教授、国立国語研究所第二研究部長、のち同名誉所員、国語教育研究所長。長男は中国語学者の輿水優。
依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年… 依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年5月11日)は、日本の心理学者。 東京市麻布生まれ。学習院教授依田豊の長男。第八高等学校卒業。1929年、東京帝国大学心理学科卒業。 東京文理科大学助手。1937年、東京高等師範学校講師。1938年、教授。1936年から児童学研究会に参加し、さらに教育科学研究会教育科学研究部会に参加。戦時下弾圧を受ける。1948年、東京文理科大学教授。1949年、校名変更で東京教育大学教授。 1951年、名古屋大学教授(1958年まで東京教育大学教授併任)。1954年まで名古屋大学教育学部学部長。 1956年、東京大学教育学部教授(1959年まで名古屋大学併任)。
大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月2… 大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月29日 - 1987年(昭和62年)12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期、自由民主党)。弁護士。 新潟県中頸城郡頸城村(現・上越市頸城区)出身。1930年(昭和5年)東京帝国大学独法科卒。弁護士となり、陸軍主計大尉、頸城運送倉庫社長を経て、新潟県議となる。1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で旧新潟4区から自由民主党公認で立候補して初当選する。第3次佐藤内閣法務政務次官、衆議院法務委員長を歴任する。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。1983年(昭和58年)春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲五等からの昇叙)。
帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年… 帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年2月3日)は、日本の商工官僚、政治家。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 大分県日田市で生まれる。旧制第六高等学校、二度落第。1931年東京帝国大学経済学部卒。在学中は新人会で学生運動に身を投じた。 朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実、風見章、勝間田清一、穂積七郎らと共に近衛文麿の最高政治幕僚組織「昭和研究会」に所属した。商工省の革新官僚であり、第二次世界大戦中に重要産業統制協議会事務局長就任、統制経済を推進し、大日本帝国の国民経済を自由主義的市場経済から全体主義的計画経済へ移行させる経済新体制の確立を画策した。 昭和研究会には帆足ら革新官僚と尾崎ら転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者」(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理論的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった。
千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27… 千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27日 - 1987年(昭和62年)12月9日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 岩手県東磐井郡千厩町(現一関市)出身。1920年(大正9年)千厩町立千厩尋常高等小学校高等科を卒業した。卒業後は地元で職業を転々とした後、上京し、大日本麦酒株式会社に就職。政治運動に関わるようになる。 その後、帰郷し、千厩町役場書記を務めた。1927年(昭和2年)労働農民党に入党し、農民運動に加わる。1932年(昭和7年)衆議院総選挙に関わったことを理由に町職員を免職される。免職後は東京日日新聞と河北新報の嘱託記者となる。1933年(昭和8年)千厩町会議員に選出され3期在任した。
岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 198… 岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 1988年6月1日)は、日本の東洋史学者。専攻は内陸ユーラシア史・東西交渉史。戦後日本におけるシルクロード学の開拓者として知られる。 1905年、北海道小樽市で生まれた。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)卒業後渡米し、オタワ大学社会学部で学んだ。1929年に卒業。 1931年、新聞連合社(のち同盟通信社を経て、現:共同通信社)に就職。一方でトロント大学大学院経済史専攻に進み、1932年に修了。満州事変後のリットン調査団に随行して中国各地を回り、国際連盟のジュネーヴ本部などに勤務した。戦時期には東方社の理事に就任したほか、1942年から1945年にかけて文部省民族研究所研究員として在外研究にあたった。