楠 正弘(くすのき まさひろ、1921年7月10日-2009… 楠 正弘(くすのき まさひろ、1921年7月10日-2009年7月20日)は、日本の宗教学者。東北大学名誉教授。 京都府綾部市出身。浄土真宗の寺に生まれる。東北大学大学院文学部特別研究生博士課程修了。東北大学教養部助教授、文学部日本文化研究施設教授。79年「信仰の形成と本質構造」で東北大学文学博士。85年定年退官、名誉教授、武蔵野女子大学教授。堀一郎に師事し、宗教学から民間信仰へと研究を進めた。
植芝 吉祥丸(うえしば きっしょうまる、1921年6月27日… 植芝 吉祥丸(うえしば きっしょうまる、1921年6月27日 - 1999年1月4日)は武道家。日本の合気道の二代目の継承者。父は合気道開祖植芝盛平。次男は三代目道主植芝守央。 昭和20年代の合気会は新規の入門者が中々集まらず、塩田剛三の養神館道場に対して劣勢であった。吉祥丸はこの状況を挽回するために、 といった当時としては革新的な試みを行い、合気道の全国的な普及に成功した。現在合気会は合気道界で最大勢力の合気道統括組織であり、日本国内100万人・世界全体で160万人ともいわれる合気道人口の8割を占める。
村田 昭(むらた あきら、1921年(大正10年)3月25日… 村田 昭(むらた あきら、1921年(大正10年)3月25日 - 2006年(平成18年)2月3日)は、実業家である。村田製作所創業者・名誉会長・元会長・社長。 京都府京都市東山区泉涌寺生まれ。父親が陶器店を営む。 幼少期の頃は「病気のデパート」と呼ばれるほど病弱で、病床で文学書、子供向けの科学誌「子供の科学」などを読んで過ごしていた。 1936年(昭和11年)、京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を肺結核のため中退後、家業に専念。特殊陶器、精密特殊磁器に注目し、製品化することにより事業を拡大。1944年(昭和19年)10月、村田製作所を創業する。 1950年(昭和25年)、法人化の後、京都大学との「産学協同」で酸化チタンコンデンサの開発に成功。
清水 正徳(しみず まさのり、1921年2月17日 - 20… 清水 正徳(しみず まさのり、1921年2月17日 - 2004年3月7日)は、日本の哲学研究者。神戸大学名誉教授。 京都府京都市生まれ。東北帝国大学哲学科卒業。神戸大学助教授、教授、1984年定年退官、名誉教授、大阪学院大学教養部教授。マルクスの疎外論を研究。 1996年、勲三等旭日中綬章を受章。 2004年3月7日、病気のため京都市東山区の病院で死去。83歳没。
左近 友三郎(さこん ともさぶろう、1921年1月26日 -… 左近 友三郎(さこん ともさぶろう、1921年1月26日 - 2002年8月16日)は、日本の官僚、経営者。中小企業庁長官、共同石油社長、会長を務めた。京都府京都市出身。 1944年に東京帝国大学法学部を卒業し、学徒動員で満洲に出征。終戦後は3年間のシベリア抑留を経て、帰国。1949年に商工省に入省し、1978年6月に中小企業庁長官に就任。1980年6月に東京銀行顧問に就任。1982年6月に共同石油専務に就任し、1983年6月に副社長を経て、1985年11月に社長に就任した。1990年6月には会長に就任した。1992年12月に日本鉱業と合併し、日鉱共石副会長に就任し、1996年6月には相談役に退いた。
大和 哲夫(やまと てつお、1921年(大正10年)1月23… 大和 哲夫(やまと てつお、1921年(大正10年)1月23日 - 1998年(平成10年)8月20日)は、日本の法学者・官僚・公務員。北海学園大学元学長。福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市)出身。 学内ではこの他、北海学園大学学生部長などを、学外では、北海道地方労働委員会公益委員(1968-1977年)や北海道人事委員会委員(1982-1990年)、公共企業体等労働委員会調停委員など多くの公職を歴任。
飯島 晴子(いいじま はるこ、1921年〈大正10年〉1月9… 飯島 晴子(いいじま はるこ、1921年〈大正10年〉1月9日 - 2000年〈平成12年〉6月6日)は、俳人。 京都府出身、京都府立京都第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)、田中千代服装学院卒。卒業後は服飾関係の仕事に従事。1959年、夫の代理で『馬酔木』の俳句会に出席したことをきっかけに38歳から句作をはじめる。能村登四郎の指導を受け、1960年より『馬酔木』に投句。1964年、『鷹』創刊より同人、代表同人の藤田湘子(のち主宰)を補佐した。1966年、第1回鷹俳句賞を受賞、以後同結社の代表作家として活躍。1970年より現代俳句協会会員。1997年、第六句集『儚々』(ぼうぼう)により第31回蛇笏賞を受賞。
服部 栄三(はっとり えいぞう、1920年11月1日 - 2… 服部 栄三(はっとり えいぞう、1920年11月1日 - 2008年1月27日)は、日本の法学者。 京都市出身。第三高等学校卒、1943年東京帝国大学法学部政治学科卒、1962年「団体法の研究 株式会社法を中心として」で東北大学・法学博士。 1945年10月東大法学部助手、1947年北海道大学法文学部助教授、1950年同志社大学法学部助教授、52年教授、1957年東北大学法学部教授、72年法学部長、84年定年退官、名誉教授。没後正四位。
和崎 洋一(わざき よういち、1920年9月16日 - 19… 和崎 洋一(わざき よういち、1920年9月16日 - 1992年6月29日)は、日本の人類学者。京都大学名誉教授。 京都府京都市出身。第三高等学校を経て、1945年京都大学理学部卒業。京大教授時代には京都大学アフリカ学術調査隊に参加。梅棹忠夫とは三高の同級生で京都大学アフリカ学術調査隊に参加した良き友人だった。その後は富山大学人文学部教授、中部大学国際関係学部教授を歴任した。 実の息子にWOWOW代表取締役社長の和崎信哉、文化人類学者で中部大学国際関係学部教授の和崎春日がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
池本 正夫(いけもと まさお、1920年(大正9年)9月13… 池本 正夫(いけもと まさお、1920年(大正9年)9月13日 - 2001年(平成13年)5月26日)は、昭和から平成時代の政治家。京都府宇治市長。 宇治市出身。莵道青年学校卒業。 宇治市議会議員4期、1973年(昭和48年)市議会議長、1977年(昭和52年)宇治商工会議所副会頭を経て、1980年(昭和55年)以来、宇治市長に4選。1996年(平成8年)引退した。 2001年(平成13年)5月26日、胃がんのため京都府宇治市の病院で死去した。
上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31… 上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31日 - 2018年(平成30年)4月16日)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家。独学で洋画を学んだ後に吉原治良に師事し、具体美術協会の結成に参加した。 1920年(大正9年)7月31日、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)1459番地に生まれた。父は上前由蔵、母は永濱里ん。1歳だった1921年には父の由蔵が死去した。1927年(昭和2年)3月の北丹後地震では家屋が倒壊し、下敷きになりそうなところを巫女に助けられた。同年には奥大野村倉垣尋常小学校に入学した。1932年(昭和7年)には舞鶴市の中村京染洗張り悉皆店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となった。
島薗 安雄(しまぞの やすお、1920年7月30日 - 19… 島薗 安雄(しまぞの やすお、1920年7月30日 - 1997年4月9日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学・精神生理学。元金沢大学医学部教授。東京医科歯科大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1950年)。京都府京都市生まれ。 父は東京大学医学部教授などを務めた島薗順次郎、息子は東京大学大学院人文社会系研究科教授の島薗進。 1920年京都府京都市生まれ。1943年東京帝国大学医学部医学科卒業。1950年東京大学より医学博士の学位を取得。1954年フンボルト留学生として西ドイツ留学。1956年東京大学医学部助教授。1959年金沢大学医学部教授。1967年東京医科歯科大学医学部教授。
林 忠四郎(はやし ちゅうしろう、1920年(大正9年)7月… 林 忠四郎(はやし ちゅうしろう、1920年(大正9年)7月25日 - 2010年(平成22年)2月28日)は、日本の物理学者(天体物理学)・天文学者。学位は理学博士(京都大学・論文博士・1954年)。京都大学名誉教授。位階は従三位。文化勲章受章者。 天文学と原子核物理学・素粒子物理学とをつなぐ学問である宇宙物理学の日本における先駆者の一人。京都大学理学部物理学科・天体核物理学研究室の教授を27年にわたって務め、研究の一方で数多の優秀な理論物理学者や宇宙物理学者、天文学者や惑星科学者を育てた。 京都府京都市上京区紫竹西南町(現・京都市北区紫竹西南町)に林誠次郎・ムメ夫妻の四男として生まれる。生誕翌年の1921年(大正10年)7月12日、大叔父・林寛次郎の養嗣子となる。
金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、… 金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、1920年7月21日 - 1992年12月5日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 20… 梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)は、日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授、理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章。日本中東学会初代会長を務めた。 1963年に発表した「情報産業論」はセンセーションを巻き起こした。今では当たり前の言葉になった「情報産業」という言葉を初めて用いた。 1964年には自身を中心とした若手研究会による私的研究会「万国博覧会を考える会」を発足。小松左京が万博に参加するきっかけを作った。 「京大式カード」の生みの親でもある。 アフガニスタン、東南アジアなどを実地踏査し、世界を西欧と日本の第一地域と、それ以外の第二地域とから成るとした『文明の生態史観序説』(1957年)を発表した。
卓 庚鉉(たく・こうげん、タク・キョンヒョン、朝鮮語: 탁경… 卓 庚鉉(たく・こうげん、タク・キョンヒョン、朝鮮語: 탁경현、1920年6月5日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人、朝鮮人特攻隊員。日本名は光山文博。 1920年に慶尚南道で生まれ、京都府の立命館中学校、京都薬学専門学校を卒業する。1943年10月、特別操縦見習士官一期生に合格し、鹿児島県知覧にあった大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に赴任する。1944年10月には陸軍少尉に任官する。 1945年5月11日、戦闘機の隼にて出撃、沖縄飛行場西海面で戦死した。没後、二階級特進で大尉となった。 出撃の前日、富屋食堂の鳥濱トメに自身が朝鮮人ということを明かした上で、アリランを歌ったというエピソードが有名である。
川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月1… 川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月11日 - 2009年(平成21年)7月8日)は、日本の地理学者、文化人類学者。東京工業大学名誉教授。 1920年(大正9年)、三重県津市で生まれた。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に入学し、山岳部に入る山岳部の先輩の今西錦司らと山歩きに没頭。1937年に卒業。第三高等学校理科に進学し、1941年に卒業。 京都帝国大学文学部に進学し、地理学を専攻した。京都帝大時代は山岳部に入部し、今西錦司、森下正明、梅棹忠夫、吉良竜夫らと共に探検隊を結成。カロリン諸島や大興安嶺山脈を探検した。1942年の北部大興安嶺探検隊では、今西錦司が隊長、川喜田が支隊長であった。
森 光子(もり みつこ、1920年〈大正9年〉5月9日 - … 森 光子(もり みつこ、1920年〈大正9年〉5月9日 - 2012年〈平成24年〉11月10日)は、日本の女優、歌手、マルチタレント、司会者。日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長、フジテレビジョン番組審議会名誉顧問。国民栄誉賞受賞。栄典は従三位・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・文化功労者・文化勲章。東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使。 1920年、京都府京都市出身。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。俳優の嵐寛寿郎の従妹である。長らく「寛寿郎の姪で1923年生まれ」としていたが、1984年の紫綬褒章受章にあたり事実を公表し、訂正している。芸名は嵐の母(伯母)から、女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」とつけられたことによる。
中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 199… 中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 1992年5月21日)は、京都府京都市出身のプロ野球選手。左投右打で、ポジションは投手。 京都市立第一工業学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)、立命館大学から門司鉄道局(現・JR九州硬式野球部)を経て、シーズン途中ながらも1947年に南海ホークスへ入団し、1年目に15勝を挙げ、翌年も開幕から12連勝で、前年御園生崇男が記録したプロ野球記録の13連勝に挑んだ6月25日の対金星スターズ戦では6対2で敗戦投手となり連勝を止めるものの、この年は21勝を挙げる。1951年には14勝して最高勝率のタイトルを獲得し、5年連続二桁勝利も記録した。1955年に現役引退後は、1960年までコーチとなる。
宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日… 宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日 - 2008年〈平成20年〉10月24日)は、日本の華族、皇族、海軍軍人(皇族軍人)。階級は海軍技術大尉。多嘉王第2王子。皇族時代の名と身位は家彦王。1942年(昭和17年)に臣籍降下し、宇治伯爵家当主となる。 1920年(大正9年)3月17日午後5時35分、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 200… 吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 2009年2月23日)は、日本の経営者。京都府福知山市出身。 1943年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1961年1月に阪急国際交通社(のちの阪急交通社)に転じ、1969年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1980年5月に専務を経て、1985年6月に社長に就任。1991年6月に会長に就任し、1994年6月から1年間相談役を務めた 2009年2月23日に死去。88歳没。
前川 誠郎(まえかわ せいろう、1920年〈大正9年〉2月2… 前川 誠郎(まえかわ せいろう、1920年〈大正9年〉2月23日 - 2010年〈平成22年〉1月15日)は、日本の美術史家。東京大学名誉教授。 京都府京都市生まれ。 1944年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。 旧制第三高等学校教授、京都帝国大学、九州大学助教授を勤め、1970年東京大学文学部助教授、1971年教授、1980年定年退官、名誉教授、国立西洋美術館長。1990年新潟県立近代美術館長。1991年春、勲二等瑞宝章受勲。 ミュンヘンの中央美術史研究所において研究し、デューラーおよびネーデルラント等の北方ルネサンスの美術に業績があり、1975年以来ライヘナウの修道院聖堂の実地調査を行った。
本田 済(本田 濟、ほんだ わたる、1920年1月7日 - … 本田 済(本田 濟、ほんだ わたる、1920年1月7日 - 2009年9月21日)は、中国哲学者。 三重県生まれ、京都府宇治市出身。1942年京都帝国大学文学部哲学科卒。1964年「易経の思想史的研究」で京都大学文学博士。1949年高槻高等学校教諭、1952年大阪市立大学文学部助教授、1965年教授、1980年定年退官、名誉教授、梅花女子大学教授、1983年学長。号は鬳斎(けんさい)。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。
元井 能(もとい ちから、1920年1月5日 - 1989年… 元井 能(もとい ちから、1920年1月5日 - 1989年3月28日)は、服飾史学者。 京都市出身。父は絵更紗の創始者・元井三門里(本名・翠。1885-1956)。1942年大阪外国語学校仏語科卒。1949年京都帝国大学文学部美学美術史卒。同大学院をへて、1957年京都市立美術大学講師、1963年助教授、1969年校名変更で京都市立芸術大学助教授、1970年教授。1985年定年退任、名誉教授。京都女子大学教授、京都市美術館館長。
西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - … 西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - 2006年11月13日)は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。旧姓は木村。
天川 清三郎(あまかわ せいざぶろう、1919年12月27日… 天川 清三郎(あまかわ せいざぶろう、1919年12月27日 - 1944年10月26日)は京都府出身のプロ野球選手(投手、外野手)。
大橋 健三郎(おおはし けんざぶろう、1919年12月18日… 大橋 健三郎(おおはし けんざぶろう、1919年12月18日 - 2014年4月22日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。 京都市中京の呉服卸商の家に生まれる。1937年(昭和12年)、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東京外国語学校英語科入学) 1941年、東北帝国大学英文科に入学。土居光知に師事し、阿部次郎、小宮豊隆の教えを受けて夏目漱石に傾倒するが、戦争のため二年で繰上げ卒業、海軍予備学生、予備士官として各地を転々とする。 戦後、仙台工業専門学校(現仙台高等工業学校)教授。1948年(昭和23年)、横浜市立経済専門学校教授、また横浜市立大学助教授。
林屋 永吉(はやしや えいきち、1919年10月4日 - 2… 林屋 永吉(はやしや えいきち、1919年10月4日 - 2016年5月18日)は、日本の外交官。スペイン大使。 京都府宇治市出身。歴史学者林屋辰三郎の実弟。 1941年3月、大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)本科西語部を卒業後、同年4月24日付けで外務省留学生を命ぜられ、スペイン・サラマンカ大学で学んだ。後年に駐ボリビア大使、駐スペイン大使を務めた。 ユカタン半島・マヤ文明の「ポポル・ヴフ」(中央公論社)や「大航海時代叢書」(岩波書店)の訳者でもある。メキシコのノーベル文学賞作家オクタビオ・パスと交友があり、スペイン語版の松尾芭蕉「おくのほそ道」を共訳した。レアル・アカデミア・エスパニョーラの準会員(correspondientes)になった。
竹岡 正夫(たけおか まさお、1919年9月20日 - 19… 竹岡 正夫(たけおか まさお、1919年9月20日 - 1985年12月10日)は、日本の国文学者・国語学者。香川大学名誉教授。 京都府亀岡市出身。京都府師範学校、東京高等師範学校卒、1945年9月東京文理科大学国文科卒。1967年「富士谷成章の学説についての研究」で東京教育大学文学博士。 京都府第三中学校教諭、京都府立亀岡高等学校教諭、香川大学学芸学部助教授、1969年教育学部教授、1982年定年退官、名誉教授、大谷女子大学教授。子に考古学者の竹岡俊樹がいる。
瀧井 利彌(たきい としや、1919年7月7日 - 1996… 瀧井 利彌(たきい としや、1919年7月7日 - 1996年6月11日)は、日本の経営者。タキイ種苗社長を務めた。京都府京都市出身。 1942年に立命館大学経済学部を卒業。1947年にタキイ種苗取締役に就任し、1960年に副社長を経て、1970年には社長に昇格。1991年には会長に就任。日本種苗協会会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1996年6月11日肺癌のために死去。76歳没。
竹村 令(たけむら れい、1919年(大正8年)4月29日 … 竹村 令(たけむら れい、1919年(大正8年)4月29日 - 生没不明)は、昭和時代の競泳選手。 京都府立第一高等女学校在学中、1936年ベルリンオリンピックに競泳日本代表として女子100m自由形に出場したが予選落ちに終わった。女子4×100mフリーリレーにも出場したが予選落ちに終わった。
野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月… 野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月23日 - 2005年(平成17年)4月8日)とは、日本の映画監督。父は映画監督の野村芳亭、祖父は浮世絵師の二代目野村芳国。 父・芳亭は日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた。その関係で、京都と東京を行き来して育つ。京都市生まれで、生後まもなく東京市浅草区に移った。蒲田小学校から暁星小学校、暁星中学校を経て慶應義塾大学文学部芸術学科卒業。大学卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。 1946年に復員。黒澤明作品の『醜聞』『白痴』では助監督を務め、黒澤からは「日本一の助監督」と評価された。1952年の『鳩』で監督デビュー。
松本 盛二(まつもと せいじ、1919年4月13日 - 20… 松本 盛二(まつもと せいじ、1919年4月13日 - 2009年5月17日)は、日本の放送事業家。大阪朝日新聞編集局長、朝日新聞西部本社代表、朝日ビルディング社長、九州朝日放送社長、日本民間放送連盟副会長などを歴任。 1919年、京都府で生まれる。以下のようにメディアの人間として創価学会と関係が深く、配偶者も創価学会員であった。 旧制甲陽中学校(現・甲陽学院中学校・高等学校)の生徒の時分に創価教育学会の講演会に参加したことがある。 1966年9月18日、大阪朝日新聞編集局長だった頃に創価学会関西文化祭(兵庫県西宮市)に来賓として参加し、池田大作に会った。当時この「雨の文化祭」について朝日新聞上で特集しようとしたが叶わなかった。
海原 幸夫(かいはら ゆきお、1919年3月26日 - 没年… 海原 幸夫(かいはら ゆきお、1919年3月26日 - 没年不詳)は、日本の録音技師である。戦前の日活京都撮影所、および戦時統合による大映の成立後も引き続き戦後も大映京都撮影所で技師を務めた。 1919年(大正8年)3月26日、京都府京都市に生まれる。 京都市立商工専修学校(現在の京都市立堀川高等学校)を卒業し、1935年(昭和10年)、日活京都撮影所に入社する。録音技師として記録に残るもっとも古い作品は、1937年(昭和12年)6月17日に公開された池田富保監督の『唐人お吉 黒船情話』であり、同作公開時に海原は満18歳であった。同年は、剣戟スター俳優の阪東妻三郎が阪東妻三郎プロダクションを解散、映画監督のマキノ正博(のちのマキノ雅弘)がマキノトーキー製作所を解散し、それぞれ同撮影所に入社した年で、海原は同年末に公開された阪東主演・マキノ監督による正月映画『血煙高田の馬場』の録音技師に抜擢されている。
中西 珠子(なかにし たまこ、1919年3月19日 - 20… 中西 珠子(なかにし たまこ、1919年3月19日 - 2008年4月3日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 国連ハビタット推進議員連盟事務局長。議員引退後も同活動の支援を続けたことから国連ハビタット賞(英語版)を授与されている。 京都府京都市出身。法学者、中島重の長女。 1940年、津田英学塾卒業。 戦後、GHQに勤務。のち国際労働機関に転じ、東京支局次長を経て、津田塾大学理事、津田塾会理事長を務める。 1983年、第13回参議院議員通常選挙比例区に公明党から出馬し、初当選。 1989年、第15回参議院議員通常選挙比例区再選。 1995年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。同年の第17回参議院議員通常選挙に立候補せず、引退。
高木 貞敬(たかぎ さだゆき、1919年(大正8年)3月19… 高木 貞敬(たかぎ さだゆき、1919年(大正8年)3月19日 - 1997年(平成9年)10月11日)は、日本の神経生理学者。 京都府京都市生まれ。1944年東京帝国大学医学部卒。1952年「後索後根標品に見られる遲電位」で東大医学博士。東大医学部講師、1954年群馬大学医学部生理学科教授。1954年から1957年までイリノイ大学、1964年から1965年までミシガン大学に留学した。1983年定年退官、名誉教授。1997年、膵臓癌のため死去。
堀内 宗心(ほりのうち そうしん、1919年1月20日 - … 堀内 宗心(ほりのうち そうしん、1919年1月20日 - 2015年5月27日)は、表千家の茶人。 京都府京都市出身。堀内家・10代堀内宗完・不仙斎の三男、本名吉彦。1944年京都帝国大学理学部卒業、同副手。1946年2月長兄・幽峯斎宗完死去により長生庵を継ぎ、同年4月 表千家不審菴入門、内弟子として表千家第13代家元・即中斎千宗左に師事。同年12月建仁寺竹田益州より兼中斎の斎号を受ける。1953年12代堀内宗完を襲名。1997年甥の堀内國彦が宗完を継ぎ、宗心を名のる。1999年表千家家元より皆伝を受ける。2015年5月27日、前立腺癌のため死去。
村山 貞雄(むらやま さだお、1919年1月20日 - 20… 村山 貞雄(むらやま さだお、1919年1月20日 - 2000年10月以前)は、日本の幼児教育学者、日本女子大学名誉教授。 広島県、奈良市、京都府宮津市出身。1943年東京帝国大学文学部教育学科卒、45年同大学院修士課程修了。恩賜財団愛育研究所所員、東京理科大学助教授、教授、日本女子大学文学部教授、文学部長。87年定年退任、名誉教授、東京保育専門学校校長、聖心学園理事長。日本学術会議会員、国際幼児教育学会会長、名誉会長。村山ビネー式知能検査を提唱した。
安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 199… 安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 1997年3月20日)は、日本の検察官、法務官僚、検事総長、弁護士。 京都府出身。京都府第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)、第三高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学卒業。 1943年司法官試補。1947年検事となる。東京地方検察庁検事、オランダ大使館一等書記官などを経て、1973年法務省刑事局長、1977年法務事務次官、1979年東京高等検察庁検事長。1981年7月23日-1983年12月2日検事総長。 1984年弁護士を開業。のち財団法人国際研修協力機構理事長、財団法人矯正協会会長、株式会社住友銀行顧問弁護士を務めた。 著書『検察の窓から』(高文堂出版社、1985年)のほか、論文・記事を多数執筆している。
安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 199… 安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 1997年3月20日)は、日本の検察官、法務官僚、検事総長、弁護士。
雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月… 雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。
石田 徳次郎(いしだ とくじろう、1918年12月3日 - … 石田 徳次郎(いしだ とくじろう、1918年12月3日 - 1990年3月28日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。 1939年1月に石田旭山印刷取締役に就任し、1941年に同志社大学法学部政治学科を卒業。1943年に大日本スクリーン製造専務に就任し、1947年5月には社長に就任。1989年4月に会長に就任。 1963年6月に紺綬褒章を受章し、1980年4月に藍綬褒章を受章。 1990年3月28日心不全のために死去。71歳没。
南口 繁一(みなみぐち しげかず、1918年〈大正7年〉9月… 南口 繁一(みなみぐち しげかず、1918年〈大正7年〉9月4日 - 1995年〈平成7年〉9月20日)は、将棋棋士。棋士番号は37。京都府相楽郡木津町(現・木津川市)出身。村上真一八段門下。 1933年、初段で村上真一八段に入門。1935年の関西奨励会創設にあたって二段で参加。創設時の奨励会には他に大山康晴(1935年当時6級)などがいた。 大山は南口に飛車落ちで指してもらい、勝ったとはいえ大苦戦したため、「初段は強いなと子供心に思った」という[要出典]。 軍隊に行ったためブランクがあったが、1944年四段、1950年八段。1951年度の第2期九段戦で大山に挑戦するが3連敗で敗退。1984年九段、1985年4月引退。
大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 … 大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 - 2006年1月20日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 京都府京都市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に蝶理に入社。1948年に取締役に就任し、1958年に常務、1964年に専務を経て、1969年3月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1975年5月から相談役を務めた。1983年6月には家政学園理事長に就任。 2006年1月20日心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28… 苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28日 - 2018年〈平成30年〉8月12日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。視空間構造の成立に係わる心理学的研究、眼球運動計測に関する研究などで知られる。長男は苧阪直行、長男の妻は苧阪満里子。 京都市左京区吉田に生まれる。旧制京都府立京都第一中学校、旧制第三高等学校理科甲類を経て、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学文学部心理学科を卒業(卒業論文は「視空間の異方向性 - 月の錯視について」)後、海軍予備学生として応召され海軍兵学校舞鶴分校教官として電測術および心理学を担当する。終戦後、復員し1945年(昭和20年)11月より京都帝国大学大学院文学研究科部哲学専攻にて学ぶ。
原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012… 原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012年3月20日)は、日本の数学史家、フランス文学者、翻訳家。大阪大学名誉教授。 フランス科学思想史、近世ヨーロッパ数学史を専攻し、ルネ・デカルト、ケプラー、ホイヘンス、ロベルヴァル、ライプニッツを軸に研究論文・翻訳を行い、フランス語教育にも長くたずさわった。若き日はスタンダール、アラン、ヴァレリーらの翻訳も行った。 京都市出身。姫路市に育つ。第一高等学校理科乙類を経て、1938年京都帝国大学哲学科入学、1940年退学し1942年東京帝国大学仏文科卒業。1942年入営し少尉で敗戦、1945年8月20日中尉(いわゆるポツダム中尉)で除隊、1947年同志社女子専門学校教授、1949年関東学院大学経済学部助教授。
相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014… 相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014年6月26日)は、日本の経済学者。同志社大学経済学部名誉教授。夫人は作家の相見とし子(1925 - 2005年)。プロ写真家であった長男、相見明は1981年にアメリカで不慮の事故死。 作詞家もず唱平の目にとまり、作曲家の山上敏が演歌に仕上げた。 相見志郎は島倉千代子の大ファンの一人である。
秋山 光和(あきやま てるかず、1918年5月17日 - 2… 秋山 光和(あきやま てるかず、1918年5月17日 - 2009年3月10日)は、日本の美術史学者。日本美術史専攻。東京大学名誉教授、東京文化財研究所名誉研究員。 1918年、京都市下京区(現、東山区)で父・秋山光夫と母・花枝の長男として生まれた。父の秋山光夫が宮内省図書寮に職を得たことから家族とともに東京に移り、幼少期を過ごした。やがて私立暁星小学校に入学。母方の祖父は元ベルギー公使で、幼いころから祖父母にフランス語を教わっていた。 1931年、旧制東京高等学校尋常科に進み、同高等科文科丙類(仏語専修)を卒業。一時は外交官を志した。1938年4月、東京帝国大学文学部美術史学科に入学し、1941年に卒業。
柴田 護(しばた まもる、1918年1月27日 - 1995… 柴田 護(しばた まもる、1918年1月27日 - 1995年10月13日)は日本の内務・自治官僚。香川県出身。 京都一中、第三高等学校を経て、1941年3月に東京帝国大学法学部卒業。高等試験行政科に合格し、同年4月に内務省入省(地方局配属)。1942年1月に茨城県経済統制課長に就任。1946年7月に内務省官房調査部、1948年1月に内事局官房自治課、同年4月に地方財政委員会企画課で勤務。1949年に地方自治庁総務課長、1950年5月に地方自治庁府県税課長、1953年10月に自治庁財政課長、1958年6月に北海道総務部長、1960年1月に自治庁官房長(同年7月から自治省官房長)、1962年5月に自治省税務局長、1963年10月に自治省財務局長を歴任。
木原 正雄(きはら まさお、1918年1月5日 - 2008… 木原 正雄(きはら まさお、1918年1月5日 - 2008年6月24日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。専門はソ連などの社会主義経済。 1918年、京都府京都市に生まれた。京都市立第一商業学校でロシア語を選択し、立命館大学経済学科に進んだ。同大学を1941年に卒業。1942年、満州国総務庁高等官試補、満洲建国大学高等官試補となった。1943年から1945年にかけて民族研究所に勤務。1945年、京都帝国大学講師となった。 1946年、京都帝国大学助手に昇進。1950年、京都大学経済学部助教授に昇進。1967年、経済学博士の学位を取得。1968年、京都大学教授に昇進。1970~1971年、1973~1974年には、経済学部長を務めた。