松井 えり菜(まつい えりな、1984年1月8日 - )は日… 松井 えり菜(まつい えりな、1984年1月8日 - )は日本の画家、現代美術家。大きなサイズで描かれる個性的な自画像や、ウーパールーパーをモチーフとした作品で知られる。平成24年度文化庁新進芸術家海外留学制度研修員。 岡山県出身。2004年に自画像『えびちり大好き』でGEISAI#6の金賞を受賞。同作品はカルティエ現代美術館のコレクションとして収蔵される。多摩美術大学油絵科卒業の後、東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻を修了。現在はスペインのジョアン・ミロ美術館での個展をはじめとして海外での展示も多く、またNTTドコモやモレスキン主催の展覧会に参加するなど活動の幅は広い。
市川 美加(いちかわ みか、1965年8月30日 - )は、… 市川 美加(いちかわ みか、1965年8月30日 - )は、日本の画家。フランスのサロン・ドートンヌ展では2017年から2025年まで、9年連続で入選をしている。夫は岡山県の実業家である市川周治。 倉敷市児島生まれ。夫である市川周治が創業した不動産会社である株式会社ウェーブハウスの業務全般に関わっていたが、建築関連業務において必要な建物完成予想図(パース)制作のために絵を独学で学んだことをきっかけに、絵画制作をはじめる。なお、作品制作は、株式会社ウェーブハウスの空きスペースを利用したアトリエで行っている。 フランスのサロン・ドートンヌ展では2017年は抽象画部門、2018年は造形部門、2019年は環境アート部門と連続入選をしており、2020年は環境アート部門、シンギュラー・アート部門、絵画部門、造形部門の4部門に同時入選を果たした。
石井 博康(いしい ひろやす、1952年(昭和27年)- )… 石井 博康(いしい ひろやす、1952年(昭和27年)- )は、日本の画家であり、教育者でもある。東北芸術工科大学教授を務めた後、同大学副学長となる。東北芸術工科大学名誉教授。岡山県高梁市出身。 1952年(昭和27年)岡山県高梁市に出生。地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し美術部に所属する。1970年(昭和45年)に卒業し、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻へ進学する。その後、同大学卒業を経て、東京芸術大学大学院学美術研究科油画専攻に進学し、1977年(昭和52年)同大学院を卒業する。 卒業後、油絵画家となった石井は、1979年(昭和54年)に東京のギャルリー・ヴィヴァン(現在は神奈川県へ移転)で初めての個展を開く。
植月英俊(うえつきひでとし、1950年1月18日 - 201… 植月英俊(うえつきひでとし、1950年1月18日 - 2016年7月3日)は、日本の画家である。岡山県勝央町(旧植月村)出身。2016年に胆管癌で亡くなる。 父親は、広島県御調町出身。父とは離婚により幼児期に生別。 母親は、岡山県勝田郡勝央町出身。母とは中学時代に死別。 大学進学まで親族(植月家)の援助のもとで暮らす。 若くにして両親を失ったことが自身の芸術に大きく影響している。 高校時代から美術に興味を抱き、大学時代はシュールレアリズムに大きく影響を受ける。その後、写実主義・シュールレアリズム的表現・細密模写等にも多く影響を受けることとなる。 教員としての仕事に従事しながらも、画家として数々の展覧会を開く。
貝原 浩(かいはら ひろし、1947年11月24日 - 20… 貝原 浩(かいはら ひろし、1947年11月24日 - 2005年6月30日)は、日本の画家。岡山県倉敷市浜ノ茶屋出身。[要出典] この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
南 一平(みなみ いっぺい、本名:荒木紀章、1947年-)は… 南 一平(みなみ いっぺい、本名:荒木紀章、1947年-)は、日本の漫画家、風景画家。日本漫画家協会会員。 金光学園高等学校を卒業後、専門学校東京デザイナー学院へ進学。東京デザイナー学院在学中に月刊漫画ガロで漫画家としてデビューし同誌新人賞を受賞する。以後、週刊少年ジャンプ、月刊少年ジャンプ、漫画ゴラクで連載を持つ。 1975年、『熱球の果てに…』で手塚賞佳作を受賞。 1980年代中頃、故郷の笠岡市にUターンし、知人に勧められ風景画を描くようになる。 1999年から2004年にかけて中国新聞井笠おかやま版で連載「みちくさ紀行」シリーズで挿絵を担当した。 岡山県川上町、岡山県新庄村、京都府八幡市などの地域プランナーの他、おかやま山陽高等学校、総合学園ヒューマンアカデミー広島校にて講師を務めている。
木口 敬三(きぐち けいぞう、1941年10月6日-)は、日… 木口 敬三(きぐち けいぞう、1941年10月6日-)は、日本の画家、美術講師。 岡山県倉敷市において、銅版画を中心に制作活動を行うとともに、美術系大学受験を主目的とした画塾「木口美術研究所」で講師活動を行っている。演出家・劇作家の危口統之の父。 岡山県倉敷市出身。岡山県立倉敷青陵高等学校を経て、1966年武蔵野美術大学洋画科主席卒業。フランス政府私費留学試験合格後、1968年から1972年にかけて2度のフランス・ヨーロッパ留学を行う。その後倉敷市に戻り、1970年代前半ごろより地域の専門学校や高校などで美術指導を開始。1984年に画塾「木口美術研究所」を設立。以後銅版画を中心とした作品制作ならびに、美術系大学受験を志す高校生の指導を中心に、地域の芸術・文化活動に尽力している。
佐藤 勝彦(さとう かつひこ、1940年3月7日 - 201… 佐藤 勝彦(さとう かつひこ、1940年3月7日 - 2017年3月13日)は、日本の画家・書家・陶芸家。 旧関東州大連生まれ。奈良県在住していた。 画壇に属さない画家として、独特の仏教観に根ざした豪放な書画を描き続けている。富士山と仏像を好むほか、朱色を多用し紙に余白を残さない点が特徴。作品を手がけるだけでなく、陶磁器や骨董品の蒐集家としても知られている。 7歳で生家の岡山県賀陽町(現・吉備中央町)に引き揚げたのち岡山県立高梁高等学校を経て、1958年、鳥取大学学芸学部入学。1960年、重度の結核で入院するが快癒。以来プラス思考に転じる。 1963年、帝塚山学園小学部で教師となるも、1968年、中川一政の作品展に影響を受け創作活動を開始。
高塚 省吾(たかつか せいご、1930年7月26日 - 20… 高塚 省吾(たかつか せいご、1930年7月26日 - 2007年5月28日)は、日本の洋画家。美人画・裸婦で絶大な人気を誇った。 岡山市出身、東京芸術大学で梅原龍三郎、林武、硲伊之助に師事、1953年卒業。同年、恩師で日本美術会の委員長を務めた硲伊之助の影響から、第7回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出品。以後、第11回まで出品。新東宝撮影所美術課に勤務のかたわら「8人の会」を結成、個展を開くなどしたが作品に恵まれず、1955年には谷桃子バレエ団の美術担当となり台本も書く。1956年NHK広報室嘱託となり、1968年まで勤める。1957年より小津安二郎監督映画のタイトルを担当するなど多方面に活躍。
瀬本 容子(せもと ようこ、1930年(昭和5年) - )は… 瀬本 容子(せもと ようこ、1930年(昭和5年) - )は、日本の画家及び、芸術家。岡山県倉敷市生まれ。 中世からルネッサンスにかけての古典技法で、板やガラス、羊皮紙にテンペラ画を描く 。ラピスラズリやローズマダー、イカの墨等を原料として絵の具に使用し、額も制作している。銀座を中心に各地で個展を開催しており、主に幻想的な女性や子供、果実や風景等、多くの作品を制作する。 1930年、岡山県浅口郡玉島町に、五人兄弟の長女として生まれる。父親は証券業を営んでいた。 東京都にある自由学園女子部に入学し、学生時代には倉敷市にある大原美術館で白樺派の武者小路実篤や志賀直哉、梅原龍三郎、安井曾太郎の座談会やラザール・レビィのピアノ演奏に触れ、芸術を身近に感じることで画家になることを決意する。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。
石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2… 石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2001年3月27日)は、日本の画家。 1915年11月20日、宮崎県で9人兄弟の5男として生まれる。父親が国鉄に勤務していたことから各地を転々としていた。幼少の頃からカリエスを患うなど病弱で、満足に学校に通うことがままならず、1937年に岡山二中を中退。その後、小林喜一郎の画塾「赤坂洋画研究所」に通い、絵の勉強を始めた。 小林指導の下、画力をつけていくが、二科展では一度も入選する事無く同塾に通っていた中田政夫の勧めで春陽会に出品、1941年に入選を果たす。その後は春陽会への作品出品を続け、1965年には同会の審査員として声がかかるようになった。
青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - … 青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - 1979年11月10日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市出身。 1915年、岡山県岡山市の農家に産まれる。幼少より絵を描くのを趣味としていた。第二岡山中学校に進学したが、絵に熱中しすぎた為、落第寸前となり私立の関西中学へ転校している。在学中は市内の絵画コンクールなどで常に入賞するなど、画家としての片鱗を覗かせていた。卒業後は画家を目指して上京し、川端画学校、本郷洋画研究所で学んだが、学費を支払う事が出来なくなり岡山県へ戻る。岡山では小林喜一郎主催の赤坂洋画研究所へ通った。同期生に中田政夫がおり、研究所では中田が塾頭、青地が青年隊長として研究所を盛り上げていた。
河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年… 河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年8月2日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。 1915年、倉敷市土手町(現倉敷美観地区)の砂糖卸商に産まれる。小学校時代より竹久夢二に憧れ、金光中学校へ進んだ後から絵筆を握るようになった。卒業後は上京して川端画学校、太平洋美術学校にて修業。池袋モンパルナスに住み、三橋健や渡辺一郎と交流を持った。倉敷に戻ってからは「倉敷素描絵画研究所」を開き、後続の育成にあたる。 晩年は坂田一男と親交を深めており、河原のアトリエ「皮腹堂」は坂田が命名したものである。命名の礼にと河原は知人が狩りで仕留めた狸を写生し、「タヌキ親父の坂田にタヌキ鍋を馳走しよう」と写生した絵『屍狸鶏観図』を贈ったという。
徳永 春穂(とくなが しゅんすい、1914年 - 2005年… 徳永 春穂(とくなが しゅんすい、1914年 - 2005年)は岡山県を代表する日本画家である。得意は人物画であり、師匠は美人画で有名な伊東深水である。 また、岡山県和気郡和気町に本社を置く、生産数日本一を誇るこいのぼりメーカー徳永こいのぼりの創業者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋… 片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋画家、二紀会同人、サロン・ド・パリ委員、日本美術家連盟会員。 1913年岡山県真庭郡中和村(現:真庭市)で片岡家の7人兄弟の末っ子として生まれる。幼少より県の絵画展などで特賞を取るなどし、将来、画家を目指そうと幼心に決意。 姫路師範学校(現:神戸大学)で教師の資格を得、教鞭をとる一方で、二紀会の田村孝之介に師事する。抽象画に新たな表現法を見出し、神戸二紀会の有望若手画家として活躍。毎年東京で個展を開催し高い評価を得る。 その後、イタリア・ローマ美術院館長の招聘により渡欧、ほどなくパリに下宿しモンパルナスのアカデミー・グランショミエールに学び、西洋絵画の本場で学ぶうちに後期印象派、とり分けアンリ・マティスに惹かれ、色彩豊かな画風を確立していった。
三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30… 三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。「民俗行事」をテーマにした作品が多い。 医者であった父・三橋玉見は詩歌や書画、陶芸をたしなむ文化人で、大原孫三郎に招かれる形で倉敷市に診療所を開業した。健はその次男として1912年に岡山県倉敷市新川町に生まれる。父親の影響もあり、幼い頃から画家を志した健は東京美術学校へ進学した。藤島武二に師事し、在学中に発表した作品『錨づくり』などで独立美術協会展にて入選をしている。 1939年、福沢一郎、小牧源太郎、寺田政明らを中心としたシュルレアリスムを志向するグループが新たに美術文化協会を旗揚げし、健も同協会のメンバーとして参加したが、父の病没に伴い帰省を余儀なくされ、翌年2月、第一回公募展の直前に脱会した。
直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2… 直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は、日本の画家、禅僧、俳人。 岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。 52歳の時、「自然の実相が禅」との柴山全慶老師(当時)の言葉に触れ、禅に傾倒。以来、老師の提唱は欠かさず聞いた。また当時の村瀬玄妙黄檗宗元管長とも幼馴染みで、臨済宗黄檗宗の僧籍をもつ。
岡本 唐貴(おかもと とうき、1903年12月3日 - 19… 岡本 唐貴(おかもと とうき、1903年12月3日 - 1986年3月28日)は、プロレタリア画家、洋画家。本名・岡本登喜男。 生涯芸術活動に身を染め、ダダイスム、シュルレアリスムなどの影響を受けた絵画、写生画を数多く残す。 長男は漫画家の白土三平(本名・岡本登)、長女は絵本作家の岡本颯子。
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月… 池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。 岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。 1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。
小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961… 小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961年)は、日本の洋画家。岡山県倉敷市出身。酒仙と呼ばれるほどの酒好きとして知られ、岡山県内の飲み屋において喜一郎が飲み中に描いた色紙が飾られている店も少なくない。 1895年、倉敷市の酒屋・久平の息子として、久平ら両親が高知県滞在中に生まれる。幼い頃より画家を目指し沙美高等小学校卒業後、東京の美術大学へ行く金を貯める為、1916年に上京。巣鴨の郵便局で配達員として働く傍ら、絵の勉強に勤しんだ。当時この界隈は「池袋モンパルナス」の名の通り画家の卵がたむろしていた場所で、中でも喜一郎は三岸好太郎と交流を深めており、一緒に住んでいたこともある。
中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24… 中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24日 - 1978年(昭和53年)5月19日)は、岡山県出身の日本の洋画家。 1893年(明治26年)8月24日、第8代岡山市長中山寛の四男として岡山県岡山市に生まれる。 1900年(明治33年)4月、岡山師範学校附属小学校入学。在学中、中堀愛作に啓発されて水彩画を描くようになる。 1900年(明治33年)、附属小学校を卒業し岡山県立津山中学校(旧制中学校)に進学。同級生に金田廉、矢野峰人、片岡鉄兵が居た。中学在学中に水彩画から油絵に移行。 1907年(明治40年)、奈良県で開かれた大下藤次郎の水彩画夏期講習会に最年少参加者として参加。翌1908年(明治41年)にも鎌倉で開かれた大下藤次郎水彩画夏期講習会へ参加している。
武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1… 武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1972年8月9日)は、日本の都市計画家、土木工学者。専門は都市計画学。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。本邦の都市計画学の草分けとして知られる。実業家武居綾蔵の養子で、妻妙子は湯川秀樹の次姉。 岡山県津高郡一宮村(現・岡山市北区)に生まれる(旧姓小野)。旧制岡山県立岡山中学校、第六高等学校を経て1917年京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大阪市役所に入り市区改正部などで技師として奉職。次いで内務省技師、国の都市計画の実務に従事する。この間米国ハーバード大学、英国リヴァプール大学に留学、都市計画学を学ぶ。1922年京都帝国大学工学部が日本最初の都市計画の講座(土木工学第六講座)を開設。
国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2… 国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2日 - 昭和11年(1936年)8月3日)は、日本画家。 1893年、「北国府屋」の多三郎・千与の長男として岡山県総社南本町で生まれた。本名は宗一。 絵を描くのが好きだった宗一は、申義小学校(現、総社小学校)を卒業後、服部村深町(現、総社市深町)の中島雲哉の許へ入門し、南画の画法を学んだ。25歳の時に雲哉のすすめにより名古屋に出て矢吹璋雲の弟子となり、璋泉と号して8年にわたって修業する。 大正3年(1914年)に帰郷して、天童と号し画業に励んだ。大正6年(1917年)正恵と結婚、やがて清山と改号した。 大正末年頃、清山は松尾華作翁と語らい、近郷の同好者数十名を集めて「杉風社」を結成し、近くの宝満寺を借りて作画の指導にあたった。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11… 小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。 当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。
国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 195… 国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 1953年5月14日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市中出石町(現・岡山市北区出石町一丁目)出身。 20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。
犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3… 犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3月15日 - 1954年(昭和29年))は、明治末期から昭和初期にかけてアメリカ合衆国で活動した日系人画家である。岡山県に生まれ、14歳の時に移民としてハワイに渡り、17歳でアメリカ本土へ移った後に、ジョン・ヴァンダーポールらに師事してシカゴ美術館附属美術大学を卒業し、画家としての制作活動を開始した。1926年(昭和元年)にはナショナル・アカデミー・オブ・デザインに自画像『制作中』を出品し、アイザーク・N.メイナード肖像画賞を受賞している。息子のアール・グデナウもまた犬飼の名を嗣ぎ、キョウヘイ・イヌカイ(英語版)という名義で画家として活動を行った。
小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月1… 小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月18日 - 1975年(昭和50年)10月6日)は、日本出身のアメリカ合衆国の画家、版画家。アメリカの大自然を日本画の技法で描き、新しい美の世界を切り開いた。また、米国で日本人初の野球チームを共同設立した。戦争中、日系人収容所のトパーズ戦争移住センターに収容されたことでも知られる。 岡山県後月郡井原村(現・井原市)に8人兄弟の末子として生まれる。本名、佐藤蔵六。5歳で仙台に住む洋画家・美術教師の兄六一(伊達藩家老だった小圃家に婿入りしていた)の養子となる。7歳から日本画を学んだ。14歳のときに東京に出て、「大政奉還図」で有名な邨田丹陵に師事した。
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月1… 竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月16日 - 1934年〈昭和9年〉9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けの一人ともいえる。
吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日… 吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日 - 1953年〈昭和28年〉4月27日)は、日本の洋画家。岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月… 上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月23日 - 大正9年(1920年)7月25日)は、日本の明治から大正にかけて活動した日本画家。同時代の北野恒富や菅楯彦、岡本大更らと共に、近代の大阪を代表する画家の一人である。 岡山県小田郡笠岡村字八軒屋(現在の笠岡市笠岡)に、辻嘉平の次男として生まれる。本名は寿治郎で、鳳山は画号で、画房を鳳鳴画室と称した。父嘉平は、初め刀鍛冶、後に理化学機械製造を仕事としていた。祖父・辻鳳山は円山派の絵師で、小寺清先編『備中名勝考』の挿絵を描いており、鳳山の号もこの祖父に由来していると考えられる。幼少から画家を志し、はじめ大阪出身で円山応立の弟子・木村貫山に学び、ついで西山完瑛・渡辺祥益に師事する。
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)1… 満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)10月11日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の洋画家である。十五老とも称した。 1874年10月11日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進むと松原三五郎に画才を認められた。1891年(明治24年)、ついに中学を3年で退学。
徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)… 徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)は、明治-大正期にかけて活躍した岡山県出身の画家。画号は柳洲(りゅうしゅう)のほか、青々居という別号も使用した。 1871年(明治4年)6月8日、備前国和気郡藤野村(現在の岡山県和気郡和気町)の農家であった徳長吉太郎とむめの次男として生まれる。幼名が武四郎、のちに仁太、仁臣。(遠祖が徳永と称していたため、仁臣は徳長から徳永へ姓を変えた) 岡山市で初めて洋画を見て感激し、洋画家になることを決心する。母校の小学校で助教員をしながら、松原三五郎の天彩学舎に通い洋画の基礎を学んだ後、1889年(明治22年)に18歳で上京し、二代目五姓田芳柳に師事した。
吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶… 吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶応4年2月17日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の洋画家である。岡山県における美術教育に尽力した。 良吉・飛佐の次男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。吉富家は昔「小寺屋」と称し、酒造業や刻み煙草商を営んでいたが、農業にも従事していた。総社市西宮本町の堀和平が神戸に行って外人から油絵の技法を習得して帰り、自宅のアトリエでさかんに製作しているのを見よう見まねで自分も画くようになった。この頃、総社市門田の満谷国四郎は、堀和平と甥・叔父の間柄であったので、しばしば遊びに来て、6歳年上の朝次郎に兄事していた。その後、朝次郎が一時浅尾小学校(現総社市門田)で代用教員を務めた頃、国四郎は彼の教え子であった。
矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ… 矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ暦1852年8月19日) - 昭和2年(1927年)9月21日)は、日本画家・教育者。 1852年、良吉の三男として備中国賀陽郡服部村(現岡山県総社市)金井戸に生まれた。本名は熊治(くまじ)。改号前は雲岳。字は紫竹園である。 矢吹家は屋号を「天満屋」と称し、この地方では家柄が良く名家であったが、故あって長男竹次郎は分家して、明治22年(1889年)8月18日に熊治が家督を相続し、尾張藩士族、西村竹八郎の二女たきを娶った。 若い頃から画を好み、三好雲仙に学び雲岳と号して、同門の中島雲哉らと親しく交わった。 後年、子息と共に愛知県名古屋市に移住。
堀 和平(ほり わへい、1841年2月16日(天保12年1月… 堀 和平(ほり わへい、1841年2月16日(天保12年1月25日) - 1892年(明治25年)5月16日)は、日本の洋画家・実業家である。岡山県洋画界の先駆者である。 氏は堀、名を和平安郷(やすさと)、杏邨(きょうそん)と称した。備中国賀陽郡八田部村(現岡山県総社市総社)西宮本町の豪商堀和助安忠の四男に生まれる。生家は備中国総社宮の神主のほか酒店、質屋、廻船問屋などを営み、屋号を「志保屋」(塩屋)と称し、備中松山藩の御用商人を務めた。二兄、三兄が早世し、長兄堀安道が病弱で学問の道に進んだため家業を継ぐ。1876年(明治9年)に玉島の西山武治や柚木金蔵ら有力者と共同で、浅口郡柏島村(現倉敷市玉島)の海面干潟に灰貝(モ貝)の養殖についての願書を県に提出したり、児島味野の足袋を作る材料でもある備中小倉織を売買するなど、実業家としての片鱗を見せている。