粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月… 粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月17日)は、日本の実業家。文献収集家。ゲーテ研究家。ドイツの文豪・ゲーテの書籍や関連文献を生涯にわたって集めて、東京ゲーテ記念館を開館させた人物として知られている。 現在の茨城県水戸市開江で生まれた。父親は地元の村長で、忠は4人兄弟の長男として生まれた。1923年に茨城師範学校へ入学。この師範学校時代にゲーテの『ファウスト』を先輩に薦められたのがきっかけでゲーテを知る。1927年に師範学校を首席で卒業。しかし、その後は教職に就くことはなかった。その後、しばらく水戸と東京を往復する日々が続く。1928年に友人にゲーテについて聞かれてそれを調べていくうちに、ますますゲーテのとりこになり、いつかはゲーテの図書館を作ろうという決心をする。
川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1… 川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1日 - 1986年(昭和61年)3月29日)は日本の実業家。日産自動車中興の祖として知られ、同社の社長や会長、日本自動車工業会初代会長、経団連副会長、日経連副会長などを歴任した。 茨城県東茨城郡上大野村大字吉沼(現在の水戸市吉沼町)に生まれる。川又家は、昔はこの集落の庄屋のような家柄だった。明治になって子供がいなかったので、旧水戸藩士の田辺家から養女を迎えた。これが母錦(きん)である。母が17歳のとき、同じ土地の丹下という家から父の操(みさお)が養子にきた。父は水戸の専売局の太子出張所に勤める一役人にすぎず、いわば半農半勤の家計だったので、母は慣れない農事に精を出しながら、しだいに田畑を手放していかざるをえなかった。
田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 … 田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の実業家。東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太・昇父子に仕え「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。
江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997… 江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本の実業家。三井不動産社長を務めた。終生、三井グループに影響力を持ち続け、グループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げた。また東京ディズニーランドのオープンに尽力したほか、妻と娘が関わった桐朋学園の発展にも一役買った。 茨城県筑波郡作岡村大字作谷(現:つくば市)の農家に生まれる。兄1人、姉3人の末っ子だったが、2人の姉は子供の頃早世した。 村の小学校を卒業後、茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学した。自宅から中学まで10キロあったが毎日自転車で通い、隣村の一級下の赤城宗徳(衆議院議員)は同じ自転車通学の仲間だった。
金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日… 金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日 - 1973年(昭和48年)10月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 茨城県新治郡真鍋町(土浦市大字真鍋を経て、現在は土浦市真鍋)で生まれる。1919年(大正8年)、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 日神酒造社長、ニッシン興業社長、湖南通運専務取締役、アサヒ産業社長、土浦商工会議所会頭などを務めた。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員に当選。民主党に所属して同党茨城県支部総務に就任。1948年(昭和23年)に県議を辞職し、1949年(昭和24年)1月に実施された第24回衆議院議員総選挙で茨城県第3区に民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年… 小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年(明治32年)8月21日 - 1977年(昭和52年)12月11日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 茨城県新治郡九重村生まれ、同県河内郡龍ケ崎町出身。旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)、慶應義塾大学部理財科を卒業後、興亜製作所社長、茨城県塩業株式会社取締役。 次いで茨城県肥料卸商業組合、竜ヶ崎地方生活必需品配給統制組合、同食料品配給統制組合、同食糧営団格理事長。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に茨城全県区から出馬し当選。衆議院経済安定委員長となり、茨城県司法保護委員。日本進歩党院内総務、民主党民情部長、民主自由党会計監督を務める。
稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月2… 稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月20日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家。鉄道建設興業(現在の鉄建建設)元社長。 鉄道建設業協会(現在の日本建設業連合会)元会長。位階は正四位。勲四等旭日小綬章受章者。弾丸列車計画に主任技師として任命され、計画のまとめ役となった。 茨城県水戸市出身。茨城県士族、奈良女子高等師範学校名誉教授の稲葉彦六の長男として生まれる。旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省に入省した。 1925年(大正14年)鉄道技師となり、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)8月まで欧米に留学した。
大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日… 大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)、茨城県多賀郡高萩町長。 茨城県出身。1917年(大正6年)茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、高萩町長、同消防団長、茨城県会議員、同議長などを務めた。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に茨城県第2区から改進党公認で出馬して初当選。第27回総選挙で再選されたが、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙は次点で落選。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙と第30回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月1… 宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日 - 1973年(昭和48年)12月6日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民。旧姓は立川。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の三男として生まれる。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長で退職して帰郷した。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した。
河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2… 河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月28日)は、大正から昭和期の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 茨城県東茨城郡吉田村吉沢(現水戸市堀町 )で、河原田太三郎の三男として生まれる。東京世田谷自動車学校を卒業した。 福島自動車学校教授を経て、東洋自動車学校を設立して校長兼教員となる。1940年(昭和15年)自動車学校を廃校し貨物自動車運送業を営む。1944年(昭和19年)茨城県北部貨物自動車運送、茨城県南部自動車運送の各取締役社長に就任。1945年(昭和20年)平潟町定置網漁業の網元となる。1946年(昭和21年)茨城水産工業取締役社長に就任。
菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月2… 菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月20日 - 1976年(昭和51年)11月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、茨城県議会議長。 茨城県新治郡真鍋町殿里(現在の土浦市殿里)で、旧家・菊田広恵の長男として生まれる。1912年(大正元年)茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 土浦商工会議所会頭、湖南通運社長、環産業社長、高津油機社長、霞ケ浦食品工業社長、日神酒造社長、丸果生果社長、関東銀行(現在の筑波銀行)取締役会長などを務めた。その他、茨城県農業会長、同県蚕種協同組合長、同県観光連盟会長、新治郡真壁町農会長、同町産業組合専務理事などに在任した。
小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 -… 小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 - 1995年7月22日)は、茨城県坂東市(旧岩井市)生まれの実業家であり、コーセーの創設者である。 長男は第2代社長の小林禮次郎、三男は第3代社長の小林保清。孫は第4代社長の小林一俊。
市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973… 市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973年11月2日)は、日本の実業家。丸紅の初代社長。 1897年1月9日、茨城県北相馬郡布川町(現:利根町布川)に生まれる。 1919年に神戸高等商業学校(現:兵庫県立大学)を卒業し、伊藤忠商事に入社。同系列の大同貿易を経て、丸紅商店に移り、貿易部長、上海支店長を歴任。 1941年9月、丸紅と伊藤忠商事と岸本商店の合併によって設立された「三興」の専務となり、1944年9月に三興と呉羽紡績と伊藤忠商事の貿易部門として分離していた大同貿易が合併され、「大建産業」が設立された後も専務を担当した。 1949年、GHQによる過度経済力集中排除(財閥解体)の中で、丸紅初代社長に就任。
柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年… 柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年〈明治28年〉7月21日 - 1978年〈昭和53年〉11月8日)は、明治期から昭和期にかけての地主であり、醤油醸造家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の孫(四代目)。 茨城県鹿島郡若松村大字柳川新田(現:神栖市柳川)に、農業や醤油醸造業を営む第三代・柳川宗左衛門の長男・謙一として生まれる。1911年(明治44年)家督を相続。1913年(大正2年)東京市の京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)を卒業した。 父が小作人のために設立した産業組合、柳川信用販売組合を継承し発展させた。
佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7… 佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7月9日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、日本の政治家、実業家。所属政党は戦前は立憲政友会→政友会革新同盟→日本進歩党、公職追放解除後は自由党→自由民主党。衆議院議員を通算10期務めた。 茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)の旧家・佐藤長之助の長男として生まれる。慶応義塾大学中退。古河町会議員、茨城県会議員、同副議長を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙で茨城県3区(当時)から政友会公認で立候補して初当選。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派に参加。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 19… 小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 1974年(昭和49年))は、日本の化学者、理研化学工業社長。 茨城県水戸市生まれ。1914年茨城県立工業学校応用化学科卒、17年上田蚕糸専門学校製糸科卒、満鉄中央試験所勤務、志賀潔に見出され、京城医学専門学校助教授、1927年京都帝国大学農学部入学。30年卒業、36年ニンニクの無臭有効成分をスコルヂニンと命名。40年日生化学研究所を設立。1953年「「にんにく」の生化学的研究」で京大農学博士。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受勲。理研化学工業社長。「にんにく博士」として知られた。 次男の小湊壌(ゆずる、1940 - )はのち理研化学工業社長。
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1… 高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。 1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。 同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。 1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去。
飯島 雷輔(いいじま らいすけ、1887年(明治20年)10… 飯島 雷輔(いいじま らいすけ、1887年(明治20年)10月20日 - 1964年(昭和39年)2月21日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、貴族院勅選議員、茨城県旧古河市長。 茨城県西葛飾郡古河町(現:古河市)で、製糸業・飯島政吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)家業を継承した。 武州銀行相談役、飯島商店社長、日本特殊合金鋳工社長、長島製糸所代表、古河町農会長、日本赤十字社特別社員、済生会特別会員などを務めた。 1936年(昭和11年)4月、古河町長に就任し同年11月まで在任。1939年(昭和14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、1941年(昭和16年)10月2日に辞任した。
武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月2… 武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月25日 - 1972年(昭和47年)3月30日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍主計中将。昭和産業・安田銀行・文化放送の社長を務めた。1940年勲一等旭日大綬章受章。 現在の茨城県土浦市田村町で、武井松太郎の三男として生まれる。旧制土浦中学校(茨城県立土浦第一高等学校の前身)卒業後、明治37年(1904年)7月、東京高等商業学校予科(一橋大学の前身)に入学し、翌月、海軍主計学生となる。一橋では福田徳三に師事し千駄ヶ谷の福田邸での読書会にも参加した。しかし、緒方竹虎らとともに申酉事件のリーダーとしての責任をとり専攻部へは進まず、明治42年(1909年)に本科卒業後、海軍少主計に任官し海軍経理学校乙種で学ぶ。
河盛 安之介(かわもり やすのすけ、1886年〈明治19年〉… 河盛 安之介(かわもり やすのすけ、1886年〈明治19年〉10月29日 - 1976年〈昭和51年〉7月24日)は、昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。大阪府堺市長(第9代〈官選〉、第13代〈公選〉)。堺市「100万都市(政令指定都市)」生みの親。 竹内権兵衛の三男として茨城県に生まれ、のち河盛又三郎の養子となる。1909年(明治42年)東京高等商業学校本科を卒業し、のち専攻部を修業する。1921年(大正10年)広島県呉市に合資会社河盛商店を創業し業務執行社員を務める。翌年の1922年(大正11年)には有限責任堺興業信用組合を創立し組合長理事となった。ほか、堺醤油製造合資会社業務担当社員などを経て、河又醤油社長、南海土地建物取締役、河盛商店監査役、大醤(河又醤油とイヅミイチ(大阪府貝塚市)が合同で設立)初代社長などを歴任した。
手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 19… 手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 1969年7月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 栃木県河内郡河内町出身。1916年に東京帝国大学法学部を卒業し、翌年に川崎造船所に入社した。取締役を経て、1950年8月に川崎重工業社長に就任し、1961年7月に会長に就任した。1954年1月からは川崎航空機社長も兼任し、1961年11月からは同社会長を務めた。 関西テレビ放送取締役、ラジオ関西取締役なども歴任した。1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1969年7月30日急性肺炎のために死去。83歳没。
黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月… 黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業、現在の雪印メグミルク)創業者、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、日本酪農の父、北海道開発の父と呼ばれる。 1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現:常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父による過度の飲酒がもとで負債をつくり、家計は常に苦しかった。
大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17… 大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17年)12月 - 1943年(昭和18年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県新治郡石岡(現・石岡市)出身。渡邊盛作の三男として生まれ、大和田三郎左衛門の養子となる。慶應義塾大学部理財科で学んだ。 1917年(大正6年)より石岡町会議員のほか、新筑酒造、新筑醤油醸造各組合長、鹿島参宮鉄道、北総電気、茨城電気の各取締役などを歴任する。 のち茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)9月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで1期在任し、同成会に所属した。
高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15… 高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15年〉10月16日 - 1964年〈昭和39年〉11月17日)は、日本の実業家、政治家、著述家、詐欺師。筆名に高柳 曲水(-きょくすい)、翠崖(-すいがい)、鬼外(-きがい)などがある。 実業家としては「鉄道に賭けた男」、「通販史上に輝く巨星」、「今でいう企業再生ファンドのような・・・」などと、その創造力や先見性が注目された。その一方で、蓄財書を出版して投資家を集めるなか池上電気鉄道事業で詐欺・横領などの容疑で逮捕され、「貯金魔」「虚業家」などと呼ばれた。 1882年(明治15年)、茨城県行方郡要村(現在の行方市小幡)に生まれる。同村の旧制要小学校(後の行方市立要小学校)を卒業し、茨城県立尋常中学校(旧制茨城県立水戸中学校→茨城県立水戸第一高等学校)に入学。
浜 平右衛門(濱、はま へいえもん、1882年(明治15年)… 浜 平右衛門(濱、はま へいえもん、1882年(明治15年)7月27日 - 1949年(昭和24年)4月25日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。幼名は小太郎。 浜佐太郎の長男として、茨城県新治郡石岡町(現在の石岡市)に生まれる。1898年(明治31年)1月、家督を相続し、改名する。実業界にて石岡電気、鹿島参宮鉄道、北浦電気、太田製糸、常南電気、北総電気の各社長、常磐銀行、石岡銀行、水戸電気鉄道の各取締役など重役を歴任。ほか、茨城県醤油醸造組合、同信用組合の各組合長を務めた。 地方政界においては、石岡町会議員、同消防組頭、産業組合中央金庫評議員などを歴任した。
荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城… 荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城県出身の海事実業家。中大型船の入港実績の無かった東京港に最初の汽船を入港させ、受け入れ態勢の整備に尽力した。位階は正六位。勲五等旭日章、瑞宝章受章。 旧水戸藩士・荒川信敬の長男。水戸市下市仲之町にて1881年(明治14年)7月29日に生まれる。地元の小学校を卒業後に数え年17歳で志を持って上京。同郷の西野元のもとに身を寄せ英数漢の学科を勉強した。1904年(明治37年)勃発した日露戦争では徴兵を受け近衛歩兵第1連隊所属の軍曹として満州へ渡り、その働きをもって金鵄勲章を授与される。復員翌年の1906年(明治39年)商船会社に入り海運業に携わった。
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治… 内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治13年)12月6日 - 1971年(昭和46年)1月7日)は日本の実業家、政治家。
河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月1… 河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月12日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、明治から昭和前期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員、大日本国民中学会創立者。 茨城県行方郡、のちの武田村(北浦村、北浦町を経て現行方市)で、農業・河野清次の二男として生れた。小学校卒業後、家庭の事情で進学できず独学で学んだが、当時は適当な講義録がなかったため相当な困難を覚えていた。 1900(明治33年)に上京して出版社に勤務。商用で長野県から東北地方に向かい、秋田県のある寒村で一夜を酒屋で過ごした際に、隣の部屋で高等小学校卒の少年たちが中学講義録で独習をしていたが「此の講義録は非常に六ケ敷くて到底自分等には解しかねる。
金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20… 金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20日 - 1951年(昭和26年)8月10日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・蛭田。 茨城県多賀郡、のちの南中郷村(現北茨城市中郷町)で農業・蛭田源三郎の二男として生まれる。上京して商業を学んだ。福島県石城郡錦村(錦町、勿来市を経て現いわき市錦町)の農業・金成竹太郎の養嗣子となる。再度上京して経済学などを学んだ。 1905年(明治38年)に帰郷して磐東銀行(現東邦銀行)の創立に尽力した。1911年(明治44年)福島県会議員に当選したのを皮切りに、同参事会員、錦村長を歴任する。ほか、鮫南中堅農民学校長、東部電力顧問、植田水力電気社長、磐東銀行、福島県農工銀行各取締役などを務める。
高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10… 高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10年〉9月4日 - 1958年〈昭和33年〉11月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県行方郡、のちの麻生町(現行方市)出身。高崎新蔵の長男として生まれ、1894年(明治27年)7月に祖父三郎右衛門の後を受け家督を相続する。農業を営む。 麻生町会議員、行方郡会議員、同郡教育会副会長、麻生町労務委員、茨城県農工銀行監査役、佐原興業銀行取締役を歴任した。 1911年(明治44年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期務めた。
平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3… 平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3年4月26日)- 1959年(昭和34年)7月11日)は、明治から昭和期の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国茨城郡、のちの茨城県水戸市赤沼町で平山貞吉の三男として生まれた。1891年(明治24年)6月に家督を相続した。青弘塾で漢籍を修め、経済学者塩澤昌貞と同門で共に将来を嘱望された。1886年(明治19年)に上京して苦学しながら普通学を修めた。 逓信省に入省し、通信事務官補、通信事務官、大阪郵便為替貯金管理支所長、郵便貯金局事務官、大阪貯金支局長などを歴任。この間、記帳の様式にルーズリーフ式を採用するなど貯金事務の改善に貢献した。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
磯部 保次(磯辺、いそべ やすじ、1868年9月12日(明治… 磯部 保次(磯辺、いそべ やすじ、1868年9月12日(明治元年7月26日) - 1928年(昭和3年)12月4日)は、常陸国出身の政治家で実業家。星亨の配下。 常陸国茨城郡、のちの茨城県西茨城郡笠間町(現在の笠間市)に生まれる。1891年12月に慶應義塾正科を卒業し、1895年(明治28年)東京馬車鉄道に入る。1908年(明治41年)立憲政友会から衆議院議員に当選し、大正3年に再選された。1909年(明治42年)東京鉄道取締役に就任。1910年(明治43年)東京瓦斯の前身である千代田瓦斯を設立。のち東京瓦斯常務。 ほか、旭工事株式会社社長、吾妻川電力、第二吾妻川電力、草津電気鉄道、ボルネオ殖産、日本曹達、隆文館、平和火災海上保険、須川電力、三協印刷、小倉鉄道、京王電気軌道、三ツ引商事の各会社取締役。
高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元… 高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1937年(昭和12年)12月12日)は、日本の実業家。茶人・高橋 箒庵(そうあん)としても知られる。 水戸藩士の高橋常彦の四男として生まれる。明治維新により生活困窮に陥り、13歳で植田村の呉服店「近藤」に丁稚奉公に出される。3年奉公したが耐え難く実家に戻り、以降各所に居候しながら学ぶ。1878年(明治11年)ごろは水戸の漢学塾・自彊舎に通った。茨城中学卒業後地元で就職するつもりだったが、福沢諭吉が新聞事業のため文章のうまい学生を探しているという話を聞き、上京。1881年(明治14年)慶應義塾に入学して約一年間学んだ後、1882年(明治15年)5月に、友人の石河幹明、井坂直幹らとともに、福澤率いる時事新報の記者になった。
飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1… 飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1月20日(万延元年12月10日)- 1915年(大正4年)7月31日)は、明治から大正初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国筑波郡真瀬村(若森県筑波郡真瀬村、新治県筑波郡真瀬村、茨城県筑波郡真瀬村、真瀬村真瀬、谷田部町真瀬を経て現つくば市真瀬)の旧家に生まれた。秋場桂園、村田雷蔵らから漢学、法律学を学んだ。農業を営む。 筑波郡福岡村外二カ村連合戸長、筑波郡書記、登記所書記、学務委員などを務めた。1892年(明治25年)茨城県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任し、同常置委員も務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)で初当選し、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年1… 井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年10月14日) - 大正10年(1921年)7月27日)は、日本の木材実業家、秋田木材株式会社社長。 常陸国水戸にて水戸藩士の子として生まれた。幼名は亮太郎。藩の俊才が学ぶ自彊舎に入学し水戸学と漢書を学び、さらに栗田寛の彰考館にて『大日本史』の資料編集に従事したが、次第に洋学を志し彰考館を辞めることになる。このころ福澤諭吉と同郷で門下生である茨城師範学校長松木直己が福沢の依頼で優秀な若者を探していたが、井坂はこの推薦する4人の中に選ばれ、明治14年(1881年)に石河幹明、高橋義雄らと共に慶應義塾に入学する。在学中は福沢諭吉の家に寄宿し、優秀な成績を修めた。
寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月… 寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月13日)- 1942年(昭和17年)12月9日)は、日本の教育者、実業家、政治家。 衆議院議員、小樽貨物火災保険株式会社社長、富国火災海上保険株式会社社長などを歴任した。 下総国相馬郡井野村(現・茨城県取手市)で、農業・寺田伊兵衛の二男として生まれる。 1877年、千葉県師範学校を卒業。千葉県行徳小学校長、山形県鐘秀学校長、京都府属兼京都府高等女学校教諭を歴任。1890年、釧路小学校長に転じた。 1892年、榎本武揚、北垣国道が所有する小樽の十万余坪を宅地として開発する際、その経営を行う北辰社の主幹に就任。その後、小樽商業会議所特別議員、北海道水力電気取締役、旭川市街軌道社長、小樽運輸社長、小樽漁港社長などを務めた。
渡辺 治(渡邊、わたなべ おさむ、1856年(安政3年2月)… 渡辺 治(渡邊、わたなべ おさむ、1856年(安政3年2月)- 1893年(明治26年)10月15日)は、明治時代の政治家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 のちの茨城県出身。郷里の私塾で漢学を学んだのち茨城中学校を経て慶應義塾を修了する。時事新報創立と同時に同社に入社し編集や庶務会計に携わった。1888年(明治21年)大阪毎日新聞に主筆として招かれ、同社を株式会社に改組後初代社長に就任した。ほか都新聞社を経営した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では茨城県第1区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5… 斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5月15日) - 1938年(昭和13年)12月9日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員。 1855年(安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]。 1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年(慶応2年)より親戚の中山家に移り、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。
飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日… 飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日(嘉永6年5月24日) - 1927年(昭和2年)8月13日)は、日本の政治家、実業家、教育者。幼名は縫三郎 1853年(嘉永6年)5月24日[要出典]、東海道常陸国の真壁郡上妻村黒駒(旧下妻藩内、現在の茨城県下妻市黒駒)の豪農の子供として誕生した。飯村家はこの地方の豪農として知られ、名主を努めていた。 幼い頃は病弱だったが、1864年(元治元年)に[要出典]天台宗東叡山千妙寺の亮天僧正に預けられる。亮天から「衆生の恩」という教えを受け、一時は僧侶を志すが、両親に連れ戻される。 1865年(慶応元年)大病を患い回復。幼名「縫三郎」を「丈三郎」に改名する。
大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5… 大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5年10月3日)- 1924年(大正13年)10月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。号・瑟菅村。 常陸国筑波郡高道祖村(新治県筑波郡高道祖村、茨城県筑波郡高道祖村を経て現下妻市高道祖)で生まれた。鈴木竹湾に師事し漢学を修めた。のち上京して益盛舎を設立して、史学、地理検田、測地、製図の学科を設け教育に当たった。 戸長、区長、郡書記を歴任。1878年(明治11年)下妻に政治結社・絹水社(のち同舟社に改称)を設けて自由民権運動を推進した。1882年(明治15年)茨城県会議員に選出され1890年(明治23年)まで在任。1898年(明治31年)県会議員に再選され1903年(明治36年)まで務めた。
関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永… 関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永3年7月5日) - 1912年(明治45年)1月21日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 木村寿山の子として水戸城下に生まれ、1870年(明治3年)常陸国信太郡鳩崎村(茨城県信太郡鳩崎村、稲敷郡鳩崎村、江戸崎町を経て現稲敷市)の先代・関口八兵衛の養子となり家督を相続する。漢学を修めた。1882年(明治15年)鳩崎村外2箇村戸長となり、1884年(明治17年)同職を辞し、翌年の1885年(明治18年)茨城県会議員に当選するが辞退した。醤油醸造業に従事する傍ら、1888年(明治21年)為替回漕会社を江戸崎町に興し、1889年(明治22年)には煉瓦製造場を設立した。
松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1… 松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1921年〈大正10年〉9月20日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 水戸出身。弘道館に学ぶ。1871年(明治4年)藩命を受け諸国を遊歴したのち帰郷し、1874年(明治7年)の台湾出兵に際しては北京に渡った。1876年(明治9年)在北京公使館附学生となり、1878年(明治11年)書記生となった。翌年、上海領事館に転任。1882年(明治15年)朝鮮で壬午軍乱が勃発すると花房義質の随伴員として同地に赴いた。1884年(明治17年)帰朝し外務省一等属となるが、間もなく朝鮮で甲申政変が勃発すると井上馨に従い再び同地に赴いた。
木村 安兵衛(きむら やすべえ、文化14年6月20日(181… 木村 安兵衛(きむら やすべえ、文化14年6月20日(1817年8月2日) - 明治22年(1889年)7月26日)は、日本の実業家。木村屋總本店の創業者。あんパン生みの親として知られる。 文化14年6月20日(1817年8月2日)、常陸国河内郡田宮村(現:茨城県牛久市田宮町)で父・長岡又兵衛の次男として農家の家に生まれた。 天保10年(1839)頃、下総国北相馬郡川原代村(現:茨城県龍ケ崎市川原代町)の木村安兵衛の長女・文(ぶん)の婿養子となり、安兵衛を襲名する。度重なる小貝川の水害の影響で農業に見切りをつけ、江戸へ出て津藩の仕官市内見廻役御蔵番などを務めた。明治になると、東京府で太政官出仕授産所(現在の職業訓練所)の所長だった伯父・木村重義を頼り、そこの事務職となる。