逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月… 逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月23日 - 1991年7月7日)は、日本の歌人、情報局官僚。新短歌運動を推進し、1929年、短歌誌「短歌と方法」を主宰した。 立教中学校から第一高等学校 (旧制)を経て、1924年、東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中、逗子開成中学校の英語と国語と漢文の講師を務め、逗子開成学園の校歌を作詞している。弁護士である義兄の切望その他で、1925年、東京帝国大学法学部政治学科に入り直し、1928年に卒業。 朝日新聞社と安田銀行を受験し、第一志望の前者で不採用となったため後者に入る。1939年、内閣情報部情報官に任官、情報局第五部第三課長、第二部文芸課長を歴任するが、1944年5月、中央公論社と改造社に対する情報局からの自発廃業勧告に反対し、内務省系の上司たちから睨まれるようになる。
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月21日 - 1979年(昭和54年)6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1… 市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1981年9月29日)は、将棋棋士。八段。棋士番号は9。大崎熊雄九段門下。東京府東京市(現:東京都文京区)出身。 1927年に入門し1930年に四段に昇段。奨励会(関東)の創設は1928年であるため、奨励会に参加していたと思われる。 1940年に五段に昇段。戦後の1946年の順位戦C級クラスに参加し、8勝6敗と成績上位だったため六段に昇段。C級には第10期まで所属し、第10期にC級2組で降級が決まった事により引退。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982… 戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982年12月25日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期、日本社会党)。妻は衆議院議員の戸叶里子。 田中正造の政治的後継者で、下野新聞社長を務めていた戸叶薫雄の長男として、栃木県安蘇郡田沼町(現佐野市)に生まれた。旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部へ入学。在学中は、高野実などと社会主義学生団体「文化会」を率いる。また、雄弁会に参加し、1922年(大正11年)には先輩である浅沼稲次郎の推薦により幹事となった。 1925年(大正14年)1月24日、学校教練に反対するデモにリーダー格で参加して麹町警察署に一時検束される。
吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月1… 吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月10日 - 1973年(昭和48年)4月27日)は、日本の医師、病理学者。学位は医学博士(東京大学・1936年)。長崎医科大学教授、東京大学医学部長などを歴任。文化勲章・勲一等旭日大綬章受章。 福島県石川郡浅川村(現・浅川町)生まれ。ラットの腹水癌である吉田肉腫と腹水肝癌の発見で実験腫瘍学に新たな扉を開いた。財団法人癌研究会癌研究所長、財団法人佐々木研究所研究所長、日本学術会議会員・副会長(第6期)、国語審議会委員(第1-6期)などを務めた。テレビディレクターの吉田直哉は長男である。動物学者の田子勝彌は叔父である。
砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 199… 砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 1992年12月12日)は、日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党衆議院議員。民医連運動発祥の地とされる、大崎無産者診療所で看護師を務めていた、社会運動家の秋子は配偶者。 静岡県田方郡土肥村(土肥町を経て現在は伊豆市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学経済学部を卒業。一高在学中の1923年9月1日に発生した関東大震災では、新人会のメンバーと「一高震災防護団」を立ち上げ、被災者救援活動を行った。また、帝大入学後は新人会へ加入、1927年には無産者新聞へ無給社員として入る。翌年の三・一五事件以後責任者に就くと共に、日本共産党へ入党する。
高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 197… 高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 1972年7月5日)は、日本の歌手、女優である。本名は「天田 春音(あまだ はるね)」。大正期~昭和初期の浅草オペラでソプラノの歌姫として活躍。 東京都本所区向島にて出生。東京育ちではあるが、祖父は群馬の博徒国定忠治の子分の一人であり左の腕にあたる人物であったという。 鎌倉高等女学校を卒業後、歌手・井上起久子に師事。1920年に演出家の獏与太平に見初められオペラ女優の仲間入りを果たす。初期の芸名は「高井爾美」(読み同じ)。この芸名は井上に付けられたという。なお、芸名の由来は駆け出しの頃大学生のパーティに招かれた際、指輪がないので小道具の指輪をはめて行き、学生に「あっ、高いルビー」と言われたのにちなんだと言われる。
近藤 真柄(こんどう まがら、別名・筆名: 堺真柄・近藤真柄… 近藤 真柄(こんどう まがら、別名・筆名: 堺真柄・近藤真柄、旧姓戸籍名: 堺マガラ、最初の結婚改姓戸籍名: 高瀬マガラ、第2の結婚改姓戸籍名: 近藤マガラ、女性、1903年1月30日 - 1983年3月18日)は、社会主義者、婦人運動家、フェミニスト。
金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 192… 金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 1926年7月23日)は、大正期日本のアナキスト、ニヒリスト。 関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、愛人(内縁の夫)である朝鮮人朴烈と共に検挙され、予審中に朴が大正天皇と皇太子の殺害を計画していたとほのめかし、文子も天皇制否定を論じたために、大逆罪で起訴され、有罪となった(朴烈事件)。後に天皇の慈悲として無期懲役に減刑されたが、宇都宮刑務所栃木支所に送られてそこで獄死した。 現代の韓国においては「良心的日本人」とされており、2018年11月17日、国家報勲処より日本人としては2人目になる大韓民国建国勲章(愛国章)が追叙され、2022年、布施辰治とともに2023年5月の今月の独立運動家に選定された。
古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903… 古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903年 <明治36年> 1月4日 - 1995年 <平成7年> 2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。日中友好議員連盟会長を務めた。位階は正三位。 鳥取県八頭郡国中村(現・八頭町)に、古井實壽の二男として生まれる。生家は祖父久次郎の代からすでに田五町歩、山林三町歩をもつ小地主だった。父實壽は古井が生まれたころ、郡役所の書記だったが後に国中村の村長を務めた。 旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、第三高等学校を経て、1922年東京帝国大学法学部英法科に入学する。なお中学時代の同期生に政治学者の矢部貞治がいる。1925年内務省に入省する。
後藤 基胤(ごとう もとたね、1903年または1904年 -… 後藤 基胤(ごとう もとたね、1903年または1904年 - 1959年1月4日)は、日本の教育者、サッカー選手。 東京高等師範学校附属中学(現:筑波大学附属中学校・高等学校)ではサッカー部に所属。東京高等師範学校に進学後も蹴球部に所属し、主将も務めた。また、1921年に開催された第5回極東選手権大会の日本代表にも選出され、2試合に出場。2戦2敗に終わったが、フィリピン代表戦で得点を決めた。 1923年に東京高師を卒業して、神奈川県立湘南中学校(現:神奈川県立湘南高等学校)に赴任。同時期に創設された同中蹴球部の指導も行った。 その後、学習院に移り学習院初等科などで教育に携わった。 1959年1月4日、東京都新宿区で肺癌により死去した。
高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12… 高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12月18日 - 1989年(平成元年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(自民党)、山口県徳山市長、徳山大学(現周南公立大学)初代理事長。 次男は数学者でお茶の水女子大学名誉教授の高村幸男(こうむら ゆきお、1931年8月13日 - 2009年3月21日)、四男は衆議院議員・元外務大臣の高村正彦。 山口県熊毛郡三井村(現光市三井)の農家に生まれる。農業・高村宇佐吉、キチの四男。父・宇佐吉は大工の棟梁でもあり、村会議員もしていた。 1917年(大正6年)、三井尋常高等小学校高等科卒業。「おまえは商人になれ」という父親の言いつけに従って厚狭郡船木町にある酒、醤油の醸造と呉服店を営む蔵重商店の別家に見習い奉公人として住み込む。
四代目 河原崎 長十郎(かわらさき ちょうじゅうろう、190… 四代目 河原崎 長十郎(かわらさき ちょうじゅうろう、1902年12月13日 - 1981年9月22日)は、東京の歌舞伎役者。本名、河原崎虎之助(かわらさき とらのすけ)。屋号は山崎屋。定紋は角違いに二つ巴、家紋は河原崎座櫓紋。 劇団前進座(1931年創設)の創設メンバーの一人で、後に幹事長(座頭)となる。“長十郎”とは元来、河原崎座の座元(劇場経営者)の跡継ぎである若太夫の名跡で、九代目市川團十郎(“劇聖”と称された明治の名優)も名乗ったことがある。 「演劇のデパート」の異名をとる前進座にあって、さまざまなジャンルの演劇作品に出演した。歌舞伎では『勧進帳』の弁慶、『鳴神』の鳴神上人、『元禄忠臣蔵・御浜御殿』の徳川綱豊卿、『め組の喧嘩』の四つ車大八などが当たり役であった。
江花 静(えばな しずか、1902年(明治35年)12月2日… 江花 静(えばな しずか、1902年(明治35年)12月2日 - 1966年(昭和41年)7月25日)は、日本の内務及び台湾総督府官僚、衆議院議員(1期、民主自由党→自由党)。福島県若松市長(官選第17代)。 福島県河沼郡広瀬村(現会津坂下町)出身。1922年(大正11年)、高等学校高等科入学資格試験に合格。旧制第一早稲田高等学院に学んだ後、1928年(昭和3年)に高等試験予備試験に合格。1930年(昭和5年)に高等試験行政科に合格し、台湾総督府属となった。1935年(昭和10年)より地方警視となり、台南州高等警察課長、台北州高等警察課長、同外事課長を歴任した。1940年(昭和15年)、地方事務官に転じ、大分県商工課長、栃木県庶務課長、同教学課長、同文書課長、秋田県官房長、青森県経済第一部長などを務めた。
岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 198… 岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 1985年2月9日)は最高裁判所判事。東京都出身。
大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 19… 大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 1978年11月28日)は、日本の文化人類学者。 北海道出身。早稲田中学校 (旧制)、水戸高等学校 (旧制)卒業。1928年、東京帝国大学文学部心理学科卒業。東大副手、水戸高等学校教授を経て、1949年茨城大学教授。66年定年退官、名誉教授、茨城キリスト教大学教授。73年定年退職。長男は大場牧夫、次男は大場幸夫。
三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 19… 三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 1956年10月24日)は、日本の撮影技師である。日本映画撮影者倶楽部(現在の日本映画撮影監督協会)が1956年(昭和31年)に制定した「三浦賞」に名を残す。初期名三浦 光男(読み同)。 1902年(明治35年)10月25日、宮城県に生まれる。 旧制・私立商工中学校(通称東京商工中学校、現在の日本大学第三高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)、開業とともに日活向島撮影所に入社した。1923年(大正12年)、撮影技師に昇進、記録に残る最初の技師作品は、1925年(大正14年)5月31日公開、五所平之助監督の『空は晴れたり』で、当時は「三浦光男」名義であった。
岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月1… 岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月16日 - 1992年(平成4年)3月13日)は、日本の歌人、国文学者。三重県宇治山田市出身。号は不言舎(いわずのや)。斎藤拙堂の外孫である岩津海三郎の長男。 三重県第一中学校(現:三重県立津高等学校)在学中に稲森宗太郎らと文芸活動を始める。1921年早稲田高等学院に入り、早稲田大学国文科に進む。在学中より窪田空穂に師事し、稲垣達郎、尾崎一雄、都筑省吾らと短歌文芸誌『槻の木』創刊に参加。1933年第二早稲田高等学院講師、49年早大教授。73年定年退任、名誉教授。
鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1… 鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1971年12月20日)は、福島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。1936年のベルリンオリンピックのサッカー日本代表監督を務めた。 豊島師範附属小学校、東京高等師範学校附属中学校から1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立した。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等の蹴球指導を受け、実力を伸ばした。 1923年に早稲田大学に入学。1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催した。 1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献した。
赤松 明子(あかまつ あきこ、1902年〈明治35年〉9月2… 赤松 明子(あかまつ あきこ、1902年〈明治35年〉9月27日 - 1991年〈平成3年〉3月21日)は、昭和時代の社会運動家。旧姓は吉野。 東京出身。吉野作造の次女。東京女子高等師範学校附属女学校卒業。1923年3月赤松克麿と結婚。克麿の妹の赤松常子とともに総同盟・社会民衆党系の婦人運動を指導。1927年7月社民党系の小池元子(小池四郎夫人)、松岡勝代(松岡駒吉夫人)、総同盟傘下の日本縫工組合、東京電気従業員組合の女工らと労働婦人連盟を結成し、山一林組争議に参加。同年11月赤松常子らと社民党系の社会婦人同盟を結成。1928年赤松常子、阿部静枝らと社会民衆婦人同盟を結成し、婦人参政権獲得運動や母子扶助法制定運動などを推進。
坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9… 坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9日 - 1982年(昭和57年)11月19日)は日本の男性地球物理学者、随筆家。東京大学名誉教授。理学博士で、寺田寅彦の弟子として知られている。
菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25… 菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25日 - 1974年(昭和49年)11月12日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1932年)。日本の原子物理学の黎明期を起ち上げた一人である。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化勲章、勲一等瑞宝章受章者。贈正三位(没時叙位)。 数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍した男爵菊池大麓の四男として東京府に生まれた。 1915年(大正4年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1920年(大正9年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、のちに最高裁判所判事となった下村三郎、獨協大学学長となった市原豊太、東京大学名誉教授の坪井忠二、フランス文学者の中島健蔵などがいた。
笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1… 笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1981年8月23日)は、日本の鉄道官僚、実業家。 1902年生れ。山口県出身。 明治中学(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)卒業後、1927年京都帝国大学工学部卒業。同年鉄道省に入り、四国鉄道局長、運輸総局車輛局長などを経て、1951年日本国有鉄道理事、1952年工務局長、総裁室勤務などを歴任。1955年に汽車製造(現・川崎重工業)に移り、専務を経て、東海道新幹線の開通と東京オリンピックが開催された1964年に社長に就任。資本金を26億5200万円に増資した。
小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26… 小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26日 - 1974年11月10日)は日本の俳優。本名は小笠原 長英(おがさわら ながふさ)。 旧唐津藩主子爵小笠原家第14代当主小笠原長生(元海軍中将・元宮中顧問官・元学習院御用掛)・秀子(元前橋藩主伯爵松平直方の長女)の次男として東京府東京市に生まれる。学習院初等科・学習院中等科から陸軍幼年学校に入学したが病気で中退、学習院高等科卒業。 日本映画黎明期の大正時代、兄の小笠原明峰(小笠原長隆)が設立した小笠原プロダクションの専属となり、1921年に芸能界入りする。兄の明峰は長生の長男であり、第15代当主となる立場であったが、映画監督となったため廃嫡となる。
大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 -… 大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、美術評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。 元共産党員。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。 理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。高等師範付属中学時代から左翼思想に興味を抱き、旧制浦和高校に進学すると学内に思想研究会を組織。2年在学時には読売新聞(大正12年5月30日長官)に埼玉県警察の黒表(ブラックリスト)に上がっているとする記事が掲載された。東京帝国大学では学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
市原 豊太(市原 豐太、いちはら とよた、1902年6月22… 市原 豊太(市原 豐太、いちはら とよた、1902年6月22日 - 1990年8月14日)は、日本のフランス文学者、随筆家、翻訳家。 東京で生まれる。父市原卯之助は、山形県出身で帝国海軍将官だった。 1915年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1920年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、下村三郎(元最高裁判所判事)、菊池正士(物理学者)、坪井忠二(東京大学名誉教授)、中島健蔵(フランス文学者)などがいた。旧制第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学文学部仏文科卒。 浦和高等学校教授、第一高等学校教授、東京大学教養学部教授、1963年定年退官、青山学院大学教授、獨協大学教授、獨協大学学長代行を経て名誉教授。
平井 呈一(ひらい ていいち、1902年(明治35年)6月1… 平井 呈一(ひらい ていいち、1902年(明治35年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月19日)は、日本のイギリス文学翻訳者・編集者で、多くの訳書を通じ海外怪奇小説を紹介した。 1902年、神奈川県中郡平塚町(現・平塚市)で生まれる。本名は程一。江戸下町育ちで、没時まで和服で通した。 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町)の養家で居住。浜町尋常小学校から1920年に日本大学附属中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を経て早稲田大学文学部英米文学科中退。河東碧梧桐に師事して俳句に親しむ。永井荷風と佐藤春夫に師事し、江戸文学に造詣が深い翻訳者となった。中菱 一夫の筆名で、小説「真夜中の檻」「エイプリル・フール」を著している。
斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 19… 斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本の俳優、映画監督。 松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。 1902年(明治35年)6月10日、東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった。
齋藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 19… 齋藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活動した音楽家。東京都出身。 英語学者として有名な斎藤秀三郎の次男として東京市京橋区築地明石町に生まれ、1906年から麹町区五番町(現:東京都千代田区一番町)に育つ。音楽に興味を示したのは12歳の頃からで、最初に演奏したのはマンドリンだった。後に「オルケストル・エトワール」というマンドリンオーケストラを組織し、『フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲』などの曲を残している。 16歳からは宮内省にいたチェロ通の職員からチェロの手ほどきを受けはじめる。その後、暁星中学校を経て上智大学に入学したが、音楽に専念するため退学。
栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 … 栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 - 1992年4月23日)は昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は原→秋山善治郎。最高位は十両2枚目。 現在の東京都渋谷区出身。旧制錦城中学に入り、相撲部で主将をつとめ、1919年の全国大会で活躍した。翌1920年卒業後に春日野部屋に入門し、5月に初土俵を踏む。1927年1月十両昇進。十両を4場所連続在位したが、幕下に落ちた。1928年3月再十両を果たしたが、全休してそのまま25歳で廃業した。1992年に満89歳で死去した。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。
七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1… 七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1902年(明治35年)4月1日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は上方の歌舞伎役者。屋号は升田屋、定紋は藤巴の中に桔梗紋、替紋は寿の字巴紋。本名は太田 光之助(おおた みつのすけ)。 東京本郷生まれ。二代目市川團九郎の子、祖父は五代目市川壽美蔵。六代目市川壽美蔵(三代目市川壽海)は叔父にあたる。初舞台は明治45年(1912年)5月東京座の『大和橋』で市川登美三郎を名乗って馬子。大正8年(1919年)二代目市川團次郎を襲名。大正13年(1924年)名題昇進。のち六代目壽美蔵とともに二代目市川左團次主催の自由劇場に参加する。 戦後昭和23年(1948年)関西歌舞伎に移籍。
小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 195… 小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 1959年3月27日)は、昭和期の冶金学者・金属工学者。東京府(現:東京都)出身。
3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈… 3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉- 1961年1月16日)は、日本の落語家。本名:小林 七郎。出囃子:「つくま」。日本芸術協会所属だったが最晩年に脱退し、フリーを経て落語協会に移籍。 当時さほど注目されていなかった落語『芝浜』を独自に練り上げ得意にした。それ以降『芝浜』は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも3代目桂三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」。他にも通称は「田端の三木助」、「隼の七」。 実家は床屋。後日、養子であることを知るが両親には最後まで聞かなかったと告白している。
小栗 孝則(おぐり たかのり、1902年3月22日 - 19… 小栗 孝則(おぐり たかのり、1902年3月22日 - 1976年)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。 東京生まれ。海軍大将の小栗孝三郎の長男。父親の母方の親戚に戸田城聖がいる。 東京府立第一中学校を経て東京外国語学校ドイツ語科中退。1937年の『新編シラー詩抄』のうちの「人質」をネタとして太宰治が「走れメロス」を書いた。
栗島 すみ子(くりしま すみこ、明治35年〈1902年〉3月… 栗島 すみ子(くりしま すみこ、明治35年〈1902年〉3月15日 - 昭和62年〈1987年〉8月16日)は、明治・大正・昭和期の女優。日本映画界初期の人気女優である。日本舞踊水木流家元水木歌紅でもある。 東京府豊多摩郡渋谷村大字中渋谷(現在の東京都渋谷区道玄坂)に生まれた。父の死後、母の再婚先である川村家を経て新派俳優栗島狭衣の養女となった。 明治40年(1907年)、5歳のとき狭衣の師である水木歌橘に入門し、日本舞踊を習い始めた。同年父の主宰するお伽劇『うそつき爺い』で初舞台を踏んだ。また、明治42年(1909年)には狭衣と共にM・パテー商会製作・公開の映画『新桃太郎』に出演した。 大正2年(1913年)、栗島狭衣一座の座員となり、巡業生活を送った。
飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996… 飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996年1月5日)は、日本の映画評論家・詩人。旧姓:吉田。 東京府生まれ。父の吉田平太郎は豊後国出身で日露戦争で活躍した陸軍中将だったが、退役後に毛皮商として一旗揚げるべくモンゴルに渡り、そこで部下に騙されて零落し日本に帰国、持ち家を手放し、都内を転々とした。のち茨城県の愛人の元に移り、釣りに明け暮れ、肝臓病で亡くなった。母方の祖父の池上正路は銀座の大手広告代理店「正路喜社」(しょうじきしゃ)の創立者。平太郎には離婚した先妻との間に子がいたため、正の実母ヤス(安子)は先妻の子に気を遣い、正を自分の兄(正の母方の伯父)の養子に入れ、飯島姓とした。
石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2… 石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。芸名の読みは「いしかわ ひでみち」と表記されることもある。本名は石川 秀道(いしかわ ひでみち)。新派の井上正夫門下を経て映画界に転向、島津保次郎の撮影助手および助監督を経て俳優となり、東亜キネマ甲陽・等持院撮影所の現代劇で主役を張り、トーキー以降は時代劇に転じた。 1902年(明治35年)2月17日、東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)の米穀商「三州屋」の三男として生まれる。1909年(明治42年)に家業が思わしくなく養子に出されるが、その後養子先を逃亡、1918年(大正7年)、16歳のときに映画界の道を志して井上正夫門下に入る。
小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2… 小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2月10日 - 1931年〈昭和6年〉9月30日)は、1920年代に活躍したプロレタリア文学の評論家である。 岡山県御津郡金川町(現・岡山市)出身。早稲田第一高等学院文科に入学し、早稲田大学露文科に進学する。在学中より尾崎一雄、村田春海たちと同人雑誌をはじめ、卒業後は高等学院で教壇にもたつが、結核を病み職を辞し、文芸評論の執筆に専念する。その後、日本プロレタリア作家同盟に加入し、1930年に『文学革命の前哨』(世界社)を上梓するも、まもなく没した。 瀬沼茂樹は『現代日本文学大系』所収の小宮山の評論に関して、「解説」のなかで、「マルクス主義の立場で所謂ブルジョア文学を内在的に批評する者は稀であったので、珍重すべき評論」と述べている。
山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月… 山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月5日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の軍事史学者。特に日本の甲冑についての研究で名を知られる。 山上が帝国学士院より受賞した研究『日本甲冑の新研究』は、上下巻を合わせて2500ページに迫る膨大なもので、その中で紹介されている日本全国の甲冑資料も、非常に豊富である。現代の甲冑研究にも強い影響を与え続けている大著である。 「万巻の書を読み千里の道を行く」を一生の目標とし、大学時代より日本各地を旅行して甲冑を捜索した。服飾史学者の河鰭実英や城郭研究者の鳥羽正雄と親交があったが、特に鳥羽とは小学校以来の付き合いがあり、山上が東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 -… 竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 - 1981年4月20日)は、日本の翻訳家、実業家、三笠書房創立者。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。 本所高等小学校卒業。正則英語学校、アテネフランセに通い英語、ドイツ語、フランス語を習得。 藤澤衛彦の主宰の雑誌『伝説』の編集に携わる。のち、梅原北明が企画し福山福太郎が創設した「文藝資料研究会」に参加し、雑誌『奇書』や「変態文献叢書」の編集を手がける。1930年には酒井潔らの協力をうけ「風俗資料刊行会」を設立し、雑誌『風俗資料』『デカメロン』らを編集刊行した。 そののち、哲学者三木清らのグループや、唯物論研究会との親交を重ね、1933年に妻富子と共に、社会科学書、ヨーロッパ・アメリカ文学の翻訳書の刊行を主とする、三笠書房を創立。
五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または… 五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または2月1日 - 1981年5月1日)は、日本の映画監督、脚本家、俳人。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。本名は五所 平右衛門(ごしょ へいえもん)。俳号は五所亭。 東京市神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、「豊前屋」という大店の乾物問屋を営む父・平助の妾腹の子として生まれる。生みの母は新富町で芸者をしていた。5歳の時に長男が亡くなり、母のもとを離れて後継ぎにされた。1916年に慶應義塾商工学校に入学する。学生時代には俳句に没頭していた。 1921年、歩兵第1連隊に志願入隊し、見習士官で予備となる。1923年、慶應義塾商工学校卒業後、城戸四郎との出会いがきっかけで、父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあって、松竹蒲田撮影所へ入社する。
山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 … 山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 - 1978年5月19日)は、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。 東京・浅草生れ。祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。1915年、親の反対に遭い府立一中(現 都立日比谷高校)入学翌日に退学を余儀なくされ、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科大工分科入学(現 東京工大附属高校)。同期には横河工務所で構造技術者として活躍し、山口の代表作である日本歯科医学専門学校付属医院の構造設計も担当した田中正蔵らがいる。1918年、東京高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組(現:清水建設)に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。
角田 長雄(つのだ ながお、1902年〈明治35年〉 - 没… 角田 長雄(つのだ ながお、1902年〈明治35年〉 - 没年不明)は、日本の地主。 東京府荏原郡碑衾村大字碑文谷出身。角田元亮の長男。母・いくは現在の世田谷区北沢の地主・阿川信平の妹。1931年、家督を相続した。東京府立園芸学校を卒業し、1年志願兵となり陸軍砲兵少尉に任ぜられた。地主として知られた。1934年、清水池公園のために若干の土地を寄付した。戦後、公職追放となった。住所は東京市目黒区碑文谷。
根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、… 根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。 早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)から茨城県の竜ヶ崎中学校に転校し、1921年の甲子園に投手として出場(初戦で大連商に3-5で惜敗)。早稲田大学では名遊撃手として活躍した。 プロ野球選手としての経歴はないものの、指導者として長く様々なチームに関わった。早大進学後には、合宿を抜け出して母校の竜ヶ崎中学校を泊まり込みで指導し、甲子園に導いている。秋田商や中央大学の監督を経て、1938年に桝嘉一の後任として名古屋軍の監督に就任した。 しかし、当時の名古屋軍は主力が抜けた後でチーム事情が悪く、投手では西沢道夫・松尾幸造、打者では大沢清が活躍するも低迷。
燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月2… 燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月22日 - 1974年(昭和49年)11月9日)は、日本の詩人。本名は岸野 知雄。 東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)在学中から日夏耿之介に師事し、1922年同大学予科を卒業した。 1925年に同大学本科2年を修了後、三省堂に入社し、同社資料室長、営業部長などを務めた。 蒐集したウィリアム・バトラー・イェイツ初版本を含むアイルランド文学関連のコレクションは一橋大学附属図書館に岸野文庫として収蔵された。
木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1… 木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本の写真家。戦前・戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。 報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。 ことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることで知られ、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で切り取っている。こうした作風により、木村はフランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ=ブレッソンになぞらえられ"和製ブレッソン"と言われた。
浅野 延秋(あさの のぶあき、1901年(明治34年)11月… 浅野 延秋(あさの のぶあき、1901年(明治34年)11月10日 - 1969年)は、日本のバスケットボール選手・指導者。早稲田大学で最初の学生バスケットボールチームを組織し、大日本バスケットボール協会の設立に尽力した。 山梨県中巨摩郡落合村(現在の南アルプス市)出身。郷里の小学校を卒業後、成城中学に入学。成城中学はいち早くバスケットボールを受容していた中等学校の一つで、浅野はバスケットボール部の主将を務めた。 1920年、早稲田大学高等学院(早高)に入学。浅野は陸上競技部で同好者を集めてバスケットボールの練習を行い、アメリカ人英語教師スペンサーの指導を受けた。その後、早高にはほかにいくつかのバスケットボールチームが現れた(中山克己は建築科で、冨田毅郎は機械科でチームを結成した)。