建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月… 建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月20日 - 2011年(平成23年)1月7日)は、日本の石油実業家。日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務めた。 オイルショック後の時期に、日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務め、中東産油国との連携、石油業界の是正、石油エネルギーの安定供給に貢献した。この功績が認められ、1988年に瑞宝大綬章を授与された。日本石油「中興の祖」、「天皇」などと評される。 戦前の甲陽中学で野球が盛んだったこともあり、野球愛好家であった。1956年から1973年まで日本石油野球部長を務めた。その間、都市対抗野球大会では、初優勝を含めて5回の優勝を果たした。
関 正彦(せき まさひこ、1915年12月17日 - 201… 関 正彦(せき まさひこ、1915年12月17日 - 2011年12月14日)は、日本の経営者。三井銀行社長、会長を務めた。岡山県岡山市出身。 大阪高等学校を経て、1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三井銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1975年3月に専務、1977年12月に副社長を経て、1978年12月に社長に就任した。1982年2月に会長に就任し、1984年6月を相談役を経て、1997年7月からさくら銀行名誉顧問を務めた。 2011年12月14日脳梗塞のため死去、95歳没。
三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5… 三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5日 - 没年不詳)は、実業家である。第二次世界大戦中に従軍し、大日本帝国陸軍主計中尉となり、戦後はクラレ東京支社長、クラレ不動産取締役を務めた。岡山県高梁市出身。 1915年(大正4年)、現在の岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生れる。その後、1928年(昭和3年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1933年(昭和8年)に同校を卒業し、翌年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1937年(昭和12年)3月に同校を卒業し、同年、東京帝国大学経済学部へ進学する。1940年(昭和15年)3月、同大学の経済学部経済学科を卒業する。
島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 200… 島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 2005年11月3日)は、岡山県出身の会社役員、サッカー選手、第7代日本サッカー協会会長。 1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、石川馨(東京大学名誉教授)、中村光夫(文芸評論家)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 旧制水戸高校(現・茨城大学)を経て、1936年に東北帝国大学法文学部に入学。1940年3月に大学を卒業して三菱重工業に入社した。1941年に太平洋戦争の召集を受けて従軍、1945年にシベリア抑留に遭い、1947年に帰国。
河合 滉二(かわい こうじ、1914年7月28日 - 199… 河合 滉二(かわい こうじ、1914年7月28日 - 1998年6月29日)は、日本の経営者。サッポロビールの社長、会長を務めた。岡山県井原市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年にサッポロビールに移り、1971年に取締役に就任し、専務などを経て、1978年に社長に就任。1983年に会長に就任し、1985年から取締役相談役を務めた。1961年には上島珈琲会館を設立し、社長に就任した。 1984年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年6月29日肝不全のために横浜市の病院で死去。83歳没。
宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2… 宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。民間企業に勤務した後、父である宮田重五郎が創業した宮田酒造場を相続し、宮田酒造を設立。その後、社名を三光正宗へ変更し、同社の社長・会長に就任する。1991年に岡山県三木記念賞を受賞。岡山県新見市出身。 1914年(大正3年)、岡山県阿哲郡哲西町矢田(現:新見市哲西町)にある宮田重五郎の長男として出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、岡山にある旧制第六高等学校文科乙類へ進学する。1934年(昭和9年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。
塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年… 塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年(明治45年)5月26日 - 1996年(平成8年)4月17日 )は、日本の大蔵官僚でもあり、実業家である。国内セラミックス大手3社の一角であった九州耐火煉瓦(現:黒崎播磨)の代表取締役社長を務めた。その後、同社の会長、相談役となる。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)現在の岡山県高梁市にて出生。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、陸上選手で研究者の柳井深造がいる。1930年(昭和5年)同校を卒業し、第六高等学校理科甲類へ進学するが、その後、途中で大病を患って退学。 3年後の1933年、塩田は理系から文転し、第六高等学校文科甲類へ再入学する。
川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日… 川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月14日 )は日本の実業家である。三井生命保険、華興商業銀行勤務を経て神戸銀行取締役となり、その後、阪神相互銀行・第2代代表取締役社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)岡山県川上郡川上町領家(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、画家になる皆見鵬三がいた。1929年(昭和4年)に同校を卒業後、旧制第六高等学校へ入学する。1932年(昭和7年)に同校を卒業後、同年、東京帝国大学法学部へ入学する。1935年(昭和10年)3月に東大法学部政治学科を卒業し、三井生命保険へ就職する。
岩崎 一太(いわさき かずた、1910年6月16日 - 19… 岩崎 一太(いわさき かずた、1910年6月16日 - 1980年3月5日)は、日本の経営者。中国放送社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1940年に広島県瀬戸内高等学校を卒業。中国新聞社での勤務を経て、1952年5月に中国放送に転じ、1958年1月に理事に就任し、同年2月に常勤監査役、1969年5月に常務、1972年5月に専務を経て、1973年5月には社長に就任。 1980年3月5日、閉塞性黄疸のために在任中に死去。。69歳没。
秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24… 秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24日 - 1996年〈平成8年〉9月10日)は、日本の出版実業家。秋田書店の創立者。岡山県出身。 岡山県出身。旧制岡山第二中学(現:岡山県立岡山操山高等学校)を経て、日本大学専門部卒業後、1930年に小学館に入社。 入社してまもなく学年誌『小学五年生』編集部主任に配属、挿絵作家の福島鉄次を担当する。その後、上層部との軋轢が生じ、1940年11月に小学館を退社する。翌年1941年、秋田は朝日新聞社に入社、『アサヒグラフ』を担当した後、『週刊少国民』の担当となった。『週刊少国民』では再び福島鉄次を起用しており、二人はお互い仲が良かったことがうかがえる。
武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月2… 武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月29日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、実業家である。元栗本鐵工所専務取締役・顧問を務める。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)岡山県に出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進学する。1927年(昭和2年)に同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。その後、1930年(昭和5年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1933年(昭和8年)3月、工学部採鉱冶金学科を卒業する。 京大卒業後、栗本鐵工所へ就職する。入社後、臨時建設部次長を経て、1954年(昭和29年)に材料研究部次長、1957年(昭和32年)研究所長・技術部長となり。
鳴坂 健二(なるさか けんじ、1907年7月30日 - 19… 鳴坂 健二(なるさか けんじ、1907年7月30日 - 1993年6月13日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 岡山県出身。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1933年に同志社大学法学部を卒業し、同年に神明自動車に入社。1943年に山陽電気鉄道に転じ、1957年11月に取締役に就任し、1959年9月に常務、1966年6月に専務、1969年11月に副社長を経て、1973年5月に社長に就任。1977年6月に取締役相談役を経て、1981年6月に相談役に就任。 1970年11月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年6月13日、心不全のために死去。
守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 199… 守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 1990年7月24日)は、日本の経営者。三菱重工業社長、会長を務めた。岡山県出身。 岡山第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、同年に三菱航空機に入社した。1962年に三菱重工業取締役に就任し、常務、副社長を経て、1973年5月から1977年6月までに社長を務めた。 1976年から1984年までに日本産業機械工業会会長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1977年にイランからホマヨウン第3級勲章と日本政府から勲一等瑞宝章を受章した。 1990年7月24日呼吸不全のために死去。83歳没。
岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は… 岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は、日本のヤクザ、実業家。暴力団・三代目山口組舎弟。三友企業 社長。神戸生コン運輸社長。全国港湾荷役振興協会理事兼神戸副支部長。岡山県倉敷市出身。 明治39年(1906年)12月、 岡山県倉敷市で生まれた。岡精義は、幼少の頃から叔母の元で育った。 岡精義は、旧制中学校を卒業した。 大正12年(1923年)、神戸市へ移住し、港湾荷役の沖仲仕として働き始めた。 昭和5年(1930年)、神戸の賭場で、田岡一雄(後の三代目山口組組長)と知り合った。その後、金銭的に苦しかったこともあり、田岡一雄の借り上げた部屋に、度々滞在し寝食を共にするようになった。
小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25… 小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月23日)は、日本の実業家である。京都府警を経て、京都市観光局長を務めた後、京都社寺信用組合(現・京都信用金庫)理事長となる。岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1906年(明治39年)岡山県上道郡西大寺町(現:岡山市東区)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、ロサンゼルス高野山別院第4代主監を務める高橋成通がいた。1925年(大正14年)に同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。1928年(昭和3年)同校を卒業し、東京帝国大学法学部に進学する。1931年(昭和6年)3月、東大法学部法律学科を卒業する。
浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975… 浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975年2月9日 )は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。 岡山県総社市出身。1928年に東京高等工業学校工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。1965年5月に三菱重工業取締役に就任し、1966年11月に三菱自動車販売取締役を経て、1968年11月に社長に就任し、1970年1月にキャタピラー三菱社長に就任。 1975年2月9日、激症肝炎のために死去。68歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
日野西 義輝(ひのにし よしてる、1906年(明治39年)3… 日野西 義輝(ひのにし よしてる、1906年(明治39年)3月16日 - 1983年(昭和58年)6月15日)は、日本の蛍光体研究者・実業家であり、日本電気化学代表取締役の後、日立ランプ取締役。北海道出身。 北海道茅部郡石倉村(現・森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善の三男)の長男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族である。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため、小学校6年より叔母の家があった岡山県成羽町(現・高梁市)で暮らす。その後、1919年(大正8年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学し同期に石川達三、金澤覚太郎、翁孝文(クラボウ常務)がいた。
青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年>… 青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年> 2月27日 - 1991年 <平成3年> 7月13日)は日本の鉄道技術者、実業家。京阪電気鉄道社長、京福電気鉄道会長などを務めた。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。旧制岡山中学校(在学中に第一岡山中学校に改称、現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1928年(昭和3年)に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。当初、指導教官から日本電力への就職を紹介されたが、その年度の新卒採用がなかったため、代わりに紹介された京阪電気鉄道に入社した。当時京阪電気鉄道は、新京阪鉄道(現:阪急京都本線)の建設、名古屋急行電鉄の設立準備などをおこなっていた時期であったため、前例のない50余名もの大学・専門学校生を採用しており、のちに阪急電鉄社長を務めた森薫も同窓・同期で新京阪に入社している。
山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月… 山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月26日 - 1988年(昭和63年)2月24日)は日本の実業家、ジャーナリスト。毎日新聞社社長を務めた。岡山県岡山市出身。 竹槍事件では整理部副部長。新名丈夫の記事に「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と見出しをつける。処分こそされなかったが、軍部の反発を招いたとして丸坊主になった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905… 瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905年(明治38年)2月15日 - 1975年(昭和50年) )は日本の実業家である。日産化学総務部長を経て日本証券代行(現:三井住友信託銀行)取締役。岡山県井原市出身。 1905年(明治38年)岡山県後月郡県主村(現:井原市)の渡辺家に生れる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に芥川賞作家の石川達三、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)編成局次長になる金澤覚太郎、日本電気化学社長になる日野西義輝、倉敷紡績取締役になる翁孝文がいた。1924年(大正13年)卒業後、早稲田大学高等予科(商科)を経て、1926年(大正15年)早稲田大学商学部へ入学した。
梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004… 梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004年4月8日)は、日本の経営者。毎日新聞社社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1929年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。1954年1月に取締役に就任し、1958年7月に常務、1961年1月に専務を経て、1968年1月に社長に就任。1972年1月から1977年12月までに最高顧問を務めた。 1974年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2004年4月8日に脳梗塞のために死去。99歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月1… 山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月18日 - 1983年(昭和58年)10月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県吉備郡総社町(現総社市)で、米穀問屋・山崎重の長男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1931年(昭和6年)慶應義塾大学政治学科を卒業した。名古屋市において製陶会社で勤務したり木材関係貿易に従事した。1944年(昭和19年)に帰郷し会社経営を行う。 1948年(昭和23年)初の公選制による岡山県教育委員に選出され、1949年(昭和24年)副委員長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で岡山県第2区から出馬して初当選。
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月… 森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日 - 1978年(昭和53年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 岡山県和気郡日生村(日生町を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた。
板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月2… 板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月21日 - 1969年(昭和44年)3月28日 )は、日本の実業家。関西配電取締役を経て関西電力常務取締役となり、オーム社理事も務めた。大阪陶業(現:日本ネットワークサポート)代表取締役・会長。岡山県総社市出身。 1902年(明治35年)岡山県吉備郡秦村(現:総社市秦)の板野柳一の長男として出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、京城帝国大学教授となる森谷克己がいた。1921年(大正10年)同校を卒業し、第六高等学校文科乙類へ進学する。森谷と同じクラスであった。1924年(大正13年)同校を卒業し、森谷は東大法学部へ、板野は京都帝国大学法学部へそれぞれ進学した。
藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10… 藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、実業家である。日本油脂常務取締役の後、ニッサン洗剤工業社長。岡山県高梁市出身。 1902年(明治35年)岡山県上房郡津川村(現:高梁市)に生れる。その後、1922年(大正11年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、翌年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1926年(大正15年)同校を卒業し、東京帝国大学工学部へ進学する。その後、1929年(昭和4年)3月、同大学応用化学科を卒業する。 大学卒業後、帝国火薬工業へ就職し、入社後、愛知県知多郡武豊町にある豊武工場に配属されラッカーの研究及び製造に従事する。
吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月… 吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月7日 - 1976年 <昭和51年> 3月1日)は、日本の経営者。電源開発総裁を務めた。位階は正四位。 岡山県倉敷市出身。倉敷天城中学、第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。富士紡績、富士電力の勤務を経て、1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年に取締役に就任し、1953年9月に常務、1961年6月に副社長を経て、1964年8月から1966年8月までに電源開発総裁を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。1976年3月1日、死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月2… 前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。菊水旅館代表取締役。米子市議会議員。米子市観光協会会長。皆生温泉旅館組合組合長。 岡山県真庭郡(現・真庭市)出身。尋常小学校、高等小学校を卒業する。1918年(大正7年)、鳥取県米子市にて諸業に従事する。1937年(昭和12年)、菊水旅館を設立する。1949年(昭和24年)、有限に改組する。 米子市観光協会会長、皆生温泉旅館組合組合長、鳥取県観光連盟副会長、鳥取県旅館組合連合会副理事長、鳥取県中小企業団体中央会理事、鳥取県中小企業振興対策審議会委員、鳥取県労務対策協議会理事、米子労働基準協会理事・協会会長などをつとめる。
浅沼 隆男(あさぬま たかお、1901年8月28日 - 19… 浅沼 隆男(あさぬま たかお、1901年8月28日 - 1992年2月14日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。岡山県出身。 旧制岡山一中(現:岡山県立岡山朝日高校)を経て、1924年に神戸高等商業学校経済学部(現:神戸大学)を卒業。明治製菓での勤務を経て、1964年11月に明治乳業副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格。1972年5月から相談役を務めた。 1992年2月14日老衰のために死去。90歳没。
森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11… 森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11日 - 1992年(平成4年)8月3日)は、日本の放送人、実業家である。朝日新聞社に勤めたのち、東京放送テレビ(通称:TBSテレビ)常務取締役や子会社のラジオ東京サービス社長を務める。中央放送広告社長も務めた。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「森沢」とも表記される。 1901年(明治34年)岡山県上房郡豊野村(現:高梁市)の父・森澤清六と母・ひさの七男として出生する(出生地は東京、誕生後すぐに地元へ帰省)。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1920年(大正9年)に旧制第六高等学校文科甲類へ進学する。 その後、1922年(大正12年)3月、同校を卒業し、京都帝国大学法学部へ進学する。
赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉… 赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉7月9日 - 1962年〈昭和37年〉10月24日)は、岡山県岡山市出身の実業家。元赤沢農機具製作所代表取締役社長。元岡山県観光連盟会長。 1901年(明治34年)7月、岡山市に生まれる。関西中学(現・関西高校)へ進学するも中退する。 大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営する。1943年(昭和18年)、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として治見工具製作所を設立する。1945年、設備を統合し、赤沢農機具製作所として発足し、社長を務めた。 その後、昭和倉庫、岡山糧肥、日本興油工業、岡山会館、光南台観光開発、岡山空港ビル社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮と呼ばれた。
早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月… 早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月28日 - 1966年(昭和41年)2月4日)は、日本の実業家。産業経済新聞社長で旭屋書店の創業者。産経学園理事長。 岡山県津山市の出身。津山中学から早稲田大学に進学するも中退。職を転々とした後、1924年(大正13年)に前田久吉の経営する南大阪新聞社に入社する。前田が『南大阪新聞』・『日本工業新聞』を根城に事業を拡張すると早嶋もそれらの事業に関与し、戦時中の新聞統制に伴う合併を経て、2紙は『大阪新聞』と『産業経済新聞』となるが、早嶋は大阪新聞では専務、産業経済新聞では社長にまで登り詰める。 戦後の1947年(昭和22年)、早嶋は公職追放に伴い大阪新聞・産業経済新聞の役職を退くが、前年に大阪市北区で創業していた雑貨・化粧品販売店「旭屋商店」を書籍専業の「旭屋書店」とし、書店経営に専念する。
中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1… 中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1968年10月27日)は、日本の実業家・教育者。太平住宅株式会社創業社長で、太平音響株式会社(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)ほか10数社の「太平グループ」代表として知られる。岡山県岡山市出身。 1900年(明治33年)12月5日、岡山県吉備郡庭瀬町(現:岡山市)に生まれる。 1921年(大正10年)、大阪の関西大学専門部商科に入学、1924年(大正13年)、同校を卒業する。卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となり、夜間の商業練習学校の教諭に転じた。 1930年(昭和5年)、神戸市に関西電話建物を創業、日本電話建物(後の日本電建、現・大東建設)と改称、1933年(昭和8年)、同社を東京に進出させた。
梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2… 梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2006年8月30日)は、岡山県岡山市生まれの実業家。岡山木村屋創業者、岡山商工会議所最高顧問。梶谷博則は息子。 その他、岡山県経営者協会会長(1960年~1968年、1981年~1988年)。岡山商工会議所会頭(1960年~1968年)。さらに、岡山県商工会議所連合会会長、岡山県観光連盟会長、日本赤十字社岡山県副支部長などを歴任。 木村屋総本店からの暖簾分けの際に、「一生、パン以外の事業はしない」と当時の会長に約束して、自身が死ぬまで約束を守り通した。 福祉に関心があり、社会福祉法人旭川荘の理事を40年務めた。また、1990年に1億円を投じて梶谷福祉基金を設立している。
久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月… 久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1981年〈昭和56年〉9月4日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選秋田県知事。岡山県岡山市出身。 岡山県吉備郡大井村(現:岡山市)出身。久安平治郎の二男として生まれる。その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方警視として島根県警察部・神奈川県警察部・長崎県警察部・兵庫県警察部各勤務、警視庁警視として総監官房・特別高等部各勤務、宮城県書記官・学務部長、栃木県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、宮城県内政部長などを歴任。
内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1… 内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1983年1月28日)は、日本の実業家。キヤノン社長を務めた。 岡山県倉敷市出身。1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に山一證券に入社。 1933年に吉田五郎とともに精器光学研究所を設立し、1936年にハンザキヤノンの発売を開始した。1954年には社長に就任した。 1983年1月28日、肺水腫のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月1… 浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月16日 - 詳細不明)は、日本の土木技師であり、実業家である。大阪市技師となり土木局長となった後、大阪地下街社長となる。土木学会名誉会員。岡山県岡山市出身。 1899年(明治32年)岡山県御津郡一宮村(現:岡山市)に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1918年(大正7年)に旧制第六高等学校医科(3部)へ進学する。その後、1922年(大正11年)3月同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1925年(大正14年)3月、工学部土木工学科を卒業する。 京大を卒業後、すぐに大阪市役所に入り、土木技師として働く。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)計画部長となり、翌年、土木部長となる。
戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日… 戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日 - 不明)は日本の実業家である。戸田工業の創業者であり、元社長である。岡山県井原市出身。 1899年(明治32年)岡山県後月郡西江原村(現:井原市)の戸田生一の四男として出生。1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)17歳で同校を卒業。戸田接三の死去により、中備機業合資会社を引き継ぐ。同年、東洋除虫材を設立した。 東洋除虫材はその後、蚊取り線香の製造を始め、1920年(大正9年)に西江原にあった工場は、営業所とあわせて広島県安佐郡横川町(現:広島市西区)へ移転した。1926年(大正15年)広島県安佐郡深川にあった弁柄製造工場を買収し、1933年(昭和7年)に広島市横川町に弁柄の製造販売を事業目的とする戸田工業株式会社を資本金50万円で設立。
藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15… 藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の実業家。日本電力を経て富山軽銀社長となる。その後、自身の会社が武蔵野化学研究所へ買収され同社の取締役となり、協和発酵(現:協和キリン)の設立時従業員となり、後に同社の専務取締役となった。岡山県矢掛町出身。 1898年(明治31年)岡山県小田郡小田村(現:矢掛町)の河上寅三郎の次男として生れる。幼くして、岡山県上房郡川面村の藤井浅之助の養子となる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1916年(大正5年)同校を卒業し、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。 1919年(大正8年)六校を卒業し、九州帝国大学工学部へ進学する。
中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)… 中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)1月30日 - 没年不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹。岡山県倉敷市出身。 1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年(大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車・日野自動車・DMG森精機)へ就職する。 入社後、中原は東京大森工場へ配属される。
横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月… 横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月1日 - 1969年〈昭和44年〉11月11日)は、日本の経営者。群馬銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岡山県岡山市出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日本銀行での勤務を経て、1944年11月に群馬大同銀行に転じ、1948年から1968年まで頭取を務めた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1969年11月11日心臓麻痺のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4… 岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日 - 1989年(平成元年)9月22日)は、日本の実業家。 1972年岡山県賀陽町(現・吉備中央町)名誉町民。1978年、勲一等瑞宝章受章。1985年、岡山県総社市名誉市民。1985年、岡山県名誉県民。1987年、中国洛陽市名誉市民。 岡山県賀陽郡大和村(上房郡賀陽町を経て現・加賀郡吉備中央町)に、農業・岡崎鶴太郎の長男として生まれる。 尋常小学校1年の頃に自宅が全焼し、吉備郡総社町(現・総社市)に移り住む。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1916年第一高等学校に入学する。一高時代はボート部で活動し、また中国人留学生たちとの交流を深める。
広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月… 広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月8日 - 没年不詳 )は、日本の陸上競技選手であり、実業家でもある。元日本陸連理事も務めた。広兼が中心となり、現在まで続く早慶対抗陸上競技会を企画した人物としても知られる。岡山県川上郡吹屋町出身。 1897年(明治30年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の素封家である広兼玉太郎の次男として出生する。生家は広兼邸として知られ、江戸後期に弁柄で大富豪となった家系として知られる。映画『八つ墓村』のロケ地としても有名である。 その後、1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、この頃には、既に周囲と比べて足が速く、陸上競技で有名となっていた。
土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15… 土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1988年〈昭和63年〉8月4日)は、昭和時代の日本のエンジニア、実業家。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民、岡山市名誉市民。 石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝社長・会長を歴任、日本経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として「土光臨調」と称されている第二次臨時行政調査会でも辣腕を振るった。他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継いだ。また、質素な暮らしぶりで「メザシの土光さん」としても親しまれた。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。
福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8… 福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8月10日 - 1991年(平成3年)2月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、全日本空輸副社長。位階は正四位。 農業・福本万右衛門の二男として岡山県上房郡川面村(現:高梁市)で生まれる。高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校を経て、1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1922年5月、司法官試補となり横浜地方裁判所に配属され、さらに東京地方裁判所で勤務する。 1923年11月、帝都復興院属に転じ、以後、神奈川県橘樹郡長、同県社会課・社会教育課・工場課・水産課・庶務課の各課長を経験し、福井県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、内務省社会局軍事扶助課長、厚生省書記官、内務省土木局道路課長、同警保局図書課長、情報局第四部長などを歴任した。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)… 渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)10月20日 - 1997年(平成9年)12月4日)は日本の実業家。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。三菱地所の社長や会長を22年間務め、三菱地所中興の祖と呼ばれた。 岡山県矢掛町出身。1918年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。 1937年三菱地所に転籍し、経理部長、取締役、常任監査役等を経て、1952年から1969年まで社長、1969年から1974年まで会長、1974年から1988年まで取締役相談役、1988年から1997年まで相談役を務めた。会長退任後も、中興の祖として実質的な人事権を握っていたとされる。
岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955… 岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955年9月2日)は、日本の実業家。学生時代よりテニス選手として活躍し、デビスカップやオリンピックに日本代表として出場した。 岡山県赤磐郡瀬戸町大字瀬戸(現在の岡山市東区)生まれ。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。学生時代からテニス選手として活躍した。 1917年(大正6年)、東京高等商業学校を卒業し、三井物産に入社した。 1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加。 1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。
留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 19… 留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 1981年5月3日)は、日本の内務官僚、実業家。官選秋田県知事、警視総監、北海道庁長官。 岡山県高梁市出身。社会事業家・牧師、留岡幸助の三男として生まれる。早稲田中学、第二高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、兵庫県属となり内務部地方課に配属。以後、兵庫県加東郡長、石川県理事官兼警察部工場課長、同県視学官、京都府内務部庶務課長、栃木県書記官・学務部長、香川県書記官・警察部長、千葉県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁部長・総務部長などを歴任。
槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日… 槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の実業家。青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長とロンドン支局長を歴任した。財閥解体前の三菱最後の社長であり、再編後の最初の社長となった高垣勝次郎のライバルであった。岡山県新見市出身。 岡山県哲多郡神代村(現:新見市)出身。小作農槙原柳太郎の二男として生まれる。14歳で親戚を頼って上京し下働きなどをしていたが、岩崎弥太郎設立の本郷竜岡町(現・文京区湯島4丁目)の学寮「雛鳳館」の寮生に選ばれたことにより金銭的苦労がなくなり、東京高等商業学校在学中は学業とともにテニスに熱中した。