Ed TSUWAKI(エドツワキ、1966年6月29日 - … Ed TSUWAKI(エドツワキ、1966年6月29日 - )は、日本のイラストレーター、アートディレクター、画家。旧名:エドツワキ、エドワード津脇、Ed。2020年「Ed TSUWAKI」に表記を統一。 2005年5月に女優の原田知世と結婚したが、2013年12月に離婚した。
広島県:30人
Ed TSUWAKI(エドツワキ、1966年6月29日 - … Ed TSUWAKI(エドツワキ、1966年6月29日 - )は、日本のイラストレーター、アートディレクター、画家。旧名:エドツワキ、エドワード津脇、Ed。2020年「Ed TSUWAKI」に表記を統一。 2005年5月に女優の原田知世と結婚したが、2013年12月に離婚した。
岩井 壽照(いわい よしてる、1949年〈昭和24年〉 - … 岩井 壽照(いわい よしてる、1949年〈昭和24年〉 - )は、日本の画家、日本美術家連盟会員。妻は絵画修復師(英語版)の岩井希久子。
宮迫 千鶴(みやさこ ちづる、1947年10月16日 - 2… 宮迫 千鶴(みやさこ ちづる、1947年10月16日 - 2008年6月19日)は、画家・エッセイスト。夫は画家の谷川晃一。 広島県呉市出身。1970年、県立広島女子大学文学部卒業。1984年エッセイ集『超少女へ』で注目され、上野千鶴子との対談を刊行、絵のほかに多くの女性論などのエッセイを刊行した。一貫してオカルト、スピリチュアルへの関心を抱いていた。1996年には『婦人之友』の表紙絵を担当していた。 2008年6月19日午後11時57分、リンパ腫のため埼玉県川越市の病院で死去。60歳没。 1991年の朝日新聞夕刊に連載していたコラムで、「(女性の結婚相手の条件として)3高というと怒る男性がいる。
上田 由美子(うえだ ゆみこ、1938年1月23日 - )は… 上田 由美子(うえだ ゆみこ、1938年1月23日 - )は、日本の詩人、エッセイスト、画家。 広島県広島市に生まれる。1945年、原爆投下の数日後に広島市内を横切り入市被曝。詩「一枚のハガキ」で第7回白鳥省吾賞の最優秀賞受賞。詩集『八月の夕凪』の著者。 2017年 戦争や災害による犠牲者を追悼する「レクイエム・プロジェクト」の混声合唱曲「生きとし、生けるものへ」の作詞を手がける。作曲は、上田益。同曲は、3月5日に広島県民文化センターで、また8月6日に長崎市民会館文化ホールで公演された。8月6日、上田由美子は詩朗読と講演を1000に近い参加者の前で行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
寺岡 政美(てらおか まさみ、1936年(昭和11年)- )… 寺岡 政美(てらおか まさみ、1936年(昭和11年)- )は、日系アメリカ人の画家である。広島県尾道市出身で米国ハワイ州ホノルル郡ワイマナロ(英語版)に在住し、エイズ問題を浮世絵で描いたエイズシリーズなどの作品がある。 以降現在までほぼ毎年、大半を米国で若干を欧州やアジア諸国で、現在まで75回ほど開催している。 以降ほぼ毎年、大半を米国で若干を欧州やアジア各国で、現在まで多数開催している。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
福島 瑞穂(ふくしま みずほ、1936年 - )は、日本の洋… 福島 瑞穂(ふくしま みずほ、1936年 - )は、日本の洋画家。独立美術協会会員、女流画家協会委員、21美術協会代表、女子美術大学大学院客員教授。 広島県尾道市生まれ。広島県立尾道東高等学校、女子美術大学芸術学部洋画科卒業。 1986年「タナトス」が安井賞佳作となった。他に受賞多数。
寺坂 公雄(てらさか ただお、1933年9月6日 - )は、… 寺坂 公雄(てらさか ただお、1933年9月6日 - )は、日本の洋画家、日本藝術院会員。 広島県広島市出身。旧制松山中学、愛媛大学教育学部美術科を卒業。 戦後に母の郷里松山市に転居する。大学在学中に、愛媛県展の洋画部門・日本画部門で知事賞を受賞。 1954年、「画室の隅」が光風会展初入選。同年「室内」が日展初入選。 大学卒業後、上京し中学校美術教員として勤務しながら日展・光風会展を主たる舞台に活躍。 1975年より山梨県北杜市にアトリエを構えている。 1988年から1999年まで山梨大学教授。 2001年、「デルフォイへの道」で日展文部科学大臣賞。光風会常務理事。 2005年、「アクロポリスへの道」で日本芸術院賞。
吉原 英雄(よしはら ひでお、1931年(昭和6年)1月3日… 吉原 英雄(よしはら ひでお、1931年(昭和6年)1月3日 - 2007年(平成19年)1月13日)は、日本の画家、版画家。 広島県因島市出身。大阪府立天王寺高等学校卒業。京都市立芸術大学名誉教授。2007年に膵臓癌のため死去。 初期にはリトグラフの制作を行なうが、後にリトグラフと銅版を併用した。女性や静物などをモチーフとし、臨場感のある虚構空間を描き出すことで知られる。作品は現代人の不安や心理的真空感を反映したものと評される。
高橋 秀(たかはし しゅう、1930年〈昭和5年〉6月30日… 高橋 秀(たかはし しゅう、1930年〈昭和5年〉6月30日 - )は、日本の画家、版画家、彫刻家。元独立美術協会会員、倉敷芸術科学大学名誉教授、文化功労者。本名は髙橋 秀夫(たかはし ひでお)。本名の姓の「髙」 はいわゆる「はしごだか」であるが、筆名の姓の「高」 はいわゆる「くちだか」である。 広島県立府中中学校(現、広島県立府中高等学校)を卒業後に化粧品の訪問販売をしながら絵を描いていた頃(1948年)、終戦後に府中町(現、広島県府中市)に疎開していた二科会の画家、北川実のアトリエに出入りするようになる。そこで北川の油彩画、およびピカソやマティスの画集を目にして、美術の世界に目覚める。 高橋は1959年の第3回安井賞候補新人展、翌年の第4回展に安井賞候補として出品した後、1961年に3回目の候補となり《月の道》でようやく安井賞を受賞した。
平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 20… 平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 2009年12月2日)は、日本の日本画家、教育者。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。 東京芸術大学美術学部教授、東京芸術大学美術学部学部長、東京藝術大学学長(第6・8代)、財団法人文化財保護振興財団理事長、日本育英会会長、財団法人日本美術院理事長、東京国立博物館特任館長などを歴任した。 広島県出身の日本画家、教育者である。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京芸術大学学長などを務めた。文化功労者として顕彰され、のちに文化勲章を受章した。広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民などの称号を授与されている。
大歳 克衛(おおとし かつえ、1929年(昭和4年)4月16… 大歳 克衛(おおとし かつえ、1929年(昭和4年)4月16日 - 2014年(平成26年)6月8日)は、広島県出身の洋画家である。広島市立大学名誉教授、尾道市立大学名誉教授。中国文化賞を受賞。 1929年(昭和4年)4月16日、安佐郡緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に生まれる。1948年(昭和23年)、旧制崇徳中学校を卒業。1954年(昭和29年)には東京芸術大学油絵科卒業。梅原龍三郎に師事する。1956年(昭和31年)より国画会に出品し初入選。1958年(昭和33年)、「海の詩」などで国画会新人賞を受賞する。翌年には安井賞候補にも選ばれる。 1962年(昭和37年)には国画会会員となり、1964年(昭和39年)より1年間パリに滞在。
小尻 源峰(こじり げんぽう、1927年<昭和2年>5月12… 小尻 源峰(こじり げんぽう、1927年<昭和2年>5月12日 - 2011年<平成23年>3月13日)は日本画家である。師は森谷南人子。広島県尾道市出身で現在は岐阜県在住。 白峰会会長。等迦会特別会員。弟子は星月ノ友(旧雅号・小尻紗弘) 1927年(昭和2年)に広島県尾道市で生まれる。幼い頃にリウマチ熱にかかり、心臓弁膜症という重い障害が残る。6歳まで尾道市で過ごすが、父親の転勤のため大阪府島屋町へ転居する。室戸台風の被害に遭い、家が廃屋となった為、一時吹田町に転居する。その後、再び島屋町に戻り、島屋小学校へ転校後、卒業。 西野田工業高校に進学するが、1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が勃発し、在学中に志願兵として、広島の呉海兵団に入隊。
柏村 勲(かしわむら いさお、1924年8月21日 - 20… 柏村 勲(かしわむら いさお、1924年8月21日 - 2017年3月5日)は、日本の画家、随筆家。 広島県呉市に生まれる。広島県呉第一中学校、東京美術学校(東京藝術大学の前身校の一つ)油絵科卒業。卒業後、同級生であり画家の伊能由利子と結婚。 黒澤映画美術助手となる。東宝「生きる」「静華命」「安五郎出世」などを担当。 1952年、長男誕生後に川崎市立住吉中学校美術教師となる。 1960年、親友のアメリカ人夫妻と3人でヨット旅行に出発。アムステルダムから運河をたどってヨーロッパを縦断、地中海、バミューダ諸島などを経て大西洋を横断、アメリカ合衆国ニューポートまでの10ヶ月に及ぶヨットの旅だった。この旅が転機となり「ヨットと海」を描きはじめる。
山中 雪人(やまなか ゆきと、1920年2月12日 - 20… 山中 雪人(やまなか ゆきと、1920年2月12日 - 2003年6月5日)は、広島県出身の日本画家。宗教画を得意とする。日本美術院同人。元広島市立大学教授。妻は日本画家の水谷愛子。 1920年2月12日広島市台屋町(現在の南区京橋町)の浄土真宗寺院の家に生まれる。1937年に広島崇徳中学校を卒業後、川端画学校で学び、翌1938年に東京美術学校日本画科へ入学し、結城素明や川﨑小虎らの指導を受ける。1941年には結城素明の主宰する大日美術院第4回展覧会では「花屋」が、翌1942年の第5回展覧会では「T先生」が入選する。同年、東京美術学校を繰り上げ卒業し、1946年まで軍籍に身を置くことになる。1944年に中国漢口(現在の湖北省武漢市)の部隊に配属される。
佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 -… 佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 - 1960年(昭和35年)12月30日)は、日本の画家、詩人。本名は忠義。溪山人、忠石、教祖とも号する。 第二次世界大戦中は中国・東南アジアで従軍する。1945年に復員したのちは、後述の放浪中に作成された作品とは対照をなす、神秘的な油彩画を多く制作した。1955年から5年に渡り日本全国を旅し、昭和30年代の風景や人物を絵画に残した。水彩、フェルトペン、鉛筆等による多彩な画風が特徴である。1959年、旅先の沼津で脳卒中のため倒れ、翌1960年、両親の住む湯布院町で、「父母の後光見たり萩深し」という辞世の句を残し死去。 佐藤の作品の多くは、1991年7月に大分県大分郡湯布院町(現大分県由布市湯布院町)に開館した由布院美術館で展示されていたが、2012年3月に同館が閉館することに伴い、2013年1月からは大分県別府市にある国の登録有形文化財聴潮閣内に開設された佐藤溪美術館で展示されている。
正木 智海(まさき ちかい、1917年(大正6年)9月30日… 正木 智海(まさき ちかい、1917年(大正6年)9月30日 - 1991年12月8日)は、日本の洋画家。広島県大竹市生まれ(実家:智海山西念寺)。 福岡県八幡中学校卒業、広島県宮島駅に勤務しながら、野口弥太郎に師事を仰ぐ。 1934年、第2回西日本美術展に最年少17歳(当時)で入選。 1937年、広島県美術展入選。 1938年6月4日、中支派遣井上剛部隊として渡支。その後、華中鉄道会社営業課宣伝に勤務。 この時期、彫刻家石井鶴三、日本画家小杉放庵、田中青坪の知遇を得ると同時に、1936年以来に独立美術展への出品を続ける。 1940年、第11回独立美術展に西日本地区としては最年少(当時)で入選を果たす。
柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - … 柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - 1998年12月)は広島県(安芸高田市吉田町)出身の童画家。 「どんくまさん」シリーズ(蔵冨千鶴子作)の挿絵画家として知られる。1959年小学館児童文化賞受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7… 奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7日 - 2003年(平成15年)2月15日)は日本画家。元・日本芸術院会員。1984年(昭和59年)に文化勲章受章。本名は奧田 嚴三(おくだ げんそう)。妻は人形作家の奥田小由女。 「元宋の赤」と言われる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」(思文閣)によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されているほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。 歌人としても著名で、1981年正月には宮中歌会始の召人に選ばれた。
塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001… 塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001年3月20日)は昭和-平成時代の日本画家。 明治45年(1912年)4月6日、広島県福山市生まれ。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科に入学。主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事し、昭和12年(1937年)より院展で活躍。
宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 20… 宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 2006年6月14日)は、日本の洋画家。広島県福山市出身。 明治44年(1911年)5月6日、広島県沼隈郡水呑村(水呑町を経て現:福山市水呑町)に生まれる。 昭和初期、福山より同郷の彩美堂主人・土肥円修を尋ねて上京する。本郷洋画研究所、太平洋美術学校、番衆義塾に学び、安井曾太郎に師事した。新燈社展を始め、光風会展、白日会展、第一美術展、東光展、春陽展、二科展、第1回日展に入選する。 戦後は国展(国画会)及び埼玉県美術展に毎年出品し、それぞれ委員、審査員を務めた。 主に福島県の只見川に取材し、四季折々の自然に感じた生命感を、画面に形象化して制作した。
靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19… 靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19日)は、日本の洋画家。昭和前期(戦前・戦中期)に活動した。本名は石村 日郎(いしむら にちろう)。 靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。 戦時下の状況から、靉光は戦争画を描く事を当局より迫られ「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。 東京国立近代美術館(MOMAT)の入り口に作品が飾られているほど近代美術にとって重要な人物である。
片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - … 片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - 1937年(昭和12年)8月26日)は、大正、昭和初期の日本画家。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでいた。 1900年、尾道市長江町に生まれる。本名健三。父は漢学者の片山辰之助。1915年、大阪で南画を学ぶ。また、合川澄水に書道を学ぶ。1917年、京都で、庄田鶴友に師事し日本画を学ぶ。また、山本竟山に書道を学ぶ。この頃、短歌集『曼珠華沙』を作る。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に「おぼろ」(広島県立美術館所蔵)を出品、初入選で特選を受賞する。
児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月… 児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月5日 - 1971年 <昭和46年> 5月2日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 広島県高田郡来原村原田(現・安芸高田市高宮町原田)出身。本名・省三。尾竹竹坡門下を経て、1918年に川合玉堂の門に入る。「希望」の号は竹坡がつけたもの。帝展に出品し、1921年「夏の山」で初入選。1928年帝展では洋画の手法を取り入れた「盛秋」で特選となる。以後、新文展、日展に出品。1950年日展運営会参事、伊東深水門下の白鳥映雪らとともに日月社を結成。1952年の作品「室内」により日本芸術院賞を受賞。1958年日展評議員、1959年日本芸術院会員。
金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月2… 金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月14日)は、日本画家、日本芸術院会員。福山市名誉市民。 広島県安那郡湯田村(現・福山市神辺町湯野)に父儀一郎、母シナの長男として生まれる。本名は政太(まさた)。 絵の勉強は平井直水に師事、竹内栖鳳主催の竹杖会では西山翠嶂、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊や小野竹喬、徳岡神泉、池田遙邨あるいは大村廣陽と同門である。橋本とは1917年、共に揚子江を旅している。 私塾の衣笠会を主催し、藤島博文など後進の育成に努め、四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意とした。万鉄五郎とは金島の妻が加わった参禅の会を介して知己を得る。
松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明… 松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1970年〈昭和45年〉2月2日)は、日本の洋画家、カフェー・プランタンの経営者。 広島県広島市出身。渡辺又三郎の三男。日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。 リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという。
辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 -… 辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 - 1974年〈昭和49年〉7月23日)は、日本の洋画家。広島県広島市生まれ、茨城県水戸市育ち。 広島県広島市に生まれ、後に父の任地変更に伴い家族で茨城県水戸市に移り住んだ。水戸警察署長を務めた父の趣味が書画、骨董品の蒐集および草花、西洋野菜の育成であったことが永の絵画と植物の方面へ影響を及ぼした、と水戸市立博物館は2011年辻永植物画特別展の際に記している。 水戸中学校在学時代の1900年(明治33年)に白馬会会員で図画教師の丹羽林平宅に同居しつつ油絵を学び、以後東京美術学校西洋画科本科に進学し黒田清輝、岡田三郎助らに師事し洋画家となった。
南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21… 南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21日 - 1950年(昭和25年)1月6日)は、広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。 東京美術学校西洋画科出身。1907年〜1910年にかけて、イギリスで学ぶ。文展、帝展、新文展、日展で活躍し、1932年から43年にかけては東京美術学校の教授を務めた。油画家、水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わっていた。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。 ウィキメディア・コモンズには、南薫造に関するカテゴリがあります。
小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869… 小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869年9月21日〉 - 1920年〈大正9年〉10月27日)は戦前日本の洋画家。備後福山藩出身。本多錦吉郎・小山正太郎門下。神奈川県尋常師範学校、宮城県立仙台第二中学校、私立東北学院等で絵画を教えた。 明治2年(1869年)8月16日備後福山藩士小泉卯一郎の長男として備後国深津郡福山に生まれた。本籍は西町。明治4年(1871年)旧知藩事阿部正桓が上京を命じられると、9月一家で神戸港から海路上京し、東京府駒込西片町9番地(現在の文京区西片一丁目)丸山屋敷内に移り住んだ。 1882年(明治15年)10月2日彰技堂に入学して本多錦吉郎に洋画・英学を学び、1883年(明治16年)4月5日から1885年(明治18年)12月まで東京英語学校、1886年(明治19年)3月1日から12月まで東京仏語学校にも通った。
佐倉 はなつみ(さくら はなつみ、1月16日 - )は、日本… 佐倉 はなつみ(さくら はなつみ、1月16日 - )は、日本のフリーの原画家、成人向け漫画家。女性。広島県呉市出身、北海道札幌市在住。血液型はO型。 元々同人作家として活動していたが2007年から商業作品も手掛けている。美少女ものを描くきっかけとなったのは、『ときめきメモリアル』とPC・セガサターンのゲームの『下級生』をプレイしたことがきっかけであるとのこと。「はなつみ」と変わった名前になったのは、ネット上で「はな」と名乗る際に「その名前は既に使用されています」となるためで、自分の飼っている猫の名前をくっつけ、「はなつみ」となった。苗字は後に適当につけたとのこと。 (カッコ内)は発売年とブランド名。
井上 球二(いのうえ きゅうじ、1917年(大正6年) - … 井上 球二(いのうえ きゅうじ、1917年(大正6年) - 2010年(平成22年) )は、広島県尾道市出身の著作家、画家。日本作家クラブ常任理事を務めた。「一人一寺心の寺」、「心の寺写仏」を創立。 1939年(昭和14年)、早稲田大学専門部政経科を卒業。大阪商船に入社、海上勤務に5年従事する。1945年(昭和20年)に喀血し、九死に一生を得る。1955年(昭和30年)、絵筆で生計をたてるべく上京、次第に絵に加え、文筆も宗教的に傾く。 1981年6月14日、静岡県三島の臨済宗正眼寺で、既成仏教の僧侶に依存するのではなく、一人一人が心の中に寺を建て、自らが住職の自覚を持つことによって、信念と責任のある信仰をしていこうという運動を始め「一人一寺心の寺」の会(事務局長 望月明)を設立した。