藤田 康夫(ふじた やすお、1950年11月11日 - )は… 藤田 康夫(ふじた やすお、1950年11月11日 - )は、千葉県出身の元野球選手(投手)、野球指導者。 千葉県山武郡成東町(現在の山武市)出身。成東高校では2年生の時、1967年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗退。1学年上に中村勝広がいた。翌1968年夏も県予選準々決勝に進出するが、宇佐美和雄、後に社会人野球で同僚となる長谷川勉の両投手を擁する木更津中央高に敗れる。1968年ドラフト会議でロッテオリオンズに11位指名を受けるが拒否。 卒業後は中央大学に進学。東都大学野球リーグでは在学中2度優勝。1972年春季リーグではエースとして6勝1敗と活躍。藤波行雄、佐野仙好ら打線の援護もあり、チームを優勝に導き、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選出された。
長谷川 勉(はせがわ つとむ、1950年9月8日 - )は、… 長谷川 勉(はせがわ つとむ、1950年9月8日 - )は、千葉県富津市出身の元プロ野球選手(投手)。 父は漁師。小学2年生の時から船を漕いで沖へ出ていた。木更津中央高等学校では、1968年の夏の甲子園千葉予選を、高校同期の宇佐美和雄投手との二本柱で勝ち進み、準決勝に進出。千葉商と対戦し、宇佐美が登板したが0-2で惜敗、甲子園への出場を逃した。 亜細亜大学へ進学。東都大学リーグでは1971年春季リーグで優勝を経験するが、1年上に山本和行投手がおり、登板機会には恵まれなかった。4年生の1972年春季リーグで初勝利。リーグ通算10試合に登板し5勝3敗を記録した。 卒業後は日産自動車に入社。1973年の都市対抗にはリリーフエースとして出場、先発の藤田康夫投手とのコンビで勝ち進む。
宇佐美 和雄(うさみ かずお、1950年6月9日 - 196… 宇佐美 和雄(うさみ かずお、1950年6月9日 - 1969年3月14日)は、千葉県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 木更津中央高校では絶対的エースとしてノーヒットノーランを二度達成するなど活躍したが、1968年の全国高等学校野球選手権千葉大会では準決勝(対千葉県立千葉商業高等学校戦)で惜敗し、甲子園への出場は果たせなかった。同期には宇佐美と二本柱だった長谷川勉がいる。 同年のドラフト会議において、西鉄ライオンズに3巡目で指名され、入団する。同期には1巡目で東尾修、2巡目で乗替寿好がおり、宇佐美と共に「西鉄の三羽烏」と呼ばれていた。 1969年3月14日午後9時頃、西鉄ライオンズの雨天練習場での練習中に同僚の打球が宇佐美の左胸に直撃する事態が起きた。
杉山 茂(すぎやま しげる、1950年4月23日 - )は、… 杉山 茂(すぎやま しげる、1950年4月23日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 銚子商では捕手として1968年の春の甲子園に出場、準々決勝に進出するが倉敷工に敗退。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進むが、千葉商に敗れ甲子園出場を逸する。高校の同期生に市原明、町田公雄がいる。 同年のドラフト6位で読売ジャイアンツ入団。1971年にはジュニアオールスターに出場する。しかし一軍では森昌彦、吉田孝司ら捕手陣の層が厚く、活躍の機会は少なかった。1977年にはシーズン終盤に吉田が欠場したこともあり、15試合に先発マスクを被る。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでも3試合に出場した。翌1978年には福島知春の台頭、山倉和博の入団により出場機会が激減し、1982年限りで現役を引退。
醍醐 恒男(だいご つねお、1949年11月22日 - )は… 醍醐 恒男(だいご つねお、1949年11月22日 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ。 習志野高校では3年次の1967年、捕手・4番打者として同期の石井好博とバッテリーを組み、東関東大会決勝で竜ヶ崎一高を破って夏の甲子園に出場。準々決勝の富山商戦では5安打を記録し、決勝では広陵高の宇根洋介(近大 - 電電中国)から適時三塁打を放ち1-7で勝利、千葉県勢初のチーム全国優勝に貢献。他の高校同期に3番打者の池田和雄外野手がいる。8月末からは全日本高校選抜の一員としてアメリカ西海岸・ハワイ遠征に参加し、打力とインサイドワークに優れた捕手として期待され、1967年のドラフト6位で阪急ブレーブスに入団。
三平 孝広(みひら たかひろ、1949年6月25日 - )は… 三平 孝広(みひら たかひろ、1949年6月25日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 木更津中央高校ではエースとして同期の佐藤清三郎(大昭和製紙)とバッテリーを組む。1967年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、中村勝広のいた成東高に惜敗し東関東大会には進めなかった。 1967年ドラフト14位で巨人に入団(佐藤も同15位で指名されるが入団拒否)。しかし1968年シーズン終了後に解雇。練習中に打球を左腕に受けた影響が尾を引きファームでも登板がなかった。
中村 勝広(なかむら かつひろ、1949年6月6日 - 20… 中村 勝広(なかむら かつひろ、1949年6月6日 - 2015年9月23日)は、千葉県山武郡九十九里町出身のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者、野球評論家。愛称は「カツ」「カッちゃん」。2012年9月5日より、プロ野球阪神タイガースの取締役ゼネラルマネージャー(GM)を務めていた。 成東高校では遊撃手、三番打者として1967年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗退。1年下のチームメートには加瀬茂樹、藤田康夫の両投手がいた。 早稲田大学教育学部体育専修へ進学。東京六大学野球リーグでは、谷沢健一、荒川堯らのいた1968年秋季リーグで優勝を経験したが、自身の活躍の機会はなかった。
大木 勝年(おおき かつとし、1949年3月17日 - )は… 大木 勝年(おおき かつとし、1949年3月17日 - )は、千葉県東金市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 東金市の農家に生まれ、成東高校では、1966年夏の甲子園千葉県予選準々決勝で、千葉工商の中山孝一と投げ合い0-2で完封負け、甲子園には出場できなかった。高校、大学の1年下に中村勝広がいる。早稲田大学へ進学。早大には1年上に小坂敏彦、安田猛(ヤクルトでも同僚)という好投手がおり、東京六大学野球リーグでは入学後3年間下積みを続ける。しかし4年生時には、同期のエース久保陽二(高松一高監督)とともに活躍。 1970年春季リーグに2勝1敗、防御率0.73(リーグ1位)、秋季リーグにも2勝3敗、防御率1.07(リーグ2位)を記録した。
中山 孝一(なかやま こういち、1948年8月12日 - )… 中山 孝一(なかやま こういち、1948年8月12日 - )は、千葉県八千代市出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉工商では3年次の1966年、夏の甲子園千葉大会で東金商をノーヒットノーランに抑え、続く東邦大付も7回コールドながらノーヒットノーランで降す。その後も2試合連続で完封勝利、習志野戦で失点するも41回連続無失点記録を達成。続く東関東大会準決勝で竜ヶ崎一高に敗退し、甲子園出場はならなかった。同年の一次ドラフト6位で阪神タイガースに指名されるも入団せず、卒業後の1967年にサッポロビールへ入社。1969年の都市対抗に出場し、同年のドラフト5位で南海ホークスに入団。 入団後は速球投手として期待され、1年目の1970年から先発として起用されるが、同年は1勝に終わる。
斎藤 喜(さいとう よし、1948年1月29日 - )は、千… 斎藤 喜(さいとう よし、1948年1月29日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 習志野高校出身。千葉県の高校では遊撃手No.1の評判だった。また韓国高校選抜軍対全関東高校の試合に選抜され、5打数5安打を放つ。関東球界では大型内野手として注目されていた。高校同期には後に中日ドラゴンズで活躍する谷沢健一がいる(谷沢とは高校時代に3、4番のクリーンアップコンビを形成していた)。1965年夏の甲子園県予選準決勝では、銚子商の木樽正明(後にロッテ・オリオンズ入り)に抑えられ敗退するが、木樽から3安打を放っている。銚子商は夏の甲子園で準優勝。 1965年プロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスへ2位指名で入団。
阿天坊 俊明(あてんぼう としあき、1948年1月27日 -… 阿天坊 俊明(あてんぼう としあき、1948年1月27日 - )は、千葉県銚子市出身の元社会人野球の選手(内野手)。 銚子商業高校では、1965年夏の甲子園に三番打者、遊撃手として出場。同期の木樽正明の好投で順調に勝ち進み、準決勝ではエース牧憲二郎を擁する高鍋高に9回裏2-1でサヨナラ勝ち。決勝では三池工と対戦するが、上田卓三に0-2で完封を喫し準優勝にとどまった。同年の岐阜国体では、決勝で岐阜短大付の淵上澄雄を打ち崩し優勝。同年秋の第1回プロ野球ドラフト会議で南海ホークスより2位指名を受けるも入団を拒否。 立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは、入学直後の1966年春季リーグから二番打者として起用され、同季は槌田誠、谷木恭平、秋山重雄らとともに7年ぶりの優勝を飾る。
谷沢 健一(やざわ けんいち、1947年9月22日 - )は… 谷沢 健一(やざわ けんいち、1947年9月22日 - )は、千葉県東葛飾郡柏町(現:柏市)出身の元プロ野球選手。現在は野球解説者、YouTuber。左投左打、ポジションは一塁手、外野手。1987年に「柏市民特別功労賞」の最初の受賞者となった。現在は神奈川県在住。娘はアリゾナ・ダイヤモンドバックスのアシスタント・アスレティック・トレーナー兼マニュアル・セラピストの谷沢順子。 現役時代は中日ドラゴンズで17年間主軸打者として活躍し、引退後はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、サンケイスポーツ・毎日新聞野球評論家を歴任。1994年からは西武ライオンズの打撃コーチを歴任。現在はフジテレビ・東海テレビ・J SPORTS野球解説者、YouTuberとして活動している。
木樽 正明(きたる まさあき、1947年6月13日 - )は… 木樽 正明(きたる まさあき、1947年6月13日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 銚子商業1年次の1963年、夏の甲子園に一塁手として出場し、準々決勝に進むが今治西高に敗退。2年上のチームメートに三塁手の田中達彦がいた。2年次の1964年は夏の県予選は3回戦で東金商に敗れ、秋季関東大会県予選では決勝に進むが市銚子高に完封負け。3年次の1965年には夏の甲子園でエース・4番打者として順調に勝ち進み、準決勝で高鍋高の牧憲二郎と投げ合い2-1で逆転勝ち。決勝では三池工と対戦するが上田卓三に0-2で完封を喫し、準優勝にとどまった。同年の岐阜国体では、決勝で岐阜短大付の淵上澄雄に投げ勝ち優勝。
市原 稔(いちはら みのる、1947年3月11日 - )は、… 市原 稔(いちはら みのる、1947年3月11日 - )は、千葉県千葉市花見川区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、プロ野球交渉代理人。 同じく元プロ野球選手の市原圭は実子。 千葉東高校から早稲田大学を経て、1968年のドラフト外で南海ホークスに入団。早大では教員を目指していたことから、野球部を入部後間もなく、学業と野球部の両立が難しいことを先輩部員から告げられて退部し、母校を指導していた。その後、教員試験に失敗したことから南海の入団テストを受験したが、この時は獲得してもらうために年齢をごまかして受験していたという。 1年目の1969年は7月26日の近鉄戦(大阪)で9回表に小池兼司に代わる遊撃手(守備機会2、失策1)として初出場を果たすが、自身最初で最後の出場となる。
小林 正之(こばやし まさゆき、1947年2月5日 - )は… 小林 正之(こばやし まさゆき、1947年2月5日 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。 日大一高では2年次の1963年に春夏連続で甲子園へ出場。春の選抜は内野の控えにとどまり、2回戦で東田正義・元田昌義を擁する御所工に敗退。夏の選手権では三塁手として出場し、1回戦で徳島商のエース・三好幸雄に抑えられて大敗を喫する。 高校卒業後は千葉商科大学に進学し、千葉県大学リーグでは在学中7度の優勝を飾り、4回も首位打者を獲得。中央球界では無名であったが、三拍子揃った内野手として阪急、巨人からも注目されていた。1969年には日本学生野球協会から表彰を受け、同年のドラフト5位で広島東洋カープに入団。
須藤 和彦(すどう かずひこ、1947年 - )は、千葉県出… 須藤 和彦(すどう かずひこ、1947年 - )は、千葉県出身の元アマチュア野球選手。ポジションは捕手。 習志野高校ではエース東条徹太(東芝)とバッテリーを組み、1965年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、銚子商の木樽正明に完封負け。銚子商は夏の甲子園で準優勝。高校同期に中堅手の谷沢健一、遊撃手の斎藤喜がいた。 1966年に日本大学に進学。東都大学野球リーグでは低迷が続き、1968年春季リーグにはチームが二部リーグに降格するが、1969年春季リーグに一部復帰を果たす。同年は同期のエース佐藤道郎の好投もあって春秋連続優勝を果たし、自身もベストナイン(捕手)に連続選出される。同年の全日本大学野球選手権決勝では、佐藤と東海大の上田二郎が互いに無失点で投げ合う。
古川 明(ふるかわ あきら、1946年9月14日 - )は、… 古川 明(ふるかわ あきら、1946年9月14日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(内野手)。 銚子商業高校では野球部に所属せず、卒業後は軟式野球をしていたところ1967年にドラフト外でサンケイアトムズにテスト入団するも、2か月で退団。 1969年は、中南米に設立されたグローバルリーグの東京ドラゴンズに参加するが、現地に赴く前に退団した。投手として大洋ホエールズのテストを受けたが失敗。下手投げであった古川をロッテオリオンズが打撃投手として採用する。 1970年は投手としてプレー、1971年には、二軍監督の大沢啓二が俊足や守備力を評価して野手に転向するとジュニアオールスターに出場し、一軍でも俊足を活かした代走として起用される。
村越 稔(むらこし みのる、1946年7月22日 - )は、… 村越 稔(むらこし みのる、1946年7月22日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手。
江田 昌司(えだ まさし、1945年9月16日 - )は、千… 江田 昌司(えだ まさし、1945年9月16日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(内野手)。 千葉商業高校では1年生時から内野手のレギュラーとして活躍。同期の高橋重行(2年で中退)、仁礼豊の両エースを擁し、1962年春季関東大会決勝に進むが、鎌倉学園の永田善一(大毎)に完封負けを喫する。鎌倉学園には竹之内雅史がいた。同年夏の甲子園千葉県予選でも準決勝に進出するが、習志野高に敗退。同年の秋季関東大会県予選でも決勝に進むが、またも習志野高に敗れる。その後も県予選で敗退し甲子園には縁がなかった。他の高校同期に遊撃手の鴇田忠夫がいた。 1963年に阪神タイガースに入団。同期入団に野田征稔、辻佳紀がいる。
田中 達彦(たなか たつひこ、1945年8月27日 - )は… 田中 達彦(たなか たつひこ、1945年8月27日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 銚子商では1年生の時、1961年夏の甲子園に控え内野手として出場するが、2回戦で浪商に敗退する。最上級生となった1963年には、三塁手、四番打者として夏の甲子園に再び出場。1回戦では柳川商に12-1で大勝、大会第1号本塁打を放つ。2回戦では静岡高に勝利、この試合では2年生エース勝浦完(サッポロビール)をリリーフし甲子園初登板を果たす。準々決勝に進出するが今治西高に0-3で完封負けを喫した。2年下のチームメートに、この大会では一塁手として出場した木樽正明がいる。8月末からは全日本高校選抜の一員としてハワイ遠征に参加した。
鴇田 忠夫(ときた ただお、1945年7月7日 - )は、千… 鴇田 忠夫(ときた ただお、1945年7月7日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 1964年に千葉県立千葉商業高等学校から東京オリオンズに入団。千葉商業時代の同期に高橋重行(元大洋)、江田昌司(元阪神)がいた。翌1965年にジュニアオールスターゲームのイースタン・リーグ選抜に選ばれるなど二軍では活躍したが、一軍では全く活躍できず、1965年シーズン終了後、現役引退した。現役引退後はトレーナーとなる。
高橋 重行(たかはし しげゆき、1945年5月16日 - 2… 高橋 重行(たかはし しげゆき、1945年5月16日 - 2010年3月1日)は、千葉県旭市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。 千葉商業高校では監督に見込まれ、千葉市内に下宿していた。同期の仁礼豊と投の二本柱を組み、4番打者として1962年春季関東大会決勝に進むが、鎌倉学園の永田善一(大毎)に完封負けを喫する。鎌倉学園には竹之内雅史がいた。同年夏の甲子園千葉県予選でも準決勝に進出するが、習志野高に敗退。他の高校同期に遊撃手の鴇田忠夫、三塁手の江田昌司がいた。 夏の大会後に高校を中退し、大洋ホエールズへ入団。入団して2年間は一軍では投げられず、整理対象選手であった。1964年に別所毅彦ヘッドコーチから認められ、先発として速球と大きなカーブを武器に17勝を記録(シュートも投げたが、渡米前はおもに速球と大きなカーブで投球を組み立てていた)。
田中 章(たなか あきら、1944年7月20日 - )は、千… 田中 章(たなか あきら、1944年7月20日 - )は、千葉県木更津市出身の元プロ野球選手(投手)。早稲田大学野球部・大昭和製紙硬式野球部・茨城県立水戸商業高等学校硬式野球部の監督を歴任した石井藤吉郎(野球殿堂競技者表彰者の1人)の親戚に当たる。 千葉経済高等学校1年時(1960年)に登板した秋季千葉県大会準々決勝で、銚子市立銚子高等学校打線を相手にノーヒットノーランを達成。決勝では千葉県立銚子商業高等学校に敗れたものの、「好投手」として注目される。2年時(1961年)から全国高等学校野球選手権千葉大会で2年続けて準々決勝に進出したが、2年時には成田高等学校、3年時(1962年)には習志野市立習志野高等学校の後塵を拝した。
鏑木 悦純(かぶらき よしずみ、1944年6月3日 - )は… 鏑木 悦純(かぶらき よしずみ、1944年6月3日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉工商高校から富士鉄室蘭を経て、1963年に阪神タイガースへ入団。千葉県出身者からの入団は初めてで、1965年までは背番号51を着用していた。背番号を42に変更した1966年に、サンケイアトムズとの開幕カード第2戦(阪神甲子園球場)で一軍公式戦にデビュー。 練習熱心で、阪神時代には二軍のウエスタン・リーグ公式戦で活躍していたが、1970年のシーズン終了後に(NPBが「加盟全12球団の戦力の均等化」を目的にドラフト会議と同じ要領でこの年から開催していた)プロ野球選手選抜会議(トレード会議)の指名対象(1球団が保有する支配下登録選手の20%に当たる)選手リストへ掲載された。
関根 知雄(せきね ともお、1944年3月12日 - )は、… 関根 知雄(せきね ともお、1944年3月12日 - )は、千葉県銚子市愛宕町出身の元プロ野球選手、(内野手)。 銚子商業高校では1961年、遊撃手、一番打者として夏の甲子園に出場。1回戦は矢島勝彦のいた法政一高を、延長12回、柴武利の夏の大会史上初のサヨナラ本塁打で降す。しかし2回戦では、この大会に優勝した浪商の尾崎行雄に抑えられ、1-2で惜敗。チームメートに控え内野手の田中達彦がいた。 卒業後は日本ビールに進む。1962年の都市対抗に出場し、1回戦では電電近畿と対決。日本ビールは小川健太郎(立正佼成会から補強)から五代友和、角谷隆に継投、電電近畿はエース永易将之が好投して共に無得点のまま進む。
鈴木 義信(すずき よしのぶ、1943年11月2日 - )は… 鈴木 義信(すずき よしのぶ、1943年11月2日 - )は、日本の野球選手(外野手)、野球指導者、実業家。 東芝メディカルの元社長。野球が公開競技であったソウルオリンピック野球日本代表の監督を務め、銀メダルに導いた。2004年からは日本野球連盟の副会長を務めている。 長生一高では、右翼手、一番打者として2年時の1960年に春季関東大会決勝に進出、桐生高を降し優勝を飾る。しかし同年の夏は東関東大会県予選準決勝で、関根知雄のいた銚子商に敗れる。翌1961年夏は県予選3回戦で本塁打を放つも、市原高に敗れ、3年間を通じて甲子園出場はならなかった。1年上のチームメートに外野手の宮原秀明がいた。 1962年に慶應義塾大学法学部に進学。
高梨 英夫(たかなし ひでお、1942年11月30日 - 2… 高梨 英夫(たかなし ひでお、1942年11月30日 - 2018年12月28日)は、日本のアマチュア野球選手(内野手、主に一塁手)・指導者である。 長く都市対抗野球の大会通算本塁打記録を保持し、「ミスター社会人」と呼ばれた。 長男は元読売ジャイアンツ選手の高梨芳昌、次男は元ヤクルトスワローズ選手の高梨利洋。 千葉県長生郡一宮町出身。千葉県立大多喜高等学校卒業後、大昭和製紙富士に入社。4年目の1964年に大昭和製紙北海道に移籍し、間もなくレギュラーポジションを獲得。 1966年の第37回都市対抗野球大会に、拓銀の補強選手として初出場。初戦の八幡製鉄戦で、大会初本塁打を放つ。富士鉄室蘭の補強選手として出場した翌1967年の第38回都市対抗野球大会では、準々決勝で優勝した日本石油に敗れるが、予選から21イニング連続無失点記録を続けていた平松政次(のち大洋)から本塁打を放って一矢を報いた。
宮原 秀明(みやはら ひであき、1942年9月3日 - 19… 宮原 秀明(みやはら ひであき、1942年9月3日 - 1994年3月21日)は、千葉県出身の元プロ野球選手、スカウト。ポジションは外野手。1961年から1968年の登録名は宮原 務本(みやはら つもと)。 長生一高では、1960年の第11回春季関東地区高等学校野球大会に千葉県代表として出場し、チームを初優勝に導く活躍を見せる。同年夏の甲子園県予選では準決勝に進出するが、関根知雄のいた銚子商に敗退。 1961年に東映フライヤーズへ入団。当時の東映の外野手には張本勲、毒島章一、白仁天といった実力者が揃っており、長打力に欠ける宮原には厳しい環境だった。その中でも四番手の外野手や代打の切り札として起用され、1964年から5年間、準レギュラーとして好成績を残す。
石岡 康三(いしおか こうぞう、1941年4月16日 - 2… 石岡 康三(いしおか こうぞう、1941年4月16日 - 2019年10月18日)は、千葉県長生郡一宮町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。 中学時代は遊撃手としてプレーし、一宮商業高校卒業後の1960年に明治大学へ進学。明大では捕手の倉島今朝徳、外野手の三浦和美と同期になり、東京六大学リーグでは後藤晃吾・八木孝ら主力投手と共に辻佳紀とバッテリーを組む。2年次の1961年では春季で優勝を経験し、同年の全日本大学選手権では準決勝で日大に敗れる。リーグ通算36試合登板、10勝12敗、防御率1.78、143奪三振を記録。 大学卒業後の1964年に国鉄スワローズへ倉島と共に入団。本格派右腕と期待され、同年はジュニアオールスターにも出場した。
城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - … 城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - )は、千葉県佐原市(現:香取市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 小学校時代は陸上部に所属し、中学校入学と同時に野球を始めるが、中学時代は控え一塁手で3年春には野球部を退部。進学した佐原一高では入学時にバレーボール部へ入部したが、部員不足の野球部から勧誘を受けて同年6月に移る。入学当初は一塁手であったが、秋から肩の強さを見込まれて投手となる。最初はオーバースローで投げていたが、高校に野球を教えに来ていた明治大学の選手から勧められて2年生の6月頃からサイドスローに転向した。同年秋からエースになると一念発起し、毎朝10キロのランニング、ハンドグリッパーを握り続けながら登校などの努力を続ける。
荒井 致徳(あらい よしのり、1940年 - 2018年11… 荒井 致徳(あらい よしのり、1940年 - 2018年11月29日〈78歳没〉)は、日本のアマチュア野球指導者。息子は元プロ野球選手の荒井修光。 成田高校から法政大学に進み、1962年から2年間成田高校の監督を務めた。1970年からは千葉県立我孫子高等学校硬式野球部監督に就任し、甲子園に2回出場。1991年の甲子園出場時には息子・荒井修光(1995年のドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団、元新庄剛志専属広報、現同球団事業統轄本部コミュニティリレーション部ディレクター)との親子鷹出場で話題を呼んだ。1994年、中央学院高等学校硬式野球部監督に就任。1996年秋季千葉県大会優勝、1998年、エース安原政俊(後に1998年のドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け入団)を擁して夏の甲子園東千葉大会ベスト4に進出。
新井 彰(あらい あきら、1939年9月19日 - )は、千… 新井 彰(あらい あきら、1939年9月19日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 銚子商業高校から昭和鉄管を経て、1962年に大毎オリオンズへ入団。1964年に引退。
式田 信一(しきた しんいち、1938年12月3日 - )は… 式田 信一(しきた しんいち、1938年12月3日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 県立船橋高校から1957年に中日ドラゴンズへ入団。1963年に引退。
牧野 宏(まきの ひろし、1937年11月9日 - 1994… 牧野 宏(まきの ひろし、1937年11月9日 - 1994年1月20日)は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 成田高等学校では投手、五番打者として活躍。1955年夏の県予選、南関東大会で3完封、5本塁打を記録。南関東大会決勝で鴻巣高を延長10回の末に破り、夏の甲子園に出場。甲子園では2回戦(初戦)で津久見高の田中喜八郎と投げ合うが、大差で完封負けを喫する。高校同期に左翼手、四番打者の平山正行(南海)がいた。 法政大学へ進学。エース、中心打者として活躍するが、東京六大学野球リーグは当時、長嶋茂雄、杉浦忠らの立大全盛期であり、法大は優勝に届かなかった。しかし1957年秋季リーグで、シーズン最優秀防御率0.19のリーグ記録を達成。
花沢 英雄(はなざわ ひでお、1937年4月20日 - )は… 花沢 英雄(はなざわ ひでお、1937年4月20日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉県立銚子商業高等学校から1956年に大映スターズへ入団。1957年まで在籍したが制球に難があり1勝もできなかった。
在原 兵次(ありはら へいじ、1936年5月7日 - 201… 在原 兵次(ありはら へいじ、1936年5月7日 - 2013年9月16日)は、千葉県君津郡袖ヶ浦町(現在の袖ケ浦市)出身の元プロ野球選手。甥は同じく大洋に在籍した在原昭彦。 千葉関東高校から立川AIO、横浜日野ディーゼルを経て、1962年に大洋ホエールズへテスト入団。翌年1試合に出場し、引退。 2013年9月16日、77歳で死去した。
長嶋 茂雄または長島 茂雄(ながしま しげお、1936年〈昭… 長嶋 茂雄または長島 茂雄(ながしま しげお、1936年〈昭和11年〉2月20日 - 2025年〈令和7年〉6月3日)は、NPBの読売ジャイアンツ(巨人)で活躍した日本のプロ野球選手(内野手、右投右打)・監督。同球団の終身名誉監督やその運営会社である株式会社読売巨人軍専務取締役、日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長を務めた。愛称は「ミスタープロ野球」「ミスタージャイアンツ」「ミスター」「チョーさん」「ゴールデンボーイ」「燃える男」「永遠のスーパースター」他。 千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身、血液型はB型。位階は従三位。 生前は飛びぬけた実力に加えて圧倒的な人気と知名度を有したため、「国民的スター」と称されることも多かった。
高橋 正雄(たかはし まさお、1935年5月5日 - )は、… 高橋 正雄(たかはし まさお、1935年5月5日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 成田高校では1952年に夏の甲子園へ出場した。 1953年に毎日オリオンズへ入団。1953年退団した。
佐々木 重徳(ささき しげのり、1934年4月21日 - )… 佐々木 重徳(ささき しげのり、1934年4月21日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは二塁手。
伊東 一雄(いとう かずお、1934年4月7日 - 2002… 伊東 一雄(いとう かずお、1934年4月7日 - 2002年7月4日)は、日本の野球解説者、メジャーリーグ評論家。 「パンチョ伊東」の愛称・通称で広く知られた。 東京都豊島区西巣鴨に生まれ、小学生時は戦火を逃れるために千葉県市川市へ転居し、以後居住する。 子供時代から父親の影響で野球に親しみ、後楽園球場の東京巨人軍戦、神宮球場の大学野球に通いスコアカード記入などをした。1942年5月24日に後楽園球場の日本プロ野球史上最長の大洋軍対名古屋軍の延長28回戦や、1953年10月31日に大友工が日米野球でニューヨーク・ジャイアンツ相手に完投勝利を収めた試合も観戦した。 西巣鴨第四小、市川小、市川一中を経て、都立三高へ進学し、千葉大学文理学部を中退した。
山田 利昭(やまだ としあき、1933年1月15日 - 20… 山田 利昭(やまだ としあき、1933年1月15日 - 2001年3月6日)は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 市川工業高校を卒業後、立教大学に進むも3年で中退し、1953年に毎日オリオンズへ入団。1年目は6試合しか試合に出場できず、1954年に高橋ユニオンズへ1年で移籍となった。 移籍したユニオンズでは131試合に出場し打率は.251と振るわなかったが主力として活躍した。翌年も136試合に出場し打率も.296と翌年よりも成績は上昇した。この年はオールスターゲームにも初選出された。1957年に東映フライヤーズに移籍し、1958年に現役引退した。 2001年3月6日68歳にて白血病により病没。
北川 芳男(きたがわ よしお、1932年10月18日 - )… 北川 芳男(きたがわ よしお、1932年10月18日 - )は、千葉県佐原市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 佐原一高卒業後、日本ビールに入社。エースとして都市対抗の常連となる。1956年の産業対抗では決勝に進出、熊谷組を無失点に抑え好投するが、9回裏サヨナラ負けを喫する。同大会では敢闘賞を獲得した。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場。1958年の都市対抗では3勝を挙げて準決勝に進出するが、日本石油に惜敗。 1959年に国鉄スワローズへ入団すると、1年目から主力投手として活躍。長年エースとして君臨していた金田正一を凌ぐ、37先発322回2/3を投げ、18勝20敗・防御率2.51(リーグ6位)の好成績をマーク。
菅原 道裕(すがわら みちひろ、1930年1月25日 - 2… 菅原 道裕(すがわら みちひろ、1930年1月25日 - 2014年8月15日[要出典])は、千葉県出身のプロ野球選手(外野手)。 東葛飾中学から明治大学に進学する。明治大学に入ってから野球を始め、未経験ながらもめきめきと頭角を現すが、弱点を晒すなど不遇の時を過ごす。1952年に大映スターズに入団し、1年目から外野のレギュラーを獲得し、主に5番打者として試合に出場。1953年は打率.287(リーグ8位)をマークし、オールスターゲームにも出場した。翌年は飯島滋弥に変わって4番を任される試合もあった。翌年からは再び5番打者として活躍した。1956年に控えとなることが多くなり、この年に引退した。
石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2… 石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2006年3月16日)は、千葉県成田市出身のプロ野球選手(内野手)。 兄は戦前投手として、東京セネタースや翼軍、大洋軍、大和軍に所属した石原繁三。1960年代に東映フライヤーズ、1970年代にロッテオリオンズの球団代表を務めた石原春夫とは別人。 旧制成田中学校では、エースとして戦後初の開催となった1946年夏の大会では、球史に残る1回戦最初の試合で京都二中と対戦するが0-1で惜敗。 立教大学へ進学し、野手転向。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、リーグ通算86試合出場、338打数101安打、打率.299の成績を残す。 大学卒業後は、社会人野球の藤倉電線に入社。
金子 和三郎(かねこ かずさぶろう、1927年11月1日 -… 金子 和三郎(かねこ かずさぶろう、1927年11月1日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 佐原中學校、国士舘専門学校、新田組を経て1950年に東急フライヤーズへ入団。 1952年途中に西鉄ライオンズへ移籍するも同年限りで退団した。
板倉 正男(いたくら まさお、1927年1月6日 - 201… 板倉 正男(いたくら まさお、1927年1月6日 - 2011年7月28日)は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手(投手、捕手、外野手)。 千葉商業学校から郵便局勤務を経て1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。リーグ崩壊後、1948年に金星スターズへ入団。翌1949年は合併により大映スターズに移籍、捕手に転向。1952年頃から正捕手。1954年にヴィクトル・スタルヒンと共に高橋ユニオンズに移籍、同年引退。引退後は社会人野球、ゴルフ場勤務を経て船橋カントリークラブ支配人に就任。
小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 198… 小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 1987年7月29日)は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手(投手)。 千葉商業から明治大学へ進学。1945年11月に新設球団セネタースから勧誘を受けるが、固辞して大学に残る。1946年には母校の千葉商業で監督を務めている。1948年の大学卒業に当たって、明治大学の同期で東急フライヤーズ(セネタースの後身)に所属していた清水喜一郎から東急入団の勧誘を受けるが、小川は再び固辞して小口工作所に入社した。 1949年に大映スターズのスカウト・小林次男の勧誘を受けて入団。カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを武器に2年目に二桁となる12勝を挙げた。1954年と1955年にも2桁勝利を記録し、大映の先発陣の柱として活躍した。
大木 董四郎(おおき とうしろう、1920年 - 没年不明)… 大木 董四郎(おおき とうしろう、1920年 - 没年不明)は、千葉県出身のプロ野球選手。 千葉商業学校から1946年にセネタースへ入団。同年退団。
飯塚 達雄(いいづか たつお、1919年 - 没年不明[要出… 飯塚 達雄(いいづか たつお、1919年 - 没年不明[要出典])は、千葉県出身のプロ野球選手。 関東中学校から1940年に名古屋金鯱軍へ入団し、同年退団した。
飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1… 飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1970年8月9日)は、千葉県香取郡吉田村(現:匝瑳市吉田)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。