12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん… 12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん、1849年10月26日(嘉永2年9月11日)- 1923年(大正12年)9月2日)は、日本の地主・実業家・政治家。衆議院議員、長野県下伊那郡飯田町長。旧名・久嗣、幼名・益太郎。 信濃国伊那郡飯田伝馬町(長野県下伊那郡飯田町を経て現飯田市伝馬町)で、酒造業・10代上柳喜右衛門の二男として生まれる。和漢学、算術を修めた。兄・喜一(久休〈ひさしげ〉、11代喜右衛門)の養子となり、その後、12代喜右衛門を襲名した。 1879年(明治12年)飯田町会議員に選出され(8期在任)、1891年(明治24年)下伊那郡会議員(2期在任)、1899年(明治32年)飯田町長(2期在任)にそれぞれ選出された。
北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) … 北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) - 明治34年(1901年)11月4日)は、日本の政治家(衆議院議員、長野県会議員)。初名は森太郎、通称は東五郎、諱は信允。 信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)の庄屋北原稲雄の長男に生まれる。父に倣い、平田篤胤の没後門人となる。明治元年(1868年)の戊辰戦争では鎮撫副総督澤為量に従軍して奥羽地方を転戦した。翌年帰郷し、官軍から太刀一振りと金若干を賜り、信濃飯田藩主堀親広から士族に列せられた。同6年(1873年)村戸長、学校学事掛となり、同9年(1876年)名古屋裁判所に出仕し、翌年(1877年)山梨県属となったが、辞職し帰郷した。
塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永… 塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永2年6月20日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家、篤農家、長野県の大地主、長野県多額納税者。佐久銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川幸左衛門の長男。阿部四之助、塩川幸太、塩川賢三、塩川三四郎の叔父である。農業を営み、大地主である。1887年、家督を相続する。佐久銀行監査役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山田 理兵衛(やまだ りへえ、嘉永2年4月(1849年) -… 山田 理兵衛(やまだ りへえ、嘉永2年4月(1849年) - 明治33年(1900年)12月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(自由党)。 信濃国高井郡江部村(現長野県中野市)の旧家に生まれる。江部村会議員を経て、明治22年(1889年)の町村制施行にあたり、初代平野村長(現中野市)に就任。千曲川沿岸の築堤による水害防止、産業組合結成の準備、教育施設の充実などの施策にあたった。同31年(1898年)の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
中島 精一(なかじま せいいち、嘉永元年(1848年)10月… 中島 精一(なかじま せいいち、嘉永元年(1848年)10月 – 1941年(昭和16年)3月9日)は明治時代の長野県の政治家、蚕種製造業者。名は直寿、号は菊堂。小県郡秋和村庄屋、長野県会議員、更級郡長兼埴科郡長、上水内郡長、小県郡長、東筑摩郡長、茨城県警部長。 嘉永元年(1848年)10月信濃国小県郡下塩尻村(長野県上田市下塩尻)に母袋忠右衛門康保と北村氏の子として生まれた。幼くして両親を喪い、秋和村(上田市秋和)庄屋中島林太郎直道の養子となった。明治元年(1868年)8月養父直道が病没し、庄屋職を継いだ。 明治2年(1869年)7月浅間で駅逓司制度の改良会議に参加したが、議論は捗らず、帰郷した。
井上 操(いのうえ みさお、弘化4年9月20日(1847年1… 井上 操(いのうえ みさお、弘化4年9月20日(1847年10月28日) - 明治38年(1905年)2月23日)は、日本の法律家。 信濃国松代城下(現・長野県長野市)に松代藩士・井上五郎左衛門の子として生まれる。藩の兵制士官学校で武田斐三郎について学び、司法省法学校に入学。在学中に山縣有朋の知遇を得る。1876年卒業。1882年から明治法律学校で治罪法(刑事訴訟法)の講義を担当。1886年、東京帝国大学教授に任じられるが、判事に転じて大阪控訴院評定官となり、その後、大井憲太郎らによる大阪事件の裁判のため、大阪重罪裁判所裁判長となった。関西法律学校が開校すると刑法などの講義を担当する。1890年大阪控訴院部長に進むが、1895年病気のため帰郷。
佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日… 佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日(弘化3年3月7日)- 1909年(明治42年)5月23日)は、明治期の日本の政治家、蚕種業者。衆議院議員、初代長野市長。幼名は勝彦。号は柏堂、忠恕。 信濃国小県郡上塩尻村(長野県小県郡塩尻村を経て現上田市)で生まれた。和漢学を修めた。家業の蚕種業に従事し、1872年(明治5年)には上塩尻村の戸長となる。1875年(明治8年)蚕種製造業上田組を設立して頭取に就任し、東京蚕種会事務局議員兼幹事、東京蚕種取締所委員として蚕種の改良と輸出振興に尽力した。1886年(明治19年)には東京蚕種組合中央部長野県総代から長野県蚕糸業組合取締所副頭取となり、1896年(明治29年)信濃蚕種業組合長に就任するなど、一貫して蚕種業の発展に尽力した。
渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、184… 渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、1846年3月29日〈弘化3年3月3日〉- 1919年〈大正8年〉5月11日)は、明治期の日本の官僚、政治家。位階・勲等・爵位は正二位勲一等子爵。旧姓は小池。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。兄は伯爵渡辺千秋。 1846年3月29日(弘化3年3月3日)、信濃国諏訪郡東堀村(後の長野県岡谷市)にて諏訪高島藩士の家に生まれた。父渡辺政徳は、武士が桃の節句に生まれたのでは具合が悪いということで、藩庁に端午の節句の5月5日生まれと届けている。両親と早く死別したため、兄の千秋とともに祖母の手によって養育された。10歳の時にコレラにかかるが、一命を取り留める。
鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日… 鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日 - 大正15年(1926年)1月25日)は江戸時代の武士、明治時代の開拓者。幼名は軍次郎、通称は半蔵。 信濃国佐久郡小諸城下に小諸藩士・神戸安右衛門の次男に生まれ、同藩士の鳥居氏の養子となった。明治3年(1870年)知藩事牧野康済に抜擢され、為政党の幹事となり、藩命により御牧ヶ原の開墾に着手し、21年間のあいだに田畑1500ヘクタール、山林700ヘクタール、農家300戸を数えるほどになり、馬産と植林事業にも尽力した。また明治8年(1875年)からは軽井沢の官有原野100町歩と民有地を買収し、優良馬の牧場経営と大農法による飼料作物栽培を行い、防風のために落葉松林を植樹した。
小野 光景(おの みつかげ、弘化2年3月15日〈1845年4… 小野 光景(おの みつかげ、弘化2年3月15日〈1845年4月21日〉 - 大正8年〈1919年〉9月18日)は近代日本の実業家、政治家。幼名、彦太郎。 信濃国伊那郡小野村(天領、現長野県上伊那郡辰野町)の名家、小野兵右衛門光賢の子として生まれ、高遠藩の藩校・進徳館で学ぶ。明治15年(1882年)、横浜商業高校の前身にあたる横浜商法学校を創立。翌16年(1883年)、絹糸輸出商社の小野商店を創業。その後横浜正金銀行(東京銀行の前身)頭取、横浜商工会議所会頭などを歴任。郷里の小野で小野駅の開設や、私財を投じての学校、図書館、病院等の建設に貢献した。 1910年(明治43年)神奈川県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年2月7日に就任し1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶ… 初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶらう、1845年3月31日(弘化2年2月24日) - 1925年(大正14年)2月17日)は、日本の金融実業家。 信濃国高井郡高梨村(現・長野県須坂市)生まれ。江戸での丁稚奉公の後に帰郷し、明治維新後に横浜に出て外国商館に勤務する傍らドル相場を研究し、1879年(明治12年)に東京兜町に公社債・株式仲買業や古金銀売買を営む小布施商店(現・ちばぎん証券)を開業。1883年(明治16年)には東京株式取引所の仲買人となり、明治20年代からの金利安による株式の活況や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦期の景気の上昇に乗じた投機を積極的に行って業績を伸ばした。
島津 忠貞(しまづ たださだ、1845年2月17日〈弘化2年… 島津 忠貞(しまづ たださだ、1845年2月17日〈弘化2年1月11日〉 - 1907年〈明治40年〉6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員。 信濃国水内郡飯山城下に飯山藩士の子として生まれる。信濃島津氏の流れを汲む。幼名は謹二。明治維新後、戸長となる。第6大学区第15中学区第4小区の取締役、長野師範学校監事を歴任し、第二十四国立銀行の取締役となる。 自由民権運動に参加し、1879年(明治12年)下水内郡選出の長野県会議員に当選した。県会常置委員に推挙された。1882年(明治15年)北信自由党を結成。自由党系地方政党としては全国有数規模であった。 1885年(明治18年)長野県産牛馬組合創立に際して本部会議長となり、翌1886年(明治19年)長野県蚕糸業組合委員会の議長となり、蚕糸業中央部会議を東京に開くにあたり、総代として上京し、副議長に推挙される。
市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化… 市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化元年12月8日) - 1908年(明治41年)2月15日)は、元長野県会議員、元信飛新聞社社長、啓蒙家。松本城が競売にかけられ落札されたが、買い戻した人物として知られる。幼名は泰之助。 信濃国筑摩郡松本城下の下横田町の名主の家に生まれ、明治維新後は南佐久郡郡長、戸長を務めた。幕末に江戸で学問を修めた後、松本に戻り『信飛新聞』を発行した(同紙は長野県初の日刊新聞)。 1872年(明治5年)、松本城が大蔵省によって競売にかけられ、天守閣が235両、付合物を合わせて計309両で落札された。落札者は天守閣を取り壊そうとしたが、量造は「城がなくなれば松本は骨抜きになる」と紙面で訴え、先祖伝来の蔵書を売るなどして金を工面し始める。
渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843… 渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1921年〈大正10年〉8月27日)は、明治・大正期の日本の官僚。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵。 信濃国諏訪郡東堀村(現:長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺斧蔵政徳の子として生まれる。楓関と号する。生家は、岡谷市長地柴宮に「旧渡辺家住宅」(県宝指定)として保存されている。 明治維新後、鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年(明治43年)4月には宮内大臣に就任する。1911年(明治44年)4月、朝鮮併合の功により伯爵になるも、渡辺に何の関係があるのかと疑を生じ、井上馨も大いに憤慨する。
臥雲 辰致(がうん たつむね(たっち、ときむね)、天保13年… 臥雲 辰致(がうん たつむね(たっち、ときむね)、天保13年8月15日(1842年9月19日) - 明治33年(1900年)6月29日)は、明治初期に臥雲式紡績機(ガラ紡)を発明した発明家。幼名は栄弥。元の姓は横山で、「臥雲」姓は住持であった寺の山号に由来。 信濃国安曇郡小田多井新田村(現・長野県安曇野市堀金三田)の出身。父は儀十郎。横山家はかつては豪農であったが、父の代に没落したという。家業として営んでいた足袋底織業を手伝い、少年の頃から能率向上のための紡績器械改良を思案していた。文久元年(1861年)20歳で近隣の法降山安楽寺(岩原村)で出家し、智恵と名乗る。慶応3年(1867年)には末寺の臥雲山孤峰院の住持となるが、明治4年、明治政府の廃仏毀釈により廃寺とされたので還俗し、臥雲辰致を名乗る。
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3… 小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌。 久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。 天保13年3月9日(1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰藩した。
田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841… 田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841年4月2日) - 明治12年(1879年)10月3日)は日本の洋学者、教科書編纂者。号は天口酔史。博物学者の田中芳男は実兄。 信濃国伊那郡飯田城下(現在の長野県飯田市)に医師・田中隆三(如水)の六男として生まれた。幼名は大輔。兄の芳男とともに名古屋の伊藤圭介の門下となり、蘭学や医学を学ぶ。安政6年(1859年)江戸に出て、林洞海に蘭学や本草学を学ぶ。また海軍兵学と蒸気機関の研究に専念し、英語やフランス語を修めた。慶応3年(1867年)に幕府に出仕し、幕府海軍士官となる。同4年(1868年)の上野戦争では彰義隊に属した。明治2年(1869年)には新政府の海軍御用掛となって海軍操練所の設立に協力し、兵学大助教に進むが、学制発布を受けて、同5年(1872年)には文部省に転属し、小学校教科書の編纂に着手し、「小学読本」を発行。
渡辺 猶人(わたなべ なおと、1840年12月29日(天保1… 渡辺 猶人(わたなべ なおと、1840年12月29日(天保11年12月6日) - 1908年(明治41年)6月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国伊那郡飯田城下に飯田藩士の長男として生まれる。江戸に出て安井息軒に入門し、谷干城らと交誼を結ぶ。帰藩後は父が督学を務めていた藩の文学所の補佐を務めた。明治維新後は大宮神社祠宮を経て、長野県官吏となり、第19大学区第4小区戸長や学区取締などを務め、1882年(明治15年)に下伊那郡長、翌1883年(明治16年)に更級郡・埴科郡長に任命された。1889年(明治22年)に飯田町会議員、1891年(明治24年)に下伊那郡会議員になった。同年7月22日に飯田町長となった。
小出 八郎右衛門(こいで はちろうえもん、天保11年10月1… 小出 八郎右衛門(こいで はちろうえもん、天保11年10月1日(1840年10月25日) - 明治43年(1910年)11月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国更級郡稲荷山村(現長野県千曲市)生まれ。幼名は鶴治。長じて家業を継ぎ、材木商から蚕種製造業に転換した。商用で横浜へ赴き、銀行業務の実際を学び帰郷。明治14年(1881年)稲荷山銀行を設立し、専務取締役となり、松方デフレの難局を乗り切った。また同20年(1887年)には小坂善之助とともに、長野県の為替業務を扱う「真彰社」を再建し、信濃銀行と改称し支配人に就任した。さらに同26年(1893年)経営難に陥った松代の第六十三国立銀行を稲荷山銀行と合併させ、稲荷山に本店を移転した。
箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - … 箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - 明治27年(1894年)1月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名は睦助、通称は勘三郎。 信濃国佐久郡三塚村(現長野県佐久市)に生まれる。生家は代々酒造業を営み、田野口藩の御用達を務めた。長じて寺子屋師匠となり、村の庄屋となる。龍岡城築城の際には普請奉行に任命された。明治維新後は村の戸長、南佐久郡書記などを歴任し、明治14年(1881年)には長野県会議員となる。同19年(1886年)下高井郡長となり、同23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に当選した。コレラ防疫や、水害罹災者の救助などに活躍した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
小田切 辰之助(おたぎり たつのすけ、天保10年(1839年… 小田切 辰之助(おたぎり たつのすけ、天保10年(1839年) - 明治37年(1904年))は、幕末から明治時代の日本の製糸家。幼名は録三郎。祖父は武兵衛、父は沖兵衛。 須坂の「西糀屋」あるいは「大糀屋」と呼ばれる小田切家の宗家に生まれる。須坂の小田切氏は滋野氏一族海野氏の出で、幕末まで油屋・糸師・呉服商を営み、須坂藩の御用達を勤めた家。辰之助は安政6年(1859年)の横浜開港より生糸、蚕種の貿易に携わる。慶応年間には「蚕種組合」を設立し、自ら検査役となり、のち明治5年(1872年)川東組の蚕種大総代となる。 のち海外の生糸需要の増加を受け遠藤万作、青木甚九郎らと富岡製糸場を視察し、明治7年(1874年)には水車仕掛けの器械製糸を、さらに翌年には弟の武兵衛と協力し、水車動力による器械製糸を創設した。
窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年1… 窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年10月19日) - 1921年(大正10年)4月30日)は、長野県の政治家。本名は窪田重国、号は松門であった。 信濃国筑摩郡和田町村(天領、現在の松本市和田)に生まれ、青年期から寺子屋を開いて教育に従事した 1872年に開智学校の前身となった筑摩県学の開設を進め、また、市川量造らとともに、松本を拠点とした『信飛新聞』の創刊に参加した。以降、同紙や、1876年に改題した『松本新聞』の紙面で、自由民権運動の論陣を張った。 1879年には、北安曇郡の初代郡長となり、在任中の1883年には渡辺敏らとともに白馬岳に初登頂した。 1888年に長野県会議員、1892年には帝国議会衆議院議員となった。
田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月… 田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期の博物学者、動物学者、植物学者、農学者、園芸学者、物産学者。錦鶏間祗候、男爵。 「日本の博物館の父」として知られる。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった。市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。 1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。
上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7… 上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 1919年(大正8年))は明治時代の札幌開拓者。信濃国諏訪藩出身。江戸に出て商家に奉公し、行商人、測量師を経て北海道に渡り、札幌で初めて水田稲作に成功、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った。 天保9年(1838年)5月15日信濃国諏訪郡南真志野村(長野県諏訪市湖南南真志野)に諏訪藩普請奉行上島幸右衛門の子として生まれた。幼名は源吉で、家督相続後、正と改めた。9歳から17歳まで生之堂鏡湖に書画を学び、画家を志したが、画家は妻帯できないと父に言われ、断念した。 安政2年(1855年)父の命で江戸に出て、森備中守屋敷富木衛門七方に奉公したが、半年後、武家社会を見限り、町家に奉公した。
武居 代次郎(たけい だいじろう、1838年 - 1896年… 武居 代次郎(たけい だいじろう、1838年 - 1896年)は、長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)の製糸家。諏訪式繰糸機の開発者として知られる。代々続く糸商に生まれる(3代目武居代次郎)。 明治維新による開国により、政府は輸出品目として生糸を重要視し、富岡製糸場を開設する(1872年)等、増産の機運が高まった。 当時ヨーロッパより導入された繰糸機械は2種類。富岡製糸場へと官営輸入されたフランス式繰糸機と、民間輸入のイタリア式繰糸機である。イタリア式を輸入した小野組の援助を受け、2代目武居代次郎が現在の岡谷市間下にてイタリア式を模した洋式器械を操業(18釜)するも、成功せずに病没(1873年)。その遺志を継ぐ形で3代目武居代次郎が製糸に取組む事になった。
高橋 白山(たかはし はくざん、天保7年12月(1837年)… 高橋 白山(たかはし はくざん、天保7年12月(1837年) - 明治37年(1904年)3月10日)は幕末の漢学者。明治時代の教育者。諱は利貞。字は子和。通称は敬十郎。信州教育の開拓者と呼ばれる。 信濃国伊那郡高遠城下に高遠藩儒の高橋利常(確斎)の長男として生まれる。藩校進徳館で中村元起に学び、16歳で助教、文久3年(1863年)には師範代となり藩主の侍講も兼帯した。好学にして博識、在任の13年間で進徳館の蔵書3万冊をほとんど読みつくしたという。文政年間に江戸に出て藤森天山に入門、鷲津毅堂、大沼枕山らと交流した。 明治維新の際には白山の思想は危険視され、長尾無墨と共に藩を追放される。その後、幕府領の手良村野口(現伊那市)で開塾し、医者も兼ねた。
藤森 桂谷(ふじもり けいこく、1835年11月25日(天保… 藤森 桂谷(ふじもり けいこく、1835年11月25日(天保6年10月6日) - 1905年(明治38年)7月26日)は、南画の画家、歌人、啓蒙家。現在の長野県安曇野市出身。 桂谷は画家としての主たる号であり、俳句の雅号は「麦里」、和歌には本名の「寿平」「としひら」が使われている。その他、自作の絵には「南安迂農」「辛田」「雪蝶山人」「桑渓」「小倉山人」「新田迂農」など種々なオートグラフがある。 信濃国安曇郡成相新田町村(千国街道成相新田宿)に藤森郁三郎の長男として生まれる。幼名を厚、長じて寿平と名乗る。歌人であった父親の影響で少年時代から和歌を作り多くの歌を遺した。 成相新田宿の大庄屋である藤森一族の学問所となっていた同郡寺所村の細萱伝兵(漢学・書家)から読み書きを教えられ、長じて漢学は同郡中萱村の相馬古処、和歌は歌人丸山保秀の教えをうけ、絵は安政元年(1854年)、近郷の松本を訪れた伯耆出身の南画家古曳盤谷に入門した。
大里 忠一郎(おおさと ちゅういちろう、天保6年8月21日〈… 大里 忠一郎(おおさと ちゅういちろう、天保6年8月21日〈1835年10月12日〉 - 明治31年〈1898年〉6月7日)は日本の実業家。 信濃国埴科郡西条村(現長野市)の旧家・相沢家に生まれ、松代藩士の大里忠右衛門の養子となる。家老の真田桜山に抜擢され、戊辰戦争にも従軍し、大垣で岩倉具定に松代藩の恭順を申し出、東山道鎮撫軍の監軍岩村高俊を上田に迎えた。戦後に藩主の真田幸民より賞典禄26石を賜った。松代藩産物会所に関係し、明治維新後は松代商法社の役人となった。また廃藩置県に伴う士族授産として製糸業に着目し、明治5年(1872年)に開業したばかりの官営富岡製糸場を視察の末、明治7年(1874年)に西条村六工地籍に六工社を有志ら7名と共に設立した。
岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(… 岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(1912年)1月15日)は、明治時代の日本の大日本帝国陸軍官吏・軍人。陸軍主計として会計・監督畑を歩み、日清戦争に出征した。最終官等は陸軍二等監督(中佐相当官)、位階は従五位、勲等は勲三等である。 岡村は信濃国東筑摩郡松本南深志町(現長野県松本市)の士族の出身である。明治7年(1874年)頃、中山信吉・中村宗則・浅田恭郷らとともに陸軍軍吏に任じられ、正七位を叙せられた。 同年、陸軍大尉として佐賀の乱に出征している。明治8年(1875年)には司契副に転じ、仙台鎮台司契課長を兼ね、さらに工兵第二方面本署監督課会計官を務めた。 明治10年(1877年)には二等司契に昇進し従六位となり、その後二等副監督に転じた。
角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年… 角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は、日本の国学者・神官。通称は由三郎。 信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の近津神社の神主角田忠守と母小林氏の二男として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。弟(父忠守の四男)に同じく神官となった角田信道がいる。 安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田銕胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、幕吏に追われて伊那谷の松尾多勢子邸に潜伏。
田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年… 田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年7月11日) - 1884年(明治17年)6月8日)は、幕末・明治の相場師・実業家。開港直後の横浜を舞台に生糸・洋銀などの相場で大きな財を成して「天下の糸平」と称した。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。 信濃国伊那郡赤須村(三州街道赤須上穂宿、現在の長野県駒ヶ根市)で藤島卯兵衛と妻・さとの間に生まれる。生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落。三男であった釜吉は1845年(弘化2年)に飯田城下の魚類雑貨商・万屋に丁稚奉公に出された。1848年(嘉永元年)には魚屋として独立しようと三両を手に名古屋へ出たが失敗、郷里に戻る。父・卯兵衛に金を工面してもらい大阪へ出ると、米相場に手を付けたがこれも失敗し再び郷里へと帰った。
千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月… 千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月〉 - 1903年〈明治36年〉4月13日)は、日本の実業家、東京の金貸し。 信濃国伊那郡中沢村有賀(現・長野県駒ヶ根市)出身。貧家の生まれで、三人兄弟の内の次男である。12、3歳の頃に逃亡した実父を探しに故郷を飛び出す。江戸へ来る途中で路銀に尽き、宿屋のかまどの上に載った二朱銀一つをそっと袂へ入れ、それで芋を買ってかじりながら江戸へたどり着く。 父は両国広小路の自身番をあずかる番太郎を勤めていた。勝五郎は本町の町年寄北村市左衛門の玄関番となった。同家を出て、自立したけれど失敗をかさねて、吉原京町二丁目の姿海花屋の妓夫とまで零落したが、のちに古着の行商を行う。
石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日〈1832… 石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日〈1832年2月2日〉 - 明治36年〈1903年〉5月22日)は、幕末の志士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は源造、号は宗順(そうじゅん)。江戸では彦根藩脱藩浪士を自称していた。 信濃国水内郡桑名川村(現・長野県飯山市)に渡辺彦右衛門の次男として生まれとしている資料が多い。ただし、碑文には「両国生まれ」と記載されており。また、生前に出版された自伝「石坂翁小伝」には他のほとんどの資料と矛盾する以下の記述がある。 上記、石坂翁小伝の記述が正しければ複雑な出生と養子縁組を繰り返している事となる。一般的な資料には6歳で飯山の英岩寺に入門し、11歳で高源院に移り、その後江戸に出て石坂宗哲の養子となったとある。
長尾 無墨(ながお むぼく、天保3年(1832年) - 明治… 長尾 無墨(ながお むぼく、天保3年(1832年) - 明治27年(1894年)11月3日)は、日本の南画家、教育者である。幼名は佐伝次、諱は冀北、通称は平右衛門、別号に天雁、張天梅、千里などがある。 『説諭要略』や『善光寺繁昌記』を書いたことでも有名。明治時代、中央で活動したにもかかわらず、写真や肖像画はこれまでに見つかっていない。 信濃国伊那郡高遠藩の藩士・宇夫形豊久の長男として高遠城下(現・長野県伊那市)に生まれる。高遠藩は学問が盛んだったことで知られているが、その高遠藩が育てた人材の一人である。学問を父と中村元恒に学び、詩文に長じ、特に絵画を得意とした。万延元年(1860年)に藩校・進徳館が開講すると、27歳でその大助教に迎えられた。
市岡 晋一郎(いちおか しんいちろう、1830年 - 189… 市岡 晋一郎(いちおか しんいちろう、1830年 - 1896年11月27日)は、明治時代前期の開拓者。 信濃国筑摩郡日出塩村(現長野県塩尻市)の庄屋の家に生まれる。幼名は「文暁」。父勘之丞と共に水田造成のため、私財を投じて奈良井川からの水利を計画し、山腹に隧道を設け、7年の歳月をかけて安政6年(1859年)に完成させた。 平田派国学に傾倒していた市岡は、幕末の戊辰戦争で中山道を江戸に向けて東下する官軍(東山道鎮撫軍)に従軍し、岩倉具視の知遇を得た。明治3年(1870年)、民部省下総開墾局知事の北島秀朝の懇請により、三井組の代理人として採用され、秩禄処分で困窮した士族に授産事業として小金牧一帯に入植帰農させ、開墾場周辺の農民を通い小作人として農業経験のない旧士族の指導に当たらせるなど、開墾の指揮を取った。
川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈182… 川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈1827年7月4日〉 - 明治14年〈1881年〉5月3日)は、幕末から明治前期にかけて活躍した南画家、洋風画家、図画教育者である。諱は寛(ひろし)、幼名は斧松、字は子栗、通称は万之丞。 文政10年(1827年、文政11年〈1828年〉生まれとも言われる)、信濃国高井郡松代藩領福島新田村(現長野県長野市)に山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。弘化元年(1844年)江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、同院に出入れしていた円山四条派の絵師大西椿年に写生画を学んだ。嘉永4年(1851年)に幕府御家人株を購入、川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。
須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月… 須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月20日) - 明治41年(1908年)9月5日)は日本の医師(蘭方医)。諱は経哲 、号は経石、老嶺。 信濃国伊那郡西伊那部村(三州街道伊那部宿、現長野県伊那市)の医家に生まれる。弘化元年(1844年)には江戸の林洞海、嘉永元年(1848年)には佐倉の佐藤泰然に入門し蘭方医学を学んだ。嘉永4年(1851年)に帰郷して外科、産科を開業し、種痘を実施したことで高遠藩から賞詞を授かった。また天保の大飢饉に直面する農民の飢餓を『天保雑記』に記した。 安政4年(1857年)藩命で再び上京し、林洞海と伊東玄朴に入門し、象先堂の塾頭を務め、文久元年(1861年)、麻酔薬クロロホルムを使用した下腿切断手術を日本で初めて実施した。
松尾 多勢子(まつお たせこ、文化8年5月25日(1811年… 松尾 多勢子(まつお たせこ、文化8年5月25日(1811年7月15日) - 明治27年(1894年)6月10日)は、幕末期の尊皇派女性志士。島崎藤村の「夜明け前」にも活写されている。彼女の名前は本来「(お)多勢」と表記されたが、明治時代以降、女性の名前には「・子」を付ける慣習に従って表記されるようになった。 信濃国伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の豪農・竹村常盈の長女として生まれた。19歳で伴野村(現・豊丘村)の旧家・松尾佐次右衛門淳斎に嫁いだ。夫婦仲は良く7人の子を育てながら、家業の傍らともに和歌や平田派国学などを夫ともに学んだりした。 文久2年(1862年)に、病身の夫から許しを得て51歳で上洛し、尊皇攘夷運動に参加、公家の白川家、大原家に出入りするようになった。
酒井 愛菜(さかい えな、 12月29日 - )は、信越放送… 酒井 愛菜(さかい えな、 12月29日 - )は、信越放送 (SBC) のアナウンサー。美人。 長野県松本市出身。2025年春に信越放送に入社し、中途入社の山崎航(元福井放送)とともに同局のアナウンサーになる。
みたらし 三大(みたらし さんた、本名:杉山 佑太〈すぎやま… みたらし 三大(みたらし さんた、本名:杉山 佑太〈すぎやま ゆうた〉、12月25日 - )は、日本の漫画家、アニメーター。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒業。2024年より『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて、たけぐし一本原作による『しのびごと』を連載し、漫画を担当している。 松本第一高等学校美術工芸コースを卒業後、武蔵野美術大学デザイン情報学科を卒業。その後、大手映像プロダクションでCMディレクターを務めた。2017年11月、受賞歴がない状態で漫画家としてデビューを果たす。『アメノフル』の掲載が決定したことにより、会社を休職し漫画家として活動している。 2021年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)20号から41号まで『アメノフル』を連載する。
柴本 愛沙(しばもと あいさ、12月7日 - )はウェザーマ… 柴本 愛沙(しばもと あいさ、12月7日 - )はウェザーマップ所属の気象予報士。 長野県中野市出身。長野県須坂高等学校、法政大学卒業。大学卒業後は、一般企業の会社員として働く。 2006年に気象予報士試験に合格。会社員として働きながら、気象予報士としてコラムを執筆したり、モデル活動などを行っていた。 2018年よりウェザーマップに所属し、本格的に気象キャスターを始める。2018年4月から1年間、OBS大分放送の「OBSイブニングニュース」で気象キャスターを担当。 2019年4月から「TBS NEWS」を担当。 2022年、美魔女コンテストTOKYOに出場。 2023年、日本化粧品検定協会の「コスメコンシェルジュアンバサダー2023」に就任。
新保 広恵(しんぼ ひろえ、11月28日 - ) は日本の女… 新保 広恵(しんぼ ひろえ、11月28日 - ) は日本の女優・パフォーマー。長野県飯山市出身。血液型はO型。なせばなるみ事務局所属。 ・決断〜火の見櫓に登った男たち〜(小林恵子) 監督:平岡亜紀
湖華 詩(こはな うた、11月12日 - )は、宝塚歌劇団花… 湖華 詩(こはな うた、11月12日 - )は、宝塚歌劇団花組に所属する娘役。 長野県佐久市、佐久長聖高校出身。身長161cm。愛称は「よっちゃん」、「よしこ」、「よしの」。 2017年4月、宝塚音楽学校入学。 2019年3月、宝塚音楽学校を卒業し、第105期生として宝塚歌劇団に入団。入団時の成績は21番。4月、宙組宝塚大劇場公演「オーシャンズ11」で初舞台。公演終了後、花組に配属。 2024年、「エンジェリックライ」併演のショー「Jubilee」で、初のエトワールに抜擢。翌2025年の博多座公演の同作でもエトワールを務めた。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
天城 れいん(あましろ れいん、10月20日 - )は、宝塚… 天城 れいん(あましろ れいん、10月20日 - )は、宝塚歌劇団花組に所属する男役スター。 長野県長野市、市立犀陵中学校出身。身長172 cm。愛称は「れいん」、「あまね」。 2016年、宝塚音楽学校入学。 2018年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に104期生として入団。入団時の成績は13番。星組公演「ANOTHER WORLD/Killer Rouge」で初舞台。その後、花組に配属。 2023年の「鴛鴦歌合戦」で新人公演初主演。 2024年、柚香光・星風まどかトップコンビ退団公演となる「アルカンシェル」で、2度目の新人公演主演。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
唐澤 昌子(からさわ まさこ、10月13日-)は、フリーアナ… 唐澤 昌子(からさわ まさこ、10月13日-)は、フリーアナウンサー、元長野放送アナウンサー。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
丸田 光(まるた ひかる、10月6日 - )は日本の男性声優… 丸田 光(まるた ひかる、10月6日 - )は日本の男性声優、俳優。 長野県須坂市出身。身長 173cm。ACT COMF所属。 パフォーミング・アート・センター卒業。以前はオフィスPACに所属していた。 趣味・特技はハンドドリップコーヒー。 資格は保育士資格、幼稚園教諭第一種免許、普通自動車第一種運転。 妹は自他認める腐女子で漫画を描くこともあるという。 ※( )役名、〔 〕俳優名または声優名
佐藤 圭一(さとう けいいち、10月4日 - )は、日本のア… 佐藤 圭一(さとう けいいち、10月4日 - )は、日本のアナウンサー、リポーター、気象予報士。 テレビ朝日の気象キャスター。元、東京ケーブルネットワークキャスター。情報・バラエティ番組のリポーターやMCを担当。出演以外にも自らカメラを回し、映像編集や原稿作成なども行う。専属キャスターだったが圭三プロダクションに所属。2017年からは活動の場を文化放送に移し報道記者として国会や首相官邸、各省庁などでの取材を経験。夕方のワイド番組ではリポーターとして幅広い話題を扱った。その後ウェザーマップに所属し現在は気象キャスターとして活動中。 長野県岡谷市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、成城大学卒業。 東京アナウンスセミナー10期生となる。
岩波 裕(いわなみ ゆたか、7月10日 - )は、日本の男性… 岩波 裕(いわなみ ゆたか、7月10日 - )は、日本の男性声優。長野県諏訪市出身。StudioShamanika所属。旧名は岩波 ユタカ。 以前はプロダクション・エース、ガジェットリンクに所属していた。一時期、「岩波ユタカ」で活動していた。現在は「岩波裕」に戻している。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
齋藤 沙弥香(さいとう さやか、7月6日 - )は、テレビ信… 齋藤 沙弥香(さいとう さやか、7月6日 - )は、テレビ信州 (TSB) のアナウンサー。 長野県埴科郡坂城町出身。神奈川大学人間科学部卒業。 大学を卒業後、福井放送 (FBC) に入社。同期の松田佳恵と川越智子とともに同局のアナウンサーになり、2016年3月に『おじゃまっテレ ワイド&ニュース』の中継コーナーでテレビデビューを果たす。 2018年3月に福井放送を退社し、同年4月にテレビ信州へ移籍した。
堀田 陽一(ほった よういち、6月30日 - )は、日本の作… 堀田 陽一(ほった よういち、6月30日 - )は、日本の作曲家、作詞家、編曲家、キーボーディスト、プログラマー、サウンドディレクター・プロデューサー。いくつかの名義で活動を行っている。現在、hotta(ホッタ)名義でi-nos(アイノス)という音楽ユニットを中心に活動中。長野県茅野市出身。 幼少の頃作曲に目覚め、その後坂本龍一関連の音楽に影響を受ける。中学生の頃、音楽の教師よりシンセサイザー、KORG MS-20を譲り受け、その道を目指すことになる。MS-20は和音の出ないモノフォニックタイプだった為、ポリフォニックシンセサイザーRoland JUNO-106を手に入れ、徐々に電子音楽のノウハウを取得。