坂井 英隆(さかい ひでたか、1980年〈昭和55年〉5月7… 坂井 英隆(さかい ひでたか、1980年〈昭和55年〉5月7日 - )は、日本の政治家、弁護士、国土交通官僚。佐賀県佐賀市長(2期)。父は衆議院議員を務めた坂井隆憲。 佐賀県佐賀市生まれ。佐賀大学教育学部附属小学校、弘学館中学校・高等学校、東京大学法学部。2004年、慶應義塾大学法科大学院に入学、2006年に修了し、法務博士号を取得した。2008年、司法試験に合格し、弁護士登録の後、東京都内の法律事務所に勤務した。2014年、国土交通省に入省し、大臣官房や自動車局、鉄道局、水管理・国土保全局にて勤務した。 2021年、国土交通省を退官し、10月投開票の佐賀市長選挙に出馬する意向を表明した。8月には自由民主党佐賀県支部連合会が坂井の推薦を決定したが、県連内には別の候補を推す声もあり、自民党所属の佐賀市議会議員の半数は、連合佐賀が推薦し、市長選に出馬せず引退する意向を表明した秀島敏行が支持、立憲民主党佐賀県連が支援する、元・佐賀市地域振興部長の古賀臣介の支援に回った。
安藤 高明(あんどう たかあき、1972年〈昭和47年〉3月… 安藤 高明(あんどう たかあき、1972年〈昭和47年〉3月27日 - )は、日本の郵政・総務官僚。 佐賀県佐賀市出身。佐賀県立佐賀西高等学校を経て、九州大学法学部を卒業。1994年(平成6年)、郵政省に入省。入省後、総務省大臣官房総務課課長補佐、内閣官房郵政民営化推進室企画官、総合通信基盤局電気通信技術システム課安全・信頼性対策室長、情報公開・個人情報保護審査会事務局審査官、政治資金適正化委員会事務局参事官、国際戦略局国際展開課長などを歴任。電気通信ネットワークの安全性・信頼性の確保などに携わった。 2022年(令和4年)3月31日、郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構総務部長に就任。
重松 弘教(しげまつ ひろのり、1968年〈昭和43年〉10… 重松 弘教(しげまつ ひろのり、1968年〈昭和43年〉10月23日- )は、日本の警察官僚。第40代警察庁刑事局長。 佐賀県江北町出身。青雲中学校・高校を経て、1993年 (平成5年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、警察庁に入庁。 刑事畑が長く、入庁後、京都府警察本部刑事部捜査第二課長、千葉県警察本部刑事部捜査第二課長、警視庁刑事部捜査第二課長、警察庁刑事局捜査第二課長などを歴任。 2018年9月14日、青森県警察本部長に就任。在任中、生活安全部に少年女性安全課を新設することなどに取り組んだ。 その後、警察庁刑事局刑事企画課長、警察庁長官官房会計課長、警視庁刑事部長を歴任。警視庁刑事部長在任中、いわゆる「ルフィ事件」の捜査を指揮した。
廣瀬 律子(ひろせ りつこ、1967年11月22日- )は… 廣瀬 律子(ひろせ りつこ、1967年11月22日- )は、日本の防衛官僚。防衛省人事教育局長。 佐賀県佐賀市出身。佐賀県立佐賀西高校を経て、九州大学法学部を卒業後、1990年 (平成2年)、防衛庁に入庁 (国家Ⅰ種の女性として2人目)。 民間企業で利益を追求するよりも国家レベルの長期的な観点に立って仕事をしたいと思い、国家公務員を志望したという。 入庁後、防衛庁長官官房秘書課部員、大蔵省大臣官房調査企画課課長補佐、防衛庁人事教育局人事第2課企画班長、防衛庁管理局人事教育局教育課総括班長、防衛省大臣官房秘書課部員 (小池百合子防衛大臣秘書官事務取扱)、防衛省人事教育局人事計画・補任課男女共同参画推進企画室長 (初代)、防衛省防衛大学校教授などを歴任。
松尾 浩則(まつお ひろのり、1965年〈昭和40年〉12月… 松尾 浩則(まつお ひろのり、1965年〈昭和40年〉12月28日 - )は、日本の農林水産官僚。 1965年(昭和40年)12月28日、佐賀県佐賀郡東与賀町(現・佐賀市)に出生。実家は専業農家で、実兄は松尾の母校である佐賀県立佐賀西高等学校の校長を務めた。 佐賀県立佐賀西高等学校を経て、1989年(平成元年)3月、京都大学農学部農林経済学科を卒業。「家業に関係のある仕事に就き、農業に貢献したい」との考えから農水省を志望。「国家公務員試験I種・農業経済」に合格し、同年4月、農林水産省に入省。入省後、生産局農産部農産企画課長、農林水産省大臣官房参事官、政策統括官付参事官、農林水産省大臣官房地方課長、同審議官などを歴任。
中村 博治(なかむら ひろじ、1964年〈昭和39年〉7月2… 中村 博治(なかむら ひろじ、1964年〈昭和39年〉7月20日 - )は、日本の厚生・厚生労働官僚。 佐賀県鳥栖市出身。福岡大学附属大濠高等学校を経て、1988年(昭和63年)3月に京都大学法学部を卒業。国家公務員採用Ⅰ種試験(法律)に合格し、同年4月に厚生省入省。 年金局企業年金国民年金基金課長、同局事業管理課長、保険局国民健康保険課長、医政局総務課長、大臣官房会計課長などを歴任し、内閣府や内閣官房にも出向した。 2022年(令和4年)6月28日、厚生労働省政策統括官に就任。 2023年(令和5年)7月4日、内閣官房内閣審議官=新型コロナウイルス等感染症対策推進室長に就任。 同年(令和6年)9月1日、内閣感染症危機管理統括庁の設置に伴い、同庁感染症危機管理統括審議官に就任
北村 信(きたむら まこと、1960年11月10日 - )は… 北村 信(きたむら まこと、1960年11月10日 - )は日本の財務官僚。内閣府沖縄振興局長、関東財務局長などを歴任。 佐賀県武雄市出身。佐賀県立武雄高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。早大政経学部在学中に国家上級甲種試験(行政)に合格。1984年4月 大蔵省入省(主計局総務課)。1985年 主計局主計企画官付(調整)。1988年7月 理財局資金第一課企画係長。1989年7月 瀬戸税務署長。1990年7月 銀行局総務課金融市場室課長補佐(金融市場)。その後の課長補佐時代は防衛庁防衛局計画課員、主計局総務課長補佐(歳入・国債係主査)、主計局主計官補佐(公共事業第二係主査)、主計局主計官補佐(地方財政第一、二係主査)、主計局主計官補佐(公共事業総括、公共事業第一、二係主査)、大臣官房調査企画課長補佐(総括)などを務める。
木下 敏之(きのした としゆき、1960年〈昭和35年〉2月… 木下 敏之(きのした としゆき、1960年〈昭和35年〉2月12日 - )は、日本の政治家、農林水産官僚。参政党所属の衆議院議員(1期)。 東京大学法学部卒業。佐賀市長を2期務め、福岡大学経済学部産業経済学科教授などを歴任した。2025年3月に福岡大学を定年退職し、現在は同大学の非常勤講師として「九州経済論」と「情報社会と経済」を担当している。 佐賀市生まれ。母方の叔父2人が陸軍少佐(日華事変で戦死)と学徒動員(ミャンマーで戦死)で、父も陸軍士官学校の軍人だった。 佐賀大学教育学部附属小学校、ラ・サール中学校・高等学校、東京大学法学部第2類(公法コース)卒業。1984年(昭和59年)、農林水産省に入省した。
蒲原 基道(かもはら もとみち、1959年11月30日 - … 蒲原 基道(かもはら もとみち、1959年11月30日 - )は、日本の厚生労働官僚。厚生労働省大臣官房長、厚生労働省老健局長、厚生労働事務次官等を歴任し、退官後社会福祉法人友愛十字会理事長等に就任。 佐賀県佐賀市出身。ラ・サール中学校・高等学校を経て、1982年東京大学法学部卒業、厚生省入省。年金局企画課課長補佐、外務省在中華人民共和国日本国大使館一等書記官、大臣官房人事課課長補佐等を歴任。1998年厚生大臣秘書官事務取扱。1999年厚生省大臣官房政策課企画官。2002年厚生労働省労働基準局勤労者生活部勤労者生活課長。2005年文部科学省初等中等教育局幼児教育課長。2006年厚生労働省社会・援護局障害者保健福祉部障害福祉課長。
古川 康(ふるかわ やすし、1958年〈昭和33年〉7月15… 古川 康(ふるかわ やすし、1958年〈昭和33年〉7月15日 - )は、日本の政治家、自治・総務官僚。自由民主党所属の衆議院議員(5期)、衆議院総務委員長、自由民主党佐賀県支部連合会長。 佐賀県知事(第55・56・57代)、総務大臣政務官、国土交通大臣政務官、国土交通副大臣を歴任。息子は衆議院議員の古川あおいである。 佐賀県唐津市生まれ。佐賀大学教育学部附属中学校、ラ・サール高等学校、東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。1982年、自治省(現・総務省)に入省。本省勤務の他、長野県や沖縄県、岡山県、長崎県に出向する。1997年9月、第2次橋本改造内閣で自治大臣に任命された上杉光弘の秘書官を務める。
松田 一也(まつだ かずや、1957年5月9日 - )は、日… 松田 一也(まつだ かずや、1957年5月9日 - )は、日本の政治家、経産官僚。佐賀県基山町長(3期)。 佐賀県基山町出身。佐賀県立鳥栖高等学校、九州大学経済学部卒業。1981年4月、通商産業省に入庁。福岡通商産業局に配属される。 2003年(平成15年3月)、文部科学省に出向。九州大学大学院工学研究院助教授に就任。2014年(平成26年)4月、基山町副町長に就任。 2016年(平成28年)2月2日公示、2月7日執行の基山町長選挙に立候補し、無投票で初当選。2月20日、町長に就任。 2020年(令和2年)、前町議の久保山義明を破り再選。
筑紫 勝麿(ちくし かつまろ、1947年(昭和22年)1月3… 筑紫 勝麿(ちくし かつまろ、1947年(昭和22年)1月31日 - )は、日本の大蔵官僚。元財務省造幣局長。
樋口 久俊(ひぐち ひさとし、1946年〈昭和21年〉2月1… 樋口 久俊(ひぐち ひさとし、1946年〈昭和21年〉2月12日 - )は、日本の政治家、農林水産官僚。元佐賀県鹿島市長(3期)。 佐賀県鹿島市出身。1964年(昭和39年)3月、佐賀県立鹿島高等学校卒業。1969年(昭和44年)6月、東京大学法学部(私法)卒業。そのまま学士入学し、1970年(昭和45年)3月、東京大学法学部(公法)卒業。同年4月、農林水産省に入省。2001年(平成13年)1月、退官。2002年(平成14年)4月から2004年(平成16年)3月まで神田外語大学の客員教授を務めた。 2003年(平成15年)4月13日に行われた佐賀県知事選挙に出馬し落選。 2010年(平成22年)4月11日公示、4月18日投票の鹿島市長選挙で無投票で初当選。
貝原 俊民(かいはら としたみ、1933年8月24日 - 2… 貝原 俊民(かいはら としたみ、1933年8月24日 - 2014年11月13日)は、日本の自治官僚、政治家。位階は従三位。第5代兵庫県知事(在任:1986年11月24日 - 2001年7月31日、4期)。 佐賀県武雄市に生まれる。佐賀県立武雄高等学校、東京都立北園高等学校を経て、東京大学法学部卒業後に旧自治省へ入省。1970年、兵庫県に総務部地方課長として出向して財政課長、農林部長、総務部長などを歴任、1980年から副知事を務める。1986年には知事となり4期15年を務めたが、任期を1年残した2001年に、辞任した。防災士を育成する特定非営利活動法人日本防災士機構会長を経て同機構顧問に就任。 2007年4月29日の春の叙勲で、旭日大綬章を受章する。
宮島 剛(みやじま たけし、1925年〈大正14年〉9月19… 宮島 剛(みやじま たけし、1925年〈大正14年〉9月19日 - 2006年〈平成18年〉4月3日)は、日本の厚生官僚、政治家。佐賀県佐賀市長(2期)。 佐賀県佐賀市出身。1949年(昭和24年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年厚生省に入省し、薬務局長、官房長などを歴任する。1976年(昭和51年)に退官。退官後は親類が経営する会社に勤めた。 1979年の佐賀市長選挙に立候補して当選、2期務める。2期目が満了に近づいた1986年暮れ、病に倒れ市長を辞任した。翌1987年船員保険会会長に就任した。その後、日本血液製剤協会理事長を務めた。2006年4月3日入院先の東京都港区の病院で死去。
川原 英之(かわはら ひでゆき、1917年(大正6年)3月2… 川原 英之(かわはら ひでゆき、1917年(大正6年)3月21日 - 1966年(昭和41年)2月27日)は、日本の通産官僚。通商産業省大臣官房官房長。佐賀県唐津市出身。 城山三郎著『官僚たちの夏』の鮎川のモデル。合理的官僚像のモデルの片山(山下英明)と比較対照され、佐橋滋らの猛進型官僚のモデルの一人として描かれた。他に佐高信著『官僚たちの志と死』の「通産省の殉職者」の章にて、田辺俊彦と共に川原の死期が描かれている。
牛丸 義留(うしまる よしと、1915年10月5日 - 没年… 牛丸 義留(うしまる よしと、1915年10月5日 - 没年不明)は、日本の厚生官僚。厚生事務次官を歴任。 佐賀県多久市出身。旧制小城中、旧制佐賀高校文科甲類を経て1939年東京帝国大学法学部政治学科卒。 内務省に入り、1948年厚生省に移る。薬事局長、社会局長を経て、1965年厚生事務次官に就任。退官後、1968年の参院選で佐賀県から無所属で出馬したが、落選した。その後、年金福祉事業団理事長を経て、1979年の佐賀県知事選に出馬したが落選した。その間、済生会中央病院の事務局長等顕職あったが2000年代から地元佐賀にて隠遁。その後体調悪化と共に子供の住む神奈川県真鶴町に転居。その後死去。 靖国神社へのA級戦犯の合祀に関し、厚生省援護局が1966年にA級戦犯の名簿を靖国神社に送ったことについて、当時厚生事務次官だった牛丸は「知らなかった」と証言している。
宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月… 宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 佐賀県小城郡小城町(現小城市)に生まれる。1917年(大正6年)5月に渡台し、小中学を経て1927年(昭和2年)3月、早稲田大学付属早稲田第二高等学院を卒業し、1933年(昭和8年)10月、高等試験行政科に合格した。同月、鉄道部監督課勤務となり、台湾総督府交通局書記を拝命する。1937年(昭和12年)9月、台中州彰化市助役に就任し、1938年(昭和13年)8月、新竹州中壢郡守に転じた。のち地方警視、台北州警務部保安課長、交通局参事、鉄道部経理課長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政官に任じた。
館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1… 館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1月25日 - 1976年10月22日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。 佐賀県副知事、衆議院議員(4期)、三愛石油株式会社社長(第2代)、株式会社リコー社長(第2代)などを歴任した。 内務省に入省し要職を歴任するも、太平洋戦争後は公職追放となる。第25回衆議院議員総選挙で当選を果たし、以降2回の落選を挟みながら4期務めた。第31回衆議院議員総選挙にて3度目の落選となる。以降はリコー三愛グループの事業に携わり、三愛石油の副社長を経て社長に就任し、のちにリコーの社長も務めた。 佐賀県西松浦郡有田町出身。第五高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。
松岡 平市(まつおか へいいち、1901年 (明治34年)5… 松岡 平市(まつおか へいいち、1901年 (明治34年)5月21日 - 1980年(昭和55年)3月25日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 佐賀県東松浦郡相知村(現唐津市)で松岡久左衛門の三男として生まれ、松岡廉太郎の養子となる。佐賀県立唐津中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学へ進む。上杉慎吉の指導を受け、1925年2月、七生社の結成に参画。1924年11月、高等試験行政科試験に合格し、1925年3月、東京帝大法学部法律学科(英法)を卒業。同年4月、内務省に入省し、東京市事務員として庶務課に配属された。同年10月、警視庁に転じ同属兼警部として保安部工場課に配属。
石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10… 石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10日 - 1950年(昭和25年)10月10日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北市尹、台南州知事。旧姓は加藤。 加藤十四郎の四男として佐賀県佐賀郡高木瀬村(現・佐賀市)に生まれ、石井力三郎の養子となる。県立中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。翌年、高等文官試験行政科試験に合格し、台湾総督府に出仕する。 1922年(大正11年)5月に高雄州勧業課長、1924年(大正13年)12月に台中州教育課長、1927年(昭和2年)7月に台南州警務部長、1929年(昭和4年)12月に同府警務局衛生課長、1931年(昭和6年)5月に台南州内務部長、1932年(昭和7年)4月に同府内務局地方課長兼地理課長を経て、1936年(昭和11年)10月、台北市尹に就任した。
梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月2… 梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月25日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北州知事。衆議院議員。 梁井幾太郎の二男として佐賀県三養基郡基山村大字長野(現・基山町大字長野)に生まれる。旧制佐賀中学校、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)10月、高等試験に合格し、1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 卒業後、内務省に出仕し土木局属となり、熊本県葦北郡長、新潟県警察部保安課長、同県内務部商工課長、広島県内務部農務課長、徳島県学務部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、長崎県経済部長、拓務局総務課長を経て、1939年(昭和14年)11月に台湾総督府文教局長、ついで1942年(昭和17年)7月に台北州知事に就任した。
大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日… 大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市長。 佐賀県佐賀市寺町(現・佐賀市唐人)に生まれる。1914年(大正3年)3月に佐賀県立佐賀中学校を卒業後に渡台し、新竹庁財務課に奉職。 ついで新竹州官房税務課、桃園税務出張所州税係長、台北州税務課州税係長、府財務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月に地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に就任した。のち1939年(昭和14年)7月、台中州大甲郡守を経て、1941年(昭和16年)1月に彰化市長に就任した。
相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12… 相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事。大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。 佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。農業・相川定蔵の二男として生まれた。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独)卒業。 同年、内務省入省。千葉県属1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。
陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12… 陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 佐賀県神埼郡蓮池村(現在の佐賀市)出身。1921年(大正10年)に朝鮮に渡り、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格した。京畿道警視、理事官・江原道学務課長、慶尚南道学務課長、忠清北道地方課長、事務官・平安北道財務部長を経て、1931年(昭和6年)、馬山府尹に就任した。 その後、全州専売支局長、京城地方専売局長、咸鏡南道産業部長、張家口朝鮮総督府出張所長、朝鮮総督府鉄道局理事を歴任した。 退官後、華北煙草株式会社取締役を務めた。
原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日… 原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は官僚、政治家。第12代神戸市長。工学博士、参議院議員。
吉田 駛馬(よしだ はやま、1885年〈明治18年〉10月2… 吉田 駛馬(よしだ はやま、1885年〈明治18年〉10月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。新竹市尹。 吉田兼徳の二男として、佐賀県藤津郡山浦村(能古見村を経て現鹿島市)に生まれる。のち本籍を東京市赤坂区に置いた。1912年(大正元年)渡台し、同年9月、台中庁庶課にて勤務する。松岡拓殖合資会社庶務課長、新竹製糖庶務課長を経て、台中州属兼台中州郡属に任じ豊原郡に勤務し、台中州内務部地方課勤務、豊原郡庶務課長、大屯郡庶務課長、大屯郡守代理、台中州内務部地方課地方係長兼庶務課長を歴任し、1932年(昭和7年)4月、台北州文山郡守に就任した。 1935年(昭和10年)9月、新竹州中壢郡守に転じ、1937年(昭和12年)8月16日、新竹市尹に就任した。
副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月… 副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月15日 - 1954年(昭和29年)2月15日)は、日本の明治期から昭和期の官僚。幣原内閣の農林大臣や関東証券の社長を務めた。位階および勲等は従三位、勲二等。 佐賀中学校(旧制)から郁文館中学校に転校。第一高等学校に進学し、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学を卒業した。 農商務省に入省し、農政課長、食糧局長、製鉄所次長、鉱山局長を歴任した。1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省商務局長に就任し、関税率改正準備委員会臨時港湾調査会、国産振興委員会委員、関税常設委員会、損害保険制度調査委員会、不当廉売審査委員会などの委員を務めた。
野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年1… 野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年10月1日) - 昭和15年(1940年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。秋田市長や佐賀市長を務めた。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)に小城藩剣道師範波多野信倚の子として生まれ、家老野口雲斎の養子となった。1880年(明治13年)に任官して、佐賀県警部、同警察署長、三重県警察署長などを務めた。さらに1899年(明治32年)から小城郡長、大分県警察部長、佐賀県警察部長、秋田県警察部長を歴任した。 1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて秋田市長を務め、その後、1912年(明治45年)から1931年(昭和6年)まで佐賀市長を5期務めた。
有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5… 坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5年1月2日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国佐賀郡新郷村(佐賀県佐賀郡北川副村新郷を経て現佐賀市)で、佐賀藩士・坂元敬之進の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだ。その後、木原隆忠の木原塾に入り塾長を務めた。 1876年(明治9年)長崎県15等出仕となり、1887年(明治20年)文部属に転じ、その後退官した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 その後、実業界に転じ、1912年(明治45年)佐賀米穀取引所理事に就任した。
永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年… 永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年10月15日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・愛野。 肥前国藤津郡、のちの佐賀県藤津郡南鹿島村(鹿島町を経て現鹿島市)で、鹿島藩士の愛野家に生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永田佐次郎と共に副島の警護に当たった。1877年(明治10年)東京の同人社を卒業した。 勧農局雇となり、その後、内務省取調局御用掛を務めた。1879年(明治12年)旧藩主鍋島直彬が沖縄県令として赴任した際に従い、沖縄県属となる。
波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永… 波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永3年10月10日〉- 1922年〈大正11年〉8月29日)は、明治・大正時代の官僚・政治家。司法大臣・宮内大臣などを歴任した。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等子爵。 1850年(嘉永3年)10月、肥前国小城郡牛津(現:佐賀県小城市)に小城藩士横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。小城藩校興譲館、熊本の木下塾、大学南校でドイツ語などに学び、1873年(明治6年)、江藤新平が司法卿を務めた司法省に出仕。十二等判事に任じられた。 1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、司法総務長官などを歴任した。
五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永… 五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永2年11月25日)- 1905年(明治38年)7月8日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の官僚・政治家。衆議院議員。旧姓・佐々木、名・達之助。 肥前国杵島郡武雄(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣・佐々木家に生まれ、五十村平左エ門の養子となる。漢学を修めた。 明治5年1月(1872年2-3月)石鉄県十三等出仕となり、以後、司法省十二等出仕、司法少解部、判事・高知裁判所徳島支庁在勤、脇町区裁判所長、熊本県警部兼属、熊本警察署長兼監獄署長、山梨県収税長、愛媛県収税長、大分県参事官などを歴任。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙おいて佐賀県第三区から出馬して二位景暢と選挙戦を戦い当選し、衆議院議員を一期務めた。
山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天… 山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天保10年5月11日〈1839年6月21日〉 - 1894年〈明治27年〉6月12日)は、日本の士族(佐賀藩士)、官僚、政治家。父は山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)、範造、範三、繁蔵。 「尚芳」の読みは「なおよし」とされることが一般だった。しかし、当時の官僚たちの履歴資料が『勅奏任官履歴原書』(国立公文書館所属)として1995年に刊行され、そこに載っていた読みが「ますか」であった。同資料は掲載された人々自身の閲読を経ていることから信頼性は高く、「ますか」の読みが併記されることが増えている。 幼少のころから佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に将来性を見込まれ、佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の命令により、他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、オランダ語や英語を学んだ。
鶴田 皓(つるた あきら、天保6年12月26日(1836年2… 鶴田 皓(つるた あきら、天保6年12月26日(1836年2月12日) – 明治21年(1888年)4月15日)は、明治時代の法制官僚。元老院議官。字は玄縞、通称は弥太郎、号は斗南。佐賀藩多久邑出身。父は多久家家臣鶴田斌。東京帝国大学法学部講師。明治法律学校名誉校員。諸法典編纂に参加。正三位勲二等。実業家・炭鉱技術者の高取伊好は弟。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3… 江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議を歴任したが、明治六年政変で下野。佐賀の乱の首謀者として処刑された。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。
大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年… 大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年3月23日〉- 1899年〈明治32年〉9月26日)は、明治期の日本の官僚、政治家。通称を幡六[要説明]、民平[要説明]。 栄典は正二位勲一等伯爵。 肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。出身家の詳細については大木家を参照。 藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。