カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadaki… カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadakichi Hartmann, 旧暦慶応3年10月13日〈新暦1867年11月8日〉 - 1944年11月22日)は、日本出身のアメリカ合衆国の美術家、批評家、詩人。定吉ハートマン、サダキチ・ハルトマンなどの表記もある。写真評論では、シドニー・アラン(Sydney Allan)名を使用することもあった。 ドイツ人の貿易・武器商人カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマンと日本人女性さだの次男として、長崎の出島に出生。幼くして母を亡くしたため父がドイツに連れて行き、兄と共にドイツの親戚に引き取られ、ハンブルクで教育を受けた。裕福な一族だったため、私立校へ通うなど当地の最高の教育を受けたが、ドイツに帰国した父親の再婚に伴って転校し、キール海軍兵学校に通う予定だったが、フランスのパリへ家出。
島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、18… 島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、1867年10月12日(慶応3年9月15日)- 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 越前国勝山藩士・島田静虎、つるの長男(4男3女)として生まれる。京都で旧制中学校の教育を受けて上京し、大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月15日、農商務省に入省し試補となり参事官室に配属された。 1902年、農商務省参事官に就任。以後、林務官、鉱山監督兼農商務省参事官、臨時葉煙草取扱所建築事務官、林野整理局書記官、林務官兼山林局書記官兼農商務書記官などを歴任し、1907年1月、京都府事務官・第一部長兼第三部長となる。
森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3… 森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3年9月14日) - 1957年(昭和32年)11月3日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 尾張国前飛保村(現・愛知県江南市)出身。1889年(明治22年)に海軍兵学校を卒業し、翌年に海軍少尉に任官した。軍令部参謀、大本営参謀、陸軍大学校教官、海軍大学校教官、高雄艦長、沖島艦長、三笠艦長、海軍水雷学校校長、海軍技術本部第二部長を歴任した。1918年(大正7年)、海軍中将に昇進し、翌年に予備役に編入された。 その後、愛知時計電機株式会社顧問を務めた。 1944年には地元の前飛保にすずり箱を寄贈。それは現在でも同市内の白山社の蔵に保管されている。
鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶… 鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶應3年9月10日〉 - 1925年〈大正14年〉12月8日)は、現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)で浦風部屋及び高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は今関 鉄五郎。身長体重は不明。最高位は東前頭13枚目。色黒で無愛想な容貌から「鬼」と言われた。 1886年1月初土俵(序ノ口)。1893年5月十両昇進。1894年6月新入幕。しかし、翌1895年1月場所前に大日本帝国陸軍に入営し、近衛師団の軍夫になった。台湾に出征するも、マラリアに罹ってあえなく帰国。1895年5月場所で東十両張出筆頭で復帰するも2勝8敗と負け越し、以後再入幕は叶わなかった。
門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、186… 門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1958年(昭和33年)4月24日)は、明治から昭和時代前期の実業家。実兄に千代田生命保険、日本徴兵保険創立者兼社長で勅撰貴族院議員の門野幾之進がいる。 志摩鳥羽藩の家老・門野亘理の二男として鳥羽(現三重県鳥羽市)に生まれる。1884年(明治17年)慶應義塾大学部理財学および法律学を修了後、1891年(明治24年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、アメリカのペンシルバニア鉄道に入る。4年間に渡る鉄道敷設工事に従事したのち退社し、欧米の工業事情を視察後、1896年(明治29年)帰朝した。山陽鉄道で新線工事長として勤務後、大倉喜八郎の知遇を得て、1897年(明治30年)大倉組に入り、ロンドン支店長を長く務めたのち1909年(明治42年)に大倉組副頭取、1914年(大正3年)大倉土木(現大成建設の前身)会長となり、1937年(昭和12年)まで在任した。
平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月… 平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1945年(昭和20年)6月2日)は、日本の天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた。兄に海軍教授・海軍大学校教官の平山順。寺尾寿に師事した。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に同学科の第1回卒業生となった。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ。
関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日… 関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日)- 1943年(昭和18年)7月7日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、栃木県足利郡北郷村長。 下野国足利郡江川村(栃木県足利郡北郷村大字江川を経て現足利市江川町)で、輸出織物業・関田政七郎の長男として生まれる。1886年(明治19年)明治法律学校(現明治大学)に入学し1889年(明治22年)まで学んで帰郷した。 家業の輸出織物業を継承。足利機業組合評議員、足利織物同業組合長、両毛織物同業組合連合会長、足利瓦斯社長、日本大博覧会評議員などを務めた。 政界では、栃木県会議員、同参事会員、同議長、北郷村長、教育諮問会員、県立工業学校商議員、地方森林会議員などを務めた。
杉下 太郎右衛門(すぎした たろううえもん、1867年10月… 杉下 太郎右衛門(すぎした たろううえもん、1867年10月5日(慶応3年9月8日) - 1918年(大正7年)5月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。大地主。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。名は豊、字は士康、号に耕雲または漣園。 先代杉下太郎右衛門の長男として、飛騨国吉城郡宇津江村(岐阜県吉城郡国府村、国府町を経て現高山市)に生まれる。先祖は源氏で渡邊を姓としたが天保年間に杉下と改めた。生家は農業を営む素封家で代々太郎右衛門を称した。 1893年(明治26年)シカゴ万国博覧会を視察し、帰朝後は前田正名などの実業家と交友を持った。また大日本農会特別会員、地方農業団体委員、日本赤十字社特別社員、杉下合名会社代表社員を務めた。
田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10… 田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10月4日) - 昭和9年(1934年)6月28日)は、日本の経済学者。号は「赤城」。京都帝国大学初代経済学部学部長。立命館大学第2代学監。同大学第3代学長。財団法人立命館初代協議員。大日本武徳会弓道範士。日本漕艇協会第三代会長。関西漕艇協会初代会長。帝国学士院会員。 江戸・牛込赤城元町(現・東京都新宿区赤城元町)に生まれる。旧制一高から帝国大学法科大学政治学科に進学し、経済学者・社会政策学者で東大七博士の一人に数えられた金井延の指導を受け、欧米留学も経験した。 帰国後は京都帝国大学法科大学にて「経済理論」、「財政学」の講義を担当。京大法科から経済学部が独立したのを機に、1919年(大正8年)京都帝国大学初代経済学部長に就任。
矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3… 矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3年9月6日) - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の実業家・銀行経営者・慈善家。先祖は嵯峨天皇の第12皇子・源融にまで遡る矢橋家・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石の創業者。 1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎の三男。 実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。
三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月… 三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月2日) - 明治41年(1908年)1月10日)は、明治の劇評家で、医師。本名は森 篤次郎(もり とくじろう)。兄は小説家の森鷗外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。 大政奉還の直前、石見国津和野に津和野藩医・森静泰(のちに静男と改名)と峰子の間に次男として生まれた。廃藩置県などによって5歳のときに上京する。子供の頃は、鷗外よりも才があったという[要出典]。 12歳の頃、男爵の河田佐久馬(旧鳥取藩士、元老院議官で1887年子爵に叙せられた)に大変気に入られて養子縁組が決まり、本人もその気になっていた。しかし、親戚から横槍が入った河田家が財産譲与額の変更を第三者を介して伝えてくると、金のことを問題にしたことと、それを人の口を介して告げてきた誠意のない態度に若い鷗外が激怒して破談となった。
上林 敬次郎(かんばやし けいじろう、1867年10月(慶応… 上林 敬次郎(かんばやし けいじろう、1867年10月(慶応3年9月) - 没年不詳)は戦前の日本の大蔵・朝鮮総督府官僚。李王職次官、咸鏡北道知事、忠清南道長官。 京都府に生まれる。上林松寿の二男として生まれ、上林繁の養子となる。1886年(明治19年)に東京法学校(現:法政大学)を卒業し、同校が発行する雑誌の編集人などを務める。1894年(明治27年)、第1回文官高等試験に首席で合格し、法制局に配属され、のち大蔵省に移り大蔵省試補となる。以後、司税官、秋田税務管理局長、松江税務管理局長、松江税務監督局長、金沢税務監督局長、醸造試験所事務官、大蔵省臨時建築部事務官などを歴任した。 1910年(明治43年)に朝鮮総督府専売局長、1916年(大正5年)に忠清南道長官、1918年(大正7年)に咸鏡北道知事を経て、1921年(大正10年)に李王職次官に就任する。
屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王1… 屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王19年9月23日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、戦前活躍した沖縄県の唐手家で陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。松村宗棍に師事した首里手の大家で松茂良興作、糸洲安恒にも師事した。 1866年(尚泰19年、慶応2年)、屋部憲通は首里山川村(ヤマガー)(現・那覇市首里山川町)に生まれた。隣家が松村宗棍宅であり幼少の頃から松村に唐手を師事した。屋部は松村死去後は同門で兄弟子の糸洲安恒の門下となった。屋部は他にも本部朝勇、本部朝基とともに泊手の松茂良興作に師事し変手を磨いた。 1890年(明治23年)、屋部は沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を中退して陸軍教導団に志願入団した。
野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日)… 野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日) - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元中国興業銀行常務取締役。元中国貯蓄銀行取締役。元米子町会議員、郡会議員。自治功労者。地主。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元米子市長野坂寛治の叔父。洋食のレストラン“十字屋”経営主で米子市会議員を務めた野坂康久の養父。米子市長野坂康夫は曾孫にあたる。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎の五男。 明治14年(1881年)家督を相続す。 大正2年(1913年)9月、町会議員(一級)に当選。 大正4年(1915年)9月30日 - 大正8年(1919年)9月29日、郡会議員。
杉山 義雄(すぎやま よしお 1866年10月26日(慶応2… 杉山 義雄(すぎやま よしお 1866年10月26日(慶応2年9月18日) - 1933年(昭和8年)4月8日)は、日本の実業家。 1866年、遠江国(静岡県)に出生。 明治法律学校(現明治大学)を卒業。 1920-1932年の長期に亘り、秀英舎(大日本印刷)社長を務めた。 社外に於いては、東京商工会議所副会頭や、東京印刷同業組合組長などの他、日本耐火工業や日本エッチビー特許製版の取締役、東台銀行、武田割引銀行、日本開墾の監査役などを務めた。 また、昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)の設立に参画し、理事長に就任した。 1933年4月8日、死去。68歳。
太田 覚眠(おおた かくみん、1866年10月24日(慶応2… 太田 覚眠(おおた かくみん、1866年10月24日(慶応2年9月16日) - 1944年(昭和19年)11月30日)は、明治時代から昭和時代(戦前期)の僧。伊勢国(三重県四日市市)出身。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業。 浄土真宗本願寺派法泉寺(四日市市京町に建立)の16世僧侶。その生涯をロシアと蒙古(モンゴル)での布教活動に捧げた近代の傑僧である。 日露戦争前年の1903年(明治36年)、開教使としてロシアのウラジオストクの浦潮本願寺に駐在となる。開戦直前の1904年(明治37年)2月、渡航していた多くの日本人に日本政府からの引揚げ命令が出され、各地に赴任していた人がウラジオストクに集結した。
今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年… 今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年10月23日〉 - 1948年〈昭和23年〉2月18日)は、明治・大正時代の日本の政治家、実業家。群馬県利根郡川場村出身。衆議院議員(2期)、群馬県会議員(5期)、利根郡会議員、川場村長などを歴任した。 川場村川場湯原の今井悟兵衛の長男として生まれる。今井家は代々名主を務める家柄で、父悟兵衛は領主から帯刀御免・御用達頭取を仰せつけられていた。 今助は1892年(明治25年)に群馬県会議員に当選し、以後1896年(明治29年)、1907年(明治40年)、1911年(明治44年)、1915年(大正4年)の5回当選を果たし、17年間務めた。 1896年(明治29年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)の3度利根郡会議員に当選。
清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(186… 清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(1866年10月22日) - 昭和9年(1934年)2月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、愛媛県吉田町長。 伊予国宇和郡喜佐方村(現在の愛媛県宇和島市)に、清家権四郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)、愛媛師範学校を卒業し、喜多郡大洲尋常高等小学校に訓導として赴任し、やがて校長に昇進した。1900年(明治33年)、南宇和郡視学に任命され、伊予郡、西宇和郡、北宇和郡の視学を歴任した。 1911年(明治44年)に官を辞し、北宇和郡から県会議員に当選。1919年(大正8年)からは議長を務めた。 1918年(大正7年)、吉田町長に就任。
赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈… 赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈慶応2年9月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の国学者、国語学者、書誌学者、図書館学者。 明治10年代初頭の東京大学文学部は、洋学尊重の時代的風潮に影響されて和漢文学を専攻する学生は乏しかった。これを憂えた小中村清矩の献策に基づいて、文学部に古典講習科が付設された。赤堀はここに入学し、修業年限3年の後に卒業した。本科に比してこの科に学ぶものが多く、落合直文らの実力を有する学者が輩出して、古典研究の発展に寄与するものが少なくなかった。 1888年(明治21年)創立の私立言語取調所(会長伊達宗城)で、のちに『国語学書目解題』として出版される書籍の編纂に、林 美、落合直澄、逸見仲三郎とともに着手したが出版に至らず、1890年(明治23年)10月9日に取調所の図書、器具、金員の帝国大学への寄付が願い出られて許されたときに、この初稿も含まれていた。
渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年… 渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年10月17日) – 昭和3年(1928年)9月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事、弁護士。 1866年、長門国阿武郡萩町(現在の山口県萩市)に出生。1895年、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。同年に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、宇都宮地方裁判所・大分地方裁判所・福岡地方裁判所・大阪地方裁判所の検事を務めた。徳島地方裁判所の次席検事に昇進したが、1906年に退官し徳島市で弁護士を開業した。徳島市会議員、徳島毎日新聞社監査役、日本化学工業株式会社取締役等を歴任。 1927年の衆議院補欠選挙に憲政会より立候補して当選し、憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が成立すると、徳島支部顧問となった。
小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 … 小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 - 1952年7月4日)は、日本の実業家。北洋漁業の近代化と函館の経済発展に貢献し、「函館の恩人」と呼ばれた。 越後国(現・新潟市)生まれ。8歳で養父母の小熊幸吉・タマ夫妻に引き取られる。1879年4月小学校卒業、翌1880年12月まで代用教員。1881年東京で丁稚奉公、その後新潟で海運業に従事。 1887年函館に渡り、廻船問屋に勤務。1895年独立して仲買店を開業。樺太、カムチャツカ、沿海州で漁業を展開し、母船式サケ・マス漁業を推進。函館の港湾改修や冷蔵施設の充実に尽力。 1918年(大正7年)、柳田藤吉が1901年に建設した赤レンガ倉庫群(柳田倉庫、後の弁天倉庫株式会社)を買収。
棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(… 棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(慶応2年9月4日)- 1955年(昭和30年)12月11日)は、日本の化学者、実業家である。 新潟に生まれる。後に東京帝国大学(現在の東京大学)応用化学科に所属し、ヨウ素の研究に尽き、特に海藻から抽出された医薬品用のヨードを生産した、ヨウ化カリウムの製造方法の研究によって有名となった。なおこの化合物は後にマッチ製造の原料にもなった。その後も硝酸カリウムや塩化カリウム、クロム酸塩等の研究や開発に携わり、同化合物を用いた肥料も開発した。またこの頃に工学博士を取得している。 1893年(明治26年)に卒業後は多くの企業の設立に携わり、1908年(明治41年)には日本化学工業の設立に携わった。
鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(… 鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(慶応2年9月3日) - 1907年(明治40年)5月4日)は、下総国千葉郡久々田村(現在の千葉県習志野市津田沼)出身で宮城野部屋(一時錦戸部屋に移籍)に所属した大相撲力士。本名は三代川 寅之助(後に宮城野姓)。最高位は大関。5代目年寄・宮城野を襲名。身長179cm、体重117kg。 1886年5月場所初土俵。1891年1月場所鳳に改名、1892年1月場所鳳凰に改名、1892年6月新十両、1893年1月入幕。1894年1月「鳳凰 馬五郎」に改名。1895年6月場所6日目、横綱・初代西ノ海嘉治郎との対戦で、西ノ海の寄りを土俵際で回り込み、逆に寄り切って軍配を受けたが西ノ海の師匠で当時権勢を揮っていた高砂が物言いをつけ預かりとなる。
氏家 丈吉(うじいえ じょうきち、旧姓・富樫、前名・吉郎、1… 氏家 丈吉(うじいえ じょうきち、旧姓・富樫、前名・吉郎、1866年10月5日〈慶応2年8月27日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月8日)は、日本の政治家、実業家、資産家、宮城県多額納税者、地主。族籍は宮城県平民。 山形県東置賜郡屋代村字竹森(現・高畠町)出身。富樫六右衛門の二男。山形県立山形中学校を卒業。1888年、先代・丈吉の養子となり、1906年、家督を相続し前名・吉郎を改め襲名し、2代目丈吉となる。家業を継いだ。 「加登丈」と称し、金融業を営んだ。角田電気鉄道、角田製氷会社等の重役であった。角田製氷社長、東北冷蔵製氷、大日本水道水管各取締役などをつとめた。 明治末より角田町会議員、1915年より郡会議員であった。
得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月… 得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1945年(昭和20年)2月8日)は、日本の哲学者。 越中国(現富山県)生まれ。1892年東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校、東洋大学、日本大学、東京帝国大学講師、東京高等師範学校教授。1927年定年。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2… 岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。団次郎が幼名だが成人後も長らくこの名前で通した。一時教通と名乗り大正4年(1915年)に俊武と改名。 慶応2年(1866年)、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)に岩村通俊の次男として生まれた。明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。明治22年(1889年)9月、海軍少尉任官。日清戦争、日露戦争に出征。特に水雷戦術に長じていた。日露戦争では第3艦隊参謀として出征し、その職のまま旅順要塞を攻略する第3軍に連絡将校として派遣され(途中で第1艦隊参謀に異動)、旅順開城委員の海軍代表として名を連ねた。
堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年… 堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年8月24日)- 1958年(昭和33年)7月19日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・瓜生。筑豊の五大炭鉱主と称された。 筑前国鞍手郡、のちの福岡県鞍手郡直方町新町(現直方市)で、醤油醸造業・瓜生幾次の長男として生まれる。小学校の課程を修了すると私塾で漢文学、数学を修めた。1886年(明治19年)8月、先代亡堀甚四郎の養子となり死跡を相続した。 1889年(明治22年)小竹町の御徳炭鉱の経営を始め、付近の海軍鉱区の払下げを受け、当時、直鞍地区随一の炭鉱に発展した。さらに本洞(直方)、若瀬(中間)、平山(嘉穂)、中津川(田川)、篠栗(篠栗)の各炭鉱を買収し、堀鉱業を設立し代表取締役となる。
山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月… 山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月23日〈1866年10月1日〉 - 昭和32年〈1957年〉2月13日)は、実業家、茶人。 茶道宗徧流の第8世家元であるが、家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう)の名で実業界でも活躍した。明治25年(1892年)にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けにオスマン帝国(後のトルコ)に渡って以来、日本とトルコの交流に深く関わった人物としても知られる。 宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩用人・中村雄左衛門(莞爾)の次男として沼田藩の江戸上屋敷で生まれた。中村家は曽祖父の代から家老職を務めていた。8歳まで沼田で生活し、明治維新後に上京した。
広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶… 広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶応元年9月12日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月16日)は、日本の囲碁棋士。方円社5代目社長、八段。 美作国苫田郡東苫田村(現・岡山県津山市)の農家に生まれる。幼時から学問に秀でており、12、3歳頃に父、兄の影響で碁を覚えてたちまち周りの者を上回る。兄弟が多く家が貧しかったため、17歳で大阪に出て地方新聞編集の職に就き、20歳で東京で農商務省に勤務し、女流棋士伊藤繁に付いて碁を学ぶ。1891年(明治24年)、26歳で囲碁専業に身を投じて方円社に入り、翌92年に初段を許された。1893年二段、1895年三段、1898年四段。方円社では『囲碁新報』『初学独習新報』など雑誌執筆、発行に務めて文才も謳われ、巌崎健造社長の元では副社長格として腕をふるった。
三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年1… 三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の国史学者。貴族院帝国学士院会員議員、文学博士。 播磨国神東郡御立村の漢方医・幸田貞助の三男として生まれ、1875年に砥堀村で寺子屋を開いていた元姫路藩江戸詰藩士(足軽)・三上勝明の養子となる。養父は地元の小学校の校長を務めたのち、姫路市街に移り砂糖・乾物を商う「三上屋」に転じた。 その後旧制姫路中学校に進学するが、本科3年終了後、学校側の対応に不満を持ち自主退学。小学校の代用教員となったが、養父の希望で農学校進学のため上京し、本郷元町にあった進学予備校「進文学舎」を経て1881年に東京大学予備門入学、教師の勧めもあり入学先学部を農学から史学に変更し、1885年東京帝国大学文学部入学。
和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年1… 和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日)は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。 備後国沼隈郡鞆町(現在の広島県福山市)にて和田五平・イトの二男として出生。1872年、母の生家に託せられ、照蓮寺の三宅某について習字読書を始める。1873年、備後国深津郡新涯小学校に通学し、櫛野瀬平に学ぶ。1874年、医師内海卓爾について習字読書を学ぶ。1878年、玉井正幹について漢籍を学ぶ。1880年、福山師範学校を受験、不合格。以来、宗家の家事を手伝いながら会計を掌り、もっぱら史書を読む。1884年、帝国大学文科大学古典講究科入学。
當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1… 當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1865年10月29日) - 1923年9月1日)は、下野国安蘇郡(現在の栃木県佐野市)出身で春日山部屋に所属した力士。本名は山口 信太郎(やまぐち のぶたろう)。身長160cm・体重92kg。最高位は東前頭4枚目(1898年1月場所)。得意手は右四つ、寄り、突っ張り。 「免鳥車」と言う水車小屋を営んだ農家の長男で、地元の八幡相撲で活躍した。年齢の割に髪が薄く、常に髷を奴頭に結った。 1889年1月場所に初土俵(幕下)、1894年5月場所に十両昇進。1896年5月場所に新入幕を果たす。小兵ながら右四つと突っ張りの正攻法の取り口で活躍したと伝わる。
西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865… 西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 1889年(明治22年)2月11日)は、日本の不平士族、国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。 長州藩士、西野義一の長男として山口に生まれる。山口黒城塾、山口中学校(現・山口県立山口高等学校)を卒業した後、三浦梧楼を頼って上京するが職が見つからず、一旦帰郷して山口県庁に就職した。東京では講道館に通い、本田増次郎の教え子だった。1886年(明治19年)、県庁を退職して再び上京し、山口黒城塾時代からの友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で総務と漢文教師を務める。しかし、東京速成学館はドイツ語を主に教える学校であり、その学生は西洋志向が強い者が多かったため、国粋主義思想が強い西野は生徒からの評判が悪く、まもなく西野は退職して内務省土木局に務めることとなった。
石塚 譲(いしづか ゆずる、慶応元年9月9日(1865年10… 石塚 譲(いしづか ゆずる、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 昭和6年(1931年)3月19日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 名古屋出身。1888年(明治21年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。1892年(明治25年)、弁護士となり、山田喜之助の事務所で勤務の後、独立開業した。1900年(明治33年)に新潟県高田町(現在の上越市)に事務所を開いた。 高田町会議員、高田市会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)で当選を果たした。
野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応… 野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応元年9月9日) - 1927年(昭和2年)3月28日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国高来郡諫早村(現在の長崎県諫早市)に木下助内の三男として生まれ、1882年(明治15年)に野副弥惣左衛門の養子となった。1892年(明治25年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、仙台市で弁護士事務所を開業した。 仙台市会議員、同議長を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に当選した。 蔵王町立宮小学校には水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職した小野さつき訓導への弔辞が展示されている。
永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9… 永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の裁判官、内務官僚、歴史家。官選宮崎県知事、門司市長、福岡県八幡市長、福井市長。 越前国足羽郡福井豊島中町(現福井県福井市豊島)出身。福井藩士・永井清也の長男として生まれ、永井熊之助の養子となる。1890年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、判事試補に任官し千葉始審裁判所詰となる。 以後、千葉区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。1894年12月、内務省に転じ長野県参事官に就任。以後、同県内務部第二課長・第三課長兼務、同内務部第一課長兼第二課長、群馬県警部長、群馬県書記官、北海道庁事務官・財務部長、同兼土木部長、同植民部長、静岡県書記官、兵庫県書記官、同事務官・第一部長、兵庫県立蚕業学校長事務取扱などを歴任。
吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27… 吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1943年(昭和18年)3月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。子は歌人・衆議院議員の吉植庄亮。義弟に弘前高等学校校長を務めた鈴木信太郎がいる。 下総国印旛郡、のちの千葉県印旛郡埜原村(本埜村を経て現印西市)出身。北海道に渡り開墾に従事したが、北海道時事新聞社を興し、社長に就任した。やがて他の新聞との合併で北海タイムス新聞社が成立すると、理事を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は9回を数えた。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明・木村政次郎・関和知・津田毅一・鵜沢宇八・柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸・土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し、同月に実施された再選挙で当選した。
小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月… 小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した。号は霞南。 陸奥国会津地方(福島県)出身。鹿目政恒の長男で、会津藩士・小松光明の養子として絶家を再興する。慶應義塾を卒業後、米国に留学し、政治学をまなんだ。留学期間は8年に及びエール大学で法学士、プリンストン大学でマスターオブアーツを取得。帰国後は明治学院教授を短期間務めたのち外務省にはいり、駐米日本公使館の書記官や朝鮮総督府の外務部長などを歴任した。日露戦争では遼東守備軍司令部付であった。1916年(大正5年)総督府中枢院書記官長を最後に退官、その後は著述家として活動した。
左近 義弼(さこん よしすけ、慶応元年9月5日(1865年1… 左近 義弼(さこん よしすけ、慶応元年9月5日(1865年10月24日) - 昭和19年(1944年)9月1日)は、日本の聖書学者、聖書翻訳者。青山学院の教授(1907年-1937年)。子としては、東京神学大学名誉教授左近義慈、『落城日記』などの著者・左近義親、医師の左近さくらがいる。東京神学大学元学長左近淑は義理の孫。 越前国敦賀に近い杉津出身の農家に生まれる。父・左近孫太夫、母・そうの三男。姉・さき、兄・孫太夫、次兄・中蔵。 1877年に小学校・尋常科を卒業。父の農作業を手伝いながら、向学心に燃えて福沢諭吉の『世界国尽』や『学問のススメ』を読みふける。 1880年には、小学校教師に就任。1882年福沢諭吉の元で学ぶため上京して、翌年、慶應義塾で学び、1884年からは時事新報社で働きながら学業を続ける。
金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23… 金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23日〈慶応元年9月4日〉- 1938年〈昭和13年〉4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 武蔵国埼玉郡荻島村(現埼玉県羽生市北荻島)で金久保浅右衛門の2男として生まれ、1898年(明治31年)7月に家督を相続した。 1888年(明治21年)7月、陸軍士官学校旧10期を卒業し、陸軍歩兵少尉任官。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(12期)に入学。日清戦争勃発のため1894年(明治27年)7月、陸大を退校し第2軍に属して出征。1896年(明治29年)2月、陸大に復学し1897年(明治30年)12月に卒業して陸軍戸山学校に配属された。
鮫島 慶彦(さめしま けいひこ、1865年10月23日(慶応… 鮫島 慶彦(さめしま けいひこ、1865年10月23日(慶応元年9月4日) - 1928年(昭和3年)10月4日)は、日本の政治家、実業家。鹿児島県会議員。衆議院議員(鹿児島県郡部選出、当選1回)。南薩鉄道社長。万瀬水力電気、鹿児島火山灰珪藻土、薩摩製糸、南薩林業各取締役。族籍は鹿児島県士族。 慶応元年、薩摩国加世田生まれ。鹿児島県士族・鮫島郷兵衛の二男。先代次右衛門の養子となり1875年、家督を相続する。 東京の二松学舎で漢学を学ぶ。帰郷後、村議、鹿児島県会議員をへて、立憲政友会県支部長となり、1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で当選し衆議院議員を1期つとめる。 1912年(明治45年)南薩鉄道を創立し、社長をつとめる。
石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応… 石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応元年8月29日〉 - 1942年〈昭和17年〉4月10日)は、明治から昭和にかけての日本の中等教育の英語教員、キリスト教伝道者。多摩地方の自由民権運動指導者だった石坂昌孝の長女で、評論家の北村透谷の妻であったことで知られる。 本名は石阪 ミナ。美那子とも書く。苗字は「石阪」「石坂」「北村」とも表記され、文献によってゆれがある。 生涯の精神的なキリスト教に出会い入信し、女学校を卒業した翌年に透谷と結婚する。夫の死後は英語学習と伝道のため、34歳でアメリカに留学。1907年に帰国し、その後は東京府立豊島師範学校(現在の東京学芸大学)、東京府立品川高等女学校(後に東京府立第八高等女学校、現在の東京都立八潮高等学校)などの英語教師を72歳まで続けた。
小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10… 小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10月17日) - 昭和19年(1944年)2月9日)は、日本の司法官僚、判事、衆議院議員。法学博士。 三河国碧海郡小山村(愛知県碧海郡小山村、刈谷町を経て現刈谷市)出身。1890年、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事を歴任した。1906年より法律取調委員。1907年、司法省監獄局長に就任し、1911年に司法省刑事局長に移った。1912年に司法次官に昇任し、1914年まで務めた。 次官退任後、1914年4月21日、錦鶏間祗候に任じられ、弁護士を開業した。1917年の第13回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会の候補として出馬し、当選。
渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、18… 渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、1865年10月17日〈慶応元年8月28日〉 - 1944年〈昭和19年〉7月2日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、倫理学者。文学博士。号は乾甫。 越後国古志郡吉水村(現・新潟県長岡市)生まれ。 東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)で学び、アメリカのコーネル大学で哲学博士号取得(1892年・専攻は倫理学・哲学史・心理学)。 1898年6月高等師範学校附属音楽学校主事。1899年8月に東京音楽学校校長(現東京芸術大学)に就任。校長時代には瀧廉太郎を支えた。 1911年小樽高等商業学校初代校長(現小樽商科大学)に就任。
岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元… 岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年〈昭和30年〉12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。正四位、男爵。 久弥は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれた。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。明治8年に福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語や簿記、法律、経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、明治19年に米国留学し、1888年(明治21年)にアメリカのペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学。 1891年(明治24年)に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894年(明治27年)、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。
岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 -… 岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 - 1917年7月16日)は日本の教育家。 信濃国諏訪郡小井川村(現・長野県岡谷市)生まれ。1887年長野県師範学校卒。高島小学校の訓導となる。素封家に篤志を依り、明治22年(1889年)諏訪郡育英会(後の諏訪郡実科中学校の前身母体)を創設。中学校設置の必要性を説き、諏訪中学(現諏訪清陵高等学校)教諭となった。また女子中等教育の必要性を説き、諏訪高等女学校(現諏訪二葉高等学校)の創設に尽力し、初代校長。生涯を通じ諏訪地域の教育普及に尽力した。大正5年(1916年)従七位に叙せられた。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育)。
山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月… 山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月19日)- 1941年(昭和16年)12月20日)は、日本の地主、農政家、政治家。貴族院多額納税者議員。 越前国坂井郡一本田村(福井県坂井郡丸岡町を経て現坂井市)で、豪農・山田穣の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)卒業。父の死去に伴い1892年(明治25年)家督を相続した。 1892年、高椋村会議員に選出され、坂井郡会議員も務めた。1897年(明治30年)に福井県会議員に就任したが1期で引退した。1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、農政懇談会幹事として議員立法の農会法(大正11年4月12日法律第40号)の成立に尽力した。
和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年1… 和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年10月7日) - 昭和9年(1934年)11月21日)は、明治から昭和にかけての国文学者・図書館学者・書誌学者。今沢慈海と並んで日本に本格的な図書館学を導入した人物として知られている。美濃国大垣出身。 大垣藩士和田為助の子として、大垣城城下町の東長町に生まれる。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業して東京帝国大学付属図書館大学に奉職する。明治25年(1892年)から4年間は学習院教授を兼ねる。明治29年(1896年)に東京帝国大学助教授兼附属図書館司書官となり、翌明治30年(1897年)に図書館長に昇進、以後27年間にわたって館長を務めた。
河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶… 河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)2月21日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。「玄洋社式の豪傑」と呼ばれた。 筑前国御笠郡山田村、のちの福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)で、地主・河波宗五郎の長男として生まれる。1885年(明治18年)家督を相続した。1888年(明治21年)東京専門学校邦語政治科を卒業した。農業を営み、玄洋社社員であった。 大野村会議員、筑紫郡会議員、同議長、雑餉隈郵便電信局長(現博多南郵便局)などを務め、1903年(明治36年)福岡県会議員に選出された。1905年(明治38年)九州日報社副社長に就任した。
小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応… 小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)8月26日)は、日本の牧師である。 丹波の南桑田郡千代川村今津(現在の京都府亀岡市)に小北忠蔵とその妻のふじ子の子として生まれる。1883年(明治16年)に京都に出て後に同志社英学校に入学し山本覚馬から法学等を学び、また後に覚馬の影響を受け受洗しキリスト教徒となる。1890年(明治23年)に同学校を卒業後は、同年創立したばかりの熊本の八代教会を経て1896年(明治29年)には再度京都に戻り同地の丹後教会に赴任する。 1909年(明治42年)には北海道に渡り、名寄で天塩教会(名寄教会)の設立に携わり同地でキリスト教の伝道にあたった。