堀内 利器(ほりうち りき、1891年12月10日 - 19… 堀内 利器(ほりうち りき、1891年12月10日 - 1942年5月8日)は、日本の発明家。 千葉県一宮町で一宮藩士であった堀内家に生まれる。第一高等学校時代には芥川龍之介の1年先輩であり、芥川は1914年と1916年の2度、堀内に誘われ一宮に滞在している。1918年に京都帝国大学理学部を卒業した。東京ミツワ化学研究所や大学の副手を経て、1920年に高砂香料株式会社創立に当たり懇望されて同社の研究部に入り、研究を行った。ここでは社長の甲斐荘楠香と協力し香料の発明製造を行った。 1928年に理学博士の学位を取得した。1937年時点では高砂香料の取締役兼技師長、早稲田大学の講師を務めていた。 高砂香料の専務を務めていた1942年5月に九州西南沖(南シナ海)で殉職した。
舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明… 舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明治24年)12月2日 - 1967年(昭和42年)11月26日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・舟橋遂賢の長男として生まれる。父の死去に伴い、1924年(大正13年)2月15日に子爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、日本銀行に入行した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで三期在任した。その他、岡田内閣・司法参与官、米内内閣・文部政務次官、戦時金融金庫監事、司法制度調査委員会委員、育英制度創設準備協議会委員などを務めた。
鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉1… 鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉11月12日 - 1956年〈昭和31年〉6月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、写真家、華族。貴族院男爵議員。霞汀(かてい)と号した。位階は従三位。 男爵・鶴殿忠善の息子として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)4月5日に男爵を襲爵した。 学習院を経て、1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。梅田製鋼取締役、大阪無線監査役、日本造船監査役、鐘渕実業嘱託などを務めた。 1943年(昭和18年)5月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30… 木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30日 - 1969年〈昭和44年〉2月12日)は、日本の政治家、内務・外務官僚・外交官。京都府知事を務めた。 1891年10月、宮城県で平民・木村精造の長男として生まれる。旧制第二高等学校を経て、1915年に京都帝国大学法科大学政治科を卒業。 1914年に高等文官試験に合格し、1915年に内務省に入省。東京府内務部農商課長を務めたのち、外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、外務省に転じ、欧米局第一課事務官、在アメリカ合衆国大使館三等書記官・二等書記官、亜細亜局事務官、文化事業部事務官、文化事業部第一課長、第二課長、文化事業部文部書記官、シカゴ領事、マニラ総領事、在ポーランド公使館一等書記官、在ポーランド大使館一等書記官、フィリピン協会常務理事を務めた。
近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月… 近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。
松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月… 松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月7日 - 1977年(昭和52年)2月17日)は、日本の政治家。実業家。参議院副議長(第2代)。参議院議員(1期)。 兵庫県明石市出身。1918年京都帝国大学卒業。卒業後は日本興業銀行に入る。1941年理事に就任。戦後の1946年大和証券の会長となる。翌1947年第1回参議院議員通常選挙で全国区から立候補して当選(3年議員)。自由党政調会長を務める。1949年参議院副議長に就任した。議員を1期で退任後、1952年日本製鋼や東京螺子の社長に就任。1956年国鉄諮問委員、翌年に富士航空社長を務めた。 1965年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 1977年2月17日死去、85歳。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年… 浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年〉5月21日 - 1965年〈昭和40年〉10月8日)は日本の医学博士、尺八奏者。山形県鶴岡市出身。号である浦本 浙潮(うらもと せきちょう)の名でも知られる。 1891年(明治24年)、山形県西田川郡大宝寺村新斎部万年橋(現在の鶴岡市新海町)の名家、榊原家に生まれる。幼少期を鶴岡市で過ごすが、荘内中学校在学中に熊本の浦本家に入り、熊本中学校に転校する。その後は旧制五高、京都帝国大学医科大学、同大学院を経て1921年(大正10年)に医学博士となる。その後は東京慈恵会医科大学の教授を務め、1951年(昭和26年)ごろに退職、浦本研究所を開設する。
安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5… 安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の商人(薬種貿易商)、実業家。族籍は大阪府平民。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住瀧蔵の二男。叔父・安住伊三郎の養子となる。1913年、第三高等学校卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業。 薬種貿易商で、殺虫剤製造業及び輸出業を営む。安住大薬房社長・同常務取締役・同専務取締役、安住産業会長・同取締役、タイ国名誉副領事などをつとめる。 宗教は真言宗。趣味は釣魚、長唄。大阪市在籍で、住所は大阪府豊能郡箕面半町(現・箕面市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 197… 斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 1970年7月5日 )は、日本の英語学者。福井大学名誉教授。旧姓:菅原 宮城県生まれ。京都帝国大学選科卒業。 愛知県一宮中学校、福井県大野中学校、福井中学校各教諭、小浜中学校長、大野中学校長を経て昭和12年福井高等工業学校講師。24〜34年福井大学教授、同名誉教授。 晩年、東北学院大学教授を務めた。 7〜17年個人雑誌「英語学研究」を発刊、海外の論文を紹介した。 著書「Living English Readers」、「近代英語後期」「双解英和辞典」「米語辞典」「日本語に及ぼしたオランダ語の影響」などがある。福井市名誉市民。
京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4… 京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4月21日 - 1967年〈昭和42年〉10月2日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・秀雄。位階は従三位。勲等は勲二等。 子爵・京極高徳の五男として生まれる。父の死去に伴い、1928年(昭和3年)6月15日、子爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1935年(昭和10年)6月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月… 瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。
米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1… 米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1日 – 1974年(昭和49年)10月28日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 広島県双三郡吉舎町(現在の三次市)出身。1918年(大正7年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。その間、犬養内閣で三土忠造逓信大臣の秘書官となり、斎藤内閣でも三土鉄道大臣の秘書官を務めた。 その後、吉舎町長に就任した。
土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月… 土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月15日 - 1934年(昭和9年)4月25日)は、日本の哲学者・評論家。大正・昭和を通じて活動した。画家の土田麦僊は兄。 新潟県佐渡郡(現:佐渡市)の生まれ。本名は茂(つとむ)。1918年7月京都帝国大学文科大学哲学専攻卒業。西田幾多郎に哲学を学ぶ。雑誌「文化」を発刊。社会問題や思想・文化・宗教など多方面にわたって、鋭い主張の論文や著述が多くある。 大正時代を代表する自由主義の評論家で、大正教養主義者の一人。哲学・教育学・経済学・文学など幅広い領域で批評活動を行った。大正自由教育運動の影響を受けて長野県や新潟県で自由大学運動を起こしたりしたが、昭和に入ると国家主義の傾向を強め、上代文学の研究をした。
矢口 家治(やぐち いえはる、明治24年(1891年)1月1… 矢口 家治(やぐち いえはる、明治24年(1891年)1月14日 - 昭和48年(1973年)4月22日)は、日本の裁判官、弁護士。関西大学第一高等学校の初代校長。第11代最高裁判所長官矢口洪一の父。 矢口次郎太郎の三男。 大正6年(1917年)7月 京都帝国大学法科大学卒業。同年8月司法官試補、京都地方裁判所詰。大正9年(1920年)京都地裁判事に任官。 大正12年(1923年)文部省在外研究員としてドイツ、イギリス、フランス、アメリカに二ヵ年留学。大正14年(1925年)高岡高等商業学校教授。 昭和10年(1935年)弁護士名簿登録。長野地裁、東京控訴院を歴任。 昭和16年(1941年)関西大学専務理事に就任。
服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年… 服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年)12月18日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。第14代京都大学総長。 1890年兵庫県生まれ。京都帝国大学教授、同病院長を経て1951年に京都大学総長に就任。その直後、昭和天皇の京都大学視察訪問に際し、学生が公開質問状を用意し「平和の歌」をうたって迎えた『京大天皇事件』が起こり、その責任をとって1953年辞任。1983年に92歳で死去。 主な受章歴は以下のとおり。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
中根 正親(なかね まさちか、1890年10月16日 - 1… 中根 正親(なかね まさちか、1890年10月16日 - 1984年8月16日)は、中根式速記法の創案者。京都両洋高等学校の創立者。
綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9… 綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1972年〈昭和47年〉3月24日)は日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。衆議院議員(7期)、衆議院議長(第53代)、運輸大臣(第29・30代)。香川県出身(出生地および選挙区は大分県)。杵築市名誉市民。 戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(久原房之助総裁)に与した。大政翼賛会発足による政党解消後は翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会に所属した。 終戦後の1945年11月、旧日政会系の日本進歩党結党に参加。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は綾部以外では猪野毛利栄、西川貞一、依光好秋、高畠亀太郎、中井一夫、三善信房の6名のみである。
赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 195… 赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 1954年8月22日)は、日本の都市計画家、土木技師。 福岡県生まれ。1919年京都帝国大学工学部土木工学科卒業。在学中の1917年9月から1919年7月まで、京都市の私立京都商工学校土木科で講師を務める。 その後三井鉱山を経て、1922年から1926年まで埋築技師として熊本県海面埋築事務所勤務。県営新地の干拓事業に従事。 1926年(大正15年)から内務省に転じ、1936年(昭和11年)まで、都市計画地方委員会富山地方委員会技師。1931年から富山県都市計画課技師を兼任、1928年に決定された富山市都市計画立案と施行の責任者となる。 主な実績に、東岩瀬港から富山駅北までの富岩運河開削で掘ったときの土砂で神通川の廃川地埋立て、廃川地処分を運河新設と同時に行う新市街地造成計画立案など。
務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974… 務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974年7月5日)は、日本の哲学者。東京教育大学名誉教授。位階は従三位。 台北帝国大学教授、東京文理科大学(後の東京教育大学)教授、同大学長。学長と桐朋学園理事長・校長を兼務、その後慶應義塾大学教授などを歴任。 京都帝国大学在学中に西田幾多郎に師事し、留学中にはフッサールからも哲学を学んだ。西田門下ではあるが、京都学派とも西田左派とも一線を画し、独自のヒューマニズム哲学を展開する。一方、京都大学教授・上原麻有子が代表を務めるサイト「京都学派アーカイブ」では、「西田・田辺に学びながら独自の思想を育み、時には師に影響を与えることもあった」ことから、務台は京都学派の一員として紹介されている。
那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日… 那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉10月20日)は、日本の東洋史学者、文学博士、京都大学名誉教授。誠軒と号す。 1890年、徳島県徳島市生まれ。生家は江戸初期以来の藩儒の家柄。11代前の那波道円(号は活所、1595年-1648年)は紀州藩に仕え、道円の子の那波元成(号は木庵、1614年-1683年)には『老圃堂詩集』の著書がある。5代前の那波師曾(字は孝卿、号は魯堂、1727年-1789年)は春秋の学を修め、『左伝標例』の著書があり、阿波藩に使えた。以後、那波家は、利貞の父、那波韋(字は緩卿、号は蜆北)まで、代々阿波藩に藩儒として仕えた。 1898年(明治31年)、利貞が8歳の時、父の韋が亡くなり、利貞は母の旧姓多賀氏より経学の教えを受けた。
澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月… 澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月12日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、日本の国文学者、万葉学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。 1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現:三重県伊勢市)で生まれた。三重県立第四中学校(現:三重県立宇治山田高等学校)・第三高等学校を経て、京都帝国大学文科大学に進学。文学科国文学専攻で学び、1915年に卒業。 第五高等学校教授を経て、1922年に京都帝国大学文学部助教授に就いた。1935年、学位論文『上代歌謡ノ作者及ビ時代考』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。翌1936年に教授昇格。1951年、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となった。
石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日… 石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の英米文学者。 山口県出身。東京外国語学校英語科を経て、1916年京都帝国大学英文科卒。同志社大学教授、1924年京都帝大文学部助教授、1934年教授、京都大学教授、1951年定年退官、大阪市立大学教授、1958年京都女子大学教授を務めた。18世紀およびヴィクトリア朝の英文学研究、またフランクリンなど初期アメリカ文学の研究を行い多数の著作を著した。特にキリスト教的傾向が強い。 1979年6月30日、脳溢血のため京都市北区の鞍馬口病院で死去。89歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日… 橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の中国文学者。 現在の福井県越前市生まれ。雅号・蘆北。京都帝国大学文科大学文学科修了。1928年立命館大学予科教授。1946年立大法文学部文学科部長。1949年「漢魏六朝文学思想論」で京大文学博士。立大文学部長・文学研究科長を数次務める。立命館理事。1959年特別任用教授。1969年名誉教授。白川静の師匠。記念して蘆北賞が設けられた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28… 多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28日 - 1934年(昭和15年)7月14日)は、朝鮮総督府官僚。正五位勲六等。 大阪府大阪市出身。1918年(大正7年)、東京外国語学校英語学科を卒業。1921年(大正10年)には京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、道警視、咸鏡南道商工課長・審査課長、同水産課試験場長、忠清南道学務課長・土木課長、京畿道学務課長、忠清南道財務部長、慶尚北道財務部長、大邱府尹、光州税務監督局長などを歴任した。 1934年(昭和15年)7月14日、病気療養中に大阪市の大阪帝国大学医学部附属医院で死去、44歳。同年5月中旬より入院していた。
安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)… 安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)5月25日 - 1978年(昭和53年)10月6日)は、大正から昭和時代の銀行家。実業家。 安居院栄三郎の三男として兵庫県に生まれ、1914年(大正3年)叔父・音吉の家督を継ぐ。1917年(大正6年)京都帝国大学法科政治科を卒業し、三菱銀行に入社する。その後、日本橋支店副長、本店内国課副長、四谷・小樽・大森・横浜各支店長を経て参事となった。1944年(昭和19年)退職。後に興亜石油常務取締役を務め、1978年(昭和53年)に老衰により東京都大田区北千束の自宅にて死去した。 ほか、淡路産業相談役、東京銀座ライオンズクラブ会長、東興商会社長、同相談役などを歴任した。
佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - … 佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - 1966年3月4日)は、国文学者。 滋賀県出身。京都帝国大学文学部を卒業した。1924年、女子学習院教授に就任した。戦後は大東文化大学教授、学校法人鎌倉女学院理事長を務めた。中古・中世文学を専門とし『謡曲大観』全7巻、『対訳源氏物語』の業績がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 … 堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 - 1947年(昭和22年)2月22日)は、大正から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・黒川。 滋賀県神崎郡、のちの永源寺町甲津畑(現・東近江市甲津畑町)で、浄土真宗大谷派浄源寺住職・黒川霊瑞、マサノの三男(兄2人妹2人)として生まれた。甲津畑尋常高等小学校、滋賀師範学校を経て、1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し、さらに1917年(大正6年)京都帝国大学文科大学哲学科を卒業した。京大入学の際に、滋賀県長浜の医師・堤泰造、コトの末娘(兄2人姉2人)千代と結婚し婿養子となる。養母コトは父方の伯母で、千代は従姉妹である。 小学校訓導を務めた後、1918年(大正7年)2月、新洋丸でハワイに渡航し在ヒロ市日本人ハイスクール校長に就任した。
松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年… 松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年)5月4日 - 1957年(昭和32年)1月23日)は、日本の医師、政治家。松本市長(公選第2代)。位階は正六位。勲五等瑞宝章。 長野県東筑摩郡松本町(現:松本市)生まれ。1915年(大正4年)京都帝国大学医学部を卒業し、同大内科教室助手として勤務した後、1918年(大正7年)7月、内科医を開業。松本精神病院管理院長に就任した。1929年(昭和4年)から松本市会議員に4回当選、昭和22年から26年まで議長も務める。その後、長野県会議員に2回当選。日本医師会代議員、長野県医師会長も歴任した。 1951年(昭和26年)4月から松本市長を2期務める。
赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3… 赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1944年〈昭和19年〉4月25日)は、日本の内務・警察官僚。官選府県知事。 東京府出身、静岡県磐田郡見付町で生まれる。旧幕臣、海軍中将・赤松則良の五男として生まれる。学習院中等学科、同高等学科を経て、1915年2月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年2月、内務省に入り、長崎県工場監督官補として警察部保安課勤務となる。 1917年10月、長崎県属として内務部地方課勤務に転じた。以後、同地方課長心得、長崎県理事官、三重県農商課長、山梨県理事官、内務省社会局事務官・工場監督官などを歴任。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1… 荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1973年6月25日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。京都大学名誉教授。理化学研究所の仁科芳雄、大阪帝国大学の菊池正士と共に、日本を代表する原子核物理学者であった。戦時下には大日本帝国海軍のF研究の主要人物として日本の原子爆弾開発に関わった。紫綬褒章、従三位勲二等旭日重光章受章。兵庫県印南郡的形村(現姫路市的形町)出身。 御影師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身)を経て東京高等師範学校を卒業し、いったん佐賀県で教職に就いたのちに京都帝国大学理科大学物理学科に入学。1918年に卒業した後はそのまま講師・助教授を務め、1926年に台北帝国大学教授に内定。
山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)3月 - … 山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)3月 - 1945年(昭和20年)10月26日)は、日本の実業家。大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。国産電機(現:マーレエレクトリックドライブズジャパン)元常務取締役。従四位勲二等。 福井県福井市出身。山田外吉の三男として生まれる。1911年(明治44年)7月31日、海軍機関学校(20期)を卒業。その間、京都帝国大学電気科を卒業。1911年(明治44年)7月31日、機関少尉候補生として海軍に入隊。津軽乗員を経て、同年12月3日より安芸乗員となる。 1912年(大正元年)12月1日、機関少尉に任官。1914年(大正3年)12月1日、機関中尉に昇進。
杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)… 杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)2月18日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は日本の歴史学者・東洋学者(専攻:南海史・東西交渉史)。広島大学名誉教授。号は「南翁」(なんおう)。 滋賀県生まれ。滋賀県師範学校卒業後しばらく教職に就き、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に入学、文学部で桑原隲蔵に師事した。 京都帝大卒業後の1929年、広島文理科大学教授となる。在任中の1945年8月6日、原爆投下により爆心地から1.7kmの段原町(現・広島市南区)の自宅で妻とともに被爆するも九死に一生を得る(その後広島市によって編纂された『原爆体験記』に「原爆に遭った日」を寄稿)。戦後の1953年、広島文理大が新制に移行した広島大学の教授となる。
高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10… 高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月26日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員。 和歌山県和歌山市出身。広島高等師範学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学経済学部を卒業。同年鉄道省に入省し大臣官房書記に任じられ、1923年(大正12年)12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局大阪運輸事務所長、門司鉄道局運輸部長、鉄道省陸運監理官、東京鉄道局事業部長などを歴任。その間、学習院助教授を務めた。1938年(昭和13年)4月に退官して日本通運理事に就任し、大阪支店長、常務取締役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
石丸 一(いしまる はじめ、1890年 – 1990年)は、… 石丸 一(いしまる はじめ、1890年 – 1990年)は、日本の画家。 現在の徳島県小松島市立江町出身。父は漢方医であった。徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)を経て京都帝国大学医学部を卒業し、大阪市内で医院を開業し、さらに信濃橋洋画研究所で洋画を学んだ。全関西洋画展会に1927年の第1回から1943年の第30回までほぼ毎回作品を出品した。1929年の第3回展においては朝日賞を受賞した。同時期に1928年から1943年までほぼ毎年二科展にも作品を出品しており、1942年には会員に推挙された。1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画部門に絵画を出品した。1931年のロボット洋画協会や1938年の九室会の創立に参加している。
原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日… 原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は官僚、政治家。第12代神戸市長。工学博士、参議院議員。
前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月… 前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月9日 - 1945年(昭和20年)12月4日)は、日本の内務官僚。小倉市助役。九州帝国大学学生主事、講師。九州法学校設立者。福岡県出身。 福岡県企救郡足立村(現北九州市小倉北区)の素封家に生まれる。旧制豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1915年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格し、大阪市役所を経て台湾総督府に移り、1922年、台湾総督府財務局事務官で退官し、その後、長崎高等商業学校教授に就任した。 1926年から1929年まで小倉市助役を務めた。また時の市長・神崎慶次郎と共に陸軍造兵廠を誘致した。
新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年… 新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年〈明治22年〉9月29日 - 1984年〈昭和59年〉2月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶、書家。雲洞庵四十五世住職。号は無著。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)出身。1911年(明治44年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)7月に第四高等学校を卒業、1917年(大正6年)7月に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。 1918年(大正7年)に雲洞庵四十五世住職に就任、1921年(大正10年)6月に養父で曹洞宗管長の新井石禅に随行してアメリカに渡り、6カ月間、各地を視察、ウォレン・ハーディング大統領に謁見。 1939年(昭和14年)に新潟県仏教各宗代表中支派遣皇軍慰問団団長として中支戦線を巡錫、1942年(昭和17年)に南満州鉄道に招聘されて満州に渡り、各地を行脚、南満州鉄道職員に講演。
武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17… 武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、群馬県出身の内務・厚生官僚、国会職員。官選山形・山口県知事、厚生次官。位階は従三位。サッカー日本代表でもあり、大日本蹴球協会初代理事の一人。 群馬県利根郡利南村(現・沼田市沼須町)に、武井捨五郎の二男として生まれる。実家の酒造業が不振だったため高等小学校卒業後代用教員となった。群馬師範学校を経て、東京高等師範学校に入学。在学時は蹴球部に所属し、1916年3月に[要出典]東京高師を卒業した。 1917年5月に開催された第3回極東選手権競技大会の日本代表に佐々木等や藤井春吉らと共に選出され、2試合に出場した(そのうちの1試合が、フィリピン代表に2-15で敗れた試合である)。
織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日… 織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家、漫画原作者。貴族院議員。爵位は子爵。筆名は織田 小星(おだ しょうせい)。漫画『正チャンの冒険』の原案・文を作った。織田信正、織田信昭の父。 1889年(明治22年)8月3日、元相馬中村藩藩主の子爵相馬誠胤の長男として東京府に生まれる。生母は東明氏。初名は相馬秀胤(そうま ひでたね)。1895年(明治28年)6月、元天童藩藩主の子爵織田信敏の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父信敏の死去により襲爵。学習院高等科 (旧制)を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。
木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18… 木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18日 - 1977年〈昭和52年〉4月6日)は、日本の華族・官僚・政治家。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。
銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 19… 銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 1979年7月22日)は、日本の社会学者、教育者。 1889年、大分県宇佐郡長州町(現宇佐市)に生まれる。1912年、広島高等師範学校国語漢文部を卒業後、和歌山県立粉河中学校の教員を2年間務めた。その後、広島高等師範学校専攻科を経て、1914年に京都帝国大学文科大学哲学科社会学専攻に入学。1917年に卒業後は京都市役所、大原社会問題研究所、倉敷紡績株式会社に勤め、大学時代に研究した社会問題、労働問題などの実践を行った。1921年、京都帝国大学大学院に入学。西田幾多郎、米田庄太郎の指導を受ける。大学院在学中から佛教専門学校、龍谷大学で社会学関係の講師を務めており、1925年に大学院を退学。
清水 多栄(しみず とみひで 1889年5月1日 - 195… 清水 多栄(しみず とみひで 1889年5月1日 - 1958年1月30日)は、日本の医学者、生化学者。 1889年(明治22年)、東京府西多摩郡に生まれる。1915年(大正4年)に京都帝国大学の荒木寅三郞(岡山にあった第三高等学校医学部の元教授)の医化学教室に入り、胆汁酸の研究を始める。1920年(大正9年)にドイツに留学。フライブルグ大学でハインリッヒ・ヴィーラントの下で学ぶ。1923年(大正12年)に岡山医科大学教授となり生化学教室を主宰した。 1927年(昭和2年)、熊胆からのウルソデオキシコール酸(UDCA)の単離・結晶化に成功。成功に至るまでヒキガエル4000匹、イモリ10万匹、さらにクマ、魚、鳥、豚など多くの動物から胆汁を採取したことが伝えられる。
中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4… 中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4月6日 - 1945年(昭和20年)3月20日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学を卒業。1916年(大正5年)、外交官及領事官試験に合格し、漢口に領事官補として赴任した。以後、浦塩派遣軍政務部員、ロシア在勤外交官補、外務事務官、通商局第二課勤務、在アメリカ合衆国大使館三等書記官、同二等書記官、牛荘領事・関東庁事務官、外務書記官、亜細亜局第一課長、同第二課長、在英国大使館一等書記官、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官を歴任。1934年(昭和9年)からはイタリア大使館参事官を務めた。
太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日… 太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、日本のフランス文学者。京都大学名誉教授。名前の読み方は「しもん」あるいは「よしかど」とされることもある。 岡山県倉敷市児島出身。旧制岡山県立岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1907年に旧制第一高等学校へ進学、1910年、同校を卒業する。1913年東京帝国大学文学部卒。1919年第一高等学校教授在職中にフランス留学を命ぜられ、1920年出発、1921年京都帝国大学文学部助教授に任ぜられ、1923年帰国し着任、京都帝大に仏文研究室を開設。1931年オノレ・ド・バルザック「人間喜劇」の研究で文学博士、論文の題は「ラ、コメヂ、ユメーヌの研究」。
林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年… 林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年)3月24日 - 1960年(昭和35年)4月5日)は、日本の政治家。第41代衆議院議長、副総理、厚生大臣、初代内閣官房長官、内閣書記官長、高知県議会議員を歴任。位階勲等は従二位勲一等旭日桐花大綬章。 自由民権運動家としても活躍した明治・大正期の政治家・林有造の次男として高知県幡多郡宿毛村(現:宿毛市)に生まれた。戦後の内閣総理大臣・吉田茂の又従弟に当たる。1918年(大正7年)京都帝国大学法科大学独法科を卒業する。三菱倉庫勤務を経て1923年(大正12年)に宿毛町長、1927年(昭和2年)に高知県会議員となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
堀内 干城(ほりうち たてき、1889年(明治22年)3月7… 堀内 干城(ほりうち たてき、1889年(明治22年)3月7日 - 1951年(昭和26年)5月28日)は、日本の外交官。駐中華民国公使。 奈良県生駒郡筒井村(現在の大和郡山市)出身。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業した。1918年(大正7年)、高等試験外交科に合格。領事官補、外務事務官、イギリス大使館二等書記官、上海領事、中華民国公使館二等書記官、同一等書記官、天津総領事、中華民国大使館参事官、北平総領事などを歴任した。1939年(昭和14年)、外務省東亜局長に就任。1940年(昭和15年)、中華民国大使館参事官を経て、特命全権公使兼上海総領事に就任した。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で立候補したが落選した。
大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 197… 大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 1977年4月9日)は、日本の新聞記者、演劇評論家。劇作家。 1914年に京都帝国大学文科大学国文科を卒業後、大阪朝日新聞社に入社。1918年8月26日夕刊の「寺内正毅内閣弾劾関西記者大会」の記事を執筆する中で「白虹日を貫く」との中国古語を使ったが、これは兵乱の前兆を示唆する不穏当な表現であり、白虹事件と呼ばれる日本の新聞の歴史でも類をみない筆禍事件を招いた。大阪朝日新聞および大西は新聞紙法違反で告訴され、大阪朝日新聞は新聞の発売禁止こそ免れたものの、大西は禁錮2月の有罪判決を受けた。 新聞社を退社後は、関西演劇界へ身を投じ、文楽による『ハムレット』、『蝶々夫人』、『椿姫』など外国劇の脚本を多数作り上げた。
石井 淳雄(いしい あつお、1889年(明治12年)1月25… 石井 淳雄(いしい あつお、1889年(明治12年)1月25日 - 没年不詳)は、日本の弁護士、甲府市長。 東京府北多摩郡狛江村(現:東京都狛江市)に石井寅三の二男として生まれ、天野重助の養子となるが、1903年(明治36年)に石井家を継ぎ、旧名の波平を改めた。1904年(明治37年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、1909年(明治42年)には京都帝国大学法科大学法理科を卒業した。 1905年(明治30年)、東京市役所に入り、尾崎行雄市長の秘書役として、統計顧問や視学員を務めた。1910年(明治43年)、辞職して弁護士事務所を開業した。 広島市助役を務めた後、1923年(大正12年)に甲府市長に就任した。