高木 宏夫(たかぎ ひろお、1921年6月11日 - 200… 高木 宏夫(たかぎ ひろお、1921年6月11日 - 2005年8月27日)は、日本の宗教学者。 大阪府出身。皇學館大学卒、1949年(昭和24年)東京帝國大學文学部宗教学科卒、同年東京大学東洋文化研究所助手、、1958年(昭和33年)東洋大学社会学部助教授、教授。同井上円了記念学術センター初代所長。1992年(平成4年)定年退任、名誉教授。 著作「日本人の宗教生活の実体」で1956年第一回姉崎記念賞。
上條 馨(かみじょう かおる、大正10年(1921年)3月7… 上條 馨(かみじょう かおる、大正10年(1921年)3月7日 - 昭和36年(1961年)1月3日)は、山梨県の郷土史家、神職。 山梨県甲府市に御崎神社の宮司を務める上條定久、多津の二男として生まれる。昭和13年(1938年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇學館(現在の皇學館大学)に入学し同校を卒業。山梨県立甲府中学校、山梨県立甲府第一高等学校に勤務し、昭和23年(1948年)には母校である山梨県立甲府第一高等学校の校歌を作詞、また、父の後を継ぎ御崎神社宮司を務める。その後、病気のため同校教諭を辞職。後に山梨学院大学講師、山梨学院大学附属高等学校教諭となる。
小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 … 小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 - 2009年11月1日)は、日本の歴史学者、郷土史研究家。長野県史編纂委員、長野郷土史研究会会長(初代)。長野工業高等専門学校、文化女子大学長野専門学校、信州短期大学の元教授。長子は、長野郷土史研究会の二代目会長の小林一郎。脚本家の小林雄次と小林英造は孫。 長野県長野市生まれ。旧制長野中学校(現長野高校)を卒業し、神宮皇學館に進学する。小林一茶研究で知られる伊藤正雄に師事して国文学を学ぶ。1941年に卒業。兵役を経て、1946年から大阪府立農学校や長野県の高等学校教諭、長野工業高等専門学校教授、信州短期大学教授などを歴任。1991年信州短大退職、名誉教授の称号を受ける。
八原 昌元(やはら まさもと、1918年(大正7年)4月25… 八原 昌元(やはら まさもと、1918年(大正7年)4月25日 - 2004年(平成16年)4月13日)は、日本の実業家。明星食品の創業者の一人で、社長や会長も務めた。 愛媛県松山市に藩士の家系で大日本帝国の軍人だった八原昌後とキクとの間に生まれる。1936年(昭和11年)に父からの推薦により、神宮皇學館大学に入学した。卒業後に東京府立第一商業高等学校で教鞭を執ったが、再度皇學館大学に入学する。卒業後は同大学の研究員として活動していたが、戦後に連合国軍最高司令官(GHQ)からの命令により、解雇せざるを得なかった。 これによって、1926年(昭和21年)に試験に合格し農山漁村文化協会の一員として農村文化活動を行うも、当初は経営不振に陥った。
吉岡 勲(よしおか いさお、1914年3月23日 - 199… 吉岡 勲(よしおか いさお、1914年3月23日 - 1993年5月4日)は、日本の歴史学者である。岐阜県の郷土史研究に従事。皇學館大学助教授。 北海道常呂郡常呂村(本籍岐阜県)に生まれる。岐阜縣立本巣中學校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)を経て1933年に岐阜縣師範學校を卒業し、岐阜県内の小学校教諭・訓導を経て、岐阜市立西郷小学校・早田小学校・長良小学校・金華小学校の校長を歴任。その間、岐阜県小中学校校長会理事や全国小学校長会理事、また岐阜県教育研究所次長や岐阜県史編集室長、あるいは岐阜大学や中部女子短期大学で非常勤講師もつとめた。 1974年に満60歳で教職を勇退した後、1976年に皇學館大学文学部講師、1978年に助教授になる。
足立 巻一(あだち けんいち、1913年6月29日 - 19… 足立 巻一(あだち けんいち、1913年6月29日 - 1985年8月14日)は、日本の小説家、詩人、エッセイスト。 メディアを通して本居宣長の顕彰に大きな功績を残した。代表作である『やちまた』は、盲目の国学者である本居春庭を描いた評伝文学の傑作である。 東京市神田区(現:東京都千代田区)に生まれる。生後間もなく父と死別、母は再婚したため、漢詩人であった祖父足立清三(敬亭)、祖母ヒデに育てられるが、1920年に祖母ヒデが急死、祖父清三としばし流浪の生活を送った。翌年、清三も横死を遂げ、神戸在住の母方の叔父に引き取られる。 諏訪山尋常小学校時代から「少年倶楽部」「赤い鳥」等に頻繁に短文、詩歌等を投稿。
木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 19… 木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 1995年1月26日)は、日本の小説家。毎日新聞元編集委員。 1912年(大正元年)10月5日、徳島県海部郡牟岐町出身。 神宮皇學館(現皇學館大学)卒業後、毎日新聞に入社。 毎日新聞時代は新聞記者として数々の出来事の現場取材を経験。 毎日新聞中部本社報道部長、毎日新聞西部本社ラジオ報道部長、毎日新聞大阪本社整理部顧問を務め、毎日新聞東京本社及び大阪本社では出版局参与を務めた。 毎日新聞記者を務める傍ら、小説家としての活動を並行して進め、1960年(昭和35年)に『刀塚』が直木賞候補となった。 木本の代表作である『黒部の太陽』は、毎日新聞東京本社編集委員在任中の1964年(昭和39年)に、毎日新聞連載小説として発表した作品である。
佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26… 佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26日 - 平成10年〈1998年〉9月22日)は、日本の神職、教育者。宇津神社宮司。 明治45年(1912年)6月26日、佐古吉浦・しづ夫妻の五男として、山口県都濃郡鹿野町(現周南市)に誕生した。 昭和5年(1930年)、旧制山口県立岩国中学校を卒業すると、姉幸嬰の強い影響を受けて、同年4月1日に神宮皇學館本科第二部に入学した。同期には呉市出身の白石舜逸がいた。在学中の昭和7年(1932年)5月、神宮皇學館大講堂に於いてジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの「神道の創造性について」という講演会が開かれこれに出席すると強い衝撃を受け、メーソンの『神ながらの道』を日夜読み耽ったという。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 198… 野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 1987年4月30日)は、日本の国文学者。号は般庵。京都大学名誉教授。専門は近世日本文学で、井原西鶴研究の第一人者。 大阪府出身。旧制浪速高等学校を経て、1933年、京都帝国大学国文科卒業。藤井乙男に師事。1949年、京都大学助教授となり、1951年、教授に昇任した。 1973年、定年退官し名誉教授、皇學館大学教授を1983年まで務めた。1981年勲二等瑞宝章受章。1987年4月30日叙正四位。 1974年、藤本箕山の『色道大鏡』を刊行した。実証的な学風で知られ、井原西鶴や近松門左衛門や曲亭馬琴の研究においても成果を残している。終生、羽織はかま姿で教壇に立ち、文人の風格を漂わせる名物教授だった。
櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉… 櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉10月28日 - 2005年〈平成17年〉12月25日)は、日本の神職。 1909年、島根県那賀郡今福村(現浜田市)に社家の長男として生まれる。1931年(昭和6年)に神宮皇學館(皇學館大学の前身)を卒業し、熊本県菊池市の菊池神社の宮司など官国幣社4社の神職を経て、1955年に神宮教化局教導司、1957年より神宮禰宜として奉職。祭祀のかたわらで皇學館大学で祭祀概説の非常勤講師を兼務。1975年に芦屋大学で日本文化研究の教授に就任(1995年まで)。多賀大社宮司、神社本庁総長を務めたのちに皇學館大学理事長に就任。1990年に神社本庁から「長老」の称号をうける。
坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 200… 坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 2006年12月11日)は、日本の仏教詩人。本名昂(たかし)。一遍の生き方に共感し、「癒やしの詩人」と言われる。 熊本県玉名郡府本村(現 荒尾市)生まれ。熊本県立玉名中学校を経て、1931年に神宮皇學館を卒業。1934年朝鮮に教員として渡り、1945年に引き揚げ。1946年、愛媛県三瓶町の私立第二山下高等女学校教諭に着任。1950年、個人雑誌「ペルソナ」を創刊して、従来創作していた短歌から離れる。1953年、尼僧・杉村春苔に出会い、大きな影響を受ける。1962年、森信三の教示を受けて、自らの詩をつづった月刊詩誌「詩国」を創刊。1,200部を無料で配布した。
篠田 康雄(しのだ やすお、1908年〈明治41年〉1月3日… 篠田 康雄(しのだ やすお、1908年〈明治41年〉1月3日 - 1997年〈平成9年〉2月1日)は日本の神職。神社本庁総長、熱田神宮宮司、皇學館大学理事長、同総長などを歴任した。 1908年 三重県宇治山田市(現伊勢市)に篠田幸雄(神宮禰宜)の三男として出生。1930年 神宮皇學館本科を卒業と同時に国幣大社多度神社に奉職。その後、1932年別格官幣社北畠神社主典、1933年官幣大社多賀神社主典を経て1939年官幣大社熱田神宮禰宜となる。1942年同神宮権宮司に就任。1945年に神道指令により官制職廃止。引き続き権宮司として長谷外余男宮司(当時)を助け熱田神宮戦災復興を成し遂げ1964年熱田神宮宮司に任命され1986年まで在職し名誉宮司となり1997年逝去した。
西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年… 西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年)は、長野県の教育者、書家。雅号は秋象(しゅうしょう)。 長野県生まれ。生家の西川豊後守藤原社家は「家学(かがく)」として、代々有職故実、太鼓・鼓・笛・和歌・書などに嗜んできた。 三重県伊勢市の旧制神宮皇學館附属中学(現皇學館中学校・高等学校)在学中から、書を尾上柴舟(書家・歌人、女子学習院《現学習院女子大学》教授)に師事し、18歳で院展入選、書家活動を開始。官立神宮皇学館大学歴史科卒業後、同政教学部卒業。 その間、尾上柴舟の紹介で京都大学・吉澤義則教授の研究室(国文学)に足繁く通い、教えを受ける。北京大学、台北大学などの講師を務める。
今井 啓一(いまい けいいち、1905年8月17日-1975… 今井 啓一(いまい けいいち、1905年8月17日-1975年11月27日)は、日本の歴史学者。 京都府出身。神宮皇學館卒。大東文化学院高等科修了。1961年「帰化の研究」で國學院大學文学博士。立命館大学教授、近畿大学教授、大阪樟蔭女子大学学芸学部教授。
慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3… 慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3月12日 - 平成2年〈1990年〉3月20日)は、昭和時代から平成時代にかけての日本の神職。伊勢神宮大宮司。 1903年(明治36年)、三重県に生まれた。生母は京都府士族籍の女性清水ウタである。慶光院家は伊勢神宮の式年遷宮再興に尽力した慶光院院主の遺跡を継いだ慶光院盈子が維新後に興した家である。父・利敬が二条斉敬の息子であることから、俊は鎌足の直男系男子孫にあたる。俊は、利敬の最初の息子ではあったが庶子であったため家督を継ぐことは無く、のちに分家する。 1916年(大正5年)、三重県立第四中学校に入学。同級生にはのちに日本を代表する映画監督となる小津安二郎がいた。
北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)… 北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)は、日本の神官、歌人。 本名・鈴木重道。北海道出身。余市の神社の息子に生まれる。小樽中学校で二年後輩の伊藤整に、通学列車の中で島崎藤村詩集を教え、影響を与えた。伊藤の自伝的小説『若い詩人の肖像』に、本名が実名で登場する。 伊勢の神宮皇學館本科を卒業して、神宮文庫に勤務。根岸短歌会系の五更会に入り、同誌の編集発行を担当、岡麓に師事して短歌も詠んだ。埼玉県立久喜高等女学校教諭を6年勤めたのち、1934年に帰郷して神官となる。1937年より朝鮮神宮主典として京城に赴任して朝鮮総督府祭務官となるが、本州勤務を希望し福島県の伊佐須美神社宮司となり、そこで敗戦を迎える。
小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月… 小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月13日 - 1996年(平成8年)8月29日)は、日本の歴史学者。成蹊大学名誉教授。愛知県出身。 1901年(明治34年)、愛知県愛知郡天白村(現在の名古屋市天白区)に小島万太郎の子として生れる。1919年(大正8年)に愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業、1923年(大正12年)3月に神宮皇學館本科を卒業と同時に神宮文庫司書兼神宮皇學館助手に任じられる。同年12月、一年志願兵として名古屋歩兵第六連隊に入隊、終えて東京帝國大學史料編纂業務嘱託、その後同大学史料編纂官補。 小島家は代々、熱田神宮大宮司領の庄屋として村方役をつとめ、父も鉦作が熱田神宮の神職になることを期待していた。
原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 19… 原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 1983年1月17日)は、日本の民俗学者、宗教学者。東海大学名誉教授。熊本県出身。 1893年、熊本県山本郡吉松村(現在の熊本市北区(鹿本郡植木町))に原田官太の二男として生れる。吉松尋常高等小学校、熊本県立鹿本中学校(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業の後、1919年、神宮皇學館本科を卒業。東京帝國大學文学部宗教学宗教史学科選科に入学。姉崎正治の指導のもと、「ヘブライの宗教意識の発達」を研究テーマとする。1922年に選科、1927年に本科を卒業。東大在学中には宗教学研究調査を委嘱され、雑誌『宗教研究』の編集などにも携わっている。 青山学院、東洋大学、大谷大学、龍谷大学、九州帝國大學、日本大学、東京帝國大學、京都帝國大學、東京文理科大学、大正大学などに出講、また帝国学士院からの研究費補助、「本邦農耕儀礼の宗教民族学的研究」のテーマで有栖川宮記念奨学金を受けるなどして、研究生活に従事。
高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月… 高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月16日 - 平成元年(1989年)6月12日)は、日本の神道学者、神職。八坂神社名誉宮司、皇學館大学学長。 明治25年(1892年)3月16日、岡山県岡山市に喜三治・辰野の子として生まれる。明治44年(1911年)岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)卒業、大正5年(1916年)神宮皇學館本科卒業。 和歌山県立農林学校(現在の和歌山県立南部高等学校)教諭、神戸市神港商業学校(現在の神戸市立神港高等学校)教諭を経て、大正12年(1923年)より日光東照宮禰宜。翌年、白山比咩神社宮司、昭和8年(1933年)函館八幡宮宮司、昭和11年(1936年)弥彦神社宮司。
福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 19… 福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 1969年7月7日)は、日本の大正から昭和期に活動した俳人。作詞家としては、本名の福武 周夫(ふくたけ ちかお)名義を使用している。岡山県出身。 1886年(明治17年)、岡山県小田郡三谷村(現在の矢掛町)横谷で福頼神社社家の福武喜雨造・知与夫妻の長男として出生。旧制岡山中学校を経て神宮皇學館を卒業。母校の岡山中学校教員在職時に笠井栖乙らと丘上俳句会を結成し、旧制第六高等学校教官らが組織した六六会を通じて志田素琴や大須賀乙字らに師事した。 1923年(大正12年)、兵庫県の旧制尼崎中学校へ転任。この時期には本名の周夫名義により朝日新聞社が懸賞公募した「全国中等学校優勝野球大会の歌」や、初代の「尼崎市歌」で入選を果たしている。
赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8… 赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8日 - 昭和40年(1965年)8月11日)は、山梨県出身の郷土史家。 山梨県北巨摩郡若神子村二日市場(現在の北杜市)に、父「九十郎」、母「うめ」の長男として生まれる。明治37年(1904年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇学館本科(現在の皇學館大学)を明治43年(1910年)に卒業。 大正4年(1915年)には甲府商業会議所が赤岡を主任に「甲斐史」編纂会の設立を企図したがこれは頓挫し、同年11月には若尾財閥の当主・若尾謹之助がこれを引き継いで「山梨県志」編纂会を立ち上げ、赤岡は総裁に任用された。他の委員とともに5年間に渡って山梨県内の史料調査に当たっている。
太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年… 太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年5月27日)は、日本の歴史学者。氏族制度の研究で知られる。 大阪府吉野郡下市村(現・奈良県吉野郡下市町)に生まれる。京都法政大学予科(現・立命館大学)を経て、1910年に神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業。山梨県立高等女学校教諭、内務省考証官補、同嘱託などを経て、1934年から西園寺家の「管見記」の編纂にたずさわる。同年、立命館大学法経学部講師。1937年に同専門部文学科教授。1941年に同法文学部教授となる。1943年同文学部長を兼ねた。1945年11月7日、「日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究」で法学博士号取得。1949年、近畿大学商経学部教授。
長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日… 長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉8月15日)は、日本の神職。熱田神宮名誉宮司。 1880年、石川県の社家に生れる。1911年に神宮皇學館を卒業、1912年に駒形神社宮司となって以降、1913年から大鳥神社、1920年から松尾大社、1923年から多賀神社、1934年から橿原神宮の宮司をつとめ、1936年から熱田神宮宮司、その後同名誉宮司。1946年の神社本庁設立などに尽力した。皇學館大学の初代理事長も務めている。
秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2… 秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2月24日)は、日本の陸軍軍人、神職。最終階級は陸軍中将。
安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1… 安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1952年11月18日)は、日本の国語学者。第3代台北帝国大学総長、東洋大学教授、文部省国語審議会会長。 1878年、埼玉県に生まれる。上田萬年に私淑し、神宮皇學館本科を経て、1904年東京帝国大学文科大学選科を修了。同年、神宮皇學館教授となり、1916年に文部省より国語に関する調査を嘱託される。1917年に日本女子大学校教授、1928年台北帝国大学教授。1941年からは同大学総長となり、1945年に辞任して帰国。 1945年には文部省国語審議会会長となって、国語国字問題の解決に尽力し、翌1946年には当用漢字および現代仮名遣いが制定された。
竹内 鳳吉(たけうち ほうきち、1877年〈明治10年〉5月… 竹内 鳳吉(たけうち ほうきち、1877年〈明治10年〉5月31日 - 1931年〈昭和6年〉4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡川之江村(川之江町、川之江市を経て現四国中央市)で、竹内雅三郎の長男として生まれた。1900年(明治33年)神宮皇學館卒。香川県立丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)助教諭心得、宇摩郡立農林学校(現・愛媛県立土居高等学校)教諭心得、愛媛県社八幡神社社掌、宇摩郡神職支会副会長、鉄道省嘱託、愛媛県議、同参事会員、同副議長、愛媛県山林会議員となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において愛媛2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選し県会議員を辞職。
山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
葦津 洗造(あしづ せんぞう、1875年 - 1927年1月… 葦津 洗造(あしづ せんぞう、1875年 - 1927年1月3日)は、日本の神職。筥崎宮宮司。 福岡市出身。筥崎宮の社家に生まれる。筥崎宮宮司と香椎宮宮司を務めた葦津磯夫の長男、葦津耕次郎の兄、葦津珍彦の伯父。 1891年福岡県立尋常中学修猷館を経て、神宮皇學館を卒業。1904年高良神社宮司となり、1908年筥崎宮宮司に就任。その後終生同宮に奉じた。 1913年福岡県神職会(福岡県神社庁の前身)副会長に推され、没するまでその地位にあった。
松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(… 松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(慶応2年8月4日) - 1947年(昭和22年)1月15日)は、日本の教育者。女子学習院第二代院長。 肥前国(現・長崎県)生まれ。士族松浦縮蔵の子。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、1895年(明治28年)東京帝國大學法科大学法律学科英法科を卒業。1896年(明治29年)5月愛知県尋常中学時習館(現・愛知県立時習館高等学校)校長、1899年(明治32年)7月山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)校長を歴任。 以後、山口高等商業学校教授、第五高等学校校長を経て、1918年(大正7年)5月に神宮皇學館館長に就任。翌年2月、皇太子傅育官長となる。
落合 直文(おちあい なおぶみ、1861年12月16日(文久… 落合 直文(おちあい なおぶみ、1861年12月16日(文久元年11月15日) - 1903年(明治36年)12月16日)は、日本の歌人、国文学者。元の名は鮎貝盛光。俳号は萩之家。短歌結社浅香社を結成、多くの門人を育成して、新派和歌革新運動を推進した。長編叙事詩「孝女白菊の歌」のほか、没後『萩之家遺稿』(1904年)などが刊行された。 1861年(文久元年)、陸奥国本吉郡松崎村字片浜(現・宮城県気仙沼市字松崎片浜 : 煙雲館)にて鮎貝太郎平盛房の二男として生まれた。幼名亀次郎。生家は仙台藩伊達家一家筆頭の家柄であった。11歳から13歳にかけて仙台の私塾、神道中教院で漢学などを学んだ。 1874年(明治7年)、神道中教院主宰であった国学者・落合直亮に才能を見込まれ、長女・松野の許嫁として養子となった。
池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年… 池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年10月3日) - 1923年(大正12年)3月6日)は、明治・大正時代の国文学者、歌人。号は「藤園」、「知旦」。 1861年、肥後国(現・熊本県)で熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれた。1879年(明治12年)に19歳で伊勢の神宮教院(現・皇學館大学)に入学し、神道・国史・国学を学んだ。神宮教院時代からの同期には落合直文がいた。同教院が閉鎖となると上京し、1882年に東京帝国大学文科大学古典講習科に第一期生として入学。同級生には、落合直文や関根正直がいた。1886年に卒業。東京大学の恩師であった国文学者・小中村清矩の養子となり、小中村義象を名乗る。
中田 正朔(なかた まさもと、1840年 - 1913年)は… 中田 正朔(なかた まさもと、1840年 - 1913年)は、日本の神職。 伊勢国宇治(現在の三重県伊勢市)に生れる。漢学を鷹羽竜年に、書を養徳寺雪鷗に、国学を八羽光穂にそれぞれ学ぶ。和歌、書道に長じた。 1872年(明治5年)、宇治山田神社祠掌となり、宮崎郷学校幹事、度会県権少属、1876年、神宮主典を経て禰宜に進み、ついで造神宮頭となり、1887年(明治20年)4月より神宮皇學館(現在の皇學館大学の前身)館長を兼務(1890年8月まで)、1893年(明治26年)、兵庫の廣田神社宮司となり、ついで大阪・堺の大鳥神社宮司に転任、1903年(明治36年)に退職した。 神宮奉職中、神宮司庁と神宮教院分離問題に尽力、功があった。
石野 浩司(いしの こうじ)は、皇室祭祀、皇室制度史、有職故… 石野 浩司(いしの こうじ)は、皇室祭祀、皇室制度史、有職故実、神仏習合史の研究家。文学博士。 1962年(昭和37年)、名古屋市生まれ。1985年(昭和60年)、南山大学文学部神学科にてカトリック神学を修め卒業。 1987年(昭和62年)に皇学館大学神道専攻科を修了し神職資格「明階」を得、同年より神宮司庁に奉職(伊勢神宮崇敬会総務部奉賛課長・神宮司庁広報室広報係長)。 1995年(平成7年)には皇学館大学文学研究科博士課程を修了、2010年(平成22年)、博士(文学)を取得。皇学館大学神道研究所 客員研究員を経て、泉涌寺心照殿 研究員、2022年(令和4年)8月退職。 現在、種智院大学密教資料研究所 研究員、同志社大学宮廷文化研究センター 研究員。