岡崎 洋一郎(おかざき よういちろう、1942年12月16日… 岡崎 洋一郎(おかざき よういちろう、1942年12月16日 - )は、日本の経営者。 広島県広島市出身。1965年に早稲田大学第一理工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱重工業に入社。 1970年に三菱自動車工業に転職し、1999年6月に取締役に就任し、2001年6月に常務を経て、2004年4月に社長に就任した。同年6月に会長に就任し、2005年に辞任。
広島県:262人
岡崎 洋一郎(おかざき よういちろう、1942年12月16日… 岡崎 洋一郎(おかざき よういちろう、1942年12月16日 - )は、日本の経営者。 広島県広島市出身。1965年に早稲田大学第一理工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱重工業に入社。 1970年に三菱自動車工業に転職し、1999年6月に取締役に就任し、2001年6月に常務を経て、2004年4月に社長に就任した。同年6月に会長に就任し、2005年に辞任。
古川 紘一(ふるかわ こういち、1942年9月16日 - )… 古川 紘一(ふるかわ こういち、1942年9月16日 - )は、日本の実業家。森永乳業代表取締役社長や、日本乳業協会会長を務めた。 国鉄の技術者だった古川太郎の長男として、広島県広島市に生まれる。 成蹊中学校・高等学校を経て成蹊大学経済学部を卒業する。 1965年森永乳業入社、1993年業務用食品部部長、1997年取締役に就任、2003年6月より社長。2010年日本乳業協会会長。2012年6月に社長を退任し、相談役となる。 2019年春の叙勲で旭日中綬章を受章。
溝手 顕正(溝手 顯正、みぞて けんせい、1942年〈昭和1… 溝手 顕正(溝手 顯正、みぞて けんせい、1942年〈昭和17年〉9月13日 - 2023年〈令和5年〉4月14日)は、日本の実業家、政治家。従三位。 幸陽船渠代表取締役社長、国家公安委員会委員長(第74代)、内閣府特命担当大臣(防災)、自由民主党参議院議員会長(第28代)、自由民主党参議院幹事長、参議院議員(5期)、参議院予算委員長・議院運営委員長・国家基本政策委員長・総務委員長・懲罰委員長・政府開発援助等に関する特別委員長、自由民主党広島県支部連合会会長を歴任した。 広島県広島市南区皆実町生まれ。その後は安芸郡や父方の郷里の賀茂郡原村(現東広島市八本松町原)を経て、日本通運に勤めていた父親の転勤に伴い三原市に転居した。
豊原 洋治(とよはら ようじ 1942年1月1日 - )は、… 豊原 洋治(とよはら ようじ 1942年1月1日 - )は、広島県出身の実業家。元豊田通商代表取締役副会長。豊田通商のプロパー社員。
田島 治子(たじま はるこ、1941年10月29日 - 20… 田島 治子(たじま はるこ、1941年10月29日 - 2013年10月17日)は、日本の実業家。サカイ引越センター創業者、元社長(前取締役副会長)。アートコーポレーションの寺田千代乃と並ぶ引っ越し専業者の二大女性社長といわれた。広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市)出身。 広島県立因島高等学校卒業。幼稚園の保母をしていたが、小さな運送会社「新海商運」の長男であった田島憲一郎と見合いをして、1962年、22歳で結婚。大阪に出る。1971年、夫・憲一郎が父親と意見が合わず飛び出し、独立。大阪市を本拠にしていた実家と揉めないようにトラック2台で堺市に「新海商運」堺営業所を夫婦で設立した。当初は運送業に徹していたが、一般運送は古くからある業界で新規参入が難しく、また規制でがんじがらめで、やがて経営難となる。
深山 英樹(ふかやま ひでき、1941年(昭和16年)10月… 深山 英樹(ふかやま ひでき、1941年(昭和16年)10月25日 - )は、広島県広島市出身の実業家。広島ガス社長、広島商工会議所会頭などを務める。
野村 尊敬(のむら そんきょう、1941年9月22日- )は… 野村 尊敬(のむら そんきょう、1941年9月22日- )は、日本の実業家。チチヤス第五代社長、元会長。元サッカー選手、元日本サッカー協会副会長。 広島県出身。広島大学附属高等学校では、フルバックとして同級生の桑田隆幸、1年後輩の小城得達・桑原楽之・溝手顕正・船本幸路らと選手権、国体でともに準優勝。 その後早稲田大学第二商学部へ進学。同級生の松本育夫・桑田隆幸、2つ下の二村昭雄・森孝慈、3つ下の釜本邦茂らと共に同大学ア式蹴球部の黄金期を創った。在学中の1963年には日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。 1964年卒業後、チチヤス乳業に入社。専務取締役、副社長を経て1996年チチヤス第五代社長に就任。
松尾 雅彦(まつお まさひこ、1941年2月20日 - 20… 松尾 雅彦(まつお まさひこ、1941年2月20日 - 2018年2月12日)は、日本の実業家。広島県広島市出身。 カルビー第3代社長。「カルビー中興の祖」。スマート・テロワール(農村自給圏構想)提唱者。 カルビー創業者松尾孝の三男。広島市楠木町(現西区)で生まれる。 1945年8月6日、4歳の時に広島市への原子爆弾投下により被爆。自宅近くで母と一緒に疎開する荷物を積んだ馬車の上にいた(爆心地から1.5km)ものの、両側の家屋が倒壊したことでそれに遮られて助かったという。松尾は被爆後の火の粉で軽い火傷をおったが怪我はそれだけで、三篠橋から旧太田川に入り夕方まで過ごした。母と一緒に筏につかまっていると、貴重品袋に入っていた砂糖が溶けて流れていった様子を鮮明に覚えている、とのちに回想している。
奥原 國雄(おくはら くにお、1941年〈昭和16年〉1月1… 奥原 國雄(おくはら くにお、1941年〈昭和16年〉1月10日 - )は、日本の実業家。ケムコ商事代表取締役会長。 広島県呉市出身。広島県呉阿賀高等学校卒業。1963年、立教大学経済学部卒業。1978年、呉青年会議所第26代理事長。1992年、コトブキ技研工業社長に就任する。 趣味はゴルフ、囲碁。住所は広島県呉市和庄登町、西中央5丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
市野 紀生(いちの のりお、1941年1月1日 - 2023… 市野 紀生(いちの のりお、1941年1月1日 - 2023年7月19日)は、日本の実業家。東京ガス代表取締役元社長、会長。社団法人日本ガス協会元会長。日本野球連盟元会長。NPO法人日本防災士機構評議員。 広島県呉市出身。1964年に早稲田大学法学部を卒業し株式会社東京瓦斯入社。1998年常務取締役事業開発本部長などを経て2000年代表取締役専務取締役事業開発本部長、2001年代表取締役専務取締役、2002年代表取締役副社長執行役員コーポレート・コミュニケーション本部長、2003年代表取締役社長社長執行役員就任。2008年から取締役会長。 2009年5月から社団法人日本ガス協会会長。その他、日本取締役協会・内部統制研究会座長、東商環境委員会委員長なども務める。
守屋 寿(もりや ひさし、守屋 壽、1941年 - )は、広… 守屋 寿(もりや ひさし、守屋 壽、1941年 - )は、広島県福山市出身の古地図収集家、実業家。元メリルリンチ日本証券会長。 広島県福山市出身。広島大学附属福山中学校・高等学校を経て、一橋大学卒業、ハーバード大学ハーバード・ビジネス・スクール修了。メリルリンチ日本証券会長などを歴任。古地図収集家としても知られ、2014年以降、郷里福山市の広島県立歴史博物館に古地図等1,226点からなる「守屋寿コレクション」を寄託した。同年、コレクションの中から、「享保日本図」の測量原図が発見された。2016年にも同博物館に寄託を行い、日本初の世界地図「万国総図」や「世界人物図」などが発見された。。2020年には年齢的に能力の限界を感じ蒐集活動を終了。
織田 善行(おだ よしゆき、1940年 - )は、日本の実業… 織田 善行(おだ よしゆき、1940年 - )は、日本の実業家。アメリカンファミリー生命保険会社(AFLAC)日本法人の設立に関わり、取締役人事部長、常務取締役を経て退職。現アドベンチャーコーチング株式会社代表取締役。広島県出身。
奥原 征一郎(おくはら せいいちろう、1940年〈昭和15年… 奥原 征一郎(おくはら せいいちろう、1940年〈昭和15年〉 - )は、日本の実業家。グローカル代表取締役会長。コトブキ技研工業初代社長。呉商工会議所名誉会頭。呉観光協会会長。 広島県呉市出身。1962年、慶應義塾大学文学部社会学科卒業、寿工業入社。1972年、取締役副社長を経て1979年、代表取締役、同年にコトブキ技研工業初代社長に就任。 1983年、社会福祉法人白寿会理事長。1984年、コトブキシステム創立、代表取締役。1992年、コトブキグループ本部設置、代表に就任する。1995年、呉ビール代表取締役。 1989年、呉商工会議所副会頭、1995年、常議員を経て同年より会頭。 奥原が代表取締役を務めていたアジア特殊製鋼(船舶などに使う特殊鋼母材の専門メーカー)は2012年4月3日、事業を停止し、事後処理を弁護士に委任したと発表した。
大竹 美喜(おおたけ よしき、男性、1939年5月14日 -… 大竹 美喜(おおたけ よしき、男性、1939年5月14日 - )は、日本の実業家。アメリカンファミリー生命保険(AFLAC)日本支社設立者、元日本における代表者・社長・最高顧問。日本における外資系生命保険・がん保険の草分け。広島県庄原市出身。 中国山地豪雪地の農家の生まれ。広島県立庄原実業高校在学中は、サッカー部を創設するなどスポーツ少年だった。広島農業短期大学(現県立広島大学)卒業後、市長から農村の指導者になって欲しいと頼まれ、1960年に畜産技師を目指し米国に留学。ところが帰国した時は高度成長期の最中で農業は衰退しかかっており、転換期で諦め、地元選出の代議士・永山忠則(元自治大臣)の秘書となる。
宗国 旨英(むねくに よしひで、1938年(昭和13年)9月… 宗国 旨英(むねくに よしひで、1938年(昭和13年)9月21日 - )は、日本の実業家。元本田技研工業会長、元日本自動車工業会会長。 広島県庄原市出身。1961年に法政大学経済学部を卒業し、1966年に本田技研工業に入社する。米国法人アメリカンホンダモーター社長などを経て、1984年に取締役、1987年に常務、1989年に代表取締役専務、1990年に代表取締役副社長に就任する。1997年6月から代表取締役会長に就任し、退任後、特別顧問を務める。2002年5月、ホンダ出身者で初めて日本自動車工業会会長に就任する。同年、日本自動車研究所理事長。 北米におけるホンダブランドを確立し、また早くから中国市場開拓を強力に推進した。
水越 浩士(みずこし こうし、1938年(昭和13年)9月1… 水越 浩士(みずこし こうし、1938年(昭和13年)9月1日 - )は、日本の実業家。神戸製鋼会長。朝鮮京城府の生まれで、1945年引き揚げ後中学校まで父の郷里広島県豊田郡大崎上島で育つ。東京教育大学附属駒場高等学校を経て1961年3月に東京大学経済学部を卒業し、同年に神戸製鋼入社。
小川 薫(おがわ かおる、1937年8月8日 - 2009年… 小川 薫(おがわ かおる、1937年8月8日 - 2009年4月27日)は、日本の実業家。総会屋。「最後の総会屋」と呼ばれた。 広島市の歓楽街・弥生町の入口、下柳町(現中区銀山町)生まれ。当地は証券街で、かつ遊郭もあり、ヤクザの多い街でもあった。1945年、7歳国民学校二年の夏、爆心地から1.1キロの自宅で被爆。薫は釣りに行くため自宅を出る直前だった。幸い家族もみな軽傷で済んだ。1946年、戦場から父親が復員。戦前から経営していた電器店を再開したが、父は博徒岡組(のちの共政会)組長・岡敏夫と親しく野球賭博を始め店を潰し、その後は食堂を営んだ。 小川の兄・義夫と弟・明男の三人は喧嘩が滅法強く「小川三兄弟」と恐れられたが、叔父の田部武雄がプロ野球選手だったこともあり、野球もうまく、みな野球強豪高校でレギュラーとなった。
松田 欣也(まつだ きんや、1937年1月10日 - )は、… 松田 欣也(まつだ きんや、1937年1月10日 - )は、広島県広島市出身の実業家。広島マツダ社長などを務めた。
橋本 宗利(はしもと むねとし、1936年12月9日 - )… 橋本 宗利(はしもと むねとし、1936年12月9日 - )は、日本の経営者。広島ホームテレビ社長、会長を務めた。 広島県尾道市出身。1959年に一橋大学経済学部を卒業し、日本興業銀行に入行し、本店営業部で勤務していた。1965年5月に広島銀行監査役に就任し、取締役、常務、総務部長、専務、副頭取を歴任した。1989年6月から2008年6月までに広島ホームテレビの社長を務め、2008年6月から会長に就任した。。日本青年会議所副頭取、広島県選挙管理委員会委員長、朝日放送監査役も務めた。 1998年から2000年までに日本民間放送連盟副会長を務めた。
成宮 雄三(なるみや ゆうぞう、1936年10月12日 - … 成宮 雄三(なるみや ゆうぞう、1936年10月12日 - )は、日本の実業家。ナルミヤ・インターナショナル創業者・社長。広島県広島市出身。 家業は明治期の1899年、広島市の元柳町(現在の広島平和記念公園)に創業した呉服問屋の老舗。その後広島市中心部鉄砲町に移転。戦時中は軍服製造などを手がけ戦後の1952年、成宮織物株式会社、1979年ナルミヤと改称して婦人服・洋品部門を拡張させた。成宮は三兄弟の末っ子として生まれ、広島大学附属高校を経て1959年慶應義塾大学法学部を卒業。大学卒業後、髙島屋に入社。ニューヨーク店などに勤務。父の病気で1975年退職し、二番目の兄が東京青山でやっていた洋服卸部門を引き継ぐ。
髙山 剛(たかやま つよし、1936年7月30日 - 201… 髙山 剛(たかやま つよし、1936年7月30日 - 2015年4月7日)は、日本の実業家。第14代大同特殊鋼代表取締役社長。 広島市安芸区矢野町に6人兄弟の長男として生まれる。矢野小学校、矢野中学校から1955年広島県立広島国泰寺高等学校卒業。京都大学法学部卒業後、1960年に大同製鋼株式会社(現大同特殊鋼株式会社)に入社。1984年に販売第一部長。1990年に取締役営業本部大阪支店長。1992年に常務取締役営業本部大阪支店長。1994年に専務取締役。1996年に代表取締役副社長。1998年に代表取締役社長。2004年から代表取締役会長を務めた。2009年相談役。2015年ぼうこう腺がんで逝去。
大下 龍介(おおしも りゅうすけ、1936年(昭和11年)7… 大下 龍介(おおしも りゅうすけ、1936年(昭和11年)7月5日 - )は、広島県広島市出身の実業家。福屋社長、広島経済同友会代表幹事などを務めた。
白倉 茂生(しらくら しげお、1936年2月20日 - )は… 白倉 茂生(しらくら しげお、1936年2月20日 - )は、日本の実業家。
松尾 聰(まつお さとし、1935年12月28日 - 202… 松尾 聰(まつお さとし、1935年12月28日 - 2020年7月3日)は、日本の実業家。カルビー代表取締役社長や、代表取締役会長を務めた。一般社団法人グリーン・ファミリー代表理事である。 広島市生まれ。1954年広島県立広島国泰寺高等学校卒業。1958年広島大学工学部卒業。竹林守元マツダ代表取締役会長は高校の同期。カルビー創業者松尾孝の長男で、1987年から第2代カルビー代表取締役社長を務めた。1992年カルビー代表取締役会長。2001年会長退任。一般社団法人グリーン・ファミリー代表理事も務め、2014年には母校広島大学に給付型奨学金・グリーン・ウィング教育奨学金を設立した。2020年没。 カルビー創業者松尾孝は父。
碓井 優(うすい ゆたか、1935年5月7日 - )は、日本… 碓井 優(うすい ゆたか、1935年5月7日 - )は、日本の実業家。広島県呉市長迫町出身。石川島播磨重工業(IHI)のコンピュータ外販部門のリーダーだった1981年、79人の仲間を率いて同社を集団退社。『コスモ・エイティ』を興して大きな注目を浴び、日本のベンチャー草分けとなった。[要出典] 広島県立呉三津田高等学校野球部で広岡達朗の後輩。1学年上の小畑正治(元南海)後の剛球エースとして1952年、選抜大会選考に繋がる秋季中国地区大会決勝まで進むが、柳井高校に自身の悪送球で延長サヨナラ負けし甲子園出場は成らなかった。阪神と南海のスカウトが来たが関西大学に進学。しかし父親の会社が負債を抱え倒産。やむなく野球は諦め数日だけの大学生活を終え、父の友人だった呉市長・鈴木術の口利きで呉造船所(のち合併し石川島播磨重工業(IHI))に入社した。
堀 澄也(ほり すみや、1935年4月27日 - )は、実業… 堀 澄也(ほり すみや、1935年4月27日 - )は、実業家。ヤクルト代表取締役会長。東京ヤクルトスワローズオーナー。広島県福山市出身。
宇田 誠(うだ まこと、1934年9月5日 - 2013年1… 宇田 誠(うだ まこと、1934年9月5日 - 2013年12月5日)は、広島県福山市出身の実業家。元広島銀行頭取、広島商工会議所会頭。 1934年、福山市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。 1957年、広島銀行に入行。以降広銀岡山支店長や取締役総合企画部長、専務営業総本部長など歴任する。 1994年、広銀頭取に就任すると、バブル崩壊以降の不良債権処理に尽力し経営安定に務め、海外路線に向かっていた銀行を地域重視路線へと舵取りし、広銀の再建に尽力した。1997年全国地方銀行協会副会長に就任。2000年頭取を退き広銀会長に、2006年広銀特別顧問に就任する。 また広銀会長時代の2004年、広島商工会議所会頭に就任した。
石井 泰行(いしい やすゆき、昭和9年(1934年)5月12… 石井 泰行(いしい やすゆき、昭和9年(1934年)5月12日 - 平成27年(2015年)11月23日)は、広島県出身の実業家・経営者である。賀茂鶴酒造名誉会長。
多田 修人(ただ なおと、1934年2月1日 - )は、日本… 多田 修人(ただ なおと、1934年2月1日 - )は、日本の実業家。日本システムウエア株式会社創業者・名誉会長。同社元代表取締役会長兼社長。元東京商工会議所渋谷支部会長。 広島県尾道市出身。広島県立尾道北高等学校入学 1964年東京経済大学経済学部卒業、東洋計算センター入社。1966年事務計算センター(現日本システムウエア)設立、同社代表取締役社長就任。1976年ナカヤ代表取締役社長。1991年システムウエアリンケージ株式会社(現NSWテクノサービス)代表取締役社長就任。2004年タダ・インベストメント取締役社長就任。2005年日本システムウエア代表取締役会長就任。2007年日本システムウエア代表取締役会長兼社長就任。
佐竹 利子 (さたけ としこ、1933年2月26日 -202… 佐竹 利子 (さたけ としこ、1933年2月26日 -2021年10月5日 )は、日本の実業家。株式会社サタケ取締役名誉会長。学位は農学博士(京都大学、2005年)。広島大学名誉博士。東広島市名誉市民。一般社団法人広島県発明協会名誉理事。イクボス同盟ひろしまメンバー。公益財団法人サタケ技術振興財団理事長。中国糧油学会名誉副理事長。 広島県東広島市出身。広島県立賀茂高等女学校・学習院女子高等科を卒業。1957年、南カリフォルニア大学商業デザイン科を卒業。1月、佐竹製作所(現サタケ)に入社、取締役に就任。1997年7月、代表に就任。2001年4月、財団法人広島大学後援会理事長に就任。4月24日、広島大学名誉博士。
岩部 金吾(いわべ きんご、1932年(昭和7年)2月26日… 岩部 金吾(いわべ きんご、1932年(昭和7年)2月26日 - 2021年(令和3年)3月7日)は日本の実業家。元文化シヤッター代表取締役社長。 1932年(昭和7年)2月26日、広島県に生まれる。旧制崇徳中学(現崇徳高等学校)を経て、1956年(昭和31年)に法政大学経済学部を卒業し、ハリウッド化粧品に入社する。1959年(昭和34年)に文化シヤッター入社し、1964年(昭和39年)同社取締役社長室長、1969年(昭和44年)に同社常務取締役、1972年(昭和47年)に同社専務取締役を経て、1989年(平成元年)に同社代表取締役社長に就任する。1995年(平成7年)に同社取締役相談役を経て、1997年(平成9年)に同社代表取締役会長就任。
谷島 茂之(たにしま しげゆき、1931年11月5日 - 2… 谷島 茂之(たにしま しげゆき、1931年11月5日 - 2014年5月5日 )は、日本の経営者。広島県三原市出身。 1956年に明治大学商学部を卒業し、同年に西武百貨店に入社。1970年に西友に転じ、1974年に取締役に就任し、1980年に常務、1984年に専務、1986年5月に取締役を経て、1987年12月に忠実屋に転じ、1991年5月に社長に就任し、1994年3月にはダイエー副社長に就任。1996年6月から2000年6月までにサンテレビジョン社長を務めた。 2014年5月5日、死去。82歳没。
南 維三(みなみ いぞう、1931年4月17日 - )は、日… 南 維三(みなみ いぞう、1931年4月17日 - )は、日本の経営者。日立造船社長を務めた。広島県広島市出身。 1956年に広島大学工学部を卒業し、同年に日立造船に入社。1988年6月に取締役に就任し、1991年4月に常務、1992年4月に専務を経て、1993年6月に副社長に就任し、1995年6月には社長に昇格。2001年6月に相談役に就任。
堀口 勲(ほりぐち いさお、1931年 <昭和6年> 3月1… 堀口 勲(ほりぐち いさお、1931年 <昭和6年> 3月1日 - 2016年 <平成28年> 12月15日)は、日本の経営者。中国放送社長、会長を務めた。位階は正五位。 広島県広島市出身。1953年に広島大学工学部工業経営科を卒業し、同年に中国新聞社に入社。 1980年3月に取締役に就任し、1984年に常務を経て、1990年12月に広島市長選挙に出馬した平岡敬社長に代わり、中国放送社長に就任。1999年6月から2002年6月までに会長を務めた。 2002年11月に勲三等瑞宝章を受章。2016年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
内山 康(うちやま やすし、昭和6年(1931年)1月13日… 内山 康(うちやま やすし、昭和6年(1931年)1月13日 - 平成4年(1992年)8月25日)は、広島県出身の実業家。レーザーテック株式会社の創業者。
青山 五郎(あおやま ごろう、1930年3月4日- 2008… 青山 五郎(あおやま ごろう、1930年3月4日- 2008年1月15日)は、日本の実業家。『洋服の青山』の名称で知られる紳士服チェーン大手、青山商事の創業者。広島県府中市出身。日本でいち早く郊外型店舗を導入したとされる。讀賣テレビ放送社長を務めた青山行雄、第3代府中市長を務めた青山春雄は実兄。青山商事社長の青山理は長男。
重松 良典(しげまつ よしのり、1930年 - 2018年)… 重松 良典(しげまつ よしのり、1930年 - 2018年)は、日本の実業家。広島県広島市出身。 元サッカー日本代表。1965年日本サッカーリーグ(JSL)創設に尽力した人物の一人。のちに日本プロ野球界に転じ1970年代の赤ヘル旋風時の広島東洋カープ球団代表。Jリーグ・ベルマーレ平塚における最後の社長であり、湘南ベルマーレ創設に尽力した人物の一人。 1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆した。 重松ら旧制広島県立第一中学校(現国泰寺高校)3年生60人は、爆心地から2.2キロメートルに位置した舟入川口町の軍需工場に学徒勤労動員で来ており、ちょうど8時の朝礼が終わった後のことだった。倒れてきた設備機械により級友の一人が亡くなり、多数の怪我人を出した。
石河内 稔勝(いしごうち としかつ、1928年8月25日 -… 石河内 稔勝(いしごうち としかつ、1928年8月25日 - 2014年6月15日)は、日本の政治家、実業家。広島県沖美町議会副議長、広島県沖美町商工会長、広島県沖美町長を務めた。 広島県沖美町(現・江田島市)に生まれる。広島県立広島第二中学校(現・広島県立広島観音高等学校)を卒業後、外務省・文部省共同所管の南洋協会が運営する南洋学院に入学する。南洋学院在学中に終戦となり、その後内地の新制大学への転校を認められ、中央大学法学部に在籍する。 1977年から広島県沖美町議会議員選挙に5回連続当選を果たす。在任中に町議会の副議長を2度(1985年・1993年)務めた。1991年5月に広島県沖美町商工会長に就任し1998年11月の広島県沖美町長選挙で現職を破り第5代広島県沖美町長となる。
田中 健五(たなか けんご、1928年(昭和3年)6月4日 … 田中 健五(たなか けんご、1928年(昭和3年)6月4日 - 2022年(令和4年)5月7日)は、日本のジャーナリスト、編集者、実業家。『諸君!』、『文藝春秋』、『週刊文春』編集長を経て、文藝春秋社長(第7代)。 広島県広島市出身。海軍兵学校教授であり、高松宮宣仁親王に英語を指導したことでも知られる田中酉熊の五男として生まれる。 都立一中から1945年(昭和20年)4月、海軍兵学校に第77期生として入学するも敗戦により退校、旧制東京高校を経て、1953年東京大学文学部独文科を卒業。就職難の時代、たまたま文藝春秋新社(現・文藝春秋)の試験を受け入社。半藤一利は同期生。当時の文藝春秋は社員数100人にも満たない小さな会社だった。
武田 正彦(たけだ まさひこ、1927年7月15日 - 20… 武田 正彦(たけだ まさひこ、1927年7月15日 - 2007年2月15日)は、日本の弁護士、実業家。 広島県呉市出身。1953年(昭和28年)- 東京大学法学部卒業。1956年(昭和31年)- 神戸家裁判事補。1959年(昭和34年)- 神戸簡裁判判事。同年アメリカミシガン大学ロー・スクール留学。1961年(昭和36年)- 福岡家裁判事補、判事。1964年(昭和39年)- 弁護士登録。以来、主に渉外、特許事件を担当する。1972年(昭和47年)- ピエール・カルダンの日本代理店「ピエール・カルダン・ジャパン」(PCJ)を設立。社長、カルダンブランドを日本に定着。その後、長くカルダン本社国際戦略のアドバイス役を務めた。
亀田 良一(かめだ りょういち、1927年(昭和2年)2月1… 亀田 良一(かめだ りょういち、1927年(昭和2年)2月1日 - 2018年(平成30年)12月28日)は、日本の実業家。政治家。広島県尾道市長(4期)。位階は従五位。旭日小綬章受章。 広島県尾道市出身。1951年、早稲田大学政治経済学部卒。1956年、亀田海運を会社組織にして独立する。尾道青年会議所理事長、尾道商工会議所副会頭などを経て、1995年、尾道市長に立候補し、現職の博田東平を破って当選する。1999年と2003年は無投票当選。尾道市長を3期務め、2007年に退任した。2008年春の叙勲で旭日小綬章を受章。2018年に死去。死没日付をもって従五位に叙された。
美能 幸三(みの こうぞう、1926年7月31日 - 201… 美能 幸三(みの こうぞう、1926年7月31日 - 2010年3月17日)は、日本の実業家。元ヤクザ。広島県呉市の美能組初代組長。広島県呉市出身。広島抗争の中心人物の一人であり、後にそのいきさつを描いた『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物である。詳細は広島抗争、『仁義なき戦い』の項を参照。 大正15年(1926年)7月31日、広島県呉市に生まれる。父親は退役軍人で海軍工場に勤め、母親は小学校の教員だった。呉第二中学校(現在の広島県立呉宮原高等学校)2年で退学し、毎日ぶらぶらとしていたが、昭和17年(1942年)に大日本帝国海軍に志願し大竹海兵団に入団、ラバウル、硫黄島を転戦しトラック島で終戦を迎え、浦賀に上陸し昭和20年(1945年)11月26日、復員。
渡辺 襄(わたなべ のぼる、1926年5月6日 - 2007… 渡辺 襄(わたなべ のぼる、1926年5月6日 - 2007年6月16日)は、毎日新聞社社長。 広島県福山市出身。1949年東京大学法学部卒。同年毎日新聞社に入社。政治部記者になり、政治部副部長、論説委員、論説主幹などを務め、1983年に取締役に就いた。1986年専務兼主筆、翌1987年に社長に就任した。1992年には相談役となり、1996年から顧問となった。また、1988年から2001年まで横綱審議委員を務めた。
土居 君雄(どい きみお、1926年3月23日 - 1990… 土居 君雄(どい きみお、1926年3月23日 - 1990年10月2日)は、日本の実業家。ドイ(カメラのドイ)創業者。広島県広島市出身。 1943年、関西甲種商業学校(現関西大学第一高校)卒業。戦後大阪で伯父の写真材料会社に勤務。左前となったため1956年、妻の郷里・福岡県福岡市で土居商店として独立した。当初は問屋から製品を仕入れ小売店に納入する二次卸だった。メーカー直結の問屋が流通経路を牛耳る時代、新参者が食い込む隙はなく苦戦。悩んだ末、末端の写真館やDPE店、土産物屋へのダイレクトメールを思いつく。これも当時は簡単に資料が集められず、市町村役場の商工係にアンケート用紙を送り顧客名簿を作成した。
歌田 勝弘(うただ かつひろ、1925年8月26日 - )は… 歌田 勝弘(うただ かつひろ、1925年8月26日 - )は、日本の実業家。元味の素社長。 広島県生まれ。府立四中四年修了後、旧制東京高校を経て1947年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中の1944年から1年間、陸軍の特別甲種幹部候補生として入隊するが、最終の訓練中終戦となり復学。大学卒業後、味の素入社。大阪支店長他を経て1971年、同社取締役。1973年常務取締役、専務、副社長を経て1981年、渡辺文蔵の後任として味の素第7代代表取締役社長に就任。1989年名誉会長、1991年相談役(現特別顧問)となった。 実父の歌田千勝は内務官僚で、近衛内閣の祝典事務局長として紀元2600年祝賀式典に尽力した。
山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2… 山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2010年9月14日)は、日本の実業家。第17代日本商工会議所会頭、元旭化成代表取締役会長・代表取締役名誉会長。2007年旭日大綬章。 広島県甲奴郡総領町(現・庄原市)出身。1942年広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)卒業、1943年陸軍予科士官学校卒業を経て、1945年6月陸軍士官学校(58期)を首席で卒業し、少尉として平壌へ出征。ソ連タタール共和国での抑留生活を経験した。 復員後の1952年東京商科大学 (旧制)(現・一橋大学)卒業、同年旭化成入社。同社の「中興の祖」宮崎輝元社長の右腕となり、1974年住宅事業部長に就任し赤字部門からグループ内で最も利益を上げる部門に転換させた。
八木 直彦(やぎ なおひこ、1924年9月25日 - 202… 八木 直彦(やぎ なおひこ、1924年9月25日 - 2020年10月16日)は、日本の経営者。日本製鋼所社長を務めた。広島県広島市出身。 1947年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日本製鋼所に入社。1977年に取締役に就任し、1979年に常務、1981年に専務を経て、1985年に社長に就任。1995年に相談役に就任。 1998年に勲二等旭日重光章を受章した。 2020年10月16日脳出血のために死去。96歳没。
竹鶴 威(たけつる たけし、1924年〈大正13年〉3月6日… 竹鶴 威(たけつる たけし、1924年〈大正13年〉3月6日 - 2014年〈平成26年〉12月17日)は、広島県福山市出身の日本の実業家で、ウイスキー製造者、技術者、会社経営者。ニッカウヰスキー(アサヒビールグループ)の元社長であり、同社の2代目マスターブレンダー。 叔父、後に養父は竹鶴政孝。息子はブランディングコンサルタントの竹鶴孝太郎。従妹は竹鶴リマ。
河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5… 河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5日 - 1983年(昭和58年)10月13日)は、日本の実業家、教育者、政治家。河合塾創始者である河合逸治の二男。 広島県世羅郡世羅町出身。1943年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。高校教師を経て、戦後間も無く父・逸治を助け河合塾の経営に参画。また広島県東広島市の喜久牡丹酒造専務を兼任、のち社長も歴任した。さらに1963年4月に広島県議会議員に初当選(通算4期務めた後、5期目の任期中に病死)。翌1964年、父の後を継ぎ河合塾理事長に就任。当時、名古屋市内に2つだけだった塾を予備校の他、外国語専門学校など積極経営で拡張、のちに河合塾経営に参画した兄・河合斌人と共に1977年、駒場校開校を皮切りに同塾の全国展開を図り三大予備校の1つに育てあげた。
山西 義政(やまにし よしまさ、1922年(大正11年)9月… 山西 義政(やまにし よしまさ、1922年(大正11年)9月1日 - 2020年(令和2年)4月1日)は、日本の実業家。イズミ創業者。 生まれは広島県佐伯郡玖波村(現大竹市玖波町)、のちに広島市宇品(現南区)へ移り住む。最終学歴は宇品尋常高等小学校(広島市立宇品小学校)卒業。 貧しい家庭に育ち、父親は呑んだくれで母親は病弱、それに妹と4人で暮らしていた。その他にも兄弟はいたが、養子や親戚に出されていた。尋常高等小時代の11歳か12歳ぐらいから働き始め、新聞配達とシジミやハマグリの行商で家計を支えた。自分が稼いだ金で二重焼き(今川焼きの広島での通名)を2つ買って食べることが最高の贅沢だった。 父親が亡くなったこともあり、尋常高等小卒業後は進学せず、昼は軍需工業、夜は荷物運びと働き続けた。