13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治1… 13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治12年)11月21日 - 1966年(昭和41年)9月4日)は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家13代、貴族院多額納税者議員。旧姓・江角、旧名・徳次郎。 島根県出雲郡原鹿村(現出雲市斐川町原鹿)で、地主・江角勝太郎の二男として生まれた。1900年、東京正則中学校を卒業し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、1901年に鉄師糸原家12代・絲原武太郎の養子となり中退した。1911年、養父の死去に伴い家督を継承し武太郎を襲名した。 家業の製鉄業を1922年に廃業し、新たな事業として、先代が推進した植林を継続する中で製炭に着目して、島根木炭として関東地方にも出荷した。
池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)1… 池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)11月20日 - 1939年(昭和14年)2月9日)は、日本の判事(大審院長)、検事、司法官僚。 佐賀県出身。1899年第五高等学校卒業。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1905年(明治38年)、東京地方裁判所判事となり、東京地方裁判所部長、司法省参事官、東京地方裁判所検事、大審院検事、司法省民事局長を歴任した。その間の1918年(大正7年)に法学博士号を取得している。 1928年(昭和3年)、判事として大審院部長に任命された。1936年(昭和11年)には大審院長に就任した。
青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月2… 青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月20日 - 1949年(昭和24年)3月17日)は、日本の俳人。正岡子規門下。本名は青木 新護。 大阪市東区(現・大阪市中央区)船場にある神薬快通丸・天眼水本舖の「青木薬房」に生まれる。文学的素地としては、文芸好きな母方の血筋を受け、小学校時代の教師に文学家の斎藤黙蛙、友人に画家の西山翠嶂、赤松麟作、俳人の山中北渚、松村鬼史らがいた。1889年に父が死没し、1894年に道修町へ転居して大阪薬学校(後の大阪薬学専門学校)に入学するも中退。中退後は家業を継いだ。 1897年、國民新聞へ投句を初める。初号は月兎(げっと)。1898年に友人と三日月会を発足。
伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月… 伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月18日 - 1965年(昭和40年)5月19日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。第11代鹿児島市長、第3代谷山町長。 鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)出身。旧制鹿児島一中卒業。1904年(明治37年)2月29日に海軍機関学校(12期)を卒業し、同年9月10日、海軍少機関士に任官した。以後、海軍機関学校教官・監事、佐世保海軍人事部員、矢矧機関長、海軍省艦政局局員、同軍需局局員、長門機関長などを務め、1923年(大正12年)12月1日、海軍機関大佐に昇進し第三戦隊機関長に就任。さらに呉鎮守府機関長・呉海軍艦船部部員、第一艦隊機関長・連合艦隊機関長、海軍燃料廠平壌鉱業部長などを歴任した。
佐藤 運雄(さとう かずお、1879年11月18日 - 19… 佐藤 運雄(さとう かずお、1879年11月18日 - 1964年1月1日)は、日本の歯学者。日本大学理事長・名誉会頭。
木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)1… 木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)11月18日 – 1956年(昭和31年)12月23日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(憲政会)。 鹿児島県薩摩郡入来村(入来町を経て現薩摩川内市)で、木尾善十郎の息子として生まれた。三州義塾、鹿児島県第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1902年(明治35年)日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。東洋大学講師、警視庁警察官消防官練習所講師を経て、1907年(明治40年)に東京市に弁護士事務所を開いた。翌年、朝鮮半島に渡り、漢城府(のち京城府)に弁護士事務所を開き、朝鮮鉱業新報社社長などを務めた。
榎並 充造(えなみ みつぞう、1879年11月18日 - 1… 榎並 充造(えなみ みつぞう、1879年11月18日 - 1951年2月7日)は、兵庫県神戸市南京町出身の日本の実業家。バンドー化学の創業者。次男・正一もバンドー化学の会長を務めた。 兵庫県神戸市で質屋を営む両親の下に生まれる。 当時の神戸には中学校がなかったため、1895年に姫路中学に入学。1年ほど同校で勉強するが、1896年に地元・神戸に神戸中学が開校したため、そちらに転校した。神戸中学時代の同級生に岡崎忠雄がいる。神戸中卒業後は早稲田大学に進学。卒業後は志願兵として軍に入隊し、そこでの功績が認められ、正八位を贈られた。1904年に父の死去にともない実家の質屋を継ぐ。 1906年にバンドー化学の創業に携わり、内外ゴム、バンドー化学各社長、播磨造船取締役などを務めた。
後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉1… 後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉11月14日 - 1924年〈大正13年〉7月31日)は、宮城県栗原郡姫松村(現・栗原市)出身の政治家。 八甲田雪中行軍遭難事件での生存者の一人で、帰郷後に村会議員を務めた。 後藤房之助は小作の五男(三男とも言われる)として生まれた。 1899年(明治32年)12月に陸軍に徴集される。1902年(明治35年)1月、歩兵第5連隊の伍長として八甲田山の雪中行軍に加わる。1月23日に雪中行軍隊が出発したが、遭難した結果数日のうちに大半の兵士が凍死するという惨事となった。 ほとんどの兵士は倒れるか道を誤り、総指揮官の神成文吉歩兵大尉と2人だけの行軍となった。
菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1… 菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1955年9月9日)は、明治後期から昭和中期にかけての日本画家。本名菊池(旧姓細野)完爾。 1879年(明治12年)11月14日、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の細野勝太郎・はつ夫妻の次男として生まれる。少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられる。小学校高等科卒業後は呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑。やがて画家として立つことへの思いが止み難いものとなり、1896年(明治29年)、妹の結婚式のどさくさに紛れて同郷の友人・町田曲江とともに 故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。
嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)1… 嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)11月6日 - 1963年(昭和38年)2月20日)は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将。 父卯七母トメの長男として東与賀村下飯盛生まれる。地元の私塾「興文塾」で学んだのち、軍人を志して陸軍士官学校に進学する(陸士13期)。1902年(明治35年)歩兵少尉として歩兵第24連隊に配属。その後は熊本陸軍幼年学校生徒監(大尉)、仙台陸軍幼年学校長(中佐)、金沢連隊区司令官、歩兵第42連隊長(大佐)と進み、1930年(昭和5年)8月少将に昇進し朝鮮軍第20師団所属の歩兵第39旅団長に就任した。
雨宮 敬作(あまみや けいさく、明治12年(1879年)11… 雨宮 敬作(あまみや けいさく、明治12年(1879年)11月5日 - 昭和39年(1964年)7月21日)は、日本の教育者。山梨英和女学校における初の日本人校長。 山梨県東山梨郡日下部村七日市場(現在の山梨市)に、日下部村会議員を務めた父「景通」、母「じつ」の長男として生まれる。敬作の上に「くま」,「と美」,「まさじ」の三女がいる。 明治32年(1899年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、同年4月に東京専門学校歴英科に入学し、明治36年(1903年)3月に同校を卒業、同年4月から静岡県の榛原郡立榛原中学校(現在の静岡県立榛原高等学校)に2年間勤務した後、明治38年(1905年)4月からカナダ・メソジスト教会のミッションスクールである山梨英和女学校(現在の山梨英和学院)の教諭として勤務。
御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11… 御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11月3日 – 1941年(昭和16年)8月20日)は、津市長、佐世保市長。族籍は佐賀県士族。 佐賀県小城郡多久村(現在の多久市)に御厨利貞の長男として生まれる。1902年(明治35年)、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部、台湾総督府警視、台湾総督府専売局煙草課長、南投庁長、高雄州内務部長を歴任した。 1922年(大正11年)、津市長に選出され、1925年(大正14年)まで在任した。翌年には東京市社会局長に就任し、1928年(昭和3年)まで在任した。1930年(昭和5年)に佐世保市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。
馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月… 馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月3日 - 1929年〈昭和4年〉1月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県碧海郡依佐美村大字野田(現刈谷市)で旧福島藩士馬淵栄吉の長男として生まれる。 高等小学校を卒業後、陸軍士官学校(11期)に入り、1900年(明治33年)6月陸軍歩兵少尉に任官される。1903年(明治36年)陸軍大学校に入学、卒業後陸軍参謀本部部員に補せられる。さらに第17師団参謀、歩兵第38連隊大隊長を経て再び参謀本部部員となり、陸軍大学校および海軍大学校教官に補せられ、陸軍の中堅、参謀将校の養成に尽くした。 1920年(大正9年)第一次世界大戦が終了し、平和条約の締結にあたり実施委員を命じられ欧州に出かけ1922年(大正11年)帰国する。
原 栄作(榮作、はら えいさく、1879年(明治12年)11… 原 栄作(榮作、はら えいさく、1879年(明治12年)11月2日 - 1958年(昭和33年)4月4日)は、明治後期から昭和期の医師、政治家。衆議院議員。位階は従五位。勲五等双光旭日章。 静岡県庵原郡町屋原村(由比町を経て現静岡市清水区)で、豪農・原茂左衛門の二男として生まれる。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)を経て、1903年(明治36年)千葉医学専門学校(現千葉大学)を卒業。その後、内務省永楽病院助手となり、臨床学を研鑽した。 1905年(明治38年)に帰郷して由比町北田で医院を開業した。由比町消防組頭に就任し、組員の意識の向上、防災思想の町民への啓発に尽力した。その他、由比町青年団長、庵原郡学校衛生会長、由比町森林組合長、同漁業協同組合長、同農業会長、静岡県森林組合連合会長、同医師会長、同学校衛生会副会長、同水産業会顧問、静岡県保健婦学校長などを務めた。
青盛 恕一(あおもり じょいち、1879年〈明治12年〉11… 青盛 恕一(あおもり じょいち、1879年〈明治12年〉11月2日 - 没年不明)は、日本の商人(木材商)、広島県多額納税者。族籍は広島県平民。 広島県人・青盛友太郞の甥。1908年、分家。海軍用達商・材木商を営む広島県多額納税者である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は呉市西二河通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 19… 田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 1944年8月5日)は、日本の化学者。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。 1904年に東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。1908年から1917年にかけてドイツのフリッツ・ハーバーの許でアンモニア合成の研究に携わった。1917年に帰国し理化学研究所の研究員となり、1929年に東京工業大学の教授に就任した。日本学術振興会の創設にも尽力した。 田中舘愛橘や寺田寅彦とともに、東京帝大運動会の短距離競走で使用された電気計測器の製作にも携わった。1902年の運動会では、100メートル競走優勝者に対して実施された「優勝者競走」というタイムトライアルに初めてこの装置が使用され、出走した藤井實(当時法科大学生)が10秒24という記録を出したとされる(この記録に関する詳細や議論については藤井の記事を参照)。
久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11… 久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11月30日 - 1957年(昭和32年)8月18日)は、日本の政治家、鉄道官僚、弁護士。衆議院議員(2期)。仙台鉄道局長等を歴任。 鹿児島県徳之島亀津(現在の大島郡徳之島町)生まれ、出身。鹿児島高等中学造士館補充科、予科を経て、学校制度の変更により鹿児島県立尋常中学造士館を1897年(明治30年)に卒業。熊本の第五高等学校を1900年(明治33年)に卒業して、東京帝国大学法科大学へ進学。泉二新熊は高等中学予科、高等学校、大学での先輩で、第五高等学校時代には熊本の丹後寺に同宿した。また、法科大学では、泉二に相談して助言を受け、独法科を選んだ。
長島 隆二(ながしま りゅうじ、1878年(明治11年)11… 長島 隆二(ながしま りゅうじ、1878年(明治11年)11月29日 - 1940年(昭和15年)10月8日)は、日本の大蔵官僚、衆議院議員(立憲同志会→革新倶楽部→立憲政友会)。桂太郎の娘婿。
寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月… 寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人 日本派。吉村 冬彦(1920年から使用)、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)の筆名も使用している。俳号寅日子。高知県出身(出生地は東京市)。 東大物理学科卒。熊本の五高時代、物理学者田丸卓郎と、夏目漱石と出会い、終生この2人を師と仰いだ。東大入学後、写生文など小品を発表。以後物理学の研究と並行して吉村冬彦の名で随筆を書いた。随筆集に『冬彦集』(1923年)などがある。 1878年(明治11年)11月28日東京市麹町区(現在の千代田区)に高知県士族(旧足軽)寺田利正・亀夫妻の長男として誕生。
緑川 兼吉(みどりかわ けんきち、1878年〈明治11年〉1… 緑川 兼吉(みどりかわ けんきち、1878年〈明治11年〉11月26日 - 1906年〈明治39年〉6月1日)は、青森県平川市(旧南津軽郡)出身で高砂部屋、中村部屋(大坂相撲時代)に所属した元大相撲力士。本名は一戸 兼吉。身長173cm、体重89kgと小兵だった。 1894年1月初土俵(序ノ口)。1899年1月新十両。十両では順調に勝ち星を重ね、1900年1月には6勝2敗の成績で優勝相当成績を挙げた。 しかし、翌1900年5月新入幕を果たすも、突然脱走。大坂相撲に加入して相撲を取っていたが、1904年5月にまたも脱走し、源氏山頼五郎一派に加わって各地を巡業した。1906年5月になって漸く帰参を許されたが、脳充血に罹り、6月1日に27歳で急死した。
宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月2… 宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員。
宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月2… 宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員。 三重県一志郡八ツ山村(後に白山町、現在は津市)の村長で酒造を営む素封家宮田宇吉の長男として、同村八対野の屋敷に於いて生まれる。愛知一中、三高、帝国大学法科大学卒業(のちの東京大学法学部)。 貴族院官僚として奉職するも、衆議院議員として三重県より立候補、その後は貴族院勅選議員として活躍した。原敬首相の目にとまり1919年(大正8年)6月28日、福島県知事として赴任。1922年(大正11年)6月12日に加藤友三郎内閣で内閣書記官長として抜擢され、福島県知事を退任し、大腸癌を患う加藤友三郎首相にかわり国政を取り仕切る。
岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23… 岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23日 - 1968年(昭和43年)4月1日)は、日本の外交官。幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官。東京帝国大学卒業。秋田県出身。 岸太右衛門の長男として生まれる。東京帝国大学卒業後、外務省に入省し、内閣調査局調査官、在アントワープ領事を経て1940年(昭和15年)に幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官となる。東京帝国大学時代は内閣総理大臣を歴任した広田弘毅と同期であった。 また私生活では正則英語学校の校長である斎藤秀三郎の長女・ふみと結婚し1男4女を儲ける。 1968年(昭和43年)4月1日、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年… 斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年)11月20日 - 1951年(昭和26年)7月22日) は、日本の法学者。和議法、破産法の権威者で、神戸商業大学、京都帝国大学の各教授、会津短大学長を歴任した。「和議制度の研究」で、法学博士(京都帝国大学)。日本学士院会員。 実務経験を有する研究者であり、判事時代に著した『注釈訴訟記録』は実務家、研究者双方に貴重な著作として扱われた。日本の民事訴訟法は1890年(明治23年)に制定されたが、その学問的研究が発展を遂げるのは大正中期以降であり、斎藤はその先駆者の一人である。『日本破産法』は1922年(大正11年)制定された(新)破産法に関するもので、同法に関する書として加藤正治の『破産法要論』と並ぶ代表的著作である。
乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年… 乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年11月19日 - 1947年2月1日)は、明治から昭和期の文部官僚・教育者。日本に社会教育を体系的に紹介した人物とされている。 富山県出身(出生地は東京)。礪波市出町眞壽寺壽貞の次男。兄は乗杉教存である。 1904年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、同大大学院に進学して実践哲学を研究するが、同年秋より文部省に招かれて普通学務局に配される。 1909年に第五高等学校教授に就任する。 1913年に文部省に復帰して督学官に就任、1917年には教育と教授法研究のためにアメリカ・イギリスに1年半留学、更にフランス・イタリアの教育事情を視察して帰国した。
荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11… 荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11月18日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、日本の電気工学者。位階は正三位。九州帝国大学総長。工学博士。 神奈川県横浜生まれ。荒川省吾の長男。1886年、日本組合番町教会で小崎弘道から受洗。高等学校時代に信仰告白をなし、日曜学校教師、オルガニストとして活躍。後に福岡組合基督教会(現、日本基督教団福岡警固教会)に移り、福岡女学院理事長、日本基督教団常議員をつとめた。 九州帝国大学教授、同大総長の他、九州タイムズ社長も歴任する等、西日本での電気工学界の中心人物として活躍する。1946年3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年5月2日まで在任した。
川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月1… 川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月16日 - 1953年(昭和28年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、川原甚左衛門の三男として生れる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1904年(明治37年)6月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に出征した。 1906年5月、第6師団副官に就任。歩兵第45連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官を経て、1917年(大正6年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第10連隊付となる。
工藤治人(くどう はると、1878年11月16日 - 196… 工藤治人(くどう はると、1878年11月16日 - 1963年10月13日)は、日本の実業家。日産自動車社長。 日本独自のたたら製鉄の近代化に大きな足跡を残した。具体的には、砂鉄と木炭を回転式電気炉に入れて海綿鉄を製造する方法を開発し、旧日本軍の軍需用特殊鋼原料や日本で初めての本格的な高速度工具鋼製造普及に応用した。日本のものづくりの精神として「誠實生美鋼」という言葉を残し、日立金属安来工場には自筆の書が残されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治1… 実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治11年)11月15日 - 1947年(昭和22年)5月23日)は、日本の政治家、実業家、農業経営者。衆議院議員、福岡県嘉穂郡宮野村長。 福岡県嘉麻郡宮吉村(現嘉麻市宮吉)で、宮野銀行頭取・実岡半三郎の長男として生まれる。小学校卒業後、検定で資格を取得し代用教員、准教員、小学校訓導を15年間務めた。 その後、宮野村長、宮野村会議員、嘉穂郡会議員、同郡農会長、福岡県会議員、同県農会評議員、同県山林会評議員、地方森林会議員、消防組頭、福岡県消防評議員、宮野信用組合長、宮野銀行取締役頭取、大隈酒造 (株) 取締役などを務めた。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に福岡県第二区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11… 逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11月13日 - 1949年〈昭和24年〉2月11日)は、日本の医師、歌人、政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)。他の筆名に逢坂 蘭翠がある。 1878年11月13日、徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる。1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ。 1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる。
三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月1… 三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月12日 – 1949年(昭和24年)2月12日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県厚狭郡、のちの厚南村(現宇部市)で、豪農・三隅城介の長男として生まれる。山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。 1902年(明治35年)厚狭郡青年会を組織し、農会の活動にも参画した。1912年(明治45年)長門銀行の第3代頭取に就任し、1918年(大正7年)まで在任。その他、宇部軽便鉄道取締役、船木軽便鉄道取締役、美弥軽便鉄道監査役、山口県農会副会長、厚狭郡農会長、防長米同業組合副組長などを務めた。 政界では、山口県会議員、同参事会員を務めた。
大竹 謙治(おおたけ けんじ、1878年〈明治11年〉11月… 大竹 謙治(おおたけ けんじ、1878年〈明治11年〉11月12日 - 1956年〈昭和31年〉12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県頸城郡(のちの中頸城郡)大瀁村(現・上越市頸城区)出身。東京高等商業学校で学ぶ。中頸城郡議、同参事会員、頸城鉄道、頸城倉庫各(株)社長、(財)高田病院理事長となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において新潟4区から立候補したが次点で落選した。1956年に死去した。
石橋 長右衛門(いしばし ちょうえもん、1878年〈明治11… 石橋 長右衛門(いしばし ちょうえもん、1878年〈明治11年〉11月10日 - 1937年〈昭和12年〉10月31日)は、日本の政治家、実業家、島根県の大地主。雲陽実業銀行取締役。松江銀行監査役。族籍は島根県平民。 出雲国簸川郡古志村に生まれる。石橋助市の長男。幼い頃に父母が亡くなり、祖父母の鞠育を受け成長する。1881年、家督を相続する。1899年、青年実業会を起し、その会長となる。 1901年、村民の輿望を受け、村長に選任され、村政を統治する。古志貸金合名会社を創起し、その社長となる。古志銀行、雲陽実業銀行各取締役、松江銀行監査役などをつとめる。 住所は島根県簸川郡古志村(現・出雲市)。 石橋家は旧幕時代に累代組頭及び下郡役を勤め、苗字帯刀を許された閥閲で、郷党に推重された。
礒川 重作(磯川 重作とも、いそかわ しげさく、1878年〈… 礒川 重作(磯川 重作とも、いそかわ しげさく、1878年〈明治11年〉11月7日 - 1956年〈昭和31年〉12月26日)は、日本の教育家である。 東京府の生まれ。東京高等師範学校(現在の筑波大学)卒業後、東京府南多摩郡町田村(現在の東京都町田市)日新小学校の教師を務める。 その後同学校の校長を経て1902年(明治35年)から31年間、稲城第一小学校の校長を務め、地域教育の近代化に貢献した。校長就任中は徳富蘇峰の秘書であった並木仙太郎らと共に、蘇峰の葬儀に出席した。1956年(明治31年)に78歳で亡くなった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年… 川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。川喜田久太夫16代目。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。実業家としては、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行各頭取等を務めた。 大阪市東区本町で生まれ、津市の川喜田家の本宅で育つ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となり、久太夫(政令)を襲名。
大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)1… 大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)11月3日 - 1948年(昭和23年)4月28日)は、浄土真宗の僧で、真宗大谷派連枝。東洋学者。第13代大谷大学学長。院号は能浄院。別号は「禿庵」。 1878年、東本願寺第22世法主・大谷光瑩(現如)の次男として生まれた。幼名は英麿(ふさまろ)。父の意向で11歳から17歳まで親元を離れて上京し、福沢諭吉家で薫陶を受けた。1897年(明治30年)、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。 翌1898年(明治31年)、21歳で布教のため大谷勝信とともに日清戦争直後の中国上海や台湾に赴いて、台湾南支布教総督に就任。布教活動の第一線に立った。 3年間布教活動に従事した後、新知識を求めてイギリス・オックスフォード大学マンチェスターカレッジに入学し、3年間を過ごした。
佐藤 亀太郎(さとう かめたろう、1878年〈明治11年〉1… 佐藤 亀太郎(さとう かめたろう、1878年〈明治11年〉11月1日 - 1955年〈昭和30年〉6月25日)は、日本の政治家。帯広市長(3期)。 1878年(明治11年)、秋田市に生まれる。1905年(明治38年)に法政大学法律科を卒業する。東京府庁を経て、北海道庁に勤務する。桧山支庁長、後志支庁長を歴任後、1922年(大正11年)に退官する。 退官後、北海道製糖(現・日本甜菜製糖)に入り、常務取締役に就任する。1930年(昭和5年)から帯広町会議員、帯広市会議員を合わせて4期務める(このうち3期は議長)。 1947年(昭和22年)、帯広市長選に当選し、初の民選市長に就任する。3期連続当選するも、任期途中の1955年(昭和30年)に死去。
羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 192… 羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 1929年8月31日)は、日本の性科学者。 山形県山形市出身。文学に憧れながら医師を志し、済生学舎卒業、1900年(明治33年)医術開業試験に合格、故郷で開業するがのち上京し文筆活動をしながら医学研究を行い、1912年(明治45年)から一年半ドイツに留学して医学博士の学位を得、生理学を学び、1914年(大正3年)、神田小川町に泌尿生殖器科医院を開業。1920年(大正9年)に『性慾と人生』を創刊(-1921年)、多くの通俗性科学書を著した。その後本郷にいづま医院内で活動。文芸、芸術にも造詣が深く、当時の西欧における性科学の発達に応じて、性欲を中心とし、恋愛、売春、避妊、自慰など、当時変態性欲とされていたものなどを啓蒙的に縦横に論じた。
千明 賢治(ちぎら けんじ、1878年11月 - 1943年… 千明 賢治(ちぎら けんじ、1878年11月 - 1943年6月21日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル、華厳滝エレベーター株式会社で社長を務めた。上毛電力株式会社、上毛森林土地株式会社各取締役。千明牧場の創設者。 1878年11月、群馬県出身。片品村村長を務めた千明森蔵の長男。1900年に中央大学法律学科を卒業したのち1903年に渡米し、畜産と電力事業を視察した。1905年、片品村東小川の山林6009町歩および平川の山林6659町歩を払い下げ、1907年に畜産振興を目的とし白根に牧場を開設、岩手県より農耕馬30頭と牛20頭を購入し片品村の牛馬改良に努めた。1911年より電力事業に着手し、片品村一帯の発電用水利権を得ると、1925年に大川平三郎と上毛電力株式会社を設立し、6か所の発電所を建設。
鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月3… 鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月30日 - 1962年〈昭和37年〉3月8日)は、農商務官僚、衆議院議員、小田原市長。 神奈川県足柄下郡小田原町(現在の小田原市)出身。鈴木善左衛門の長男。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、同書記官・参事官、水産局漁政課長、大臣官房課長、特許局長を歴任した。 官を辞し、漁業を営み傍ら会社の重役である。日本漁網船具社長、小田原魚市場社長などを務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲政友会に所属。合計で4回の当選を重ねた。1944年(昭和19年)には小田原市長に選出された。
佐藤 勧(さとう すすむ、1877年(明治10年)11月29… 佐藤 勧(さとう すすむ、1877年(明治10年)11月29日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、台湾総督府官僚。 東京府出身。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、奈良県事務官、和歌山県警察部長、千葉県警察部長、福岡県警察部長、佐賀県内務部長、千葉県内務部長、熊本県内務部長を歴任。その後、台湾総督府事務官に転じ、新竹州知事に就任した。 1950年の時点で故人であったとされる。
来馬 琢道(くるま たくどう、1877年11月28日 - 1… 来馬 琢道(くるま たくどう、1877年11月28日 - 1964年7月10日)は、日本の僧侶、政治家。参議院議員(1期)。仏前結婚式の創始者ともされる。 東京出身。来馬立道、西有穆山に師事。1900年、浅草の曹洞宗万隆寺に晋山し、翌年曹洞宗大学を卒業。仏教青年伝道会に携わり、自坊で「仏前結婚式」の導師を務めるなど多彩な活動を行なう。1911年にはシャムの皇帝戴冠式に出席。曹洞宗宗議会議長、教学部長、庶務部長、顧問など宗内の重要ポストに就き、『曹洞宗全書』の編纂に尽力。1932年には大陸に渡り満洲、内蒙古の宗教事情を調査した。日朝親善協会会長なども務めた。晩年には大本山永平寺の西堂となった。1945年、紺綬褒章受章。
前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11… 前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11月18日 - 1937年(昭和12年)7月13日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員。 兵庫県二方郡居組村(現:美方郡新温泉町居組)で前田利助の二男として生まれる。1903年、明治法律学校を卒業。 1905年12月、函館に移り、尼崎汽船会社を経て、函館商船 (株) を設立して社長となるが、1917年に倒産。その後、函館時事新聞社社長となる。 政界では、北海道会議員、同参事会員、函館市会議員、同参事会員を歴任。1918年7月、第13回衆議院議員総選挙補欠選挙で北海道庁函館外三支庁管内から出馬して初当選し、さらに1930年2月の第17回総選挙で北海道第3区から出馬して当選し、衆議院議員を二期務めた。
菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 … 菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 - 1956年12月18日)は、日本の政治家。第7-9代岡崎市長(3期)、愛知県会議員、岡崎市会議員を歴任した。 名は經三郎とも表記される。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)で岡崎藩士の子として生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)卒業後の1893年(明治26年)、東京市本郷の伊勢屋呉服店へ入店。1898年(明治31年)12月、連尺町で姫路屋呉服店を開業した。その後長く岡崎商業界の重鎮をなした。 42歳の時に政界へ進出。1920年(大正9年)9月3日、岡崎市会議員に就任する。1923年(大正12年)、国道1号の整備をめぐって市会内で、今ある路線を改修するという派と、新たに南側に路線を作るという派との対立が生まれる。
武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月… 武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、教育者。最終階級は陸軍少将、兵庫県立赤穂中学校(現:兵庫県立赤穂高等学校)の初代校長。 福島県安積郡福良村出身。父は旧会津藩藩士で県会議員の武川定八。安積中学から陸軍士官学校に進み、1897年(明治30年)卒業(9期)。1898年(明治31年)歩兵少尉に任官。陸軍大学校在学中に歩兵第27連隊の中隊長として日露戦争に出征。旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。 戦後陸大(18期)を卒業し、教育総監部課員、歩兵第57連隊大隊長、第13師団、東京衛戍総督部の各参謀を経て歩兵第3連隊の連隊長に就任する。
横山 勝太郎(よこやま かつたろう、1877年〈明治10年〉… 横山 勝太郎(よこやま かつたろう、1877年〈明治10年〉11月15日 - 1931年〈昭和6年〉5月12日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(東京府第一区選出、当選5回)。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡東城村(のち東城町、現在の庄原市)出身。横山市松の長男。1900年に日本法律学校(のち日本大学法律科)を卒業。 1902年に判検事登用試験・弁護士試験に合格、司法官試補に任じ山口地方裁判所及び同区裁判所詰を命ぜられた。翌年に官を辞し、広島に弁護士事務所を開設したが東京に転じ、訴訟事務に従事する。1926年には東京弁護士会会長に就任している。 1914年、東京市会議員に当選。さらに1917年の第13回衆議院議員総選挙に当選し、国政に進出した。
宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)1… 宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)11月14日 - 1938年(昭和13年)4月3日)は、日本の小児科医、歌人である。 愛知県額田郡本宿村に医家の子として生まれる。後に上京し東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、1912年(明治45年)には文京本郷にて小児科病院を開設して、乳幼児の診療にあたった。後に竹柏会に参加し、佐佐木信綱や窪田空穂、若山牧水に師事し和歌を学び、鋭い現実との結んだ作風を取り入れた。没後は多磨霊園に葬られた。門人に杉田つるらがいる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
松井清足(まつい きよたり、1877年11月13日 - 19… 松井清足(まつい きよたり、1877年11月13日 - 1948年2月29日)は、日本の建築家である。大林組取締役。日本建築学会名誉員。 明治10年(1877年)11月13日、名古屋市中区中の町で誕生。明治36年(1903年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業する。同年、職を辞した辰野金吾のもと、辰野葛西建築事務所の事務員として勤務。東京駅の設計などに関与。海軍省技師を経て、大正13年(1924年)に大林組に入社。翌12月に取締役に就任。昭和10年(1935年)辞任。昭和17年(1942年)に日本建築学会名誉員となる。昭和23年(1948年)2月29日逝去。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
梅田 寛一(うめだ かんいち、1877年〈明治10年〉11月… 梅田 寛一(うめだ かんいち、1877年〈明治10年〉11月10日 - 1955年〈昭和30年〉11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県深津郡中津原村(深安郡中津原村、御幸村字中津原を経て現福山市御幸町中津原)出身。1905年(明治38年)日本大学法律科卒。鞆町議、沼隈郡議、広島県議、同参事会員、広島県水産組合副組合長、讃岐電気軌道(株)取締役となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において広島13区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1955年死去。
今村 惟善(いまむら いぜん、1877年(明治10年)11月… 今村 惟善(いまむら いぜん、1877年(明治10年)11月9日 - 1925年(大正14年)4月25日)は、日本の内務官僚。 山形県米沢市福田町にて今村知義の三男として生まれる。今村家は米沢藩の御扶持方(中士階級)の家柄である。同姓の今村信次郎は縁戚にあたる。1903年(明治36年)、日本大学本科卒業。1904年(明治37年)、大蔵属となり、1907年(明治40年)に高等文官試験に合格した。1908年(明治41年)、北海道庁警視となり、札幌警察署長、大分県事務官、同警察部長、山梨県警察部長、長崎県警察部長、栃木県内務部長を歴任した。 1921年(大正10年)に退官した後は、京都市助役を務めた。