枝正 義郎(えだまさ よしろう、明治21年(1888年)9月… 枝正 義郎(えだまさ よしろう、明治21年(1888年)9月22日 - 昭和19年(1944年)9月8日)は、広島県出身の映画監督、カメラマン。 円谷英二を初め多くの秀でた監督やカメラマンを育てた日本映画初期の先覚者。映画技術者の草分け。 広島県佐伯郡玖島村(現・廿日市市玖島)生まれ。学歴は不詳。上京して明治41年(1908年)日本で最初に映画の興行に着手したといわれる吉沢商店に入り、目黒行人坂撮影所で千葉吉蔵に師事、現像と撮影技術を学ぶ。その後、福宝堂、東洋商会と移籍し大正3年(1914年)、その両社合併により生まれた新会社・天然色活動写真株式会社(天活)へ転じ撮影技師となる。ここでは沢村四郎五郎、市川莚十郎の旧劇映画を撮影。
横光 吉規(よこみつ よしのり、1888年(明治21年)9月… 横光 吉規(よこみつ よしのり、1888年(明治21年)9月21日 – 1965年(昭和40年)3月11日)は、静岡県浜松市長。台湾総督府官僚。 大分県下毛郡中津町(現在の中津市)出身。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、同庶務課長、殖産局商工課長、台南州内務部長、殖産局農務課長、台南州知事を歴任した。 1935年(昭和10年)、浜松市長に就任し、2期在任した。 その後は静岡県食糧営団理事長を務めた。戦後、公職追放となった。
本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1… 本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1974年10月10日)は、日本の民俗学者、文学碑研究家、文筆家。本名・豊治。孫は漫画家の本山一城。 長崎市出島町出身。1912年早稲田大学政治経済科卒。民俗および民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全20巻、「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、金石文化研究所を主宰。その他実用書を含めて多種多様な著作をもつ。
松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年〈明治2… 松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年〈明治21年〉9月21日 - 1980年〈昭和55年〉9月30日)は日本の奇術師。敦賀市生まれ。本名は山田(旧姓:島田)松太郎。初代・第3代日本奇術協会会長。 日本における奇術の発展と普及に貢献した業績により、日本奇術界の「中興の祖」とも呼ばれた。 母親は奇術師の松旭斎天一の姉であった。子供の頃は大阪で丁稚奉公をしていた。 1905年(明治38年)に17歳で松旭斎天一に弟子入り、して松旭斎天松という芸名をもらった。兄弟弟子には松旭斎天勝や松旭斎天二らがいた。「天一一座」では天一の手伝いをやりながら、奇術の腕を磨いた。 師匠の天一が死去してからは松旭斎天洋と改名し、1912年(大正元年)に「天洋一座」を旗揚げして座長として独立し活躍した。
伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978… 伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978年4月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、熊本日日新聞社長。熊本県近代文化功労者、八代市名誉市民。 熊本県芦北郡日奈久町(現八代市)生まれ。上京して早稲田大学専門部政治経済科に入学、永井柳太郎の講義を聴いていた。上京後、同郷の池辺三山を頼るが、一年足らずで亡くなったため、池辺三山の弟分である鳥居素川に相談する。鳥居素川が安達謙蔵に話をして、故郷熊本の九州日日新聞の東京通信員という名目で学費を補助してもらうことになり、雑誌にも毎月二十枚ほど書くようになった。鳥居素川から卒業したら朝日新聞に入れてやると言われ、1915年(大正4年)に早大卒業翌日に東京朝日新聞編集局長の松山忠二郎と面会して外務省担当を打診されるが、九州日日新聞から通信員の名目で学費補助を受けていたことを説明して、九州日日新聞に入社する。
足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉… 足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉9月19日 - 1945年〈昭和20年〉1月5日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・田口。 茨城県で田口贇郎の五男として生まれ、1906年(明治39年)12月、足立正声の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)5月13日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)東京農業大学を卒業。1920年(大正9年)宮内属に就任。その後、東京農業大学助手、同講師などを務めた。 1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - … 錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - 1929年6月8日)は、現在の香川県坂出市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は野口 慶祐。174cm、112kg。最高位は東前頭11枚目。 角界入門以前には上京して砂糖屋で働いていたが、主人の紹介で井筒部屋に入門。1916年1月幕下付出で初土俵、1918年1月十両昇進、5月に十両優勝し、1919年1月に新入幕を果たした。体格にも恵まれ、上突っ張りを得意として、出足も速く、腰も良いため、早くから将来の三役と期待されていた。しかし新入幕場所の直前に腸チフスに罹り、連続休場し十両に陥落。結局幕内では1日も出場できなかった。その後、2度目の十両優勝を果たすも再入幕はならず、1922年1月廃業した。
渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月… 渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、日本の水産業者である。 島根県島根郡片江浦(後の八束郡美保関町、現在の松江市)の生まれ。アメリカ合衆国への渡航を志したことにより、1909年(明治42年)に日本郵船が所有する「セイロン丸」の水主として乗船する。しかし航海中にイギリスのトロール漁船に遭遇したことにより下船し、帆船の手操網漁法の改善のために1911年(明治44年)に大日本水産会漁船船員養成所で学んだ。修了後は島根県水産試験場に勤務し、機船による手操網の試験および操業に携わる。 1913年(大正2年)に独立後は友人ら仲間と共に帆船である「方結丸」の建造に携わり、5年後の1918年(大正7年)には動力による網の巻上機の考案にも携わり日本で初の機船底引網漁法の開発に尽力した。
石黒 慶蔵(いしぐろ けいぞう、1888年9月18日 - 1… 石黒 慶蔵(いしぐろ けいぞう、1888年9月18日 - 1963年3月1日)は、日本の歯科医師、歯科医療器具発明家、歯科医院経営者。(社)鶴岡歯科医師会会長、(社)山形県歯科医師会理事。 23歳年上の従兄弟に発明家・斎藤外市がいた事が影響したのか、歯科医師を務める傍ら、歯科医療器具の発明に熱心に取り組んで、数多くの新案特許を収得している。玄人の域に達していたと云われる、ラジオ受信機の組立てや芸術写真が趣味であった。また、当時の地元では、歯学士の学位を収得した歯科医師は珍しく関心を持たれた。
松岡 潤吉(まつおか じゅんきち、1888年(明治21年)9… 松岡 潤吉(まつおか じゅんきち、1888年(明治21年)9月18日 - 1951年(昭和26年)9月7日)は、大正から昭和時代前期の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。松岡汽船創業者。旧姓は馬場、前名は敬三。 兵庫県武庫郡精道村(現芦屋市)出身。馬場三右衛門の弟として生まれ、のち松岡修造の養子となり1925年(大正14年)家督を相続し前名敬三を改めた。1909年(明治42年)慶應義塾大学部理財科卒業。 1910年(明治43年)以降、大和田紡績、松岡汽船各社長、北海道松岡牧場主、阪神急行電鉄監査役、東洋鋼板、北海道炭礦汽船、東宝各取締役、日本海運協会顧問、日本体育協会評議員、神戸日伯協会理事、大阪駐在ポーランド国名誉領事などを歴任した。
吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17… 吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉5月9日)は、日本の農商務・商工官僚、政治家。 商工大臣、運輸大臣、貴族院議員、参議院議員を歴任。大正デモクラシーを主導した政治学者吉野作造の弟。 宮城県志田郡大柿村(現大崎市古川)に綿屋を営む吉野年蔵、こう夫妻の三男として生まれた。吉野作造は長兄である。 旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、一高を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を首席卒業(銀時計受領)し、農商務省に入省する。農商務大臣秘書官、1925年に農商務省が農林省と商工省に分離し、以後は商工省文書課長、工務局長を経て、1931年(昭和6年)商工次官。
尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 … 尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1923年〈大正12年〉6月19日)は、日本の華族、宮内官。爵位は侯爵。貴族院侯爵議員。第二尚氏第21代当主。 1888年(明治21年)9月11日、尚典の長男として首里で誕生。1896年(明治29年)に上京し、学習院初等科に入学する。1909年(明治42年)に旧制学習院高等科を中退し、1911年(明治44年)に父の薦めでオックスフォード大学に留学した。随行員として沖縄県出身の大蔵官僚である神山政良を伴う。 1915年(大正4年)に帰国し、宮内省式部官となる。1918年(大正7年)9月18日に長男誕生。東恩納寛惇に名前(尚裕)をつけてもらっている。
木村 弘人(きむら ひろと、1888年(明治21年)9月15… 木村 弘人(きむら ひろと、1888年(明治21年)9月15日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は西山。 1888年(明治21年)に宮城県で生まれた。陸軍士官学校第21期、東京帝国大学冶金学科卒業。1932年(昭和7年)、陸軍砲兵大佐に進級と同時に陸軍造兵廠名古屋工廠千種兵器製造所長に就任した。1934年(昭和9年)に関東軍兵器部長、1935年(昭和10年)に陸軍造兵廠名古屋工廠作業課長を経て、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠技術部長に就任。 1937年(昭和12年)に陸軍少将に進級し、1938年(昭和13年)に陸軍造兵廠名古屋工廠長に就任。
杉村 キナラブック(すぎむら キナラブック、1888年9月1… 杉村 キナラブック(すぎむら キナラブック、1888年9月15日 - 1973年9月9日)は、北海道雨竜郡イチャン(現在の深川市一已)出身のアイヌ女性。雨竜村で育ち、結婚後は旭川市に移り住み、一生をそこで終えたため旭川のアイヌ文化伝承者として知られる。 アイヌ名のKinarapukをそのままカタカナ表記にするとキナラプㇰとなるが、一般的にはキナラブックという表記で知られる。Kinarapukは「蒲の節を手に取る」の意で、実際に彼女はチタラペ(蒲で編んだござ)作りの名人だった。 雨竜郡イチャン(一已)コタンに生まれる。父は稲高トンビン、母はイトモシマツ。妹の太田コウンテカン(和名シモ)もアイヌ文化伝承者として知られる。
久留島 秀三郎(くるしま ひでさぶろう、1888年9月11日… 久留島 秀三郎(くるしま ひでさぶろう、1888年9月11日 - 1970年9月22日)は京都府出身の日本の実業家、作家。鉱山技師で工学博士でもある。同和鉱業社長、日本科学技術連盟第5代理事長、ボーイスカウト日本連盟第5代総長など多くの要職を務めた。義父は児童文学者の久留島武彦。従三位。 1888年(明治21年)9月11日、京都で薬種商を営んでいた父(六代)中野忠八と母みねの間に生まれた。次男ではあったが、曾祖父の幼名であった秀三郎の名を受け継いだという。京都修道小学校、第三高等小学校を卒業。 京都第二中学校に進学するも5年半をかけて卒業できず、1905年(明治38年)に上京し日本中学校に転校した。
三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉… 三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉9月11日 - 1979年〈昭和54年〉1月23日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 和歌山県出身。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を経て、1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1914年(大正3年)、外交官及領事官試験に合格。領事官補・関東都督府事務官、領事、公使館三等書記官、外務事務官・参事官、外務書記官・条約局第三課長、公使館二等書記官、同一等書記官などを歴任し、その間、スウェーデン、オランダに勤務した。バタヴィア総領事時代には、横浜正金銀行に学校設立を働きかけたり、シムラ会商に政府代表として参加し、イギリス、インドと通商問題の交渉を行うなどした。
増田 清(ますだ きよし、1888年(明治21年)9月9日 … 増田 清(ますだ きよし、1888年(明治21年)9月9日 - 1977年(昭和52年)2月9日)は、日本の建築家。 主に大阪を拠点に活動したが、現存するものは少ない。 功績に対して知名度が低く「知られざる名建築家」「戦前活躍しながら忘れられていた名建築家」などと紹介されている。 娘婿は阿川弘之、阿川尚之と阿川佐和子は孫にあたる。 増田は日本の初期鉄筋コンクリート構造(RC構造)建築普及に貢献した建築家である。大阪を中心に京都・奈良・兵庫で、更に東京や広島・呉で仕事し、設計したすべての建築物がRC構造であった。大きな特徴として、芸術・造形美よりも構造美・機能美、特に耐震を重視し極めて頑丈な建物を設計していることが挙げられる。
佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970… 佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970年1月9日)は、日本の心理学者、言語学者、国語学者。 1888年、千葉県で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。心理学専修で学び、1913年に卒業、同大学大学院に進んで日本語のアクセントについて研究した。 1923年に欧州留学を命じられ、ドイツ留学中にベルリン大学のヴォルフガング・ケーラーのもとでゲシュタルト心理学を学んだ。1925年に帰国し、九州帝国大学の初代心理学講座担任教授に就いた。九州大学には、戦後1949年の退官まで奉職。1966年には日本学士院会員に選出された。 1952年、東洋大学教授に迎えられ、心理学、国語学を担当。
石橋 うめ(いしばし うめ、1888年〈明治21年〉9月5日… 石橋 うめ(いしばし うめ、1888年〈明治21年〉9月5日 - 1971年〈昭和46年〉8月9日)は、日本の55代内閣総理大臣である石橋湛山の妻。福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)出身。 旧藩時代、米沢藩士として家老職を務めた名門・岩井家出身の岩井尊記の三女として生まれる。東小松川松江尋常高等小学校の教師をしていたうめは、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で1912年(大正元年)11月に石橋湛山と結婚する。ちなみにうめは、福島県二本松出身の教師であった三浦の妻の教え子であった。 1944年(昭和19年)2月には海軍主計中尉だった次男・和彦がマーシャル群島のクェゼリン環礁で戦死した。 夫の湛山は1956年(昭和31年)12月23日に内閣総理大臣に就任するが、病気を理由に翌年の1957年(昭和32年)2月25日に退任。
3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21… 3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21年〉9月4日 - 1971年〈昭和46年〉2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上 良太郎。位階は正五位。 東京浅草生まれ。隅田川に窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、旧制錦城中学校卒業の頃、1905年から作陶に従事する。板谷波山に師事。1914年に横浜へ移り、1928年、帝展初入選。1953年、第1回横浜文化賞受賞。1959年、「丸紋平皿」で日本芸術院賞を受賞。1966年、日展理事に任じられるとともに、日本芸術院会員となる。1967年、勲三等瑞宝章受賞。1971年死去。死没日付をもって正五位に叙された。 温厚な人柄を反映したかのような、気品の高い風格ある作風が特徴である。
池園 哲太郎(いけぞの てつたろう、1888年(明治21年)… 池園 哲太郎(いけぞの てつたろう、1888年(明治21年)9月2日 - 没年不詳)は、東京市区長。慶應義塾大学教授。 福岡県出身。1911年(明治44年)、立教大学文科を卒業。1916年(大正5年)からアメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)にコロンビア大学文科を卒業し、1919年(大正8年)にゼネラル神学院とニューヨーク大学文科を卒業し、修士号を得た。帰国後、慶應義塾大学教授を経て、東京市に入り、社会教育課長を務めた。1931年(昭和6年)1月に浅草区長となり、淀橋区長、豊島区長、下谷区長を歴任した。 その他、大日本連合青年団嘱託、東京市連合青年団嘱託を務めた。 その後、仙台市助役を務めた。
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1… 金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。 1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。
岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)… 岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)9月30日 - 1946年(昭和21年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大将。北支那方面軍司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 広島県広島市袋町(現中区袋町)に於いて、陸軍書記を務めていた岡部栄次郎の三男として生まれる。1899年(明治32年)に崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入学。その後、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)と進み、陸軍大学校(27期)卒業。陸士同期生には山下奉文、藤江恵輔、阿南惟幾、山脇正隆、安井藤治、小松原道太郎らがいる。陸大卒業後、1918年(大正7年)にハバロフスク特務機関(砲兵大尉)、1922年(大正11年)にポーランド公使館附武官(砲兵少佐)。
上原 吉之助(うえはら きちのすけ、1887年(明治20年)… 上原 吉之助(うえはら きちのすけ、1887年(明治20年)9月28日 - 1971年(昭和46年))は、昭和期の政治家。長野県須坂市長(初代)。幼名・菅太郎。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)生まれ。のち吉之助を襲名した。須坂町消防組頭、須坂町警防団長を務めた。1929年(昭和4年)須坂町会議員となり連続5期在任。 1947年(昭和22年)須坂町長に当選し、高井郡町村会長、長野県治山協会常任理事を務めた。昭和の大合併では上高井郡1町2村の新設合併を実現した。 1954年(昭和29年)4月、市制施行に伴い初代市長となり、1958年(昭和33年)3月まで1期務めた。在任中は百々川の河川災害防止のための抜本的改修や、全市水道の敷設、新制中学校の建設などに尽力した。
城倉 義衛(しろくら よしえ、1887年(明治20年)9月2… 城倉 義衛(しろくら よしえ、1887年(明治20年)9月27日 - 1945年(昭和20年)9月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1887年(明治20年)に長野県で生まれた。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校第20期を優等で卒業し、12月25日に歩兵少尉任官。その後歩兵科から憲兵科に転科し、1927年(昭和2年)に東京帝国大学法学部法学科卒業。1934年(昭和9年)に陸軍憲兵大佐に進級、憲兵司令部警務部長に就任し、二・二六事件の処理に当たった。1936年(昭和11年)に京城憲兵隊長、1937年(昭和12年)に関東憲兵隊総務部長を歴任。 1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し、7月に関東憲兵隊司令官に就任。
入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 194… 入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 1948年6月9日)は、日本画家。 本名幾治郎。京都市上京区に生まれる。1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校研究科で竹内栖鳳らに師事し修了。1915年(大正4年)同窓生であった岡本神草、甲斐荘楠音や玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」の結成に参加。1918年(大正7年)母校絵画専門学校の助教授に就任し古画の模写にあたる。この年国画創作協会展に『降魔』を出品して国画賞を受賞、翌年同人に推された。1922年に京都府の命で菊池契月らとともに外遊。1928年(昭和3年)国画創作協会日本画部解散後は画壇を離れ、後進の育成と再び模写に打ち込んだ。
服部 亮英(はっとり りょうえい、1887年9月26日 - … 服部 亮英(はっとり りょうえい、1887年9月26日 - 1955年9月28日)は、日本の洋画家、漫画家である。本来は洋画家であるものの、岡本一平らと東京漫画会で活躍した漫画家として、または、似顔絵画家としてむしろ知られている。三重県の真宗高田派慈教寺の長男として生まれるが、東京美術学校を卒業したのちには東京都大田区の馬込に住み、今でいう馬込文士村在住の芸術家とも交流があった。 仏教学者の服部正明は息子。
天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25… 天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25日 - 1921年(大正10年)10月10日)は、日本の社会事業家、教育者。処女会創設者。 1887年(明治20年)、静岡県庵原郡庵原村(現・静岡市)に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。庵原小学校の代用教員を務める。宮内省に出仕していた漢詩人国府種徳(犀東)に才能を認められて内務省嘱託となり、同省の地方局に勤務。青年団や処女会の指導に当たり、1918年(大正7年)、処女会中央部を結成して雑誌「処女の友」や「青年団及び処女会」「大正新処女読本」などを発行・編集。 また、映画「都に憧れて」(監督:金森萬象)を製作し好評を博すなど、処女会の普及・発展に大きく貢献した。
永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17… 永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17年(1942年)7月24日)は、日本の政治家、実業家。元鳥取県議会議員。元中浜村会議員。 弓浜組合製糸組合長、西伯郡米子市連合養蚕組合組合長、伯西社組合長、鳥取県養蚕組合長などを勤め、全国屈指の養蚕王国といわれた県下の大御所的存在として、大日本蚕糸会副総裁でもあった。元鳥取県境港市長安田貞栄・元今井書店社長永井準の父、鳥取県議会議員安田優子の祖父。 旧麦垣集落(現在の鳥取県境港市麦垣町)の大農家に生まれる。綿に代わって蚕が主要作物になっていく頃であった。 昭和2年(1927年)鳥取県議会議員となり4期連続当選、昭和9年(1934年)副議長となる。
佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 19… 佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 1935年4月16日)は、日本の牧師、神学校教師。日本におけるマルティン・ルターの研究の開拓者である。 1887年(明治20年)福島県会津若松市に生まれる。1907年(明治40年)に第一高等学校に入学する。 同年キリスト教に入信して、組合教会の指導者の海老名弾正から本郷教会で洗礼を受ける。1910年(明治43年)に東京帝国大学に入学するが、同年京都帝国大学に転校する。1913年(大正2年)、京都帝大卒業後、東京帝大大学院でルターの研究を始めた。大学院時代は、日本基督教会の神学校の東京神学社でも学び、富士見町教会で牧会する植村正久に師事した。
浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9… 浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1965年(昭和40年)3月8日)は、大正から昭和時代の政治家・実業家。千葉県東葛飾郡市川町長、初代市川市長。北総鉄道支配人。 浮谷権兵衛の弟として千葉県に生まれる。浮谷家は葛飾郡市川新田で農業を営み、当主は代々権兵衛を名乗っていた。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、東北帝国大学農科大学予科を経て、1913年(大正2年)7月に同大畜産科を卒業する。卒業後、志願兵として1年従軍し、1917年(大正6年)陸軍騎兵少尉に進んだ。 ついで、北海道技手、東北帝国大学農科大学予科講師、宮城県農業技師、京成電軌重役秘書、会計・工務課長、北総鉄道支配人、成田鉄道会社取締役建設部長などを歴任。
中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)… 中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1946年(昭和21年)12月31日)は、日本の俳人。本名・直三(なおぞう)。俳号は他に一碧(いっぺき)。 岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市玉島勇崎)の旧家で製塩業等を営む実業家・中塚銀太の四男に生まれる。 1900年(明治33年)岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高校)入学。1906年(明治39年)中学卒業の年に洗礼を受けクリスチャンとなる。翌、1907年(明治40年)早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し俳句を学ぶ。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。 帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23… 下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 本籍地は高知県。旧土佐藩士で、陸軍中佐・金沢聯隊区司令官の下村定辞の長男として石川県金沢市に生まれる。 金沢第一中学校、名古屋陸軍幼年学校を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校第20期を皇族を除いた6番/273名の成績で卒業する。砲兵科では、橋本群(陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第1部長を歴任、のち中将)に次いで2番の成績であった。
栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 -… 栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月7日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。有栖川宮家の嗣子であったが、継承することなく薨去した。 有栖川宮威仁親王の第一王子(第2子)で、 母は加賀金沢藩主前田慶寧の四女・慰子。徳川實枝子(徳川慶久公爵夫人)は実妹で、その次女高松宮妃喜久子は姪。 1887年(明治20年)9月22日午後11時30分、有栖川宮威仁親王と同妃慰子の第1男子として誕生し、同月28日の御七夜で「栽仁」と命名される。 1901年(明治34年)6月、威仁親王とともに参内した栽仁王に、明治天皇は父宮と同じく帝国海軍士官を志すよう命じた。
栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 -… 栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月3日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。
稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月2… 稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月20日 - 1973年(昭和48年)3月8日)は、日本の内務官僚、教育者。官選秋田県知事。 熊本県下益城郡海東村南海東小園に、海東村長・稗方惟一の長男として生まれる。熊本県立中学済々黌、第五高等学校を経て、1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し熊本県属となる。以後、大正4年(1915年)に山口県警視、大正6年(1917年)に山口県佐波郡長、大正7年(1918年)に宮城県理事官、大正10年(1921年)に福岡県理事官から内務省に異動し国勢院書記官となり、大正13年(1924年)11月に山梨県書記官・内務部長となり、その後、神奈川書記官・内務部長などを歴任。
早坂 力(はやさか ちから、1887年〈明治20年〉9月20… 早坂 力(はやさか ちから、1887年〈明治20年〉9月20日 - 1963年〈昭和38年〉5月20日)は、昭和期の実業家。岩手県出身。東京高等工業学校(現・東京工業大学)卒。 『工作機械と文明―早坂力全集』による。
野口 喜一郎(のぐち きいちろう、1887年〈明治20年〉9… 野口 喜一郎(のぐち きいちろう、1887年〈明治20年〉9月18日 - 1972年〈昭和47年〉2月11日)は、日本の実業家。2015年(平成27年)まで北海道小樽市に存在した酒造会社・北の誉酒造の2代目社長であり、同社創業者である野口吉次郎の次男。北海道小樽市出身。 小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)卒業後、間もなく旭川市の第7師団に入隊した。除隊後の1908年(明治41年)、父の経営する野口吉次郎商店(後の北の誉酒造)を継ぎ、社長として酒造部門を拡張させた。 1924年(大正13年)、アルコール4社合併の合同酒精に相談役で迎えられ、1929年(昭和4年)から1958年(昭和33年)まで同社社長、1964年(昭和39年)まで会長を務めた。
唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9… 唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9月18日 - 1973年〈昭和48年〉7月30日)は、日本の神職、華族(子爵)。正四位。殿掌、掌典。 1887年、貴族院子爵議員・唐橋在正の次男として生まれる。 明治大学政経科卒業。1931年、父・在正の隠居に伴い子爵を襲爵し、華族制度廃止まで爵位を保有した。 また、神職を務め、霊山神社の宮司に就任した[要出典]。 出典が無い限り、霞会館 1996a, pp. 455–456を参照した。
嶺田 丘造(みねた きゅうぞう、1887年(明治20年)9月… 嶺田 丘造(みねた きゅうぞう、1887年(明治20年)9月17日 - 没年不詳)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 愛知県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。税務監督局属、大蔵属、税務監督局事務官、大蔵事務官、税務監督官、税関事務官、神戸税関監視部長、長崎税関長、熊本税務監督局長、名古屋税務監督局長などを歴任。1936年(昭和11年)、台湾総督府財務局長に転じた。 1939年(昭和14年)に退官した後は、日本米穀株式会社理事を務めた。
本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(また… 本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(または1888年-1893年頃4月8日の可能性あり) - 2003年10月31日)は、かつて世界最高齢の人物としてギネス世界記録に認定されていた鹿児島県徳之島在住の日本人女性。戸籍上は1887年9月16日生まれで死去時には116歳であったが、年齢に異論が唱えられ2012年に世界記録の認定を取り消された。通称「かまとバア」。 鹿児島県大島郡徳之島面縄方(現在の伊仙町、徳之島の南部)出身。戸籍上は9月16日生まれだが、ひ孫によると実際の誕生日は4月8日であるという。1908年(明治41年)、本郷福佑と結婚。7児の母となる。その後曾孫、さらには玄孫(やしゃご)にも恵まれた。
増井 清(ますい きよし、1887年〈明治20年〉9月14日… 増井 清(ますい きよし、1887年〈明治20年〉9月14日 - 1981年〈昭和56年〉8月6日)は、日本の獣医学者、畜産学者。世界で初めてひよこの雄雌の鑑別法を発見した。獣医学博士。東京大学名誉教授。名古屋大学名誉教授。位階は従三位。 静岡県立静岡中学校卒業。第二高等学校 (旧制)を経て、1915年、東京帝国大学農科大学獣医医学科を卒業。1921年、獣医学博士、1922年、助教授(解剖学)。1924年に『雄鶏ニ於ケル退化交尾器官並ニ初生雛ノ雌雄鑑別ニツイテ』(農林省畜産試験場橋本重郎、大野勇両技官と共著)発表。1927年ドイツに留学、カイザー・ウィルヘルム生物学研究所(現、マックス・プランク研究所)においてリチャード・ゴールドシュミットのもとで「性の決定」に関する研究を行った。
長沼 権一(ながぬま ごんいち、1887年(明治20年)9月… 長沼 権一(ながぬま ごんいち、1887年(明治20年)9月12日 - 1952年(昭和27年)4月26日)は、大正から昭和時代の政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡道上村長、陸軍軍人。 新潟県西蒲原郡河間村(道上村、中之口村を経て現新潟市西蒲区河間)出身。長沼喜八の長男として生まれ、1940年(昭和15年)家督を相続する。1904年(明治37年)県立新潟中学校卒業。陸軍に入り、歩兵少尉に進む。 在郷軍人会西蒲原郡連合分会副長、同分会長、軍人後援会新潟支部理事、道上村長、新潟県翼賛壮年団副団長、大政翼賛会新潟県支部常務委員、道上村収入役、金銭債務、小作、人事、戦時特別各調停委員を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では新潟県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月… 堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月12日 - 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、熊本県熊本市出身の日本画家。本名は堅山 熊次。 横山大観に認められ、院展、日展などで活躍した。花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた。1914年(大正3年)の日本芸術院再興にも加わり、同芸術院常務理事、日展参事などを務めた。ほか、熊本市名誉市民、文化功労者、文化勲章受章者であり、大正から昭和にかけての日本画界を支える中核だった。代表作に「白雨」。 1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。
半田 良平(はんだ りょうへい、1887年(明治20年)9月… 半田 良平(はんだ りょうへい、1887年(明治20年)9月10日 - 1945年(昭和20年)5月19日)は、日本の歌人。 栃木県上都賀郡北犬飼村深津(鹿沼市深津)出身。北犬飼東尋常小学校(現・鹿沼市立津田小学校)、姿川尋常高等小学校(現・宇都宮市立姿川中央小学校)卒。宇都宮中学在学中に下級生の千葉省三と親交を結ぶ。短歌欄の投稿を通じて松村英一、植松寿樹らと知り合い、窪田空穂を中心に結成された十月会に参加。旧制第二高等学校を経て東京帝国大学英文科を卒業。同大学院に進学するも、現役補充兵として召集されたため、退学。その後、空穂主宰の短歌結社である「国民文学」の中心的人物となり、中学の英語教師のかたわら短歌・評論などを多く書いた。
杉本 良(すぎもと りょう、1887年(明治20年)9月10… 杉本 良(すぎもと りょう、1887年(明治20年)9月10日 - 1988年(昭和63年))は、朝鮮総督府官僚。台湾総督府官僚。静岡県金谷町長。 静岡県小笠郡日坂村(現在の掛川市)出身。1912年(大正元年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。朝鮮総督府試補、同事務官、台湾総督府専売局事務官、同参事、煙草課長、酒課長などを歴任し、1929年(昭和4年)に文教局長に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、金谷町長、静岡市助役、拓殖協会事業部長、大政翼賛会静岡県支部事務局長などを務めた。 掛川信用金庫の理事長などを勤めた杉本周造(1921年(大正10年)-2015年(平成27年))は長男。
戸田 保忠(とだ やすただ、1887年(明治20年)9月10… 戸田 保忠(とだ やすただ、1887年(明治20年)9月10日 – 1938年(昭和13年)12月18日)は、農商務官僚、農林官僚。 茨城県出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。島根県属試補、島根県理事官、農務局事務官・臨時米穀管理局事務官、農商務書記官・参事官、同副業課長、農務課長、大臣官房会計課長、畜産局長、水産局長、農務局長を歴任した。1937年(昭和12年)、農林次官に就任した。 退官後は日本勧業銀行参与理事、漁業組合連合会会長を務めた。
阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8… 阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8日 ‐ 1939年(昭和14年) 11月7日)は、日本陸軍の軍人。陸士19期。最終階級は中将。正四位勲一等功三級(追贈)。 日中戦争にて八路軍との交戦中に戦死し、中将としては帝国陸軍の創設以来初の戦死者となった。 青森県旧北津軽郡七和村羽野木沢(現五所川原市)出身。衆議院議員・阿部武智雄の次男。就学前から一つ上の兄について行って小学校に出入りしており、教師の計らいで二年生に中途入学扱いとなる。そのため、兄と同学年として青森県立第一中学(現:青森県立弘前高等学校)に進学した。弘前では中士士族の鎌田家に下宿し、城陽館で剣道に打ち込んだ。 1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校を卒業。
竹内 平吉(たけうち へいきち、1887年(明治20年)9月… 竹内 平吉(たけうち へいきち、1887年(明治20年)9月6日 - 1972年(昭和47年)4月14日)は、日本の作曲家、指揮者、チェロ奏者。帝国劇場附属洋楽部の初代楽長、宝塚少女歌劇作曲家、指揮者。 静岡県出身。1906年(明治39年)、静岡県立静岡中学校卒業。東京音楽学校卒業。チェロをハインリヒ・ヴェルクマイスターに、音楽理論をアウグスト・ユンケルに学ぶ。1911年(明治44年)に新設された帝国劇場附属洋楽部の初代楽長として迎えられ、チェリスト、専任指揮者としてジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーとともに創成期のオペラ指導に尽力。1923年(大正12年)に起きた関東大震災を機に宝塚少女歌劇に移り、指揮者を務める。
小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)… 小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)9月6日 ‐ 1981年(昭和56年)11月2日)は、日本の教育者、盲学校創設者、点字出版社編集者、社会事業家である。視覚障害当事者として視覚特別支援教育に尽力し、奈良県視覚障害者教育の始祖と称される。 1887年(明治20年)、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)の商家に生まれる。1891年(明治24年)前後、4歳あるいは5歳で失明。琴三絃を習う。1899年(明治32年)、12歳で叔母の勧めにより京都市立盲唖院入学。按摩・マッサージ技術、中等普通科科目を習得した。1907年(明治40年)3月、京都市立盲唖院を卒業し、同年4月から東京盲唖学校教員練習科入学。