21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ… 21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蔣介石庄之助」と通称されている。 長野県更級郡塩崎村(現長野市)出身。本名:樽田→竹内重門。祖父、父(湊崎)ともに東京相撲の力士で、廃業後も浦風部屋の地方世話人(巡業の世話)をしていた。そのため幼少の頃に父の力士時代からの知人であった伊勢ノ海部屋所属の年寄・6代山響の養子となり、1897年、わずか8歳で初土俵を踏んだ。初名は3代式守与之吉で、20代庄之助が兄弟子である。1913年1月場所8日目に青白房(十両格)に昇格。
鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 198… 鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 1987年5月28日)は、日本の土木工学者、内務官僚。元日本大学教授。土木工学・港湾工学の研究に業績を上げる。1927年工学博士(九州帝国大学)。 長野県松本市生まれ。1908年旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)卒業、1911年第八高等学校卒業、1914年九州帝国大学土木工学科卒業。1914年内務省に入り、鉄道技師、土木局技術課長、内務技監を務める。 1930年日本大学旧工学部教授、1944年土木学会会長。1945年内務省を退官し、日本発送電の技術顧問となる。1947年から東京大学講師を兼任、1952年日本大学国土総合開発研究所長。1964年港湾審議会長、チリ津波対策審議会長、1968年日本港湾協会長などを歴任。
中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 195… 中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 1951年3月1日)は日本の政治家。長野県の在郷軍人有志で結成された政治結社信州郷軍同志会の理論的指導者であり、大政翼賛会では中央協力会議部副部長として新体制運動を担った。号は起雲子。 下伊那郡竜江村(現飯田市)の地方名望家中原治部衛門の次男として生まれ、旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を卒業後に早稲田大学文科予科に進学した。1912年に坪内逍遙が主催した文芸協会演劇研究所の第1期生として入所し、俳優を目指した。同期には、河竹繁俊、松井須磨子らがいる。俳優を目指していた中原であったが、長男である兄が死去したことを受けて、俳優の夢を断念して1913年、大学予科修了後に帰郷した。
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月2… 板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月29日 - 1961年(昭和36年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に農業・板花茂一郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校で偵察を学んだ。1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進。
征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 19… 征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 1929年4月26日)は、日本の神学者、哲学者である。 長野県塩尻市出身。1910年(明治43年)日本基督教会富士見町教会で植村正久に洗礼を受ける。富士見町教会有志青年の寄宿舎山上寮に材料する第一高等学校、東京帝国大学を卒業する。卒業後は、福岡高等学校教授に就任した。 1926年(大正15年)に植村正久の死後、東京に戻り東京神学社、東京女子大学で哲学を教える。東京神学社の同僚に高倉徳太郎がいる。 戸山教会(信濃町教会)に転会し、高倉の協力者になった。カント、ヤーコプ・ベーメ、トマス・アクィナス、アウグスティヌスなどの研究を進めた。 1929年(昭和4年)に神奈川県茅ヶ崎町の自宅で病死した。
大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月… 大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月15日 - 1959年〈昭和34年〉)は、日本の郷土史家。地元の松代を中心に活躍し、『佐久間象山』『真田幸弘と恩田木工』などを著す。松代町会議員も務めていた。 長野県埴科郡寺尾村(現・長野市松代町東寺尾)に生まれる。20歳前後で松代で発行されていた『勧業新聞』の記者になり、1913年(大正2年)に最初の書籍である『松代風土記』を発刊。その後、『中信時報』新聞社に移り、30歳で松代町史編纂主任に就任する。また、1937年(昭和12年)から昭和30年代までは松代町会議員も務めていた。 議員になってから活動はより狭い範囲になり、著書は多いが松代に関する小説的なものが多くなっていく。
棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 19… 棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 1973年2月20日)は日本の労働運動家、政治家。新人会などの学生運動、友愛会、労働総同盟などの労働運動にかかわり、日本労農党や社会党などの結成に関与した。 第三高等学校卒業後、東京帝国大学法科大学に進み、在学中に新人会に参加した。また、麻生久、山名義鶴と社会問題研究会である木曜会を結成した。この木曜会には後に岡上守道、佐野学、野坂参三が参加した。 東京帝国大学在学中から麻生らと共に吉野作造や安部磯雄の影響を受けて、友愛会入会を期したが会長の鈴木文治に断られ、1917年卒業と共に司法官試補となった。翌1918年、司法官試補を辞して友愛会入会を果たし、1919年には関東出張所主事となって日立鉱山争議などを支援した。
青木 儀作(あおき ぎさく、1889年〈明治22年〉 - 1… 青木 儀作(あおき ぎさく、1889年〈明治22年〉 - 1965年〈昭和40年〉1月2日)は、日本の煙火師・花火師。花火業界では初めて黄綬褒章を受章し、「花火の神様」とも呼ばれた。 息子の青木多門、孫の青木昭夫も煙火師として活躍し、3代にわたって日本煙火芸術協会の会長を務めている。 長野県上水内郡安茂里村差出(現・長野市安茂里差出)に三男一女の末子として生まれ、早くから村社・久保寺煙火行事に参加して花火と関わる。安茂里小学校高等科を出て農業に従事。地元には藤原善九朗経営の煙火工場もあり、花火に関心を寄せて研究を重ね、兵役後の大正5年(1916年)には花火工場をつくり、煙火製造に専念する花火師となった。
斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - … 斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - 1970年5月6日)は戦前の日本ホーリネス教会(戦後の日本ホーリネス教団)の牧師である。 1888年(明治21年)に長野県小県郡西内村(現上田市)に生まれる。1906年(明治39年)に日本聖公会上田教会に出席し、同教会で1907年(明治40年)に聖公会の洗礼を受ける。 1909年(明治42年)に上京し単立教会・本郷浅嘉町教会に出席する。そこで、初めて救いの確信を得る。その後、牧師になるため直接献身する。聖書学院に入学し、神学を学ぶ。 1916年(大正5年)に聖書学院を卒業し仙台福音伝道館の牧師に任命される。 その後、兵庫県武庫郡住吉村で開拓伝道をする。
植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年… 植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年> 11月3日 - 1968年 <昭和43年> 5月9日)は、日本の精神医学者。位階は正四位。 長野県諏訪郡本郷村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1915年東京帝国大学医科大学卒業。同大学三浦内科、精神科に勤務。1918年渡米し、マサチューセッツ州立精神病院病理研究所員、ダンバース精神病院病理研究所員、ボストン精神病院病理研究所員、ハーバード大学医学部神経病理部講師。1923年論文「プルキンエ細胞樹枝突起と軸索における限局性腫脹について」で医学博士。慶應義塾大学医学部神経科講師。1925年同大学助教授、1926年同大学教授。
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1… 金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。 1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。
加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月3… 加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月31日 - 1922年(大正11年)5月1日)は、明治・大正期の小説家。本名はきくよ。月刊誌「青鞜」の社員であった。 1888年(明治21年)8月31日、長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)にて、医師の父・高仲泰一と、母・久与の間に、長女として生れる。1899年(明治32年)12月11日、母・久与が病死(享年32歳)。幼い4人の弟妹たちの世話を、11歳のきくよがすることとなった。 文学に憧れ始めたのは小学校4年か5年の頃のことで、受持ちの教師の作った狂歌のようなものを面白く思い、家にあった本の物語や和歌を読み耽った。その後、「新小説」「早稲田文学」「明星」などの文芸雑誌や、与謝野晶子、島崎藤村などを愛読した。
細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6… 細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6月24日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階は従三位。 農業、細萱伊勢吉の四男として長野県南佐久郡桜井村(現佐久市)に生まれる。野沢中学を経て、1908年(明治41年)11月海軍兵学校(36期)を卒業し、1910年(明治43年)に少尉任官。1914年海軍水雷学校高等科を卒業後、駆逐艦「樺」乗組、第1特務艦隊参謀、佐世保鎮守府副官などを歴任。1920年(大正9年)、海軍大学校(甲種18期)を卒業。以後、第4戦隊参謀、軍令部第2班第4課参謀、「夕張」副長、「日向」副長、呉軍需部第1課長、「鳥海」艦長、軍需局第1課長、佐世保工廠造兵部長、「陸奥」艦長などを歴任し、1935年(昭和10年)海軍少将に進級。
松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日… 松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日 - 1978年(昭和53年)11月12日)は、大正から昭和期の医師、政治家。長野県飯田市長。位階は正六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、松井敦、光子の息子として生まれた。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て、1926年(大正元年)10月、旧制千葉医学専門学校を卒業。同年、一年志願兵として歩兵第60連隊に入隊し、2年後に陸軍三等軍医として除隊。東京江東病院小児科医局に勤務する。1916年(大正5年)飯田に戻って兄が経営する医院に小児科医として勤め、1930年(昭和5年)兄の死去により医院を承継し、内科小児科医院を経営した。
若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1… 若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1968年8月19日)は、明治期から昭和期の歌人。若山牧水の妻。旧姓は太田、本名は喜志。妹の潮みどりも歌人。 1888年(明治21年)、長野県東筑摩郡広丘村吉田(現・塩尻市)生まれ。松本高等女学校への進学を希望したが、母が病弱だったため断念した。高等小学校から補習科を終えて、島木赤彦が校長を務める広丘尋常高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)に裁縫教師として奉職。しかし赤彦からの影響は特に受けていない。「女子文壇」に投稿するようになったことで今井邦子や生田花世らを知り、横瀬夜雨から高い評価を受ける。22歳の頃、信濃毎日新聞歌壇に投稿し、選者の太田水穂に認められる。
草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968… 草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968年2月18日)は、日本の医学者。 長野県松本市に生まれる。1905年に渡米、1916年スタンフォード大学理学部、1920年同医学部を卒業し帰国。その間シカゴ大学で生理学、病理学を研究する。1921年慶應義塾大学衛生学教室に入り、1927年に助教授に就任。再渡米し、ロックフェラー財団奨学生としてジョンズ・ホプキンズ大学公衆衛生学課程修了。1929年に帰国し、1930年慶應義塾大学教授に就任。第二次世界大戦後GHQに協力して、インターン制度の導入等、医療制度・医学教育の改革に尽力した。1940年慶應義塾大学医学部予防歯科学研究所所長、1955年から1959年まで同大医学部長に就任。
清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日… 清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日 - 1971年(昭和46年)5月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日… 田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日 - 1964年〈昭和39年〉8月27日) は、日本近代橋梁史上最も著名な技術者。東京大学名誉教授。工学博士。 長野県長野市出身。元は橋梁技術者ではなく、鉄道系の技術者で、鉄道省時代は設計の規格化などの仕事に従事した。帝都復興院には太田圓三とともに在籍することになるが、なぜか橋梁課長に抜擢されることになった。恩師・広井勇に顧問への就任を依頼したところ、「落ちないようにやればよい」と逆に激励されたという。 関東大震災によって被害を受けた橋梁の総数は、東京で675橋、横浜で108橋であったが、復興事業の設計責任者として隅田川にかかる永代橋や清洲橋といった橋梁群を手がけ、新技術を次々に導入して橋梁近代化の礎を成した。
野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964… 野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964年6月20日)は、日本のジャーナリスト、放送経営者。朝日新聞社代表取締役、熊本日日新聞社社長、第8代日本放送協会(NHK)会長を歴任。広島県双三郡原村(現・三次市十日市町)出身。 旧制三次中学校(現・広島県立三次高等学校)を経て1911年、早稲田大学専門部法律学校卒業。立憲政友会の機関誌中央新聞に就職、続いて徳富蘇峰社長の國民新聞に移った。ここで原敬の信頼を得て政治記者として大成の道を歩む。1920年朝日新聞社入社。38歳で政治部部長となり取材体制の近代化、政治記事の刷新を行い、記憶力のよさと行動的取材力で「夜討ち朝駆け」の記者像をつくったと言われる。
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1… 両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1月4日 - 1963年(昭和38年)9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県諏訪郡湖東村[要出典](現茅野市)出身。諏訪中学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。同連隊中隊長などを経て、陸軍歩兵学校で甲種学生として学んだ。 以後、陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。
千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、… 千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、日本の遺伝学者。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。女学校などでの教鞭の傍ら、遺伝学研究に没頭した。その実績が認められ、京都帝国大学に招かれ、京都帝国大学理学部助教授を務める。1940年日本遺伝学会賞受賞。 戦後、母校である旧制諏訪中学が新制諏訪清陵高校になるのに伴い、郷土出身の著名な学者を呼ぼうということになり、初代校長(旧制諏訪中学を含め第13代校長)を務めた。校長当時、生徒だった人物に、1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞した考古学者武居幸重がいる。1937年京都帝国大学理学博士。論文の題は「黒猩々蝿の遺傳學的研究 」。
塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - … 塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の政治家、教育者。長野県諏訪市長。勲五等瑞宝章。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、長野師範学校卒業。諏訪郡高島小学校訓導、同郡宮川小学校長、上高井郡視学、長野県視学を経て、1933年(昭和8年)高島小学校長兼高島裁縫専修学校長となる。また諏訪教育会長として二・四事件の事後処理に奔走した。また郷土史研究に力を入れ、『諏訪史』の編集刊行に尽力し、1937年(昭和12年)第2巻後編の刊行代表者を務めた。また同年から『諏訪史料叢書』の刊行に当たった。
宮沢 胤勇(宮澤 胤勇、みやざわ たねお、1887年〈明治2… 宮沢 胤勇(宮澤 胤勇、みやざわ たねお、1887年〈明治20年〉12月15日 - 1966年〈昭和41年〉6月2日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。 長野県諏訪郡川岸村駒沢(現・岡谷市)に台湾総督府官吏・宮沢長吉の長男として生まれる。幼少期は母と駒沢の生家で生活し、1900年(明治33年)に台湾に移った。 日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)を経て早稲田大学に進み雄弁会に所属した。同大卒業後、実業界を経て政界入りした。衆議院議員選挙に通算6回当選した。 戦前は立憲民政党に所属、戦後は旧民政党出身の大麻唯男・野田武夫・小泉純也・浜野清吾・真鍋儀十・山本粂吉らと行動をともにし、改進党、日本民主党、自由民主党に所属した。
平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - … 平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - 1969年5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。
春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976… 春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976年2月11日)日本の帝国海軍提督。最終階級は海軍少将。 戦艦「陸奥」艦長。重巡洋艦「鳥海」艦長。第1潜水戦隊司令官。佐世保防備戦隊司令官。グアムの戦いにおけるグアム島攻略部隊指揮官及びマリアナ方面防衛部隊第5根拠地隊司令官。第5特別根拠地隊司令官。 長野県下高井郡穂波村佐野(現在、山ノ内町)出身。長野県会議員(第1回県議選~第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の息子として生まれる。穂波小学校から旧制長野中学(長野県長野高等学校)に進学して卒業。1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。
国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 19… 国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 1943年4月8日)は日本の小説家。怪奇・幻想・耽美的な伝奇小説の書き手。他に探偵小説、戯曲なども執筆。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)に、県庁・郡役所勤めの父の四男に生まれる。父の仕事の都合で小学校を点々とし、旧制長野中学に入学、剣道に熱中する。しかし蛮勇が元で放校処分を受け、海軍士官の兄により東京に引き取られ、郁文館中学校入学。 1908年中学卒業後、海軍兵学校を受験するが失敗し、早稲田大学英文科に入学。詩や演劇などの創作活動に熱中し、『文庫』『三田文学』『太陽』などに小説を寄稿、大学の先輩小川未明の主宰した青鳥会にも参加。
上原 吉之助(うえはら きちのすけ、1887年(明治20年)… 上原 吉之助(うえはら きちのすけ、1887年(明治20年)9月28日 - 1971年(昭和46年))は、昭和期の政治家。長野県須坂市長(初代)。幼名・菅太郎。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)生まれ。のち吉之助を襲名した。須坂町消防組頭、須坂町警防団長を務めた。1929年(昭和4年)須坂町会議員となり連続5期在任。 1947年(昭和22年)須坂町長に当選し、高井郡町村会長、長野県治山協会常任理事を務めた。昭和の大合併では上高井郡1町2村の新設合併を実現した。 1954年(昭和29年)4月、市制施行に伴い初代市長となり、1958年(昭和33年)3月まで1期務めた。在任中は百々川の河川災害防止のための抜本的改修や、全市水道の敷設、新制中学校の建設などに尽力した。
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月2… 新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月26日 - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会主義者、アナキスト。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人で、計画の首謀者とも言われる。号は秋峰。 長野県埴科郡屋代町(現:長野県千曲市)の出身で生家は豪農だった。1897年(明治30年)に屋代小学校尋常科を卒業し、高等科に4年、補習科に1年ほど在学した。 郷里で信仰に疑問を持って無神論者となり、1903年(明治36年)に上京して幸徳秋水・堺利彦らが製作した平民新聞を愛読し、同年には日本メソジスト教会で受洗する。 1906年(明治39年)、新村はピョートル・クロポトキンの「無政府主義の哲学」を読んでアナキズムを知る。
勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 -… 勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 - 1967年11月16日)は、日本の経営者。産業経済新聞社社長、信越放送社長を務めた。 長野県長野市出身。1913年に日本大学法学部を卒業。 京城日報社、新愛知新聞社、中部日本新聞社などを経て、1950年1月に信濃毎日新聞社副社長に就任し、1951年に信越放送社長に就任。1955年2月に産業経済新聞東京本社社長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年11月16日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月… 青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月19日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長。 青木丑松の四男として長野県東筑摩郡、のちの錦部村(四賀村を経て現松本市)に生まれる。小学校を経て、松本中学校に学ぶ。日本大学法律科に入学するが、中途退学する。1909年(明治42年)裁判所書記試験に合格し、東京府属となり、1923年(大正12年)南葛飾郡長を拝命する。ついで北豊島郡南千住町助役、1932年(昭和7年)東京市荒川区主事税務課長、1933年(昭和8年)庶務課長を経て、1938年(昭和13年)5月、江戸川区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。
金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 -… 金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 - 1963年5月22日)は、日本の牧師。 1887年、長野県南安曇郡上野村(現・松本市)に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、第一高等学校に入学、一高時代に、新渡戸稲造校長の感化を受けて、求道して、山室軍平の説教に感動して、松本教会で洗礼を受けた。一高在学中に山で遭難する。それをきっかけに伝道者になる決意をして、東京神学社に入学。 東京神学社卒業後、一時、朝鮮仁川に開拓伝道に赴く、帰国して日本基督教会の伝道師として、高知教会、牧師になってからは山梨教会、市ヶ谷教会(現、日本基督教団池袋西教会)の牧師として活動する。 1917年(大正6年)の2月11日から15日日本基督教会主宰の山梨修養会では、中田重治と一緒に説教した。
宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 19… 宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 1975年6月11日)は、日本の考古学者、茅野市尖石縄文考古館初代館長。 長野県考古学会初代会長。茅野市名誉市民。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 1922年に泉野尋常高等小学校(現在の茅野市立泉野小学校)の代用教員となる。このころ俳人、小平雪人が主宰する句会「牧馬会(まきばかい)」に入会。以後小学校教員、中学校教員を務め、1929年、伏見宮博英王の八ヶ岳西側山麓の茅野市の尖石・与助尾根遺跡の発掘を、小平雪人とともに手伝う。その事から考古学の魅力に目覚め、研究を続ける。1930年宮坂が独力で尖石・与助尾根遺跡を発掘、縄文時代中期の集落(ムラ)研究の基礎を築いた。
長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 … 長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 - 1961年(昭和36年)4月18日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。専門は教育思想史。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡豊平村(現:茅野市)出身。古田小学校下古田分校では、歌人島木赤彦の父、塚原浅茅教諭の教えを受ける。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、広島高等師範学校英語科を卒業後、大分師範学校の教諭を3年務めた後、1915年(大正4年)京都帝国大学文学部卒業。澤柳政太郎のもとで新教育運動に参加し、教育の実証的実験研究を行う。旧制広島文理科大学(広島大学の前身)教授在任中の1945年(昭和20年)8月6日広島に投下された原爆に被爆し重傷を負ったが、家族や教え子の看護で九死に一生を得た。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
金井 章次(かない しょうじ、1886年(明治19年)12月… 金井 章次(かない しょうじ、1886年(明治19年)12月1日 - 1967年(昭和42年)12月3日)は、日本の医師、官僚。蒙古聯合自治政府最高顧問。旧姓は倉島。 長野県小県郡住吉村[要出典](神科村を経て現上田市)で、倉島称平の四男として生まれ。旧上田藩士・金井広治の養子となる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、第二高等学校を経て、1913年東京帝国大学医学部卒業。1912年同郷の山極勝三郎の病理学研究室に入り、1914年北里研究所に移籍。1920年ロンドン大学に留学、ついで1922年国際連盟事務局保健部に勤務。日本人の海外における風土馴化を研究し、1924年帰国して慶應義塾大学教授。 1930年南満州鉄道の招きで満州に渡り、満州青年連盟理事長代理となる。
吉川 亮夫(よしかわ あきお、1886年(明治19年)9月7… 吉川 亮夫(よしかわ あきお、1886年(明治19年)9月7日 - 1954年(昭和29年)11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員、号は半石。 長野県下伊那郡松尾村(現飯田市)に生まれる。酒造業・吉川芳太郎の長男。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学科卒業。松尾村会議員を経て、1927年(昭和2年)、長野県会議員となる。同4年(1929年)松尾村長に推挙され、昭和恐慌による農村経済の危機を、救農資金の貸し付けで切り抜け、公共土木事業を起こして失業者を救い、道路改修、河川治水、橋梁架け替えなど村内各地の社会基盤整備に奔走した。 松川入森林組合長、全国町村会会長代理、長野県砂防会長、同県町村会長などを歴任し、同17年(1942年)第21回衆議院議員総選挙において長野3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を得て、当選。
今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 195… 今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 1950年3月21日)は、西洋史家、東京帝国大学名誉教授。 1886年、長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)で生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業し、第一高等学校に進学。東京帝国大学文科大学史学科に進み、1911年に卒業した。 1916年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭に就いた。1920年より第一高等学校教授。1923年、東京帝国大学文学部助教授となり、同年から1926年まで文部省在外研究員として欧米に研究留学。1930年、教授に昇格した。また、1939年10月には文学部長に就任した。1947年、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となった。
丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治… 丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治19年〉6月2日 - 1962年〈昭和37年〉5月10日)は、日本の画家。 1886年(明治19年)6月2日、長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。幼少期を諏訪湖や蓼科山・八ヶ岳といった大自然に囲まれた中で過ごし、自然愛を育む。1906年(明治39年)、20歳で上京し、荒木寛畝に入門。絵画の基礎を学び、自らの画風を固めて行く。「晩秋の図」・「水辺夏色」がそれぞれ日本美術協会展(1911年)・日本画会展(1912年)で入選。大正以降、写生のため日本各地に足を運ぶようになる。 1918年(大正7年)、荒木十畝の門下であった幸(旧姓・荒木、画号・菜畝、1895年〈明治28年〉8月27日 - 1986年〈昭和61年〉)と結婚。
久保田 不二子(くぼた ふじこ、1886年〈明治19年〉5月… 久保田 不二子(くぼた ふじこ、1886年〈明治19年〉5月16日 - 1965年〈昭和40年〉12月17日)は、明治 - 昭和時代の歌人。島木赤彦の二人目の妻でもある。 1886年(明治19年)に長野県下諏訪町高木で生まれた。父は政信、母はぬい。10歳上に姉のうたが居た。 1902年(明治35年)1月、不二子が同年7月、16歳の時に姉のうたが亡くなる。その後彼女の子ども(長男)の面倒を見るため、後妻として島木赤彦に嫁ぐ。1903年(明治36年)に島木との間に二女、初瀬(はつせ)が生まれた。島木との年齢差は10歳であったが、妻として夫を支えようと努めていた。島木が東筑摩郡広丘村(現在の塩尻市)で小学校の校長として勤めている間も、下諏訪にて子育てと家事、農作業に勤しんでいた。
赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 19… 赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 1981年5月21日)は、日本の教育者。号は王郎。 王郎の正確な来歴については、正否の判定が難しい部分が多い。履歴書が流浪先で適当に書かれたものであり、来歴に関する具体的な口述が少ないこと、晩年は事実と本人の願望が錯綜したことを述べていたためである。 長野県上伊那郡東春近村(現伊那市)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、東京美術学校学校図案課を卒業後、長野県学務課に勤務。1910年に自殺未遂を起こし、翌年、更級郡中津尋常高等小学校の代用教員となり、諏訪郡玉川小学校に転任。この頃、来県した武者小路実篤に出会い、白樺派同人と交流を深め、以後長野県における白樺派教育の先導者となり、人道主義の思潮と芸術運動を盛り上げた。
高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10… 高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10日 - 1956年(昭和31年)8月15日)は、日本の政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。政治家としては衆議院議員を歴任した。長野県出身。陸士19期、陸大26期。 長野県南安曇郡高家村(現在の安曇野市)出身。松本中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官。1914年(大正3年)には陸軍大学校(26期)を卒業した。浦塩派遣軍参謀、参謀本部員、第14師団参謀、第6師団参謀、台湾歩兵第1連隊大隊長、奉天独立守備第2大隊長、福井連隊区司令官、歩兵第26連隊長、第8師団参謀長、歩兵第39旅団長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月15日には留守第2師団長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日陸軍中将に進級した。
平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1… 平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。
横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10… 横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10日 - 1971年(昭和46年)1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 長野県飯山市出身。陸軍士官学校第19期卒業。1925年(大正13年)3月、陸軍騎兵少佐に進級し、同年9月時点で陸軍騎兵学校附の任にあった。1924年(大正14年)9月時点で騎兵第13連隊附を発令され、成蹊高等学校兼成蹊実務学校配属となり、1928年(昭和3年)3月に近衛騎兵連隊附に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍騎兵中佐進級と同時に騎兵第16連隊附に着任した。1931年(昭和6年)3月に軍馬補充部十勝支部長に就任し、1933年(昭和8年)8月に騎兵第9連隊長(第9師団)に転補され、1934年(昭和9年)8月に陸軍騎兵大佐に進級した。
小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1… 小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1977年12月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。
高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日… 高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日 - 1970年(昭和45年)12月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県長野市長。 長野県上水内郡高岡村(現・飯綱町高岡地区)出身。1905年(明治38年)旧制長野県立長野中学校(長野県長野高等学校の前身)を卒業後、同郡中郷小学校で代用教員を務め、1910年(明治43年)長野県庁に奉職し、1914年(大正3年)高等文官試験に合格する。 下高井郡・上伊那郡各書記を経て、1918年(大正7年)7月に長野県下水内郡長、1922年(大正11年)3月に同県東筑摩郡長、1926年(大正15年)7月に地方事務官社会課長、地方課長を歴任し、1928年(昭和3年)4月に退官。
岩波 嘉重(いわなみ かじゅう、1886年 - 1974年)… 岩波 嘉重(いわなみ かじゅう、1886年 - 1974年)は、日本の実業家。日本ピラー工業(現・PILLAR)創業者。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京高等商船学校(現・東京海洋大学)卒業。1924年船舶用レシプロエンジンのシリンダーグランド用として国産第一号の船舶用パッキンである合金製ピラーパッキンを考案し、兵庫県神戸市灘区に日本ピラー工業所(現・PILLAR)を創業。1926年大阪府大阪市淀川区に本社・工場を新設。1948年株式会社に改組し、日本ピラー工業株式会社(現・株式会社PILLAR)を設立。
林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日… 林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日)は、長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)出身の教育者。本名は林 芳弥(はやし よしや)。 1886年(明治19年)長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)に生まれた。父は芳平、母はとみ。四男だった。千代村立千代尋常小学校(現・飯田市立千代小学校)、農工補習学校を卒業し、徴兵検査で甲種合格となったことで近衛兵として入隊した。除隊後には役場の吏員として働いていたが、1915年(大正4年)28歳の時に波合村の尋常小学校(現・平谷村立平谷小学校)で代用教員となった。1922年(大正11年)12月、尋常科正教員資格を取得。平谷湖の近くに住み、年老いた母親や子どもとともに暮らした。
片倉 直人(かたくら なおと、1885年11月9日 - 19… 片倉 直人(かたくら なおと、1885年11月9日 - 1958年10月16日)は、日本の実業家、教育者。 片倉製絲紡績株式會社取締役、伊勢萬吳服店株式會社取締役、日東紡績株式會社取締役、東部電力株式會社取締役、富國火災海上保險株式會社取締役、諏訪生絲副產株式會社取締役、備作製絲株式會社監査役、郡山商工會議所副会頭(初代)、片倉生命保險株式會社社長、学校法人松本松南高等学校理事長(第3代)などを歴任した。 長野県出身の実業家である。製糸業や金融業などで活躍し、片倉製絲紡績など多くの企業の経営に参画した。富國火災海上保險では取締役となり、片倉生命保險では社長に就任している。そのほかにも郡山商工會議所の副会頭など公的団体の役職や、松本松南高等学校を運営する学校法人の理事長などを歴任した。
白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 19… 白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 1960年11月2日)は、日本の医学者(産科学・婦人科学)。日本の産婦人科学界の父と呼ばれ、子宮がん治療に初めて放射線を採用したことで知られる。白木博次は次男。