木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12… 木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12月8日 - 没年不明は、日本の技術者(化学者)。 福井県敦賀郡(現:敦賀市)出身。東京高等工業学校応用化学科(現:東京科学大学)を卒業し、東京電気株式会社(現:東芝)に入社。東芝マツダ研究所の主任研究員を務め、東芝の電球ブランド「マツダ」の化学的基礎研究を行った。 1936年(昭和11年)に照明学会発達調査委員会の委員となる。。 父は敦賀二十五銀行主任の木谷滋治郎。従兄弟は旅順工科大学教授の木谷要一。東京電気入社直後は親族で外務省の成田五郎宅に居住していた。
大野 修司(おおの しゅうじ、1902年(明治35年)12月… 大野 修司(おおの しゅうじ、1902年(明治35年)12月8日 - 1970年(昭和45年)2月3日)は、日本の実業家。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)で25年にわたり役員を務め、代表取締役副社長在任中に死去した。 1902年、栃木県に出生。 1925年、明治大学法学部卒業。豊川順弥(豊川良平(三菱財閥)の長男)が設立した白楊社に入社後、東京ブレス工業顳問、支配人などを歴任。 1937年、豊田喜一郎に招聘され、豊田自動織機製作所に入社。豊田が推進した「ジャスト・イン・タイム」構想を支え、協豊会設立や部品メーカー育成に貢献。 1939年、原材料の量・価格が統制されていた当時の自動車業界において、協力工場の代表者と意見交換を行う場として、第1回が開かれた「トヨタ自動車下請懇談会」(国産自動車下請工業確立助成座談会、現在の「協豊会」)は、大野の貢献により継続的に実施されることになり、会社と協力工場の緊密な関係の源泉となった。
嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高… 嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一(たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。
中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12… 中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12月7日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 福岡県糟屋郡に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科丙類を経て、1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科に合格し、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業する。陸軍に入り陸軍工兵少尉に進む。同年7月、台湾総督府専売局書記を拝命し、1932年(昭和7年)3月、新竹州中壢郡守に就任した。1933年(昭和8年)10月、台中州内務部教育課長に転じ、内務部地方課長兼水利課長、交通局副参事兼府事務官道路港湾課兼財務局主計課勤務を歴任した。
高ノ花 武也(たかのはな たけや、1902年12月7日 - … 高ノ花 武也(たかのはな たけや、1902年12月7日 - 1960年5月25日)は、現在の新潟県上越市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は倉田 武也(旧姓藤田)。183cm、120kg。最高位は西前頭8枚目(ただし、春秋園事件に加担した為に番付が削除され、番付上の最高位は東前頭14枚目) 1921年5月場所に「高田川」の四股名で初土俵を踏む。着実に番付を上げていき、1929年1月場所で十両昇進。1931年5月新入幕、恵まれた体格で常陸山に後継者として期待されるが、その後春秋園事件に加担したことで大成できず、1933年1月に幕内格別席で復帰した場所を全休し、そのまま廃業した。廃業後は新宿で相撲料理店「つたや」を経営した。
松本 正雄(まつもと まさお、1902年12月6日 - 19… 松本 正雄(まつもと まさお、1902年12月6日 - 1996年1月4日)は、日本の弁護士、最高裁判所判事。第二東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、最高裁判所判事、国家公安委員等を務め、1972年勲一等旭日大綬章受章。 愛媛県出身。1919年神奈川県立第一横浜中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業。1926年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、古河電気工業に入社するも、「自由を志し」同社を退社し、1929年東京府立第一商業学校(現東京都立第一商業高等学校)講師に着任。1930年に弁護士登録。弁護士としては、保全経済会事件で破産管財人を務めるなど、主に民商事事件を手がけた。法曹一元制論者としても知られる。
関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 19… 関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 1984年10月15日)は、栃木県出身の童話作家、放送作家。 栃木県足利郡御厨町(現在の足利市)出身。青山学院大学卒。1925年、東京中央放送局(現・NHK放送センター)に入局し、児童向けの夕方のワイド番組「子供(少国民)の時間」のニュース解説のコーナー「コドモの新聞」を担当し「関屋おじさん」として知られ、「村岡おばさん」こと村岡花子(作家)とともに、番組をリードしていった。 戦後もバラエティー番組「二十の扉」、「話の泉」などを手掛け、自らも出演した。その後は民間放送に活躍の場を移し、プロテスタントの布教活動の番組「ルーテルアワー」を企画し、派生番組であった「ルーテルアワー・夜の名曲」などを含め、脚本・演出を務めた。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、実業家。官選福井県知事、兵庫県教育委員長。 広島県出身。斎藤元四郎の長男として生まれた。松山高等学校を卒業。1926年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、和歌山県社寺兵事課長、同秘書課長、同学務課長、同商工課長、同水産課長、岐阜県社会課長、同庶務課長、兵庫県都市計画課長、青森県書記官・警察部長、満州国奉天省警務庁長、満州国民政部労務司長、兵庫県第一部長、京都府内政部長などを歴任。 1946年1月25日、福井県知事に就任。
淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月… 淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月3日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月3日、奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)で教師の父・弥蔵と母・シカの三男として生まれる。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、1921年(大正10年)、海軍兵学校に海兵52期として入学する。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。1924年7月24日、海軍兵学校を卒業、少尉候補生。 1925年12月、巡洋艦「矢矧」乗組。1926年12月、海軍砲術学校普通科学生。1927年4月、海軍水雷学校普通科学生。1927年7月、駆逐艦「秋風」乗組。
田中 純一郎(たなか じゅんいちろう、1902年〈明治35年… 田中 純一郎(たなか じゅんいちろう、1902年〈明治35年〉12月3日 - 1989年〈平成元年〉3月26日)は、日本の映画史家、映画評論家、編集者。本名:松倉 寿一(まつくら ひさいち)。代表作は『日本映画発達史』。 1902年(明治35年)12月3日、群馬県新田郡生品村(のち新田郡新田町、現:太田市新田地区)で出生。 大正初年に上京し、東京市神田区(現:東京都千代田区)の旧制中学校に通う。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、学業半ばに同市日本橋区(現:中央区日本橋)の糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂(シネフィル)で、映画雑誌によく投稿していた。
井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12… 井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12月3日 - 平成6年(1994年)4月13日)は、日本の武道家。親英体道(親和体道)の創始者である。合気道の開祖植芝盛平(うえしば もりへい)は叔父にあたる。 本名は井上要一郎といい、鑑昭は別名である。その他の別名として、祥治(よしはる)・聖祥(せいしょう)・方軒(ほうけん)・照祥(てるよし)と名乗っていた時期もある(この項では、一般的な鑑昭の表記で統一する)。 和歌山県西牟婁郡(現在の田辺市)に生まれる。生家は貿易商を手広く営む裕福な家庭で、生活には何不自由なく育ったが、井上自身はすぐに風邪をひいて寝込んでしまう体の弱い少年であった。
江花 静(えばな しずか、1902年(明治35年)12月2日… 江花 静(えばな しずか、1902年(明治35年)12月2日 - 1966年(昭和41年)7月25日)は、日本の内務及び台湾総督府官僚、衆議院議員(1期、民主自由党→自由党)。福島県若松市長(官選第17代)。 福島県河沼郡広瀬村(現会津坂下町)出身。1922年(大正11年)、高等学校高等科入学資格試験に合格。旧制第一早稲田高等学院に学んだ後、1928年(昭和3年)に高等試験予備試験に合格。1930年(昭和5年)に高等試験行政科に合格し、台湾総督府属となった。1935年(昭和10年)より地方警視となり、台南州高等警察課長、台北州高等警察課長、同外事課長を歴任した。1940年(昭和15年)、地方事務官に転じ、大分県商工課長、栃木県庶務課長、同教学課長、同文書課長、秋田県官房長、青森県経済第一部長などを務めた。
伊藤 英三(いとう えいぞう、1902年12月2日 - 19… 伊藤 英三(いとう えいぞう、1902年12月2日 - 1971年10月2日)は、日本の経営者。花王社長を務めた。 岐阜県中津川市出身。1919年に愛知薬学校(現名古屋市立大学薬学部)を卒業し、長瀬商会での勤務を経て、大日本油脂常務、日本有機社長を歴任した。1948年に花王石鹸社長に就任した。1954年に花王油脂との合併により、花王石鹸副社長に就任し、1968年5月に再び社長に就任した 1971年10月2日、心臓衰弱のために死去。68歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 -… 大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 - 1975年1月31日)は、日本の経済学・経済史学者。 1902年、愛知県渥美郡花田村で生まれた。京都帝国大学経済学部で学び、1928年に卒業した。同大学大学院に進学。 1932年、京都帝国大学経済学部の助手に採用された。1933年から1940年まで、大蔵省の委託で『明治・大正財政史』の編纂にあたった。1941年、立命館大学経済学部教授に就いた。1950年、学位論文『近世交通経済史論』を立命館大学に提出して経済学博士の学位を取得。戦後の1956年、甲南大学経済学部教授。1973年に甲南大を定年退職し、名誉教授となった。1975年に死去。
三石 巌(みついし いわお、1901年12月29日 - 19… 三石 巌(みついし いわお、1901年12月29日 - 1997年1月17日)は、日本の物理学者[要出典]、児童文学者。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)出身。 1919年、東京帝国大学理学部物理学科入学。1927年、同工学部大学院卒。 物理学者として、日本大学・慶応義塾大学・武蔵大学・津田塾大学・清泉女子大学の教授を歴任した。 1974年、東京タイムズに「ビタミン大量投与の是非をめぐって」を寄稿して以来[要出典]、分子生物学や栄養学での研究も行った。その後、独自に編み出した分子栄養学を提唱し[要出典]、健康自主管理運動の拠点として1981年にメガビタミン協会(現三石理論研究所)、1982年に株式会社メグビーを設立した。
高瀬 露(たかせ つゆ、1901年〈明治34年〉12月29日… 高瀬 露(たかせ つゆ、1901年〈明治34年〉12月29日 - 1970年〈昭和45年〉2月23日)は宮澤賢治の「第二の恋人」とされる女性。松竹『宮澤賢治 その愛』では牧瀬里穂が、東映『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』では斉藤由貴が演じた。 士族の高瀬大五郎(測量士)の娘として岩手県稗貫郡花巻町(現・花巻市)に生まれる。1918年、岩手県立花巻高等女学校(現・岩手県立花巻南高等学校)を卒業。准教員の資格を取り、次いで1923年9月には正教員となる。この間、1921年に花巻バプテスト教会で受洗。 1927年初頭、岩手県稗貫郡湯口村(現・花巻市)の宝閑小学校(現在は廃校)の訓導だった頃、農会主催の講習会や、藤原嘉藤治の音楽サロンを通じて宮澤賢治と知り合う。
田中 不破三(たなか ふわぞう、1901年(明治34年)12… 田中 不破三(たなか ふわぞう、1901年(明治34年)12月28日 - 1994年(平成6年)3月8日)は、日本の鉄道官僚・政治家。衆議院議員、内閣官房副長官。 宮崎県南那珂郡飫肥町(現日南市)で生まれた。田中猛の養子となる。第一高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。鉄道省に入省し広島駅助役となる。 以後、鉄道省事務官、広島鉄道局経理部長、鉄道省監督局総務課長、同総務局主計課長、大臣官房文書課長、情報局情報官、技術院参技官、鉄道監、門司鉄道局長、鉄道総局総務局長などを歴任。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で宮崎県第2区に民主党から立候補し当選。
福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 19… 福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 1970年)は、鹿児島県出身の日本画家。浦和画家のひとり。 日本画は川合玉堂に学び、自らの雅号を一穂と号した。26年間埼玉県立浦和高等学校(浦和中学時代から)に勤務し、以後浦和高校教頭、春日部女子高校校長、久喜高校校長も務め、教育功労者として表彰された。 のちに浦和画家と呼ばれることとなる多くの画家を指導したことで知られており、日展理事長や日本芸術院会員である高田誠、人間国宝の増田三男をはじめ、渡辺武夫、金子徳衛、川村親光、小松崎邦雄、尾上一男、金子仁三郎、小川游、三尾彰藍などを指導した。松岡映丘にも師事し大和画の研究を行い、新興大和画展に発表した。
小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 … 小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 - 1963年5月7日)は、美術史家・芸術学者。 京都西陣生まれで生家も西陣織の織り元である。母テウは京都御所の東で塾を開いていた宮津藩士宮城盛信の次女。京都帝国大学哲学科卒。 ソルボンヌ大学に三年間留学し、帰国後、東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を経て、1950年、神戸大学教授となり芸術学の講座を担当した。1947年、『大和絵史論』で毎日出版文化賞受賞(また、同論文によって東大より博士号を授与されている)。没後、淡交社から『小林太市郎著作集』が刊行された。膨大な蔵書が神戸大学に寄贈され、神戸大学人文科学図書館に「小林文庫」として保管されている。
島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25… 島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25日 – 1945年〈昭和20年〉6月26日)は、日本の内務官僚、沖縄県知事(官選第23代)。 第二次世界大戦末期、沖縄戦時の知事であり、「島守」として知られる。座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。 1901年(明治34年)、兵庫県武庫郡須磨村(現在の神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。須磨尋常高等小学校(現 神戸市立西須磨小学校)尋常科から兵庫県立第二神戸中学校(旧制神戸二中、現 兵庫県立兵庫高等学校)へ進学。須磨小、神戸二中では重成格(内務官僚、鹿児島県知事、参議院議員)と同期。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部へ入学。
横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月… 横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月25日 - 1981年(昭和56年)12月20日)は、日本の詩人、国文学者。 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)生まれ。1927年(昭和2年)に早稲田大学文学部国文科卒業。 1921年(大正10年)、西條八十の門下に入る。『黄金の灯台』『蒼空に泳ぐ』『海南風』等の詩集により、海洋詩人と呼ばれた。 1924年(大正13年)1月、門下生と共に詩誌『棕櫚の葉』を創刊。『棕櫚の葉』は1925年(大正14年)12月に廃刊となるが、渡仏していた八十の帰国と共に1926年(大正15年)5月、全国詩誌『愛誦』が創刊されるとこれに参加、1934年(昭和9年)の廃刊まで編集主宰を務めた。
大山 朝常(おおやま ちょうじょう、1901年(明治34年)… 大山 朝常(おおやま ちょうじょう、1901年(明治34年)12月25日 - 1999年(平成11年)11月24日)は、琉球政府および沖縄県の政治家。1954年に立法院議員に当選。1958年から1974年まで4期16年間にわたりコザ市長を務めた。沖縄社会大衆党の結党メンバーの1人で、沖縄の本土復帰運動のリーダーであった。位階は正六位。沖縄戦の後の沖縄の政治、行政に大きな影響を与え、現在の沖縄市の基礎を築いたと評される。晩年、『沖縄独立宣言』 を出版し、「ヤマトは帰るべき祖国ではなかった」として琉球独立を主張した。 琉球列島米国民政府(略称:USCAR)については、「アメリカ民政府」と記述する。また肩書、施設名、その他名称について、当時のもので表記する。
中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月… 中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月24日 - 1937年〈昭和12年〉9月16日)は、日本の大正から昭和にかけての日本画家。拝石、光林などと号していた。フォークシンガーの高田渡の叔父。 佐賀県鹿島市に生まれた中尾は、東京美術学校日本画科に進学し、日本画家としてデビューした。 根津の下宿に住んでいたとき、隣の部屋に住む高田豊(高田渡の父)と出会ったことをきっかけに、豊の妹と結婚する。 帰郷すると鹿島高等女学校で教師をしながら作品をつくっていたが、病のため35歳で永眠した。 2012年には佐賀県立博物館で、作品やスケッチブック、貴重な資料などが展示された。2016年には佐賀大学美術館で開催された、「佐賀の美術教師たち」ー地方画壇の成立と美術教育者 展で展示される。
野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月2… 野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月23日 - 1976年(昭和51年)10月15日)は、日本の商学者・学校経営者・政治家だった人物。 学校法人野又学園初代理事長。数多くの学校長を務めた。北海道旭川市出身。子に野又肇がいる。
平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1… 平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1976年3月30日)は、日本の作曲家、小学校教員。教科書掲載の童謡『若葉』の作曲者として知られる。 本名は、均。秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。秋田市立中通小学校に入学したが、父が中学校教員となり、旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)に赴任したため均之自身も埼玉県熊谷町(現・熊谷市)に引っ越す。熊谷市立石原小学校を経て、旧制埼玉県立熊谷中学校に入学。 大正7年、父が亡くなった為熊谷中学校を5年で中退(4年終了)。 大正11年、群馬県新田郡強戸小学校代用教員となる。同年、小学校音楽専科正教員となり大正14年、足利尋常小学校相生校訓導となる。
燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月2… 燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月22日 - 1974年(昭和49年)11月9日)は、日本の詩人。本名は岸野 知雄。 東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)在学中から日夏耿之介に師事し、1922年同大学予科を卒業した。 1925年に同大学本科2年を修了後、三省堂に入社し、同社資料室長、営業部長などを務めた。 蒐集したウィリアム・バトラー・イェイツ初版本を含むアイルランド文学関連のコレクションは一橋大学附属図書館に岸野文庫として収蔵された。
西枝 一江(にしえだ いちえ、1901年〈明治34年〉12月… 西枝 一江(にしえだ いちえ、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1973年〈昭和48年〉3月15日)は、日本の弁理士、実業家。宮木電機製作所第2代社長、元京セラ取締役。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の浄土真宗大谷派・願信寺の西枝正観の四男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1927年(昭和2年)3月に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1927年(昭和2年)に京都府京都市下京区福稲岸ノ上町(現 京都市東山区)の碍子製造会社・松風工業に入社したが、社長と何度も衝突し、昭和恐慌の影響で人員整理の対象となり、1930年(昭和5年)に退社。
保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日… 保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1979年〈昭和54年〉3月4日)は、日本の政治家、元ジャーナリスト。位階は従二位。 衆議院議員(12期)、内閣官房長官(第8代・第33・34代)、衆議院議長(第59代)、労働大臣(第45・46代)、農林大臣(第19代)、自由民主党幹事長(第12代)、自由民主党総務会長(第7代)などを歴任した。 佐賀県東松浦郡鬼塚村(現・唐津市)の零細農家に生まれる。生家は貧しく、父親は車夫、母親や兄弟姉妹は野良仕事や養蚕、行商などで生計を立てていた。保利は家の仕事を手伝いながら小学校に通った。高等小学校を優等の成績で卒業したが、経済的な理由で中学への進学はかなわず、地元の唐津鉄工所の見習工になった。
木島 虎蔵(虎藏、きしま とらぞう、1901年〈明治34年〉… 木島 虎蔵(虎藏、きしま とらぞう、1901年〈明治34年〉12月18日 - 1983年〈昭和58年〉7月29日)は、昭和期の鉄道技術者・官僚、実業家、政治家。参議院議員、日本通運会長。旧姓は上山。 鳥取県気高郡湖山村(現鳥取市)で農業・上山昇の二男として生まれ、八頭郡若桜町、木島可恵の養嗣子となる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。同年、鉄道省に入省し鉄道局技手に任官。 その後、金沢運輸事務所長、鉄道総局業務局保安課長、運転局運行課長、札幌鉄道局長、総裁室勤務、運輸総局輸送局長、日本国有鉄道理事などを歴任した。
牛場 友彦(うしば ともひこ、1901年(明治34年)12月… 牛場 友彦(うしば ともひこ、1901年(明治34年)12月16日 - 1993年(平成5年)1月12日)は、日本の官僚、実業家。近衛文麿の側近として内閣総理大臣秘書官を務め、朝飯会を発足させた。戦後、日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問を務める。 京都府出身。旧制神戸二中、旧制一高を経て、1925年東京帝国大学法学部卒業、1929年オックスフォード大学卒業。 1936年にカリフォルニア州のヨセミテで開催された太平洋問題調査会に、西園寺公一の通訳として参加。近衛文麿の側近時代、尾崎秀実を近衛文麿に紹介し、彼が内閣嘱託となるきっかけをつくった。また、岸道三とともに近衛内閣の「朝食会(朝飯会)」を組織した。
栗本 順三(くりもと じゅんぞう、1901年 <明治34年>… 栗本 順三(くりもと じゅんぞう、1901年 <明治34年> 12月16日 - 1979年 <昭和54年> 4月28日)は、昭和時代の経営者。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 1901年(明治34年)12月16日生まれ。 生家は江戸時代末期に華岡青洲を生んだ華岡家。 栗本鐵工所創業者の栗本勇之助に見込まれ養子となる。 1927年(昭和2年)、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、栗本鐵工所に入社。常務、専務を経て社長、会長をつとめる。 この間、大阪商工会議所副会頭、大阪市助役、阪神高速道路公団理事長、大阪府教育委員長、関西経済連合会副会長、帝塚山学院理事長などの要職を歴任した。 1979年(昭和54年)、77歳で死去。
横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1… 横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1989年8月22日)は昭和時代日本の歌人、作詞家。元青森県副知事、青森県立図書館館長。 1901年(明治34年)、青森市で日本鉄道(のち鉄道院→鉄道省を経て国鉄)職員の家庭に生まれる。1915年(大正6年)に有志で短歌誌『樹焔』を創刊し若山牧水、太田水穂らの寄稿・指導を受けた。旧制青森中学校を経て1924年(大正13年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。青森へ帰郷後、県内の旧制中学校各校で教員を務める傍ら1928年(昭和3年)に短歌誌『羅漢柏』(アスナロ)を創刊、自ら主宰する。 1946年(昭和21年)に旧制青森中学校校長を退職後、県教育次長を経て津島文治知事に請われ、副知事に就任する。
大澤 喜代一(おおさわ きよいち、1901年12月15日 -… 大澤 喜代一(おおさわ きよいち、1901年12月15日 - 1985年3月11日) は、青森県出身の労働運動家。日本社会党衆議院議員(1期)。筆名は大沢 久明(おおさわ きゅうめい)。 青森県青森市の出身。1919年(大正8年)青森県立青森商業学校(後の青森県立青森商業高等学校)を卒業後に上京し、市谷監獄に勤務するが、同人誌発行の件で解雇される。社会主義運動の活動家となり、帰郷して北部無産社、青森合同労組を結成。労働運動を指導し、逮捕される。1927年に労働農民党青森県連を結成し、1929年(昭和4年)には日本共産党に入党。同年に起きた四・一六事件で検挙され、懲役5年の刑を受けた。各地の刑務所を転々としたが、青森刑務所で隣の房にいたのが脱獄王として知られた白鳥由栄だったという。
平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年… 平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年> 12月15日 - 1978年 <昭和53年> 1月23日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 1930年に京都帝国大学工学部電気学科を卒業し、同年に大同電力に入社。日本発送電を経て、1952年11月に関西電力取締役に就任し、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長を経て、1962年12月に東北電力社長に就任。1969年11月に会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1978年1月23日脳梗塞のために死去。76歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
井伊 玄太郎(いい げんたろう、1901年12月14日 - … 井伊 玄太郎(いい げんたろう、1901年12月14日 - 1998年)は、日本の社会学者。 鳥取県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。早大教授、72年定年退職、名誉教授。社会思想研究会理事、民主社会主義連盟評議員。ジャン・ジャック・ルソー、エミール・デュルケーム、アレクシ・ド・トクヴィルなどを研究・翻訳した。
豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月1… 豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月13日 - 1995年(平成7年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 大分県杵築市出身。旧制大分県立宇佐中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中146番、卒業時255名中84番。海軍大学校は首席卒業。 戦後、復員庁第二復員局に勤める。在職中は極東国際軍事裁判の対策に携わる。 日中戦争当時には台湾からの中攻による渡洋爆撃を考案、自ら搭乗してこれを指揮し、金鵄勲章を拝受している。しかしこの時の賞金1万円はついに支払われず、戦後佐藤首相より金杯を受けたのみで、請求権を放棄させられたという。戦場にあっては勇猛果敢な航空参謀、海軍武官補佐官としては、誠実かつ有能な外交官であった。
舟越 康寿(ふなこし やすじゅ、1901年12月13日 - … 舟越 康寿(ふなこし やすじゅ、1901年12月13日 - 1971年6月27日)は、日本の経済学者、歴史学者。 鳥取県日野郡生まれ。1921年、鳥取師範学校卒。1925年3月に廣島高等師範学校を卒業。このころ、名字を岡と改める。同年、岐阜県立大垣高等女学校教諭、1927年広島県立府中中学校教諭、1929年から1933年3月まで熊本県立御船中学校教諭。同年4月に廣島文理科大学入学。卒業論文「メロヴィング朝に於ける土地制度の発達」をまとめ、1936年3月同大学西洋史学科を卒業し、同大学副手として西洋史学教室勤務ののち、1940年文部省図書監修官補となる。その後、文部省民族研究所嘱託を経て、1945年に立命館専門学校講師、1946年に同校教授。
妻木 松吉(つまき まつきち、1901年〈明治34年〉12月… 妻木 松吉(つまき まつきち、1901年〈明治34年〉12月13日 - 1989年〈平成元年〉1月29日)は、日本の昭和時代の左官。強盗強姦犯。防犯講師。大正末年から1929年(昭和4年)まで帝都東京市で犯行を重ね、立ち去り際に被害者に防犯の注意をしたことから「説教強盗」と呼ばれ、世間を大いに賑わせた。服役後は自らの体験を元に各地で防犯講演を行った。 1901年(明治34年)、山梨県甲府市橘町(現・甲府市丸の内)の甲府監獄(現・甲府刑務所)に生まれる。母の妻木たか(本名妻木ウメ)は山梨県西八代郡市川大門町(現・市川三郷町)の野守(非人)の娘で、製紙会社の工員として働いていたが、同僚の河西徳太郎と知り合って同棲するようになり、妊娠8~9ヶ月の頃に窃盗罪で逮捕され、懲役3月の実刑判決を受け、甲府監獄で松吉を私生児として出産した。
木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1… 木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本の写真家。戦前・戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。 報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。 ことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることで知られ、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で切り取っている。こうした作風により、木村はフランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ=ブレッソンになぞらえられ"和製ブレッソン"と言われた。
開心 栄(かいしん さかえ / えい、1901年12月12日… 開心 栄(かいしん さかえ / えい、1901年12月12日 - 没年不明)は、新潟県燕市出身で宮城野部屋に所属した元大相撲力士。本名は野沢 国栄。最高位は十両8枚目。 宮城野部屋に入門し、1917年5月、初土俵を踏む。1924年5月、「弥彦山」の四股名で十両に昇進したが、1勝5敗と負け越し、幕下に落ちた。「開心」に改名後の1927年10月再十両、この場所も2勝5敗4休と負け越し、再び幕下に落ちた。1930年5月に十両復帰。この場所と翌10月場所も続けて負け越し、幕下に落ちた後の1933年5月に廃業した。
張 連松(チャン・ヨンソン、朝鮮語: 장연송/張連松、190… 張 連松(チャン・ヨンソン、朝鮮語: 장연송/張連松、1901年12月11日または12月12日 - 1956年10月30日または11月6日)は、日本統治時代の朝鮮の発明家、反戦運動家、詩人、大韓民国の独立有功者、政治家。第2代韓国国会議員。 張 蓮松またはチャン・ニョンソン(장련송)という表記も見られる。日本名は張山 連松。 咸鏡北道吉州郡吉祥里出身。日本大学経済学部卒。日本統治時代には自由杖、二重縫針を発明したほか、20年以上をかけて木で永久機関の「無燃料原動力桓動機(恒動機)」を製作し、1939年に特許局から特許を取得した。また、「善と盗」という論文で個人主義を主張しながら、自由と自然主義を尊重することで人種間・民族間の対立を払拭させ、共存共栄・相互扶助しなければならないことを指摘した。
浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1… 浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1981年5月6日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を2014年9月5日に山本昌(中日)に破られるまで、64年間にわたり保持していた。また、身長は150cmから160cmまでいくつかの説があり、日本プロ野球史上最も背の低い選手とされることがある。 実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇したときの選手(投手・内野手)で、その後審判として平和台事件の球審を務め、歴史的判断を下したことでも知られる。 呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。
井染 道夫(いそめ みちお、1901年(明治34年)12月1… 井染 道夫(いそめ みちお、1901年(明治34年)12月10日 - 没年不詳)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)理事。 井染祿朗(陸軍中将)、好美の長男として生まれた。1925年(大正14年)明治大学商学部を卒業した。大倉商事電気課長、居初電解精油取締役、北東漁業取締役などを務めた。 1917年(大正6年)に日本初のサッカー・クラブチームとして発足した、東京蹴球団に選手として参加。 1921年(大正10年)、上海で行われた第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、選手として出場。この時の代表チームは日本サッカー史上初めての選抜チームとされている。
神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 197… 神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 1975年6月1日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。 1925年に東京帝国大学法学部独法学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。安田保善社、帝国ピストンリングでの勤務を経て、1945年に沖電気工業常務に就任し、1947年に専務を経て、1949年に社長に就任。1966年から1972年までに会長を務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1972年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年6月1日心不全のために死去。73歳没。
伊藤 好道(いとう こうどう、1901年12月5日 - 19… 伊藤 好道(いとう こうどう、1901年12月5日 - 1956年12月10日)は、日本の政治家。左派社会党の衆議院議員(3期)。 愛知県西加茂郡根川村(現・豊田市長興寺)に生まれる。1914年(大正3年)、挙母第二尋常小学校(現・豊田市立根川小学校)卒業。1919年(大正8年)、明治中学校卒業(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)。第一高等学校、東京帝国大学法学部に学び、新人会に参加。1925年(大正14年)に大学を卒業し、中外商業新報社(日本経済新聞の前身)に就職。またこの年、同郷の伊藤よし子と結婚。中外商業新報では『中外財界』編集主任・論説委員・経済部次長などを歴任、社会思想社の編集同人にも名を連ねた。
西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4… 西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大佐。 陸軍士官学校34期(秩父宮を除き3番、恩賜)、陸軍大学校42期(首席)。陸軍士官学校同期の服部卓四郎および堀場一雄と並び「34期三羽烏」と称された。主に陸軍省軍務局に属して軍政に従事、太平洋戦争開戦前後には東條英機首相兼陸軍大臣の大臣秘書官を務めた。戦後は太平洋戦争史の調査研究に注力し、防衛庁防衛研修所戦史室の初代室長として『戦史叢書』の編纂を進めた。 1901年(明治34年)に東京で、陸軍歩兵中尉西浦栄蔵の子として生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校から、1915年(大正4年)に大阪陸軍地方幼年学校へ進む。
大久保 傳藏(おおくぼ でんぞう、1901年12月4日 - … 大久保 傳藏(おおくぼ でんぞう、1901年12月4日 - 1986年9月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。山形市長(第13代、3期)。山形市名誉市民。勲四等旭日小綬章、紺綬褒章を受章。位階は従五位。 山形県山形市出身。1928年中央大学法学部卒。東洋モスリンに入り、東洋紡績労務課長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では山形1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補したため落選した。その後、恩賜財団戦災援護会啓発課長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において山形県から日本進歩党公認で立候補して当選する。進歩党内では遊説部長となったが、翌年、公職追放となった。
三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 19… 三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 1995年3月14日)は、日本の精神科医師。慶應義塾大学医学部教授。杏林大学医学部教授。 フランス精神医学の研究、多くの精神科医師を育成した。小此木啓吾の慶應義塾大学医学部の指導教官。 杏林大学が創立される時に、精神科病院を母体として建学されたことから、初代の精神神経科教室の主任教授に招聘された。 新潟県長岡市に生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒業。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業。学生時代にはカトリックに入信。敬虔な信者であり、その後もカトリック医師会をはじめ、この領域で指導的役割を果たした。
安永一(やすなが はじめ、1901年(明治34年)12月3日… 安永一(やすなが はじめ、1901年(明治34年)12月3日 - 1994年(平成6年)2月2日)は、アマチュアの囲碁棋士、囲碁評論家、ライター。兵庫県氷上郡出身。木谷実、呉清源と共著の『囲碁革命 新布石法』は特に有名。アマチュア棋士としても実力は一流で、中国流布石を創始したとも言われる。プロ棋士の育成もし、門下に小松英樹、谷口敏則、吉岡薫らがいる。
田中 百畝(たなか ひゃっぽ、1901年12月1日 - 19… 田中 百畝(たなか ひゃっぽ、1901年12月1日 - 1964年2月11日)は、日本の実業家。京浜急行電鉄社長、京浜百貨店社長。広島県世羅郡津名村下津田(現:世羅町下津田)出身。 教育者を志し1927年、東京商科大学(現:一橋大学)教員養成所を卒業。 教職にあったが1932年、京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)に入社。1939年同社常務、東京地下鉄道専務、東京急行電鉄専務を経て、1946年京浜百貨店(現:京急ストア)社長に就任。 戦後、京急の大東急からの分離独立運動に尽力。1948年京浜急行電鉄発足後の1950年、同社社長に就任。川崎鶴見臨港バスの買収、都営地下鉄との提携による都心乗り入れ、平和島温泉の建設、三浦半島の開発など沿線地域の開発に敏腕を振るい京急発展の礎を築いた。