長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月… 長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月15日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、旧制中学校の教員。長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代町)においてビン詰めによるエノキタケの人工栽培法を考案した。
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長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月… 長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月15日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、旧制中学校の教員。長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代町)においてビン詰めによるエノキタケの人工栽培法を考案した。
北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月… 北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月13日 - 1931年〈昭和6年〉12月9日)は、日本の教育者。 長野県諏訪郡四賀村(現在の諏訪市)出身。長野県師範学校を経て、1906年(明治39年)に東京高等師範学校を卒業した。福井県師範学校を経て、東京女子高等師範学校教授・同附属高等女学校教諭・同附属小学校主事を務めた。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までドイツに留学し、帰国後は東京女子高等師範学校附属高等女学校主事となった。ドイツから帰国後、作業教育を提唱した。
木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2… 木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2日 - 1935年〈昭和10年〉1月1日)は、明治後期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、銀行家。八十二銀行の初代常務取締役を務めた。 1879年(明治12年)12月2日、長野県南佐久郡大沢村(現・佐久市大沢)の醸造業・木内儀三郎の長男として生まれる。木内家は武田信玄にゆかりのある旧家であり、代々大沢村(当時は田口藩領)の庄屋を務めた家柄であった。祖父・清兵衛が安政2年(1855年)に酒造業を創業し、栄司は二代目儀三郎の長男として家督を継いだ。 実業界では、1906年(明治39年)8月に南佐久郡臼田町(現・佐久市)に合資会社千曲銀行を設立し、頭取に就任。
荻原 碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、18… 荻原 碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。長野県東穂高村(現:安曇野市)出身。 守衛は幼い頃から病弱で、大好きな読書をしたり、絵を描いて過ごしていた。17歳の時、通りがかりの女性に声をかけられる。田舎では珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳をした美女の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩相馬愛蔵の新妻で、守衛の3歳年上であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる芸術についての知識を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。
菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1… 菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1955年9月9日)は、明治後期から昭和中期にかけての日本画家。本名菊池(旧姓細野)完爾。 1879年(明治12年)11月14日、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の細野勝太郎・はつ夫妻の次男として生まれる。少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられる。小学校高等科卒業後は呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑。やがて画家として立つことへの思いが止み難いものとなり、1896年(明治29年)、妹の結婚式のどさくさに紛れて同郷の友人・町田曲江とともに 故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。
小林 暢(こばやし とおる、1879年〈明治12年〉10月1… 小林 暢(こばやし とおる、1879年〈明治12年〉10月19日 - 1935年〈昭和10年〉1月2日)は、明治後期から昭和戦前期にかけての実業家・政治家。長野県更級郡信田村(現・長野市)の人物で、実業界では長野農工銀行や八十二銀行(前身六十三銀行を含む)の頭取を長く務め、政界では貴族院多額納税者議員を1期7年務めた。 小林暢は、1879年(明治12年)10月19日、長野県更級郡信田村(現・長野市信更地区)の素封家・小林元辰(士族)の長男として生まれた。父・元辰は1878年(明治11年)の大蔵省調査によると県を代表する大地主35人のうちの一人であった。1887年(明治20年)8月、父の死去により家を継ぐ。
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16… 斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16日 - 1953年(昭和28年)7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。 長野県北安曇郡七貴村(後の安曇野市)に旧松本藩士・三宅政明の四男として生まれる。既に帰農していたため、士族籍ではなく平民籍であった。貧しかったため幼少期には丁稚奉公に出されている。旧制松本中学(後の長野県松本深志高等学校)を経て1901年に陸軍士官学校(12期)を卒業。歩兵少尉に任官した。同期に杉山元、小磯國昭、香椎浩平らがいる。旧制中学時代に医師で漢学者の斎藤順の養子となった。 1903年中尉に昇進し、1904年に勃発した日露戦争に従軍。
赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27… 赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27日 - 1945年〈昭和20年〉9月10日)は、日本の内務官僚、政治家。静岡県知事、警視総監、貴族院議員。 長野県埴科郡南条村(現・坂城町)出身。赤池七右衛門の長男として生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入り、京都府属となり内務部第一課に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年5月、内務属・大臣官房秘書課兼地方局勤務となり、以後、福島県参事官、同県事務官、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、兵庫県事務官・警察部長などを歴任。 1913年6月、内務省本省に戻り内務書記官に就任。
手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 19… 手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 1954年8月16日)は日本の教育者。基督者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。長野県師範学校に入学し、信濃毎日新聞主筆の山路愛山からキリスト教に関する感化を受け、在学中に長野教会で高木信吉牧師から受洗する。明治35年(1902年)、太田水穂が校長を務める東筑摩郡和田尋常小学校に赴任。同37年(1904年)に休職して上京し、植村正久の東京神学社に学ぶ。復職後は上高井郡川田、須坂の各尋常小学校の訓導、東筑摩郡会田尋常小学校校長を経て、明治44年(1911年)長野市後町尋常小学校首席訓導に転じ、教師仲間と「東西南北会」を結成し、形式主義的な教育に対抗して、教師自身の人格を高め、生徒の個性や人格を尊重するという「人格主義教育」を唱えた。
中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10… 中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 - 1920年(大正9年)8月9日)は、日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。 長野県伊那郡大草村(現・中川村)出身。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家であった。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に入学し、2年上の窪田空穂(後に歌人)、1年下の吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つようになる。中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学。ここで次第に西洋文学に興味を持つようになり、特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。
中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1… 中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1946年4月9日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。本名は茂一。 長野県北佐久郡三井村(現佐久市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1899年東京専門学校(現早稲田大学)卒業。坪内逍遥の門下生としてシェイクスピアを研究し、文学評論や海外文学の紹介などを新聞や雑誌に執筆した。『明星』『新小説』『読売新聞』等に文学評論を書き、1904年小説「新気運」を発表。1909年後藤宙外らと文芸革新会を組織して反自然主義をとなえ、島村抱月と対立。のち児童もの・歴史ものに移った。 グリム童話『赤ずきん』において「赤ずきん」という邦題を初めてつけたのは中島孤島であろうと言われている。
栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 19… 栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 1946年9月11日)は日本の郷土史家、新聞記者。号は酔古など。 長野県水内郡寿村(現・飯山市)の医者の家に生まれる。医業を志して明治27年(1894年)に上京し、旧制独逸協会中学に入学するが中退、同34年(1901年)に再び上京し、長谷川泰の済生学舎に学んだ。同35年(1902年)政教社の同人となり、「日本及び日本人」に寄稿し、美術雑誌「芸苑」などを発刊。満州や朝鮮に渡り、樺太で事業を起こしたが帰国し、「木更津新聞」主幹などを経て郷里に戻り、同43年(1910年)には「長野新聞」編集長となった。 その後は長野県の歴史研究に没頭、昭和4年(1929年)に「長野県史」編纂委員となって「信濃史料刊行会」の発足の中心人物となり、県内外を歩き回って史料を渉猟した。
春日 政治(かすが まさじ、1878年4月1日 – 1962… 春日 政治(かすが まさじ、1878年4月1日 – 1962年6月30日)は、日本の国語学者。平安時代初期の古経典から仮名や古訓点の研究に業績を残し、訓点語学の基礎を築いた。
小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939… 小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939年6月16日)は、明治の陸軍騎兵大尉。1910年にアルゼンチンへ移民し、牧場主となった。
小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月2… 小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月24日) - 昭和30年(1955年)12月5日)は、明治から昭和時代の社会事業家。大正7年(1918年11月30日)私立感化教育機関札幌報恩学園創立。少年教護と障害児救済につくした。 長野県筑摩郡松本(現松本市)の商家の長男として生まれる。小学に入学後すぐに、父が米相場に手を出し家が破産。その後間もなく母と父も亡くなり10歳の時より紙問屋に年期丁稚奉公に入る。この時より慈善貯金を始め公共慈善の為に70回以上も支出した。23歳の時13年奉公した奉公先を辞め、1900年(明治33年)に小池家再興のため新天地、北海道函館区の地を踏む。同年空知支庁長・山田有斌が身元引受人となり空知支庁に採用される。
市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 19… 市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 1963年11月28日)は日本の郷土史家、教育者。 長野県下伊那郡米川村(現飯田市)生まれ。1902年長野県師範学校講習課修了後、県下の小学校等で教諭を歴任し、1919年山本尋常小学校の校長に就任。1921年から1932年まで旧制飯田高等女学校の教諭を務めた。 1912年に下伊那郡役所から松尾多勢子に関する研究を嘱託されたのを皮切りに、長野県や県下各教育会の依頼を受けて、史論の執筆や調査研究に従事し、「信濃史料」「伊那史料叢書」「長野県史」「下伊那史」等の編纂に携わる傍ら、飯田図書館副館長を務めた。研究対象は考古学、史跡、建築、仏教美術等、多岐にわたる。
滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年… 滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年)1月2日 - 1963年(昭和38年)1月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 滝沢忠三郎の長男として、長野県小県郡上田町(現上田市)に生まれる。1921年(大正10年)家督を相続する。1897年(明治30年)長野県小県蚕業学校卒業。 陸軍に入り、三等主計に進む。蚕業に従事し、1897年(明治30年)には弟の徳太郎とともに蚕種、蚕具販売店を開き、雑誌『蚕友』を発刊した。ほか、長野県蚕種検査員、上田蚕業講習所所長、上田新聞社取締役を歴任した。 1911年(明治44年)家業を整理し上京し、1926年(大正15年)本所区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京鋳物工業組合、日本鋳物工業組合各連合会理事長、可鍛鋳鉄滝沢工業取締役社長、東京鋳物研究所各理事長、日本鋳物工業会長、日本可鍛鋳鉄工業会理事長を歴任した。
島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28… 島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28日 - 1941年(昭和16年)10月28日)は、日本の実業家、グラフィックデザイナー。日本初の図案社とされる島丹誠堂図案社の創業者。 三代続く画人の家系に生まれたが、本格的な美術を捨て広告図案という商業美術の分野に専念し、当時珍しかった「石埭流」の文字を扱い、戦前における多くの新聞広告や図案を考案した。 石埭流は書家・永坂石埭(1845年 - 1924年)の書体だが、欽一が使用した書体はそれに創意工夫を加えたものだった。 欽一は、1934年にいすゞ自動車の初代社章(通称、さざなみマーク)を考案したことでも知られる。社章を考案した当初は自動車工業(いすゞ自動車の前身)の車の商標を制作したに過ぎなかったが、1949年にいすゞ自動車が設立された際に初代社章として採用された。
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月… 一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1… 波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
山本 荘一郎(やまもと そういちろう、1877年(明治10年… 山本 荘一郎(やまもと そういちろう、1877年(明治10年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月20日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡東内村(現上田市)生まれ。小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)卒業後、家業の蚕種製造業に従事し、明治33年(1900年)に村収入役となる。同44年(1911年)小県郡会議員となり、大正12年(1923年)村長に推挙され、また同年長野県会議員となり、昭和6年(1931年)に議長を務めた。昭和7年(1932年)第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。政友会系の小県政友倶楽部を主宰した。 長野県農会副会長、長野県蚕種同業者組合副組合長などを歴任し、昭和6年(1931年)上田市に本店を置く信濃銀行が経営難に陥ると、頭取に就任し、同行の整理を完了させた。
植原 悦二郎(うえはら えつじろう、旧字体: 植原 悅二郞、… 植原 悦二郎(うえはら えつじろう、旧字体: 植原 悅二郞、1877年(明治10年)5月15日 - 1962年(昭和37年)12月2日)は、日本の政治家・政治学者。位階は正三位、勲等は勲一等。国務大臣・内務大臣。 長野県安曇郡、のちの南安曇郡明盛村(三郷村を経て現安曇野市)生まれ。3歳の時に生家が没落し、豊科高等小学校卒業後、製糸工場での女工の検番、横浜税関勤務を経て、1899年(明治32年)渡米。学校で給仕として働きながらハイスクールを出て、週刊紙『日米商報』を発行しながら、1907年(明治40年)ワシントン州立大学を卒業。ワシントン大学ではジョン・アレン・スミスの政治経済、ウイリアム・セーボリーの哲学などを学んだ。
小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11… 小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11日 - 1930年(昭和5年)9月5日)は、長野県の教育者。長野県上田中学(現長野県上田高等学校)、長野県諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、長野県松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)校長を務めた。 長野県諏訪郡米沢村(現在の茅野市大字米沢にあたる)の鋳物師屋に笹岡初右衛門、わかのの二男として生まれる。 武平は6尺の大男でどこでも大変目立った。彼の教え子の一人元東京地方裁判所判事の樋口和博はそのエッセイ『峠の落し文』の中で、「六尺豊かな体で、街を歩かれる姿は実に威風堂々、頼もしい限りであった」と評している。しかし、気持ちはたいへん細やかで、優しいひとでもあった。
倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)… 倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)4月28日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 長野県小県郡本原村(現・上田市真田町本原)出身。1898年(明治31年)陸軍士官学校第10期卒業。 1922年(大正11年)2月に麻布連隊区司令官を経て、同年4月に陸軍歩兵大佐に昇進。その後、1923年(大正12年)8月に歩兵第69連隊長、1925年(大正14年)5月に富山連隊区司令部附、同年8月に第9師団司令部附・金沢医科大学服務を経て、1927年(昭和2年)3月に陸軍少将・歩兵第4旅団長に補任。翌年の1928年(昭和3年)8月10日に待命、同年8月29日に予備役に編入した。
伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 19… 伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 1930年4月19日)は、日本の教育者。東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の初代校長として大正自由教育運動(欧米では「新教育運動」)を担い、当時としては画期的な教育を次々と打ち出した型破りの教育者として知られる。 明治10年(1877年)4月13日、長野県諏訪郡四賀村五八五七番地(現・諏訪市四賀普門寺)で、富農の伊藤孫右衛門の三男として生まれる。母は河西兵四郎の長女・りか。長七が3歳のときに母が死去したため、祖母のなかに育てられた。 幼少より神童と囃され、入学年齢よりも1年早く就学した。上桑原学校初等科を経て、1888年、郡立諏訪高等小学校3年に編入。
堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日… 堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日 - 1955年(昭和30年)1月5日)は、日本の実業家・政治家。 堀祐織物創業者。桐生体育協会初代会長。桐生市議会議員(4期)を務めた。 長野県上高井郡井上村(現在の須坂市)出身。20歳の頃、群馬県山田郡桐生町(現在の桐生市)に移住し機業を営む。緯糸に人造絹糸、経糸に絹糸を使用したリボン織を考案し、人絹織物の商品化に成功した。 1925年(大正14年)5月10日、桐生市会議員に当選。1928年(昭和3年)4月1日、群馬県体育協会理事に就任。同年11月3日に桐生市体育協会長に就任。新川運動場(後の桐生新川球場、現在の新川公園)の建設を推進し、市内の体育施設の整備に尽力した。
堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 … 堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 - 没年不明)は、広島高等学校教授。族籍は長野県士族。 長野県士族・堀江久次の二男。松本市生まれ。1927年、家督を相続。1904年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。茨城県立太田中学校教諭、秋田鉱山専門学校教授同生徒監、山形高等学校教授等を歴任。 1922年、倫理及び教育研究のため独英に留学し、1924年、広島高等学校教授に任ぜられ1932年、退官する。趣味は文学、絵画、園芸。宗教は仏教。住所は広島市白島九軒町、東京市世田谷区玉川等々力町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年… 浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年)は長野県出身の造船技師。造船の権威として知られ、東京帝国大学教授も務めた。従四位、勲三等瑞宝章受章。 長野県南佐久大日向にて、1877年(明治10年)4月3日に浅川愿三郎(嘉永3年生)の二男として生まれる。幼少期に起きた秩父事件では生家が豪農として目を付けられ襲撃を受けたが、予め避難しており家族に被害は無かった。1896年(明治29年)松本中学校を卒業。金沢の第四高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ進学。1902年(明治35年)7月に同大学の造船学科を卒業し、大阪鉄工所に入社した。ここで日本最初の油槽船・虎丸を設計。その後、1911年(明治44年)に神奈川県の浦賀船渠へ移った。
島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月1… 島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月16日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。 長野師範学校を卒業後、小学校教員を務める傍ら、1903年に歌誌「比牟呂」を創刊、やがて伊藤左千夫の門下となった。 1909年には「比牟呂」を「アララギ」に合流させ、以来、斎藤茂吉、土屋文明らと並ぶアララギ派の有力歌人として活躍。左千夫と長塚節なきあとは上京し、「アララギ」の編集責任者となった。 1876年(明治9年)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)に旧諏訪藩士・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれる。
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日… 太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の日本の歌人・国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首の和歌を教えられる。 広丘高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山、浅井洌、高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。
市瀬 泰一(いちのせ たいいち、1876年(明治9年)8月1… 市瀬 泰一(いちのせ たいいち、1876年(明治9年)8月14日 - 1950年(昭和25年))は、日本の実業家、政治家。長野県飯田市長。初名は市瀬 俊太郎。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)生まれ。明治20年代から家業の飯田水引(元結)の製造販売業を承継。全国各地への出張販売に当たった後、1913年(大正2年)飯田に元結の原紙会社を設立した。1930年(昭和5年)家督を相続し世襲名の泰一を名乗った。 下伊那郡会議員、飯田町会議員を経て、1937年(昭和12年)飯田市会議員となり、初代議長を務めた。1939年(昭和14年)11月、飯田市長に推挙された。在任中は日中戦争下で、飯田銀座商店街商業組合での栄養食の共同炊事の実現、食糧増産のための野菜の種子無償配布、飯田百七銀行・信産銀行・伊那銀行の統合による飯田銀行の設立などを実現させた。
高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13… 高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13日 - 1947年〈昭和22年〉1月25日)は、日本の国文学者、作詞家。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)(学位論文「日本歌謡史」)。号は斑山(はんざん)。 1876年、長野県水内郡永江村(現・中野市永江)の豪農の家に生まれた。1887年、豊津学校永江支校小学中等科を卒業。1890年3月、下水内高等小学校高等小学科を卒業。 1890年5月、永田尋常小学校授業生(代用教員)となった。しかし3年後の1893年、長野県尋常師範学校に入学。1897年3月には同師範学校を卒業した。1897年4月からは下水内高等小学校訓導となった。1898年6月、国語科の師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状を取得。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10… 小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10月18日)は、日本の外交官。通訳官。号は綏芳。 長野県安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。地元で漢学を修めた後、上京して二松學舎に入学し、三島中洲の教えを受け、善隣書院にも学んだ。1899年中国に留学、義和団の乱に陸軍省通訳官として従軍し、川島浪速の推挙によって北京警務学堂監督となり、1910年には武昌高等巡警学堂教習、1911年には漢国領事館勤務を務め、中国初の近代的警察官養成に従事した。 1914年、粛親王愛新覚羅善耆の邸宅に入り、王府内外の事務、子女の訓育にあたった。その間、政治外交の重要事項に関してしばしば日本政府に進言した。1915年、粛親王を擁立し、満蒙独立を画策したが、孫文らの革命勢力の抵抗、袁世凱の急死によって失敗した。
加藤 清治(かとう せいじ、1875年11月17日 - 19… 加藤 清治(かとう せいじ、1875年11月17日 - 1957年5月28日)は、日本の歯学者。日本歯科医師会会長を務めた。 長野県上伊那郡宮田村出身。明治43年(1901年)日本歯科医学校卒業。大正4年(1915年)ノースウェスタン大学歯学部卒業。日本歯科医学専門学校口腔外科教授。同5年(1916年)同付属病院院長、同10年(1921年)宮内省侍医療御用掛、昭和11年(1936年)同専門学校長に就任した。同21年(1946年)日本歯科医師会会長、同22年(1947年)6月同専門学校の大学昇格に伴い学長事務取扱となったが、同年12月辞任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 19… 高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 1952年9月26日)は、日本の農芸化学者。 長野県水内郡常盤村(現飯山市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第一高等学校を経て、1900年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。1907年農学博士となる。 大蔵省醸造試験所勤務を経て、1922年(大正11年)母校教授となり、農学部長をつとめ、発酵学、醸造学の講義を担当した。清酒や醤油、味噌などの自然純粋培養による菌学的研究を確立させた。日本農芸化学会会長、学士院会員を歴任。 1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが高橋は欠席した。
林 七六(はやし しちろく、1875年〈明治8年〉9月2日 … 林 七六(はやし しちろく、1875年〈明治8年〉9月2日 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、岡谷市会議長、長野県岡谷市長。 林新一郎の長男として長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)に生まれる。1890年(明治23年)岡谷学校中等科を卒業。家業の醸造業を継ぎ、1928年(昭和3年)南信塩元売捌代表社員、長野県酒造組合連合会代議員、1935年(昭和10年)全国醤油醸造組合連合会理事、1939年(昭和14年)全国酒造組合中央会常任評議員、1940年(昭和15年)長野県石油配給会社社長など要職を歴任した。 この間、政治家としては、諏訪郡会議員、平野村会議員、長野県会議員(2期)を経て、1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(長野県第3区、立憲政友会公認)で当選し、衆議院議員に1期在任。
河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 19… 河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。婚氏は一宮。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方、日露戦争時の対露特別任務隊を支援したことからスパイとも評される。 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業後、2年間附属小学校の教員として勤める。1895年東京女子高等師範学校に入学するも、翌年肋膜炎により中退する。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に奉職する。1990年長野に来た下田歌子を訪ねたのをきっかけに、下田の推薦で、横浜で中国人が経営していた在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる。
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - … 樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。 本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。
小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 194… 小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 1945年7月23日)は、日本の医師、医学者。特に眼科学の分野で著名な人物である。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。 1889年(明治22年)長谷川泰の済生学舎(のちの日本医学校、日本医学専門学校を経て日本医科大学)に入門し、3年で医師免状を下付された。 さらに東京帝国大学の選科生として河本重次郎に学び、修了後は軍医として1894年(明治27年)には日清戦争、1905年(明治38年)には日露戦争に従軍。陸軍軍医学校教官、陸軍医務局御用掛となる。 その後は東京第一衛戍病院に勤務。その間、「小口病」として学会に認められた特異な眼病患の最初の研究が成された。
池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月… 池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月11日 - 1944年(昭和19年)5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩・御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月2… 菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。
深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 … 深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 - 1942年(昭和17年)8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡深井村(現東御市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、東京専門学校を中退し、家業に従事した。明治36年(1903年)自宅に長野県初の有限責任信用組合を設立し、明治43年(1910年)産業組合中央会長野支会の設立とともに理事、副組合長に就任し、指導的役割を果たし、長野県における「産業組合運動の父」と称された。のちに同中央会理事、中央金庫監事などを歴任した。 同44年(1911年)長野県会議員となり、大正13年(1924年)第15回衆議院議員総選挙に当選した。
南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)… 南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)3月21日 - 昭和7年(1932年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長野県更級郡石川村(現長野市)に旧松代藩士・南沢忠正の長男として生まれる。旧制長野県尋常中学、旧制第一高等中学を経て、明治34年(1901年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。大倉組に入社したが、同38年(1905年)に日光電力に技師長として招聘され、その後は独立し 東京に八重洲商会を創立し、電気器具の販売の他、東京市電気局や東京電燈等各社の電気工事の請負を手掛けた。また藤田組と協力し、北安曇郡大町に明治水力電気を創立して重役となった。 大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選し、千曲川の堤防構築による治水問題に取り組んだ。
市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 19… 市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 1940年3月25日)は、日本の教育者。長野県北佐久郡三都和村(現・立科町)出身。1895年長野師範学校卒業、1900年東京高等師範学校卒業。
中山久四郎(なかやま きゅうしろう、1874年2月10日-1… 中山久四郎(なかやま きゅうしろう、1874年2月10日-1961年9月7日)は、東洋史学者。
百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年… 百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年12月21日)は、長野県出身の政治家。
西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23… 西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23日 - 大正元年(1912年)8月31日)は、明治期の日本画家、美術教育者である。本名は規(めぐる)。日本美術院の創設者のひとり。 筑摩県筑摩郡松本深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・西郷績(いさお)の長男として生まれる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。幼少時に東京神田に引っ越し、明治12年(1879年)6月、東京高等師範学校附属小学校、明治17年(1884年)7月、本郷新花町の私立独逸語学校、明治19年(1886年)、神田錦町私立東京英語学校で学ぶ。語学を学ぼうとしたのは明治時代の風潮の1つで、語学を身に付けておけばなんとか生計が立つとの考えからであった。
七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、187… 七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1967年〈昭和42年〉2月28日)は、大正・昭和期に活動した日本の政治家、実業家である。長野県出身。旧姓は井口。 井口家から長野で菓子商「凮月堂」を営む七沢家に養子入り家業を継ぐ。長野市会議員(当選3回)や信濃電気支配人を務めたのち1934年(昭和9年)には第6代長野市長に選ばれた。晩年は長野信用金庫役員を長く務めた。 七沢清助は、1873年(明治6年)8月、長野県人・井口常治郎の次男として生まれた。出身地は長野県更級郡原村(後の中津村、現・長野市)。長野中学校を経て上京し東京物理学校で学んだのち、長野県に戻り北佐久郡志賀小学校で教諭となった。