田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治1… 田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治15年〉9月23日 - 1963年〈昭和38年〉12月5日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(14期)、国務大臣・衆議院副議長。 現在の大阪府富田林市に生まれる。早稲田大学を中退後、報知新聞記者を経て、1916年故郷の大阪府から衆議院補欠選挙に繰り上げ当選。以後当選14回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1939年阿部内閣において逓信政務次官を務める。 戦後は日本進歩党の結党に参加し幹事長を務める。1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。同年新憲法下初の衆議院副議長となる。
石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月… 石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月11日 - 1959年(昭和34年)10月8日)は、日本の作家、歌人。大阪府富田林市出身。 雅号はゆふちどり。新詩社の社友となり、「明星」等に短歌、詩、小説等を発表した。本名杉山 孝(すぎやま たか)。代表作は「小板橋」。
久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 … 久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 - 1962年〈昭和37年〉8月7日)は、日本の建築家。鉄道省技師、中部鉄道管理局、鉄道省初代建築課長、逓信省技師を歴任。旧制堺中学校、東京帝国大学建築学科卒。従四位。
黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2… 黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2月 - 1951年〈昭和26年〉10月5日 )は、日本の実業家。中国にあった日系紡績会社の上海紡織代表取締役会長として戦前の上海に暮らした。孫は明仁上皇の女婿・黒田慶樹。 大阪府堺市出身。黒田吉三郎の長男。 1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。卒業後は三井物産会社ロンドン支店で約9年勤務し、1912年に東京本社へ異動となった。1913年、三井物産会社の傘下にあった上海紡織に入社し、1926年に代表取締役に就任し、のちに代表取締役会長に就任した。 終戦と同時に上海紡織は閉鎖され、黒田一家は日本へ引き揚げた。 黒田について『第五版 財界人物選集』(1939年、560頁)には、「在華紡織界の指導的人材として知らる」とある。
南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 194… 南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 1943年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府出身。1907年、関西商工学校(現・関西大倉中学校・高等学校)土木科卒。大阪府土木工手、大阪府、東京市、京都市の各土木技手となる。のちに南工務所を開き、土木請負業に従事する。大阪府会議員、同参事会員、借地借家、金銭債務臨時各調停委員を務める。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において大阪10区(小選挙区制)から立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙大阪6区(当時)から立候補して落選。1937年の第20回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して再選した。
権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 … 権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 - 1959年(昭和34年)6月28日)は、日本の実業家。東洋綿花(現・豊田通商株式会社)代表取締役会長を務めた。 大阪生まれ。茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)卒業後、三井物産で綿花を取り扱い、1920年に三井物産綿花部が東洋綿花として独立すると、同社取締役に就任。上海紡織会長を経て、1936年から東洋綿花会長を務めた。豊田利三郎と豊田喜一郎、藤野勝太郎が保有していた豊田紡織株を東洋棉花が取得したことにともない、1937年豊田紡織の取締役に就任。1943年トヨタ自動車工業取締役。1959年藍綬褒章受章。同年死去。趣味は狩猟、囲碁、陶磁器で、酒は飲まなかった。
濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せ… 濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せいりょう)、1881年2月22日 - 1938年7月25日)は、日本の考古学者。京都帝国大学総長・名誉教授。「青陵」は号。「日本近代考古学の父」と呼ばれる。 1881年、岸和田藩の上級藩士である濱田家の長男として大阪府南郡岸和田村(現:岸和田市岸城町)に生まれた。府立大阪尋常中学校(現:大阪府立北野高等学校)に入学するが、放校処分となり、その後東京府に渡り早稲田中学校(現:早稲田中学校・高等学校)に転校。卒業後は関西に戻り、第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)をに進学、卒業した。 1902年、東京帝国大学文科大学史学科に入学し、美術史を専攻。
古藤 増治郎(ことう ますじろう、1881年〈明治14年〉2… 古藤 増治郎(ことう ますじろう、1881年〈明治14年〉2月6日 - 1945年〈昭和20年〉3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲民政党)。大阪府浜寺町長。 大阪府泉北郡山滝村(現在の岸和田市)出身。井出清太郎の二男として生まれ、古藤家の養子となった。1901年(明治34年)、大阪府師範学校を卒業し、各地の小学校長を歴任した。1917年(大正6年)、浜寺町会議員に選出された。ついで1918年(大正7年)から1936年(昭和11年)まで浜寺町長を務め、泉北郡町村会長にも就任した。また1927年(昭和2年)と1931年(昭和6年)には大阪府会議員に当選し、参事会員、副議長を歴任した。 1936年、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31… 食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、明治から昭和にかけての歌舞伎作者、作家。本名は食満 貞二(けま ていじ)。 大阪府堺市の裕福な酒造家に生まれる。幼少のころから芝居や落語など芸道に通じ、上京後、早稲田大学に入学し坪内逍遥に師事した。また村上浪六に弟子入りしたり、さまざまな職を経て、1905年(明治38年) 4月、田村成義の紹介で歌舞伎座の福地桜痴の門人となり本名のまま見習い作者となる。翌年4月に関係者と揉めて帰阪し、三代目片岡我當に招かれて松嶋屋の座付き作者となる。 1909年(明治42年) からは初代中村鴈治郎の一座に加わり松竹に所属。
茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年… 茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年9月2日、旧姓:増田)は、大阪市出身の歌人である。夫はドイツ文学者・詩人の茅野蕭々。本名、まさ。 1880年、大阪市道修町の「増田順血湯」本舗で知られた薬種問屋の次女として生まれる。相愛高等女学校中途退学。1900年与謝野鉄幹が主宰する「新詩社」に加入、「明星」へ投稿。1904年上京して日本女子大学に入学。1905年、与謝野晶子、山川登美子と3人で歌集「恋衣」を刊行(増田雅子名義)、明星派3才媛として雅子の名を世に広めた。晶子が「しら萩」、登美子が「しら百合」と呼ばれたのに対し、雅子は「しら梅の君」という愛称で呼ばれた。鉄幹には「明星」の清怨派と評された。
青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月2… 青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月20日 - 1949年(昭和24年)3月17日)は、日本の俳人。正岡子規門下。本名は青木 新護。 大阪市東区(現・大阪市中央区)船場にある神薬快通丸・天眼水本舖の「青木薬房」に生まれる。文学的素地としては、文芸好きな母方の血筋を受け、小学校時代の教師に文学家の斎藤黙蛙、友人に画家の西山翠嶂、赤松麟作、俳人の山中北渚、松村鬼史らがいた。1889年に父が死没し、1894年に道修町へ転居して大阪薬学校(後の大阪薬学専門学校)に入学するも中退。中退後は家業を継いだ。 1897年、國民新聞へ投句を初める。初号は月兎(げっと)。1898年に友人と三日月会を発足。
碇潟 夘三郎(いかりがた うさぶろう、1879年8月 - 1… 碇潟 夘三郎(いかりがた うさぶろう、1879年8月 - 1928年3月18日)は、大阪府大阪市中央区出身で草風部屋(京都相撲)、出羽海部屋に所属した力士。本名は山口 卯太郎(やまぐち うさぶろう)(旧姓的場)。7代山響、9代佐ノ山。身長166cm、体重88kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は掻っ撥き、下手投げ、叩き。 大工の長男で家業を継ぐべく修業していたが相撲好きで遊び回り、不義理もあり進退が窮まっていると、1896年に名古屋相撲の大関だった常陸山が大阪に来た際入門を願ったが、小兵で非力だったので断られた。そこで、同じ名古屋力士の相見山にも入門を願ったが雑用係代わりに使われたので逃げ、京都相撲の草風部屋に入門、糸柳で幕下上位へ進んだ。
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年… 川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。川喜田久太夫16代目。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。実業家としては、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行各頭取等を務めた。 大阪市東区本町で生まれ、津市の川喜田家の本宅で育つ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となり、久太夫(政令)を襲名。
三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2… 三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、明治・大正・昭和時代の日本の実業家。特に「カルピス」生みの親、カルピス株式会社の創業者として著名。
広瀬 徳蔵(廣瀬 德藏、ひろせ とくぞう、1878年(明治1… 広瀬 徳蔵(廣瀬 德藏、ひろせ とくぞう、1878年(明治11年)5月19日 - 1933年(昭和8年)5月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(大阪府第三区選出、当選4回)。 大阪市出身。広瀬種蔵の長男。関西法律学校(現在の関西大学)出身。判検事登用試験・弁護士試験に合格し、判事に任命された。辞職して弁護士を開業した。白川静を事務所に雇い入れていたことがある。その後、大阪市会議員、大阪府会議員・議長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。憲政会、立憲民政党に所属。一方で、宝塚尼崎電気鉄道株式会社の取締役、城北土地株式会社・東神火災保険会社・大阪土地建物株式会社・境川運河株式会社の監査役を務めた。
廣海 惣太郎(ひろみ そうたろう、前名・惣十郎、1878年〈… 廣海 惣太郎(ひろみ そうたろう、前名・惣十郎、1878年〈明治11年〉4月29日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、実業家。阪南銀行頭取。岸和田煉瓦綿業社長。泉醤油、本辰酒造各取締役。貝塚織物相談役。泉醤油監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡貝塚町(現・貝塚市)、先代廣海惣太郎(後に廣海惣爺と改名)の長男。1901年、家督を相続した。同志と図り、貝塚銀行を創立し、次いで頭取となり、1940年、合併により阪南銀行頭取に挙げられた。諸会社の重役を兼ねた。 辰馬半右衛門の従兄である。人柄は『泉州商工便覧』で「品性高潔温厚玉の如き人」と評される。趣味は囲碁、盆栽、能楽、茶道。宗教は真宗。住所は大阪府泉南郡貝塚町西(現・貝塚市西町)。
川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 19… 川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 1942年9月15日)は明治時代の浮世絵師、郷土玩具画家。 本名は川崎末吉。明治10年(1877年)に堺県(現:大阪府堺市)に生まれる。他の雅号では人魚洞・芳斎・碧水居とも称した。子供のころから絵が得意で、明治25年(1892年)堺に住んでいた浮世絵師の中井芳滝に師事した。一時期は芳滝の元を離れて東京に絵を学びに行くが、数年で堺に戻って大阪に移住した芳滝に再び師事し浮世絵の手法を学んだ。その後芳滝の娘と結婚し養子となって芳滝の遺志であった新聞・雑誌の挿絵や連載物の他にシリーズで発刊されていた刷物風俗画作品(『大阪名所』)を引き継いだ。更に芳滝と親しかった大阪麦酒(現:アサヒグループホールディングス)との関係も引き継ぎ、明治36年(1903年)、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会のパビリオンの1つ「冷蔵庫」内における陳列とビアホールの様子を描いた絵を残している(アサヒビール蔵)。
矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日… 矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日 - 1956年(昭和31年)4月13日)は、日本の女流歌人である。本名はたか。 兵庫県の篠山町(現在の丹波篠山市)にて、篠山藩士だった矢沢一貫とその妻のてるとの間に長女として生まれた。幼くして父から漢詩や和歌を学び、大阪府立堂島高等女学校(現在の大阪府立大手前高等学校)に入学する。その後中退し、1893年(明治26年)に留学のため上海に移住し、東洋学館にて英語等を学んだ。その後帰国し、1896年(明治29年)には20歳の若さで妻の父の次男と結婚した後に小学校の教員として活動する。 教職を引退した直後に新潮社に入社し、自身が詠んだ歌を同社が出版する「スバル」に寄稿し発表した。
亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日… 亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の国語学者、書誌学者。 兵庫県印南郡曽根村(現・高砂市曽根町)に生まれる。父・猪之介、母・チヨ。母方の祖父は亀田五一郎といい、幕末に塩田開拓などで成功し、南画家の田能村直入などの文人と交流のあった素封家であった。 大阪尋常中学校から熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学。友人に新村出がいる。大学を卒業後は恩師・上田萬年が主事を務めていた国語調査委員会嘱託として実務にあたった。1908年に七高へ赴任(同僚に山田準・武藤長平・伊波普猷らがいた)。その後、大阪外国語学校・大谷大学に教授として勤務した。
嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日… 嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日)は、日本の俳優、歌舞伎役者である。本名は井上 徳太郎(いのうえ とくたろう)。関西歌舞伎に始まり、牧野省三が監督した日本初の時代劇映画、日本初の剣戟映画に出演、サイレント映画の時代に映画俳優として活躍した。 1875年(明治8年)12月31日、大阪府大阪市北堀江町(現在の同市西区北堀江)の花柳街の料亭を生家に、「井上徳太郎」として生まれる。その環境から、幼少より芸事を覚える。 満4歳にして1880年(明治13年)、先代・嵐璃徳に入門、2年後の1882年(明治15年)に大阪・角座で初舞台を踏んだ。
二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)… 二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)7月1日 - 1951年(昭和26年)8月7日)は、日本の農民・農業技術者。阿片の材料となるケシの日本国内栽培に尽力した。「日本の阿片王」と称された。 大阪府三島郡福井村(現在の茨木市)の出身。旧姓は川端。 20歳頃よりアヘン材料となるケシの栽培に興味を示し、台湾総督府要人の後藤新平のバックアップを得ることに成功、福井村でケシ栽培をはじめる。以後ケシの栽培技術と品種の改良に努め、モルヒネ含有量が従来品種の数倍多い三島種を開発した。 昭和戦前期に日本は満州・朝鮮・内蒙古などの植民地・占領地でケシを栽培してアヘンを製造し、これが軍部の収入源となっていた。
三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日… 三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日 - 1923年〈大正12年〉9月1日?)は、日本の詩人。本名は三木 猶松、他の筆名に天友、未奇庵、雪衣、楽天遊などがある。 1875年3月12日、兵庫県赤穂市加里屋に、省六・恒子夫妻の次男として生まれる。 1879年に大阪へ移り、大阪府立北野中学校を経て、1894年に東京専門学校に入学。在学中に『早稲田文学』をはじめとした各新聞・雑誌で詩を発表する。後に病気のために退学。 1897年、浪華青年文学会の客員として、機関誌『よしあし草』に寄稿された詩の選者となる。1900年3月、須藤南翠、水谷不倒、菊池幽芳などと関西文学同好会を結成する。
植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日… 植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日 - 1962年〈昭和37年〉9月11日)は、日本の陸軍軍人。陸士10期、陸大21期。陸軍大将正三位勲一等功三級。 大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。陸軍軍吏、植田謙八の二男として生れる。北野中学校、東京高等商業学校(現:一橋大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、騎兵少尉任官。陸士生徒隊附、騎兵監部員などを経て、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業。第18師団参謀、第16師団参謀、陸軍省軍務局課員、参謀本部附(欧州出張)などを歴任。シベリア出兵に際しては、浦塩派遣軍参謀として出征した。
川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年… 川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年〉11月6日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、資産家、醸造家、実業家。川崎肥料社長。和泉商店代表。泉醤油取締役。和泉洋反物監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡岸和田町北町(現・岸和田市)の人。川崎佐治郎の長男。1882年、家督を相続する。醤油醸造業を営む。諸会社の重役である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922… 嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922年3月)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役である。嵐 橘樂と表記されることもある。また、芸名の読みは「あらし きつらく」と表記されることもある。本名は永田 長治郎(ながた ちょうじろう)。幼名は中村 成子(なかむら なるこ)、旧芸名は中村 鳥次郎(なかむら ちょうじろう)、嵐 喜樂(あらし きらく)。三代目中村翫雀、四代目嵐橘三郎門下の歌舞伎役者から横田商会、日活京都撮影所の旧劇俳優に転じ、子供芝居時代からの幼馴染みである尾上松之助を支える名脇役として活躍したが、志半ばで病没した。 1874年(明治7年)7月18日、大阪府大阪市南区久左衛門町(現在の同市中央区西心斎橋2丁目及び心斎橋筋2丁目辺り)に生まれる。
河井 醉茗(かわい すいめい、1874年〈明治7年〉5月7日… 河井 醉茗(かわい すいめい、1874年〈明治7年〉5月7日 - 1965年〈昭和40年〉1月17日)は、日本の詩人。本名、又平。大阪府堺市生まれ。 「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。また雑誌「女性時代」「詩人」を刊行するなどして口語自由詩を提唱した。詩集に『無弦弓』『塔影』など。 1874年5月4日、大阪府堺市北旅籠町に生れた。父は又平、母はせいで、呉服商を営んでいた。幼名は幸三郎。1881年錦西小学校入学。東京専門学校中退。18歳で「少年文庫」などに詩などの投稿を重ねる。20歳のときに詩「亡き弟」が初めて「少年文庫」に掲載され、以後「文庫」(「少年文庫」改題)の記者として、1907年に退くまで詩欄を担当し、北原白秋、島木赤彦らを世に送った。
岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4… 岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4月6日 - 1946年(昭和21年)1月9日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 大阪府河内郡、のちの中河内郡英田村(河内市を経て現東大阪市)に岩崎九郎平の四男として生まれる。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格。1900年(明治33年)よりドイツに留学して、1904年(明治37年)にライプツィヒ大学を卒業し、法学博士の称号を得た。帰国後、弁護士のほか、関西大学講師も務めた。1908年(明治41年)に横浜地方裁判所判事に任命され、東京控訴院判事を経て、1911年(明治44年)には元田肇拓殖局総裁の秘書官に就任したが、翌年に官を辞した。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873… 田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873年(明治6年)3月28日 - 没年不明)は、日本の銀行家。富田林銀行取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府人・田守三郎平の長男。1917年、家督を相続し、前名・龜三郎を改める。河内紡績、富田林銀行各取締役をつとめる。住所は大阪府南河内郡富田林町(現富田林市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)… 上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1938年(昭和13年)1月25日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、弁護士、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役、法政大学監事を務めた。 大阪市生まれ。上畠又兵衛の二男として生まれた。 1891年(明治24年)に和仏法律学校(現法政大学)邦語法律科を卒業。その後、判事検事登用試験に合格し、徳島地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事を経て弁護士になる。1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に大阪府第2区から無所属で出馬し当選。当選後は庚申倶楽部に所属した。その後、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役に就任。
走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、18… 走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、1872年12月20日〈明治5年11月20日〉 - 1918年〈大正7年〉11月20日)は、日本の僧である。明治・大正時代の京都市中を阿弥陀如来の使いとして一日中走るという奇行で知られた。本名は新田 常治(にった つねじ)、法名を旗 玄教(はた げんきょう)。「走り坊主の常さん」の通称で親しまれた。 師僧は大蓮寺18世芳井教岸大僧正で、旗姓は同師の旧姓。 出身地は、和泉国泉南郡清児村(現・大阪府貝塚市清児)。18歳で京都の大蓮寺に弟子入りする。当時の大蓮寺は、京都市下京区佛具屋町五条通下るの地に在ったが、第二次大戦中の五条通拡幅に伴い、左京区岡崎の地に移転している。
四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年… 四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年4月25日(1872年5月31日)- 大正元年(1912年)10月11日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は豐島屋。俳名に橘丈。本名は寺田 市太郎(てらだ いちたろう)。 二代目嵐璃珏の孫として大阪島之内に生まれる。明治12年 (1879) 三代目嵐芳三郎(後の二代目市川権十郎)の門人となり、祖父がかつて名乗った二代目嵐市太郎を名乗る。四代目嵐芳三郎を襲名後、明治37年 (1904) 頃より東京の舞台にも出るようになり、宮戸座などの小芝居で活躍する。上方色濃厚な技巧派の芸風で、『夏祭浪花鑑』の團七、『桜鍔恨鮫鞘』の八郎兵衛などの上方世話狂言や、『伽羅先代萩』の政岡などの丸本時代物に秀でていた。
尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈… 尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈明治4年11月13日〉 - 1947年〈昭和22年〉3月4日)は、現在の大阪府大阪市西淀川区出身で高砂部屋に所属した力士。本名は半田 清吉。10代振分、12代間垣。170cm、79kg。最高位は西小結。 大阪府下西成郡福村(現在の大阪市西淀川区)の鮮魚商の家に生まれる。宮相撲で活躍し、宮相撲仲間の兄が尼崎に居住していて入門時に世話となったため尼ヶ崎と名乗る。 1896年1月初土俵(序ノ口)、この時24歳と晩成であった。相撲名人と呼ばれた逆鉾与治郎から押し相撲の極意を教わり開花。好成績を続け1899年5月新十両、1900年1月新入幕。大砲万右エ門と2度の引分を演じ、1908年1月に36歳の高齢で小結昇進。
浪花崎 信蔵(なにわざき のぶぞう、1871年9月?(明治4… 浪花崎 信蔵(なにわざき のぶぞう、1871年9月?(明治4年8月)ー ?) は、明治時代の大相撲力士。本名は平野信蔵か。引退後は若者頭を務めた。175cm、85kg前後。 大阪府摂津国島下郡畑田村(のち大阪府島下郡春日村→三島郡春日村、現在の茨木市)生まれ。19歳で大坂相撲に入門し幕下まで進むが、1893年東京相撲に移籍。高砂部屋に入り、1894年1月幕下付け出しで初土俵となる。 1900年5月新十両。1907年5月まで十両を連続15場所務め、十両筆頭まで進むも入幕はできず。1912年1月場所をもって力士を引退し、翌1912年5月場所より二十山部屋所属で若者頭となる。 1927年10月場所を最後に相撲協会を退職。
上代 淑(かじろ よし、1871年 - 1959年11月)は… 上代 淑(かじろ よし、1871年 - 1959年11月)は、日本の教育者。山陽高等女学校(後の山陽学園大学・山陽女子中学校・高等学校(現在の山陽学園中学校・高等学校))の校長を51年間務め、岡山県の女子教育の推進に寄与した人物。岡山市名誉市民。 1871年(明治4年)、伊予松山藩士・上代知新の娘として愛媛県松山市に生まれる。程なくして父である知新が生活の糧を得るために淑を含む家族を連れて大阪に上り、同地で新島襄と出会い、彼より洗礼を受けてキリスト教の信徒(のちに牧師)となったため、これに伴う形で淑もまた洗礼を受け、その縁から自家の近所にあった梅花女学校(現在の梅花学園)にて女子教育を受ける事となった。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(186… 森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(1869年7月10日)- 昭和24年(1949年)4月2日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。大阪市出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られる。 外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として明治2年(1869年)に大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)に生まれる(なお、叔父に五代友厚がいる)。学習院、攻玉社を経て、明治26年(1893年)第一高等学校を卒業後、帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治30年(1897年)に卒業。大学院、明治31年(1898年)第一銀行建築係嘱託、明治33年(1900年)東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、明治39年(1906年)に台湾に渡り、大正10年(1921年)までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。
種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治… 種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治郎、1869年4月22日〈明治2年3月11日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家。泉醤油社長。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、平民・川崎潮平の長男。須藤与惣に就いて漢学を修める。1878年9月に先代源一の養子となり、1880年に家督を相続、1893年9月に旧名・豊治郎を改める。 身を実業界に投じ、1912年に有志と謀り醤油醸造業を開始し、泉醤油株式会社を起こし、推されて社長となり傍ら貝塚織物、川崎肥料の監査役を兼ねる。東洋商工、貝塚紡績各取締役をつとめる。 貝塚実業界の第一人者であった。趣味は読書、囲碁、抹茶、謡曲、旅行、漢詩。
川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年… 川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年3月5日)- 1908年(明治41年)6月15日)は、明治時代の小説家。大阪生まれ。本名亮、別号に煙波山人。
一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶… 一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶応4年5月28日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、摂津国豊島郡豊中村(現・大阪府豊中市大島町)出身の大相撲力士。本名は高橋 乙吉。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 8代猪名川に入門、一の濱を名乗り1888年(明治21年)9月見習が初見。一時広角組に加わるが1894年(明治27年)4月入幕。174cm100kgの筋肉質の体格で左差しからの寄り、吊り、投げを得意とした。 1897年(明治30年)9月小結、1898年(明治31年)4月関脇。同年10月には大関となるがこの場所4勝4敗1分の五分ながら1899年(明治32年)6月は関脇に下げられた。
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応… 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。歴代内閣総理大臣のなかで史上最高齢の77歳で就任した。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。 枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第62代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。
河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日… 河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日〈慶應3年11月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月)は、日本の醸造家、政治家、資産家、実業家。河又醤油社長。族籍は大阪府平民。 和泉国堺(現・大阪府堺市)出身。三代目・河内屋又平の末子として誕生。1883年、家督を相続する。醤油醸造業を営み、河又醤油社長である。 日本醸造協会監事、堺商工会議所顧問を兼ね、泉醤油相談役に推され、堺商工会議所会頭、堺市会議員に選ばれ、大阪府多額納税者に列する。 はやくから醸造工程の機械化にとりくむ。1913年、緑綬褒章を下賜される。趣味は書画。宗教は仏教。住所は大阪府堺市新在家町。 河盛又三郎の遠祖は、豊臣家の家臣で米田藤内(こめだとうない)といったが1615年、大坂夏の陣に敗れて豊臣家が滅亡すると大和国宇智郡三在村(現・奈良県五條市三在町)へ落ちて、ここに住みつき、郷士となって農業に従事した。
西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(… 西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(慶応2年11月21日)- 1925年(大正14年)7月24日)は、明治から大正期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、大阪府三島郡玉櫛村長。 摂津国島下郡内瀬村(大阪府島下郡玉櫛村大字内瀬、三島郡玉櫛村大字内瀬を経て現茨木市)で、西田為三郎の息子として生まれる。1888年(明治21年)7月、大阪府師範学校を卒業した。 大阪市内の東区高等小学校の校長代(1893年)、首座教員(1894年)を務め、1895年(明治28年)10月から1906年(明治39年)まで船場尋常小学校で訓導・校長に在任した。 その後、帰郷して父の跡を継ぎ、玉櫛村会議員に選出された。
初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日… 初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日(慶応2年6月18日) - 1931年(昭和6年)3月31日)は、明治から昭和時代戦前の実業家。政治家。貴族院多額納税者議員。田村駒創業者。 摂津国池田村槻木(現・池田市槻木町)の酒造業・笹部九兵衞(神田屋)の二男として生まれたが、家業はすでに傾いており、9歳で父親を亡くし、13歳で西田商店(現・呉春酒造)に奉公、徴兵逃れのため1883年に親戚の田村キクの養嫡子となった。翌年、モスリン友禅の開発に成功した大阪の洋反物商・岡島千代造の店員となり、鮮明な染色法等を完成、1891年に岡島合名会社の共同出資者となり、1894年に洋反物卸商として独立、実弟の平松徳三郎(伊丹平松家養子)とともに「神田屋田村駒商店」を創業。
赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4… 赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4月6日〉 - 1935年〈昭和10年〉8月31日)は、日本の政治家、地家主。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。大阪市会議員。族籍は大阪府平民。 摂津国東成郡天王寺村(現・大阪府大阪市)で代々農業を営む家に生まれる。赤田太兵衛の長男。2歳で父を亡くし、母の手で育てられた。 その後、河内国高安郡(現・大阪府八尾市)の叔父の元に移り17歳まで過ごした。八尾町の田中祐篤の塾生となり国史・漢籍を学ぶ。のち塾を脱し伊予の松山に赴き同地の豫章館に入り、国史・漢籍を修める。病気となり帰阪して療養の傍ら家政を整理する。 天王寺村の戸長・橋本善右衛門が赤田を迎え、役場用掛とする。
中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1… 中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 昭和5年(1930年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→無所属)、弁護士。 京都に中西新左衛門の長男として生まれる。大阪府立中学校(現大阪府立北野高等学校)、ついで神戸法律学校を卒業。裁判所書記を経て、1887年(明治20年)に判検事登用試験に合格。判事試補として福井始審裁判所に配属された後、1889年(明治22年)に判事となって、敦賀治安裁判所、増毛治安裁判所、札幌地方裁判所で勤務した。1891年(明治24年)、官を辞して札幌で弁護士を開業し、1894年(明治27年)には札幌弁護士会長に選出された。
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応… 里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応元年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月21日)は、明治-昭和期の日本の実業家。 国内ではじめて近代的なタオルの織機を開発し生産を始めた人物。 1865年(慶応元年)に和泉国日根郡佐野村(現大阪府泉佐野市)で生まれる。1885年〈明治18年〉、大阪で舶来雑貨商を営む新井末吉の奨めによりタオル製織の研究を始める。1887年(明治20年)、タオルの特徴である輪奈をつくる打出機を開発したことにより、国内で初めてのタオル製織に成功する。以後同地では日本のタオル産業発祥地として発展していき同地で生産されたタオルは「泉州タオル」と呼ばれている。
玉子屋 円辰(たまごや えんたつ 旧字表記:玉子屋 圓辰、1… 玉子屋 円辰(たまごや えんたつ 旧字表記:玉子屋 圓辰、1865年7月27日(慶応元年6月5日) - 1944年(昭和19年)6月19日)は日本の萬歳および音頭取りの芸人。明治末期から昭和初期にかけ、古典芸能であった萬歳をのちの「漫才」につながる近代的な形式の寄席芸能に仕立て直し、多くの後進を育てたことから、「上方漫才中興の祖」「近世漫才の祖[要出典]」と称される。本名:西本 為吉。 河内国河内郡池島村(のちの大阪府東大阪市)の生まれ。生家は農家。成人して鶏卵の行商をはじめると、河内音頭や江州音頭を歌いながら通りを歩いて鶏卵を売り、評判を取った。音頭取りは俄、講談などと並ぶ当時の大阪の寄席芸の主流であり、そのうち江州音頭は鶴賀鶴年一座や桜川大蔵一座などによるブームの真っ只中だった。
林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年… 林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年11月15日) - 1904年(明治37年)5月26日)は、日本の海軍軍人。日露戦争に「鳥海」艦長として出征し、第三回旅順港閉塞作戦総指揮官を務めた海軍大佐である。南山攻撃援護作戦で戦死。従五位勲三等功四級。 大坂南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。父は河内狭山藩士・林伊織。海軍兵学校12期。席次は入校時次席、卒業時3番。同期に有馬良橘、山屋他人、江頭安太郎などがいる。1894年(明治24年)大尉となり、「高雄」航海長を経て海軍大学校甲号学生(5期)を卒業。志摩清直、黒井悌次郎は同期生である。「秋津洲」航海長として日清戦争に出征。艦長・上村彦之丞のもと黄海海戦を戦った。