山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - … 山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
京都大学:5,064人
山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - … 山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889… 江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889年〈明治22年〉1月 - 1935年〈昭和10年〉)は、日本の政治家(下関市会議員)、家主、工学博士。参議院議員江島淳の父。参議院議員江島潔の祖父。 山口県人・熊野報介の三男。先代伊助の養子となり1916年、家督を相続する。海軍大尉に任ぜられる(のち海軍少佐)。1922年、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業する。のち工学博士の学位を授けられる。 推されて下関市参事会員である。方面委員である。住所は山口県下関市貴船町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
小林 鳴村(こばやし めいそん、本名・彦次。1889年-?)… 小林 鳴村(こばやし めいそん、本名・彦次。1889年-?)は、日本戦前期に活躍した写真家。 芸術写真(ピクトリアリスム作品、ブロムオイル作品)からはじまり、花和銀吾などの影響を受け、前衛写真(主として、シュルレアリスム的表現)にいたる(特に1930年以降)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、カメラに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:写真/PJ:カメラ)。
張 乗運(ちょう じょううん、1889年 - 没年不明)は、… 張 乗運(ちょう じょううん、1889年 - 没年不明)は、中華民国の司法官・法学者。字は石郷。張承運表記もある。北京政府や中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で司法官をつとめた。 日本に留学し、1912年(民国元年/大正元年)から京都帝国大学法科大学に入り、1915年 (民国4年/大正4年)に卒業した。1917年(民国6年)3月、直隷地方検察庁検察官として起用され、以後、奉天高等審判庁推事署理、修訂法律館纂修、司法官再試典試委員、大理院推事署理、総検察庁検察官と歴任している。これらの他、張家口地方法院院長、国立北京大学法学院教授、私立中央大学教授、国民政府司法行政部法官訓練所専任教授を歴任した。
藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)… 藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)12月25日 - 1984年(昭和59年)3月12日)は、日本の中国文学者、真宗大谷派僧侶。 1911年、第三高等学校を卒業。1914年、京都帝国大学中国文学科を卒業。同志社大学教授、同志社女専講師を歴任。僧侶としては西宗寺(京都府京都市下京区)の住職を務めていた。 大正のおわりごろ現地で購入して以来、長年親しんできた中国の李汝珍の小説『鏡花縁』の翻訳を、大学を退官した70歳のとき(1968年)に決意、以後20年以上の歳月を掛けてこれを翻訳し、92歳のとき(1980年)これを出版した。
後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 … 後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 - 1984年8月21日)は、日本の政治活動家。近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。 茨城県出身。千葉県佐原出身ともされる。第一高等学校入学。在籍中、野球害毒論に関連し、新渡戸稲造校長を押川春浪が批判した際、単身押川の自宅を訪れ、謝罪文を書かせたとされる。一高には、6年通い、新渡戸稲造校長の「これ以上留年させても仕方がない。卒業させた方が社会のためになるだろう」との言により卒業したというエピソードがある。豪傑肌の反面、求道的なところがあり、いきなり徳富蘆花を訪れ「人生とはなんだ、教えてくれ」と迫って蘆花を困らせたり、人生の意義が判るまで帰らないと言って、関東一円をぐるぐると彷徨したりした。
柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、18… 柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、1888年〈明治21年〉12月20日 - 1960年〈昭和35年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・柳沢保申の長男として生まれ、義兄柳沢保恵の養子となる。養父・保恵の死去に伴い1936年(昭和11年)6月15日、伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)京都帝国大学法科大学を卒業。1921年(大正10年)私立大阪信愛高等女学校講師となる。以後、柳沢統計研究所総裁、日本錫工業取締役会長、太平洋海上火災保険取締役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12… 後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12月10日 - 1949年〈昭和24年〉3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県葉栗郡、のちの羽島郡小熊村(現羽島市)出身。1917年(大正6年)、京都帝国大学哲学科卒。私立花園中学校教諭、羽島郡仏教会副会長、岐阜県嘱託講師、妙心寺派宗会副議長、同議長、同派宗務総長、同派教学財団理事長、仏教連合会幹事、雑誌「正法論」主筆、同「表現」主幹、日本ビルマ協会常任理事となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選した。1932年(昭和7年)の第18回総選挙で再選。
西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11… 西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11月21日 - 1967年〈昭和42年〉7月28日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚。台北市尹、高雄州知事。 高知県、のちの安芸市出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。神奈川県属、同理事官、外務事務官、大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事・関東庁事務官・朝鮮総督府事務官、福州総領事・台湾総督府事務官を歴任した。1929年(昭和4年)、台湾総督府税関長に転じ、台北市尹、高雄州知事を務めた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、台湾合同鳳梨株式会社常任監査役を務めた。戦後は、安芸高等学校東京同窓会長を務めた。
青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳… 青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 青木輪之輔の長男として福岡県に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館、1913年7月第五高等学校英語法律科を経て、1916年7月京都帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後、司法官試補、予備検事となるが、1918年判事に転じ、徳島地方裁判所、和歌山地方裁判所、大阪地方裁判所、高知地方裁判所、神戸地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、1927年大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任する。その後、奈良地方裁判所部長判事、神戸地方裁判所部長判事を歴任し、1940年2月若松区裁判所監督判事兼福島地方裁判所若松支部部長となる。
近藤 博夫(こんどう ひろお、1888年(明治21年)10月… 近藤 博夫(こんどう ひろお、1888年(明治21年)10月9日 - 1966年(昭和41年)6月27日)は、日本の政治家、土木技術者。第11代大阪市長(1947年 - 1951年)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 旧制七高理科から京都帝国大学工学部土木工学科を卒業。大阪市役所に入り港湾部長・理事を歴任し、大林組に入り常務。また土木学会関西支部長などを務めた。 1947年の第1回統一地方選挙に日本社会党公認で大阪市長選挙に出馬、保守系の落合九一らを破って当選し1期務める。在任中には広く市民の声を聞くための公聴課を設置、ここで集めた市民の声が大阪市の戦災復興計画の策定に役立った。 1966年6月27日死去。
中御門 経恭(なかのみかど つねやす、1888年〈明治21年… 中御門 経恭(なかのみかど つねやす、1888年〈明治21年〉10月6日 - 1954年〈昭和29年〉2月28日)は、日本の政治家、華族。貴族院侯爵議員。 男爵・中御門経隆の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、中御門侯爵家は当主・経明の死後、男子の相続人が無く娘の萬千子が継承したため爵位を返上。そのため、1899年(明治32年)10月に経恭が従姉妹・萬千子の養子となり家督を相続し、同年10月20日、特旨により侯爵を叙爵した。1913年(大正2年)10月5日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1914年(大正3年)、京都帝国大学理工科大学化学科を卒業。
本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10… 本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉7月29日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 京都出身。旧姓は桐山。幼名は伝次郎。1914年京都帝国大学文科大学印度哲学科卒。1929年京都帝大文学部講師、1934年「印度学方法論より観たる法華経」で文学博士、同年助教授、1935年教授。1948年定年退官、名誉教授、立正大学教授、稲沢女子短期大学(愛知文教女子短期大学)教授、印度文化研究所所長。京都の慈雲院、宝塔寺の住職をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1… 清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1888年(明治21年)7月30日 - 1951年(昭和26年)12月12日)は、大正から昭和前期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 子爵・吉田良義の二男として生まれ、伯爵・清閑寺経房の養子となる。養父の隠居に伴い、1938年(昭和13年)1月15日、伯爵を襲爵した。 1915年(大正4年)京都帝国大学法科大学を卒業。1926年(大正15年)以降、主猟官、式部官、皇太后宮事務官、同会計課長などを務めた。 1946年(昭和21年)6月27日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27… 小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27日 - 1974年(昭和49年)1月22日)は、大正から昭和期の医師、政治家。衆議院議員、滋賀県彦根市長、滋賀県議会議長。 滋賀県犬上郡高宮村(高宮町を経て現彦根市高宮町)で、小林二郎の五男として生まれた。1913年(大正2年)に京都帝国大学医学部を卒業。同大学附属病院内科副手として勤務。その後、彦根町で医院を開業した。 青年時代から政界に感心が強く、彦根町会議員(2期)、彦根市会議員(2期)、滋賀県会・滋賀県議会議員(3期)を務めた。この間、彦根市会副議長、同議長、滋賀県議会議長に在任した。 1947年(昭和22)8月16日に彦根市長に就任し、1953年(昭和28年)3月24日まで2期在任。
小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月… 小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月10日 - 1970年(昭和45年)12月12日)は日本の医学者(専攻は皮膚科学)でハンセン病(らい病)の研究者。元京都帝国大学医学部助教授。僧侶。 愛知県出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、1948年まで在職した。彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが、学会から葬り去られる結果となった。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)にある真宗大谷派円周寺の小笠原篤実の二男(戸籍では三男)として生まれる。祖父小笠原啓実は住職であり、尾張藩医浅井家の漢方医術を学んだ漢方医で、らい病、淋病、梅毒などを得意としていた。
田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7… 田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7月 - 1950年(昭和25年)4月8日)は、日本の衆議院議員、厚生参与官。 京都府京都市出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、京都帝国大学大学院で都市社会政策を専攻した。大阪毎日新聞社に入社。その後、京都市会議員、同議長、京都府会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に京都1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、出馬し、当選。幣原内閣で厚生参与官を務めた。 1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1950年死去。 その他、京都ホテル株式会社取締役、内外出版印刷株式会社監査役、京都府教育委員長を務めた。
道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)… 道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)6月13日 - 1942年(昭和17年)3月28日)は、経済学者、専修大学総長、衆議院議員。 貴族院議員・農商務官僚道家斉の長男として東京市に生まれる。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。1922年(大正11年)より久原鉱業株式会社参事を務め、また専修大学・日本大学・中央大学で講師として統計学・経済学・労働問題などを講義した。1923年(大正12年)、久原鉱業を退社して、帝都復興院参事に任命された。翌年には東京市の主事となり、1929年(昭和4年)に辞職するまでの間、統計課長、文書課長、電気局労働課長を歴任した。 1928年(昭和5年)に専修大学の評議員となり、翌年には教授・常務理事となった。
奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5… 奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5月18日 - 1963年(昭和38年)12月29日)は、日本の教育者、国語学者、国文学者、方言学者。 1888年(明治21)5月18日沖縄県宜野湾村生まれ(本籍は首里市寒川町)。 宜野湾小学校をはじめとして教員勤務の傍ら、日本古典文学や方言の研究を進め、1926年(大正15)『琉球人の見た古事記と万葉』を出版。1927年(昭和2)京都御所内東山文庫で源氏物語の校合に従事、1928年(昭和3)4月京都帝国大学国文学部に入学、1929年(昭和4)7月高等教員検定試験(国語科)合格、同年9月兵庫県立神戸第一中学校教諭に任じられ、1942年(昭和17)まで勤務。
崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月… 崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月4日 - 1960年(昭和35年)6月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、那覇市長。 沖縄県首里(現在の那覇市)に崎山嗣記の長男として生まれ、幼時を石垣島で過ごした。沖縄県立中学校を卒業後、第七高等学校に進み、1913年(大正2年)に卒業した。さらに京都帝国大学法科大学独法科に学び、1917年(大正6年)に卒業した。翌年に帰郷し、弁護士を開業した。 那覇市会議員、沖縄県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。計4期務めた。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1937年(昭和12年) 第20回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1943年(昭和18年)3月には那覇市長に選出された。
宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月2… 宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月29日 - 没年不明)は、日本の弁護士(大阪弁護士会所属)、税理士、弁理士、歌人。旧姓・井上。お笑いタレント椿鬼奴の祖父。 大阪府大阪市西区出身。3代目、井上嘉助の息子。宮崎良平の養子となる。 1897年、9歳の時に父が亡くなると親戚のいる京都の乾物店に丁稚奉公に出される。丁稚奉公をしながら高等小学校を卒業する。夜学の学習塾にも通う。31歳にして京都帝国大学に入学する。 1922年、京都帝国大学経済学部を卒業。高等試験行政科に合格し、直ちに京都府庁に入り、内務部社会課兼庶務課に勤務する。 山口県庁電気局庶務課長となり、1930年3月に職を辞し、同年5月に弁理士登録、同年9月に計理士登録。
衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日… 衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日 - 1958年10月13日)は、日本の仏教学者・曹洞宗僧侶。学位は、文学博士。駒澤大学総長(1953年就任)。近代曹洞宗の宗学の確立に尽力。号は不喚。 大分県宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身。雲栖寺・雪洞明につき得度、心月院(兵庫県)にて弘津説三に嗣法して大応寺(山口県)住職となる。1904年曹洞宗大学(現:駒澤大学)、1912年京都帝国大学文学部印度哲学科卒業。曹洞宗大学教授として1921-24年英国、フランス、ドイツに学び、帰国後に駒澤大学教授。1928年京都市安泰寺住職。1937年学寮「道憲寮」を創立。 1944年「宗祖としての道元禅師」で京都大学より文学博士の学位を取得。
秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 197… 秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 1977年1月16日)は、日本の美術史学者。金沢美術工芸大学名誉教授。専門は日本近世絵画史。 1888年、静岡県田方郡で三島大社宮司・秋山光條の子として生まれた。京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法科大学に入学。しかし芸術への関心を断つことができず、同文科大学哲学科に転じ、美学美術史学を専攻した。1913年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院在学中より京都絵画専門学校などで美術史を講じた。1918年、図書頭兼帝室博物館総長・森鴎外の推挙により宮内省図書寮に奉職。1924年に宮内省御物管理委員、1926年に帝室博物館監査官となった。
本庄 栄治郎(ほんじょう えいじろう、1888年(明治21年… 本庄 栄治郎(ほんじょう えいじろう、1888年(明治21年)2月28日 - 1973年(昭和48年)11月18日)は、日本の経済学者。専門は日本経済史、経済思想史。学位は、経済学博士(京都帝国大学)。大阪商科大学第2代学長。京都大学・大阪府立大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 昭和期に多数の学者を送り出し日本経済史研究の権威として知られた。 1888年、京都西陣に生まれる。第三高等学校を経て、1913年京都帝国大学法科大学政治学科卒業、同大学院に進学、生家の生業である西陣機業の研究を行い戸田海市、内田銀蔵に師事した。1914年に『西陣研究』、1916年に『江戸幕府ノ米価調節』が京都法学会より公刊されている。
中屋 重治(なかや しげはる / じゅうじ、1888年〈明治… 中屋 重治(なかや しげはる / じゅうじ、1888年〈明治21年〉2月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月13日)は、日本の内務官僚。川崎市長。岩手県宮古市長。 福岡県戸畑(現北九州市)出身。1914年(大正3年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業し、さらに1916年(大正5年)に同法律科を卒業した。その間、高等文官試験に合格し、島根県理事官、同鹿足郡長、台湾総督府財務局事務官、台湾総督府高等商業学校教授、台湾総督府中央研究所事務官、新竹州警務部長、宮城県書記官・警察部長、栃木県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長を務めた。 1932年(昭和7年)、川崎市長に選出され、1935年(昭和10年)まで務めた。
沖 貞男(おき さだお、1888年(明治21年)2月11日 … 沖 貞男(おき さだお、1888年(明治21年)2月11日 - 1950年(昭和25年)10月16日)は、大正から昭和前期の政治家、教育者、華族。貴族院男爵議員。 本籍・神奈川県。内務官僚・沖守固の庶子として生まれる。父の死去に伴い、1912年(大正元年)11月11日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)4月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1924年(大正13年)帝都復興院嘱託となる。その後、復興局整地部事務嘱託、三峯住宅監査役、中野高等無線電信学校長などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任。さらに、1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
守屋 徳夫(もりや のりお、明治21年(1888年)1月27… 守屋 徳夫(もりや のりお、明治21年(1888年)1月27日 - 没年不明)は、日本の実業家。樺太水産(株)社長。樺太魚菜配給(株)取締。樺太水産物統制販売組合監事。 元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。外交官守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。 宮城県富永村(のち古川市、現大崎市古川)出身。守屋徳郎の二男。守屋栄夫の弟。守屋和郎の兄。 明治42年(1909年)宮城師範学校卒業、大正4年(1915年)広島高等師範学校卒業、大正7年(1918年)京都帝国大学社会科卒業。台湾総督府視学・台北高等商業学校教授。旭紡秘書課長。朝鮮殖産銀行勤務。東洋拓殖資金課長。日魯漁業常任監査役 趣味は打球、文学。
原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日… 原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日 - 1946年〈昭和21年〉2月26日)は、大正・昭和期の華族・政治家。栄典は従三位勲三等男爵。 最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書として政界の情報収集にあたり、また興津にこもりがちの西園寺の意思を各方面に伝達する役割を担い、文字通りその手足として八面六臂の活躍をした。各方面に奔走する「原田男」の名は、政変があるたびに紙面を賑わすほどだった。彼の口述回顧をまとめて出版された『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』は、戦前昭和の激動の政局を知る上での貴重な史料となっている。 1888年(明治21年)1月7日、地質学者・原田豊吉と妻・照子の長男として東京裏猿楽町に生まれる。
草間 時光(くさま ときみつ、1887年(明治20年)11月… 草間 時光(くさま ときみつ、1887年(明治20年)11月12日 - 1959年(昭和34年)11月12日)は、大正から昭和時代前期の公吏。政治家。俳人。東京市京橋区長、日本橋区長、大森区長。神奈川県鎌倉市長。 草間時福の二男として東京に生まれる。1916年(大正5年)京都帝国大学法学部政治科を卒業し東京電気秘書となる。1920年(大正9年)から鎌倉町扇ガ谷寿福寺境内に住み、1930年(昭和5年)東京へ転出した。日東印刷支配人、協調会労働課長兼司法省刑事局事務嘱託などを経て、1932年(昭和7年)東京市に奉職し、社会局福利課長、秘書課長などを歴任。1937年(昭和12年)11月、京橋区長に就任し、1939年(昭和14年)6月、日本橋区長に転じた。
鈴木 理一郎(すずき りいちろう、1887年(明治20年)1… 鈴木 理一郎(すずき りいちろう、1887年(明治20年)11月7日 - 1980年(昭和55年)11月15日)は、日本の政治家。初代掛川市長。 1887年(明治20年)、佐野郡伊達方村(現在の掛川市)で、江戸時代初期から大庄屋として掛川藩御用達を務めた旧家・鈴木家に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、実業界に入る。1923年(大正12年)、35歳で掛川町長になり5期、さらに1954年(昭和29年)、初代掛川市長となり2期、25年間在職した。 掛川信用組合発足とともに理事に就任。昭和初期の金融恐慌に手腕を発揮し、1946年(昭和21年)、同組合長となる。
佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 19… 佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 1935年4月16日)は、日本の牧師、神学校教師。日本におけるマルティン・ルターの研究の開拓者である。 1887年(明治20年)福島県会津若松市に生まれる。1907年(明治40年)に第一高等学校に入学する。 同年キリスト教に入信して、組合教会の指導者の海老名弾正から本郷教会で洗礼を受ける。1910年(明治43年)に東京帝国大学に入学するが、同年京都帝国大学に転校する。1913年(大正2年)、京都帝大卒業後、東京帝大大学院でルターの研究を始めた。大学院時代は、日本基督教会の神学校の東京神学社でも学び、富士見町教会で牧会する植村正久に師事した。
李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29… 李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29日 - 1976年9月3日)は、日本統治時代の朝鮮の公務員、大韓民国の警察署長、弁護士、政治家、実業家。京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))の設立者であり、初代楊州警察署長、初代京城府尹、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 同じく第2代国会議員を務めた李肯鍾は甥。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)または漢城府出身。京都帝国大学(現・京都大学)法科卒、同大学院で奨学生として法制史の研究を行って修了。1921年に京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))を設立し、1923年から民立大学期成準備会発起人、普成専門学校(現・高麗大学校)講師を務め、その後は親日団体の同民会で活動した。
片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日… 片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の弁護士、政治家。栄典は従二位勲一等。クリスチャン。内閣総理大臣 (46代)。 社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(10期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本社会党委員長(初代)、民主社会党常任顧問、日本中国文化交流協会会長(初代)を歴任した。 和歌山県西牟婁郡田辺に生まれる。和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、一家で同郷の人物で「軍艦行進曲」の作詞者・鳥山啓宅に寄宿、東京帝国大学法学部独法科卒業。卒業後、YMCA寄宿舎の一室を借りて「簡易法律相談所」を開設、弁護士として活動した。
今西 与三郎(いまにし よさぶろう、1887年4月25日 -… 今西 与三郎(いまにし よさぶろう、1887年4月25日 - 1962年9月23日)は、日本の経営者。 現在の大阪府大阪市出身。1912年7月に京都帝国大学法学科を卒業し、山下汽船に入社。外遊と大阪商船での勤務を経て、1918年に山下汽船に復帰した。 1917年に今西林三郎の次女と結婚し、養嗣子となる。 阪神電鉄では、堀啓次郎社長の下で、1924年10月に監査役に就任し、取締役を経て専務取締役を務め、山口覚二常務取締役らと実務を担った。1935年4月25日、堀社長、山口常務が辞任。今西が社長になり、石井五郎が専務取締役に、岡喜太郎が常務取締役に就任した。 同35年4月から1946年10月までの社長在任時には、阪神国道自動車を阪神傘下に収め、神戸乗り入れの地下線開業と梅田駅の地下化と三宮阪神ビルと梅田阪神ビルの竣工などを行った。
浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1… 浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1970年10月21日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務め、「神鋼中興の祖」と呼ばれた。 大阪府堺市出身。1911年に京都帝国大学理工科大学採鉱冶金科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。取締役、製鉄部長、常務、専務を経て、1945年9月に社長に就任した。しかし、1946年12月に公職追放により辞任。1952年11月に社長として復帰し、1958年1月から1965年3月までに会長を務めた。 神戸商工会議所会頭、関西経済連合会副会長なども歴任した。1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1970年10月21日急性心不全のために神戸市の自宅で死去。
小原 國芳(おばら くによし、1887年〈明治20年〉4月8… 小原 國芳(おばら くによし、1887年〈明治20年〉4月8日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の教育学者。学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。一時期「鯵坂」姓を名乗った。 1887年、鹿児島県川辺郡南方郷久志村(現:南さつま市坊津町久志)に生まれる。早くに母を亡くす。祖父は寺子屋の師匠だったが、家が没落したため進学ならず、13歳で通信技術養成所に入所し、鹿児島大浜海底電信所(現在の鹿児島県肝属郡南大隅町に所在)の技手となった。
鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ、1887年(明治20年)4月5… 鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ、1887年(明治20年)4月5日 - 1971年(昭和46年)3月10日)は、日本の俳人。本名・登。 京都生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1916年京都帝国大学文学部国文科卒。高濱虚子に師事、「ホトトギス」同人。大学卒業後、鹿児島の川内中学校(現・鹿児島県立川内高等学校)教諭となる。1920年京都に戻り、大日本武徳会武道専門学校 (旧制)の教授となる(戦後、同校最後の校長に就任)。「京大三高俳句会」を母体として日野草城らとともに「京鹿子」創刊。同誌はのちに野風呂が主宰となり、関西におけるホトトギス派の中軸となっていった。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後は大阪成蹊女子短期大学教授を務める。
吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - … 吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - 1948年4月12日)は、日本の物理学者。愛媛県出身。主な著書に「物理学」、「物理学実験」がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年… 青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年(明治20年)2月14日 - 1964年(昭和39年)12月2日)は、大正から昭和中期の中国学者・中国文学者。日本学士院会員。山口県下関市出身。字は「君雅」。号に「迷陽」があり、「迷陽先生」とも呼ばれた。 年譜は『青木正児全集』最終10巻末ほかに収録されている。 1887年(明治20年)2月14日、山口県下関市で漢方医・青木坦平の次男として生まれた。父・坦平には支那趣味があり、南画家を自宅に招いたり、妻や娘に琵琶など中国の楽器を習わせるなどしており、青木正児も幼少期より文学や美術を好んだ。1905年、山口県立豊浦中学校を卒業し、同年9月に第五高等学校第一部(現:熊本大学)に入学。
本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉… 本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉1月15日 - 1970年〈昭和45年〉6月24日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。佐賀県出身。 1915年(大正4年)に京都帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。第一東京弁護士会に所属し、弁護活動をする一方で日本発送電会社の顧問や調停委員などを務めた。 1951年(昭和26年)4月に第一東京弁護士会の司法制度調査委員会委員長、次いで同5月に日弁連人権擁護委員会委員長となり、弱者の救済に尽くした。 1952年(昭和27年)1月に最高裁判所判事に就任。就任の際には「裁判以外に何事も関心なし。裁判を通じで法治国の体面、内容を充実したい。
森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 … 森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 – 1956年(昭和31年)9月16日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、中野町長。旧三日月藩主森家第11代当主。旧名は訥郎。 子爵関博直の四男として生まれ、1900年(明治33年)に子爵森長祥の養子となり家督を相続した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出された。1928年(昭和3年)には東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区南部)の町長に選出され、1932年(昭和7年)に中野町が東京市に編入され消滅するまで在任した。中野町消滅後に東京市会議員選挙に出馬し、当選。
蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12… 蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12月27日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、日本の政治家、陸軍軍人。衆議院議員(3期)。旧姓・橘。 大阪府川辺郡、のちの小田村(現尼崎市)の橘家に生まれ、1917年(大正6年)蔭山しな の養子となり、1918年(大正7年)家督を相続した。 1907年(明治40年)陸軍士官学校(19期)卒。卒業後、京都帝国大学に派遣され、政治、経済学を学ぶ。陸軍歩兵少佐に進み大阪歩兵第8連隊大隊長となり退官した。その後、全国土地区画整理組合顧問、三和特殊製鋼、阪神急行自動車、日ノ丸無尽各(株)重役、(株)日本造機所社長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選。
赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12… 赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉3月12日)は、日本の宗教学者。 1886年、山口県周南市で赤松照幢の長男として、浄土真宗の徳応寺に生まれた。第五高等学校に進学し、3年の時には総代であった。 1940年、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。同大学哲学科は前年の1939年に開設されたばかりであり、宗教学科では松本文三郎に師事。1910年7月に首席で卒業。同大学大学院に進み、一方で仏教大学(現・龍谷大学)で教鞭も執った。大学院には羽渓了諦、宇野円空らが在籍しており、学生間ならびに教授陣との交流も活発であり、東京帝国大学と京都帝国大学の有志が集まって1915年に「宗教研究会」(現・日本宗教学会)を設立。
黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 195… 黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 1957年1月13日)は、熊本県出身の日本の心理学者・美術史家。号は「喪心亭」、「薼廬」。 1886年、熊本県熊本市で有馬源内の次男として生まれた。黒田家の養子となった。済々黌、第五高等学校を経て、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。心理学専攻で学び、1911年に卒業。同大学大学院に進学した。 1914年、京都帝国大学医科大学の副手に採用され、生理学を修めた。1920年、医学部講師に昇格。1923年、学位論文『両眼視現象の研究に就て』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。1924年、日独文化協会日本研究所の初代所長として文部省海外研究生になってベルリンに駐在。
中村 恒三郎(なかむら つねさぶろう、1886年(明治19年… 中村 恒三郎(なかむら つねさぶろう、1886年(明治19年)12月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。弁護士。 東京府出身。中村常吉の四男。1916年(大正5年)、京都帝国大学法科大学英法科を卒業した。岡山県属、福島県西白河郡長、和歌山県理事官、秋田県理事官、熊本県理事官、鳥取県書記官、秋田県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、高知県書記官・内務部長、神奈川県書記官・総務部長、京都府書記官・総務部長を歴任し、1937年(昭和12年)に退官した。 退官後は京都帝国大学書記官、川崎市助役を務めた。その後、弁護士を開業した。
渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月2… 渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月24日 - 1959年〈昭和34年〉7月11日)は、日本の実業家、医師である。宇部興産(現・UBE)初代会長。 1886年(明治19年)、山口県厚狭郡宇部村(現宇部市)でのちに沖ノ山炭坑(UBEの前身)を創業する渡辺祐策の次男として生まれる。熊本医学専門学校を経て京都帝国大学医学部を卒業し、父・祐策が創業した沖ノ山炭鉱の医局設立に携わる。 1934年(昭和9年)、祐策の死去に伴い沖ノ山炭坑の社長を引き継ぐ。1942年(昭和17年)、宇部興産設立に伴い同社会長に就任。また、山口県議会議長や山口県医師会長も兼務し、山口県立医学専門学校(のちの山口県立医科大学、現山口大学医学部)の設立に尽力した。
天辰 正守(あまたつ まさもり、1886年(明治19年)8月… 天辰 正守(あまたつ まさもり、1886年(明治19年)8月19日 – 1963年(昭和38年)8月2日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 鹿児島県薩摩郡平佐郷天辰村(平佐村、川内町、川内市を経て現在の薩摩川内市天辰町)で、医師・天辰登雲の二男として生まれた。医師の道を避けて1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。福岡地方裁判所所属の弁護士となった。その後、判事となり、那覇地方裁判所判事、鹿児島地方裁判所判事、熊本地方裁判所判事を歴任した。1923年(大正12年)に退官し、衆議院嘱託として欧米各地を視察した。翌年に帰国し、再び弁護士を鹿児島市で開業した。
落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 19… 落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 1969年9月24日)は、日本のフランス文学者。位階は正三位。奈良女子大学名誉教授。 1886年、東京神田駿河台で生まれた。1892年、泰明小学校に入学。御田小学校では吉井勇と同級であった。1989年、東京府立第一中学校に入学したが、翌年肺炎を患ったことにより退学。また、翌1899年には母も死去。2年間の療養を経て明治学院普通部に入学し、卒業。1903年に第一高等学校予科第一部に入学。1908年に卒業し、東京帝国大学法科大学に入学したが、休学。新渡戸稲造に勧められ、京都帝国大学法科大学に転学した。1912年、赤塚季と結婚、また家督を相続した。
田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 195… 田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 1958年11月25日)は、日本の行政学者・政治学者。蠟山政道と並ぶ日本の行政学創始者の一人。博士(法学)(京都帝国大学)。 秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)生まれ。秋田師範学校では土田誠一・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。4年間級長を務め、1907年卒業。1913年、東京高等師範学校英語科卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業、京都帝国大学大学院(旧制)特別研究生。 のちに、京都帝国大学法学部助手。1920年、京都帝国大学法学部助教授に就任。1922年、ドイツ・イギリス・フランス・アメリカに2年間留学。1924年、京都帝国大学法学部教授に就任。
高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6… 高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6月28日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、医学博士、文筆家。主に性欲・犯罪に関する著作で知られる。筆名・高田 杏湖。 1886年(明治19年)、滋賀県栗太郡草津村、東海道草津宿の名門6代目高田茂徳の長男として生まれる。 茂徳の放蕩癖により家財を使い果たした一家は草津を追われ北海道、京都、東京と転居を繰り返す。貧困にあったが親戚である実業家浜岡光哲の援助をうけ医学の道に進んだ。 旧制第三高等学校卒業後、京都帝国大学医学部に学び同校法医学教室助手となる。 1919年(大正8年)、千葉医学専門学校の教授に就く。1922年(大正11年)から1年あまり文部省在外研究生として独伊英に留学。