周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年… 周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年4月28日〉 - 1948年〈民国37年〉2月28日)は、中華民国の財政家・政治家。本名周 福海。汪兆銘政権の有力者。 湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。 その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は戴季陶の庇護を受け、蔣介石の下で三民主義のイデオローグとして活躍、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。
西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日… 西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・赤松。 海軍士官・赤松則良の七男として生まれ、1899年(明治32年)に海軍士官・西紳六郎の養子となる。養父の死去に伴い、1933年(昭和8年)11月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、第一銀行に入行し書記に就任。その後、南洋拓殖参事、南洋バルブ取締役、太洋真珠監査役、南洋水産監査役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
本多 忠晃(ほんだ ただてる、1897年(明治30年)3月1… 本多 忠晃(ほんだ ただてる、1897年(明治30年)3月19日 - 1978年(昭和53年)10月5日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 元陸奥泉藩主・本多忠伸の二男として生まれる。1904年(明治37年)7月、兄・忠彦が日露戦争で戦死したため家督を継承し、同年11月12日に子爵を襲爵した。 1923年(大正12年)京都帝国大学経済学部を卒業。1925年(大正14年)東京電燈に入社し、その後、南満州鉄道嘱託などを務めた。 1939年(昭和14年)10月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月… 德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月31日 - 1938年〈昭和13年〉5月10日)は、日本の政治家・華族(男爵)。貴族院男爵議員。新字体で徳川 喜翰とも表記される。 男爵・徳川厚の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)10月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)京都帝国大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1925年、宮内省図書寮嘱託となる。以後、貴族院嘱託、日本大学講師などを務めた。 1932年(昭和7年)1月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し死去するまで1期在任した。墓所は谷中霊園の寛永寺墓地。
雷 震(らい しん、1897年 - 1979年)は、中華民国… 雷 震(らい しん、1897年 - 1979年)は、中華民国の政治家・言論人。戦後台湾における白色テロの犠牲者。字は儆寰。 青年期に日本に留学し、1917年に中華革命党に参加。1926年、京都帝国大学法学部を卒業した後、大学院に進学し憲法を専攻した。同年中国に戻った後、1927年に母校である浙江省立第三中学(現在の湖州中学)校長に就任し、後に国民党政府法制局編審に任命され王世杰の部下となる。1932年には中国国民党南京党代表大会主席団主席、1934年7月には教育部総務司司長を歴任。日中戦争間は蔣介石の信任を得て国民参政会副秘書長などに任命される。1946年1月、政治協商会議(中国語版)秘書長に就任し、各党派の意見の調整に当たる。
金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年… 金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年5月21日 - 1967年)は、大韓民国の官僚、政治家、銀行家。第2代商工部次官、第2代韓国国会議員。 本貫は清道金氏(朝鮮語版)、字は亨魯(ヒョンノ、형로)、号は蘿谷(ナゴク、나곡)。 全羅北道高敞郡出身。京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。湖南銀行木浦支部長、1948年10月4日から1949年9月15日までは第2代商工部次官を務め、他には朝鮮銀行重役、商工銀行理事、韓国興業銀行理事、大韓無尽金融株式会社社長などを務めた。1950年の第2代総選挙で高敞郡選挙区から無所属で出馬し当選し、国会財政経済分科委員長を務めた。その後は民主国民党の中堅となったが、釜山政治波動の後に離党し自由党に参加した。
金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 19… 金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 1994年4月16日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)。日本通運社長及び会長。 大分県出身。1924年京都帝国大学法学部を卒業。同年鉄道省に入り、札幌鉄道管理局総務部長などを務め、1940年退官。同年、日本通運に入り、事業部長、門司支社長などを歴任し。1955年、社長に就任する。1959年の第5回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で出馬して初当選。後に自由民主党に入る。翌1960年には日通会長に就任した。国会内では逓信、運輸、商工の各委員長を務め、第一次佐藤内閣で通商産業政務次官を務めた。 長年、運輸業界での産業安全普及推進に努め実績を積み振興に寄与した功労により1963年、藍綬褒章受章。
田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8… 田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8日 – 1977年(昭和52年)6月10日)は、日本の農林官僚、政治家。富山県知事、衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 岐阜県出身。田中喜三郎の長男として生まれる。東京高等師範学校を経て、1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、京都師範学校教諭を経て農商務省に入省し農務局属となる。 以後、農林事務官、東京競馬倶楽部書記長兼理事、日本競馬会理事、農林省山林局木炭第一課長、農林大臣秘書官、米穀管理局第一部長、食品局長、九州地方行政協議会参事官、九州地方総監府第二部長などを歴任。戦後、1946年1月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。
日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日… 日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日 - 1974年(昭和49年)5月31日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(当選1回)、医学博士。 島根県邑智郡、後の出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で生まれる。旧制島根県立杵築中学校、旧制第六高等学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学医学部を卒業。その後、同大学院で研修し、1929年(昭和4年)医学博士を取得した。興仁会病院(浜田市)勤務、浜病院(新宮市)勤務を経て、1931年(昭和6年)松江市で日高医院を開業した。 1947年(昭和22年)島根県医師会長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙に島根県全県区から自由党から立候補して3位で当選。
神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月… 神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月21日 - 1971年(昭和46年)4月8日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・神山郡昭の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1932年(昭和7年)8月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、鉄道省に入省し鉄道局書記に就任。以後、鉄道属、鉄道局副参事、東京鉄道局千葉運輸事務所長、鉄道省輸送実費調査委員会幹事などを務めた。 1940年(昭和15年)11月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日まで一期在任した。
仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月… 仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月5日 - 1960年(昭和35年)10月13日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧出石藩主家嗣子・仙石政敬の長男として生まれる。父の死去に伴い家督を相続し、1935年(昭和10年)11月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。1925年(大正14年)日本郵船に入社した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。墓所は多磨霊園(12-1-5-17)。
菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1… 菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1976年7月6日)は、日本の政治家。大阪経済大学教授。
当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治… 当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治28年)3月25日 - 1971年(昭和46年)10月20日)は、戦前の沖縄県および琉球政府の政治家・裁判官。那覇市長・琉球政府行政主席(1956年11月11日 - 1959年11月10日)。フランス語に堪能な人物だった。 ジャーナリストで初代那覇市長だった当間重慎の息子として沖縄県那覇(現・那覇市)に生まれる。沖縄県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出され、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部長を務めた。 沖縄戦後には一転沖縄民政府行政法務部長を歴任し、1946年には戦前の市町村長経験者を市町村長に起用する米軍の特別措置に伴い再度那覇市長に就任。
小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7… 小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7日 - 1979年〈昭和54年〉5月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県佐用郡三日月村(三日月町を経て現佐用町)で、小笹力之助の長男として生まれた。1919年(大正8年)京都帝国大学法科大学仏法科卒。三日月町議、兵庫県会議員、同副議長、同議長となり、佐用合同銀行頭取、兵和銀行(現:神戸銀行)取締役、兵庫県食糧営団理事、同森林組合連合会副会長、同林材協会長、兵庫県地方木材(株)社長となる。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選、1期務める。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月… 成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。兵庫県知事(官選第28代)、石川県知事(官選第36代)、台湾総督府総務長官、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。成田喜十郎の長男として生まれる。広島高等師範学校を経て、1920年(大正9年)、京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、埼玉県属となる。埼玉県児玉郡長、警視庁警視、内務省社会局事務官、社会局労働部労務課長、同庶務課長、資源局事務官などを歴任。 1936年(昭和11年)、内務書記官兼内務大臣秘書官となり、大臣官房人事課長、社会局労働部長、厚生省労働局長などを務める。
三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5… 三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5月28日 - 1978年(昭和53年))は、日本の歴史学者、政治家。 宮崎県日向市生まれ。広島高等師範学校を卒業。京都大学経済学部卒業。中国や台湾に渡り教鞭をとる。終戦後宮崎へ引き揚げる。町長・市長を歴任。日向市名誉市民に選ばれる。 著書に『黒田の家臣物語』『日知屋物語 三尾良次郎作品集』がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 197… 竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 1973年4月30日)は、日本の弁護士、実業家、政治家。位階は従三位。 大阪市会議員、衆議院議員(4期)、地方財政委員会委員長(初代)、厚生大臣(第16代)、神鋼商事株式会社社長などを歴任した。 石川県出身。1918年、京都帝国大学法科大学法律科を卒機後、鈴木商店に入社し、支配人金子直吉の秘書を務めた。その後弁護士となり、さらに大阪市会議員となる。また樺太ツンドラ工業、大聖寺商業等各社の社長を歴任する。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府第2区から立憲民政党公認で立候補し当選。以後、18、22、23回総選挙に当選。戦前は、同郷である拓務大臣の永井柳太郎の下で大臣秘書官などを務めた。
大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月… 大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月17日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大岡忠明の息子として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)2月16日に子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)朝鮮銀行に入行し、その後、同行東京支店支配人代理を務めた。 1932年(昭和7年)11月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで2期在任した。この間、鈴木貫太郎内閣・陸軍参与官、司法省委員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
金原 舜二(きんばら しゅんじ、1894年 <明治27年> … 金原 舜二(きんばら しゅんじ、1894年 <明治27年> 1月1日 - 1974年 <昭和49年> 3月20日)は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 静岡県出身。1920年京都帝国大学法律科卒。裁判官となり、弁護士となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で静岡県から日本自由党公認で立候補するが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において静岡3区から立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して当選した。この間裁判官訴追委員会代理委員長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。
纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26… 纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26年(1893年)12月19日 - 昭和53年(1978年)3月15日)は、日本の内務官僚・政治家。警視庁特別高等警察課長、大分県知事、衆議院議員(4期)、複数の政務次官等を歴任した。
東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日… 東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日 - 1974年(昭和49年)5月6日)は、日本の政治家。岐阜市長。 戦後の地方自治法による公選で選ばれた、最初の岐阜市長である。 鹿児島県大島郡知名村(現在の知名町)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学)を経て1918年(大正7年)広島高等師範学校(現広島大学)地歴科を卒業し、岐阜県師範学校教諭・訓導となった。1923年(大正12年)京都帝国大学(現京都大学)経済学部選科修了。その後、高知県師範学校教諭、熊本県立人吉高等女学校教諭を歴任した。1930年(昭和5年)に岐阜市視学・学務兵事課長に就任した。 1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)1月まで岐阜市助役を務めた後、辞職。
酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月1… 酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月10日 - 1971年〈昭和46年〉2月16日)は、日本の政治家・篤志家・華族。中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家26代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。 備後福山藩の最後の藩主だった華族の阿部正桓伯爵の次男として生まれ、旧姫路藩主家で伯爵家の酒井家の当主酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年(大正7年)に京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年(大正12年)9月22日に貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し1945年(昭和20年)12月17日まで務める。
持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 197… 持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 1979年8月31日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。県知事、北海道庁長官、衆議院議員。旧姓・小牧。子に衆議院議員の持永和見、自治事務次官の持永堯民。 宮崎県北諸県郡庄内村、現在の都城市出身。持永善一の養子となる。宮崎県師範学校から広島高等師範学校を経て、1921年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り衛生局属となる。以後、和歌山県西牟婁郡長、同県海草郡長、広島県理事官、社会局事務官、社会局社会部の福利課長・保護課長・庶務課長、厚生大臣官房会計課長、傷兵保護院業務局長などを歴任。 1939年7月、愛媛県知事に就任。
中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年… 中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年)5月13日 - 1989年(平成元年)12月31日)は、大正から昭和期の官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・男爵、中御門経隆の三男として生まれた。父の隠居に伴い、1915年(大正4年)10月30日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年、拓殖局嘱託となる。その後、衆議院書記官兼拓務書記官、衆議院秘書課長、同調査部二課長、衆議院事務局議事課長、海軍省事務官、議院制度調査会幹事、議会制度審議会幹事などを務めた。 1939年(昭和14年)6月21日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 198… 岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 1987年10月16日)は、日本の政治家、実業家。京都府出身。 兵庫県知事(官選1期・公選2期)、参議院議員(2期)を歴任した。 1893年(明治26年)、山口県士族・岸田氏美の三男として京都府に生まれる。第三高等学校を経て1916年(大正5年)に京都帝国大学法科を卒業し、高等文官試験に合格するも官僚とはならず大阪商船(現在の商船三井)に入社した。1920年(大正9年)、イタリアのジェノヴァで開催された国際労働者会議に使用者代表の随行員として参加する。日本に帰国後、大阪商船子会社の大阪海上火災(現在の三井住友海上)へ出向して神戸支店および東京支店長を務めた。
紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日… 紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日 - 1970年(昭和45年)1月22日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・今園。 男爵・今園国映の二男として生まれ、男爵・紀俊秀の養子となる。養父の死去に伴い、1940年(昭和15年)11月1日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)京都帝国大学理工科大学機械科を卒業。三井鉱山に入社。1936年(昭和11年)石炭液化工業の視察のためドイツに出張。1937年(昭和12年)満州合成燃料錦州工場の設計・建設に従事。1942年(昭和17年)朝鮮飛行機製作所長に就任。1944年(昭和19年)日本人造石油取締役に出向した。
綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉1… 綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉10月27日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。 東京において、子爵・野宮定穀の五男として生まれ、綾小路家18代当主・綾小路家政の養子となる。養父の死去に伴い、1921年(大正10年)4月30日、子爵を襲爵した。 1920年(大正9年)京都帝国大学経済学部卒業。十五銀行に入行。その後、横山工業監査、帝国鉱業開発監事などを務めた。また、歌会始講頌として披講の講頌役を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し大蔵省委員、税制調査会委員などを務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月2… 北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月25日 - 1957年(昭和32年)1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県桃生郡鷹来村(現在の東松島市)出身。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学を卒業。大阪商船株式会社に入社し、上海、神戸、大阪の支店で勤務した。1923年(大正12年)、仙台市に弁護士事務所を開業し、仙台弁護士会副会長を務めた。1927年(昭和2年)からは宮城県会議員に選出された。 1939年(昭和14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。
田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8… 田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、昭和時代の政治家、弁護士。労働運動家。衆議院議員(3期)。配偶者は婦人活動家の田万明子。 香川県に生まれる。1919年(大正8年)京都帝国大学独法科を卒業する。大学では弁論部初代部長を務め、河上肇に傾倒した。 卒業後、弁護士を開業し労働運動に参加。大阪市会議員、同参事会員、同学務委員、借地借家調停委員、大日本興亜同盟理事を歴任した。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙では大阪府第1区から社会大衆党所属で出馬し当選。つづく第20回、第21回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。
松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2… 松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2月3日 - 1973年(昭和48年)4月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、一関市長、弁護士。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 岩手県東磐井郡松川村(のち東山町、現在の一関市)出身。1918年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補から岐阜、水戸各地裁検事、福島地裁若松支部判事を歴任した後、1923年に退官して弁護士になる。一関町議、岩手県議、一関町長などを務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選し、以来3期務める。戦後の1946年の総選挙で日本自由党公認で立候補して当選。自由党では政調会行政機構改革部長を務めた。
増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明… 増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明治24年〉12月12日 - 1939年〈昭和14年〉2月21日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・中川、旧名・興功。 男爵・中川興長の七男として生まれ、子爵・増山正治の養子となる。養父の隠居に伴い、1924年(大正13年)11月15日に子爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。 1901年(明治34年)侍従職出仕となる。以後、臨時帝室編修局書記、高松宮御用掛兼宮内省御用掛などを務めた。 1936年(昭和11年)1月18日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。
舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明… 舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明治24年)12月2日 - 1967年(昭和42年)11月26日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・舟橋遂賢の長男として生まれる。父の死去に伴い、1924年(大正13年)2月15日に子爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、日本銀行に入行した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで三期在任した。その他、岡田内閣・司法参与官、米内内閣・文部政務次官、戦時金融金庫監事、司法制度調査委員会委員、育英制度創設準備協議会委員などを務めた。
鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉1… 鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉11月12日 - 1956年〈昭和31年〉6月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、写真家、華族。貴族院男爵議員。霞汀(かてい)と号した。位階は従三位。 男爵・鶴殿忠善の息子として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)4月5日に男爵を襲爵した。 学習院を経て、1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。梅田製鋼取締役、大阪無線監査役、日本造船監査役、鐘渕実業嘱託などを務めた。 1943年(昭和18年)5月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30… 木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30日 - 1969年〈昭和44年〉2月12日)は、日本の政治家、内務・外務官僚・外交官。京都府知事を務めた。 1891年10月、宮城県で平民・木村精造の長男として生まれる。旧制第二高等学校を経て、1915年に京都帝国大学法科大学政治科を卒業。 1914年に高等文官試験に合格し、1915年に内務省に入省。東京府内務部農商課長を務めたのち、外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、外務省に転じ、欧米局第一課事務官、在アメリカ合衆国大使館三等書記官・二等書記官、亜細亜局事務官、文化事業部事務官、文化事業部第一課長、第二課長、文化事業部文部書記官、シカゴ領事、マニラ総領事、在ポーランド公使館一等書記官、在ポーランド大使館一等書記官、フィリピン協会常務理事を務めた。
近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月… 近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。
松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月… 松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月7日 - 1977年(昭和52年)2月17日)は、日本の政治家。実業家。参議院副議長(第2代)。参議院議員(1期)。 兵庫県明石市出身。1918年京都帝国大学卒業。卒業後は日本興業銀行に入る。1941年理事に就任。戦後の1946年大和証券の会長となる。翌1947年第1回参議院議員通常選挙で全国区から立候補して当選(3年議員)。自由党政調会長を務める。1949年参議院副議長に就任した。議員を1期で退任後、1952年日本製鋼や東京螺子の社長に就任。1956年国鉄諮問委員、翌年に富士航空社長を務めた。 1965年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 1977年2月17日死去、85歳。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4… 京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4月21日 - 1967年〈昭和42年〉10月2日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・秀雄。位階は従三位。勲等は勲二等。 子爵・京極高徳の五男として生まれる。父の死去に伴い、1928年(昭和3年)6月15日、子爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1935年(昭和10年)6月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1… 米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1日 – 1974年(昭和49年)10月28日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 広島県双三郡吉舎町(現在の三次市)出身。1918年(大正7年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。その間、犬養内閣で三土忠造逓信大臣の秘書官となり、斎藤内閣でも三土鉄道大臣の秘書官を務めた。 その後、吉舎町長に就任した。
綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9… 綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1972年〈昭和47年〉3月24日)は日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。衆議院議員(7期)、衆議院議長(第53代)、運輸大臣(第29・30代)。香川県出身(出生地および選挙区は大分県)。杵築市名誉市民。 戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(久原房之助総裁)に与した。大政翼賛会発足による政党解消後は翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会に所属した。 終戦後の1945年11月、旧日政会系の日本進歩党結党に参加。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は綾部以外では猪野毛利栄、西川貞一、依光好秋、高畠亀太郎、中井一夫、三善信房の6名のみである。
堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 … 堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 - 1947年(昭和22年)2月22日)は、大正から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・黒川。 滋賀県神崎郡、のちの永源寺町甲津畑(現・東近江市甲津畑町)で、浄土真宗大谷派浄源寺住職・黒川霊瑞、マサノの三男(兄2人妹2人)として生まれた。甲津畑尋常高等小学校、滋賀師範学校を経て、1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し、さらに1917年(大正6年)京都帝国大学文科大学哲学科を卒業した。京大入学の際に、滋賀県長浜の医師・堤泰造、コトの末娘(兄2人姉2人)千代と結婚し婿養子となる。養母コトは父方の伯母で、千代は従姉妹である。 小学校訓導を務めた後、1918年(大正7年)2月、新洋丸でハワイに渡航し在ヒロ市日本人ハイスクール校長に就任した。
松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年… 松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年)5月4日 - 1957年(昭和32年)1月23日)は、日本の医師、政治家。松本市長(公選第2代)。位階は正六位。勲五等瑞宝章。 長野県東筑摩郡松本町(現:松本市)生まれ。1915年(大正4年)京都帝国大学医学部を卒業し、同大内科教室助手として勤務した後、1918年(大正7年)7月、内科医を開業。松本精神病院管理院長に就任した。1929年(昭和4年)から松本市会議員に4回当選、昭和22年から26年まで議長も務める。その後、長野県会議員に2回当選。日本医師会代議員、長野県医師会長も歴任した。 1951年(昭和26年)4月から松本市長を2期務める。
高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10… 高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月26日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員。 和歌山県和歌山市出身。広島高等師範学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学経済学部を卒業。同年鉄道省に入省し大臣官房書記に任じられ、1923年(大正12年)12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局大阪運輸事務所長、門司鉄道局運輸部長、鉄道省陸運監理官、東京鉄道局事業部長などを歴任。その間、学習院助教授を務めた。1938年(昭和13年)4月に退官して日本通運理事に就任し、大阪支店長、常務取締役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日… 原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は官僚、政治家。第12代神戸市長。工学博士、参議院議員。
織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日… 織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家、漫画原作者。貴族院議員。爵位は子爵。筆名は織田 小星(おだ しょうせい)。漫画『正チャンの冒険』の原案・文を作った。織田信正、織田信昭の父。 1889年(明治22年)8月3日、元相馬中村藩藩主の子爵相馬誠胤の長男として東京府に生まれる。生母は東明氏。初名は相馬秀胤(そうま ひでたね)。1895年(明治28年)6月、元天童藩藩主の子爵織田信敏の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父信敏の死去により襲爵。学習院高等科 (旧制)を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。
木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18… 木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18日 - 1977年〈昭和52年〉4月6日)は、日本の華族・官僚・政治家。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。
林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年… 林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年)3月24日 - 1960年(昭和35年)4月5日)は、日本の政治家。第41代衆議院議長、副総理、厚生大臣、初代内閣官房長官、内閣書記官長、高知県議会議員を歴任。位階勲等は従二位勲一等旭日桐花大綬章。 自由民権運動家としても活躍した明治・大正期の政治家・林有造の次男として高知県幡多郡宿毛村(現:宿毛市)に生まれた。戦後の内閣総理大臣・吉田茂の又従弟に当たる。1918年(大正7年)京都帝国大学法科大学独法科を卒業する。三菱倉庫勤務を経て1923年(大正12年)に宿毛町長、1927年(昭和2年)に高知県会議員となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889… 江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889年〈明治22年〉1月 - 1935年〈昭和10年〉)は、日本の政治家(下関市会議員)、家主、工学博士。参議院議員江島淳の父。参議院議員江島潔の祖父。 山口県人・熊野報介の三男。先代伊助の養子となり1916年、家督を相続する。海軍大尉に任ぜられる(のち海軍少佐)。1922年、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業する。のち工学博士の学位を授けられる。 推されて下関市参事会員である。方面委員である。住所は山口県下関市貴船町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、18… 柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、1888年〈明治21年〉12月20日 - 1960年〈昭和35年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・柳沢保申の長男として生まれ、義兄柳沢保恵の養子となる。養父・保恵の死去に伴い1936年(昭和11年)6月15日、伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)京都帝国大学法科大学を卒業。1921年(大正10年)私立大阪信愛高等女学校講師となる。以後、柳沢統計研究所総裁、日本錫工業取締役会長、太平洋海上火災保険取締役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12… 後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12月10日 - 1949年〈昭和24年〉3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県葉栗郡、のちの羽島郡小熊村(現羽島市)出身。1917年(大正6年)、京都帝国大学哲学科卒。私立花園中学校教諭、羽島郡仏教会副会長、岐阜県嘱託講師、妙心寺派宗会副議長、同議長、同派宗務総長、同派教学財団理事長、仏教連合会幹事、雑誌「正法論」主筆、同「表現」主幹、日本ビルマ協会常任理事となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選した。1932年(昭和7年)の第18回総選挙で再選。