中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明… 中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明治27年)9月23日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、高知県高岡郡檮原村長、同東津野村長。位階は従五位。 高知県高岡郡西津野村越知面(檮原村を経て現檮原町)で、中越義隆、光子の二男として生まれる。1915年(大正4年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業。1921年(大正10年)家督を相続した。農業を営む。 檮原村農会技手に就任。その後青年学校教員となる。檮原村産業組合理事、檮原村信用組合長、高岡郡畜産組合長、高岡郡教育会長、檮原村警防団長、高知県椎茸組合長、高知県森林組合連合会常務理事、同副会長、同県大政翼賛会組織部長、同会事務局長などを務めた。
中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 19… 中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 1973年10月16日)は、王子製紙(現・王子ホールディングス)元社長、紙の博物館初代理事長。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校を経て東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、初代王子製紙へ入社。1946年、足立正の後任として社長に就任。1949年の初代王子製紙の解体後は、後継会社の苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)の社長に就任。1967年に会長に異動するまで社長職に就いた。出身校の一橋大学の組織に当る如水会第14・15代会長も務めた(1961年 - 1966年)。 1973年10月16日、栗山町の王子製紙の林木育種研究所の訪問中に倒れ死去。
荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 19… 荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 1978年2月10日)は、日本の篤農家。 長野県北佐久郡東長倉村(現軽井沢町)生まれ。尋常小学校卒業後、農業に従事し、軽井沢町会議員などを務める。昭和7年(1932年)、野菜の温床苗代に伸びていたイネ苗を発見し、これをきっけに高冷地のイネの育苗法や冷害対策研究に没頭し、水苗代の改良に取り組み、委託苗代や、温床苗代、水陸折衷苗代等の試作を重ねた末、イネを早植をすることで冷温による障害やイモチ病への抵抗力が高まることを発見し、昭和17年(1942年)には、種を撒いた苗代の上に油紙を置いて地温を上昇させ、発芽時期を早める「保温折衷苗代」を考案し、同年農林大臣より食糧増産功労者として顕彰された。
高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 196… 高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 1966年1月31日)は日本の実業家。 現在の熊本県玉名市に生まれる。熊本県立玉名中学校(1913年卒業)を経て、[要出典]1917年に神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業した。 1917年、三菱合資会社に入社して炭鉱部に所属し、翌年三菱鉱業が設立されると移籍した。1950年に社長に就任する。武甲セメントでも社長を務めた。 社外では日本石炭協会会長のほか、経済団体連合会や日本経営者団体連盟(いずれも日本経済団体連合会の前身)の理事などを歴任した。
浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月… 浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月18日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の薬学者、化学者である。 千葉県の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、同大学の教授だった朝比奈泰彦に師事し薬学の研究に携わった。卒業後は金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の薬学専攻の教授となり、後に薬学の研究及び留学のためドイツに移住し、フライブルク大学に入り同大学の教授だったハインリッヒ・ヴィーラントから学ぶ。帰国後は主に生化学の研究について学び、1938年(昭和13年)に母校の帝大の伝染病研究所における化学部長及び教授となった。 その後は薬学博士を取得し、結核菌等の感染症の化学療法剤や脂肪酸の合成及び5型の分離、ベンゾキノン等の植物色素、地衣成分等の多くの研究に携わり、特にジフテリア菌の脂肪酸やピルビン酸系地の色素の研究に関してはこの業績により後に受賞している。
中村 三之丞(中村 三之烝、なかむら さんのじょう、1894… 中村 三之丞(中村 三之烝、なかむら さんのじょう、1894年〈明治27年〉9月18日 - 1979年〈昭和54年〉7月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 運輸大臣、衆議院議員を歴任。 京都府出身。1918年(大正7年)早稲田大学政治経済科を卒業。大蔵大臣秘書官等を経て、1932年(昭和7年)立憲民政党公認で第18回衆議院議員総選挙に立候補し当選した。以後通算当選8回。1937年(昭和12年)第1次近衛内閣の大蔵参与官となる。戦前は永井柳太郎に近く、1940年(昭和15年)の新体制運動に際しては民政党が解党する前に永井らと民政党を離党、大政翼賛会に合流した。政党解消後は翼賛議員同盟には参加せず中間派の議員倶楽部に所属したが、1942年(昭和17年)の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選した。
鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - … 鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - 1966年9月20日)は日本の社会学者。農村社会学・都市社会学の泰斗。自然村対行政村の概念を提示。
山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16… 山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚、政治家。内務三役(警保局長、警視総監、内務次官)を経て政界入りし、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任した。正三位。勲一等。農林大臣・逓信大臣の山崎達之輔は実兄。 福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。
井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 197… 井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 1974年2月6日)は、日本の経済学者。専門は財政学。経済学博士。正三位勲一等瑞宝章。 海軍経理学校教授、一橋大学学長、日本学士院会員、自治庁参与、大蔵省税制特別調査会会長、日本ホッケー協会理事、大学基準協会常任理事などを歴任した。 京都市出身。京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)を経て、1918年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1920年同校専攻部貿易科卒業。福田徳三教授に師事。1920年東京商科大学(現一橋大学)助手、1910年東京商科大学附属商学専門部講師。1922年から財政学の内池廉吉教授に師事。1935年東京商科大学より経済学博士の学位を取得。
小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 19… 小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 1967年7月10日)は、日本の性文化研究者。夫の小倉清三郎とともに性の研究雑誌『相対』を発行し、自らも記事を多数執筆した。猥褻文書出版販売違反で逮捕された際、阿部定の隣室になり、『阿部定隣室観察十日間』を執筆。晩年は精神異常者とみなされて収監され、精神病院で亡くなった。旧姓坂本、本名は道代。弟に作家の坂本石創がいる。 1894年に愛媛県西宇和郡川之石町(現・八幡浜市)の農家に生まれる。小学校を卒業すると従兄と結婚させられたが、5年後に離婚し、松山技芸女学校(現・済美高等学校)へ進学。1917年に小学校教員になる。翌年上京し、東京女子専門学校(現・東京家政大学)へ入学。
岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 -… 岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 - 1963年3月22日)は、日本の経営者。三越社長を務めた。 神奈川県出身。1918年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。 1938年に東京電燈常務に就任し、1942年に関東配電理事を経て、1943年6月に三越社長に就任。 1963年3月22日、死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月… 徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月12日 - 1953年〈昭和28年〉10月14日)は、日本の政治運動家、共産主義者、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代から戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球の愛称で知られる。 沖縄県国頭方名護間切(現:沖縄県名護市)で、鹿児島の豪商の庶子であった父とウチナーンチュの母の間に生まれる。家は沖縄の中にあっては裕福で、「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。母方の祖母は高利貸しと泥藍売りを営み、徳田もこの稼業を手伝っていたが、強欲な祖母に反発して「お金を借りてはだめだ」と借りに来た者に対して注意するなど、正義感が強い子供であった。
奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)… 奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)9月12日 - 1976年(昭和51年)11月22日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。 京都府出身。政治家・奥繁三郎の長男として生まれる。1919年(大正8年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。同年、三井銀行に入行した。 以後、京都倉庫社長、京都瓦斯副社長、愛宕山鉄道監査役、渡良瀬水電監査役、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)参事、丸物百貨店取締役、山城八幡銀行取締役、安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)取締役、大日本政治会京都支部幹事長などを務めた。 1942年(昭和17年)京都府多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月19日に就任し、交友倶楽部に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - … 渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - 1972年2月26日)は、大正・昭和期の歌人。 富山県富山市に生まれる。士族の家柄で、祖父は富山藩砲術指南である。しかし家は維新後に没落。父は小学校の校長を勤めたが、精神病を患い順三が12歳のときに亡くなった。姉夫婦の援助で富山中学校に進学するが、他人の世話になることを好まない母の方針により三ヶ月で中退し、母とともに上京して、神田の家具店に住み込みで働き始めた。母は東京控訴院検事長河村善益の家の住み込み女中となった。 1910年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、その後遺症で左耳の聴覚を失う。1913年頃から「時事新報」の窪田空穂選歌欄へ投稿を始め、「国民文学」創刊にも参加し、空穂に師事する。
島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月… 島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月7日 - 1977年(昭和52年)2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員。正三位勲一等。 自由民主党元衆議院議員島村宜伸は六男。 東京府南葛飾郡小松川町平井(現在の東京都江戸川区平井)に生まれる。 中央大学中退。小松川町会議員、小松川町長、東京府議、江戸川区会議長、東京市議、同都議などを経て大蔵大臣秘書官となった。 昭和21年(1946年)東京1区(のち東京6区→10区)から立候補し、次点となるが、鳩山一郎の公職追放による繰上当選となり、衆院議員となる。以来連続当選12回。 1955年(昭和30年)第2次鳩山内閣の通商産業政務次官。衆院大蔵、商工、懲罰、東京オリンピック大会準備促進特別委員長を歴任。
笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月… 笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月5日 - 1968年〈昭和43年〉5月16日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。京都大学名誉教授、日本生理学会特別会員、日本体力医学会名誉会員。日本鍼灸学会初代会長。 新潟県西蒲原郡金巻村大字大野町(現 新潟市西区大野町)出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第四高等学校を卒業、1923年(大正12年)6月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1925年(大正14年)6月に京都帝国大学医学部生理学第二講座(担任:石川日出鶴丸教授)助手に就任、1928年(昭和3年)11月に大阪高等医学専門学校教授に就任、1929年(昭和4年)6月に京都帝国大学から医学博士号を取得。
小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年… 小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年1月28日 )は、日本の経営者。ダイハツ工業社長、会長を務めた。島根県浜田市出身。 1912年3月、旧制浜田中学(現在 島根県立浜田高等学校)卒業、1917年に大阪高等工業学校機械科(現在、大阪大学)を卒業し、同年にダイハツ工業の前身である発動機製造に入社。1939年2月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年12月にダイハツ工業社長に就任し、軽三輪車や電気自動車の開発に着手し、1967年にトヨタ自動車との業務提携を結ぶなど同社発展の礎を築いていた。1968年に会長を務め、1971年12月から相談役を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等旭日重光章を受章した。
末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989… 末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989年4月4日)は、日本の社会保障学者、商学博士。生命保険修士会名誉会長ならびに生命保険アンダーライティング学院創立者。東京都台東区出身。 上記以外に、日本保険学会名誉会員、健康保険組合連合会顧問、社会保険診療報酬支払基金理事等を兼ねた。 松平信生(長州征伐に旗頭として参加した松平左金吾の十一男)の長男として1894年(明治27年)に生まれる。末高姓は父である信生(のぶなり)が仕えていた徳川慶喜が大政奉還の後、駿府入りした際に旗本の末高家の養子になり改姓したことに依る。父、信生は 西南戦争の後徳川家のもとを離れることになり、東京日本橋で漆器問屋の娘きくと結婚、家持(地主)を営むが、チフスで急逝した。
大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9… 大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9月4日 - 1981年(昭和56年)2月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 山形県北村山郡玉野村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。 独学し、1917年(大正6年)川口町(現川口市)に大泉工場(機械鉄鋼場)を創業。1921年(大正10年)立憲政友会に入党し、その後、川口町会議員、同町会議長、同町助役、川口市会議員、同市参事会員、同市助役などを務めた。 1940年(昭和15年)10月、埼玉県立川口工業高等学校設備拡充費として1万円寄付により1941年(昭和16年)9月13日紺綬褒章受章。1941年12月、川口市役所備品として乗用車1台寄付により1942年(昭和17年)4月28日紺綬褒章受章(飾版)。
石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 … 石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1990年〈平成2年〉7月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1915年(大正4年)、陸軍士官学校第27期卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)、陸軍大学校第39期卒業。 1937年(昭和12年)8月に陸軍士官学校航空兵科教官を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍航空兵大佐に進級。支那事変が勃発すると同年10月に第4飛行団参謀および1939年(昭和14年)1月に第21軍参謀を兼職し、ついで同年5月に第21独立飛行隊長を務めた。翌年、1940年(昭和15年)8月に陸軍航空士官学校教授部長を経て、1941年(昭和16年)10月に陸軍少将に進級。
正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3… 正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉)は、日本の実業家、政治家。前名は茂三郎。群馬県購連理事。群馬県自動車合同副社長。群馬県石油配給、館林航器各取締役。前橋日産モーター取締役会長。町会議員。正田卯平商店。雑貨商。米屋、荒物商。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。卯平の二男。前名・茂三郎を改め襲名した。早大商科修業。父業に従事した。町学務委員、館林信組理事であった。1949年(昭和24年)館林商工会議所会頭に就任。館林交通安全協会会長も務めた。 宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、柔道。住所は館林谷越。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1975年〈昭和50年〉9月30日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。渋川市長(2期)。 群馬県渋川市出身。父は米穀商で渋川町長もつとめた町田久三郎。1913年(大正2年)慶應義塾商工学校卒。翌年慶應義塾大学中退。 1920年(大正9年)から太平洋戦争中まで丸久組製糸所を経営した。1933年(昭和8年)渋川町会議員となり、1936年(昭和11年)から渋川町長を務めた。 生糸製造業に従事し、上毛精機、渋川製作所各(株)を創立し、社長となり、太平工業、吉野組製糸所、町田織物、東京建鉄各(株)の社長となる。群馬商工経済会理事も務める。
岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955… 岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955年9月2日)は、日本の実業家。学生時代よりテニス選手として活躍し、デビスカップやオリンピックに日本代表として出場した。 岡山県赤磐郡瀬戸町大字瀬戸(現在の岡山市東区)生まれ。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。学生時代からテニス選手として活躍した。 1917年(大正6年)、東京高等商業学校を卒業し、三井物産に入社した。 1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加。 1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。
上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 … 上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 - ?)は、日本の実業家。 栃木県宇都宮市生まれ。肥料商、栃木県多額納税者・上野松次郎の三男。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。 藤本ビルブローカー本店東京支店各勤務。下野製紙取締役東京支店長、三和製紙、旭土地各取締役をつとめる。 五代上野松次郎の三男、六代上野松次郎の弟である。1928年、分家した。趣味は洋画、登山、書道。宗教は曹洞宗。東京府在籍で、住所は東京市本郷区駒込上富士前町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
木崎 為之(爲之、きざき ためゆき、1894年(明治27年)… 木崎 為之(爲之、きざき ためゆき、1894年(明治27年)9月1月 - 1980年(昭和55年)10月15日)は、日本の弁護士、政治家、右翼活動家。衆議院議員。旧姓・伊賀。 兵庫県菟原郡本山村(武庫郡本山村を経て現神戸市東灘区本山)で、伊賀平内左衛門の二男として生まれ木崎新逸の養子となる。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 1921年(大正10年)から1923年(大正12年)女子学習院(現学習院女子大学)教授を務めた。1924年(大正13年)大阪市で弁護士を開業。 1940年(昭和15年)10月、大日本翼賛壮年団総務に就任。則天塾から1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に兵庫県第5区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選し翼賛政治会に参加し、その後、無所属倶楽部に所属して衆議院議員を1期務めた。
成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975… 成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975年1月7日)は、日本の経営者。新東京国際空港公団総裁を務めた。 東京都出身。1914年に東亜同文書院大学商務学科を卒業。中国貿易で活躍し、1934年に満州国建国に携わり、1936年に東洋パルプ専務、1939年に日本米穀副理事長を経て、その後は全国米穀商組合連合会理事長、朝鮮食糧営団理事長、中央食糧営団総裁、全国米穀小売組合連合会会長などを歴任。戦後は、1955年に農地開発機械公団理事長、1961年10月に愛知用水公団理事長を経て、1966年7月から1967年10月までに新東京国際空港公団総裁を務めた。 1975年1月7日、心臓衰弱のために死去。
笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26… 笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26年)9月26日 - 1990年(平成2年)9月8日[要出典])は、日本の内務官僚、拓務官僚、朝鮮総督府官僚。 新潟県西蒲原郡四ツ合村(現在の新潟市西蒲区)出身。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学工科大学土木科を卒業。さらに東京帝国大学法学部政治科に学んで、1920年(大正9年)に卒業した。内務省土木局勤務、静岡県安倍郡長、静岡県理事官、内閣拓殖局書記官、拓務書記官、拓務省管理局第二課長、同第一課長、同地方課長、拓務局奨励課長、大臣官房文書課長、朝鮮総督府咸鏡南道知事を歴任した。 1940年(昭和15年)に退官した後は、北鮮合同電気株式会社社長を務めた。
斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9… 斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9月26日-1983年(昭和58年)12月11日)は、出版社金の星社の創業者。児童雑誌『金の船』(後『金の星』と改題)主宰者。 1893年(明治26年)父佐次郎(佐次郎と同名)の5男として生まれる。父親は人力車の防水幌や雨合羽の防水加工で財を成した。佐次郎が成人する前に両親と死別するが、父親の遺産により裕福な青年時代を送る。早稲田大学英文科卒業。在学中には坪内逍遥や島村抱月らの指導を受け、文学への道を志す。 1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意。島崎藤村、若山牧水、西條八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西條八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊、自ら執筆にも関わる。
田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9… 田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1969年〈昭和44年〉11月29日)は、日本の歴史研究家。在野の学者という立場を貫き、学会の官僚主義やエリート意識を批判した。遊廓街で育ったことから幼少時から遊女らと交渉を持った。風俗関係に関する研究で知られ、数多くの著書を出した。 1893年(明治26年) 群馬県高崎市嘉多町に生まれる。生家は人力車宿・履物屋を営んでいた。高崎尋常小学校を経て、高崎商業学校に学ぶ。病気のため同校を卒業間際に中退し、その後上京して明治薬学校(現・明治薬科大学)に入るがほどなく中退する。台湾に渡り、漢方薬の研究をするがほどなく帰国。 郷里で農民運動に参加、建設者同盟にも加わる。
東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25… 東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1967年〈昭和42年〉10月11日)は石川県出身の飛行家。1930年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を敢行した。 石川県羽咋郡南大海村字中沼(かほく市中沼)で東長松・八重夫妻の二男として生まれる。母の実家がある一ノ宮村へ移住。伯父・義学が住職を務める西教寺に預けられ、従兄の義圓と共に育った。1908年(明治41年)春に羽咋高等小学校を卒業。同年8月、満14歳で一ノ宮村役場の給仕として働き始めたが、翌1909年に事業家を夢見て朝鮮半島の馬山浦新同洞へと渡る。そこで学問の必要性を感じた善作は2年ほどで日本に戻り、1912年(大正元年)京都中学校の4年に編入。
三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 197… 三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 1978年7月20日)は、日本の法学者、弁護士、裁判官、教育者。 1893年(明治26年)、香川県に生まれる。1919年京都帝国大学法学部卒業。東京地方裁判所、東京控訴院の判事や秋田地方裁判所所長などを務めた後、1948年より弁護士として活動。東洋大学で博士号を取得後、同大学で教授となる。1967年に東洋大学学長に就任。学生運動の最中ということもあり、学生の強い反発を受ける中で教養課程の川越キャンパスへの移転、図書館、学生会館建設の問題収拾にあたった。1969年に学長を辞任した。 1978年7月20日、老衰のため東京都大田区の自宅にて死去。84歳。
田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月2… 田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月25日 - 1988年(昭和63年)7月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第27期を卒業し、1922年(大正11年)3月に陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。1937年(昭和12年)8月に陸軍技術本部仏国駐在官に就任し、1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)7月に大阪陸軍造兵廠研究所長に就任し、1940年(昭和15年)4月に兼技能者養成所長となった。 1941年(昭和16年)6月23日に陸軍技術本部附となり、8月25日に陸軍少将に進級して、1942年(昭和17年)に第8陸軍技術研究所長に就任した。
三ッ林 幸三(みつばやし こうぞう、1893年〈明治26年〉… 三ッ林 幸三(みつばやし こうぞう、1893年〈明治26年〉9月24日 - 1977年〈昭和52年〉5月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選1回)。埼玉県会議員、同議長。衆議院議員を務め、国会議員として国政に参加したが、主には埼玉、幸手等地方政界で活動した。 埼玉県北葛飾郡行幸村千塚(現幸手市千塚)に生まれる。三ッ林安五郎の二男。粕壁中学校に学んだ。農業を営んだ。1917年(大正6年)、北葛飾郡行幸村収入役。1924年(大正13年)、行幸村会議員。1928年(昭和3年)、埼玉県会議員(立憲政友会に所属)。1939年(昭和14年)、兼行幸村長。行幸村農会長、県参事会員などを務めた。 1942年(昭和17年)、第46代埼玉県会議長(-1944年)。
池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952… 池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952年10月21日)は、東京府北多摩郡武蔵野村(現:武蔵野市)出身のプロ野球監督・審判。 早稲田中学校を経て、早稲田大学卒業。早大時代は三塁手。卒業後東京六大学野球連盟の審判となる。 1936年、大学の先輩河野安通志が総監督をつとめる大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)の初代監督に就任。河野が後楽園イーグルスを設立すると同時に辞任した。 名古屋軍では後に公式戦の基点となる東京の職業野球連盟発足記念トーナメントで優勝を果たし(ただし、大阪では阪急に、名古屋では大阪にさらわれた。)、「プロ野球選手は自前で養成しよう」との信念から、少年野球から西沢道夫を発掘し、後に中日の大選手になる道筋を作っている。
久留間 鮫造(くるま さめぞう、1893年(明治26年)9月… 久留間 鮫造(くるま さめぞう、1893年(明治26年)9月24日 - 1982年(昭和57年)10月20日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授・法政大学大原社会問題研究所所長。専攻はマルクス経済学であり、『マルクス経済学レキシコン』の編者として有名。立教大学名誉教授の久留間健は彼の子である。 岡山県岡山市に紙問屋の長男として生まれる。家業を継いで欲しいという親の願いに反し、岡山県立岡山中学校、第六高等学校から東京帝国大学法科大学経済学科に入学、1か月後に政治学科に転科。病気による1年の休学をはさんで卒業。ゼミには参加していない。 1918年、住友銀行に入行するが、自分のやりたい仕事ではないと感じ(久留間は学問をしたい、また世の中のためになること、国家のためになることをしたいと考えていた)、また米騒動における労働者階級の力に衝撃を受け、銀行にはいられないと、3か月余りで退行。
内田 銀之助(うちだ ぎんのすけ、1893年(明治26年)9… 内田 銀之助(うちだ ぎんのすけ、1893年(明治26年)9月24日 - 1951年(昭和26年)6月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 東京府出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校第27期卒業。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校第34期卒業。 東京帝国大学法学部を経て、1935年(昭和10年)3月、関東軍参謀、1937年(昭和12年)9月、留守第1師団参謀を経て、同年11月、陸軍歩兵大佐に進む。ついで1938年(昭和13年)8月、第20師団参謀長、1940年(昭和15年)9月、陸軍技術本部附を経て、同年12月、陸軍少将となる。 のち大東亜戦争が勃発すると、1941年(昭和16年)7月、独立混成第5旅団長に補され、青島に駐屯した。
西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月… 西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月23日 - 1964年(昭和39年)2月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 長崎県南松浦郡岐宿町(現・五島市)出身。牟田久蔵の二男に生まれ、力之助の養子となる。早稲田大学商科で学び、1914年に中退した。漁業を営む。 南松浦郡岐宿町会議員となり、また長崎県会議員にも選出されて、同参事会員、同議長も務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に長崎県選挙区から日本自由党公認で立候補して初当選。以後、第24回総選挙まで長崎県第2区から立候補して再選された。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選したが、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
比企 能達(ひき よしさと、1893年9月22日 - 196… 比企 能達(ひき よしさと、1893年9月22日 - 1968年10月17日)は、日本の医師。専門は、病理学及び内科学。医学博士。長男は比企能樹。 神奈川県中郡旭村(現・平塚市)出身。加藤房吉の三男として生まれ、叔父で開業医・政治家の比企喜代助(1866年~1944年)の養子となる。旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業。1927年、同医学部病理学教室助手(教授緒方知三郎)。1932年、同医学部内科学教室副手(教授島薗順次郎)。1934年、東京大学医学博士、論文の題は「唾液腺の内分泌に就て : 唾液腺條紋部(streifenstuck)の構造竝に機能に就て」。 1945年、日本大学医学部第一内科教授。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 19… 中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 1969年4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道旭川市出身。地主・中藤平の長男として生まれる。旭川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第27連隊中隊長となる。 1925年(大正14年)12月、陸士教官に就任し、参謀本部員に転じ、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進。1931年(昭和6年)8月、陸大教官となり、兼参謀本部員を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級し陸軍省人事局課員に就任。
石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月… 石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月17日 - 1940年(昭和15年)2月4日)は、日本の地震学者。シリカ傾斜計や加速度地震計を発明したことで知られる。 石本新六陸軍中将の四男として東京小石川で生れる。巳年生まれの四男であったことから巳四雄と命名された。東京高等師範学校付属中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。同工科大学造船学科に勤務、1919年(大正8年)三菱造船研究所勤務の後、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)までフランスへ留学しポール・ランジュバンの指導を受ける。 帰国後の1925年(大正14年)11月東京帝国大学助教授(地震研究所)に赴任、土地の傾斜をはかるシリカ傾斜計や加速度地震計などを考案し地震の原因としてマグマ貫入説(岩漿貫入地震説)をとなえた。
渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 -… 渡辺 宗太郎(わたなべ そうたろう、1893年9月17日 - 1983年9月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学、行政法。法学博士(京都帝国大学)。帝塚山大学第2代学長。京都大学名誉教授。 愛媛県出身。1922年京都帝国大学法学部卒。佐々木惣一門下。24年同助教授、31年教授。33年には滝川事件に遭遇し辞表を提出するも慰留され大学に残留した。1935年「地方自治の本質」で京都帝国大学法学博士。同年の天皇機関説事件において同説の踏襲者として大学の憲法講義担当から外れることとなる。同様に高等文官試験司法科憲法担当試験委員からも除かれた。1943-45年法学部学部長。 戦後は1949年に新制大学として発足した岡山大学に招かれ法文学部教授、初代学部長、(第六高等学校校長を兼任、1949-50年)。
佐久間 渡(さくま わたる、1893年(明治26年)9月14… 佐久間 渡(さくま わたる、1893年(明治26年)9月14日 - 1976年(昭和51年)12月19日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。弁護士。衆議院議員。栃木県会議長。旧姓は玉川。 栃木県河内郡宇都宮町(現・宇都宮市)出身。玉川菊次郎の四男として生まれ、佐久間長四郎の養子となり、1922年(大正11年)家督を相続する。1915年(大正4年)明治大学専門部法律科を卒業し弁護士業務に従事する。 宇都宮市会議員、同議長、栃木県会議員、同議長、昭和製作所社長を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では栃木県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
土師 清二(はじ せいじ、1893年〈明治26年〉9月14日… 土師 清二(はじ せいじ、1893年〈明治26年〉9月14日 - 1977年〈昭和52年〉2月4日)は、日本の小説家。本名・赤松静太(あかまつ せいた)。代表作は『砂絵呪縛(すなえしばり)』。 岡山県邑久郡国府村(現在の瀬戸内市)生まれ。独学ののち職業を転々とし、大阪朝日新聞社に勤務。1922年『旬刊朝日』(のちの『週刊朝日』)創刊を提案し、編集に当たるが、1923年「水野十郎左衛門」を連載、以後時代小説作家として活躍、長谷川伸の新鷹会に協力し新進作家の育成に当たった。 1938年(昭和13年)9月、作家によるペン部隊が結成されて大陸に渡り始めると、土師も海軍に従軍願いを提出。同年10月までに他の大衆作家や映画監督とともに従軍が認められた。
堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 19… 堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 1985年12月11日)は、日本の実業家、政治家、陸軍軍人。位階は従三位、勲等は勲一等瑞宝章。 衆議院議員(5期)。最終階級は歩兵少佐、満洲国陸軍少将。父は堀内良平、息子は堀内光雄。孫は堀内光一郎。 山梨県出身。軍人好きであった父・良平の影響を受け、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1925年11月、陸軍大学校(37期)卒。参謀本部ではイギリスを担当する英班に配属されるが、赴任を待てず良平に資金を出してもらい世界一周に出かけた結果、軍人に嫌気がさし帰国と同時に退官を申し出た。石原莞爾などの説得により思いとどまり、陸軍少佐まで進み第9師団参謀を務めた。
田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年… 田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年不明)は、日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1911年卒業)を経て、岡山医学専門学校(現・岡山大学医学部)を卒業した。 1929年に東京帝国大学から医学博士号を取得した。 長く東京帝国大学伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に務め、1933年には東京帝国大学医学部助教授となる。主にハンセン病の研究者であった。その後、熊本県の国立菊池療養所の所長に任命されたが3か月で辞任し、日本医科大学の教授となった。
萱場 軍蔵(かやば ぐんぞう、1893年(明治26年)9月1… 萱場 軍蔵(かやば ぐんぞう、1893年(明治26年)9月11日 - 1979年(昭和54年)11月15日)は、日本の内務官僚。いわゆる内務三役(内務次官、内務省警保局長〈現在の警察庁長官に相当〉、警視総監)を全て経験した。 宮城県名取郡東多賀村(現・名取市)出身。私立東北中学校(現:東北高等学校)、第二高等学校、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験行政科に合格して内務省に入省。 1934年(昭和9年)、栃木県知事に就任。1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生して警視庁上層部が更迭されると同年3月に警保局長に任じられた。1937年(昭和12年)、岡山県知事に就任。1939年(昭和14年)、警視総監に就任。
山形 清(やまがた きよし、1893年(明治26年)9月10… 山形 清(やまがた きよし、1893年(明治26年)9月10日 - 1991年(平成3年)2月23日)は、日本の外交官。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、大蔵省を経て外務省に入省した。複数の海軍軍縮会議随員、ベネズエラ及びコロンビア初代公使、チリ公使、パキスタン初代大使などを歴任した。
赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9… 赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1969年(昭和44年)6月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。農業・赤藤多一郎の二男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。 1919年(大正8年)5月、台湾歩兵第2連隊付となる。1913年(大正10年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校独逸語委託専科を修了した。同年6月、ベルリンに留学。1914年(大正11年)3月、仙台陸軍地方幼年学校教官に就任し、陸士教官、歩兵第21連隊中隊長を経て、1926年(大正15年)9月から1927年(昭和2年)6月まで、憲兵練習所に派遣された。
小川 貫爾(おがわ かんじ、1893年〈明治26年〉9月10… 小川 貫爾(おがわ かんじ、1893年〈明治26年〉9月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。広島県広島市中区出身。 旧制広島県立第一中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第4位、卒業時成績順位は96名中第9位。 元来は武田姓だったが小川家に養子に入り姓が変る。海軍省教育局所属時に柳澤正樹に皇道論についての本を著すよう慫慂し助言や資料を与えた。戦後は宇垣纏中将の日記『戦藻録』改訂版の編纂に携わった事で知られる。