木佐 徳之助(きさ とくのすけ、1890年〈明治23年〉10… 木佐 徳之助(きさ とくのすけ、1890年〈明治23年〉10月16日 - 1969年〈昭和44年〉6月7日)は日本の実業家、政治家。島根県平田市名誉市民。木佐家第9代当主。号は旅峰。島根県多額納税者。農業。位階は正六位。 徳三郎の男。慶大に学ぶ。農業を営む。 雲洋石油株式会社を創設し、1928年(昭和3年)社長となり、1945年(昭和20年)帰郷。 1948年(昭和23年)に平田町長に就任した。1954年(昭和29年)、町長を辞任した。1955年(昭和30年)2月5日から1967年(昭和42年)5月16日まで、平田市長を務めた。 宗教は大社教。住所は島根県平田市平田町。美術茶道など多方面で造詣深い風流人として知られた。
河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8… 河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。河井 寬次郎とも表記される。 当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て1910年、東京高等工業学校(現東京科学大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。
伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1… 伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1928年6月8日)は、島根県出身の日本の新劇女優である。本名三浦 シゲ(みうら シゲ)、デビュー当初、映画には三浦 しげ子や三浦 茂子(みうら しげこ)、三浦 繁(みうら しげ)名義で出演していた。 1889年(明治22年)11月28日、島根県鹿足郡津和野町の紙問屋に生まれる。上京し、東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の日本女学校(現在の相模女子大学)卒業後、漢方胃腸薬「一等丸」で知られる津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐが、新婚時代は、事業を起こしたい夫・治輔と東京に住んでいた。1910年(明治43年)8月3日、20歳のときに、夫の実家に戻り、長男・佐喜雄(のちの作家・伊藤佐喜雄)を出産。
長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)… 長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第41連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸大専攻学生となった。1931年(昭和6年)11月、歩兵学校教官に就任、関東軍司令部付、第19師団参謀などを歴任し、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵学校教官となった。
熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 -… 熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1963年〈昭和38年〉2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選群馬県知事、松江市長。旧姓・石倉。 島根県出身。石倉家に生まれ、熊野家の養子となる。松江中学校を経て、第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年、内務省に入省し鹿児島県属となる。 以後、鹿児島県警視、同県日置郡長、同薩摩郡長、同県理事官、和歌山県理事官、同農林課長、同地方課長、帝都復興院書記官、復興局書記官・整地部庶務課長、同用地課長、愛知県書記官・学務部長、大阪府書記官・学務部長、岐阜県書記官・内務部長、三重県書記官・総務部長などを歴任。
井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 196… 井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 1965年7月20日)は、島根県出身の文部官僚。1930年代の国語読本である『小学国語読本』(サクラ読本)の編集の中心となった。 県立松江中学校、第一高等学校(同期に近衛文麿、山本有三、土屋文明)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業した。1921年、鹿児島県の第七高等学校造士館教授の時、大学の先輩である高木市之助に誘われ、文部省図書監修官となる。以後20年にわたって国定教科書の編集に関わる。 1925年から教科書研究のため1年間欧米に留学する。 1931年から『小学国語読本』の編纂に着手する。従来巻一の冒頭に単語から教えていたが井上は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に象徴されるように文から習うように改めた。
原 忠一(はら ちゅういち、1889年〈明治22年〉3月15… 原 忠一(はら ちゅういち、1889年〈明治22年〉3月15日 - 1964年〈昭和39年〉2月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 島根県松江市出身。旧制島根県松江尋常中学校より海軍兵学校第39期入校。入校時成績順位は150名中第53位、卒業時成績順位は149名中第85位。余談ではあるが官報によると原は陸軍士官学校第23期の試験も合格しており、騎兵第八連隊への配属も決まっていた。 北部仏印進駐の際は第二遣支艦隊参謀長として陸軍強硬派との対応に追われる。第五航空戦隊司令官として、航空母艦を主力とする世界初の海戦となった珊瑚海海戦を指揮した人物である。
恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3… 恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3日 - 1967年〈昭和42年〉11月2日)は、日本の法哲学者。大阪市立大学名誉教授。法学博士。従三位勲二等旭日重光章。学士院会員。 芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。 島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。
渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月… 渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、日本の水産業者である。 島根県島根郡片江浦(後の八束郡美保関町、現在の松江市)の生まれ。アメリカ合衆国への渡航を志したことにより、1909年(明治42年)に日本郵船が所有する「セイロン丸」の水主として乗船する。しかし航海中にイギリスのトロール漁船に遭遇したことにより下船し、帆船の手操網漁法の改善のために1911年(明治44年)に大日本水産会漁船船員養成所で学んだ。修了後は島根県水産試験場に勤務し、機船による手操網の試験および操業に携わる。 1913年(大正2年)に独立後は友人ら仲間と共に帆船である「方結丸」の建造に携わり、5年後の1918年(大正7年)には動力による網の巻上機の考案にも携わり日本で初の機船底引網漁法の開発に尽力した。
一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1… 一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1952年2月21日)は、日本の美術評論家。 島根県八束郡東出雲町(現・松江市)揖屋に生まれる。1913年早稲田大学英文科を卒業。1921年ヨーロッパに遊学、1926年再留学。イギリスの大英博物館図書室で読んだ本に感銘を受ける。帰国後は、海外の美術や現在の動向、とくに古代エジプト美術の紹介に努めた。1928年帝国美術学校、1941年北京芸術大学教授。 雑誌『中央美術』を創刊して編集に携わり、また、平凡社の百科事典や世界美術全集の編集にも関わった。中国に赴いて研究を深め、『支那美術史』を著した。教授の末田利一や石塚太喜治の下で中華民国国立北京芸術専科学校(現中国中央美術学院)の講師をしていた。
木村 小左衛門(きむら こざえもん、1888年2月2日 - … 木村 小左衛門(きむら こざえもん、1888年2月2日 - 1952年2月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。初名吉郎。多額納税者・木村義三郎の次男。 地方実業界の重鎮として多年活躍したが、1924年衆議院議員に当選以来、中央政界で活動した。若槻禮次郎(元首相)との関係極めて密であった。総理大臣秘書官、大蔵大臣秘書官等を経て農林大臣、内務大臣、国務大臣建設院総裁(初代、後の建設大臣)、国務大臣地方自治庁長官等を歴任した。 島根県大原郡大東町(現在の雲南市)に生まれる。 松江中学(現島根県立松江北高等学校)、早稲田大学に学ぶ。郡会議員・郡会議長を経て1924年の第15回衆議院議員総選挙に故郷の島根県から憲政会公認で初当選。
石本 暁曠(いしもと ぎょうこう、1888年 - 1935年… 石本 暁曠(いしもと ぎょうこう、1888年 - 1935年8月23日)は、日本の彫刻家。別号は暁海。本名は石本 恒介。 島根県能義郡広瀬町(現・安来市)出身。1905年、京都市立美術工芸学校卒。米原雲海に師事。第6回文展に出展し入選。1931年、帝展無鑑査。1933年、京都市立美術工芸学校の教員となる。1935年、死去。享年48。
今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 19… 今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 1973年9月2日)は日本のハンガリー語学者。専門のハンガリー語の他、フィンランド語辞典の著もある。また叢書『フィン・ウゴル研究』を編集刊行し、日本におけるウラル学の先駆者やハンガリーにおける日本文化紹介者として知られる。島根県出身。 松江市生まれ。1914年、東京外国語学校ドイツ語科卒業。同年、来日中のハンガリーの民俗学者バラートシ・バログ・ベネデク(ハンガリー語版)のアイヌ・ギリヤーク・オロッコ研究旅行に通訳として同行し、北海道や樺太を巡る。これが縁で、バラートシからツラニズムの日本普及に協力するよう求められる。 東京帝国大学経済統計研究室などに勤務した後、アメリカを経てドイツに留学し、程なくしてバラートシ=バログの招きで1922年にハンガリーへ移り、ブダペスト大学哲学科を卒業。
福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月1… 福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月14日 - 1971年(昭和46年)11月13日)は、日本の明治から昭和にかけての社会運動家。大正末から昭和初年にかけての島根の社会主義運動の担い手の多くを育てる。別名福田素顕。 島根県簸川郡久多美村東福(現・出雲市)に生まれる。父・蓮之助は県会議員・県会議長を務めた県政界の有力者であった。1903年(明治36年)、上京して成城中学に入学。1904年(明治37年)11月、普通選挙実現や治安警察法改正を求める平民懇親会(於錦輝館)に参加する。1905年(明治38年)、早稲田大学政治科に入学。清国からの留学生と交流する中で社会主義を受容し、同大学を中退して社会運動に身を投じる。
伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 -… 伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 島根県海士郡海士村(現在の隠岐郡海士町)出身。大阪府立農学校獣医学科を経て、1910年(明治43年)に盛岡高等農林学校獣医学科を卒業した。のち法科に転じ法政大学に学んで1916年(大正5年)に高等文官試験に合格した。警視庁警視、愛知県額田郡長、同知多郡長、長崎県商工課長、同水産課長、同農林課長、福井県学務部長、岩手県警察部長、滋賀県警察部長、愛知県警察部長、大分県内務部長、関東局旅順民政署長を歴任した。 退官後、興中公司嘱託、天津電業公司総務科長、大連機械製作株式会社支配人・総務部長を経て、東亜生果株式会社社長を務めた。
佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - … 佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - 1944年)は、佐藤造機(後の三菱農機 → 三菱マヒンドラ農機)の創設者。島根県出雲郷村(現・松江市)出身。
蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 194… 蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 1946年10月15日)は日本の口演童話の研究家、児童文学の作家である。キリスト教精神と欧米の童話を基盤に、伝承童話の研究の基礎を築いた。また近代詩の詩人として、北原白秋、三木露風の同時代に活躍した詩人でもある。 蘆谷ろそんとも表記される。本名は重常 1886年(明治19年)島根県松江市に生まれ、栃木県で育つ。国民英学会で中等教育を受ける。 1904年頃、17歳頃栃木県宇都宮市の栃木県立宇都宮農学校(現、栃木県立宇都宮白楊高等学校)の学生時代に、東洋宣教会の宣教師アーネスト・キルボルンの宇都宮の福音伝道館で求道を始める。同級生の森五郎を福音伝道館に誘う。
勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 19… 勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 1976年5月23日)は、日本のアイルランド文学者・語学者。 島根県松江市出身。1911(明治44)年、東京帝国大学(現在の東京大学)英文科卒。1925年から2年間、文部省から推薦されアイルランド留学。旧制神奈川県立横須賀中学校(現・横須賀高校)、旧制千葉県立佐倉中学校(現・佐倉高校)の各教諭、旧制商船学校、旧制山形高等学校(現・山形大学)の各教授を経て同志社大学教授に転じ、同専門学校英星版部長を兼任。戦後は滋賀大学教授、大阪工業大学教授。専門はアイルランドの文芸復興関連の演劇やアングロ・アイリッシュの発音に関する研究。著書多数。1976年5月23日に脳血栓のため89歳で逝去。
原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951… 原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951年12月20日)は、島根県出身の俳人。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人で、色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。本名は原 鼎(はら かなえ)。初号・鉄鼎。別号・ひぐらし。 簸川郡塩冶村(現出雲市)の医師の家に三男として生まれ、県立簸川中学校(現在の島根県立大社高等学校)に入学。教員として大町桂月がいた。2年のときに『山陰新報』課題句に投句し入選。5年生の時、新任教員であった俳人の竹村秋竹の家に寄宿し、秋竹の影響を受け俳句、短歌を初めとする文学活動に熱中。『国文学』に俳句、短歌、文を投稿ししばしば入選した(俳句は河東碧梧桐、歌・文は金子薫園選)。
金藤 英夫(かねとう ひでお、旧姓・石橋、1886年〈明治1… 金藤 英夫(かねとう ひでお、旧姓・石橋、1886年〈明治19年〉2月6日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本の実業家、政治家。金藤家第12代当主。 島根県簸川郡平田町(のちの平田市、現・出雲市)生まれ。石橋孫八の五男、あるいは八男。石橋正彦の弟。金藤秀四郎の養子、あるいは金藤米太郎の養子となる。また金藤シミの入夫となる。 松江中学校、第五高等学校を経て、1913年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。米子製鋼所支配人、米子銀行常務取締役、赤江村長などをつとめる。 宗教は真宗、仏教。書画、骨董に親しむ。趣味は運動、政治。住所は島根県能義郡赤江村東赤江(現・安来市)。
小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925… 小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925年6月19日)は、日本のボーイスカウト運動の創始者のひとり。
中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治… 中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治17年)3月27日 - 1958年(昭和33年)12月25日)は日本の編集者。本名は三郎、号は蕗峰。島根県津和野出身。日本組合基督教会神戸教会・金尾文淵堂に勤務した後、獅子吼書房・春秋社書店等を設立するなどして編集活動に従事し、『大系本』シリーズにより「大系」の語を定着させた。教会・出版関係者と幅広い関係を築き、田山花袋『蒲団』『縁』の題材ともなった永代静雄・岡田美知代の仲を取り持った。 1884年(明治17年)3月27日島根県鹿足郡鷲原村(津和野町鷲原)に旧津和野藩士斎藤善哉の三男として生まれた。幼少期は神代種亮・天野雉彦から文学の薫陶を受けた。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。
宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 196… 宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 1968年5月29日)は、大正期から昭和期の日本の畜産学者。専門は畜産物理用学。学位は、農学博士(北海道帝国大学)。「宮脇冨」とも表記される。 島根県安濃郡鳥井村(現・大田市)出身。14歳で渡道。1902年、札幌農学校卒業。1902年、浅羽農場に就職。1907年、カンザス州立大学農科大学卒業。1907年、カンザス州立大学農科大学助教授。1911年、帰国後、東北帝国大学農科大学助教授。1918年、北海道帝国大学農科大学助教授。1919年、北海道帝國大学農学部助教授。1920年、北海道帝国大学にて農学博士を受く。1924年、北海道帝国大学農学部教授。
神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月… 神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月14日 - 1935年(昭和10年)3月30日)は、日本の校正家。「校正の神様」といわれた。号の帚葉は、誤字を除ける校正業を落葉掃きで譬喩したもの。七松庵とも号す。 石見津和野(現・島根県津和野町)出身。松江師範学校を卒業して教師となる。明治末年に教師を辞めて上京し、大正末年まで海軍大学校図書館に勤務する。そのかたわら、図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭する。後に明治文化研究会の一員となる。 1924年11月25日、東京朝日新聞の夕刊で「校正の神様」として紹介される。1930年、「日本校正協会」を設立・主宰し、雑誌「校正往来」を発行する。
岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日… 岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日 - 1948年〈昭和23年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。憲政会系官選県知事、内務省警保局長。 島根県松江市出身。岡政徳の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入省し、北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補、同理事官、佐賀県理事官、新潟県理事官、青森県警察部長、鳥取県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。 1924年7月、富山県知事に就任。県営林造成、第二次伏木港築港工事、県営電力開発などに尽力。憲政会系と見られていたが、公正な県政運営により県民の信頼を得た。
釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 19… 釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 1945年8月6日)は、日本の作家・新聞記者である。本名永井栄蔵。別号として永井瓢斎がある。 1882年(明治14年)9月26日、島根県安来町西灘に生まれる。父親は永井彦衛門。永井家は雲伯で産出する砂鉄鋼を集出荷する鉄問屋であり、酒造業も営む地域の素封家であった。しかし、瓢斎が生まれた頃には、家運は下向き気味となっていた。松江中学校に入学したのち、万寿寺の勝平宗潤の会下に参じる。中学時代より、瓢斎の号を用いるようになる。卒業後は早稲田大学に進学するが、同郷の開業医である足立健三郎の援助を受け、第三高等学校に転学する。同校で「賄征伐の歌」を作曲。
間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日… 間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。東京市麻布区長。 島根県松江市出身。佐々木龍夫の五男として生まれ、間宮興孝の養子となった。1907年(明治40年)に東京外国語学校を卒業した後、長崎高等商業学校助教授を務めた。1914年(大正3年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1917年(大正6年)内務省に入省して埼玉県属となり、同南埼玉郡長、島根県飯石郡長、同理事官、島根県学務部長、埼玉県学務部長を歴任し、1931年(昭和6年)に大分県警察部長に就任した。 退官後、東京市に入り、教育局庶務課長、同社会教育課長を務め、1937年(昭和12年)に麻布区長となった。
大庭 政世(おおば まさよ、明治15年2月14日(1882年… 大庭 政世(おおば まさよ、明治15年2月14日(1882年) - 昭和14年5月19日(1939年)は、島根県津和野町出身の農民運動家。 日本初の産業組合病院の設立に尽力した。 明治15年(1882年)、鹿足郡須川村(現・津和野町)の小山家で生まれた。 明治35年(1902年)に京都府立農学校を卒業、明治36年(1903年)、愛知県立農事試験場技師に就任。 明治40年(1907年)、青原村(現・津和野町)の大庭家の養子となる。 明治41年(1908年)、帰郷。青年団運動に身を置き、養鶏、養蚕などの新しい技術を取り入れたことが青年団の人望を集める。 大正7年(1918年)、青年団に押された形で青原村産業組合長に就任。
生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉… 生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉1月10日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、日本の教育者。大阪府立大手前、府立清水谷、清友学園の高等女学校3校で校長を務めた。 1882年(明治15年)島根県松江市出身。岩佐湪一の子として生まれ、1886年(明治19年)生田厚の養子となった。第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)卒業。1910年(明治43年)4月15日、教諭として大分県立臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に赴任。1914年(大正3年)6月8日、愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)の教諭。1917年1月18日、秋田県師範学校(現・秋田大学教育文化学部)の教諭となる。
今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治… 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治14年〉4月15日 - 没年不明)は、日本の実業家、島根県多額納税者、島根県の大地主。族籍は島根県平民。 島根県・桜井三郎右衛門の長男。1908年、家督を相続し、旧名・直養を改め襲名する。農業を営む。八雲銀行、出雲館製糸所各取締役、松江銀行監査役をつとめる。 住所は島根県仁多郡阿井村(現・奥出雲町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - … 野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - 1931年(昭和6年)1月)は、囲碁の棋士。島根県生まれ、本因坊秀栄門下、七段。「常勝将軍」の異名をとる。毒舌で知られ、本因坊家から破門、日本棋院と棋正社の院社対抗戦では棋正社として出場した。 元出雲藩士野沢助之進の三男として島根県松江市に生まれる。6歳から碁石を手にし、10歳頃には囲碁の神童と謳われ、独学ながら1892年に方円社に入塾し、大阪に移っては田淵米蔵に師事。1896年に父と名古屋に移ってからは二段格の本多七兵衛と交流し、この頃には高崎泰策に三子の力があった。1903年に本因坊秀栄に入門し、飛付き二段となる。同年に三段、1907年には四段となる。
小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12… 小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12月19日 – 1938年(昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家。いけばな小原流二世家元。島根県松江市出身。本名は光一郎。 1880年(明治13年)、島根県松江市に生まれる。1890年(明治23年)、父(小原雲心)に呼ばれ大阪に転居する。父の勧めで商人を目指していたが、小原流興隆のため1904年(明治37年)、25歳で華道家に転身。1916年(大正5年)、父の死を受けて小原流家元を継承。以来、積極的に花展を開催し、ラジオや新聞・雑誌などで講座を受け持つなど、小原流いけばなの大衆化を図る。盛花に「型」を定め家元制度を確立させ、盛花をいける人を急増させる。
加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9… 加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉3月7日)は、明治から昭和前期にかけての東洋史学者。 1880年、島根県松江にて、旧松江藩士内田家の4男として生まれた。1歳のとき、同じ元松江藩士の加藤家の養子となった。松江中学時代に三宅雪嶺の支那(中国)研究論に惹かれて東洋史を志した。国民英学会を経て、22歳で東京帝国大学史学科支那史学科選科に入学。在学中に起こった日露戦争に伴う召集による休学を挟み、1906年に25歳で卒業した。この間に内田銀蔵の日本土地経済史の研究と師である白鳥庫吉の影響を受けて、当時日本ではほとんど研究されていなかった中国経済史研究をテーマに定めた。
櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月… 櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月14日 - 1947年〈昭和22年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。 元中国電力会長櫻内乾雄、元衆議院議長櫻内義雄の父。福田康夫元首相の妻貴代子や政治家の太田誠一は孫。 旧雲州広瀬藩士・櫻内和一郎の長男。東京専門学校(現:早稲田大学)中退。岐阜新聞、愛知新聞などで記者を務めていたが、実業家の雨宮敬次郎に認められ、実業界に入り、大日本軌道、日本高架鉄道の設立に参画、1907年(明治40年)に東洋競馬会を起こして理事。 また銚子、石巻、埼玉、逗子などで電燈会社を創業、1910年(明治43年)に日本電燈株式会社を設立し取締役。
三上 アイ(みかみ アイ、1880年3月 - 1970年6月… 三上 アイ(みかみ アイ、1880年3月 - 1970年6月1日)は、日本の教育者である。学校法人江の川学園創立者。 1880年、島根県邑智郡川本町にて出生。1906年、渡辺裁縫専門学校を卒業。翌1907年、島根県邑智郡に県下で初めての私立学校となる邑智裁縫女学院を創立し、和洋の裁縫や茶道の教育を行う。邑智裁縫女学院は1959年に川本家庭高等学校に改組、その姉妹校にあたる江津女子高等学校を併設。1962年に2校を統合し、江の川高等学校、さらに江の川学園短期大学を設立する。 1963年には藍綬褒章、1964年には勲四等瑞宝章を其々受章。1970年6月1日に没し、同時に従五位を賜る。
野々村 運市(ののむら うんいち、1880年(明治13年)2… 野々村 運市(ののむら うんいち、1880年(明治13年)2月20日 - 1951年(昭和26年))は、日本の教育者。 島根県大原郡大東町(現在の雲南市)出身。1899年(明治32年)、島根県師範学校を卒業し、大東町高等小学校の首席訓導となった。その後、1907年(明治40年)に東京高等師範学校を卒業し、鹿児島県立川辺中学校に赴任した。1909年(明治42年)、東京府豊島師範学校附属小学校主事に転じた。1921年(大正10年)に辞して、東京高等師範学校専攻科に入って1923年(大正12年)まで教育学を専攻し、その後は東京高等師範学校講師となった。1929年(昭和4年)、東京高等師範学校教授に就任し、のち附属国民学校主事を兼ねた。
石倉 俊寛(いしくら しゅんかん、1880年(明治13年)2… 石倉 俊寛(いしくら しゅんかん、1880年(明治13年)2月18日 - 1975年(昭和50年)3月20日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家。大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍主計少将。島根県松江市長。旧姓は青戸。 青戸林平の三男として島根県に生まれ、石倉益蔵の養子となる。島根県第一尋常中学校(島根県立松江北高等学校の前身)、和仏法律学校(現・法政大学)を経て、1901年(明治34年)12月に海軍主計候補生となった。呉経理部第一課長を経て、1926年(大正15年)12月、軍令部出仕と共に海軍主計少将に進み、翌年の1927年(昭和2年)3月、待命し翌月予備役編入となった。雷型駆逐艦「朧」乗組として日露戦争に出征し、日本海海戦では「出雲」乗組として参戦した。
広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月1… 広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月11日 - 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の俳人。 島根県能義郡赤江村大字中津(現・安来市東中津町)に生まれる。 本名・直治。蚕豆庵(さんとうあん)と号した。当時の大地主である広江忠四郎の長男。夫人コノとの間に二男二女がある。晩年に村内に郵便局を開設したが、すべて次男まかせであったという。 俳句は中学二年頃からはじめ、大谷繞石の指導する碧雲会に参加、正岡子規選の『日本』俳壇や『ホトトギス』に投句。非常な多作家で、子規は「八重桜を以って第一の多作者となす。一季優に千句を下らざるもの数年」と評した。 のち河東碧梧桐に師事、新傾向俳句を詠み「海紅」の選者も務めたが、中塚一碧楼の義弟、中塚響也と「渚」を創刊後は定型に戻った。
石橋 長右衛門(いしばし ちょうえもん、1878年〈明治11… 石橋 長右衛門(いしばし ちょうえもん、1878年〈明治11年〉11月10日 - 1937年〈昭和12年〉10月31日)は、日本の政治家、実業家、島根県の大地主。雲陽実業銀行取締役。松江銀行監査役。族籍は島根県平民。 出雲国簸川郡古志村に生まれる。石橋助市の長男。幼い頃に父母が亡くなり、祖父母の鞠育を受け成長する。1881年、家督を相続する。1899年、青年実業会を起し、その会長となる。 1901年、村民の輿望を受け、村長に選任され、村政を統治する。古志貸金合名会社を創起し、その社長となる。古志銀行、雲陽実業銀行各取締役、松江銀行監査役などをつとめる。 住所は島根県簸川郡古志村(現・出雲市)。 石橋家は旧幕時代に累代組頭及び下郡役を勤め、苗字帯刀を許された閥閲で、郷党に推重された。
倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈… 倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈明治11年〉7月 - 1942年〈昭和17年〉2月4日)は、日本の教育家。学習院名誉教授。族籍は鳥取県平民。位階は正三位、勲等は勲二等。 島根県簸川郡上津村大字上島字和久輪(現・出雲市上島町和久輪)・渡部桑右衛門の四男、渡部金三郎の弟。松江生まれ。 松江中学校、第四高等学校を卒業。東京帝国大学に入り、在学中鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)・倉敷岩太郎の養子となる。1904年に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。1925年に家督を相続する。 宮城県立第一中学校教諭を経て後学習院教授に任じ、教務課長を命ぜられる。秩父宮、高松宮、三笠宮などの教育に当る。
若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月… 若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月24日 ~ 大正10年(1921)7月6日)は、満蒙独立運動に関わった活動家である。 明治29年(1896)9月22日に原田村(現・島根県隠岐郡 隠岐の島町 原田)の秋庭源太の養嗣子となるが、明治30年(1897)5月24日離縁、父親・彰信の戸籍に戻る。 明治31年(1898)1月31日に彰信の戸籍より分家届出。 明治34年(1901)1月に設立された黒龍会(国家主義団体)に所属。第一次満蒙独立運動(大正元年・1912年)、第二次満蒙独立運動(大正5年・1916年)に関り、殉難した。 現在のモンゴル国にはいった最初の島根県人とされている。
厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年… 厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年)は、日本の俳人、教育者。本名、厨川肇。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)校長、山口県立山口図書館初代館長を歴任。 島根県浜田市出身。旧制島根県立第二中学校(現在の島根県立浜田高等学校)に在学中の頃から俳句を習う。熊本県の旧制第五高等学校(現在の熊本大学教養部)在学時代は、当時、旧制五高で教鞭を執っていた夏目漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)を寺田寅彦、蒲生紫川らとおこし、夏目漱石から俳句を学ぶ。五高時代、千江が髪を切って夏目漱石の自宅を訪れた事があったが、散髪後のさっぱりとした頭を見た漱石が「秋風や今そりたての頭より」という句を即興で詠み、とても感動したというエピソードがある。
竹下 儀造(たけした ぎぞう、1877年〈明治10年〉10月… 竹下 儀造(たけした ぎぞう、1877年〈明治10年〉10月 - 1947年〈昭和22年〉12月26日 )は、日本の醸造家、政治家、島根県多額納税者。前名・蔵利(くらとし)。政治家竹下登(元首相)は孫。漫画家影木栄貴、ミュージシャンDAIGOなどは玄孫にあたる。 島根県飯石郡掛合村(現・雲南市掛合町)出身。竹下荘太郎の三男。のちに先代竹下儀造の養子となり1905年、家督を相続した。酒造業、工業を営み、島根県多額納税者に列する。掛合村農会会長、村会議員を務めた。1947年12月26日、死去。法名は法蔵院釋普照居士。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は島根県飯石郡掛合村(現・雲南市掛合町)。
島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18… 島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月21日)は、日本の政治家。 政界入りする前は地方自治の現場にいて地方自治の研究をした数少ない人物であり、政界に入ってからは衆議院議員選挙に9回当選し、農林大臣・衆議院議長等を務めた。雄弁家としても知られた。 島根県江津市出身。旧制山口高等学校卒業。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、雑誌『明美王道』及び『実業時論』両誌の編集者となる。1903年(明治36年)、東京市吏員に転じ、教育課長・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)、中国雲南省法制学堂講師となる。1907年(明治40年)、帰国。
石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年… 石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年〉6月6日 - 1928年〈昭和3年〉5月3日)は日本の日本画家・洋画家。英国ロイヤル・アカデミー初の日本人学生。代表作に『美人読詩』や松方正義・渋沢栄一・大隈重信らの肖像画がある。 「和訓」の読みは「かずのり」だが「わくん」とも呼ばれる。「かずよし」とする文献もある。幼名は倉三郎。27歳のとき師の滝和亭の一字をもらい「和訓」に改名した。画号は耕雲、雅原、中雅。 1876年、島根県飯石郡西須佐村(現・出雲市佐田町反辺)の農家石橋熊三郎とマツの間に生まれる。幼少から画才に秀で、須佐建真(須佐神社祠官)と永瀬雲山から南画を学ぶ。1892年、松江に出て後藤魚洲(島根師範学校教員)と堀櫟山(小豆沢亮一門下)から南画・洋画を学ぶ。
奥野 政次郎(おくの まさじろう、1876年〈明治9年〉3月… 奥野 政次郎(おくの まさじろう、1876年〈明治9年〉3月 - 没年不明)は、日本の農民、実業家。 島根県・奥野周義の二男。1912年、家督を相続する。農業を営む。島根県種苗社長、島根県農会副会長、能義郡農会長、米子銀行取締役、奨恵銀行監査役などをつとめる。 趣味は農耕。宗教は曹洞宗。住所は島根県能義郡母里村大字西母里(のち伯太町、現安来市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月… 山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月15日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村(現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した。 松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された。
高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10… 高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10月31日 - 1943年(昭和18年)2月7日)は日本の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 島根県神門郡稗原村(簸川郡稗原村を経て現出雲市)で大地主・高橋守衛の長男として生まれる。松江修道館を修了した。1906年(明治39年)3月に家督を相続した。 1904年(明治37年)稗原三等郵便局を開設して同局長に就任。稗原村会議員、同村区会議員、同村農会長、同村学務委員、島根県地方森林会議員、簸川郡教育会長などを務めた。 実業界では、1906年、簸川銀行取締役に就任。その他、簸上鉄道取締役、出雲電気取締役社長、島根県農工銀行頭取などを務めた。