大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月… 大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月5日 - 2018年〈平成30年〉3月29日)は、日本の外交官、外務省官僚。駐米大使、駐豪大使、世界平和研究所理事長などの重職を歴任した。位階は正三位。勲一等瑞宝章、紺綬褒章受章者。 群馬県安中市中宿に生まれる。埼玉県立浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)、台中州立台中第二中学校[要出典]、第一高等学校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。 1942年(昭和17年)に外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。第8根拠地隊司令部付兼ラバウル民政部庶務主任となる。
人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)… 人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)7月10日 - 2008年(平成20年))は、日本の外交官、翻訳家。 昭和16年(1941年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年外務省に入省。 1953年ユネスコ臨時総会政府代表団、1955年ハンブルク領事、1958年在スイス大使館一等書記官、1960年法務省入国管理局資格審査課長、1962年外務省移住局振興課長、1965年在ケニア大使館参事官、在アイルランド大使館参事官などを経て、1968年ボンベイ総領事。 その後、駐コスタリカ・グアテマラ・フィンランド特命全権大使などを歴任。日本翻訳家協会・日本翻訳文化賞記念会会長。仏教徒。
内田 宏(うちだ ひろし、1918年(大正7年)2月23日 … 内田 宏(うちだ ひろし、1918年(大正7年)2月23日 - 2014年(平成26年)8月25日)は日本の外交官。駐フランス大使などを歴任。山梨県出身。 同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、吉野文六(駐独大使)、奈良靖彦(駐加大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。
須之部 量三(すのべ りょうぞう、1918年2月15日 - … 須之部 量三(すのべ りょうぞう、1918年2月15日 - 2006年2月14日)は、日本の外交官・外務事務次官・杏林大学名誉教授。東京府出身。 旧制浦和中学(浦和高校)、旧制静岡高校文科甲類(静岡大学)を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1941年12月、外務省に入省。1950年ガリオア基金にて米国留学。経済局第四課長(イギリス連邦担当)、1955年在連合王国大使館一等書記官、1958年大臣官房人事課長、1961年条約局外務参事官、1964年在ソ連大使館参事官、1966年駐米公使、1968年外務省アジア局長。駐オランダ大使、駐インドネシア大使、駐韓国大使を経て、1981年に外務事務次官に就任した。
須磨 未千秋(すま みちあき、1918年1月25日 - 20… 須磨 未千秋(すま みちあき、1918年1月25日 - 2008年8月21日)は、日本の外交官。外務省経済局次長、駐タンザニア特命全権大使、香港総領事、駐マレーシア特命全権大使、駐カナダ特命全権大使を歴任した。 秋田県出身。1939年第一高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部政治学科入学。1941年に高等試験外交科本試験に合格。同年大学を卒業し、外務省に入省した。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 終戦連絡中央事務局連絡官、在ビルマ日本国大使館一等書記官等を経て、1957年外務省アジア局第三課長。
山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1… 山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1992年3月21日)は、日本の外交官。 山下はブルガリア人民共和国特命全権大使時代に当地で1970年バレーボール世界選手権が開催された際、その大会で銅メダルを獲得したバレーボール日本男子代表を応援のために夫人と共に試合を観戦した。その試合で日本チームの選手たちがサインプレーの暗号として「おにぎり」という言葉を使っていたのを耳にし、後日、「試合中に『おにぎり』を盛んに言っていたから、おにぎりが食べたいのだろう」と思って日本男子代表チームにおにぎりを差し入れたという。
大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10… 大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10日 - 1994年〈平成6年〉1月28日)は、日本の外交官。 ブラジル、サウジアラビア、ポルトガル駐箚特命全権大使を務めた。 サンパウロ総領事在任中の1970年3月11日に、都市ゲリラによる誘拐事件で日本人外交官初めての人質となった。4日後の3月15日に無事解放された。 1917年(大正6年)愛知県豊橋市で政治家・大口喜六の4男として生まれる。1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月、主計大尉に進み終戦を迎えた。
鶴見 清彦(つるみ きよひこ 1917年3月11日 - 19… 鶴見 清彦(つるみ きよひこ 1917年3月11日 - 1976年11月17日)は、日本の官僚、外交官。 1940年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省へ入省。外務省在外研究員としてアメリカ合衆国に渡るも、1941年に日米関係が悪化。同年11月に引き揚げ船として派遣された氷川丸に乗船して帰国した。1942年からタイ国に勤務し終戦を迎える。戦後は終戦連絡中央事務局に勤務し、1951年に在ワシントン在外事務所勤務。1953年に外務省アジア局五課長、1955年にジャカルタ領事となる。1951年、バンドン会議に出席。 その後は駐米公使、外務省経済局次長、外務省経済局長、経済協力開発機構日本代表部大使、外務審議官などを務めた。
新関 欽哉(にいぜき きんや、1916年 <大正5年> 1月… 新関 欽哉(にいぜき きんや、1916年 <大正5年> 1月4日 - 2003年 <平成15年> 8月11日)は、日本の外交官。印章の研究者でもあった。位階は正三位。 東京都出身。武蔵高等学校を卒業後、1938年東京大学法学部政治学科卒業。 外務省に入省し、1938年外務省在外研究員、1951年欧米局第5課長(ソ連課長)、1956年在ソ大使館参事官(代理大使)、1958年欧亜局参事官、1963年大臣官房国際資料部長(初代)、在香港総領事、1966年情報文化局長、1968年在オーストリア特命全権大使、1971年在ソ連特命全権大使、1972年在モンゴル大使兼任、1973年在インド特命全権大使。その後、日本国際問題研究所理事長、ソ連研究センター所長、原子力委員会委員を務める。
加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、… 加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、日本の外交官。外務省経済局長、OECD代表部特命全権大使、駐イギリス特命全権大使、日英協会理事長などを歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 東京出身。東京高等学校文科甲類を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年連絡調整中央事務局連絡調整官。1950年通商産業省通商局市場第二課長。1955年外務省経済局第四課長。1956年外務省経済局第一課長。
藤山 楢一(ふじやま ならいち 1915年9月17日 - 1… 藤山 楢一(ふじやま ならいち 1915年9月17日 - 1994年5月5日)は、日本の外交官。駐英国大使。
東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大… 東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大正4年)8月18日 - 1985年(昭和60年)4月9日)は、日本の昭和時代の外交官、官僚。旧姓は本城。外務省事務次官、駐アメリカ大使を務めるなど日本の戦後外交におけるアメリカスクール外交官の重鎮の一人であった。
重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 200… 重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 2000年8月27日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 外務省国際連合局長を経て、駐ナイジェリア特命全権大使や、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。重光葵元外務大臣の甥。 石川県金沢市生まれ。東京出身。1935年静岡高等学校文科丙類卒業。1936年東京帝国大学法学部政治学科に入学。1938年に外交官試験に合格し、大学を中退した。1939年に外務省に入省し、ポーランド、ラトビア、ブルガリアでロシア語研修を受ける。 1951年から外務省条約局第三課長を務め、1952年からは外交官領事館採用試験専門試験委員(憲法)や、外務書記採用試験専門試験委員も担当した。
大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11… 大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11月3日 - 1993年〈平成5年〉2月9日)は、日本の逓信・経済企画官僚、外交官、政治家、経済学者。位階は正三位。 第二次世界大戦後の日本を代表する国際派のエコノミストであり、外務大臣(第108代)や総合研究開発機構研究評議会議長を務めた。 東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、逓信省に入省した。工務局、興亜院出向を経て大東亜省に移籍した。第二次世界大戦終戦後に外務省調査局に勤務した。その後、芦田内閣の下に設置された経済安定本部で、池田勇人首相の肝煎りである所得倍増計画の策定に中心的に関わった。 大来は終戦直後から日本国内のみならず国外にも豊富な人脈を築き、また分け隔てなく留学を希望する者の紹介状を書いていた。
曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995… 曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995年9月22日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 兵庫県芦屋市出身。1937年東京帝国大学法学部政治学科中退。同年外務省に入り、調査局第二課長、情報文化局第一課長、ソ連課長、在ドイツ大使館参事官、在シカゴ、在ベルリン総領事を歴任し、1961年情報文化局長、1966年駐ユーゴスラビア大使、1969年駐パキスタン大使を経て、1972年駐西ドイツ大使に就任。1975年退官し、評論家となる。1995年叙正三位。
保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7… 保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、昭和期戦前の外交官、華族。幼名・正虎。 子爵・保科正昭の長男として生まれる。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した。 東京高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した。 以後、外交官補、外交事務官を歴任。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた。
後宮 虎郎(うしろく とらお、1914年4月22日 - 19… 後宮 虎郎(うしろく とらお、1914年4月22日 - 1992年6月12日)は、日本の外交官。駐オランダ大使、駐タイ大使、駐韓大使や国立京都国際会館の館長を務めた。 1914年京都府生まれ。父は後宮淳、義父は吉見信一。旧制第三高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学進学。 1936年に外交科試験に合格し、1937年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業して外務省に入省した。 1938年に徴兵され、京都市伏見区にある陸軍の輜重隊に所属し、二等兵から始まり終戦前には中尉まで昇進している。 外務省に戻り、1949年管理局在外邦人課長、1951年アジア局第二課長(後の中国課長)、1952年在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、1954年大臣官房総務課長、1956年大臣官房参事官、1957年経済局外務参事官、1960年在タイ日本国大使館公使、1962年アジア局長などを歴任。
田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 199… 田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 1990年8月9日)は、日本の外交官。外務省に入省後、フランス書記生としてキャリアをスタートさせ、駐カンボジア日本国特命全権大使、在カサブランカ日本国領事などを歴任した。最後の在外公館長は駐アルジェリア大使であった。 父は外交官、国際法学者の田村幸策。 1939年(昭和14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。前年に高等試験(外交科)に合格し、外務省に入省した。最初はフランス書記生として勤務した。 その後、在カサブランカ日本国領事館領事、在カンボジア日本国特命全権大使などを務め、カンボジアとの経済・技術協力や貿易取極に関する業務に携わった。
高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月1… 高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月18日 - 1989年(平成元年)4月6日)は、日本の外交官、国際政治学者、外交評論家。位階は正三位。 熊本県出身。熊本士族・高橋守雄の二男。1933年(昭和8年)旧制五高文科乙類を経て、東京帝国大学法学部、ミュンヘン大学を卒業し、その後外務省に入省する。 1957年(昭和32年)外務省条約局長。1960年(昭和35年)、参議院日米安全保障条約等特別委員会では政府委員として答弁に立ち、在日米軍に対して日米地位協定によって敢えて治外法権的立場を付与したと答弁した。1966年(昭和41年)スウェーデン駐箚特命全権大使。外務省研修所長を経て、1970年(昭和45年)エジプト駐箚特命全権大使などを歴任した。
中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月3… 中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月30日 - 2003年(平成15年)7月21日)は日本の外交官、元駐フランス特命全権大使。広島県出身。
西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日… 西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日 - 1988年〈昭和63年〉1月23日)は、日本の外交官。駐インドネシア特命全権大使、駐スイス特命全権大使、駐大韓民国特命全権大使、交流協会台北事務所代表、交流協会理事長。 福岡県出身。1933年(昭和8年)福岡高等学校文科甲類卒業。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年10月、高等試験外交科試験に合格して外務省入省。1949年(昭和24年)外務省連絡局地方課長。1950年(昭和25年)在カルカタ日本政府在外事務所所長。1953年(昭和28年)外務省経済局第三課長。1955年(昭和30年)外務省経済局次長。1956年(昭和31年)外務省経済局外務参事官。
広田 稹(廣田、ひろた しげる、1913年 <大正2年> 1… 広田 稹(廣田、ひろた しげる、1913年 <大正2年> 10月1日 - 1987年 <昭和62年> 1月5日)は、日本の外交官。位階は正三位。 新潟県出身。1937年外交官試験に合格後、38年3月東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、外務省入省。アジア局第4課長、同第2課長、バンクーバー領事、大臣官房人事課長、経済局外務参事官、アラブ連合共和国大使館参事官等を歴任。1961年9月ハンブルク総領事、65年5月より中南米移住局長、翌年11月経済協力局長、68年1月より大臣官房審議官を務めた。 その後、ベネズエラ、マレーシア、オランダ駐在大使を歴任した。1975年12月退官。翌年、熊谷組顧問に就任。 1982年退社後、83年11月勲二等旭日重光章を受ける。
吉田 健一郎(よしだ けんいちろう、1913年 - 1991… 吉田 健一郎(よしだ けんいちろう、1913年 - 1991年)は、日本の外交官。外務省賠償部長、駐ハンガリー特命全権大使、駐シンガポール特命全権大使、駐ニュージーランド特命全権大使。 愛媛県出身。1933年第一高等学校文科甲類卒業。1936年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1948年連絡調整中央事務局第一部連絡課長。1949年連絡調整中央事務局第一部総務課長。同年外務省政務局情報部文化課長。1952年在ロスアンゼルス日本政府在外事務所所長。1952年在ロサンゼルス日本国総領事館総領事。同年外務省情報文化局第一課長。外務省情報文化局外務参事官を経て、1957年外務省アジア局賠償部調整課長。
宇山 厚(うやま あつし、1912年5月23日 - 2003… 宇山 厚(うやま あつし、1912年5月23日 - 2003年7月5日)は、日本の外交官。台湾断交時の駐中華民国特命全権大使を経て、駐ブラジル特命全権大使を務めた。正三位勲一等瑞宝章。 島根県出身。松江高等学校を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1949年外務省政務局経済課長。1950年在サンフランシスコ日本政府在外事務所所長。1952年外務省経済局第一課長。 在オーストラリア日本国大使館参事官を経て、1959年外務省アジア局兼大臣官房外務参事官。1962年外務省アジア局賠償部長。1963年在連合王国日本国大使館特命全権公使。1967年駐イラン特命全権大使。1968年初代在イラン日本国大使館付属日本人小学校校長。
甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 20… 甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 2001年9月2日)は、日本の外交官。外務省経済協力局長、駐マレーシア特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使、駐ドイツ特命全権大使。 日本統治時代の台湾の台北市生まれ。旧制台北高等学校を経て、外交官試験に合格し、1933年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。特別調達庁東京特別調達局契約部長等を経て、1952年在ジャカルタ日本国総領事館総領事。1955年在ベルリン日本国総領事館総領事。1961年外務省大臣官房審議官。同年外務省経済局経済協力部長。1962年外務省経済協力局長。1963年特命全権大使マレーシア国駐箚。1967年特命全権大使オーストラリア国駐箚。
須山達夫(すやま たつお、1912年(明治45年)4月 - … 須山達夫(すやま たつお、1912年(明治45年)4月 - 1992年(平成4年)11月2日)は、日本の外交官。ユネスコ執行委員(日本政府代表)、駐モロッコ特命全権大使、駐ノルウェー特命全権大使、駐トルコ特命全権大使を歴任した。 静岡県立静岡中学校を経て、1935年、東京帝国大学法学部卒業。外務省入省。戦後、1956年、駐スイス臨時代理大使、駐モロッコ特命全権大使(ユネスコ執行委員兼務)、1966年、駐ノルウェー特命全権大使(ユネスコ執行委員兼務)、1970年、駐トルコ特命全権大使。 1982年、第2代IFCA(国際親善文化協会)会長就任。ユネスコボロブドゥール修復執行委員長。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。
森 治樹(もり はるき、1911年〈明治44年〉1月26日 … 森 治樹(もり はるき、1911年〈明治44年〉1月26日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の外交官である。 福岡県出身。1933年(昭和8年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、1935年(昭和10年)に外務省に入省。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦当時は条約局事務官であり、"United Nations"を国際連合と訳したのは森だとする説がある。1952年(昭和27年)の日伊国交回復後、在イタリア日本大使館の参事官となった。1957年(昭和32年)、北米局長に就任。1967年(昭和42年)、OECDの日本での活動を規定する協定に署名した。1970年(昭和45年)7月10日から1972年(昭和47年)4月28日まで外務事務次官を務めた。
大隈 信幸(おおくま のぶゆき、1910年5月20日 - 2… 大隈 信幸(おおくま のぶゆき、1910年5月20日 - 2004年2月28日)は、日本の政治家、外交官、華族(侯爵)。 貴族院議員、参議院議員(1期)、コロンビア駐箚特命全権大使、ガーナ駐箚特命全権大使などを歴任した。 東京帝国大学の経済学部に入学し、1935年に卒業した。1947年、父である大隈信常の死去にともない、爵位を襲爵し侯爵となった。 1947年2月に貴族院議員に就任したが、日本国憲法施行により貴族院が廃止されたため、3か月弱で貴族院議員としての地位を失った。また、同年4月に行われた第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選を果たした。参議院では民主クラブに所属した。任期満了まで2か月あまりを残し、1953年4月に議員を辞職した。
法眼 晋作(ほうげん しんさく、1910年2月11日 - 1… 法眼 晋作(ほうげん しんさく、1910年2月11日 - 1999年7月24日)は、日本の外交官。インド大使、外務審議官、外務事務次官、国際協力事業団総裁などを歴任した。
伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - … 伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - 1999年1月17日)は、日本の外交官。外務省アジア局長、駐オランダ兼アイルランド特命全権大使、駐インド兼ネパール特命全権大使。 東京出身。日本統治時代の朝鮮の大田中学校(のちの大田高等学校)を経て、1929年第三高等学校文科甲類卒業。1932年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1949年公職資格訴願審査委員会事務局長。1950年警察予備隊総隊副総監(警視監)。1951年外務省連絡局長。同年外務省国際協力局長。1952年に日米合同委員会でいわゆる米軍基地を決定する協定に署名した。その後MSA協定の交渉に関わった。1954年香港総領事。
牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月… 牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1984年〈昭和59年〉12月31日)は、日本の外交官。位階は従二位。 対外経済担当大臣(福田赳夫改造内閣)、在アメリカ合衆国日本国特命全権大使、外務事務次官、外務審議官、在カナダ日本国特命全権大使などを歴任した。世界和平連合会発足当時の理事。祖父は牛場卓蔵。兄に近衛文麿の秘書官を務めた牛場友彦がいる。弟は慶應義塾大学医学部教授で、国家公安委員会委員を務めた牛場大蔵。 1909年、兵庫県にて生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、外務省に入省。 入省後、第二次世界大戦敗戦まではドイツ畑を歩む。
河崎 一郎(かわさき いちろう、1909年9月19日 - 2… 河崎 一郎(かわさき いちろう、1909年9月19日 - 2004年8月13日)は、日本の外交官。駐アルゼンチン特命全権大使在任中、日本人は身体的魅力に乏しいと主張する書籍を出版したことが問題となり、外務大臣により事実上解任された。 大阪生まれ。1929年(昭和4年)に大阪高等学校文科甲類を卒業後、1932年(昭和7年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1939年在(昭和9年)サンフランシスコ副領事。1941年(昭和16年)在バンクーバー領事、日本赤十字社バンクーバー特別委員長。1942年(昭和17年)在ソビエト連邦大使館二等書記官。 1951年(昭和26年)賠償庁特殊財産部長、賠償庁次長心得。
平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1… 平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1977年3月7日)は、日本の外交官。NHK解説委員。 香川県丸亀市生まれ。平沢家は岩手県和賀郡西和賀町沢内の旧家で、父の代に転居した。1930(昭和5)年3月に第一高等学校(一高)を卒業し、1934(昭和9)年に文官高等試験外交科試験に合格。1935(昭和10)年3月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。翌月、外務省に入省し、書記生となる。1936(昭和11)年7月にベイツ大学を卒業し、1938(昭和13)年4月まで外交官補として在米大使館に勤務。斎藤博アメリカ合衆国駐箚日本国特命全権大使在任中に大使秘書官を務める。 1938年4月、バンクーバーから一時帰国のために横浜港に向かう氷川丸に乗船した際、偶然にもIOC委員で、エジプト・カイロでのIOC総会から帰国の途にあった嘉納治五郎と出会い、交友を深めた。
千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1… 千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1月20日)は、昭和時代(戦前から戦後)の日本の外交官。位階は正三位。 米国サンフランシスコに生まれ、1922年に帰国する。第二高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格し、同年11月に外務省へ入省する。英国勤務を経て、東亞局に勤務する。1942年中国在勤。戦後、一時大蔵省に勤務するが、1947年終戦連絡中央事務局連絡官、1948年会計課長に復帰した。1952年メキシコ在外事務所所長、同年4月同国大使館参事官。1954年2月サンパウロ総領事。 1955年4月欧米局長、1957年4月欧米局長を経て、同年12月メキシコ大使に任ぜられる。
内田 藤雄(うちだ ふじお、1909年2月22日 - 199… 内田 藤雄(うちだ ふじお、1909年2月22日 - 1992年12月21日)は、日本の外交官。法務省入国管理局長、外務省大臣官房長、駐オーストリア特命全権大使、駐ドイツ特命全権大使。 岡山県出身。1928年東京高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部法律学科入学。1930年高等試験外交科本試験に合格し、1931年に外務省に入省した。1949年公正取引委員会事務局総務部長。1954年法務省入国管理局長。1957年外務省移住局長。1958年外務省大臣官房長。1960年オーストリア国駐箚特命全権大使、国際原子力機関理事会理事たる日本政府代表。1965年ドイツ国駐箚特命全権大使。1973年海外移住審議会委員。
安藤 吉光(あんどう よしみつ、1908年5月24日 - 1… 安藤 吉光(あんどう よしみつ、1908年5月24日 - 1984年5月14日)は、昭和時代の日本の外交官。 東京に生まれる。1931年東京帝大法学部法律学科卒、住友銀行入社。1934年外交官試験に合格し、外務省入省。米国書記生、中華民国在勤、東亜局、アメリカ局勤務、1946年調査局第三課長、終戦連絡大阪事務局勤務、連絡調整中央事務局秘書課長兼総務課長、政務局総務課長等を歴任。1951年7月ワシントン日本政府在外事務所、1952年4月在アメリカ合衆国日本国大使館参事官として赴任。 その後、1953年本省審議室勤務、外務審議官、条約局参事官、アジア局参事官を経て、1957年9月在香港日本国総領事館総領事を命ぜられる。
真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日… 真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日 - 2001年〈平成13年〉11月14日)は、日本の外交官。1959年から1964年までと1969年から1989年まで宮内庁で昭和天皇の通訳を務めた。 陸軍大将の真崎甚三郎は父。貴族院議員の長谷川赳夫は妻の父。 佐賀県出身。東京府立第四中学校、一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部卒業。1934年に外務省情報部嘱託。1939年に外務省翻訳官。1940年に大使館二等通訳官・中華民国・上海駐在。1941年にアメリカ在勤。1942年1月に中華民国在勤、上海駐在、9月に一等通訳官、10月に帰国。1943年5月に陸軍通訳官・比島軍政監部付、10月に大使館三等書記官を歴任。
湯川 盛夫(ゆかわ もりお、1908年2月23日 - 198… 湯川 盛夫(ゆかわ もりお、1908年2月23日 - 1988年3月16日)は、日本の外交官。 石川県出身。湯川宗理の子。 旧制室蘭中学、第一高等学校を経て、1933年(昭和8年)3月、東京帝国大学法学部卒業。大学在学中の1932年(昭和7年)10月、高等試験外交科及び行政科試験に合格。 1933年(昭和8年)外務省に入省、英国、スイス在勤を経て帰国後に通商局へ配属される。戦前から経済畑が長く、商工省、企画院、経済安定本部等への出向も経験している。なお、第二次世界大戦中には、海軍司政官、条約局第一課長の経験がある。 1951年(昭和26年)には国際経済局長(のち改組により経済局長)、1952年(昭和27年)在フランス日本国大使館参事官を経て、1954年(昭和29年)に帰国し国際協力局長を務め、及び1955年(昭和30年)には再び経済局長に就いた。
松井 明(まつい あきら 1908年(明治41年)1月6日 … 松井 明(まつい あきら 1908年(明治41年)1月6日 - 1994年(平成6年)4月29日)は日本の外交官。 外交官・男爵の松井慶四郎の長男として、慶四郎の赴任先パリで生まれる。暁星中学、旧制東京高校を経て、東京大学法学部卒業。 1931年(昭和6年)に外務省入省。内閣情報局情報官、調査局長などを歴任。1949年(昭和24年)7月 - 1953年(昭和28年)3月まで昭和天皇の通訳をつとめる。1951年(昭和26年)、吉田茂首相秘書官としてサンフランシスコ講和会議に随行。1952年(昭和27年)1月11日、昭和天皇に国際事情について進講を行う。 1955年(昭和30年)駐フランス公使、1957年(昭和32年)駐セイロン大使を経て、1959年(昭和34年)駐スウェーデン大使兼アイスランド公使。
田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 19… 田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 1974年7月11日)は、日本の外交官。位階は正三位。 兵庫県相生市生まれ。1932年外交官試験合格、33年東京帝大法学部卒業後、外務省入省。ニューヨーク、通商局1課、同3課、上海、北京、天津勤務、神戸連絡調整事務局局長を経て、前後は46年管理局経済部総務課長、47年調査局5課長、同1課長を務める。1950年8月管理国入国管理部長、翌年入国管理庁研修所長の後、52年2月サンフランシスコ在外事務所所長を経て同年4月サンフランシスコ総領事。1951年密出入国に関する治安行政機関監察の件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。 同年12月情報文化局長、翌53年吉田茂首相の秘書官を務めた後、情報文化局長を再び務める。
古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月2… 古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月24日 - 1972年11月5日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正三位。勲等は勲二等。 宮城県岩沼市生まれ。伊達忠宗の家老職を務めた古内家の末裔である。第二高等学校文科乙類から東京帝国大学法学部に進み、大学在学中に高等試験外交科合格。外務省に入省してからはドイツに赴任して経験を積み1941年に本省に戻る。終戦直後は進駐軍との終戦連絡の折衝にあたるも、いわゆる「Y項パージ」で一時期省外へ出され公正取引委員会事務局総務部長、公正取引委員会事務局長などを務めた。 1953年に外務省に戻るとレバノン、オーストリア、パキスタン、インドネシアの各国大使を歴任し、池田勇人首相の奨めもあって1964年に退官して自由民主党公認で1965年の参院選に宮城県選挙区から立候補するが、地元組織の分裂から次点に終わる。
小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1… 小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1981年8月3日)は、日本の外交官。公正取引委員会事務局長、法務省入国管理局長、駐ビルマ特命全権大使などを歴任した。 広島県尾道市出身。第一高等学校文科丙類を経て、1931年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1932年外務省入省。外務省条約局事務官、情報局総裁秘書官、戦争調査会事務局事務官、横須賀捕獲審検所評定官等を経て、1952年調達庁総務部調停官。1953年公正取引委員会事務局長。1957年在ヴィエトナム日本国大使館参事官。 1959年外務大臣官房審議官。1960年駐ハンガリー特命全権公使。1962年法務省入国管理局長。1964年駐ヴァチカン特命全権大使。
鶴岡 千仭(つるおか せんじん、1907年6月2日 - 19… 鶴岡 千仭(つるおか せんじん、1907年6月2日 - 1987年7月8日)は、昭和時代の日本の外交官。 千葉県出身。1931年高等文官試験の外交科に合格。 翌年、東京帝大法学部法律学科卒業後、外務省入省。 外交官補としてパリ在勤後、本省欧亜局、スイス公使館とトルコ、フランス大使館の各書記官を務めた。1946年から条約局法規課長、外務省研修所指導官、法務総裁官房渉外課長、法務省入国管理局次長、外務大臣官房審議室参事官を歴任。 1956年バチカン公使、58年には同大使に就任し、59年国際連合局長、外務大臣官房審議官を経てスウェーデン、スイス駐在大使。1967年国連駐在大使に就任、6日戦争戦後に安全保障理事会の議長として活躍した。
下田 武三(しもだ たけそう、1907年 <明治40年> 4… 下田 武三(しもだ たけそう、1907年 <明治40年> 4月3日 - 1995年 <平成7年> 1月22日)は、日本の外交官。外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。東京府出身。位階は従二位。 外交官、外務省官僚としてポツダム宣言の翻訳を初め、日米安全保障条約、沖縄返還、日米繊維交渉など、戦後の日米交渉に深く関与した。プロ野球のコミッショナーとしては、時代の求めていたプロ野球と野球界の近代化に手腕を振るった。 教育学者の下田次郎の三男として東京に生まれ、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1925年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 198… 板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 1987年11月19日)は、日本の外交官。 宮城県仙台市出身。1931年高等試験外交科、行政科試験に合格。翌32年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省に入省。英国、中国などに勤務し、南京の中華民国大使館勤務中に終戦を迎える。1946年以降、外務省管理局経済部総務課長、総務局資料課長、同局総務課長、中国連絡調整事務局長、貿易局長、経済審議庁審議官を務める。 その後、香港総領事、通産省通商局長、外務審議官、アジア局長を経て1959年7月ノルウェー大使に就任。1962年5月フィリピン大使、65年2月インド大使、66年8月カナダ大使、69年5月中華民国(台湾)大使を歴任した後、72年3月に退官。
福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 -… 福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 - 1987年4月2日)は、日本の外交官、内閣官房次長、調達庁長官。 東京都出身。礫川小学校、旧制府立五中、旧制一高を経て、東京帝国大学法学部卒。1930年に外務省入りし、英語研修(米国)、フィリピン在勤などを経て1947年から内閣総理大臣秘書官、同年終戦連絡大阪事務局長、1948年の大阪連絡大阪事務局長。同年芦田内閣では内閣官房次長(現在の内閣官房副長官)に就任。 1949年9月に毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の球団社長となり、1951年からはパシフィック・リーグ会長も兼ねて日本プロフェッショナル野球協約制定の中心役となった。
山田 久就(やまだ ひさなり、1907年1月13日 - 19… 山田 久就(やまだ ひさなり、1907年1月13日 - 1987年12月15日)は、日本の外交官、政治家。位階は正三位。 第9代環境庁長官。衆議院議員(4期)。 父は高岡新報(現在の北日本新聞)元社長の山田久太郎。 1907年京都市生まれ。富山県東礪波郡広塚村(後の福野町、現在の南砺市)出身。旅順中学校、第四高等学校卒業。1929年に東京帝国大学法学部を卒業した後、外務省に入る。同期に朝海浩一郎(駐米大使)や大野勝巳(駐英大使)など。外務事務次官や駐ソ連特命全権大使等を務めた後、1967年の第31回衆議院議員総選挙に旧東京8区から立候補し当選する。 1973年に外務政務次官となり、1977年発足の福田赳夫改造内閣において環境庁長官となる。
島津 久大(しまづ ひさなが、1906年(明治39年)5月2… 島津 久大(しまづ ひさなが、1906年(明治39年)5月24日 - 1990年(平成2年)12月9日)は、日本の外交官。位階は正三位。初代迎賓館長。 1906年(明治39年)5月24日、公爵島津忠済・田鶴子夫妻の次男として東京に生まれる。父忠済は島津久光の七男で貴族院議員、宮内省宗秩寮審議官などを務めた。 1930年(昭和5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、外務省に入省する。戦前はイギリス書記生(オックスフォード大学留学)、イギリス在勤、中華民国在勤、外務大臣秘書官、ラングーン総領事などを歴任。戦後、1948年(昭和23年)から賠償庁次長、1949年(昭和24年)から外務省政務局長。1951年から1952年、および1955年から1956年の2回、外務省大臣官房長を務める。
勝野 康助(かつの やすすけ、1906年 - 1985年)は… 勝野 康助(かつの やすすけ、1906年 - 1985年)は、日本の外交官。法務省入国管理局長、駐ノルウェー特命全権大使、駐ポルトガル特命全権大使。 岐阜県出身。麻布中学校、第三高等学校文科甲類を経て、1932年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1948年連絡調整中央事務局第一部総務課長。1949年賠償庁賠償部長。1952年在サン・フランシスコ日本国総領事館総領事。1956年外務省経済局外務参事官。1957年外務大臣官房審議官。1958年法務省入国管理局長。1960年外務大臣官房審議官。同年セイロン国駐箚特命全権大使。1962年ノールウェー国駐箚特命全権大使。1965年ポルトガル国駐箚特命全権大使。
倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982… 倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982年4月6日)は、昭和時代の日本の外交官。 鳥取県出身。東京帝国大学法学部在学中の1928年(昭和3年)、外交官試験に合格。翌年外務省入省。米国、中華民国、興亜院、本省政務局勤務などを経て、1942年(昭和17年)11月、中華民国駐在大使館の1等書記官で赴任。1945年(昭和20年)2月、大臣官房会計課長。同年8月より終戦連絡中央事務局第4部長・名古屋事務局長等を務めた後、1948年(昭和23年)1月より本省管理局長として引揚げ推進のためGHQなどとの折衝に尽力した。 アジア局の復活に伴い1951年(昭和26年)12月、同局長。1953年(昭和28年)11月、特命全権公使に任命され、同年12月より日本・インドネシア国交樹立、賠償、その他懸案事項の処理交渉を行う。