若菜 みさ(わかな みさ、2001年3月8日 - )は、日本… 若菜 みさ(わかな みさ、2001年3月8日 - )は、日本の画家、女優。長野県塩尻市出身、身長は158cm。血液型A型。 抽象画と現代アートを中心に描き、アクリルとデジタルを融合する新しい手法を用いる。生まれつき絶対音感を持ち、楽曲は1度聴けば弾くことができる。人の喋り声もコピーが可能。またピアノでは、「ピティナ・ピアノコンペティション」において合格と優秀賞を獲得した実績を持つ。 2016年 15歳の頃にSMAの音楽オーディションに参加。 アニソンシンガーに強く憧れていた。またクラシックピアノを幼い頃から習っており、音楽の道を志したことがのちに芸能活動への架け橋となる。 2017年、SMA主催 「アニストテレスvol.6」のファイナリストとして抜擢。
山本 拓也(TAKUYA.Y、やまもと たくや、1971年 … 山本 拓也(TAKUYA.Y、やまもと たくや、1971年 - )は、日本の洋画家。長野県飯田市出身。企業へのグラフィック提供(ヨネックス/LAF/ホットラインウエットスーツ/ゴールドパック/等)を多数手掛けながら全国様々なイベントにてライブペインティング出演や個展を開催。 正統派な油絵はもちろんの事、サーフボードやスケートボードに描く、その独特な思想と奇抜で感性豊かな作風が、若い世代にも支持されている。[要出典]。 父親である山本武夫も画家であり、父親の影響を受けて17歳で絵画の道に進む。19歳で初の個展を開催。27歳で現代創造美術協会で最高賞となる都知事賞を受賞。「イマジネーション・ファクトリー」の主宰や飯田市から「結いターン語りスト」として任命されるなど、地元を主体に活動していた。
辰野 登恵子(たつの とえこ、1950年1月13日 - 20… 辰野 登恵子(たつの とえこ、1950年1月13日 - 2014年9月29日)は、日本の抽象絵画画家・版画家。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。多摩美術大学教授。長野県岡谷市出身。 1968年、長野県諏訪二葉高等学校を卒業。同年、東京芸術大学美術学部に入学。大学時代に柴田敏雄(写真家)や鎌谷伸一(版画家)とともにグループ「コスモス・ファクトリー」を結成。名前は、彼らが好きだったクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『Cosmo's Factory』(1970年)からとられた。アンディ・ウォーホルやロバート・ラウシェンバーグの影響を受けた写真製版によるシルクスクリーンをいち早く試みる。
下嶋 哲朗(しもじま てつろう、1941年 - )は、日本の… 下嶋 哲朗(しもじま てつろう、1941年 - )は、日本のノンフィクション作家、画家。沖縄県をテーマとした著作で知られる。 長野県上田市に生まれる。中学1年生の時に上京する。武蔵野美術大学油絵学科を中退。 1975年から約1年間石垣島に妻子とともに移住した。この移住で沖縄の歴史や文化への興味を抱く。 1983年、沖縄県の洞窟「チビチリガマ」の調査を地元住民らとともにおこない、沖縄戦時に壕内で集団自決があったことを明らかにした。下嶋はもともと、アメリカ合衆国施政下でおこなわれた沖縄本島からの移民の調査のために沖縄を訪れ、出会った読谷村出身の女性から聞いた断片的な話をきっかけに関係者への聞き取りを重ねて証言を引き出し、それをもとに壕内の調査で自決を裏付けた。
清水 正教(しみず まさのり、1940年7月 - )は、日本… 清水 正教(しみず まさのり、1940年7月 - )は、日本の画家(油画)。皇學館大学名誉教授。
原田泰治(はらだ たいじ、1940年4月29日 - )は、長… 原田泰治(はらだ たいじ、1940年4月29日 - )は、長野県諏訪市出身の画家・グラフィックデザイナー。シンガーソングライターのさだまさしと親交が深く、原田の絵を題材にしたさだの楽曲もある。
宮澤 利昭 (みやざわ りしょう、1938年5月28日 - … 宮澤 利昭 (みやざわ りしょう、1938年5月28日 - )は、日本の画家、イラストレーター、テレビ美術家。長野県安曇野市出身。 長野県松本県ヶ丘高等学校を経て東京芸術大学美術学部図案計画科卒業後、TBSに入社し、昭和を時代背景にした名作を数多く残した作家で脚本家の向田邦子、作家で演出家の久世光彦のテレビドラマの美術を担当する。 サロン・ド・プランタン賞受賞。パリ国際青年ビエンナーレ展出品ほか、個展9回、グループ展に多数出品。 サンケイ新聞婦人欄にイラストを連載したほか、池田弥三郎著『わが街銀座』等の挿絵、TV番組「日本レコード大賞」、水曜劇場「ムー一族」、「世界・ふしぎ発見!」等の美術を担当する。
中澤 優子(なかざわ ゆうこ、1938年〈昭和13年〉 - … 中澤 優子(なかざわ ゆうこ、1938年〈昭和13年〉 - )は、日本の画家。 長野県諏訪市出身。 春陽会正会員。 20歳で故郷の諏訪市を離れ、絵画に精進し、現在は春陽会を中心に活動を展開している。 作品のテーマとして女性像を選ぶことを好み、画面にしばしば絹糸や絹布を描画して独特な色面を用い、人生を示すアレゴリーとして、あるいは繊細な女性の表情の演出として表現する画風である。 これは、中澤が絹糸・絹布産業が盛んであった諏訪市内で育ったため、幼少時から身近に絹糸や絹布に親しんだことによる。 2007年(平成19年)11月には諏訪市美術館において、大作を中心に約30点を展示して、諏訪離郷以来50年ぶりとなる大規模な個展を開催した。
浜 征彦(はま まさひこ、旧字体:濱 征彦、1938年 - … 浜 征彦(はま まさひこ、旧字体:濱 征彦、1938年 - 2018年)は、長野県諏訪市出身の洋画家。二科会長野県支部長。銀座の老舗画廊、「薔薇画廊」の専属画家だったため、作品は多くの政財界の応接間等に飾られた。明るく柔らかな色使いと、筆遣いが特徴。題材はフランス.イタリア.故郷の諏訪等の風景画が多く、薔薇の花と共に描かれた裸婦画は希少。晩年の作品はデフォルメされた道化師等の作風。美術名典、号125,000円 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高橋 靖夫(たかはし やすお、1938年 - 2021年4月… 高橋 靖夫(たかはし やすお、1938年 - 2021年4月29日)は、日本の洋画家。女子美術大学名誉教授。国画会会員。 長野県岡谷市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、東京芸術大学美術学部油画科卒業。1962年国展初入選。女子美術大学教授。2004年定年退官後、同大学名誉教授。大学で後進の育成に尽力した。故郷の岡谷市にアトリエがあり、絵画教室を主宰した。
山本文彦(やまもと ふみひこ、1937年2月16日 - )は… 山本文彦(やまもと ふみひこ、1937年2月16日 - )は、日本の洋画家、筑波大学名誉教授、日本藝術院会員、美術団体の一般社団法人二紀会常任理事である。茨城県牛久市在住。 1937年に東京で生まれる。疎開によって約10年間、現在の長野県佐久市で過ごした。長野県野沢北高等学校を経て、1961年東京教育大学 (現在の筑波大学) 教育学専攻科芸術専攻修了。1961年千葉県立長生高等学校教諭となる。1969年山口大学助教授となる。1985年筑波大学芸術学系教授となる。1996年NHK教育テレビ 趣味百科「油絵を描く」の講師となる。2000年定年退官し、筑波大学名誉教授となる。2010年日本藝術院会員となる。
池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年〈昭和9年〉2月23… 池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年〈昭和9年〉2月23日 - 1997年〈平成9年〉3月8日)は、日本の画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督などの従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。エロスの作家といわれるように、官能的な作風が多い。しかし、多岐にわたる活動や多才さは、かえって“池田芸術”の高い知名度にふさわしい正当な評価を困難にしている。 旧満洲国奉天市(現在の瀋陽市)に生まれ、戦後長野県長野市で育つ。長野市立柳町中学校、長野北高等学校(現・長野県長野高等学校)定時制課程卒業。高校在学中に絵画が入選、画家を志し上京するが、東京芸術大学の受験に3度失敗し大学進学を断念。
宮原 麗子(みやはら れいこ、1930年(昭和5年) - 2… 宮原 麗子(みやはら れいこ、1930年(昭和5年) - 2021年12月(令和3年)、旧姓高橋)は、日本の洋画家、女流画家協会委員、一水会委員である。神奈川県川崎市に居住した。 長野県岡谷市生まれ。。父は岸田劉生に師事し一水会会員、日展委嘱作家であった洋画家の高橋貞一郎、弟は女子美術大学名誉教授の洋画家高橋靖夫である。因みに麗子の名は、父が岸田劉生の娘麗子から名づけたと言われている。 1949年(昭和24年) 長野県岡谷東高等学校卒業。高校在学中に長野県美術展(県展)に入選するなど若いころから、その才能を発揮していた。その後女子美術大学洋画科入学。在学中から一水会展と女流画家協会展へ作品を出品しはじめ、本格的に絵の道を志すようになった。
篠原 昭登(しのはら あきと、1927年(昭和2年) - 2… 篠原 昭登(しのはら あきと、1927年(昭和2年) - 2020年(令和2年)6月28日)は、里山、風景洋画家。長野県茅野市出身。日展会員 一水会運営委員 元小学校教師。
有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 … 有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 - 2013年(平成25年)1月2日)は日本の洋画家である。 風景、人物、静物など画材は広範。1970年頃から日本の伝統家屋(藁葺屋根)を取材した農村風景画の創作に力を注ぎ、日本列島全域を探訪した。現在では消失した伝統家屋を写実的手法で描かれた作品群は、日本人の心の故郷そのもであり、同時に民俗学史料としても国内外で高く評価されている。 長野県上田市出身。旧制小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)卒業。太平洋戦争に従軍し、復員後の1945年から東京在住。1948年東京育英高等学校教諭、1950年東京美術学校卒業後、数年間、阿佐ヶ谷美術専門学校にて教師を務める。
長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 -… 長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 - 2004年7月23日)は、日本の美術家、日本画家。本名は義治(よしはる)。 精密な描写をもとにしたデフォルム、また琳派や西洋の油彩絵画とも一線を画したマチエールに強いこだわりをもった独特な画風を確立した。作品は専ら日本美術院展覧会への出品作であり、日本美術院同人、同評議員となった。 1916年(大正5年) 9月25日、長野県下水内郡飯山町(現飯山市)に生まれる。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)卒業。 15歳で地元の細野順耳(菊池契月の兄)に学び、1933年(昭和8年)上京し、18歳で松岡映丘門の吉村忠夫に入門し大和絵を専攻。1952年(昭和27年)36歳の時に吉村忠夫の急逝をうけ、日本美術院・同人の中村貞以(なかむらていい、1900年 - 1982年)に入門し、日本美術院展覧会を目指し研鑽を重ねる。
小林 邦二(こばやし くにじ、1916年〈大正5年〉4月25… 小林 邦二(こばやし くにじ、1916年〈大正5年〉4月25日 ‐ 2010年〈平成22年〉4月5日)は、日本の洋画家。 長野県小県郡県村(現東御市)に生まれた。少年時代から画家にあこがれ、当時上田市に住む倉田白羊に洋画の手ほどきを受けた。 邦二は高等小学校を卒業後、16歳で兄・啓三と上京し、日本橋通郵便局に勤めながら、中村不折経営の太平洋美術学校選科へ入学した。 1934年(昭和9年)1月、昭和10年1月、太平洋画会展覧会に連続入選。1935年(昭和10年)2月、東光会洋画展覧会に『E君の像』を出品し入選。同年3月、太平洋美術学校選科を修了すると、阿以田治修に師事した。兄弟子に松本竣介、須田寿がおり、阿以田邸に出入りしていた。
矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9… 矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9日 - 1944年〈昭和19年〉2月17日)は、長野県茅野市出身の洋画家。 「日本のシュルレアリスムの先駆者」とも評される画家。代表作に「高原の幻影」等がある。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。父源蔵と母とらの の長男として生まれる。実家は「信厚館」という生糸の製糸工業を経営していたが博信が子供の頃に倒産している。父矢崎源蔵は郷土史研究家、河合曾良研究者として知られていた(「信州文壇」1932年(昭和7年) - 1941年(昭和16年)という信州文壇社発行の雑誌に記事を連載していた)。 1921年(大正10年)永明村立永明尋常高等小学校(現・茅野市立永明小学校・茅野市立永明中学校)入学、この頃矢崎家に下宿していた担任の絵画教師、清澤の影響を受ける。
山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - … 山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - 1950年6月25日)は日本画家、本名は山口 肇。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)の旧家に生まれる。幼少時から病弱であったが、日本画を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に学ぶ。1928年に上京し、日本美術学校で日本画を学ぶが一年余で中途退学する、その後は中村岳陵の弟子となり、蒼野社画塾に入塾、「蒼輪」の号を授かる。第17回院展に「草」で初入選し、以後は「菊」「果実」などで入選を重ね、1935年に院友に推挙された。1945年に帰郷し、農業に従事しながら、同志と「銀嶺会」を結成し、全信州美術展、長野県展などに出品したが、心臓麻痺により37歳で急逝した。
オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45… オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45年〉6月8日 - 1986年〈昭和61年〉11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。10歳から群馬県桐生市で育つ。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。 1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。 1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。
白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月… 白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月23日 - 2007年〈平成19年〉6月15日)は、日本の画家。本名は白鳥 九寿男(くすお、九壽男)。長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)出身。日本画家の伊東深水に師事し、美人画を中心に制作。晩年、脳梗塞を患いながらも制作を続け、「不屈の画家」と呼ばれた。 1912年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)滝原で農業を営む一家の長男として生まれる。生後、間もなくして母を失う。このとき母は23歳の若さであり、生前の写真は1枚も残っていない。1919年(大正8年)、小学校入学。1920年(大正9年)、父をも失う。当時の大里村立大里尋常小学校、現在の小諸市立水明小学校で伊東深水の美人画を目にし、母親の面影を見出したことで画家を志す。
熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 20… 熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 2010年11月6日)は、日本の写真家、童画家。
上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 … 上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1980年〈昭和55年〉4月13日)は、日本の版画家。1950年代初めには「魚沼六郎」という名でも作品を発表していた。プロレタリア芸術を探求して原爆も多く題材とし、海外でも高く評価された。 長野県更級郡今里村(現・長野市川中島町今里)に内村家に生まれ、長野中学校(現・長野高等学校)を卒業後、1929年に東京美術学校に進む。しかし、共産主義運動に影響を受けて学内改革運動に関わり、1932年に検挙・拘留を経て、1933年に放校処分となる。 その後、東京や郷里で綿製品仕上げ工や鉄道工夫、土工などの労働に従事し、その傍ら須坂の版画家・小林朝治に感化されて木版画を始め、1935年に川中島で木版画の頒布会を開いた。
関 四郎五郎(せき しろごろう、1908年4月23日 - 1… 関 四郎五郎(せき しろごろう、1908年4月23日 - 1971年11月7日)は昭和期の洋画家である。春陽会会員。 長野県東筑摩郡芳川村野溝(現在の松本市)に生まれる。名前の由来は、4男(姉を入れると第5子)だったので、末子の意味を込めて名付けられたのだが、その後に5人弟妹ができた。1920年に芳川小学校で開催された岸田劉生個展に深い感銘を受け、画家をこころざす。芳川村農業会に勤めながら独学で絵を描き始める。やがてフランス帰りの宮坂勝が主宰する松本洋画研究会に参加し、洋画を学ぶ。旺玄会展、白日会展、1935年第13回春陽展に初入選する。1937年に二科展に出品し入選、1938年(昭和13年)に上京し、二科会研究所に入所して熊谷守一の指導を受ける。
野村 千春(のむら ちはる、1908年(明治41年)4月6日… 野村 千春(のむら ちはる、1908年(明治41年)4月6日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の洋画家。夫は児童文学者、歌人の巽聖歌。結婚後、東京都日野市に居住し、創作活動を行なった。 諏訪郡平野村(現:岡谷市)の豪農の二女として生まれた。三女一男の家であった。 平野高等女学校(現:長野県岡谷東高等学校)時代、同校の教師だった諏訪郡原村出身の洋画家 清水多嘉示に画才を認められて画家を志した。1925年、同校を卒業後、父の反対を押し切って上京し、キリスト教伝道者の姉・菊枝の下に身を寄せる。1929年、洋画家 中川一政に内弟子として師事し、春陽会研究所に学ぶ。その後、同郷の武井直也から彫刻を学び、妹・百代とともに武井家に留守番として住まわせてもらう。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 19… 江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 1963年6月27日)は、長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)出身の日本画家。本名は江崎 孝平。歴史人物画を得意とした。 1904年6月15日に長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)に生まれ、画家を志して15歳の時に東京に出た。呉服商で図案を描いて生計を立て、日本画家の蔦谷龍岬に大和絵を学んだ。1927年(昭和2年)には第8回帝展で「晩秋」が初入選。 1933年(昭和8年)に龍岬が死去すると、今度は前田青邨に師事した。1940年(昭和15年)に大礼記念京都美術館で開催された日本画大展覧会では、「雲と防人」が大毎・東日賞を受賞。1941年(昭和16年)の第4回新文展では「撃て」が特選に選ばれた。
小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27… 小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27日 - 1981年(昭和56年)11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者岩波茂雄の女婿であり、同社会長を務めた。 長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。 岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 19… 堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 1981年12月25日)は、日本の洋画家である。
倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月… 倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月22日 - 1992年(平成4年)12月23日)は、日本画家。河童の絵を多く手掛けた。 長野県埴科郡倉科村(現・千曲市)生まれ。旧制長野中学に進む。1921年(大正10年)、上京し、本郷絵画研究所に学び、橋本静水に師事。1926年(大正15年)、横山大観に入門。1930年(昭和5年)、野木逸子と結婚。「八代宗彦」の名で漫画家として活躍。戦後、屋代町(現・千曲市屋代)の芸術家集団白炎社設立に参加。1969年(昭和44年)、創作画協会の設立に尽力、特別理事に就任。1974年(昭和49年)、紺綬褒章受章。1980年(昭和55年)、更埴市長表彰。
小山 敬三(こやま けいぞう、1897年〈明治30年〉8月1… 小山 敬三(こやま けいぞう、1897年〈明治30年〉8月11日 - 1987年〈昭和62年〉2月7日)は、昭和期の洋画家。 父と祖父は小山久左衛門(世襲名)と称した小諸城下・荒町の豪商であり、商家でありながら馬廻り格の士分待遇を小諸藩から受けていた。衆議院議員・初代小諸市長・参議院議員等を務めた小山邦太郎は兄。 出身地の小諸市では、小山敬三の名を冠した「小山敬三記念小諸公募展」が毎年全国から浅間山、千曲川、小諸の風景等を描いた作品を募り、市立小諸高原美術館・白鳥映雪館にて入賞・入選作品展が開催されている。 国際結婚がまだ珍しかった時代にフランス人女性と結婚したことでもしられる。実子はない。自由民主党・三木派の大番頭といわれた三木武夫内閣の官房長官・井出一太郎の妻は、小山邦太郎の女子である。
山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 198… 山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 1983年11月25日)は、日本の版画家。 長野県上伊那郡箕輪町出身。1916年に長野中学を卒業した。1920年から1926年まで白馬会葵橋洋画研究所に学び、黒田清輝や中川紀元に師事した。日本美術学校にも通ったが、1922年に中退した。 1923年に日本創作版画展、日本漫画展に初入選した。1925年に旧制第一高等学校訓務部事務職員となり、一高画会で絵を指導した。 1928年には油絵で第6回春陽会展で初入選し、1937年まで同会に油絵の出品を続けた。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技と1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に出品した。
高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年… 高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1955年〈昭和30年〉9月18日)は、長野県岡谷市出身の洋画家。諏訪地域の美術界の草創期を支え、美術教育にも力を注いだ人物である。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校。教師に西岡瑞穂がいた)を経て、長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業。 1922年、岸田劉生に師事し、「夏牛」の雅号が贈られた。教員をしながら油絵を制作。母校である諏訪中学校で絵画部顧問を勤め、同部の教え子に矢崎博信がいる。 1937年、フランスへ留学しポール・セザンヌを研究。一水会会員、日展委嘱作家となった。
ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日… ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日 - 1950年3月31日)は、日本の画家、版画家。 風景画、人物画(自画像含む)、銅版画、木版画、小説等の挿絵、装丁、山水画、南画など、その膨大な量の作品が占めるジャンルは多岐に亘っているのみならず、画風もまた題材・時期によって様々な展開をみせており、舞台美術なども手がけている。代表作には関東大震災に取材した多数の銅版画が挙げられる。 父の河野次郎(下野国足利藩士、旧姓杉本、聖名:アレクセイ)は長野師範学校の図画教師も務め、高橋由一の門下で洋画の普及・教育に尽力した洋画家であり、後に写真家となった熱心な正教徒であった。通勢も9歳の時に正教の洗礼を受けた。
林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年… 林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年1月26日)は、大正から昭和にかけての日本の洋画家。浦和画家。 長野県小県郡上田町(現・上田市)の生まれ。父が製糸工場経営に失敗し、小学校に通い始めた倭衛と弟を実家の小林家に預けたまま東京に逃げたため、倭衛は小学校6年を終えてから上京し、15歳頃から書店や印刷会社に勤める。両親の他に弟3人と妹一人の生計を支えるために苦慮した。明治44年(1911年)4月から大下藤次郎が主宰する日本水彩画研究所の夜間部に入って絵の勉強を始め、丸山晩霞の指導を受けた。大正2年(1913年)7月から道路人夫として働きながら、サンジカリズム研究会に加わり、大杉栄ら無政府主義者と交流するようになる。
宮坂 勝(みやさか まさる、1895年1月1日 - 1953… 宮坂 勝(みやさか まさる、1895年1月1日 - 1953年4月10日)は、明治から昭和にかけての洋画家。
武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 198… 武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。 童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。 収集癖があり、日本全国の郷土玩具や郷土菓子を集め、郷土菓子169点について『日本郷土菓子図譜』(3巻)をまとめている。
等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10… 等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10月15日 - 1959年(昭和34年)6月7日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡柏原村(現・安曇野市)に生まれる。高等小学校を卒業後、豊科や堀金の小学校で代用教員となり、本科正教員となった後も、教育に専念する傍ら画業の研鑽を積む。昭和3年(1928年)教師を休職し、シベリア鉄道経由でパリに3年間留学し、アカデミー・ランソン(英語版)に入学、オトン・フリエスに師事し、ダゲール街(英語版)で西洋画を学ぶ。昭和5年(1930年)1月、スイス・イタリアを歴遊して帰国後、二科展で「ヴェニスの船着場」が初入選する。昭和8年(1933年)、東京市郊外の練馬にアトリエを構える。
小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23… 小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23日 - 1955年(昭和30年)9月29日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡東穂高村(現・安曇野市)に生まれる。東穂高農業補習学校(現長野県穂高商業高等学校)を卒業後、農業に従事するが、大正3年(1914年)に上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事して、油絵制作に精進し、大正15年(1926年)西荻窪にアトリエを構えた。大正5年(1916年)第10回文部省美術展(文展)に「静物」が初入選すると、以後入選を重ねる。昭和12年(1937年)に従軍画家として中国大陸に渡り、戦場や戦時下の都市の風景を描いた。「大日本陸軍従軍画家協会」の名簿には、石井柏亭、小磯良平、川端龍子、向井潤吉らとともに名を連ねている。
中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月1… 中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1972年〈昭和47年〉2月9日)は、長野県上伊那郡辰野町出身の洋画家である。旧姓は有賀、本名は紀元次。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科入学。中退後、太平洋画会研究所、本郷絵画研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事。1907年(明治40年)から1914年(大正3年)まで玉川尋常小学校の図画工作の講師をしており、当時の校長は島木赤彦が勤めていた。教え子には堀内唯生がいた。
香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 -… 香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 - 1913年(大正2年)6月)は、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身の版画家、詩人。本名は香山 藤禄(かやま ふじろく)。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。1911年(明治44年)に長野県飯田中学校を卒業し、一家で東京の深川に移り住んだ。1912年(明治45年)には竹久夢二と出会い、そのつてで恩地孝四郎(小鳥より1年早い1891年生)や田中恭吉(小鳥と同じ1892年生)と出会った。同年4月には東京美術学校予備科に入学し、本科の彫刻科塑像部を志望するが、選抜に落第して7月には東京美術学校を退学し、木版彫師の伊上凡骨の下で木版画の勉強に励んだ。
山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は… 山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は、日本の木版画家。 1891年、長野県上伊那郡美篶村(現・伊那市)に生まれ、15歳で上京し木版彫刻家、武藤李吉に師事。やがて師匠に代わり読売新聞社に勤めるようになり、挿画を彫り木版の腕を磨くと同時に、黒田清輝率いる葵橋洋画研究所で美術を学んだ。 1926年には、文部省より欧米における版画についての調査を託され渡航。各国で視察と版画の実技を行いながら、後に着手するシリーズ『世界百景』の写生を進める。帰国後は、絵を描き、版を彫り、紙に刷るまでを単独で行う"創作版画"に取り組むいっぽう、横山大観や石川寅治ら画家の作品を版画にするなど精力的に活動した。
篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月… 篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月9日 - 1966年〈昭和41年〉4月13日)は日本の画家・水彩画家である。水彩画の普及と信州での美術の発展に多大に貢献した。 長野県上水内郡芹田村(現・長野市中御所)に資産家である篠原勝之助の三男として生まれる。長野商業学校(現・長野商業高等学校)在学中、長野師範学校で開催された水彩画研究会に参加。河野通勢、草川信を知り、共に絵画グループを結成する。 卒業後上京し、日本水彩画会研究所に入り、日本水彩画の父・大下藤次郎の指導を受ける。大正元年(1911年)太平洋画会会員となり、大正2年(1913年)丸山晩霞ら総勢37名と日本水彩画会を創立。
横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22… 横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22年〉5月 - 1965年〈昭和40年〉10月11日)は、日本の洋画家。 戸籍名は「ひろぞう」だが、「こうぞう」と呼ばれることも多い。別名に銀河、釣月、耕雲など。丹念に描かれた素朴な印象の作品から、「日本のアンリ・ルソー」と呼ばれた。 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)に生まれ、3歳ごろ家族で上京し、東京下町で育った。私立大成中学校在学中から東京美術学校への進学を希望していたが、父の強硬な反対にあい断念、早稲田大学商学部に進む。 しかし、画家への夢を諦めることができず、2年で大学を中退して東京電燈に就職。独学で油絵を学ぶ。そして彗星の如く26歳で中央画壇に登場。
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治… 丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治19年〉6月2日 - 1962年〈昭和37年〉5月10日)は、日本の画家。 1886年(明治19年)6月2日、長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。幼少期を諏訪湖や蓼科山・八ヶ岳といった大自然に囲まれた中で過ごし、自然愛を育む。1906年(明治39年)、20歳で上京し、荒木寛畝に入門。絵画の基礎を学び、自らの画風を固めて行く。「晩秋の図」・「水辺夏色」がそれぞれ日本美術協会展(1911年)・日本画会展(1912年)で入選。大正以降、写生のため日本各地に足を運ぶようになる。 1918年(大正7年)、荒木十畝の門下であった幸(旧姓・荒木、画号・菜畝、1895年〈明治28年〉8月27日 - 1986年〈昭和61年〉)と結婚。
増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は… 増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。
原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏… 原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏訪市出身の画家。 諏訪市湖南の製糸業を営む家に生まれる。 長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1902年に医学を学ぶため単身渡米。親の希望で医学を学ぶも、美術に志向していく。 1905年 画家になる事を決め美術学校に入学。 1907年 美術学校で優秀な成績を修めイギリスに留学。ロンドンのPolytechnic School of Artに入学。高村光太郎と交流をもつ。 1908年 アメリカに戻る。10月よりニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ、翌年より帰国までナショナル・アカデミー・オブ・デザインにて学ぶ。