田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8… 田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8日 – 1977年(昭和52年)6月10日)は、日本の農林官僚、政治家。富山県知事、衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 岐阜県出身。田中喜三郎の長男として生まれる。東京高等師範学校を経て、1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、京都師範学校教諭を経て農商務省に入省し農務局属となる。 以後、農林事務官、東京競馬倶楽部書記長兼理事、日本競馬会理事、農林省山林局木炭第一課長、農林大臣秘書官、米穀管理局第一部長、食品局長、九州地方行政協議会参事官、九州地方総監府第二部長などを歴任。戦後、1946年1月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。
日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日… 日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日 - 1974年(昭和49年)5月31日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(当選1回)、医学博士。 島根県邑智郡、後の出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で生まれる。旧制島根県立杵築中学校、旧制第六高等学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学医学部を卒業。その後、同大学院で研修し、1929年(昭和4年)医学博士を取得した。興仁会病院(浜田市)勤務、浜病院(新宮市)勤務を経て、1931年(昭和6年)松江市で日高医院を開業した。 1947年(昭和22年)島根県医師会長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙に島根県全県区から自由党から立候補して3位で当選。
青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年1… 青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年11月30日、正字では靑山)は、日本の美術評論家、美学者、工芸研究者、装丁家、書店経営者。麻布中学校、第四高等学校 (旧制)一部法科独法、京都帝国大学文学部美学科卒。東西の美術に精通し、画集の出版等による紹介を行う。柳宗悦らによる民藝運動の同伴者となり、工藝美術の定義に関して啓発活動を行った[3]。また、有島生馬らによる一水會運動にも協力した。装丁家・美術評論家の青山二郎は弟。
黎 世蘅(れい せいこう、1896年 – 1977年)は、中… 黎 世蘅(れい せいこう、1896年 – 1977年)は、中華民国・中華人民共和国の経済学者・教育者・官僚。字は子鶴。経済学者として活動した一方、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)において官僚をつとめたことがある。 日本に留学し、1919年(民国7年/大正7年)、京都大学経済学部に入学した。1922年(民国11年/大正11年)、同学部を卒業、経済学士を取得したと見られる。帰国後、1922年(民国11年)、国立北京大学経済系講師兼私立民国大学校長となる。1925年(民国14年)2月17日、教育部編審処編審員に任命された。1928年(民国17年)、国立北平大学法学院教授となる。1930年(民国19年)から1937年(民国26年)まで北平成達初級中学校長兼中法大学院教務主任をつとめた。
菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 197… 菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 1972年9月23日)は、日本の神学者、教育者、翻訳家。 立教大学名誉教授、立教大学文学部長、立教学院理事、立教高等女学校(現・立教女学院中学校・高等学校)校長、立教女学院小学校校長、立教女学院院長・理事、世界キリスト教協議会理事長、日本聖公会司祭。 1895年、京都府で生まれた。父の菅寅吉は日本聖公会の聖職者で、岸和田聖保羅教会で牧師を務めた人物である。主教であるチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)は、寅吉一家と一時期京都で生活を共にしたこともあり、その後も一家と深く親交した。寅吉の3人の子供たちは、洗礼名として長男の円吉から順にウィリアムズ、チャニング、ムーアとそれぞれウィリアムズの名前からとって名づけられ、ウィリアムズも子供たちを可愛がった。
中村 隆寿(なかむら たかひさ、1895年(明治28年)12… 中村 隆寿(なかむら たかひさ、1895年(明治28年)12月15日 - 1973年(昭和48年)7月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第29期、陸軍砲工学校高等科、京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、工学博士の学位を取得している。1939年(昭和14年)に陸軍工兵大佐に進級し、陸軍技術本部米国駐在官となる。1941年(昭和16年)に陸軍燃料廠廠員を経て、1942年(昭和17年)に南方燃料廠南スマトラ支廠長に就任し、太平洋戦争に出動。 1943年(昭和18年)8月に陸軍少将に進級し、9月に陸軍燃料廠附を経て、1944年(昭和19年)1月に陸軍燃料廠研究部長、3月に陸軍燃料廠技術部長を歴任した。
神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月… 神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月21日 - 1971年(昭和46年)4月8日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・神山郡昭の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1932年(昭和7年)8月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、鉄道省に入省し鉄道局書記に就任。以後、鉄道属、鉄道局副参事、東京鉄道局千葉運輸事務所長、鉄道省輸送実費調査委員会幹事などを務めた。 1940年(昭和15年)11月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日まで一期在任した。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)… 中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)11月1日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の弁護士、弁理士。日本弁護士連合会会長、日本弁理士会会長、国際工業所有権保護協会日本部会(現日本国際知的財産保護協会)会長。 1895年(明治28年)11月出生。中松盛雄の長男。1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部英法科を卒業し東京帝国大学大学院に入り産業法を専攻。弁護士・弁理士資格を取得し、1946年(昭和21年)には、父・盛雄が開設した中松特許法律事務所の代表となる。 1963年(昭和38年)に、国際工業所有権保護協会日本部会の第2代会長に就任。日本国際知的財産保護協会では、その功績を記念して1996年(平成8年)にAIPPI中松記念スカラーシップ(中松澗之助スカラーシップ)を設けている。
源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 20… 源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 2001年1月17日)は、日本を代表する日本美術史家、文学博士。専門は仏教美術史。 関西学院大学教授、帝塚山学院大学教授などを歴任。1952年から1976年まで文化財保護審議会専門委員を務めた。著書に「日本美術史論究」、「日本美術史図録」、「大徳寺」などがある。元大阪芸術大学教授で文芸評論家の源高根は息子。 福井県武生市(現:越前市)に生まれる。1918年、曹洞宗大学(のちの駒澤大学)卒業。その後、京都帝国大学に進み、1925年京都帝国大学文学部美学美術史科卒業。在学中から仏教美術に関心を持っていた。源 豊秋の筆名で論文「気比神社の桃太郎彫刻」(1923年)を発表。
村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 198… 村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 1985年9月22日) は、建築史家。京都大学名誉教授、明石工業高等専門学校名誉教授。 1895年、山口県大島郡で生まれた。幼少期は郷里である同地で過ごし、中学校校長の父の転勤に伴って中学校入学の際に兵庫に出て、1912年に兵庫県立第一神戸中学校に入学。1917年より第一高等学校第二部甲類で学び、1920年7月に卒業。同年、京都帝国大学工学部建築学科に入学。建築学科は同年に新設された学科であり、武田五一、日比忠彦、天沼俊一教授の教育体制で14名の学生が在籍した。1923年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、1年間の兵役に就いた。卒業論文は『新羅瓦塼雑考』。
相良 徳三(さがら とくぞう、1895年8月4日 - 197… 相良 徳三(さがら とくぞう、1895年8月4日 - 1976年8月21日)は、日本の美学美術史学者、成城大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市船津町出身。京都帝国大学美学美術史学科卒。東京日日新聞、成城高等学校、日本大学、北京師範大学、宮崎大学で教え、成城大学教授、1966年定年退任、名誉教授。美学・美術史などを研究、文芸評論や英文学の翻訳もおこなった。伊集院 斉の別名を使った。
仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月… 仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月5日 - 1960年(昭和35年)10月13日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧出石藩主家嗣子・仙石政敬の長男として生まれる。父の死去に伴い家督を相続し、1935年(昭和10年)11月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。1925年(大正14年)日本郵船に入社した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。墓所は多磨霊園(12-1-5-17)。
菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1… 菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1976年7月6日)は、日本の政治家。大阪経済大学教授。
林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月… 林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月5日 - 1981年〈昭和56年〉2月5日)は、日本の電気工学・物理工学者、電気エネルギー工学者。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。工学博士。京都電燈(現:関西電力)元研究員。 専門は、光工学・物理光学(のちの光エレクトロニクス)、発電/送配電工学(のちの電気エネルギー工学)、放電工学(のちのプラズマ工学)。 1920年京都帝国大学工学部卒業(指導教授:黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮で電気学会元会長の鳥養利三郎)。京都電燈(関西電力の前身)にて蛍光放電管・発電/配電系統の研究に従事。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任、電気工学教室担当。
谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月… 谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月26日 - 1989年〈平成元年〉9月27日)は、日本の哲学者、翻訳家、評論家。法政大学総長などを務めた。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。 ジンメル、ゲーテの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。 1895年5月26日、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年、旧制第一高等学校に入学。在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、西田に師事する。
稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5… 稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5月15日 - 1976年(昭和51年)5月22日)は、日本の植物学者である。旧姓は土岐。 大分県に生まれ、京都帝国大学(現在の京都大学)入学し理学部植物学科に所属する。1927年(昭和2年)に卒業後は、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に勤務し同校で教鞭を執った。その後は東京文理科大学の教授を経て、1949年(昭和24年)に両校は統合され東京教育大学の教授として活動をする。 1955年(昭和30年)より奈良教育大学の学長に就任し、1971年(昭和46年)に退任するまで細胞生物学の研究に携わった。特にヒガンバナ属の模型を用いた種分化の解明に貢献したことにより、理学博士を取得した。
荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1… 荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1981年11月27日)は、日本の医学者、京都大学名誉教授、関西医科大学学長・名誉教授、杏林学園理事。 荻生家は儒学者である荻生徂徠で有名な家系である。 規矩夫の父、荻生録造は、旧姓を福永といった。1859年、幕臣福永清右衛門の三男として江戸麻布新網町で生まれ、荻生家に養子に入りその家督を継いだ。明治維新に伴う徳川家の駿河転封にあたり現在の静岡県沼津市八幡町に移り住んだ。そののち、東大医科に入学し、千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)眼科学第2代教授となり、近代眼科学の礎を築いた。 規矩夫は録造の三男として1895年に千葉県千葉市猪花町79番地で生まれる。
森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 19… 森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 1983年2月13日)は、日本の建築家。建築研究者。三重県生まれ。京都大学名誉教授。また東海大学教授を歴任。過去の様式からの分離を宣言した分離派建築会に名を連ね設計活動を始めるが、西洋建築の歴史的研究を経て、ギリシアやローマの古典精神を探求し、建築論研究にも力を注いだ。 県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年(大正9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。 1934年に「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治… 当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治28年)3月25日 - 1971年(昭和46年)10月20日)は、戦前の沖縄県および琉球政府の政治家・裁判官。那覇市長・琉球政府行政主席(1956年11月11日 - 1959年11月10日)。フランス語に堪能な人物だった。 ジャーナリストで初代那覇市長だった当間重慎の息子として沖縄県那覇(現・那覇市)に生まれる。沖縄県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出され、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部長を務めた。 沖縄戦後には一転沖縄民政府行政法務部長を歴任し、1946年には戦前の市町村長経験者を市町村長に起用する米軍の特別措置に伴い再度那覇市長に就任。
木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 19… 木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 1946年2月12日)は、日本の哲学者・教育学者。 1895年、石川県生まれ。京都帝国大学哲学科選科を卒業。卒業後は、広島高等師範学校教授となった。1940年、学位論文『実践的存在の基礎構造 教育哲学の考察に向けられたるフイヒテ哲学の一つの研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。同1940年に京都帝国大学教授となり、教育学を担当した。 大西正倫『表現的生命の教育哲学―木村素衞の教育思想』(2011、昭和堂)門前斐紀『木村素衞「表現愛」の人間学―「表現」「形成」「作ること」の身体論』(2019、ミネルヴァ書房)蜂谷俊隆「糸賀一雄と木村素衛──教養の思想を中心に」『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』(2017、ミネルヴァ書房) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17… 尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17日 - 1982年12月21日)は、韓国の産婦人科医師、軍医である。朝鮮戦争時、彼は軍医官として在職し軍医官を教育、育成した。尹雄烈の庶子であり政治家である尹致昊の異母弟。字は「聖雲」、号は「南圃」。日本名は「伊東致旺」。 1895年、漢城府生まれ。京都帝国大学で学び、1930年8月5日、京都帝国大学大学院で医学博士号を取得(産婦人科分野)。また、グラスゴー大学大学院 医学修士(産婦人科分野)。 1949年8月18日、陸軍本部医務監となる(~1953年9月5日)。。 1953年5月16日、少将に任ぜられる。1956年11月より、第2軍管区司令官。
野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11… 野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11日 - 1978年(昭和53年)3月28日)は、日本の実業家。阪神電気鉄道社長・会長、阪神百貨店社長、阪神不動産社長、阪神タイガースオーナーなどを歴任。阪神甲子園球場の設計者でもある。大阪北ロータリークラブ初代会長。朝日放送元取締役。勲二等瑞宝章受章。1974年野球殿堂入り。 現在の兵庫県加西市出身。旧制姫路中学(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、旧制第八高等学校、京都帝国大学工学部卒業後、1922年に阪神電鉄へ入社。1924年から甲子園球場建設の設計主任として携わり、1941年に取締役、1951年に社長に就任。1967年から5年間、会長を務めた。
小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7… 小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7日 - 1979年〈昭和54年〉5月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県佐用郡三日月村(三日月町を経て現佐用町)で、小笹力之助の長男として生まれた。1919年(大正8年)京都帝国大学法科大学仏法科卒。三日月町議、兵庫県会議員、同副議長、同議長となり、佐用合同銀行頭取、兵和銀行(現:神戸銀行)取締役、兵庫県食糧営団理事、同森林組合連合会副会長、同林材協会長、兵庫県地方木材(株)社長となる。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選、1期務める。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
山田 武雄(やまだ たけお、1895年(明治28年) - 1… 山田 武雄(やまだ たけお、1895年(明治28年) - 1987年(昭和62年)3月7日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事。 兵庫県出身。第六高等学校を卒業。1922年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、東京府総務部庶務課長、山形県書記官・学務部長、富山県書記官・警察部長、石川県書記官・警察部長、新潟県書記官・経済部長、群馬県書記官・総務部長などを歴任。1941年1月、愛知県書記官・総務部長に就任。 1943年8月、島根県知事に就任し終戦を迎えた。1945年8月24日未明、松江騒擾事件が発生し、県庁が焼き討ちされたが暗殺を免れた。
林 信夫(はやし のぶお、1894年(明治27年)12月24… 林 信夫(はやし のぶお、1894年(明治27年)12月24日 - 1972年(昭和47年)11月16日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 和歌山出身。林治の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1919年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、兵庫県印南郡長、長崎県理事官、埼玉県参事官、山形県書記官・学務部長、青森県書記官・警察部長、警視庁書記官・保安部長、岡山県書記官・総務部長、東京府書記官・総務部長などを歴任。 1937年1月、茨城県知事に就任。県民の負担増の抑制のため財政の立て直しと、緊急事業の実施に尽力。
成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月… 成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。兵庫県知事(官選第28代)、石川県知事(官選第36代)、台湾総督府総務長官、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。成田喜十郎の長男として生まれる。広島高等師範学校を経て、1920年(大正9年)、京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、埼玉県属となる。埼玉県児玉郡長、警視庁警視、内務省社会局事務官、社会局労働部労務課長、同庶務課長、資源局事務官などを歴任。 1936年(昭和11年)、内務書記官兼内務大臣秘書官となり、大臣官房人事課長、社会局労働部長、厚生省労働局長などを務める。
徐 椿(ソ・チュン、서춘、日本名:大川慈種(おおかわ じしゅ… 徐 椿(ソ・チュン、서춘、日本名:大川慈種(おおかわ じしゅ)、大川豊注(おおかわ ほうちゅう)、1894年11月24日 - 1944年4月5日)は、日本統治時代の朝鮮の言論人(ジャーナリスト)。二・八独立宣言に参加した独立運動家だったが、後に親日言論人に変節した。号は五峰(오봉)。 平安北道定州の五山学校(五山高等学校の前身)を卒業し、日本に留学して、東京高等師範学校に学んだ。京都帝国大学在学中だった1919年、三・一運動の導火線となった東京における二・八独立宣言において(宣言に署名した)実行委員11人、逮捕された9人代表のひとりとして参加した。この事件で逮捕され、禁錮9か月を宣告されて、服役した。
吉川 元光(きっかわ もとみつ、明治27年(1894年)11… 吉川 元光(きっかわ もとみつ、明治27年(1894年)11月12日 - 昭和28年(1953年)2月19日)は、明治時代から昭和にかけての華族。爵位は子爵。毛利家の一門・旧岩国藩主吉川家当主。旧名・吉川光。父は吉川重吉、妻は吉川経健の娘、芳子。弟に宮内庁官僚で宮中儀礼の専門家の吉川重国。子に吉川重喜、吉川光喜。孫に吉川重幹・吉川重廣。 岩国藩主吉川家の一族、吉川重吉の子として生まれた。明治42年(1909年)、男子のなかった伯父で吉川子爵家当主の吉川経健の養子となった。大正6年(1917年)に経健の娘芳子と結婚する。大正9年(1920年)に京都帝国大学を卒業した。 小野田セメント、義済堂、岩国電気軌道の株主であり、また資産家でもあった。
小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - … 小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - 1961年12月16日)は、日本の財政学者。 福岡県糟屋郡須恵村に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館、1917年第五高等学校を経て、1920年7月京都帝国大学法科大学を卒業。同年10月同大学大学院経済研究科に進み、1922年1月から財政学研究のため文部省在外研究員としてドイツ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ合衆国、メキシコに留学。その間、1924年8月和歌山高等商業学校教授(財政学担当)となり、同年10月京都帝国大学大学院を修了。1927年帰国し、1928年2月和歌山高等商業学校を退職。 1928年3月台北帝国大学教授に就任、1931年2月同大学を退職。
加藤 信義(かとう のぶよし、1894年10月28日 - 1… 加藤 信義(かとう のぶよし、1894年10月28日 - 1959年4月1日)は、日本の電気工学・電子工学者。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授・電気工学教室同窓会洛友会元副会長。大阪工業大学第2代学長。京都大学・大阪工業大学電子工学科創設者。通産省電子工業審議会元委員・電波技術審議会元委員。電子情報通信学会第34代会長。輻射科学研究会初代理事長。赤外線連合会元会長。日本学術振興会第34特別委員会委員。関西教育工業協会初代副会長。 専門は、電気工学・高周波回路、電気通信・無線工学(特に赤外線・妨害電波)、電子工学・電子顕微鏡。 1894年山口県生まれ。旧姓は蛭子屋。1918年京都帝国大学工科大学電気工学科卒業(指導教授:黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮で電気学会元会長の鳥養利三郎)。
上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - … 上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - 1991年10月29日)は、染織文化研究者。 新潟県刈羽郡生まれ。号は元人(げんじん、もとんど)。京都高等工芸学校染色学卒。京都帝国大学工学部工業化学科卒、同大助手。関西学院大学理工科講師、武庫川女子大学教授、1950年大阪学芸大学教授。58年定年退官、同年「上代文学に現れた色名・色彩並に染色の研究」で京都大学理学博士。県立新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学初代学長、四天王寺女子大学教授、日本染織学園園長を兼任。旭川市の優佳良織(ゆうからおり)工芸館内国際染織美術館館長。 日本の古代染織を研究し、宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たる。
後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月3… 後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月30日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。住宅営団理事。 愛知県出身。1919年(大正8年)、高等試験に合格し、翌年に京都帝国大学法学部英法科を卒業した。千葉県属、同警視、和歌山県理事官、同事務官、新潟県事務官、石川県書記官・学務部長、北海道庁学務部長、佐賀県書記官・警察部長を歴任。1939年(昭和14年)より三重県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長、北海道庁総務部長を務めた。 1941年(昭和16年)に退官した後は、住宅営団理事・大阪支所長となった。 戦後は京都市助役を務めた。
笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月… 笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月5日 - 1968年〈昭和43年〉5月16日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。京都大学名誉教授、日本生理学会特別会員、日本体力医学会名誉会員。日本鍼灸学会初代会長。 新潟県西蒲原郡金巻村大字大野町(現 新潟市西区大野町)出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第四高等学校を卒業、1923年(大正12年)6月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1925年(大正14年)6月に京都帝国大学医学部生理学第二講座(担任:石川日出鶴丸教授)助手に就任、1928年(昭和3年)11月に大阪高等医学専門学校教授に就任、1929年(昭和4年)6月に京都帝国大学から医学博士号を取得。
石田 幸太郎(いしだ こうたろう、1894年8月15日 - … 石田 幸太郎(いしだ こうたろう、1894年8月15日 - 1987年6月6日)は、日本の英文学者、ノートルダム女子大学名誉教授。 京都府出身。1919年(大正8年)京都帝国大学英文学科を卒業後、万朝報の記者を務める。その後、梅花女子専門学校教授、国民社編集長を経て立命館大学教授。さらにノートルダム女子大学教授を務めた。英文学、比較文学の研究を行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7… 前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月17日)は、日本の整形外科医、医学博士、慶応義塾大学教授。 大阪市出身。1920年京都帝国大学医学部卒。卒業後は同大学の副手となる。1922年に助手となり、翌年同大学院に入り、1925年学位を受け、講師となる。1926年熊本医大(現・熊本大学医学部)教授兼整形外科医長となり、1928年慶應義塾大学医学部教授兼整形外科教室主任。1948年医師国家試験委員。1951年立川病院長も兼任した。この間文部省在外研究員として欧米に留学。日本外科学会、日本整形外科学会、日本胸部外科学会、麻酔学会の各会長を務めた。
井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日… 井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日 - 1969年(昭和44年)10月4日 )は、岡山県出身の医学者。京都大学名誉教授。京都帝国大学医学部教授、新制京大医学部教授を経て、同大学ウィルス研究所長、第16代京都大学医学部附属病院長兼評議員。 1894年(明治27年)に岡山県児島郡宇野町(現:玉野市)で生まれる。その後、旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を1912年(明治45年)に卒業し、第六高等学校第三部(医科)へ入学する。1915年(大正4年)に同高校を卒業し、京都帝国大学医学部へ入学する。医学部では第二内科に所属し、1924年(大正13年)「胆汁排泄に関する臨床的研究」で博士号を取得した。
藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月… 藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月19日 - 1972年(昭和47年)2月29日)は、第30代浄土真宗本願寺派総長、同派教尊寺11代住職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 198… 荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 1984年2月5日)は、日本の内務官僚。県知事、台湾総督府警務局長。 兵庫県出身。荒木矩の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1919年京都帝国大学法学部法律学科卒業。伊藤忠に入り、1921年、内務省特殊財産管理局嘱託となる。1922年11月、高等試験行政科試験に合格し内務属となる。 以後、福井県警視、鹿児島県・福井県の各地方事務官、三重県工場監督官、山梨県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、大阪府書記官・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。 1939年9月、徳島県知事に就任。1940年12月に退任し、台湾総督府に転じ警務局長となる。
三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5… 三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5月28日 - 1978年(昭和53年))は、日本の歴史学者、政治家。 宮崎県日向市生まれ。広島高等師範学校を卒業。京都大学経済学部卒業。中国や台湾に渡り教鞭をとる。終戦後宮崎へ引き揚げる。町長・市長を歴任。日向市名誉市民に選ばれる。 著書に『黒田の家臣物語』『日知屋物語 三尾良次郎作品集』がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山内 逸造(やまうち いつぞう、1894年(明治27年)5月… 山内 逸造(やまうち いつぞう、1894年(明治27年)5月21日 - 1979年(昭和54年)2月14日)は、日本の内務・警察官僚。官選奈良県知事。従四位。勲三等瑞宝章。 岐阜県出身。山内謙次郎の息子として生まれる。1922年、京都帝国大学法学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、三重県警視・地方事務官、福島県・埼玉県各勤務、島根県書記官・警察部長、秋田県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、内務事務官、東京府総務部長、内務省計画局都市計画課長、内閣総理大臣秘書官などを歴任した。 1940年11月、奈良県知事に就任。
益田 道三(ますだ みちぞう、1894年5月17日 - 19… 益田 道三(ますだ みちぞう、1894年5月17日 - 1965年10月12日)は、英文学者・比較文学者。 大阪市北区生まれ。1916年東京高等師範学校英語科卒、地方公務員の教師となり、鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)教諭、1917年佐賀県立鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)教諭、1925年京都帝国大学文学部英文科卒、1926年兵庫県立第一神戸高等女学校(現兵庫県立神戸高等学校)教授、1929年大阪商科大学教授、1940年勲六等瑞宝章受勲。1949年校名変更で大阪市立大学法文学部教授、57年定年退官、神戸山手女子短期大学教授。
能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 … 能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 - 1955年〈昭和30年〉2月25日)は、日本の能楽研究者・日本文学者。専門は、中世・近世文学。奈良学芸大学学長等を歴任。能楽研究の分野では、膨大な史料を分析的に使う手法と卓抜した創見で斯界に一時代を画した。 1894年、京都府北桑田郡山国村(現京都市)に生まれた。1923年、京都帝国大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、1924年より大谷大学教授となった。以降、京都帝国大学、東京高等師範学校、東京文理科大学(1949年に新制移行後東京教育大学、後筑波大学)などでも教鞭をとった。1947年に学位論文『能楽源流考』を東京文理科大学に提出して文学博士の学位を取得。
竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 197… 竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 1973年4月30日)は、日本の弁護士、実業家、政治家。位階は従三位。 大阪市会議員、衆議院議員(4期)、地方財政委員会委員長(初代)、厚生大臣(第16代)、神鋼商事株式会社社長などを歴任した。 石川県出身。1918年、京都帝国大学法科大学法律科を卒機後、鈴木商店に入社し、支配人金子直吉の秘書を務めた。その後弁護士となり、さらに大阪市会議員となる。また樺太ツンドラ工業、大聖寺商業等各社の社長を歴任する。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府第2区から立憲民政党公認で立候補し当選。以後、18、22、23回総選挙に当選。戦前は、同郷である拓務大臣の永井柳太郎の下で大臣秘書官などを務めた。
岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年1… 岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年10月1日)は、日本の実業家。住友電気工業社長、会長を務めた。 大阪府泉佐野市出身。1918年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友銀行での勤務を経て、1937年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職。 総務部長、経理部長、取締役、常務を経て、1947年から1956年11月までに社長を務め、1956年11月から1962年6月までに会長を務めた。1962年以降は相談役を務めた。 日本電気取締役、関西テレビ放送監査役なども歴任した。 1965年春に勲三等瑞宝章を受章した。 1982年10月1日、呼吸不全のために大阪市の住友病院で死去。88歳没。
大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月… 大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月17日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大岡忠明の息子として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)2月16日に子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)朝鮮銀行に入行し、その後、同行東京支店支配人代理を務めた。 1932年(昭和7年)11月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで2期在任した。この間、鈴木貫太郎内閣・陸軍参与官、司法省委員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年… 村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年3月16日 - 1977年8月7日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社長、社主。 旧岸和田藩主・岡部長職の三男として東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 1919年3月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。同年10月、朝日新聞社初代社主の村山龍平の長女・藤子と結婚し、村山家の婿養子となった。翌1920年6月、朝日新聞社に取締役・計画委員長として入社。大阪・東京両朝日新聞の計画部長、航空部長、大阪朝日新聞印刷局長、朝日ビルディング初代社長を歴任し、1933年12月朝日新聞社会長に、1940年5月社長に就任した。 しかし主筆として社長を凌ぐ声望を持つ代表取締役緒方竹虎に反感を持ち、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役原田譲二や、緒方の出身の政治部、経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京本社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役鈴木文四郎らと結ぶようになった。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1… 潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1日 - 1948年〈昭和23年〉8月30日)は、日本の国文学者。専門は近世文学、とくに俳諧史研究に業績を残す。学位は、文学博士(1947年)。病によりかつて依願免官した京都大学助教授に1948年8月再び着任するが、同月30日に逝去、死去日を以て、京都大学教授。 1894年、長崎県南松浦郡北魚目村(現長崎県南松浦郡新上五島町)生まれ。1917年3月、東京高等師範学校国語漢文学卒業。1921年3月、京都帝国大学文学部卒業後、京都帝国大学大学院入学。1928年3月、京都帝国大学大学院退学。 1931年4月、京都帝国大学助教授に着任するも、1936年4月に病気により依願免官。
山本 修二(やまもと しゅうじ、1894年1月29日 - 1… 山本 修二(やまもと しゅうじ、1894年1月29日 - 1976年1月22日)は、日本の英文学者、演劇研究者。 京都生まれ。探墓家として知られた小学校教員山本臨乗の次男。1919年京都帝国大学文学部英文科卒、1921年龍谷大学教授、1925年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1954年定年退官、名誉教授、立命館大学教授、1967年龍谷大学教授。アイルランド演劇の研究などをおこなうほか歌舞伎評論もした。森本薫と親しく、田宮虎彦は門下生(三高時代の教え子)。