川崎 文治(かわさき ふみはる、1917年6月17日 - 2… 川崎 文治(かわさき ふみはる、1917年6月17日 - 2002年7月30日)は、日本の経営学者。大阪市立大学(現大阪公立大学)名誉教授。元北九州大学(現北九州市立大学)学長。 福岡市生まれ。1942年9月東京商科大学(現・一橋大学)卒業、同年10月三井化学工業(現・三井化学)入社。 1950年3月三井化学工業を退職し、1951年9月より1953年3月にかけて福岡県立修猷館高等学校で講師を務め、その傍ら九州大学大学院に学ぶ。1970年大阪市立大学商学博士。 1953年4月久留米大学商学部助教授、1956年10月長崎大学経済学部教授、1964年4月大阪市立大学商学部教授、1974年4月同商学部長、1976年同名誉教授、1979年4月山口大学経済学部教授、1981年4月北九州大学(現・北九州市立大学)大学院経営学研究科教授を経て、1984年7月北九州大学学長に就任。
野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月3… 野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月30日 - 1970年(昭和45年)2月26日)は福岡県出身の俳人。高浜虚子に師事、「菜殻火」主宰。本名は正男(まさお)。
安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年… 安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年7月18日)は、日本の俳優。本名:阿部 徹(読み同じ)。旧芸名:原 不二雄(はら ふじお)。 日活アクション映画や東映仁侠・ヤクザ映画など数多くの作品で悪役を演じ、戦後日本映画史に残る悪玉役者として知られる。戦前に新興キネマでデビューしており、若手時代は二枚目俳優として活躍した。妻は女優・声優の北原文枝だが入籍はしていない。 1917年(大正6年)3月28日、福岡県宗像郡東郷町(現在の宗像市)に、教師で糟屋郡志免町の青年学校長を務めていた父・大作と母・千代の4人兄弟の四男として生まれる。3人の兄はいずれも戦死している。 上京して府立四中(現在の都立戸山高校)を修了後、東京商科大学予科に進むが、酔っ払って西武線を止めて退学処分となる。
青栁 豊(あおやぎ ゆたか、1917年(大正6年)3月8日 … 青栁 豊(あおやぎ ゆたか、1917年(大正6年)3月8日 - 1942年(昭和17年)6月23日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍中尉。 日本陸軍のエース・パイロット。青栁惣吉(村会議員)の次男として福岡県三池郡高田村(現みやま市高田町)に生まれる。 少年飛行兵として1935年(昭和10年)11月に所沢陸軍飛行学校を卒業し、明野で戦技教育を受け、飛行第11連隊に配属された。 1939年(昭和14年)5月からノモンハン事件に参加。7月25日、不時着した篠原弘道准尉を救出しようと着陸したが、敵戦車の砲撃を受けて機体が炎上、腰に貫通銃創を受けるが、岩瀬孝一曹長に救出された。そしてハルピン陸軍病院に入院したが、停戦前に部隊に復帰。
目加田 さくを(めかだ さくお、女性、1917年(大正6年)… 目加田 さくを(めかだ さくお、女性、1917年(大正6年)2月1日 - 2010年(平成22年)12月20日)は、国文学者。平安時代文学が専門。学位は、文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)(学位論文「物語作家圏の位相及び教養よりみたる物語の形成」)。福岡女子大学名誉教授。勲三等宝冠章受章。 1917年、福岡県大野城市生まれ。旧姓・瀬利。本名・サクヲ。1941年九州帝国大学法文学部国文科を卒業する。 卒業後は九州帝国大学副手、1945年山口女子専門学校教授、福岡県女子専門学校教授、1950年福岡女子大学助教授、教授を務める。1962年「物語作家圏の位相及び教養よりみたる物語の形成」で大阪大学より文学博士の学位を取得。
原田 大六(はらだ だいろく、1917年1月1日 - 198… 原田 大六(はらだ だいろく、1917年1月1日 - 1985年5月27日)は、日本の考古学者。伊都歴史資料館(伊都国歴史博物館の前身)名誉館長。 福岡県糸島郡前原町(現糸島市)に、測量士の父・猪之助、母・ユクの長男として生まれ、大正6年の生まれから「大六」と名付けられる。1931年、福岡県立糸島中学校(現在の福岡県立糸島高等学校)在学中に安河内隆の薫陶を受け、考古学に傾倒し、糸島郡内の遺跡を踏査する。この時に採集した土器や石器が、現在の糸島高等学校博物館の基礎となる。しかし考古学に傾倒したために成績は低かった。中学卒業後に上京して津上製作所に就職し計測器の研摩工に就いたが、1941年に召集され、中国大陸各地を転戦。
孫 権培(ソン・グォンベ、朝鮮語: 손권배/孫權培、1916… 孫 権培(ソン・グォンベ、朝鮮語: 손권배/孫權培、1916年10月6日 - 1990年2月19日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は密陽孫氏(朝鮮語版)。号は民斉(ミンジェ、朝鮮語: 민제/民齊)。 日本統治時代の全羅北道完州郡出身。久留米の明善中学校卒。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として国会議員に当選し、裵恩希の一級参謀を務めたが、裵の失脚後は自由党を離党し民主党に移籍した。他には太白新聞主幹、三南日報社社長、大韓独立促成国民会全羅北道支部宣伝部長、独立闘争委員会全羅北道団団長、大韓青年団全羅北道団団長、国民会全羅北道支部委員長、自由党完州乙区党委員長・全羅北道党副委員長を歴任した。
谷 伍平(たに ごへい、1916年10月1日 - 2007年… 谷 伍平(たに ごへい、1916年10月1日 - 2007年6月20日)は、日本の政治家、官僚。元北九州市長(1967年~1987年)で、福岡県直方市出身。
井上 茂(いのうえ しげる、1916年〈大正5年〉9月26日… 井上 茂(いのうえ しげる、1916年〈大正5年〉9月26日 - 2002年〈平成14年〉5月21日)は、日本の法学者。専門は法哲学。第8代お茶の水女子大学学長。日本法哲学会理事長(1975年11月 - 1979年11月)。 兵庫県に生まれる。1935年福岡県中学修猷館、1938年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1942年9月東京帝国大学法学部法律学科を卒業。その後、3年間兵役に就いた後、1945年11月、東京大学大学院(法理学専攻)に進む。東大では尾高朝雄の最初の門下生であった。 1949年5月、お茶の水女子大学講師となり、その後、同大学にて、1953年5月、助教授、1959年7月、教授(1982年2月まで)、1967年10月、文教育学部長(1969年9月まで)、1976年6月、大学院人間文化研究科長(1979年2月まで)を経て、1979年2月、お茶の水女子大学学長に就任し、1982年2月まで務めている(同月、お茶の水女子大学名誉教授の称号授与)。
大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月2… 大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月20日 - 2014年(平成26年)3月12日)日本の小説家・評論家。本名は同じく「巨人」と書いて「のりと」。マルクス主義の立場を堅持し、唯物論的観点から個人の尊厳を創作で追究した。小説・批評のいずれにおいても、常に主体を明確にした、論理性を重んじる文体を用いた。 戦後、「近代文学」などに小説・評論を発表。戦後文学・思想の方向性を巡る論争で積極的に発言する。1955年から25年間書き継いだ『神聖喜劇』のほか、『五里霧』(1997年)、『迷宮』(2004年)など。 福岡県福岡市出身。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、旧制福岡高等学校卒業、九州帝国大学法文学部中退。
森 三十郎(もり さんじゅうろう、1916年3月19日 - … 森 三十郎(もり さんじゅうろう、1916年3月19日 - 2012年7月2日)は、日本の法学者、福岡大学名誉教授。元法学部長、理事。 福岡県鞍手郡鞍手町出身。第五高等学校を経て、九州帝国大学法学部卒。(宇賀田順三門下、在学中に高等文官試験に合格)。 九大助手、拓務省、大東亜省、外務省勤務、応召して陸軍主計中尉で敗戦を迎え、1948年戸畑専門学校教授(憲法、行政法)に就任。1950年新制八幡大学助教授、教授を歴任後1954年に退任。後鹿児島県立大学、久留米大学助教授。1956年福岡大学教授に就任。1987年、定年退任、名誉教授。 総合国家学研究所のち森国家学研究所を主宰し、天皇制擁護の論陣を張った。
田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 200… 田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 2008年〈平成20年〉3月10日)は、日本陸軍航空隊の戦闘機操縦者(パイロット)。「日本革命菊旗同志会」幹部。晩年に日本文化チャンネル桜設立発起人、設立後顧問。「誇りある日本をつくる会」初代会長。 飛行教官として特攻要員を育成、多くの未来ある若者を死地に送り出した経験から、戦後は一貫して特攻戦死者に対する正しい理解を広めるため活動した。 特攻隊員たちの遺した「あとを頼みます、日本を良い国にして下さい」という言葉に従い、「誇りある日本をつくる会」を設立、また歴史小説の第一人者である山岡荘八の指導を受け、特攻にまつわる著作を刊行した。その際、自身も多くの特攻を見送った経験のある山岡から「特攻は崇高すぎて、私には書けない、君が一生かかっても書くべきだ」と言われた。
赤司 俊雄(あかし としお、1915年(大正4年)8月24日… 赤司 俊雄(あかし としお、1915年(大正4年)8月24日 - 1992年(平成4年)12月26日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 福岡県久留米市出身。1941年に東京帝国大学経済学部を卒業後、三和銀行に入行。1967年5月に取締役に就任し、常務、専務、副頭取を経て、1976年4月に同行が発足して以来、初めての生え抜きとして頭取に就任し、「ピープルズバンク」をモットーに、カードローンや年金型預金商品の開発などにより、銀行の大衆化を進め、金融業界では初めてQC(品質管理)活動を導入した。1982年6月に会長に退く。 その一方で、日本銀行参与、大阪銀行協会会長、全国銀行協会連合会副会長、日本ソフトボール協会会長なども歴任した。
小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年… 小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年11月14日)は、日本の邦楽作曲家、演奏家。 福岡県北九州市に生まれる。雅号は猷山。幼少より邦楽に親しみ、1933年福岡県中学修猷館、1935年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進学。在学中に、島村卿山に尺八、宮城道雄に箏(琴)と三弦(三味線)を学び、1937年からは尺八のパートとして宮城道雄と共演する。1938年3月に東大を卒業後、宮城道雄の養女・よし子と結婚して婿養子となり、宮城衛と改姓。一方で、諸井三郎に作曲を学んでおり、1947年には諸井門下の柴田南雄、入野義朗、團伊玖磨らと新声会を結成し、『絃楽三重奏曲』、『五重奏曲』などを発表している。
池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月… 池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月12日 - 平成11年(1999年)6月25日)は、日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者。九州大学医学部名誉教授。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。甥は臨床心理学者の池見陽。 福岡県糟屋郡粕屋町生まれ。旧制福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)、九州帝国大学医学部卒業。戦後、アメリカの医学が日本に流入した際、心身医学の存在を知る。昭和27年(1952年)にはアメリカミネソタ州のメイヨー・クリニックに留学し、帰国後、日野原重明、三浦岱栄らと共に昭和35年(1960年)日本心身医学会を設立し、初代理事長になる。翌昭和36年(1961年)九州大学に国内最初に設立された精神身体医学研究施設(現在の心療内科に当たる)教授に就任し、内科疾患を中心に、心と体の相関関係に注目した診療方法を体系化、実用化に尽力した。
向坂 正男(さきさか まさお、1915年4月9日 - 198… 向坂 正男(さきさか まさお、1915年4月9日 - 1987年8月3日)は、日本の経済学者。 福岡県大牟田市生まれ。向坂逸郎の弟。1938年東京帝国大学経済学部卒、企画院、満鉄調査部に勤務。戦後、経済企画庁に入り、1962年総合計画局長。1966年日本エネルギー経済研究所を設立、所長となり、その後会長となる。1981年国際エネルギー政策フォーラムを作り議長となる。他に電源開発調整審議会委員、原子力委員会委員、総合エネルギー調査会委員、石炭鉱業審議会委員などを兼任した。
岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 … 岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 - 没年不詳)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練38期。最終階級は少尉。 福岡県福岡市出身。旧制修猷館中学卒業後、海兵団に入団。搭乗員を志し、1937年(昭和12年)3月10日、操縦練習生となる。同期生に坂井三郎(首席)。 同年11月30日、操縦練習生課程を修了し、佐伯海軍航空隊に配属された。その後大村海軍航空隊を経て、昭和13年7月にいよいよ戦線を担う第十二航空隊に配属、中国大陸で任務に就いたものの、空戦の機会にあいまみえることはなかった。 翔鶴飛行機隊に転属して間もなく太平洋戦争開戦を迎え、ハワイ・真珠湾攻撃で母艦直衛任務を実施。
丸山 豊(まるやま ゆたか、1915年3月30日 - 198… 丸山 豊(まるやま ゆたか、1915年3月30日 - 1989年8月8日)は、日本の医師、詩人。現代日本における代表的な詩人の一人。 福岡県八女郡広川町出身。福岡県中学明善校在学中より野田宇太郎らと同人誌「日時計」を発行。1932年第一早稲田高等学院に進学するも中退し、父と同じく医学を志して、1937年九州医学専門学校卒業。 1941年以降、軍医として中国、フィリピン、ビルマを転戦した。復員後の1946年、久留米市にて豊泉会丸山病院を開業。医師として働く傍ら詩作を行う。1947年、安西均、野田宇太郎らと詩誌「母音」を創刊。谷川雁、川崎洋、有田忠郎ら九州の詩人たちが参加した。1966年、福岡県詩人会を設立して代表幹事に就く。
新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、1915年2月13日 -… 新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、1915年2月13日 - 1945年8月1日)は、福岡県出身のプロ野球選手。
春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012… 春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012年)は、日本の国語学者。九州大学名誉教授。 長野県生まれ。春日政治の長男で、親子二代で九州大学国語国文の教授を務めた。旧制福岡県立福岡中学を経て、京都帝国大学文学部国文科卒。1962年「古代国語における存在詞の展開」で九州大学文学博士。福岡経済専門学校教員、福岡商科大学(校名変更、のち福岡大学)助教授、九州大学文学部助教授を経て、教授となる。1978年定年退官、名誉教授、帝京大学文学部教授を務めた。
鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年1… 鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年12月21日)は、日本の教育者。学校法人鶴学園創設者。鶴学園名誉総長。 広島県広島市にて鶴家の四男として出生。父は旧制広陵中学校(現・広陵高等学校)、広島電機高等学校(現・広島国際学院高等学校)の設立に尽力した鶴虎太郎。その後、福岡県に移り、1932年福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。同期に麻生典太がいた。広島県に戻り、芸備日日新聞(後に中国新聞社に吸収)に勤務。南満州鉄道にも勤めた。退職後は広島電機高等学校勤務を経て、広島高等電波学校(現・広島工業大学高等学校)、次いで学校法人鶴学園を創設した。1963年に広島工業大学、旧広島高等学校及び附属中学校(現広島なぎさ中学校・高等学校)デネブ高等学校、広島工業大学専門学校、なぎさ公園小学校等、数多くの学校教育機関の設立に携わった。
福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没… 福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の元大相撲力士。若藤部屋所属。本名は水上 勝美。最高位は十両9枚目。 福岡県宗像郡福間町(現福津市)出身。若藤部屋に入門し、1932年2月「西郷」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「福知海」に改めた。十両で5勝6敗と負け越し、幕下に落ちた。1937年5月に廃業した。
河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - … 河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - 1995年10月30日)は、日本の美術評論家。京都国立近代美術館館長、京都造形芸術大学学長を歴任。佐藤達夫は従兄。 福岡県浮羽郡山春村(現:うきは市)生まれ。福岡県中学明善校、第五高等学校、1938年京都帝国大学文学部哲学科卒。1943年文部省美術研究所に勤務。自身と同じ明善校にも学んだこともある久留米出身の夭逝の洋画家青木繁を研究テーマとし、日本美術史上にその評価を定めた。その後も近代日本美術史の研究を精力的に進め、1952年国立近代美術館事業課長、1963年次長、1969年京都国立近代美術館館長となる。1986年退官、同年秋、勲二等旭日重光章受勲。
角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年(大正3年)12… 角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年(大正3年)12月5日 - 2010年(平成22年)1月1日)は、日本のノンフィクション作家、日本ペンクラブ名誉会員。本名は角田フサ(つのだ ふさ)、旧姓・中村。 東京府生まれ。福岡女学校(現 福岡女学院中学校・高等学校)専攻科卒業後、ソルボンヌ大学へ留学。第二次世界大戦勃発により、ソルボンヌ大学を中退して帰国。戦後、新聞記者の夫の転勤に伴って再度渡仏した。1960年代より執筆活動を開始。精力的な取材と綿密な検証に基づき、日本の近現代史にまつわるノンフィクションを数多く手掛けた。とくに、明治以降の激動の時代を生きた日本人を主な対象に、圧倒的な量の取材と検証に基づいて、歴史の中でのその生きざまを取り上げたノンフィクションが多い。
古田 康治(ふるた やすはる、1914年9月11日 - 20… 古田 康治(ふるた やすはる、1914年9月11日 - 2008年5月8日)は、日本の陸上競技(ハードル・跳躍競技)の選手。1936年ベルリンオリンピックで男子110メートルハードルで出場。 現在の福岡県直方市出身。福岡県立鞍手中学校(現在の福岡県立鞍手高等学校)卒業。八幡製鉄に所属し、1936年ベルリンオリンピックの男子110メートルハードルに出場した。ただし関西大学によれば、関西大学陸上部からオリンピックに出場する「六選手」(大島鎌吉・長尾三郎・谷口睦生・福田時雄・戸上研之・古田康治)の一人として古田を送り出したとある。 第二次世界大戦後初となる1946年の日本陸上競技選手権大会では、三段跳で優勝。
片山 摂三(かたやませつぞう、1914年3月22日 - 20… 片山 摂三(かたやませつぞう、1914年3月22日 - 2005年3月23日)は、日本の写真家である。 1914年(大正3年)3月22日にシベリア(ロシア)・ブラゴヴェシチェンスクで生まれ、福岡県久留米市で育つ。1932年(昭和7年)県立中学明善校卒業、西南学院専門学校を卒業した。家業は福岡市中央区の営業写真館。1929年(昭和4年)、シベリアで父が死去。1932年(昭和7年)、疋田晴久に写真の技術を学び、1935年(昭和10年)、21歳で営業写真を撮影し始める。戦時中、日本写真サロンや日本写真美術展、国際写真サロンなどで入選を続ける。日本写真家協会に加入。専門分野は肖像写真で、1960年(昭和35年)頃から河北倫明の紹介によって、志賀直哉、梅原龍三郎、武者小路実篤、白洲正子、片岡球子、鈴木大拙といった昭和時代の日本を代表する人々の姿を撮影した。
佐藤 晃一(さとう こういち、1914年3月4日 - 196… 佐藤 晃一(さとう こういち、1914年3月4日 - 1967年7月7日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。元東京大学文学部教授。主としてトーマス・マンを研究した。 秋田県出身。旧制福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学独文科卒。その後、兵役に就き、第一高等学校教授、東京大学教養学部助教授から、1948年同大学文学部助教授、1961年教授、1967年主任教授となり日本独文学会理事長となるが、7月7日急逝した。 1942年アドルフ・ヒトラーの『吾が闘争』の翻訳が刊行された際には、木村謹治、相良守峯らとともにこれを絶賛し、戦後口を拭ってマンのナチスへの抵抗を礼賛した(池田浩士『ファシズムと文学』)。
河野 正(かわの ただし、1914年(大正3年)1月1日 -… 河野 正(かわの ただし、1914年(大正3年)1月1日 - 2007年(平成19年)9月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 福岡県出身。1931年(昭和6年)旧制福岡県立福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。九州医専(現久留米大学医学部)卒業。 九州大学解剖学助教授を経て1946年(昭和21年)福岡県篠栗町で診療所開業。1951年(昭和26年)医療法人済世会設立。 福岡県議会議員となった後、1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年) まで左派社会党、同年第27回衆議院議員総選挙に旧福岡1区で初当選。1990年(平成2年)に政界を引退、計8期(22年間)。同年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲五等からの昇叙)。
宮崎 宣久(みやざき のぶひさ、1914年(大正3年) - … 宮崎 宣久(みやざき のぶひさ、1914年(大正3年) - 1992年(平成4年))は、日本の出版人、編集者である。1914年(大正3年)、福岡市博多区須崎の生まれ。1932年(昭和7年)3月、福岡中学卒業。1936年(昭和11年)3月、福岡高等学校文科甲類を卒業。中学・高校時代の同級生には大西巨人がいる。 その後、東京帝国大学経済学部経済科に進学し、在学中は帝大新聞の編集に参画。卒業後は朝日新聞社の記者を務める。 1946年(昭和21年)4月、福岡で三帆書房を設立し、総合文化誌「文化展望」を創刊。編集には宮崎宣久・高田康治・大西巨人・牟田口宗一郎があたった。創刊号には太宰治の「十五年間」が掲載され、他にも織田作之助は「都市展望 大阪」を、坂口安吾は「ぐうたら戦記」、野間宏は「兄弟」などの作品が掲載された。
船越 栄一(ふなこし えいいち、1914年 - 1982年7… 船越 栄一(ふなこし えいいち、1914年 - 1982年7月19日)は、西南学院大学学長。
吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - … 吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - 1990年11月13日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長、会長を務めた。 福岡県築上郡吉富町出身。旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に西日本鉄道の前身である九州電気軌道に入社した。 経理部長、取締役、常務、専務を経て、1970年から社長に就任した。社長在任中は、1973年に九州で初めて高速バス(福岡~熊本間)を運行する一方で、1975年に路面電車の福岡市内線の主な路線を廃止し(全廃は1979年)、1972年に西鉄ライオンズを太平洋クラブに売却し、経営の合理化を進めた。 1981年から福岡商工会議所会頭を務め、国際交流にも力を入れた。
九州山 義雄(きゅうしゅうざん よしお、1913年10月20… 九州山 義雄(きゅうしゅうざん よしお、1913年10月20日 - 1990年5月30日)は、福岡県山田市(現嘉麻市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は大坪 義雄。最高位は西小結。現役時代の体格は身長176cm、体重88kg。 昭和5年(1930年)1月場所で初土俵を踏み、負け越しなしで昭和7年(1932年)5月場所に十両昇進、春秋園事件からの帰還組との対戦でもまれたために十両では時間がかかったが、昭和9年(1934年)1月場所、大正生まれとして初の幕内力士となった。激しく動き回る相撲で相手を撹乱するのが得意であった。昭和13年(1938年)1月場所には小結昇進、その場所大負けはしたものの、横綱玉錦を素首落としで破る殊勲の星を挙げた。
大内田 茂士(おおうちだ しげし、1913年 <大正2年> … 大内田 茂士(おおうちだ しげし、1913年 <大正2年> 9月24日 - 1994年 <平成6年> 2月1日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。位階は正五位。 福岡県朝倉郡大福村(朝倉町を経て、現 朝倉市)出身。1931年、福岡県立朝倉中学校(現 福岡県立朝倉高等学校)卒業。浜哲雄に画家となることを勧められ、高島野十郎らの指導を受ける。23歳で朝倉郡宝珠山小学校代用教員となり、翌年上京して東京新宿絵画研究所で学ぶ。1942年「静物」で国展入選、1943年「隈」が文展入選。1944年応召され、台湾で終戦を迎える。 戦後、父の教え子だった森部隆の後援を受け、1949年に後援会が結成された。示現会の創立に参加し、日展の審査員・評議員も務めた。
入江 徳郎(いりえ とくろう、1913年(大正2年)7月15… 入江 徳郎(いりえ とくろう、1913年(大正2年)7月15日 - 1989年(平成元年)9月5日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター、エッセイスト。朝日新聞社論説委員、JNNニュースコープキャスター。 福岡県遠賀郡芦屋町出身。福岡県立東筑中学校を経て、1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社に入社。 長野支局を振り出しに社会部記者一筋に活躍。ノモンハン事件では従軍記者として死線をさまよい、事件を描いた『ホロンバイルの荒鷲』で記者としての才能を認められ、戦後の著書『泣虫記者』は話題になった。 社会部次長、週刊朝日副編集長などを経て、1961年(昭和36年)に編集委員、63年に論説委員となり、同年5月から70年4月まで朝日新聞の1面コラム「天声人語」を担当した。
牛島 春子(うしじま はるこ、1913年2月25日 - 20… 牛島 春子(うしじま はるこ、1913年2月25日 - 2002年5月29日)は、日本の作家。福岡県久留米市出身。結婚後満州国に渡り、『祝という男』で1941年芥川賞次席。戦後、日本に引き揚げてのち、菅生事件などの作品を書いた。 以下は参考文献(多田、2009年)のpp.231 - 239による。 久留米市本町で洋品店を営む牛島丞太郎・あやめ夫妻の二女として生まれる。1927年、10歳年上の兄の影響を受け、処女作「合歓の花」を書く。1929年、久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)を卒業し、奈良女子高等師範学校を受験したが失敗。1930年、久留米の文芸誌『街路樹』に参加する。1931年に久留米の日本足袋(現在のブリヂストン)に就職。
細川 潤一(ほそかわ じゅんいち、1913年〈大正2年〉1月… 細川 潤一(ほそかわ じゅんいち、1913年〈大正2年〉1月21日 - 1991年〈平成3年〉2月26日)は、日本の作曲家。本名:浅川 正躬。 福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。旧制三潴中学(現・福岡県立三潴高等学校)を卒業後、同郷の先輩である古賀政男に刺激を受け、作曲家を志して上京。独学でギターと作曲を勉強し、1935年(昭和10年)からキングレコード専属作曲家として数々の作品を世に出した。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)9月、召集を受け海軍に入隊。終戦後も作曲家として活動し、三橋美智也の楽曲を多く担当した。1991年(平成3年)2月26日死去。享年78。
大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2… 大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2003年)は、日本の著述家、翻訳家。 旧制福岡県嘉穂中学校卒。1935年に東京外国語学校仏語科卒業、大倉商事に入社。1937年から1944年までパリ支店勤務、次いでベルリン支店に移り、敗戦直前にシベリア経由で帰国。戦後、ロンドン支店長、パリ支店長を経て退職。その間、東京外国語大学講師。フランス文学の翻訳を行った。
岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 19… 岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 1999年2月5日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・堆積岩岩石学。福岡県久留米市生まれ。 1931年旧制福岡高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学理学部地質学科に入学。1935年同卒業。1938年地質調査所(現:産業技術総合研究所)の技師に任官。1942年第一次山西学術調査研究団に参加した。1953年東京大学教養学部地学教室の教授となる。1969年同理学部地質学教室教授に転任し、1973年定年・退職、名誉教授となる。その後、1973~1978年千葉大学理学部教授を務めた。また、日本学術振興会など諸機関の委員を歴任し、戦後の日本の復興に非金属資源開発の面から大いに貢献した。
大井 廣介(おおい ひろすけ、1912年12月16日 - 1… 大井 廣介(おおい ひろすけ、1912年12月16日 - 1976年12月4日)は、日本の文芸評論家、野球評論家。本名、麻生賀一郎。麻生太郎の父親である麻生太賀吉は従兄にあたる。 福岡県出身。旧制嘉穂中学校卒業。早くに父を喪ったため、伯父から庇護を受ける。1930年に東京へ行く。1939年、文芸同人誌『槐』(えんじゅ)を創刊。1940年、同誌の誌名を『現代文学』と改め、平野謙や荒正人、佐々木基一、杉山英樹たちを迎えて文芸時評を執筆。同誌を昭和10年代の代表的な文芸同人誌に育て上げた。 同誌は戦後の『近代文学』の礎となったが、大井は『近代文学』から距離を置き、党派性を批判して自由人を標榜。イデオロギーを排し、ゴシップ的手法によって社会批判をおこなった。
関 嘉彦(せき よしひこ、1912年11月19日 - 200… 関 嘉彦(せき よしひこ、1912年11月19日 - 2006年5月4日)は、社会思想史家。政治家。東京都立大学名誉教授。法学博士(京都大学、1962年)。元参議院議員(1期)。イギリス労働党の日本における紹介者として知られる。福岡県福岡市生まれ。
板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18… 板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18日 - 2005年(平成17年)10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。福岡県小倉市(現、北九州市)出身。 3人兄弟の次男。当初は画家を志していたが、関門海峡を通過する聯合艦隊の美しさに魅せられ、海軍兵学校に志望を変更したという。旧制福岡県立小倉中学校より海軍兵学校の第61期に入校した。卒業席次は116名中7位。少尉候補生時代には問題児として名を馳せ、遠洋航海時には始末書を8枚という記録を作った。一方では、誰もが調査を諦めた訓練時のトラブルの原因を、根気よく調べ続けてついにつきとめるといった功績も残している。 1935年(昭和10年)少尉任官。
淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 1… 淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 10月3日 - 2000年 <平成12年> 4月29日)は、日本の経営者。三井石油化学工業(現・三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 福岡県柳川市出身。1937年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年7月に三井石油化学工業に転じ、1963年5月に取締役に就任し、1966年11月に常務、1971年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。1982年11月に会長に就任し、1985年6月に相談役を経て、1987年6月に再び会長に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章。
秀村 欣二(ひでむら きんじ、1912年6月19日 - 19… 秀村 欣二(ひでむら きんじ、1912年6月19日 - 1997年4月8日)は、日本の西洋史学者(古代ローマ史)。東京大学教養学部名誉教授。 1912年、福岡県福岡市で生まれた。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高校)、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科に進学。1936年に同大学を卒業。 東京大学教養学部教授。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は青山学院大学文学部教授として教鞭を執り、1984年に退職した。
大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 19… 大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる。1931年の日米野球で全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、ラリー・フレンチ投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが、大岡自身先発登板し、アル・シモンズやミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。 1935年に東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志、湯浅禎夫、野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。
椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1… 椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1986年12月29日)は、日本の経営者。北海道ガス社長を務めた。福岡県柳川市出身。 1939年に東北帝国大学工学部応用学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。後に北海道ガスに転じ、1974年12月から1976年6月まで社長を務めた。 1986年12月29日心不全のため死去した。74歳没。
阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13… 阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉1月16日)は、日本の政治家。参議院議員(5期、日本社会党)。参議院副議長。位階は正三位。 福岡県大牟田市出身。海軍横須賀通信学校卒。三井三池炭鉱に就職し、戦後大牟田市議を経て1949年に三井三池労組の初代組合長に就任。1953年、参院選に全国区から社会党公認で立候補し当選する。党参議院国対委員長を歴任し、三井三池争議では社会党の一員として調停役に回った。1965年の参院選で落選、1967年には熊本県知事選にも立候補するが落選し、翌1968年の参院選で国政に返り咲いた。 1978年、飛鳥田一雄委員長の下で下平正一、北山愛郎らと共に党中央執行副委員長に就き、1980年の衆参同日選後は党参議院議員会長に就任。
福田 久男(ふくだ ひさお、1912年3月1日 - 1998… 福田 久男(ふくだ ひさお、1912年3月1日 - 1998年5月9日)は、日本の経営者。中央信託銀行社長を務めた。福岡県築上郡吉富町出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1962年5月に中央信託銀行専務に就任し、1968年11月に副社長を経て、1970年12月に社長に就任。1979年12月に会長に就任し、1983年12月に取締役相談役を経て、1987年3月には相談役に就任。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1998年5月9日に急性腎不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
塚本 倉人(つかもと くらと、1912年〈明治45年〉2月1… 塚本 倉人(つかもと くらと、1912年〈明治45年〉2月10日 - 2001年〈平成13年〉5月11日)は、日本の実業家。政治家。元福岡県甘木市(現・朝倉市)長(5期)。位階は正五位。 福岡県出身。1930年(昭和5年)、甘木町立実業専修学校(現・福岡県立朝倉高等学校)卒。精米業を営み、後に合名会社化し、塚本食糧工業所を興す。1955年(昭和30年)に甘木市議会議員に初当選した。1963年(昭和38年)5月7日から1964年(昭和39年)10月8日まで、第6代市議会議長を務めた。同年、甘木市長に当選する。同年11月から1972年(昭和47年)11月まで2期務めた。 1976年(昭和51年)の甘木市長選挙に立候補して、保守系無所属の新人を破って返り咲きを果たした。
藤田 進(、1912年〈明治45年〉1月8日 - 1990年… 藤田 進(、1912年〈明治45年〉1月8日 - 1990年〈平成2年〉3月23日)は、日本の俳優である。 昭和期において、黒澤明監督作品の主演を多数務めるなど、日本映画界の大スターの一人であった。戦時中は戦意高揚映画に、戦後も戦争映画に多く出演した。 1912年(明治45年)1月8日、福岡県久留米市京町に生れる。 1929年(昭和4年)に南筑中学校(現・久留米市立南筑高等学校)を卒業後上京し大学を受験するも失敗、帰途京都に立ち寄り、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で古海卓二の助監督を務めていた郷里の先輩を訪ねた際、俳優になるよう勧められる。 1930年(昭和5年)これが縁となって、右太プロに入り、エキストラとして出演する。
名和 弓雄(なわ ゆみお、1912年(明治45年)1月3日 … 名和 弓雄(なわ ゆみお、1912年(明治45年)1月3日 - 2006年(平成18年)9月1日、94歳没)は、日本の時代考証家、武術家(正木流万力鎖術第10代宗家、江戸町方十手捕縄扱様宗家)、舞踊家。 福岡県北九州市生まれ。武蔵野音楽大学卒。先祖は美濃大垣藩の与力を務めたという。時代劇の時代考証、武術指導を行った。捕り物道具を収集し、その捕り物道具コレクションは現在、明治大学博物館に収蔵されている。 杉良太郎など、史実に近い小道具を好む時代劇俳優に信頼されており、新五捕物帳、同心暁蘭之介などの時代考証では、従来の時代劇に使われていた小道具とは違う史実に基づいた小道具を提供した。そのため、従来の時代劇視聴者から、御用提灯のデザインがおかしいと苦情を受けたが、名和はその苦情に対し、史実を交えてきちんと説明し、視聴者を納得させた。